about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)5章pp68-73

5.「極み」へ向かう、いろは坂」の数々 

 

アメリカ音楽」とは何か?名作曲家にして毒舌批評家の、ヴァージル・トムソンが、なかなかニクい答えを出している「アメリカ音楽を作曲するのは、とても簡単。まずアメリカ人になること。そして頭に浮かんだことを曲にすること。たったこれだけだ。」この答えは、「アメリカ音楽とはなにか」という問いに、真剣に答えたものであり、同時に、この問のアホらしさを、明らかにしている。ヴァージル・トムソンといえば、ヨーロッパ滞在歴も長く、ガートルード・スタインとも交友関係がある。その彼に言わせれば、アメリカ音楽とは、大雑把に定義して実際の意味など持たせないようにして、かろうじて存在しうるものだ、という。だがこれは、人間の行動を鋭く観察できる者ゆえの発言だ。なにしろ、スーザのオペレッタアメリカン・メイド」上演中、アメリカ国歌のパラフレーズがでてくると、アメリカ人が決まって、劇場内でも客席から立ちあがって敬礼するのを見ても、眉一つ動かさなかったのだ。 

 

「こんな簡単な説明では、訳わからなくて納得できない」という方は、もう一人のアメリカ音楽の代表選手をご紹介しよう。レナード・バーンスタインだ。名著「音楽のよろこび」の中で、彼はソクラテス式問答法を行い、アメリカ音楽とは何かについて、考えを表明している。あるブロードウェイのプロデューサーが、バーンスタインを口説いて、ミュージカルを書かせようとした。この時このプロデューサーが言ったのが、このジャンルこそ、「根っからのアメリカ音楽」だ、とのこと。彼は更に続ける。アメリカのコンサートホールで演奏される曲は、どれもこれも根っこはヨーロッパのものだ。、アメリカっぽく聞かせるために、カウボーイのメロディやブルースのハーモニー、それからジャズのリズムを付け加えているだけだ。一方バーンスタインは、他人の意見に左右されるタイプではない。彼が言うには、ロシアの交響曲だって根っこはドイツのものだ。「ビールの代わりにウオッカを付け加えている」だけだ、とのこと。セザール・フランク(フランス)の交響曲だって根っこはドイツのものだ(ホルンの使い方が少し違うだけ)。同じことが、リスト(ハンガリー)、エルガー(イギリス)、グリーグノルウェー)、それからドヴォルザークチェコ)の交響曲にも言えるのだ。どこのお国柄が加わろうが、モーツァルトからマーラーまで一本通ったドイツ音楽のベースは、無視できないのである。 

 

さてここで、この人物(勿論、バーンスタイン本人)は「おらが国の音楽」について、そして、アメリカのミュージカル誕生を支えた、天真爛漫・多芸多才・気分上々たるジャズについて、語り始める。現代のアメリカに颯爽と現れし「モーツアルトの再来」が、「ガイズ・アンド・ドールズ」だの「夜の豹」だのといったミュージカルを、芸術の域にまで高めてやろうと、鼻息も荒げである。紛れもなくバーンスタインは、自分をモーツアルトの再来よろしく、ミュージカルをジャズの落し子からドラマチックな芸術作品の域まで引き上げてやろう、としていた(些かヘソ曲がりな距離のとり方だが、無駄口を排した誇りを持っている)。一方で、このやり取りは見方によっては、こうも解釈できる。つまり、彼はヨーロッパでは既に、メディア映えする絶対的スターであり、また指揮者であったわけだが、それと同じ位の認知度を、作曲家としても生涯かけて勝ち取ってやるという、些か自分を低く見すぎて肩に力が入りすぎている感が否めない、というわけだ。 

 

アメリカ音楽とは何か?」次の代表選手は、クルト・ヴァイルだ。1920年代には、欧州と米国の2つの世界を生きた作曲家である。「欧州」クルト・ヴァイルと、「米国」クルト・ヴァイルの、2人別々のアーティストが居るが如く、まともな文芸雑誌や音楽雑誌も扱う始末。この物書き連中は、クルト・ヴァイル本人がどれだけ本物の作品をしっかり作り続けても、それをちゃんと認めようともせず、大西洋を両側から挟んで、「ハリウッドのソングライター」と、「ドイツ共和制下の社会風刺劇音楽作曲家」との、架空の「2人」を対決させるかのように書き立てた。傍目には、クルト・ヴァイルは米国上陸と同時に、芸術家としての命を絶ち、本家ヨーロッパで身につけた音楽の伝統を綺麗サッパリ捨て去って、そして生まれ変わった、そんな風に思えた。だがこれが間違った判断であることは、「ストリート・シーン」のような作品を見れば容易にわかる。「ブロードウェイ・オペラ」(金儲けの為の歌劇)という上面を剥がした下には、社会を鋭く見つめるコメンテーターとして、そして優れたパロディ―音楽の作曲家として、依然変わらぬクルト・ヴァイルが見える。だが、作家のメアリー・マッカーシーの言葉を借りれば、クルト・ヴァイルは、玄人も素人も音楽好きを十分納得させつつ、平静を装った。このアメリカ人作家は、どんな音楽アナリストよりも、はるかに鋭い耳と、はるかを見通す目とを持ち合わせていたのは、間違いなかった。 

 

キース・ジャレットには、「米国」と「欧州」の、2つの顔がある、と考えがちである。少なくとも彼のマネージャーを務めるジョージ・アヴァキアンによれば、アトランティックやABCインパルス!といったレーベルからの作品が「凡庸でガチガチ」であるのが「米国」の方。対する「欧州」の方は「芸術的でヘンテコ」である作品が、ECMレーベルから生まれた、国や民族を超えたアーティスト。この2つのレコード作品も、全く性格の違うものであると見なすことは、恐らく正しいのだろう。だが、恐らく同様に間違っているのは、「両極端なものをつくってやろう」という邪念に駆られた結果だ、と決めつけることである。彼は単なる多面的なアーティストであり、与えられた機会を逃さず、自らの音楽面のアイデアを形にしているだけである。耳の肥えた音楽ファンなら絶対にしないであろう、「対決!チャーリー・ヘイデンポール・モチアンを擁する 

アメリカン・トリオの作品VSゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットを擁するECMの作品」という構図。いわゆる「アメリカン・カルテット」と「ヨーロピアン・カルテット」が、これほど性格が異なるのは、其々美的感覚がかけ離れているからではなく、個々の奏者が其々独特な性格を持ち合わせているからである。 

 

ジャレットが3つのクラシックアルバムを除く最後の録音をアメリカのレーベルでリリースした1978年までの音源を鑑みるに、その違いは、録音作業をした時期の諸条件に、原因の大半があるといえる。つまりそれは、プロデューサーに英断や誠意があったか(又は無かったか)、そしてレーベル担当マネージャーが聞き手に対しどんな視点を持っていたか、である。ジャレットは魔法使いではない。アメリカンだろうとヨーロピアンだろうと、適切な方の音楽の流れを放水できただけのことだ。彼はマンフレート・アイヒャーのようなプロデューサーに出会えたことを、幸運であったと自覚していた。なおかつ、その幸運を活かす術を知っていた。もしECMがなかったら、ジャレットは「別々の2つの顔」に分けられてしまっていただろう。一つは大衆受けする音楽を量産する「アーティスト」、もう一つはタンスの肥やしを量産する「しがない作曲家」。でもECMがあったので、ジャレットはノビノビと自分の望む音楽を量産することが、当時も、そしてこれまでも、出来ている。その結果は、キース・ジャレット本人の考えが産み出したものに他ならない。欧「州」だの米「国」だのに由来する音風景が産み出したものではないのだ。 

 

 

1972年から1979年までの間にECMアメリカのレーベルインパルス!」の両方合わせて23ものアルバムがキース・ジャレットによってリリースされた。これに加えて更に6つ、彼は他のバンドとのアルバムも出している。彼の名前で、年平均3つということになる。スタジオ収録やライブ音源、トリオ、カルテット、ソロ、収録場所もアメリカ国内のみならず、定期的にヨーロッパや日本で行われた。ジャレットの音楽キャリアの中で、最も多産な期間であった。爆発的な勢いで作り続けたものの(そしてこれが後にモノを言うことに)、一方でこれが、彼の社会生活、あるいは私生活に影を落とす。 

 

 

ロックジャズの大洪水はさておき、世界中のジャズ愛好家に何が訪れようとしているのかを知らせるように、キース・ジャレットにとって自分の方向性を決定づける時が、予め決められていたかの如く到来したことを告げたのが、3つの、それも全く性格の異なる作品だ。まずは「誕生」。いわゆる「アメリカン・カルテット」との処女作。次は「エクスペクテーションズ」。2枚組LPで、同じくアメリカン・カルテットによるが、ここでは打楽器奏者のアイアート・モレイラ(ワイト島でのマイルス・デイヴィスのバンドに共に参加)と、ギター奏者のサム・ブラウン、そしてホーン/ストリングスの両セクションという豪華な顔ぶれが参加。最後は「フェイシング・ユー」。彼のECMからの第1作目。 

 

キース・ジャレットにとって、ECMとのつながりがある中で、こういった演奏活動における新たな機会の数々が、彼に対して開かれたことは、程なく彼がハッキリ認識することとなった。CBSレコードはジャレットとのレコーディング契約更新をしなかった。「エクスペクテーションズ」は、一般聴衆には、諸手を挙げて歓迎されはしたものの、レーベル側を満足させる売上は残せなかったからだ。一方マンフレート・アイヒャーは、「ルータ・アンド・ダイチャ」(前年ジャック・ディジョネットとのデュオをロサンゼルスで収録したもの)をミックスダウンし、ジャレットのECMによるアルバム第2弾として、1973年にリリースする。次に、このミュンヘンを拠点とするレーベルは、同じ年にジャレットのために18回のソロコンサートツアーを企画した。そのうちの2箇所(ブレーメンローザンヌ)を収録した3枚組LPが、直ちにリリースされた。アメリカ人は儲かる作品作りを強要し、ヨーロッパでは何の拘束もなく芸術表現を謳歌できる。ジャレットがそう思いを募らせても、驚きでも何でもない。なのに、彼のソロツアーとそのアルバムは、本国アメリカでも大反響を呼んでしまったのだ。1975年のニューヨーク・タイムズに掲載された論評によると、同年までの8年間の総括として、ジョン・コルトレーンが1967年に亡くなって以降、時代を席巻するロックジャズによる「エレキアンプ」に対し、「アコースティック音楽」の復権に雄々しくも立ちあがったキース・ジャレットこそ、コルトレーンの後継者としてマイルス・デイヴィスオーネット・コールマンより相応しく、これにより「ジャズの巨人」に仲間入りを果たした、としている。 

 

 

この、ドイツ人プロデューサーが企画したツアーは、あらゆる演奏面での意味において成功を収め、その大きな役割を果たしたのが、ブレーメンローザンヌの3枚組レコードである。マンフレート・アイヒャーはこのツアーにジャレットと同行し、二人の間の個人的信頼関係は益々深まっていった。だがヨーロッパでの一時的逗留は、ジャレットには困難を突きつけたのも事実であった。若い頃、乗用車をプッシュスタートさせてばかりいて腰に痛みを積み重ねたせいで、腰痛を患い、それが今頃再発し、このツアー中のいくつか、特にブレーメン会場で、彼を苦しめた。彼は自覚していた。彼の癖のある弾き方が、腰痛を防ぐどころか、悪化させる傾向にあったのだ。大昔、ボストンに居た頃、彼の「落ちこぼれトリオ」のツアー中、このまま体を気遣わず演奏し続けたら、年をとった時に指圧の世話になる羽目になるぞ、と警告されていた。警告は的中する。このヨーロッパでのツアー中ずっと、ジャレットはコルセットをはめ、身動きもままならず、既にヨーロッパへ向かう飛行機の中で何度も痛み止めを服用し、本番と本番の間は殆どホテルのベッドにいた。問題のブレーメンでは、サウンドチェックもほとんどままならず、再度痛み止めを服用し、本番はずっと、幾つかの体の動きをしないようずっと頭がいっぱいだった。お陰でその後、彼はツアー中、何を演奏しどう切り抜けたか、自分で説明できる記憶が全くなかった。更に驚くべきは、後日アイヒャーが彼に手渡した、ブレーメンでの本番を収録した至高の録音が、のちにアメリカ人だけでなく、日本でも、そして勿論、会場となったドイツでも、好評を博すことになったことだ。 

 

 

 

1973年このLPボックス発売されると自称専門家」達はこぞって首を横に振り、この馬鹿げていると思われる制作への投資は、絶対報われない、と考えた。たった2,3年で、この「馬鹿げていると思われる」LPは、堂々35万枚を売り上げてしまっていた。これはロックジャズの時代にあって、他の多くのレコードに大きく差をつけるものだった。明らかに、かなりの数の音楽ファンが、ガンガン鳴り続けるリズムマシンや電子音によるリフを聴きふけるようなことはしないで、メロディに頼らずとも自由にインプロヴァイズされた演奏についていくことが、既に出来ていた。このレコードを引っさげて、キース・ジャレットは自分のスタイルをしっかりと持って、未開の地を制圧し、自らの演奏活動を展開した結果、小さいながらも重要なジャズの革新グループを形成した。 

 

同様の衝撃が走ったのが1年後にリリースされた2枚組アルバム「イン・ザ・ライト」である。特にアメリカの音楽ファンは、このジャズピアノ奏者の七変化に驚いた。今回は芸術性を重視したクラシック音楽の作曲家か、というわけである。音楽雑誌「ダウンビート」は、このレコードに最高位の評価を与え、音楽の美しさをうまく表現する文言が見つからず、ひたすら形容詞を羅列して楽曲の精妙さを書き連ねるしかないことに、恥じ入るばかりであった。執筆者の記すところ、敢えて大げさな物言いになってしまうが、この音楽は「深みのある、ワーグナー風のセンスを持ち、魅惑的で、大胆さを備えた感性あふれる作品の素晴らしさを感じさせる」とくくり、文句なしにクラシック音楽の名曲の数々に肩を並べるであろう、とした。評論の締めくくりに、「イン・ザ・ライト」は、新しく革新的なアメリカ音楽とは何かを見つけるカギとして、我々が手にしたものである、との仮説を記している。 

 

 

当の本人は彼の新しいアルバムがこのような賛辞を引き出すとは夢にも思っていなかったであろう彼は曲目解説でこのレコードを聴くときにはこれまで聴いてきた音楽は全て忘れてこの曲はどんな形式なのかとか考えないようにして、アルバムの前評判も気にせず、この音楽は何というのか?など思いを巡らさず、こういう音楽は存在するのかどうか?すら考えないようにしてほしい、としている。ジャレットがこれほど極端な物言いをしたのは、心を無にして音楽の美しさのみを楽しんでほしい、と希望したのかもしれない。だが、おそらくは、彼は単純に、普段ジャズをやっている男が、全く予想もできないような代物をレコードに吹き込んだ、などと誤解されたくなかっただけだろう。ドイツでは、多面的な音楽形式をもち、素晴らしい曲づくりをしているレコードとして、非常に好意的に受け入れられるも、満足度はその褒め具合には比例しなかった。これ以降、ジャレットに関する論評は、新しいコンサートプログラムや新しいレコード制作のたびに、「何でもアリ」が常套句となった。これが、彼と彼の作品を崇拝する人々が増えてゆく鍵となる必要条件となり、いまやその枝は広がり始めていた。 

 

これら傑作の数々が世に出た頃に、キース・ジャレットは更に4枚のジャズアルバムを、ABCインパルス!からリリースした。所謂「アメリカン・カルテット」で、今回は1人、いやさ2人の打楽器奏者を加えた形になっている。まずは「フォート・ヤウー」。1973年2月にヴィレッジヴァンガードで収録されたもの。続いて1年後にスタジオ収録された3作「宝島」、「バックハンド」、そして「生と死の幻想」。こんな短期間に仕上げた、彼の頭の中の胸の内を覗いてみたいなら、これらのアルバムと、直前にECMからリリースされたものとを、関連付けて考えると良い。要するに、彼は既に前代未聞の、全編フリーインプロバイゼーションの3枚組LPを仕上げ、次の2枚組LPでは、弦楽四重奏だのフーガ形式だの交響曲的な作風だのといった、かなり複雑な音楽形式を扱ってみせており、その流れで、ここに至り、モダンジャズの頂点ともいうべき4枚のレコードを更に仕上げた、というわけだ。 

 

 

 

こういった野性味あふれるジャズのサウンドビ・バップそのルーツがあるものの、フリージャズのもつ芳醇さと力強さ(あまりにグチャグチャでなければ、の話だが)を併せ持つ。それがこれほど良くまとまった形で聴けるライブ音源は、「フォート・ヤウー」以外では滅多にお目にかかれない。1曲目の「ミスフィッツ」では、キース・ジャレットポール・モチアン、そしてチャーリー・ヘイデンの3人がその後の展開のベースとなる、まるで競争でもするかのような繰り返しのパターンが、聴く人の耳を一気に奪ってゆく。すると突如主音が変わり、曲の「圧」が更に増し(初めて聴く時は全く予想不可能だろう)、その後また主音が変わる。モチアンの力のこもったシンバルは、ジャレットと完璧に息があっており、二人それぞれの、フレーズにメリハリをつけるアクセントが、ビッシリ隙間なく聞こえてきて、誰が誰をリードしているのか、ほとんどわからない。ひたすら生き残りをかけた競争は、あたかも「薄氷を踏む思い」というところ(訳注;コンスタンス湖[ボーデン湖]は十分厚みのある氷が滅多に張らない)。「みんな、後ろなんか振り向く暇はないぞ」と願うばかり。彼はインプロヴァイズしながら作曲すると言う。それはきっとこう言いたいのだ「一つ一つの音符は、論理的に配置されており、入れ替えはできない。既に他のオプションはしっかり試し済みだ。」試し済み、といっても、テンポ230(訳注:1秒間に4回手を叩く速さ)で試し済みというから、恐れ入ったものだ。サックスのデューイ・レッドマンタンギング(訳注:舌打ちで音を細かく刻むこと)は圧が強烈で、叫び声のようになってくる。彼の喉と楽器が一体化してしまったようである。レッドマンが呻くようなサウンドでサックスを吹きまくる、そのテンションで、ジャレットは、太鼓でも打ち鳴らすかのようにピアノを弾きまくる。その間チャーリー・ヘイデンは自分の仕事に勤しみ、「音の塗り残し」を自分のベースで塗り尽くしてゆく。 

Keith Jarrett伝記(英語版)4章pp61-67

このトリオの最初のレコードは、1967年にジョージ・アヴァキアンのサポートの元制作され、1年後「人生の2つの扉」のアルバム名でリリースされた。このレコードを世に送り出したのはネスヒ・アーティガン。ボルテックス・レコードという、アトランティック・レコードのサブレーベルの経営にあたっていた。処女作だけに、多少キズ物だが、失望した、という結論には、全く至らぬ出来栄えだった。このレコードで、ジャレットは、トリオ結成に当たっての人選の際に、頭の中で鳴らしていたサウンドを、見事現実にしてみせた。博物館に収めるような、小綺麗にまとめた作品ではないが、「アヴァンギャルドの急先鋒」たるベース奏者に、「音楽は美しく在るべきだ」というドラム奏者、この水と油の二人を、それぞれ在りのままでガッチリ手を組ませた音の記録だ。これぞ「命ある音楽」である。 

 

実際、このレコードにより2つのものが結びつくことに成功した。一つは、アメリカ歌謡曲の伝統:「メロディはエンドレスに、音楽は売れてナンボ」。もう一つは、自由闊達を基とするアヴァンギャルドのスタイルが持つ考え方だ。記念すべき第1曲目「リスボン・ストンプ」から、既に3人の息がピッタシである。「特に、ガッチリ決まったビートが続くのがイイね」、の人は皆無だろう。むしろコレ:ポール・モチアンが、トライアングルを何本も使いこなしたり、スネアドラムの金属製リム(太鼓の縁)からゴキゲンな音(リムショット)を次々聞かせたりと大忙し。誰の音楽的コンセプトの影響でもないことは明らかだ。いつもビル・エヴァンスと共演していた時より、はるかにノビノビ演っているのがわかる。まずキース・ジャレットが極上の仕掛けをする。非常に聞きやすい単音のメロディラインが流れ始め、それを幾度となくコードが飲み込む。キャッチーなリズムの形が生まれてくるが、それをモチアンは、ブラシのマレット(バチ)で右へ左へと「掃きとって」ゆく。この二人からのコール(呼びかけ)に、チャーリー・ヘイデンは素っ気なく返すわけがない。彼のベースライン(線)は金の糸のように、スイスイ心地よく、三人の音のカーペットへと織り上げてゆく。ヘイデンとモチアンを見ていると、曲者のモグラが2匹いるみたいだ。お互いに寄りかかりあうことはないが、お互いが眼中に「ある」。そんな状態で、二人並んで同じ方向に地中を掘り進めてゆく、そんな2匹のモグラである。 

 

「ラヴNo.2」では、あることが試しに行われているのだが、それは録音当時には、従前考えられないことであった。ハン・ベニンクと、シェリー・マンを合体したような試みで、野人のごとく豪胆で叩きつけるようなスタイルと、複雑さを極めた技巧との融合である。だが、収録曲はいずれも独自の世界観を持っている。コール・ポーターの歌う「エヴリシング・アイ・ラヴ」(唯一ジャレットの作曲でないもの)は、ビル・エヴァンスのスタイルを思い起こさせるような演奏だ。だが一つ一つのコードやベースのソロは、和声のルールに縛られない曲作りがいよいよ始まるのか、と予感させてくれる。演奏者がその気になり乗ってくれば、一気にフリージャズへとなだれ込むことになるのだ。「マーゴット」はジャレットが愛妻に捧げたものだが、リズムに遊び心がふんだんに盛り込まれている。まずは、右手が2拍子のリズムを弾き始め、その間左手は半分のテンポでゆっくり演奏する。すると、両手でワルツのような動機を演奏し始める。テンポの揺らし方(ルバート)がとても自由で、これを譜面に書き下ろすことは不可能である。「ロング・タイム・ゴーン」では、セシル・テイラー風のフリージャズに特有な音の出し方で、実質的な休符は全く無く、幾つかのフレーズが演奏されては徐々に消えてゆく演奏の仕方だ。時折、ビ・バップの定番な演奏の仕方が、奇妙な形で登場してくるが、当時彼らが、それらを「時代遅れ」と見なしていたのがよく分かる。収録曲中で最も奇妙なのが「チャーチ・ドリームス」だ。ジャレットが、グランドピアノの中にある共鳴板を使って奇妙な音を出すなどして、楽器をいじくり回している。同じように、ドラム(打楽器)のポール・モチアンも、自分の「道具箱」をひっくり返して、かつては「滅茶苦茶」とレッテルを貼られていたようなサウンドを聞かせる打楽器を見つけ出すのだ。 

 

このトリオは、ライブ演奏とスタジオ収録とでは、かなりの違いがある。それがハッキリ聴いて取れる2枚が、「人生の2つの扉」と、その1年後にハリウッドのシェリーズ・マン・ホールで行われたライブを収めた「サムホェア・ビフォー」である。音楽の方向性やスピード感、そして力を注ぐポイントは、ライブ演奏の方がやや革新性に欠けるが、聴衆とふざけあって楽しみたいという、強い気持ちが鮮明だ。これが感じ取れるのは、ボブ・ディランの「マイ・バック・ページズ」のゴスペル版だけではない。もっと鮮明なのが、当てつけがましいほどに緊迫感のある「オールド・ラグ」だ。「ラグタイムは急くな」が、スコット・ジョップリンの鉄則だが、それをこの音源は無謀にも無視し、荒っぽいシンコペーションのリズムの処理の仕方で、本来抑圧すべき感情を大爆発させている。このように、本来の音楽スタイルを、継続的で、しばしば聴手をあっと言わせるようなやり方で替えたものを作ってゆきたいという気持ちが、ハッキリと聞こえてくるのが、粗削りでありながら軽快なリズム感の「パウツ・オーバー」。あるいは、肩の力の抜けた抑揚感と、起伏のある2拍子のビート感があるアルバムのカバー曲「サムホェア・ビフォー」だ。だが何と言っても、これらが顕著に現れているのが「ムービング・スーン」である。その悪戯満載のフリージャズが、気がつけば聞こえてくる。それらをちょくちょく遮るのが、伝統的な5度―1度で出来ている節回しの出現だ。そんなこんなの最中に、チャーリー・ヘイデンが、全くお構いなしに、自らの「イッちゃってる」ベースラインで、全てをなぎ倒してゆく。 

 

このトリオの真逆の一面が見られるのが、1971年のスタジオ収録作品「流星」である。ここでもジャレットの作品の数々と、更に1曲だけ、官能的で美しい作品である「オール・アイ・ウォント」がジョニ・ミッチェルによって歌われる。ここでは大半の音楽が、メンバー同士が探りあい自分を抑えた上での、誰の耳にも明らかな一体感だけが全体を支配するのだが、中には新たな取り組みがみられる作品も幾つか在る。その一つが「曲折の人生」。この曲では全てが開放感が有り自由自在な感じで、リズム、ハーモニー、そしてこの世のものとは思えないスチールドラムのサウンド、これらはひたすら、曲の音色の特徴を鮮明にしてゆく。ヘイデンのベースソロは奇妙な繰り返しを用いている。その演奏効果は、スティーヴ・ライヒの「ミニマル・ミュージック」や、リゲティ・ジェルジュの楽曲構成の微妙なシフトがもたらす効果と似た点がある。「スタンディング・アウトサイド」は、後のケルン・コンサートで聞かせた、フォーク・ロックのような音調の変化や抑揚が、この時初お目見えしている。ここではチャーリー・ヘイデンが「ウォーキング・ベース」(スウィング・ジャズの基本奏法)のスタイルで演奏し、これにポール・モチアンが頑なにテンポキープするビートを刻む。両脇の打楽器奏者達が、絶対にずれないように、押さえつけているのだ。「生きるものの挽歌」では、言葉に尽くせぬ神々しい美しさにより「汝ピアノ奏者と汝ベース奏者は、死が二人を分かつまで互いに真実たらん」と誓いをたてる。 

 

このレコードでは、キース・ジャレットはピアノ、フルート、そして打楽器と大忙しである。最も奇抜な作品と思われるのが「インタールード No.1」である。仏教徒の祈りの合図を彷彿とさせる打楽器の響きとともに、その背景では、僧侶達が経を唱えているかのような音が聞こえてくる。同じように神秘的な作品が「トラスト」である。ここでは「歌」と呼ぶべき、呪文を唱えているような甲高い叫び声やしわがれ声が聞こえてくる。この間ピアノは、これまた説明の難しい音や、それを組み合わせたものを、つぶやき続けるように弾いている。ここでもヘイデンが同じ音符を繰り返しひたすら弾き続ける。そしてこの収録の他の作品にもあるように、この曲はあまりにも素っ気ないフェードアウトの仕方をする。多分こう言いたいのだろう「この先演奏はこれが延々続くぞ」。延々続く音の流れが予め存在していて、演奏者達は、そこにただ乗ってきただけ、ということは、出てゆくのも勝手、と言わんばかりである。ジョニ・ミッチェルの「オール・アイ・ウォント」は、賛美歌のような、ゴスペルのような彩りを添える。ジャレットはこの時、ピアノパートを多重録音している。アルバムのタイトル曲「流星」もまた、温度の高い作品である。エクスタシーの叫び声を上げているのはジャレットである。自分の演奏をグイグイ高めてゆこうとしているかのようである。ここでのポール・モチアンのドラムを聴いて思い起こすのが、古き良き日のスウィング・ジャズ、それもベニー・グッドマン楽団のジーン・クルーパが「シング・シング・シング」等で、音楽の殿堂カーネギーホールをビリビリと言わせた時代を彷彿とさせる。 

 

LP「誕生」は「流星」と同じ年に制作された。ここではサックス奏者のデューイ・レッドマンが参加している。これが所謂キース・ジャレットの「アメリカン・カルテット」である。このメンバーでは1978年まで活動を続け、時々打楽器や管/弦楽器のエキストラが1人2人と加わった。このアルバムの楽曲提供も、ジャレットによるものだ。またもや、新たな、そしてこれまでにない音楽の世界との出会いが待っていた。今回はタイトル曲が示すように、非常に魅惑的な作品である。ジャレットとサックス(レッドマン)とのデュエットが織りなす自由なリズムは、暖かなサウンドと相まって、まさに人の心の糧である。すると突然、デューイ・レッドマンが、けばけばしく原始的な叫びで聴く者を驚かす。楽器を吹きながら同時に歌うという妙技だ(訳注:グロウリング)。だが次の「モーゲージ・オン・マイ・ソウル」では、それまでと対象的であることが鮮明になり、ベースがワウワウ装置を踏みっぱなしで轟音をあげるリフによって火がついた、ワイルドなダンス音楽である。キース・ジャレットがソプラノサックスで、デューイ・レッドマンがテナーサックスを吹く。二人がメロディを息を合わせて朗々と吹き続ける様は、古き良き日のハードバップを連想させる。段々とテンションが上り、乱痴気騒ぎの絶頂に達した時、サックスの主旋律が戻り、バンド全体がハードバップの体裁に戻ってゆく。 

 

作品全体にビックリ箱の仕掛けがあるように思えてしまう。次の「スピリット」は、まるで中近東の市場にでも連れ出されたような、ワイルドな雰囲気の様々なサウンドやアンサンブルを満喫する。これらを演出するのは、デューイ・レッドマンのミュゼット(オーボエの一種)、ジャレットのリコーダー(日本の桜に関する音楽の雰囲気を少し持たせてある)、この間様々な声が、好き勝手につぶやいているのが聞こえる。クラリネットとピアノのデュエット「マーキングス」は、子供の数え歌のようであるが、「フォーゲット・ユア・メモリーズ」(さすれば彼らは汝を忘れまじ)では、聞いていてじれったくどもるような、セロニアス・モンク風のビ・バップのフレーズが、キース・ジャレットのピアノからノビノビと聞こえてくる。「レモーズ」では、再び色とりどりのサウンドやアンサンブルを満喫する。だが今度は、互いが噛み合っていないように聞こえて、聴き手を目くらましに遭った気分にさせる。キース・ジャレットバンジョーを爪弾く音から始まり、気分はアラビアの世界。だがチャーリー・ヘイデンはお構いなしに普通のジャズのベースラインを爪弾く。そして完全に場違いなクラリネットのフレーズが飛び込んでくる。スチールドラムが探りを入れてくるが、咽び泣くようなクラリネットが、あくまでも他の足元をすくってやろうと粘る。この間、ヘイデンが我が道をゆくと言わんばかりにベースラインを繰り返す。再びバンジョーが聞こえてくるが、今度はスペイン風で、パーカッションがゾリゾリ、カラカラ、ガリガリと風変わりな音で下支えをする。 

 

このように音を集中的に演奏する手法は、「最後の審判」にも聞かれる。だがこちらは、このカルテットによって1971年に行われたものの、レコードの初版リリースは4年後に持ち越された。「ジプシー・モス」はロックの曲の作り方をしており、ラムゼイ・ルイスのキャッチーなピアノの引き方のパラフレーズ風である。「パードン・マイ・ラグス」はラグタイムと、ストライドピアノ奏法をミックスさせて、ジャレットが猛スピードで弾きまくってゆく。「プリ・ジャッジメント・アトモスフィア」はドラムの独壇場。タイトル曲の「最後の審判」は、複数の食い違うリズムが合わさって曲が始まり、ムチを打つような音で曲の終わりまで行き、最後には人を馬鹿にする笑い声のようなサウンドで幕を閉じる。「ピース・フォー・オーネット」(ロングバージョンとショートバージョンがある)は、デューイ・レッドマンのテナーサックスとジャレットのソプラノサックスが、複雑に絡み合うフリージャズである。 

 

以上手短に書き記したが1971年2つのレコード作品はこの年にリリースされた驚くべきレコードの数々を締めくくるものとなった。一つはロサンゼルスのサンセットスタジオで収録されたもの。ジャック・ディジョネットとのデュオで、マイルス・デイビスとのツアーの合間にあった休日をおして行われ、その後マンフレート・アイヒャーによって編集の後「ルータ・アンド・ダイチャ」のタイトルでリリースされた。もう一つの「フェイシング・ユー」は、厳密に言えば、ジャレットのECMレーベルでのデビュー作であり、彼の最初のソロの収録である。こちらは、キース・ジャレットの将来の展望を示している。そこにあるのは、ゴスペル音楽の賛美歌の超現実的なインプロヴァイズ、驚くほど様々な性格の響きを使ったバラード風の作品、対位法に関する自らのインスピレーションの豊富さ、そして複雑なリズムの使いこなし。まさにソロのピアノ奏者にとっての全てである。「フェイシング・ユー」は、1972年には音楽評論家達に大変好意的に受け入れられ、翌1973年にはモントルー・ジャズ・フェスティバルにおいて最高賞を受賞した。 

 

キース・ジャレットが、自分と、自分の音楽を確立してきた足跡を、このようなゆっくりと凝縮した見方をするなど、片目で顕微鏡を覗くようなものだと、バカにする見方もあるかと思う。そして実際に、彼の音楽を聞いた人々の中には、こうした多方面にわたる音楽作りに対して、一定数苛立ちを覚えている層もある。だが突き詰めてゆくと、こういった作品群は、一つの大きなものにくくられる。それは彼の望み、つまり、音楽とは一期一会で仕上げてゆくものであり、自身の創作意欲を押さえつけるような、既存の枠に盲従したくない、そういう彼の意思なのだ。あらゆる場面で、彼のアウトプットは、誰もが驚く、「歩く百科事典」の如く、である。前章47ページのロバート・パーマーの「ローリング・ストーンズ」誌に掲載された、全米同時発売の3つのレコード(エクスペクテーションズ、誕生、フェイシング・ユー)に関する論評を今一度見てみれば、キース・ジャレットとは、今や世界の音楽界にとって重要なピアノのスタイルの持ち主となっているにも関わらず、アメリカでは全く無名だ、との皮肉を込めた一文が掲載されている。彼の言う通り、ヨーロッパの人々がまず最初に彼の高い能力を見抜き、自由闊達にその才能を開花する可能性の扉を開けてやったのだ。1972年は、キース・ジャレットにとっては、自らの方向性が見えた年であるだけでなく、自身の長年の努力の末に、アメリカ人としての自分が、ヨーロッパで生きる人間としての自分も手に入れた年であった。

Keith Jarrett伝記(英語版) 4章pp58-61

感受性が豊かなアーティストにとって、この地を取り巻く歴史について、心の内にそれを思い描くことは、容易いことだ。ウォルト・ホイットマンの有名な格言「草の葉一枚一枚にも、歩んだ歴史があるのだ」。キース・ジャレットの家の台所に、メモを貼るボードがある。そこには、インディアン「スー族」の酋長・イエローラーク(黄色いヒバリ)の有名な「偉大な霊(たましい)よ」の英語訳が貼ってあるのも、頷ける話だ。 

 

偉大な霊(たましい)よ 

あなたの声は、吹く風の中に聞こえる 

あなたの吐息は、この世の全てに命を与える 

さあ今度は、私の言葉を聞いてほしい、私は、ちっぽけで心許ないから 

あなたの、力と賢さが必要なのだ。 

調和の取れた美しい世界を、ずっと歩いて行けますように 

そんな世界ゆえの紫紅の夕焼けを、ずっと見つめていられますように。 

あなたの創ってくれたものの有り難みを、私の両手が理解し、 

あなたの声を一つ残らず、私の両耳が聞き取れますように。 

あなたが我ら人類に教えてきたことを、 

私の頭が理解できるよう、賢くなれますように。 

あなたが、草葉の陰や石ころの隙間へ、そっと忍ばせた大切な教えに 

私が気づいて、それを自分のモノにできますように。 

「力が必要」と言ったが、それは他人に勝ちたいからではない、 

「自分自身」という、最悪の敵に勝ちたいからだ。 

あなたに、何時、何処で出会うことがあっても良いように、 

私の手は両方とも、常に汚れなく 

私の瞳は両方とも、常に迷いなく、在れますように。 

そうすれば、いつの日か 

夕日が地平線から消えゆくように、私がこの世から消えゆく時、 

私の霊(たましい)は、堂々胸を張って、あなたの傍らに行ける。 

【訳注:「紫紅の夕焼け」は、アメリカ西部の美麗の象徴】 

 

1972年、キース・ジャレットの名声は益々上がり、カーラ・ブレイ(ピアノ)、メレディス・モンク(舞踏家)、ソニー・ロリンズ(サックス)、メリー・ルー・ウィリアムズ(ピアノ)らと共にグッゲンハイムフェローシップに採用された。これでまとまった額の助成金を得て、1973年の2枚組アルバム「イン・ザ・ライト」の制作資金に当てることができた。前の章で書いたように、このアルバムはECMからリリースされた数多い稀代の名作の一つで、音楽の様々なジャンルを超えた彼のオリジナル作品を聴くことが出来る。アルバムの収録曲はいずれも、チャールス・ロイドやマイルス・デイヴィスらと関わっていた6年の間に亘って書かれたものだ。どの作品を聴いても、彼が音楽家としてスタートした当初から、何らかの形式やスタイル、きまったカテゴリー、型に則ったレッテルへの隷従を拒否してきた意志が伝わってくる。彼は言葉遣いにエレガントさをもたせようと、人並み外れた気遣いを見せたが、アルバムの1曲目「メタモルフォーゼス」の解説文は、そんな彼も「エレガント」と思うような書き方であり、ご多分に漏れず、神がかった物の見方が織り交ぜられている。それが現れている言い方が「universal folk music(人類を一つの民族と見なした時、皆で共有できる音楽)」だ。彼は自分の曲作りを説明する時に、「自動記述法」という言葉を使った。これは、以前からシュールレアリスト達が心理学の用語から取ってきた言葉であり、マルグリット・デュラスジャック・ケルアックアメリカ)といった作家達が用いた手法だ。この、理性的な意識を働かせずに曲を作るというやり方は、以前からジャレットが使っていた方法の一つであり、フリーインプロヴァイズ(彼がその後ソロ奏者として広く認知されたスタイル)をする上で大切な要素である。このアルバムの他の収録曲はいずれも、幅広く変化に富み、演奏も大変困難な作品であり、クラシックの奏法に、強い表現をするところでは、どちらかといえばジャズによくある情熱的な音の処理が採り入れられている。 

 

このような独特な楽曲は、彼の創作力が遺憾なく発揮されている1987年の「ブック・オブ・ウェイズ」で、その役割を果たしている。この頃までには、彼は、ソロ演奏活動、トリオやカルテットでのアンサンブル、更にはそれらのレコーディングを通して、現代のジャズにおいて存在感を放つとする評価をすでに得ていた。ジャレットは、アーティストとしての内面的な発信には、常に目まぐるしく様々な変化が見られ、そして音作りにおいても、常に様々な手法を試みつつその成果を聞かせた。傍から見る者にとっては、困惑するばかりかも。だが、困惑しないですむ要素も、しっかりと一つある。それがトリオでの演奏活動だ。彼の音楽活動において、揺るがぬバックボーンである、と言っていいだろう。 

 

ジャズのピアノトリオが持つ雰囲気といえば、質素で厳粛。これはクラシック音楽で言うと、弦楽四重奏に似ている。高度な知的要素が凝縮してるのが発信された時が、その真骨頂だ。アーティストとしての技量、状況変化に対処できる冷静さ、コミュニケーション能力、これらが最も鮮明にわかるのが、トリオの演奏中のメンバー間のやり取りだ。この編成での演奏は、楽曲のストーリーや作り込み方、インプロヴァイズに対する互いの反応、こういったものが、一番ハッキリわかりやすく伝わる。演奏上の至らぬ点を、サウンドを大きく響かせて、すました顔してごまかすのが、一番難しい編成である。曲を作る者と演奏する者、どちらにとっても、クラシック音楽なら弦楽四重奏、ジャズ音楽ならトリオ、これらは、全てをあらわにする、容赦なく厳しい試金石なのだ。 

 

 

ヨーゼフ・ハイドンと、ビル・エヴァンスの間には、似ている点が幾つかある。ハイドンが「弦楽四重奏曲集作品33」として1781年に出版した6曲に添えられた謳い文句は、「全く新しい特別な方法で作曲された」。何のことかと言えば、メロディに付随する他のパートの役割だ。メロディの進行に絡むように、当てはめられ、これに加担する形になっている。4つのパートが同等の扱いで、曲全体を発展させ前へと推進させるという、クラシック音楽における対位法の一種である。後にモーツアルト弦楽四重奏のスタイルにも影響を与えたこのやり方を、ベートーヴェンは「オブリガード伴奏(対旋律を伴奏として駆使する方法)」と称した。 

 

ハイドン弦楽四重奏なら、ビル・エヴァンスはジャズピアノトリオだ。歌心のあるベースを聞かせるスコット・ラファロ、そして凝ったドラムを聞かせるポール・モチアンとのトリオは、彼の作品を通してこの編成に新風を吹き込んだ。1959年には彼らの革新的なデビューアルバム「ポートレイト・イン・ジャズ」(間違いなく史上初の「完成された」ジャズピアノトリオの録音)が世に出る。惜しむらくは、その後続いたアルバムは1960年と61年リリースの2つしかなく、最後セッションが行われた10日後、スコット・ラファロが交通事故で急逝(享年24歳)してしまったことだ。ビル・エヴァンスのジャズピアノトリオは伝統的な編成(ピアノが主で、2つの伴奏がある)で、彼はこれを、どの声部も対等にあつかい、対位法にも似た声部の使い方をする編成にまで仕上げた。エヴァンスはこう語る「例えばベース奏者が、自分の耳に入ってきたものに、何か応えたがっているとする。その時は裏方の伴奏で4拍子のリズムを刻み続けてればいい、とはならないだろう。プレーヤーがもっと繊細な音楽の中身を発信できるというのに、基本的な4拍子を、来る日も来る日も、刻み続けねばならぬ理由は無い。」ドラム奏者についても同じこと。エヴァンスは、打楽器ならではのモチーフを、ベース奏者の話と同様に、作り込んでゆく事ができたのである。 

 

 

彼は応えたがっている」これは、ビル・エヴァンスの説明の中にある重要な一文だ。「応え」たい気持ちと、「応え」られる能力、これが、彼のコンセプトにとって重要だ。これは、キース・ジャレットのコンセプトにとっても重要だ。彼は、このコンセプトを持って自分のトリオのメンバー選びに、かなり心を砕いたのである。彼が引っ張ってきたミュージシャン達は、彼が他のバンドで一緒に演奏したメンバーか、そうでなければ彼がよく知っている人間であり、更に言えば、ジャック・ディジョネットゲイリー・ピーコックの二人は、ビル・エヴァンスとも関係があった。エヴァンスがジャレットに授けたこの二人は、いわば、ジャズピアノトリオのピアノにとって、頼りがいのある「両腕」だったのである。こういった点からも、ジャレットはビル・エヴァンスの後継者、と言えるだろう。 

 

ジャレットのアーティストとしての人生でジャック・ディジョネットとの付き合いが最も長いと思われる。この二人は、チャールス・ロイド・カルテットの中核メンバーであり、マイルス・デイヴィスが色々組んだアンサンブルでも、中心的役割を常に果たしていた。デジョネットとジャレットがこれらのグループを脱退したタイミングが、いずれもほぼ同じであること、そして二人は、自分自身のアーティストとしての活動を、お互いとともに続けていること、この2つの点は、「たまたま偶然 

」などではない。ジャレットは人生初のジャズピアノトリオを組むに当たり、デジョネットではなくポール・モチアンをドラムに選んだ。当然この背景にあるのは、デジョネットとは既に2つのバンドで(チャールス・ロイドとマイルス・デイヴィスの二人の元で)一緒にやってきていたわけで、モチアンと一緒にやることで、ジャレットの経験値はあがるし、実際、これはまたとない取り組みとなった。このように特定のメンバーと深く長い付き合いになることは、ジャズの世界ではなかなか見られない。チャーリー・ヘイデンとの音楽活動は、途中何回か中断の時期を含めて、1966年から2014年に彼が亡くなるまで続いた。ジャック・ディジョネットとも同様、ジャレット、デジョネット、ゲイリー・ピーコックとのトリオは、1983年発足当初からしっかり結束が固く(1970年代半ばに何度か既に一緒に、不定期でやっていた)、今なお、モダンジャズの世界では最も堅固な音楽面でのパートナーシップであるとされている。 

 

1972年がキース・ジャレットにとって自分のことは何かと自分で決める年だったとするならば忘れてはいけないことがあるそれは彼にとってのこの自由は彼が自分自身を磨き育てた長い年月そしてその期間中、他のバンドリーダー達のやり方に従い、同時に自分がアーティストとして一本立ちできるかどうかを試した中で、生まれてきたものだ、ということ。ジョージ・アヴァキアンは、ジャレットがチャールス・ロイドとの契約中も、自身のキャリアを追い求めていることに、興味をもって注目していた。彼はジャレットの最初のトリオが結成される1967年までには、ジャレットのマネージメントを買って出ていた。アヴァキアンは、ジャレットが「自分の意志で、自分が音頭を取って」レコーディングをすることが確認できてから、トリオを結成しようと目論んでいた。このトリオが結成されるまでの10年間、ジャズがどう発展したかを見つめてきた者達にとっては、ベースにチャーリー・ヘイデン、ドラムスにポール・モチアンというジャレットの人選は、きっと驚きだったであろう。この二人は確かに、とびきりのミュージシャンだが、全く違う畑の者同士だったのだ。 

 

彼はカントリー出発点であり世間の見方は概ね彼の目指す音楽は、世間ずれがなく、素朴で、原点回帰、あるいは、敢えて陳腐さを求めている、と言われるほどだった。彼はダブルベース奏者としての、伝統的かつ体系的な教育を、しっかりと受けたにもかかわらず、その後「音楽の反逆児」となる。サックス奏者のオーネット・コールマンと共に、今なお伝説の、1950年代終盤にニューヨークの名門ファイブスポットで開催されたコールマンのカルテットのライブと、それに続く「フリージャズ」(活動名をそのままタイトルにしたもの)のレコーディングに参加した(偶然にもこの時、ダブルカルテットのもう一方のベース奏者がスコット・ラファロだった)。対するポール・モチアンは、洗練されたドラム奏者だ。「音楽の反逆児」とは無縁で、高度な緻密さを持つ室内音楽を創り出したビル・エヴァンス・トリオのメンバーである。コールマンのトリオが、徹頭徹尾のアヴァンギャルドで、素っ気なく荒削りな演奏の仕方をするのに対し、ビル・エヴァンスの音楽は、まるで自己陶酔型の音楽であるかのような印象を与えるものだった。 

 

このように音楽性がまるで違う者同士を、キース・ジャレットが自分のトリオに選んだのは、彼が自分の価値観に偏りを持たなかったからだ、ということ以上のものを物語っている。マイルス・デイヴィスとは違うアプローチで、キース・ジャレットは、この二人を一緒にすると、揃って、ほとばしるほどのエネルギーを爆発させるポテンシャルがあることを、きっと感じ取っていたのだろう。その後程なくして、ジャレットはサックス奏者のデューイ・レッドマンを、この初めてのトリオに迎えた。かくして、所謂「アメリカン・カルテット」がここに誕生する。チャールス・ロイドやマイルス・デイヴィスの元にいた時期に、アーティストとして一本立ちしてゆくために、着々と取り組んでいた活動と言えば、他にも、先述のアルバム「レストレーション・ルーイン」(1968年)や、ジャック・ディジョネットとのデュオアルバム「ルータ・アンド・ダイチャ」(1971年)の制作がある。「ルータ・アンド・ダイチャ」の方は、ジャレットがまだマイルス・デイヴィスの元に居た頃の制作であり、これを手掛けたマンフレート・アイヒャーによって2年後ECMよりリリースされることになる。デュオアルバムの秀作は他にもある。ヴィブラフォン奏者のゲイリー・バートンとのレコーディングだ。そして1971年といえばジャレットにとっては奇跡的とも言える多産な年だが、同年ECMで制作されたのが、彼のソロアルバム「フェイシング・ユー」である。1972年の幕開けとともにこのレコードが世に出ると、これを目で見て耳で聞いたすべての人々は、キース・ジャレットは人生の新たなステージを迎えたとの宣言、そう受け止めたのである。

Keith Jarrettの台所メモ:スー族長の詩

O Great Spirit, 

whose voice I hear in the winds  

and whose breath gives life to all the world, 

hear me! I am small and weak, I need your 

strength and wisdom. 

Let me walk in beauty, and make my eyes 

ever behold the red and purple sunset. 

Make my hands respect the things you have 

made and my ears sharp to hear your voice. 

Make me wise so that I may understand the 

things you have taught to my people. 

Let me learn the lessons you have hidden 

in every leaf and rock. 

I seek strength, not to be greater than my 

brother, but to fight my greatest 

enemy - myself. 

Make me always ready to come to you with 

clean hands and straight eyes. 

So when life fades, as the fading sunset, 

my spirit may come to you 

without shame. 

偉大な霊(たましい)よ 

あなたの声は吹く風の中に聞こえる 

あなたの吐息は、この世の全てに命を与える 

さあ今度は、私の言葉を聞いてほしい、私は、ちっぽけで心許ないから 

あなたの、力と賢さが必要なのだ。 

調和の取れた美しい世界をずっと歩いて行けますように 

そんな世界ゆえの紫紅の夕焼けを、ずっと見つめていられますように。 

あなたの創ってくれたものの有り難みを、私の両手が理解し、 

あなたの声を一つ残らず、私の両耳が聞き取れますように。 

あなたが我ら人類に教えてきたことを 

私の頭が理解できるよう、賢くなれますように。 

あなたが、草葉の陰や石ころの隙間へ、そっと忍ばせた大切な教えに 

私が気づいて、それを自分のモノにできますように。 

力が必要」と言ったがそれは他人に勝ちたいからではない、 

「自分自身」という、最悪の敵に勝ちたいからだ。 

あなたに何時、何処で出会うことがあっても良いように、 

私の手は両方とも、常に汚れなく 

私の瞳は両方とも、常に迷いなく、在れますように。 

そうすればいつの日か 

夕日が地平線から消えゆくように私がこの世から消えゆく時、 

私の霊(たましい)は、堂々胸を張って、あなたの傍らに行ける。 

 

【訳注:「紫紅の夕日」は、アメリカ西部の美麗の象徴】

Keith Jarrett伝記(英語版)4章pp54-57

4.「キース・ジャレット」となってゆく年月 

 

ジャズの批評家、作家、そして作曲家としてもよく知られているレナード・フェザーは、1971年の年頭に当たり、火を吹くような激しい言葉を綴った。「ダウン・ビート」の年間総集号に寄稿したタイトルは「魂を売り渡した1年」。彼がこの1年間をどう振り返ったかが、よく分かる。フェザーの攻撃の対象はあらゆる者に及んだ(ミュージシャン、プロデューサー、レーベルの親玉、株主、一般大衆、音楽界の親玉と音楽界全体)。なぜなら、歌謡曲、そして、商売目的で融合したジャズとロックが圧倒的存在感を持ち、誰もそれに抗えなくなっていたからだ。ジャズミュージシャンが稼ぎを得るのに、コードを3つしか覚えず、リズムもオスティナート(延々同じリズムの繰り返し)で、自分のサウンドは電気仕掛け、そんな単細胞で済まされる時代など、過去にはなかった。フェザーに言わせれば、ここ数年来、アーティスト達はまともに腕を磨いていない、とのこと。「そんなの各自の勝手でしょ」など、通用する話ではなかった。自分のサウンドをごまかすために電子アンプやら何やら装置を使っていては、プレーヤーの個性を塗りつぶしてしまうだけだ。「周知のことだが、ロックの逸材が、これまでも、これからも、いくら輩出しようが、何年かかってもアート・テイタムジミー・ブラントン、あるいはチャーリー・パーカー級の人材は全然出てこない。実際、ロックの演奏については今までとは異なる規範が必要なのかもしれない。それは同時に、その判断基準も、今までと異なる前提に基づくべきなのだろう。何だかんだ言って、ジャズミュージシャン達が、時流に逆らっていると知った途端に方針転換した時の、あの軽薄さは、日和見主義によるものと思われる。これは皮肉でも何でも無い。」 

 

 

 

フェザーは2つ3つと全体的な話をして、事を済ませようなどと、思っていなかった。彼の持論を示す例をいくつか用意している。その一つがギター奏者のガボール・ザボだ。1967年リリースの「ザ・ソーサラー」では、悪魔的とも評される見事なスウイングのノリであったのに、その3年後のアルバム「マジカル・コネクション」では、ジャズの推進力がカケラも感じられない。ザボ曰く、一時の流行のために、自分の看板でもある、ギターの技、スウィングのノリ、自分だけの音楽的表現を、全て犠牲にしてしまった、とのこと。当時駆け出しだったピアノ奏者ピーター・ロビンソン(1970年時点ではテナーサックス奏者のアーニー・ワッツ・カルテットのメンバー)は、かつてフェザーに打ち明けた:この「電気箱」たるキーボードのお陰で、反吐が出そうになっている、と。当時のキーボードは、使えるスケールやサウンドが限られていて、音量変化をつけるのも、ほぼ不可能だった。彼にはそこが不満だった。レナード・フェザーも全く同感だった。マイルス・デイヴィスだけは、エキサイティングで新しい電子音楽を生み出したと評された。その音楽は、「エレクトリックジャズ」だの「ロックジャズ」だのといったハイフンでつないだような体の良い言葉で言い表すことなど、到底できない逸品というわけだ。「1970年を、そしてある意味その1・2年前から、音楽界に存在していたルールは、大企業による陰謀に巻き込まれた音楽が支配的になったことによって、その信念を無残にも捻じ曲げられてしまった。自分らしさを保てない者は、代わりに金を稼げるようになれ、というわけである。そんなわけで、このような言い方は一部の水商売の女性方には申し訳ないが、ジャズにとって1970年は音楽の「売女」がのさばった年であった。 

 

30年以上ジャズに寄り添い、膨大なコメントを寄せ、時にはその発展に精力的に役割を果たすことさえした男だからこそ、こんな説得力のある言葉になって聞こえてくるのだ。彼の分析は極めて正しい傾向にある。彼の論調は毒舌的で、同時に彼はロック音楽には耳を貸さない。そのことで、彼が過剰な物の言い方をしているといえる。熱の入った状態になると、更に複雑かつケバケバしい論調が見られる。1960年代以降、若者を中心としたベトナム戦争への抗議活動や公民権運動、それまでの生活様式に取って代わる新しいものの追求、現代の時間に追われる労働環境からの脱却の模索、こういったものが全て、様々な反体制的音楽文化に大きな影響を与えた。このように安易なきっかけでロック音楽に迎合してゆくと、それまでの音楽スタイルに対する挑戦的な強い試みが発生してくる。フェザーはこういったことは、敢えて無視した。例えば1950年代の終わり頃、オーネット・コールマンは既に精力的に動いていた。アンサンブルにおける従来の音量変化の付け方や各楽器の役割と地位といったものにメスを入れ、旧来の和声法や「ジャズとはこういうモノだ」といった「縛り」を解き放った。オーネット・コールマンの演奏を聞いた人の中には、彼の音楽はあまりにも王道から外れすぎていて、ジャズとの結びつきがわからない、と考える人達がいた。彼らは「新しいもの」という言葉でオーネット・コールマンの音楽を当たり障りなく言い表した。この言い方は、当時の音楽評論家達が、オーネット・コールマンがジャズの根本をひっくり返してしまったことについて、どう捉えてよいか全くわからくなっていたことを、よく表している。 

 

当時、従来の音楽に対する挑戦的な風潮があった頃、オーネット・コールマン以外にも、「これがないとジャズではない」ものを手放そうとするミュージシャン達はいた。自分たちの音楽を表現する上で、それが邪魔になってきたからである。ピアノ奏者のムハル・リチャード・エイブラムスによって発足したAACMや、レスター・ボウイのアート・アンサンブル・シカゴのような団体の取り組みは、コールマンの一見グチャグチャにしか聞こえない「フリージャズ」に負けず劣らず急進的であった。AACMというのは非営利団体として設立された、ミュージシャンによるミュージシャンのための組織である。大手レコード会社が常に売れ行きの見込みばかりを気にしてミュージシャンを振り回そうとすることから守るのが目的だ。音楽面の支援ばかりではない。社会全体のあり方の一部として、メンバーは地域活動に参加し、マイノリティ達を支援し、文化プログラムを活用して子供達が路頭に迷わぬようにし、特に黒人コミュニティにあっては、支援・保護の手を差し伸べた。音楽を新しい生活様式を作る柱とし、ジャズはその有り様の象徴となった。 

 

レナード・フェザーの「矛先」ならぬ「ペン先」は、あくまでも音楽の主流に対して向けられた。他ジャンルとの連携を模索していたのは、1960年代終盤に向けてのジャズとロックの組み合わせばかりではない。他にも、未知の冒険的なサウンドの組み合わせや実験的なグループが、次々そこかしこから、まるで森の中のキノコのように現れていた。かつてのアフロ・キューバン以来、3度目か4度目のラテン・ジャズの新たな動きが見られた。ランディ・ウェストンはブルースをアフリカへ里帰りさせ、アンソニー・ブラクストンは化学の実験よろしく「音の調合」に励んだ。その手法は、アフロ・アメリカ系のジャズのよりも、ヘンリー・カウエルらによるアヴァンギャルドに近いものだった。ドイツでは、ペーター・ブロッツマンバリトンサックスをひっさげて、ジャズ風の和声変化の中を上へ下へと吠えまくり、オランダでは、ICPという、アメリカのAACMのような自助団体が立ちあがっていた。同国では、ウィレム・ブロイカーが、彼が率いる楽団で新しいタイプの管楽器の合奏による民謡の演奏に取り組んでいた。ヨーロッパのはるか北の方では、サクソフォン奏者のヤン・ガルバレクが率いるご当地ミュージシャンの一団が突如現れ、どういうわけだか、現代ジャズの世界へと迷い込んできた。 

 

 

ところで我らがキース・ジャレットは?1970年代初頭、彼に将来の方向性を示せるものは、何一つなかった。だが占いの水晶玉でも覗けば、彼の才能に落ちる疑念の影は、微塵もなかったはずである。示せないのは彼に供された見込みも機会もオプションも、豊富にありすぎたからだ。1973年の終わり頃、「ダウン・ビート」誌に、アルバム「フォート・ヤウー」のレビューを寄稿したスティーブン・メタリッツは簡潔に褒めちぎってその評価を書いた。キース・ジャレットがニューヨークにでてきてから7,8年が経っていた。当時、彼の名前は、4つの別々のレーベルから出されている膨大な数のアルバムにでていた。アルバムはどれも似通ったものの無いものだった。「彼の演奏は可愛らしい、彼の演奏は素朴だ/(マイルスとの)彼の演奏は良く鳴る、(ソロの)彼の演奏は静けさに満ちている/彼は「自在に」演奏している、彼はガチガチのカントリー・ロックを軽快に演奏している。」これを見ても明らかなように、彼は未だ一つのスタイルに固執しようとせず、自分自身のサウンドとは何かを探している途中であった。彼が何でも完璧にこなそうそとしているから、それが足かせとなって自分のスタイルが決まらない、と考える必要はない。なにせ、仮にジャレットが自身の演奏に不満を示していても、彼が送り届ける常に新鮮な音楽は、聴手に最高の満足を与えてくれたのだ。 

 

アート・ブレイキーの元に加入した1965年末から1971年12月にマイルス・デイヴィスの元を去るまでの間、キース・ジャレットはビックリするほど実に幅広い自己開拓を果たした。ハードバップからロックジャズ、そしてアヴァンギャルドと、これら全て、合間に取り組んだシンガー・ソングライターゴスペルシンガーといったものを入れなくても、大変なものである。彼のこの実績を目の当たりにすると、旧来の音楽のジャンルの間にある壁など、単なる越えるべきもの、と思いたくなってしまう。彼が演奏する姿は、まるでこう言っているようだ「どうだ!僕は猛勉強してきたぞ!ジャズも、クラシックも、アヴァンギャルドも、不本意だけど呑み屋の流しも、ロックジャズの電子音楽だって、このとおりだ!」彼の作品でおそらく最も叩かれたソロアルバムは「レストレーション・ルーイン」だ。作詞、演奏(全部の楽器)、歌まで全て自分でこなす様は、既に、ある種ファウストのような貪欲さで満たされぬものを補おうとする、心の境地に達していると言う他ない。おそらくこの6年あまりの間、彼は自分の知らない「音楽に関する道具」を見ると、素人根性に火がついて、徹底的に試してやるという気になり、そこにあるものは全て吸い尽くしてやる、という魔力が引き出されたのだろう。そして、彼は器用な腕の持ち主ではあるが、モノにできない部分もあったのだ。それこそは、音楽のいう世界全体をその核心で束ねているものは何なのか、である。1969年4月号の「ダウン・ビート」誌のあるコメンテーターが書いた次の論評を読むと、このアルバムに対して、何かしら危険な掟破りの産物と感じているようである。「この明々白々にヒドいアルバムが、この機会にジャレットのハラワタから宿便を残さず吐き出すきっかけとなり、彼の輝くばかりの、闊達で、創造性あふれるピアノ音楽に、また無事に戻れることを、皆で祈ろうではないか。」 

 

さてこれからどうなるのか?この問いに答えるのは、ジャレットがマイルス・デイヴィスのもとを離れ、ジャレットが通ってきた豪華な音楽シーンと、その分野の多様性を思うと、そんなに簡単ではないように思える。一方で、マイルス・デイヴィスとの仕事を自分の意志で終えて前へ進もうと希望する者なら、独り立ちを選ぼうとすれば叶う話だ。折角「皇帝」の元を離れたのに、また「王」に仕えるやつなど、いるわけがない。ジャレットが電子楽器を嫌っていることを考えればすぐに分かる通り、「これからどうなるのか?」といわれれば、レナード・フェザーが猛攻擊を加えるような音楽には関わるわけがない、と予想できただろう。だが選択肢は他にもまだあり、そして彼とつながりを持つ人達(チャーリー・ヘイデンポール・モチアン、そして何よりジャック・ディジョネットという、ジャレットと同じくマイルス・デイヴィスの元を離れたばかりの)は、まだ彼の側にいたのだ。ヨーロッパでの活躍の場もあった。これはマンフレート・アイヒャーとECMが切り拓いてくれたものだ。他のアーティストと一緒に音楽をやることで発生する責任義務から開放された、という気分は確かにあっただろう。だが何よりも大事だったのは、他からのプレッシャーから開放されたことだったのだ。キース・ジャレットは、過去の実績と現在の状況を鑑みて、将来に自信を持つことができた。この時点で、彼の名は確実にジャズの歴史書に永遠に刻まれた。だが「何をした人か?」は、その後神のみぞ知る、である。 

 

ジャレットにとって、1972年は新たな、そして独り立ちの年となった。1960年代終盤には、彼と妻のマーゴットは、既にニューヨークを離れ、ニュージャージー州の大きな土地付きの一戸建てに引っ越していた。そこは彼の出身地であるペンシルベニア州アレンタウンに行く途中にある。長男ガブリエルはここで生まれた。この引っ越しには、彼の意思が全面的に反映されているわけではなかったのだが、それでも世界中のミュージシャンなら誰でも抱える問題があって、引っ越しにこぎつけたのである。自分が練習する時に、隣の厄介者が踏み込んできて、何事か探った挙げ句、警察や役所に通報されずに済む、そういう場所はどこなの?という話である。ただ、引っ越した家も、ほどなく手狭に感じるようになり、一家は近所の木造住宅に移った。合衆国建国時のオランダ人入植者達が、広大な森林を切り拓くのに住んだ家だった。その後、「はなれ」が幾つか建てられ、そのうちの一つが、後に彼のレコーディングの多くが行われるようになるケイブライトスタジオである。 

 

小川が一筋流れていて、近くの小高い山々に囲まれた、水の透き通った湖に注いでいる。ここは閑静な場所で、ハワード・ホークスやサム・ペッキンパーといった映画監督が撮影場所に選びそうな、典型的な雰囲気がある。想像していただくなら、インディアンのデラウェア族の勇者達が馬に乗って、湖畔の山々の一つに集結している。狼煙が上がり、遠くから部族の太鼓の音が聞こえてくる。別に筋金入りのロマンチストでなくてもご理解いただけると思うが、この家とその周囲は(ニューヨーク市から車でわずか2時間の場所だ)、感受性豊かな人々にとって、またとない安住の棲家なのだ。自分自身の心の奥に寄り添い、自然と一体になれる、そんな場所である。

Keith Jarrett伝記(英語版)3章pp47-52(end)

1972年、「フェイシング・ユー」がリリースされる。同じ年、「誕生」がアトランティックから発売される。「誕生」は1971年の録音で、所謂「アメリカンカルテット」(ジャレット、デューイ・レッドマンのテナーサックス、チャーリー・ヘイデンのベース、ポール・モチアンのドラム)の初レコーディングである。1972年4月にコロンビアから「エクスペクテーションズ」をリリースしたときと同じメンバーだ。この3つのリリースは、アメリカでたいへん大きな反響を呼んだ。これほど様式上の多彩さを放ち、これほど内容の濃い3作品をたった1年でリリースできるジャズミュージシャンは、他にいなかったのである。音楽ファンも業界も敏感に反応した。ヨーロッパでは既に長く認知され、高く評価されていた彼らの成果を、アメリカ全体がこれまで楽しめていなかったかのような反応だった。ロックジャーナリストのロバート・パーマーは、雑誌「ローリング・ストーン」で、「前・マイルス・デイビスのピアニスト」から、一気に出世して、「ジャズ界随一の、若手で独自のスタイルを持つピアニストの一人」に駆け上った男に注目した。彼が見るに、「エクスペクテーションズ」は1972年発売の全てのレコードの中で、最も音楽的内容が幅広いものだった。彼は「フェイシング・ユー」を評して「間違いなくここ数年で最もクリエイティブで満足の行くソロアルバム」。 

 

ドイツのニュース雑誌「シュピーゲル」の、1972年7月10日号の記事で、ドイツの、孤軍奮闘のレコードレーベルが、これほどの完成度を誇るジャズのレコードの数々を世に送り出すとなると、アメリカの優秀なミュージシャン達を次々と海外へと引き抜いてしまう、と真剣に書き記している。10年後、「タイム」誌が、ついにECMの評判と凄さを認めた「若手ジャズミュージシャンがECMのレーベルを欲しがるのと、短編作家が「ニューヨーカー」に作品を載せてほしいのと、同じだ」。マイク・ゼリンが「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」で書いたのは、これよりは直球表現だ「ECMは現存する最もクリエイティブなジャズレーベルだ」。 

 

1979年以降3つのレコーディング(バッハ、ヘンデル、ルー・ハリソオンの各作品集)だけを除いては、キース・ジャレットは、独占契約を結ばない状態にも関わらず、ECMからのみレコードのリリースを行っている。マンフレート・アイヒャーとの契約がなかったら、これらのレコードが世に出なかったかどうか…それは今でもわからない。本書執筆中の現時点では(2020年)、ECMのジャズレーベルと「新シリーズ」と称するクラシックと現代音楽(1984年に追加立ち上げ)とで、ジャレットの作品は80以上にのぼる。アメリカではレコードプロデューサー達は売上第一主義であることもあり、ECMが沢山取り組み成果を出した、「音楽面では何でも良いからやってみよう」という発想は、実行に移すことなど許されなかったのだろう。キース・ジャレットの、音楽の世界でのアーティストとしての評価(そして今では誰も疑う余地のない)を大いに押し上げたもの、それはマンフレート・アイヒャーの、卓越したレコード制作であり、商売っ気、あるいは、良いものを求める気持ちに対する妥協を一切排除して、音楽を作り出そうとする者達に、それを実行する可能性の扉を開けた懐の深さであったのだ。勿論一方で、キース・ジャレットが音楽の世界で傑出した存在であるおかげで、ECMのレコードレーベルも価値をあげていることは、所謂「持ちつ持たれつ」なのである。。 

 

 

アイヒャージャレットのコラボレーションがどんなものだったのか。しっかりと理解しようとするなら(ジャレット氏が気軽に人と仲良くするとは認識されていない状況で)、この二人の、音楽と音楽制作についての見解や、何かに付けて妥協なく高い基準を求める姿勢、これらがガッチリと噛み合った結果、行きつく先に何があるのか、これを思い描かねばならない。マンフレート・アイヒャーが、キース・ジャレットをパートナーとしてどのように見ていたか(そしてこれはECMでレコードを出すミュージシャン全てについても同じことが言える)、ここが重要だ。アイヒャー自身もミュージシャンであり、その耳は、「耳が良い」とされるアーティスト達に引けを取らない。地震観測所の観測員のように、あらゆる音や振動や響きを感知している。言葉でいちいち説明しなくても、自分の言いたいことを相手に明確に伝えることができる。音楽面での「投げかけ」と「反応」を察することが出来る。彼自身がアーティストだからなせる業だ。ここで2枚の写真をご覧いただこう(48・49ページ参照)。キース・ジャレットとマンフレート・アイヒャーの二人が収まっている。ミュンヘンアメリカハウス(米国啓蒙施設)で1973年に撮影されたものだ。様々な出版物にも使用されたもので、2012年11月から翌年2月まで、ミュンヘンの「芸術家の家」(ハウス・デア・クンスト現代美術館/展覧会会場)で開催された「ECM―文化における考古学展」において期間中配布されたカタログにも掲載された。2枚の内の一つでは、キース・ジャレットがいつものようにピアノに向かっている。その近くでマンフレート・アイヒャーが佇み、耳を研ぎ澄まして演奏を聴いている。もう一つでは、二人は場所を交換し、マンフレート・アイヒャーがピアノに向かって、その運指をキース・ジャレットがじっと見つめている。アイヒャーとジャレットとの関係を象徴的に定義しようと思うなら、この2枚の写真が役に立つ。二人に共通し、そして二人を結びつけるカギが示されているのだ。それが所謂「芸の腕前」である。編集をどうするかは、一つ残らずジャレットとアイヒャーの間で話し合われる。この時のアイヒャーはプロデューサーというより音響監督である。彼はペーター・シュタインやロベール・ブレッソン、あるいはアンドレイ・タルコフスキーのように、自分の文化伝承の担い手としての役割をよく自覚しており、彼らの存在は、アイヒャーが他のアーティスト達と一緒に仕事をする上で影響をもっている。 

 

当然、これらのレコードは、単なる見聞きするための産物だ。アイヒャーとジャレットとの、稀代のモノづくり力が合わさった産物だ。他の優秀なプロデューサーあるいは版元同様、アイヒャーは常に2・3手先を読みながら、ミュージシャン達を煽り、導き、まとめてゆく。そうやって彼ら自身気づかぬうちに、考え方を同じ方向にもていってしまうのだ。キース・ジャレットの「ヨーロピアン・カルテット」が実現したのは、なんと言ってもアイヒャーのお陰である。彼がイニシアチブをとって実現した、バイオリン奏者のギドン・クレーメルとの共演では、アルヴォ・ペルトが自作「フラトレス」を独奏バイオリンとピアノ用に改編し、レコーディングが行われ、「タブラ・ラサ」というアルバム(1984年)に収められ、このエストニア人作曲家が広く世界に知られるようになった。ECMはこれまでに、ミュージシャン達のコンサートツアーや音楽プロジェクトの立ち上げや監修、あるいは作曲の依頼をしてきている。ときにはECM自身が主体となることもある。キース・ジャレットのパートナーとなったドイツ・ミュンヘンECMというチームは、彼らにとって最も大切なアーティストが、話し合いの場に参加し、主導権も時に持ち、制作能力をフルに発揮できるようお膳立てをすることによって、ヨーロッパの音楽シーンに躍り出ることを可能にした。仮にアメリカで最も優秀なマネージメントがついたとしても、アメリカという土壌からでは、こうは行かなかったであろう。キース・ジャレットチャーリー・ヘイデンポール・モチアンのトリオの、最初のツアーはECMが運営の任にあたった。ソリストとして実力をつけたジャレットが最初に行ったソロコンサート(フリーインプロヴァイズ抜きの通常のジャズのスタイルでの、スタンダードナンバーや自身の作品の演奏で、今でも語りぐさになっている)は、ドイツのハイデルベルクジャズフェスティバルで行われた。アイヒャーの尽力が実現に導いたのである。 

 

キース・ジャレットECM関わったお陰で彼にとって重要なミュージシャンとしてのプロジェクトを恣にできたのは確かだが、同じようにマンフレート・アイヒャーも、キース・ジャレットの領分において、自分がして良いことと悪いことをわきまえていたのも確かなことだ。これを踏まえて、やがて彼はジャレットのプロデューサーや音楽面でのパートナーのみならず、アドバイザー的な役割も果たすようになる。彼のカウンセリングは極めて巧妙であり、だからこそ、疑り深く、時として過剰なまでに神経質なジャレットとのコラボレーションが、こんなにも長く続くことを可能にしているのだ。ジャレットと違わず、アイヒャーもクラシックとジャズの両方に通じており、この二つの分野の間を取り持つことが出来た。その際彼は、ドイツ・グラモフォンで制作助手時代に身に着けた仕事の正確さと熱意を、ジャズの分野での彼の仕事にあたり、しばしばこれを発揮してみせた。これで自信をつけたジャレットは、アイヒャーがプロデュースする普通では考えられないような作品を手掛けるようになる。1973年の自身の作品集「イン・ザ・ライト」ではアメリカン・ブラス・クインテット金管五重奏団)とフリッツ・ソンレイトナー弦楽四重奏団のための作品、その後の「ルミネッセンス」(発光)では自身の指揮で、シュトゥットガルト室内管弦楽団弦楽合奏)とヤン・ガルバレクサクソフォン)のための作品をレコーディングした。 

 

マンフレート・アイヒャー1971年11月から1975年10月の間に手掛けたレコード(全てABCレコードの「アメリカン・カルテット」のLPと同時にリリース)を全て吟味してみるとその編集の出来具合がわかる。何しろ、当時はそれらのレコードが利益を生むかどうか、誰にもわからなかったのである。 

「フェイシング・ユー」:ジャレットの最初のソロアルバム。 

ルータ・アンド・ダイチャジャック・ディジョネットとのデュオ 

イン・ザ・ライト弦楽合奏金管五重奏ジャズコンボ更には弦楽四重奏チェンバロと、大規模なプロジェクト 

ブレーメンローザンヌ2つの公演(フリーインプロヴァイズによる) 

「レミネッセンス」サクソフォンヤン・ガルバレク)、シュトゥットガルト室内管弦楽団弦楽合奏 

「ケルン・コンサート」(ソロインプロヴァイズ付)ケルン歌劇場での公演 

「アーバー・ゼナ」ピアノ(キース・ジャレット)、ベース(チャーリー・ヘイデン)、サクソフォンヤン・ガルバレク)、シュトゥットガルト放送交響楽団 

以上が全て、と言っていいだろう音楽の主流から外れたもので、ニッチな音楽ファンのための一風変わったリリース作品とみなされることが多かった。だがそれと同時に、これらのレコードは、キース・ジャレットが無双なるミュージシャンであること、そしてマンフレート・アイヒャーが勇壮なるプロデューサーであることを、大いに知らしめた。 

 

マンフレート・アイヒャー自身の理念は崇高にして、ジャズの母国・アメリカのプロデューサーの口からは、決して出てこないものであろう「これらのレコードの多くは、売るために作ったのではない。それ自体がこの世に形を留めるために作ったのだ。」この現れの一つが、アイヒャーの「握手でヨロシク」主義だ。ECMがミュージシャン達と契約するときは、正式な契約書を取り交わさないのである。ピアノ奏者のポール・ブレイが言うように、これは、どのレコード制作に際しても、アイヒャーがミュージシャン達と自分自身に与える選択の自由と言うやつだ。「ポリグラムとレコーディングしたときは、35ページにも及ぶ契約書を取り交わした。ところがECMではこうだ『今回の収録がご満足なら、また次もやりたくなるでしょう』そりゃ全くそうだ。彼らの仕事に満足なら、そして彼らも私の仕事に満足なら、また次もやりたくなるだろう。そんなわけで、次回の約束に当たっては、確認も保証も契約もいらなかったよ。」 

 

 

もうひとつのポイント。プロデューサーとは、収録作品に「その名を刻む」べきか、はたまた黒子に徹するべきか?プロデューサーとは、グレン・グールドの教えに従い、その責務を、作曲家や演奏家同様、間違いのないサウンド作りに徹するべきか?プロデューサーとは、耳の肥えたリスナーの期待にどこまでも応じられる努力を尽くすべきか?プロデューサーとは、フランツ・リストの指揮者への求めに准じて、仕事が始まると同時に存在感を無にするべきか?その答えは、実はもう一枚見ていただきたい写真があって、そこに助けとなるヒントが有る。エンリコ・ラヴァとステファノ・ボラーニのデュオアルバム「ザ・サード・マン」(第3の男)のカバー写真である。トランペット奏者のボラーニが右手で頬杖をつきピアノによりかかり、ピアノ奏者のラヴァがピアノに向かって座りボラーニと話をしている様子だ。よく見ると、誰か男性の靴が一足、明らかに本来履いていた人物が写っていたのに、これを消してしまっているのがわかる。この写真が何を物語るかについて、お役に立てるものをご紹介しよう。一つは付属のCDブックレット、もう一つは、ラース・ミューラー出版の2010年の「風と光 ― ECMとその所蔵写真」だ。ECMの製品について、デザインや写真に関する逸話と解説が載っている。元々、この写真に写り込んでいたのは誰か、そしてこの靴の持ち主は、ということだが、持ち主はマンフレート・アイヒャーなのである。アイヒャーが、ピアノ奏者のラヴァの、おそらくこれまでの音楽活動についての雑談であろう、黙って聴いているのだ。彼は白髪の長髪で、その佇まいは、まるでボラーニを鏡で映したようなのである。 

 

 

彼はその姿が目につこうがその声が耳に入ろうが常にザ・サード・マンなのだ彼の存在が音楽やミュージシャンにどんな影響を与えるのか4849ページの写真計2枚が最もよく説明してくれるだろう。マンフレート・アイヒャーは、ミュージシャンに自由に行動させているが、現場には常に居て、その存在感を放っている。ECMのレコーディングセッションに参加してみれば、誰もがその多くの作品に感じられる魔力を理解するだろう。場所はどこでも同じ。オスロやニューヨークのような喧騒の地でも、静かなところでは冬場のロホヤ(フィンランド:ここではアルヴォ・ペルトの「テ・デウム」が収録された。繊細な演奏を誇るエストニア・フィルハーモニック室内合唱団と「音楽と会話のできる」指揮者のトヌ・カリユステによる演奏)においてもだ。このプロデューサーの人となりが、数々の録音現場の雰囲気を作っているのだが、いちいち丁寧にコントロールしているわけではない。アイヒャーが底にいるだけで、アーティストが自らの力を発揮するのである。集中力、インスピレーション、創造意欲、そしてアーティスト達の放つオーラ、これらは全て、録音現場にいればハッキリと感じ取れる。それから時に絶対起こり得ないことが起きたりもする。夢だの現だのを超越ような話だが、1993年1月、凍てつくように寒いある日の収録時のこと。アルヴォ・ペルトの「聖シルアンの歌」の56小節目、全員が一斉に音を止めたあと、その音が増幅して大きくなっていったのだ。 

 

先述のポール・ブレイが、この現象について、ミュージシャンの立場から述べている。音楽に対する自分の考えを持っているプロデューサーとは、重要な存在なのだ。なぜなら、そういうプロデューサーは稀だからである。「ECMでレコーディングするミュージシャンは、誰もが、マンフレート・アイヒャーと『共演』するのだ。彼はエキストラ参加者みたいなものだ。他でやられたら、たまったものではない。そういった意味では、彼は天才だと思う。もとい、天才「である」。彼は元々ベース奏者だが、自身が他のミュージシャン達と演奏することは、今はしていない。これは良しとする者もいれば、否とする者もいるけどね。」良しとする者の一人が、アルヴォ・ペルトである。そして彼こそ、マンフレート・アイヒャーについて最も簡潔に説明し切る人物だ。キース・ジャレットと共演した時に、そのまんまのことが起きたことについて、次のように語っている。「私はECMと音楽の分野を超えて結びつきが取れた。このお陰で、私の作曲活動は新たな可能性や良さが出るようになった。」 

 

 

 

 

 

 

Keith Jarrett伝記(英語版)3章pp43-47

3.理想のパートナーシップ 

 

ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーは、23歳で会社を立ち上げた。この際、返済可能な範囲で親戚からお金を借りて、ささやかな設立資金としたのである。彼が代理人を務めた画家、パブロ・ピカソは、彼より3歳年上だった。お互い、パートナーシップを結んだ時から、完璧な組み合わせだ、と思っていた。1人は、頼りになる勘を働かし、これから芽の出そうなイノベーターや、これから興りそうなアートを発掘するその相方は、天賦の才を持ちながらも、当時は全くの無名だった。二人の関係はお互いを信じる気持ちに基づくものであり、それは数十年も続き、世の高い評価を受ける成果を上げた。美術収集家であり画商のカーンワイラーと画家のピカソが知り合ったのはパリ。丁度その頃、この若き画家は名作「アヴィニヨンの娘たち」を描き終えようとしていたところであった。彼らが手を組んだことにより、20世紀の美術史に大きな足跡が残った。 

 

 

この二人のパートナーシップにまつわる逸話は、ほぼそっくりそのまま、登場人物名だけ変えればいいバージョンがある。それが、マンフレート・アイヒャーとキース・ジャレットである。偉大な画家、ミュージシャン、そして文筆家の伝記を書く際には、リサーチを行うわけだが、掘り下げるほどに重要さが見えてくるパートナーシップ、それが、アーティスト達と、画商や画廊経営者・出版社・プロデューサー・スポンサーとの人間関係だ。こういった仲介者抜きでは、芸術作品は世に出ることなどない。当然、広範囲に渡る認知度など得られるはずもないだろう。 

 

 

時は1969年、マンフレート・アイヒャー26歳。仕事仲間の1人が彼に託した僅かな元手で、彼はドイツのミュンヘンに独立レーベル「ECM」を設立した。彼が後にレコードをリリースすることになるキース・ジャレットは、この時2歳年下だった。二人が提携に合意・調印したのが1971年、この頃音楽ファンは、チャールズ・ロイドやマイルス・デイヴィスの下でメキメキ腕を上げた天才の存在に、気づき始めていた。ジャレットはかねてよりツアーに注力し、主要なジャズミュージシャン達とのレコードをリリースし、自身の名前でピアノ・トリオのレコーディングも手掛けていたものの、本格的なブレイクには至っていなかった。アイヒャーは音楽の良さをしっかりわかるプロデューサー。ジャレットは厳しく頑固なアーティスト。二人はきっと、お互い信頼し合えるだろうと、程なく見抜いたと考えられる。50年間に亘り、このパートナーシップは、今でも続いており、ジャズの歴史に大きな足跡を残し、20世紀と21世紀の音楽演奏に重要な貢献をしている。 

 

 

 

 

「カーンワイラー/ピカソ」と「マンフレート・アイヒャー/キース・ジャレット」の2組を比べると、どちらも、キャリア開始からの付き合いで、年齢も20代中・後半、片や芸術家で片や宣伝係と、表面的な話は似通っているが、両者をなぞらえる理由は他にある。カーンワイラーは画商としては無名で、美術史家、出版者、作家として知られており、活躍の場はビジュアルアーツの分野だけではなかった。後に伝説となる彼の画廊では、アヴァンギャルド(今だに「20世紀初頭の代物」と誤解される)の画家達の中でも無名どころを紹介し、キュビズムの定番作品についての本を執筆し、当時若手だった作家達の本を出版した。その中には、ギョーム・アポリネールアンドレ・マルロー、ミシェル・レリス、マックス・ジャコブ、そしてガートルード・スタインといった顔ぶれがある。同時に彼は、独自の絵を手掛ける新進気鋭の画家達の作品を、彼独特の発想による限定版「beaux livres美術書)」で紹介し、こうした画家達のちょっとした「フォーラム」(集まる場所)としての役割を果たした。 

 

一方マンフレート・アイヒャーは本職のミュージシャンだ。ベルリン・フィルコントラバス奏者であり、またジャズのベース奏者としても少し活動した後、レコードプロデューサーとして専念するべく、それらから全て手を引いた。だが、その出発点から、彼は(カーンワイラーが自身の「仕事」で見せたように)そこいらのレコードプロデューサーとは違い、実際の制作も全て手掛けた。「人を食い物にする産業」(ジャンルによっては理由もなく)として知られる分野において、彼は人から疑いの目を向けられるようなやり方や、調略的な行為を一切排除した。彼の興味関心のターゲットは、ジャズのみにあらず。それどころか音楽のみにあらず。映像・舞台にも広がり、イングマール・ベルイマンジャン=リュック・ゴダール、エルランド・ヨセフソン、ブルーノ・ガンツ、そしてロバート・ウィルソンらとも良好な関係を保った。他にも文学や詩で、特にフリードリヒ・ヘルダーリンやトーマス・エリオット、そしてイオルゴス・セフェリスらの作品の数々についてのフォーラムを開催し、ハインツ・ホリガークルターグ・ジェルジュ、そしてギヤ・カンチェリらの音楽を用いた。映画監督では、テオ・アンゲロプロスジャン=リュック・ゴダールらのアドバイザーも務めたことがある。彼はジャン=リュック・ゴダールが1962年にアンナ・カリーナの主演で手掛けた「女と男のいる舗道」に見られるような、「省略・欠落がもたらす風変わりな感覚」や「照明・音響・そして楽曲に関する類稀な創造意欲」が、特にお気に入りだった。1990年にはアイヒャーは音響助手として、ゴダールの「ヌーヴェルヴァーグ」制作に関わり、そして翌年の「新ドイツ零年」ではさらに踏み込んで関わっている。極めつけは、ゴダールの記念碑的作品ともいうべき「ジャン=リュック・ゴダール映画史」制作に参加、サウンドトラック5枚、CDブック(イラスト付き)4巻をリリースした。1992年には、マンフレート・アイヒャーは監督としてハインツ・バトラーとともに「完新世の人間」(マックス・フリッシュの同名小説に基づく)をてがけた。この映画では、楽曲の一部の制作にキース・ジャレットが関わっている。本作はロカルノ国際映画祭において審査員特別賞を受賞している。 

 

アイヒャーの設立したECM社(Edition of Contemporary Musicの略)は成長し、1600作品をカタログに掲載するに至った。そしてそれは「現代音楽」と「古楽の現代版」の両方について、あたかもこれを所蔵する今の時代の資料庫のようである。この会社では、「作品を切らす」とか「カタログから排除する」という発想は存在しない。ECMの商品発売には、昔ながらの出版業者に見られるような、どの商品にも高い芸術的価値を添えようと心を砕き、商品デザインや編集チェックに際して高いハードルを自らに課す姿勢が伺える。小さな経営規模と企業の独立性を堅持しつつも、そのオーラは全世界を照らすほどである。最も大切にするものは、高品質な芸術性と、それを適切に編集し音にして届ける技術だ。つまり、儲け一辺倒の考え方では、ECMが数多く画期的な作品をリリースしていることの説明にはならない、ということになる。 

 

 

アメリカの各レコード会社は、キース・ジャレットのレコードを1960年代と70年代の後半にリリースしている。その後、彼はほぼ独占契約状態でECMとレコード制作を行うようになる。ECMのレコード制作にかける精神を鑑みれば、アメリカの各レコード会社が、文字通り「見込み違い」をしていたことがわかる。1973年から78年にかけて、キース・ジャレットの所謂「アメリカンカルテット」とのLPを8枚制作したABCレコードは、キース・ジャレットとの契約において「専属契約における例外事項」と標して、ECMと「クラシック音楽」およびこれに類するレコーディングを契約期間中認める内容を取り交わした。この手の演奏が実際にどんな影響を及ぼすか、彼のイメージを高めることになるのか、については「完全に何もありえない」との判断からである。この判断に至る理由は、ABCレコードにはなんの関係もないことを鑑みれば、キース・ジャレットを小馬鹿にした発想であることは、言うまでもない。このアプローチについては、1970年代初頭に、ジャレットのマネージャーであったジョージ・アヴァキアンも念押ししている。「エド・ミシェル(ABCの「インパルス!」レーベルのプロデューサー)に長時間かけて話したことは、仮にキースが、インパルス!の守備範囲の音楽以外、つまり場合によっては彼自身のイメージを向上したり彼のファンを喜ばせたりする事もありえるような、そして場合によってはインパルス!の従来の作品の価値を高めるような事もありえるような、そういう楽曲に取り組む自由を与えられたとしても、インパルス!の売上に悪影響は全く無い、ということだった。だが、驚いたことに、この合意の結果出てきたものは、彼の過去の録音全てを遥かに凌ぐ出来だったのだ。」 

 

全く、誰も想像し得ないことだった。1970年代初頭といえば、「マハヴィシュヌ・オーケストラ」「リターン・トゥ・フォーエヴァー」そして「ウェザー・リポート」といったアンプを駆使したフュージョンバンドの全盛期である。そんな時代に、ジャズミュージシャンが、独りでグランドピアノを弾いて、ソロインプロヴァイズして、専門家達の絶賛を浴びたのみならず、ビジネス面でもバッチリ結果を出したのである。もっと言えば、「ザ・ケルン・コンサート」の売上400万枚は、ソロのレコードとしては、今日まで未だに破られていない記録だ。キース・ジャレット曰く「皆、口々に、マンフレートは馬鹿じゃないの?と言っていた。とてつもないリスクと思われたからだ。当時のアメリカのレコード会社は、どこも考えるはずのないことだった。だがこれこそ、彼の類稀なる才能のひとつなのだ。「こう」と信じたら、万難を恐れないのである。」 

 

売上面でのリスクを孕んでいたのは、「フェイシング・ユー」、そして3枚組LPの「ソロ・コンサーツ」が既にそうだった。だが、あの10枚組LPの「サンベア・コンサーツ」(1976年の日本ツアー全5回公演完全収録版)でさえ、当初はレコードプロデューサー達が「エコノミック腹切り」(訳注:「エコノミックアニマル」(日本人の揶揄)との洒落)として、商売上の自殺行為だと眉をひそめたものの、蓋を開けてみれば、今だに売れまくっているのだ。長時間録音のLPレコードも末期を迎え、そろそろCDが登場する直前の頃、ダン・モルゲンスターンは、この「サンベア・コンサーツ」の過剰なリリースを「明らかな巨人症」と評した。そして、環境不適応に陥った恐竜達同様、自らを滅亡へといざなおうとしている、と分析した。ジャズ側の人間で、ECMの音楽芸術面での企業目標とLPレコードの生き残りの両方を間違えて分析しているのは、モルゲンスターンだけではない。 

 

ECMの設立当初数年間の様子を見た、アメリカの主要レーベル各社は、同社をして、なんだかヘンテコで物覚えの悪いヨーロッパによくある屋台の連中が盛り皿でレコードを売っているようなものだ、と思ったことだろう。各社が間違いに気づいたのが、「ダウン・ビート」誌の「レコード年間売上大賞」の記事だ。第1回は1974年にジャレットが「ソロ・コンサーツ」で受賞し、以降定期的に受賞している。1970年代初頭、キース・ジャレットが経験値を増やしたことが2つある。1つはアメリカのジャズミュージシャンの懐具合。もう1つは、アメリカのレコード会社の実際のやり口。後者は例えば、1967年から71年のアトランティックレコードや、マイルス・デイビスのバンドに参加していた間のコロンビアレコードといった各レーベル。アトランティック・レコードとの契約が、ジャレットの大人気にも関わらず予定通り終了してしまったのは、レコード会社側が、彼の作品がその後も売れるかどうか、疑問を呈したからである。だがジョージ・アヴァキアンはコロンビア・レコードを何とか納得させて、ジャレット、チャーリー・ヘイデンポール・モチアンの3人によるジャレットのオリジナル曲による2枚組LP制作を実現しようとした。このトリオに、更にサックスのデューイ・レッドマン、ギターのサム・ブラウン、パーカッションのアイアート・モレイラ、そして弦楽・管楽両セクションで脇を固めた。このレコードはタイトルを「エクスペクテーションズ」といい、発売した1972年にフランスの「シャルル・クロス」ディスク大賞を受賞した。ここにいたって、コロンビア・レコードはジャレットとの2枚目の制作に乗り出す確信を得た。ジャレットとしては、次はソロアルバムを、と決めていた。このレコード制作に当たり、ジョージ・アヴァキアンは、グリニッジ・ヴィレッジのマーサー・アーツ・センターでの単独コンサートの模様を収録した。ところがコロンビア・レコード側が、本制作による収益の見込みは全く無いと判断し、契約を破棄。代わりにハービー・ハンコックを起用した。彼のフュージョン音楽のほうが、収益が大いに見込めたからである。 

 

今の時代の人間から見ると、目下最大のジャズ・ミュージシャンと、緻密なこだわりの仕事で賞を総なめするプロデューサーとのコラボレーション、こちらを、どう考えても選ぶだろうと思うのではないか。それぞれの守備範囲において完璧をどこまでも追い求める二人の、譲れない思いの産物なのに。だが、1970年頃の時代だと(もしかしたら今でも)、ほんの少しLPを出しただけのドイツ人プロデューサーを信じ込むような、これからしっかり実績を作ってゆかねばならないアメリカ人ジャズミュージシャンには、「どう考えても~だろう」なんて確実なものは何一つ無い、というのが、きっと普通の考え方なのだ。だが実際は、マンフレート・アイヒャーは、その強力な説得力で彼の芸術観や技術面の主義主張といったものを、相手に納得させることが出来る人物なのだ。彼はピアニストのマル・ウォルドロンビリー・ホリデイの伴奏者であり、1967年以来ミュンヘン在住だったチャールズ・ミンガスの元のパートナーだった人物)をソリストとして最初のレコードリリースに際して出演をとりつけたり、その後すぐに、ECMレーベルで別のソロ作品のためにチック・コリアを招聘したりしてみせた。 

 

アイヒャーがジャレットに送ったもの、それは、自身がプロデュースする作品がどのようなものかを説明する例としての試作品だった。一つは、発売前のチック・コリアのソロ。もう一つはヤン・ガルバレクの最新リリース作品「アフリック・ペッパーバード」。これらと一緒に、新しいLPを一緒につくろうと誘った。丁度キース・ジャレットが、コロンビアに肘鉄を食らったときだった。アイヒャーはオプションとして3つのプロジェクトの提案を行った。チック・コリアとの共演、ゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットとのトリオ、あるいはソロLP、といった具合。これら音源を聴いて納得したジャレットは、目新しくて面白そうだとして、オファーを受諾、これこそ後に前人未到のリリースにつながる第一歩だった。その後間もなく、マイルス・デイビスとのミュンヘンツアー中に、ソロのレコーディングの日取りが決まった。ノルウェーオスロで、1971年11月、たった1日だけというもの。結果誕生したLPが「フェイシング・ユー」。その後マンフレート・アイヒャーが手掛けた28枚にも及ぶのソロ作品の第1作目である。