Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.139-144(最後)

1985年から1986年にかけてヨーロッパで行われた2つのコンサートの録音「スタンダーズ・ライブ(通称「星影のステラ」)と「スティル・ライブ(通称「枯葉」)も特筆に値する。特に注目すべきは、「スティル・ライブ」。こちらは伝説とも言うべきビル・エヴァンス・トリオ(スコット・ラファロポール・モチアン)と、その最も重要なアルバムであろう「ポートレート・イン・ジャズ」(1959年)への、密かなオマージュなのだ。「スティル・ライブ」には4曲の有名なスタンダードナンバーがある。「枯葉」「降っても晴れても」「恋に落ちる時」そして「いつか王子様が」だ。これらはいずれも「ポートレート・イン・ジャズ」にも収録されている。ここまでが両アルバムの共通点。ここから先、音楽の性格、インプロヴァイゼーションの基本構造、個々のプレーヤーの楽器に対するアプローチ、どれもが相通じるものが見当たらない。仮にの話だが、この録音時にゲイリー・ピーコックがジャズのスタンダード曲に、まだ渋々取り組んでいたとしよう。それでもなお、このアルバムで聴かせてくれる示唆に富んだ演奏は、彼が渋々取り組んでいたということを、アッサリ吹き飛ばしてくれただろう。予想を遥かに超えて、この録音は3人の「バラード名人」ぶりを聴かせてくれる。 

 

1987年収録の「チェンジレス」で、キース・ジャレットはついに、彼のフリースタイルの演奏技法を、トリオでの演奏にも結びつけた。音楽学者のアルフレート・アインシュタインの理論によれば、音楽作りは、本質的には永遠の命を与えることが前提で、儚く消えることを前提とはしていない。それがわかるのが、ゲイリー・ピーコックの演奏だ。ジャレットのオスティナートを朗々と爪弾かれるベースのリフで厚みを増したり、ピアノとのユニゾンではメロディのモチーフを下支えする(「ダンシング」参照)。同様に「ライフライン」でも、ジャック・ディジョネットが「みんなで歌う仕事の歌」に、腹に響くリズムで参入してくる。「リズムはイタリアのクラッセにあるサンタポリナーレ聖堂のように、どんな地震にも揺るがぬくらい、安定感と豊かさを要する」とは、アインシュタインの言葉だ。曲中たった一つの主和音が、ジャレットならではのオスティナートに支えられ、ベースとドラムも手を貸す様子は、この言葉を更に納得行くものにしてくれる。 

 

このトリオの多様性が伺える好例が、1990年にニューヨークタウンホールで収録された「ザ・キュアー(通称「ボディ・アンド・ソウル」)」だ。本作で、ジャレットは、彼のスウィング感で聴き手に印象づけ、ビ・バップのあらゆる小技をマスターしていることをまざまざと見せつけている。折しも、彼がクラシックのピアノ奏者として評判を取り始めていて、ジャズ一筋とはもはや誰も思わなくなっていた頃だった。時折まるで、セロニアス・モンクドルイド教の司祭よろしく、秘密の聖杯をジャレットに飲ませてやり、ピアノの鍵盤から秘伝のクオータートーン(半音の、更に半分の音)を聞かせる技を授けた、そんなふうに聞こえることがある。またまたここで、「オールド・フォークス」では、ジャレットがのんきな子供になりきり、人気者の歌い手達が幸運にも彼の元へ駆けつけた、そんなふうに聞こえてくる。 

 

この変わり身の良さこそが、コンサートごとに、あるいはレコーディングごとに、全く違った顔を見せる秘訣なのである。幾つか例を見てみよう。「スタンダーズ・ライブ(通称「星影のステラ」)」の「星影のステラ」では、アメリカの映画音楽に見られる印象派的な影響を持つ手法で、原曲を深く掘り下げている。「ザ・ソング・イズ・ユー」では、延々と流れているモチーフが、楽曲本体から分離して、一人で延々グルグル回り続けているようである。人気の高い「慕情」(フォーエイセスがかつて編曲)では、ゲイリー・ピーコックのアッサリとしたバスドラムを下支えとし、「上澄みの脂分」を全部すくい取ってしまった感じがする。こちらはアップテンポの作品として「スタンダーズ・イン・ノルウェー」に収録されている。そして、「トリビュート(通称「オール・オブ・ユー」)」に収録されている「サン・プレイヤー」は、ザ・フィルモアでライブをしていた全盛期のチャールズ・ロイド・バンドからファンクジャズの雰囲気を醸し出している。 

 

マイルス・デイヴィスが亡くなった(享年64歳)とのニュースが世界を駆け巡った1991年、彼と演奏を共にしたことのあるジャズミュージシャン達は、きっと大きな衝撃を受けたことだろう。キース・ジャレットジャック・ディジョネットは、マイルス・デイヴィスが最も目が離せかった1960年代終盤から1970年代初頭にかけて、ステージを共にしている。これより数年前には、ゲイリー・ピーコックも、ロン・カーターの代打としてマイルス・デイヴィスと演奏を共にしている。全てのジャズを愛する世代を感化した彼に捧げるべく、生み出されたアルバムが「バイ・バイ・ブラックバード」だ。3人が自分達の思いを、レコードジャケットにライナーノーツとしてしたためた一文は、まるで墓碑に刻んだ言葉のようである「マイルス・デイヴィスは、自ら発信し、それを自ら変化増幅させ、自ら人々の試金石となり、そして自らの元へと人々を惹きつけた」。そして彼は、少ない音数に無限の意味を込めることのできる、真のミニマリストだったのだ。 

 

この偉大なアーティストに対するリスペクトの心が、本アルバムの基軸となっている。タイトル曲「バイ・バイ・ブラックバード」は、マイルス・デイヴィスクインテットジョン・コルトレーンが行った、極上のインプロヴァイゼーションを彷彿とさせる。3人が繊細さを込めたアレンジの「ユー・ウォント・フォゲット・ミー」は、デイヴィスにとって最後の公の場となった1990年の、歌手のシャーリー・ホーンとともに演奏した曲である。セロニアス・モンクの軽めなブルース「ストレート・ノー・チェイサー」の前には、4拍子のなかで3拍子のリズムフレーズを演奏するというややこしさを持つ作品。本アルバムの中でも最も印象的な楽曲で、3人がかりで創り上げた「フォー・マイルス」だ。手数のこもった音の宝庫であり、微細なノイズまでもを生かした打楽器の音色の数々や、のびのびとした叙情性、更にはじっと物思いに耽るような箇所もある。この作品では、「マイルス・デイヴィスと言えばこれ」が、概ね全て詰まっている。ジャレットがピアノで弾くアルペジオのフレーズは、その歌い方が、フラメンコギターの「ラスゲアド」(爪で弦を弾く奏法)を彷彿とさせ、スペイン音楽のカラーを添える。デイヴィスの音源にも、「マイルス・アヘッド」「カインド・オブ・ブルー」「クワイエット・ナイト」、それからギル・エヴァンス・オーケストラとの共作「スケッチ・オブ・スペイン」などに見られるものだ。これによりジャレットは、単にマイルス・デイヴィスの楽曲を演奏するのみならず、彼自身がマイルスになりきろうとする意思を明確にし、実際それに迫るものを聞かせている。 

 

この大切なオマージュと比べると、「アット・ザ・ブルーノート」という6枚組CDボックスは、同クラブでのライブ音源であり、10年間のトリオとしての活動に対する中間評価となっている。ジャズの殿堂にその名を連ねるこの作品は、6回の本番を収めており、演奏曲目で、重複するのはわずかに3曲のみである。先人の跡をたどることを良しとしなかった彼らは、なんでもござれの心意気を見せつけた。この伝統あるニューヨークのジャズクラブで、3夜に亘って開かれたライブは、いずれも実に示唆に富んだものである。ビ・バップのレパートリーや官能的なバラードの数々を聴くことができる。中には、「ナウズ・ザ・タイム」のように、マイルス・デイヴィスがキャリア初のトランペットソロを録音した曲もある。この曲で、ジャレットのインプロヴァイゼーションは重量感のあるブロックコードで埋め尽くされている。スピード感を売りにして、叙情的な表現を得意とするキース・ジャレットには、いささか異質な音楽であり、どちらかと言えば、デイヴ・ブルーベックの守備範囲に極めて近い。ソニー・ロリンズの最も有名なナンバーである「オレオ」では、ジャレットとディジョネットが、8小節ごとにソロのインプロヴァイゼーションを、息をつく間もないほど速いアップテンポな中で、8小節毎に交互にこれをぶつけ合う。バラード風のアダージョから2拍子の激しいリズムまで、テンポの変化に富み、そして様々なリズムの音形の重ね方も見事。ストイックに刻まれるドラムの4分音符に、ピアノの8分音符や16分音符のフレーズが散りばめまれている。だがこのアルバムリリースは、あくまでも中間評価にすぎない。更に膨大なネタが、このジャズトリオの「百科事典」にこれから書き込まれてゆくのである。 

 

幅広い素材から音楽を生み出してゆく、その取り組みに対する熱の入れようは、ジャレットが常に見せてきた音楽作りに対する一面である。「Tokyo '96」では、彼は躊躇なく、ナット・キング・コールの「モナ・リサ」のような、有名お涙頂戴曲を採り上げてみせる。すでに数え切れないほどの2流・3流の歌い手達が、徹底的に歌い込んできた作品である。ジャレットは、モナ・リザの古臭さを洗いこすってキレイにして、大人の、バラード風の音楽表現の仕方を用いて、モナ・リザに新たなハーモニーの美しい体型を当てはめようというのだ。他のすべての収録曲も、選んだ曲のことを考えると、とても予想のつかない独特な演奏方法で奏でられている。例えば、「Tokyo '96」に収録されている、バド・パウエルの「ジョンズ・アビー」は、ギネス世界記録に記載されるのでは?というくらい火を吹くような、とてつもないテンポで演奏される。ディジョネットとジャレットが、8小節1フレーズを8回に亘ってやり取りする様は、フランツ・リストの「超絶技巧練習曲集第8巻の「荒々しき狩り」を彷彿とさせる。アルバム「ウィスパー・ノット」(1999年)は、パリでのコンサートを収録したものだ。ここでは「グレート・アメリカン・ソングブック」や、幅広いジャズの定番曲の数々など、様々な分野から選ばれてる。ラグタイムの「悩みは夢で包んで」という曲は、1920年代の終わりから30年代の初めにかけて、世界大恐慌のアオリを受けて苦しむ人々に対する心の支えとなるようにと、使用されたものだ。この曲もキース・ジャレットが採り上げており、政治的に二重のひねりが加えられている。 

 

このトリオは新たな黄金期を迎える。奇作ながらも極上の一品で、その名も「インサイド・アウト」。収録曲の殆どがキース・ジャレットの作になるものだ。だがここで疑問、「作になるもの」とは、本当に適切な言い方か?むしろ、個々の判断に基づいて編み出したことを、すり合わせたもの、と言ってもらいたい。そしてすり合わせの結果としての曲の形式を決めて、個々の卓越した直感を発揮する。ブルースにせよ、黒人霊歌にせよ、コラールにせよ、基本的に「ジャズとはこういうものだ」とこれまで定義されてきているものななら何だって良いのだ。それはニューオーリンズで生まれてシカゴへ渡った頃にせよ、ハーレムで培われてマンハッタンのダウンタウンへ打って出た頃にせよ、同じことである。例えば「フロム・ザ・ボディ」。たっぷり20分間の内、まずはメロディの断片の数々が、パズルのパーツのように混ぜられて広げられている。そこへジャレット特有の繰り返しの演奏方法の数々が投入され、訳のわからないまぜこぜ状態を終わらせ、しっかりと組み立て仕上げるのだ。タイトル曲の「インサイド・アウト」の特徴は、パッと聞いた限りでは各個別々のモチーフが、やたらと動き回っていることである。ブルースのメロディ、賛美歌のような韻律、3つの対旋律、3つの異なるテンポ、これらに基づき、ミュージシャン達は自分でインプロヴァイゼーションを行い、レコーディング・エンジニアが「もうこのくらいでいいだろう」という処で、個々のミュージシャン達が自らの独立性をアピールしている状態に終止符を打ち、全員まとめてフェードアウトさせてしまうのだ。「341フリー・フェード」では、古いスタイルのジャズが申し訳なさそうに姿を表したかと思えば、アヴァンギャルド風の巨大なサウンド群がこれを埋め尽くす。その後幅を利かせ、どんどん重なってゆき、溢れかえった挙げ句、そそくさと去ってゆく。一方「ライオット」では、3人は「ロックバンドのふりをしたトリオ」と化し、攻撃的なリズムやコードを次々と打ち出して、「心より技」と言わんばかりの自己顕示に走り出す。更に、ヴィクター・ヤングの「恋に落ちるなら」を持ってきたことで、このレコードのプロデューサーと3人のミュージシャン達が、優れた全体構成力を持っていることが証明されている。ジャズの定番ラブソングの鉄板ともいうべき曲を使って、その前の騒々しい音の喧騒の後を収めようなど、普通は誰も考えもしないやり方だ。 

 

「物事の成り立ちを知るには、時にはそれをひっくり返してみることが必要だ。」キース・ジャレットが、この革新的なレコードのライナーノーツに記した言葉は、あとに続く作品を生み出す上でもモットーであると理解できる。特に次のアルバム「オールウェイズ・レット・ミーゴ―」は、東京でのコンサートのライブ音源だが、個々に示されるものと、音楽的に変化させることとを使いこなし、表現を豊かにしてゆきたいという思いが、よく示されている作品だ。だが「イエスタデイズ」や「マイ・フーリッシュ・ハート」のようなアルバムは、ヴォーカル付きの曲やジャズの定番曲の間に、ジャレットの自作曲をはさみ、先程のモットーに示唆されているように、自分を見つめ直すということを音楽でもやっていこうという考えに導かれて作られたものである。例えば、ファッツ・ウォーラーの「浮気はやめた」や「ハニーサックル・ローズ」、あるいはリチャード・ロジャースの「ユー・トゥック・アドヴァンテージ・オブ・ミー」といった曲は、左手はラグタイムシンコペーションストライドピアノ(跳躍の多い音形)風のベース音、それからハーモニーを伴奏に添えることで、モダンジャズの枠組みの中でこの音楽をどこまで確実に作って行けるかを試しているようである。それからディジー・ガレスピーの「ショー・イナッフ」では、ジャレットはまたもやピアノの最速記録に挑戦したいようである。「ジ・アウト・オブ・タウナーズ」のタイトル曲は、ジャズのインプロヴァイゼーションにおける低音の基本的な作り方を土台にして、主題の形を変化させてゆく。20分近くも時間をかけて、同じ小さなモチーフを扱うのだが、様々な制約がある中で、自由自在な変化を起こす翼の羽ばたきを加速させるという、圧倒的な実力の証拠を一つ見せつけている。 

 

ソロアルバム3枚以上制作する一方で、「アウト・オブ・タウナー」と「アップ・フォー・イット」(それぞれ2001年と2002年にミュンヘン歌劇場ジュアン・レ・パン野外ジャズフェスティバルでの収録)のリリース後7年間トリオとしてのアルバムはリリースされなかった。その代わり、ジャレットは以前の仲間であるチャーリー・ヘイデンとレコーディングを行っている。2007年、ニュージャージー州の自宅にあるケーブライトスタジオで、という、彼のディスコグラフィーを見てもめったに出てこないロケーションであった。kの時の収録は、後に「ジャスミン」(2010年)、「ラスト・ダンス」(2014年)としてリリースされる。親しみやすいバラードを含め、頭の中が似た者同士という2人の、穏やかさが漂う音のやり取りは、時に飾らぬ叙情性の中にも、朗々とした響きと豊かな表情を聞かせ、聴くものの心をしっかり捉える。この2人のレコードは、キース・ジャレットが初めて組んだトリオの、初期のリリースを思い起こさせるものがある。そして2014年、40年もの時を経て、1972年に北ドイツ放送局のNDRワークショップで行ったトリオの演奏収録が、満を持してリリースされた。その名を「ハンブルク’72」。キース・ジャレットチャーリー・ヘイデンとの関係は、長い間共演はおろか会うことすらなかったにもかかわらず、揺るぎない敬愛と友情が保たれていたのである。2014年7月11日、ローマのパルコ・デッラ・ムジカ音楽堂でのソロコンサートで、ジャレットはアンコールに「ジャスミン」からの曲を選んだ。その夜、チャーリー・ヘイデンは、ロサンゼルスの自宅で息を引き取る。これを単なる偶然とは、誰も言うまい。 

 

ジャレットが2つ目のトリオで最後に収録したのが、「サムホエア」というアルバムだ。収録は2009年だが、リリースは2013年。スタンダートナンバー、ジャズの定番曲、それから自身の作品について、この優秀なトリオの特色を全て結集した逸品である。アルバムの1曲目「ディープ・スペース」の一部分は、マイルス・デイヴィスの作った「ソーラー」を取り込んでいて、ジャック・ディジョネットハイハットでロールを聞かせる間、キース・ジャレットはピアノで、まるでドラムのロールを叩いているかのようである。ゲイリー・ピーコックのベースが、ピアノの中の弦を指で弾くような音を、頻繁に聞かせる。ジャレットは曲の出だしを、控えめながらも明快な表現を奏でる。アレクサンドル・スクリャービンの6声のコードは、第4音を一番下に据えている。この曲の出だしの、無調性の音の層や、一風変わったモチーフの断片の数々とともに、不協和音の塊が雲のように固まっているのを比べると、ロマン派の名残を醸し出しているといえるだろう。だがそこへベースとドラムが入ってくれば、この古い「新曲」は、氷のような冷たさを持っているが、それを信じられないほどに優れたジャズのセッションへと形を変えてゆく。 

 

大変密度の濃いアンサンブルであるドラムが度々聞かせるフィルインは、ピアノ奏者ばりの間のとり方で旋律感あふれる推進力持つさ3人共、演奏が進むにつれて恍惚状態へと入ってゆき、まるでピアノ奏者が3人集まって、それぞれピアノでない楽器をいつまでもずっと弾いているかのような状況にあっては、誰が誰をリードしているかなど、判別するのはほとんど不可能である。曲の出だしは、何を言っているのかさっぱりわからないが、だんだんこれがほぐれて具体的に何が言いたいのかがわかるようになる。それが例えば、「アラバマに星落ちて」や「絶体絶命」であったりする。その様は、単にハーモニーが複雑さを増してゆくとか豊かになってゆくとかだけではなく、もっと何か他の方法で、「生まれ変わってゆく」というのがふさわしい言い方だ。ここではキース・ジャレットは、伝統的なやり方でメロディを変化させたり再調整したりしているのが、聞いていてわかる。3人の持つ、演奏の力強さや音楽に対するイマジネーションの調和の良さのおかげで、こういった昔から耳にしている楽曲も、違った聞こえ方がするのである。それよりもっと素晴らしいのが、基本的に毎回のコンサートやレコーディングの際に見受けられる2つの要素で、一つは豊富な種類と数のニュアンス、もう一つは様々な音色の特徴を難なくモノにする力である。この2つの要素こそ、唯一最高のジャズ・アンサンブルである証である。 

 

そしてこれまた同じ様にキース・ジャレット自分の演奏を成し得たのはバーンスタインの「サムホエア」を採り上げた際、自身の「エヴィリホエア」と結びつけた上で、「ケルン・コンサート」やその他ソロ演奏で見せた、圧の強い気持ちの高揚を彷彿とさせる、過剰なまでのオスティナートへと入っていったからである。ほとんど決まった音楽としか関わらないような状況にあって、あくまでもたった一つのモチーフにしがみつく姿勢は、ジャズの歴史上、キース・ジャレット以外には聞いたことがない。あくまでもひたすらオスティナートを続けるという、とりつかれたような執着の態度は、アフリカ大陸でみられるような、足をどんどん踏み鳴らすような踊りの仕草や、輪になって踊る行為の際に用いられる音楽に、その原始的な要素のルーツが見いだせるのではないかと考えられる。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.136-139

こういったメロディの数々が、創意工夫に富んでいることは、キース・ジャレットがスタンダードナンバーに頼る傾向にある上で重要な要素なのだ。もっと言えば、彼が自分のインプロヴァイゼーションをする上で使いもになる素材を引っ張ってくるという論理は、多くのジャズミュージシャン達のそれと一致する。つまり、素材そのものというより、その使いこなし方のほうが重要なのだ。ジャレットが演奏したジャズの定番曲は、創意工夫の新しさといい、驚異的なアレンジの仕方といい、曲に込められた情感の表現といい、通常期待されるレベルを遥かに超えていた。その理由はなにか。おそらくその一つは、ジャレットが、多くの他のジャズミュージシャン達と違って、常に歌詞に興味を示し、インプロヴァイゼーションに際しても、歌詞の内容にも踏み込んでいたことにある。実際相当力を入れたので、時に相当やりすぎ感も禁じ得ないほどである。キース・ジャレットは、しょうもないお涙頂戴物の楽曲を、数多く上物に仕上げてしまっている。それらは、彼の手にかからなければ、きっと丁重に葬られ、忘れ去られてていたことだろう。 

 

この「上物に仕上げる」力は、ジャズの定番曲を演奏する者に対し、おそらく与えうる最高の賛辞であろう。同じことが言えるミュージシャンとしては、まずはチェット・ベイカー。彼が「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」をマイクに囁やけば、底なしに深みのある哀愁を漂わせる。あるいはベッシー・スミスの卓越した情感あふれる演奏の「アフター・ユーヴ・ゴーン」は、ジャズ黎明期の世代の連中がいつも哀愁を呼び起こす思い出の中に忍ばせていたものだ。キース・ジャレットは、自身が、手頃な定番曲の数々に親近感を覚える特異な理由を説明したことがある。しかしだからといって、自分のオリジナル作品も創り続けたし、フリーインプロヴァイゼーションも、あるいは従来の作品を元に卓越した演奏の腕前も披露し続けた。「最近誰も彼もがオリジナル曲を書きたがる。酷い音楽が数多く散らかっているのは、そのためだろう。」 

 

なぜジャズミュージシャン達が、頻繁にジャズの定番曲を拾ってこようとして「グレート・アメリカン・ソングブック」を紐解くのか、それを説明するもう一つの理屈を見てみよう。おそらく多くのジャズミュージシャン達が、人には内緒で、パッと聞いて楽しめるような、そして広く愛されているようなネタへの愛着を育んできているのである。どちらかと言えば洗練された音楽を演奏したのでは、普通は手に入らない成功体験、ある種誰もが知っていることだが、人知れずこちらにご執心なのだ。だがこのネタの置き場所は、おそらくベタで古臭いものといえる。こういうのを好むジャズミュージシャンというのは、多くの場合、自分で自分に課した「永久にわき続けるアイデア」だの「音楽的にビシッと決める」だのに墓穴を掘る羽目になり、そこから抜け出たくて、すがるのだ。 

 

あらゆるものを超越した存在として、「グレート・アメリカン・ソングブック」とは、そこそこ名のあるジャズミュージシャンならば必ず学ぶべき、一つの指標なのである。ジャズのネタがたくさん詰まった、宝物庫のようなものだ。「オール・オブ・ミー」や「4月の思い出」といった定番曲の変化についていけないようでは、他のミュージシャン達と一緒に演奏するチャンスは、最小限になってしまう。ドラム奏者のウーヴェ・シュミットが「ソングブック」でしっかりと決めたスタンダード・ナンバーの数々は、遺伝子情報、いわば「ジャズのDNA」と言うべきものだ。アメリカ人全体として無意識に身についたものの一部に過ぎないと考えられるのが「ジャズのスタンダードナンバー」。対する「ソングブック」の方は、不可侵でも何でもない、今尚進化を続けるものだ。加筆自由、それも新しいものばかりでなく、ジャズのスタンダード全般にとって新たに光を当てるべき(古い)ネタでさえ、書き加えて構わない代物だ。全てのジャズミュージシャン全員と変わらず、キース・ジャレットはこういったジャズの定番曲を繰り返し演奏してきている。そして同時に、自身の作品をレパートリーとしてしっかりと書き加えているのである。 

 

1996年、ハービー・ハンコックがリリースしたアルバムのタイトルが「ニュー・スタンダーズ」。とりわけその中で推したのが、ジャズ風のポップスを手掛ける若手世代の楽曲の数々である。これに異を唱えたのが、音楽の歴史をよく踏まえているジャレットだ。「ハービー・ハンコックはこのアルバムで完全な間違いを犯している。「スタンダート」という言葉は、歌い手も作り手も、優秀なのが集まっている時代の楽曲を意味するのだ。今の時代は、過去のどの時点と比べても、見劣りしてしまう。」ジャレットにしてみれば、スタンダードにふさわしいのは20世紀前半、各レーベルと出版元がニューヨーク28丁目(通称「ティン・パン・アレー」)、後に49丁目のブリルビルディングにひしめいていた頃だけ。各社が抱える作曲家達は、ショー、ミュージカル、そして映画のためにと、ポップ歌謡を生み出していた。ジョージ・ガーシュウィンアーヴィング・バーリンなども、その中にあった。ティン・パン・アレー全盛期は、その楽譜や自社出版物とともに、徐々に衰退してゆく。代わりに台頭してきたのが、1950年代のロックンロールだ。音楽の制作出版の有り様は変化を遂げ、市場の動向を反映し、これを牛耳っていたのは、若いファン層をターゲットとした若手のアーティスト達であった。彼らのような、大人でも年齢の若い層は、劇場でショーを見ることもしなければ、楽譜を買い漁ったりもしない。ライブで推しのアーティストを聴いたり、そのレコードを買い漁ったりしたのだ。 

 

ジャレットとは違い、ハービー・ハンコックは「スタンダート」という言葉を、「時代に関係なくヒットし名作と称された楽曲」、という意味で使用した。そしてこういった楽曲は、かつての「ティン・パン・アレー」の各社が生み出した作品と比べても、引けを取らないくらい、時流に左右されない出来栄えであることが、しばしば証明されている。ザ・ビートルズボブ・ディランジョニ・ミッチェルといった世代の音楽は、1920年代や30年代の作り手達という、「グレート・アメリカン・ソングブック」にその名を連ねる面々が手掛けた作品群よりも、クオリティのレベルが低いのかどうか、それは時が経ってみないとわからない。なぜなら音楽の世界での「当たり外れ」に、保証期間など存在しないからだ。 

 

キース・ジャレットといえば、普段は、音楽のセオリーごとの棲み分けを、厳格に守っている。だがいざ曲作りに取り掛かると、そんな頭の固い差別の仕方を持ち出すようなことはしない。実際彼は、トリオ結成当初から、素材の源を3箇所用意していた。1つ目、「グレート・アメリカン・ソングブック」にあるジャズの定番曲。2つ目、他のジャズの作曲家による音楽の内、ある時点で「定番曲」となっているもの。3つ目、ジャレット自身の作品を再度練り直したもの。自身の作品の中でも、お気に入りのものを選んだその訳は2つ。1つは、それが「ジャズ・スタンダード」の名に値すると信じたこと。もう1つは、そのクオリティが、母国アメリカで、これからも受け継がれてゆくにふさわしいレベルであると感じたこと。 

 

ジャレット、ピーコック、そしてディジョネットによる、所謂「スタンダーズトリオ」は、1983年に収録した最初の3枚のレコードから、早速その多芸多才ぶりを発揮している。ピーコックとディジョネットが自分本来の役割にとどまらず、ハーモニーに厚みを付けたりリズムの下支えをしている。この2人もピアノがしっかりと弾けるから、というのがその理由の一つだ。ピアノ奏者が3人で演奏している、と評する人さえいるくらいである。「我々が集まって演奏するたびに、ピアノのレッスンを受けているようなものだ」ジャック・ディジョネットが1980年代の終りにかけてそう言っていたのも、うなずける。そのレッスンの成果が、例えば彼のシンバルとスネアドラムの音を聴いていると、これは白鍵ぽく、これは黒鍵ぽくと叩き分けているようだし、あるいは太鼓の音を聞いていると、これは♯、これは♭、と鳴らし分けているようである。同時に、ジャレットの演奏も、まるでサックスのマウスピースを吹き鳴らしているようで、喘ぐようなレガートや特徴的に「汚し」を施したブルーノート、叙情的なメロディは、マ・レイニーからディー・ディー・ブリッジウォーターにいたる、草の根で活躍した偉大な女性歌手達を彷彿とさせる。 

 

3人がジャズ・スタンダードのアルバム第1曲目に選んだのが、ボビー・トゥループの「ミーニング・オブ・ザ・ブルース」。マイルス・デイヴィスが自身のアルバム「マイルス・アヘッド」で採り上げたことで、ジャズの定番曲となった作品だ。その理由はおわかりいただけるだろう。名刺代わりのこの曲は、このトリオの終わりなき歴史の幕が上がる合図であり、それだけでなく、その記録書が誕生し、後に「音楽のすべてが記される」と言うに値する体裁となってゆくことを示唆するに、誠にふさわしいのだ。「ミーニング・オブ・ザ・ブルース」の冒頭で聞かれるフリーイントロダクション。ロマン派の手法によるシューマン風のピアノ曲の作り方に組み合わせてあるのは、伝統的なジャズのイントロの持ってゆき方で、曲のその後の展開を示唆している。1つのモチーフや主題を展開させる曲作りであり、曲の進行とともにピアノとベースの対位法的な「会話」へと入ってゆく。ところが、Vol.1の2曲目になる頃には、もう音楽は、おなじみの路線から逸れ始める。ジェローム・カーンの「君は我が全て」といえば、収録曲の中では最も良く知られた楽曲の一つだ。複雑「だから」か、それもと複雑「なのに」か、いずれにせよ「複雑な」異名同音的転換だの、ウットリするような調性だのをベースとして、ジャレットならではのメロディラインが、初っ端1小節目から耳に飛び込んでくる。右手のモチーフが、左手のシンコペーションがもつ異常なまでのテンポを引きずる効果によって、邪魔される。それはまるで、そうすることでわざと聴きにくくしているのか、それとも、シンプルな旋律と複雑なハーモニー変化の、コントラストを引き立たせているのか、どちらかであろう。その結果、「キュビズム的音楽」となっている。ピカソの絵に象徴される手法で、真横から見た顔に左右の目を描いてしまう(一つの視点に、その視点では見えないものも盛り込む)やり方だ。 

 

ジャレットは、こうした様々な「ずらし」を演奏で駆使することによって、聴き手にとって魅力的かつ耳新しい音楽を紡ぎ出す。同時に逆に、彼独特のインプロヴァイゼーションのやり方を用いて、伝統的なジャズの魅力を数多く引き出してみせるのだ。これはジャック・ディジョネットゲイリー・ピーコックについても本質的には言えることだ。3人共、実際には鳴っていない「拍の頭の鼓動」を感じているので、それがなくても気分良くノリノリで演奏できるのだ。「ザ・マスカレード・イズ・オーヴァー」では、ピアノ、ベース、そしてドラムスの、個々のリズムや音色の独自性を保ちつつ、全体のサウンドは一つにまとまっていて、それは油圧器の中の液体のように、完全な均質状態を維持している。ある種サウンドに重みがあり、それが各メンバーが次々と仕掛けるもの同士に前後のつながりを与え、同時に、豊かな変化の中にも統一感を出している。こういったスタンダードナンバーというのは、特定の演奏者との結びつきが強く、多くの歌手や楽器演奏家達に言わせれば、「神聖にして不可侵」なのだが、ジャレット、ピーコック、そしてディジョネットの組み合わせは、自らの誇りと「特定の演奏者」への敬意をしっかりと持って、おなじみの風景を新たな方法で描くことができるのだ。その好例が、このトリオによる演奏で、ビリー・ホリデイの「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」である。インスツルメント(ボーカル無しの器楽演奏)によるこの曲の演奏で、これほどこの歌い手のゴスペルのような抑揚のついた表現に迫る、心を打つ賛美歌は、滅多に聴けるものではない。キース・ジャレットがソロ演奏でよく使うオスティナートのテクニックを改めて持ち出して、この昔ながらの曲に当てはめ、ブルースのカデンス全体を縮小し、一つの和声を繰り返し熱を込めて演奏する。これを支えるのは「ドラムメジャー」のディジョネットと、そのホッとするようなドラムのロールである。これにより、原曲からは本質的に抜け落ちてしまった、人の声が持つ熱い思いを、楽器のサウンドでしっかりと補うのである。 

 

同時に収録されたVol. 2も、多少の差はあるが同じ様に構成されているが、1曲目には、キース・ジャレットのオリジナル曲「ソー・テンダー」を配している。彼が作ったものだと知らないと、この曲が何なのかが解りにくいかもしれない。実際ジャレットは、誰にとっても親しみやすい響きのする、ジャズの定番曲の模範のようなものを作ってみせた。こういう曲を彼が難なく仕上げてみせる力の持ち主であることを、よく示している。これに「チェインジズ」(ジャレットの「自由な演奏」のスタイルによる長めのインプロヴァイゼーションによる曲)を加えたものが、このときのスタジオ収録作品というわけだが、3人のミュージシャン達が、お互いに対して見事に適応し合う力を、まざまざと見せつけている。ともすると型にはまって作られがちなスタンダードナンバーに、それと対象的なものをつぎ込むことによって、新たな、そしてパワーアップした創造性あふれる鼓動を与える。その大切さを示す良い例が、この「チェインジズ」である。 

 

イタリアのサルディニア島でのコンサートの最中のことだった。演奏中、聴衆にはほとんどわからないであろう、ちょっとした「事件」が起きた。だがこれは、お決まりの型にハマって、柔軟性を失う羽目になる危険性に対する、警鐘となった。クルト・ヴァイルの「マイ・シップ」を演奏中のことである。3人共、突如予定外のインプロヴァイゼーションの段階へと入り込んでしまったのだ。まるで飛行機が自動操縦に切り替わってしまったかのようである。ジャレットは後にイアン・カー(彼の正式な伝記作家)に、当時の心境を次のように語っている。「まったく、僕の人生の中の、あの3分かそこらは、生きた心地がしなかった。それで、顔を上げてみたら、一瞬にして2人共(ジャックとゲイリー)おんなじようにポカンとしてるんだ。少し休憩を入れて、舞台裏へ行って、2人に言ってしまったよ『おいおい、これまたやらかして、3分以内にどうにかできなかったら、もうその日は演奏終わりだよ!停電で真っ暗になったみたいに、電源が落ちているのに、席を未だ立てないみたいなもんだ。』とね」。多分こんな事が起きたのは、この時が最初で最後だろう。そうでなければ、30年以上彼らは一緒にステージをこなして来れているわけがない。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.131-136

9.アメリカズソングブック 

 

1983年1月の、ある霜の降りるような寒い月曜日のことだった。キース・ジャレットゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネット、そしてマンフレート・アイヒャーの4人が夕食のテーブルを囲んでいたのは、ニューヨークのとあるインド料理の店だ。彼らが意見を交わしていたのは、来るレコーディングセッションでの収録曲の選定である。スタジオは「ザ・パワー・ステーション」。西53丁目(マンハッタン区)の9番街と10番街の間に位置する。ハドソン川が近くにあり、「きれいな場所」とは言い難い土地柄だ。勿論彼らは、ただ何となく集まって、野菜カレーやタンドリーチキンを頬張りながら、ビールのコースターに曲目を書きなぐっていたわけではない。4名とも今回のプロジェクトをよく把握しており(発起人はジャレットとアイヒャー)、準備も進めてきていた。プロとしては当然のことである。この日の集まりは、今回の企画について、より深く掘り下げてお互いの意見を声に出してみようという趣向だ。 

 

ジャレットとディジョネットは、チャールズ・ロイドやマイルス・デイヴィスの所に居た頃からの旧知の仲で、コンサートにせよレコーディングにせよ、そこで交わしたサウンドやリズムは、彼らにとっては「お国言葉」の合図のようなもので、十分な意思の疎通ができる心地よさがあった。これに対しジャレットとピーコックとは、どちらかと言えば付き合いが浅い。これに先立つこと6年前、彼ら2人は「テイルズ・オブ・アナザー」をレコーディングしていた。だがジャレットにとってはこのアルバムはあまり重要なものにならなかった。ピーコックが主導の作品であり、また彼らの方向性も異なっていた。問題の核心はそこではなく、今回新たに取り上げる素材そのものにあった。3人共これまで扱ったことのあるものだが、それぞれの見方が異なっていたのである。 

 

 

この時、ジャレットの発案で、スタンダードナンバーに絞ろうということになっていた。曲の出どころである「グレート・アメリカン・ソングブック」なるものは、ハッキリとした定義はないが、1920年代、30年代、そして40年代を中心としたハリウッド映画やブロードウェイ・ミュージカルのヒット曲の数々のことをいう。これらは普通のジャズミュージシャンのレパートリーとしては、常に重要な地位を占めていた。だが1960年代のアヴァンギャルドという、無垢な人々からすると革命的とも言える趣味の持ち主達に言わせれば、「アメリカンソングブック」のネタなんぞ、月の彼方にでも放り捨てるか、それがだめなら「図書館の蔵書目録」にでもしまい込みたいものだった。だが、そこまで急進的なミュージシャンでなくとも、こういった、ともすると「お涙頂戴物」な楽曲は、その辺のしがないバーで、うんと遅い時刻に、これを聴きたいという常連さん達にでもあつらえたら良い、とされてしまう。基本的には20世紀を生きたアメリカ人なら誰でも、これらの楽曲を聞いて育ったはずだ。キース・ジャレットに至っては、まだ売れなかった頃、ボストンのカクテルバーを渡り歩いて、大学時代の落ちこぼれ仲間で結成したトリオで、歌い手さん達の伴奏をして、かなり集中的に取り組んだ経緯がある。ソロコンサートでは、こういった楽曲をインプロヴァイズして、それも抜群の腕前と気持ちの入れようで、聞かせるのが常だった(通常はアンコールで)。 

 

一方、ジャレットより10歳年上のゲイリー・ピーコックといえば(ジャレット自身もかつて言った通り)、誇り高きアヴァンギャルドのキャリアを辿ってきたと言えよう。1964年にビル・エヴァンス・トリオでスタンダードナンバーに取り組んだごく短い期間を除けば、彼は、アルバート・アイラードン・チェリー、ラズウェル・ラッド、そして勿論、ポール・ブレイマイルス・デイヴィスといった、「何処を切ってもアヴァンギャルドな」連中と共に過ごしているのだ。この後、ピーコックは音楽界から完全に遠ざかり、日本にしばらく移る。彼はそこで日本語を身につけると、食事療法や禅・仏教などの東洋思想を学んでゆく。彼はさらにアメリカに帰国後、今度は細菌学について大学の課程を受講し始めた。彼は音楽活動への復帰には、強い難色を示した。ましてやスタンダードナンバーの収録など、もってのほかだった。使い古しの音楽ネタに取り組んでみようと、彼に最終的に決心させたのは、キース・ジャレットジャック・ディジョネットの音楽に懸ける誠実さと、マンフレート・アイヒャーのプロ意識、これに尽きると考えられる。 

 

当初の計画では、制作するのは1枚だけ。こういったスタンダートの楽曲を、長期間かけていつまでも集中して取り組む気など、4人共頭になかった。言い出しっぺの考えでは、こういった楽曲がふさわしいと思われる場所、例えばジャズクラブなどといった建物で演奏してはどうか、というものだった。ところが最初のレコーディングセッションを終えてみると途端に、この企画はもっと規模が拡大することになることが、明らかに目に見えてしまったのだ。結局、当初の「1枚だけ」ではなく、3枚のアルバムが完成した。2枚はスタンダードナンバーだけで構成され(もっとも内1枚は、ジャレットが自作の「ソー・テンダー」をちゃっかり1曲目に配している)、残りの1枚は、2枚に載せきれなかったものを集めた、という風情である。コンサートの方は、収録と同じ年の9月にヴィレッジヴァンガードを皮切りに、1984年末以降も更に続き、大成功を収めた。これにより、客との距離が近いクラブのような場所で実施しようというプランはお蔵入りになった。規模が大きめのコンサートホールやフェスへの出演が組まれた。。結局このプロジェクトは、30年以上にも亘るものとなり(1983年1月のテーブルにいた4人共予想だにしなかったであろう)、人は彼らを「スタンダード・トリオ」呼び、ジャズの歴史にその名を刻んでしまったのである。 

 

 

このバンドが長期間に亘って成功を収め続けたことについては、多くの点で特筆すべきことがある。トリオという編成自体は、最も良く知られた形態の一つであり(人によっては「ありきたり」とさえ言われる)、同時に、非常に洗練されたジャズの合奏形態である。トリオが結成されるにあたっては、ミュージシャン達は最高の演奏とどうしても比べようとする。というのも、ジャズの歴史の何処を切り取っても、素晴らしいトリオが存在しているからだ。トリオ編成での演奏は、下手なごまかしは一切効かない。一つ一つのサウンド、一つ一つのリアクション、一つ一つのミスが、この究極の編成では簡単にあらわになる。農家で小麦を「カラ竿」で打って、カラと中身を選り分けるが、正にあれを見ているようだ。多くの場合鍵を握るのはピアノ奏者達である。ジャズの表情を変化させるのに影響力を持ち、なおかつこれをスタイリッシュに展開させてゆくのだ。 

 

1920年代の至高の編成によるトリオの数々を除けば(名コルネット奏者のビックス・バイダーベックがピアノを弾いてサックス、ギターと組んだものや、ジェリー・ロール・モートンがジョニー・ドッズとベイビー・ドッズの兄弟と共にクラリネット、ドラムスで組んだものなど)、一般に最初期のピアノトリオと目されているものには、1930年代にクラランス・プロフィットやナット・キング・コールが率いたアンサンブルも含まれる。こういったバンドはピアノ、ギター、ベースで編成される。アート・テイタムも用いたものだが、実は彼は、1944年には既にベース、ドラムスとの編成に取り組んでいたのだ。ビッグバンドという大編成の楽団を率いるベニー・グッドマンもスウィングトリオに取り組んでいる。彼はジーン・クルーパをドラムに、テディ・ウィルソンをピアノに(左手でベースのパートを代わりに弾いた)それぞれ起用した。カナダ出身のピアノ奏者オスカー・ピーターソンは、説得力のある表現と華麗な技術で知られているが、その評判の大半は、彼のトリオでの取り組みによるものである。当初ドラムスの代わりにギターを編成に入れていたが、1959年にドラム奏者のエド・シグペンをそれまでのギター奏者に替えて起用している。デューク・エリントンも、1950年代から、自身のバンドのリズムセクションによるトリオを手掛けている。同じ様にエリントンの注目すべきレコード作品が幾つかある。ベース奏者のチャールス・ミンガス、ドラム奏者のマックス・ローチらとのトリオだ。他にも優れたトリオの演奏者としては、エロル・ガーナー、ハンク・ジョーンズアール・ハインズ、フィニアス・ニューボーン・ジュニア、バド・パウエルマッコイ・タイナー、ハンプトン・ホース、アーマッド・ジャマルポール・ブレイ、そしてなんと言っても、1950年代以降全てのジャズピアノ奏者達に影響を与えたビル・エヴァンスである。 

 

ビル・エヴァンス・トリオといえば、3つの各パートが対等な立場にある。キース・ジャレットが最初に組んだトリオ(チャールズ・ヘイデン、ポール・モチアン)の手本となったトリオであり、もしかしたら2番目のゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットとのトリオにとっての方がお手本になったかもしれない。結成直後から、最新アルバム「サムホエア」(2009年)まで、3人の名前はアルバムのカバーに、同じ字の大きさと同じ印字の目立ち方でで「キース・ジャレットゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネット」と記載されている。これはおふざけでもなければ、なにかごまかそうともしていない。上下関係の存在に対する、ある種の拒否表現である。同じ拒否反応をシェアしているのが、モーツァルトからブラームスチャイコフスキーといった名作曲家達によって受け継がれた同じ拒否反応である。同時に彼らは、「ピアノトリオ」などという表現は理にかなわない、ということを世に訴えることで、このアンサンブル形式の地位の向上に努めてきた。こういった作曲家達にとっては、ピアノが弦楽器群の上に君臨してるなどというのは、言葉に既に現れてしまっているものの、音楽的な側面から鑑みるに、喉に刺さった骨のように厄介なものだった。彼らは3人一組でのやり取りを模索していた。3つの全然違う楽器の音色を対比させることで、概ね同じような弾き方をしていても、それぞれの役割を果たすことになるのだ。 

 

もしもキース・ジャレットゲイリー・ピーコック、そしてジャック・ディジョネットの3人が、自分達の音楽活動を縮小してこのプロジェクトに懸けていたら、30年にも亘る期間彼らが活動を維持できたかどうかについては、何とも言い難い。当然そのようなことはなかったし、特にジャレットにとっては、このトリオのプロジェクトは、単に「沢山あるうちの一つ」として取り組むものだった。3人はコンサートやツアーのたびに顔を合わせるわけだが、それ以外の時間は、自身の目指す高みへ向かう悪路を突き進んでいたのである。更に驚くべきは、皮肉なことに、ジャレットも、ピーコックも、そしてディジョネットも、ジャズのスタンダード曲の分野において、これほどまでの活力を吹き込むことに成功したことである。トリオの演奏活動期間中、16枚ものライブ録音が、レコードやCDでリリースされた。もう一つのスタジオ収録作品は、1991年に亡くなったマイルス・デイヴィスへのオマージュとしてのもので、彼らを夜に知らしめる出発点となった、マンハッタンのザ・パワー・ステーションで録音された。他にもさらに4枚のCDがあり、収録曲の多くはキース・ジャレットが作曲したものである。 

 

スタンダードナンバーと呼ばれる作品には2つの役割がある。一つは永遠の人気曲として、もう一つは後世に残る楽曲の基準を示すものとして、である。多くは32小節の「AB」もしくは「AABA」形式であり、ハーモニーもI、IV、V、Iというコード進行を伴う。こうした楽曲形式の原点は、19世紀の民謡や愛唱歌にも見受けられるとは言え、全体的に見れば、スタンダードナンバーとは、20世紀前半のアメリカのエンターテイメント業界による産物である、と言える。これらの楽曲は、幅広い性格を持ち、出来映えの差も相当幅がある。それ故に、楽曲の持つほのかな雰囲気や旋律のひねり具合が、巧妙に無駄なく作られていることに対して、肯定的な評価がなされている。そうかと思えば、ありきたりなお涙頂戴の雰囲気や、下手くそで使い古されたようなサウンド作りをして出来上がったメロディに対して、否定的な評価もなされている。だが、音楽というエンターテイメントの世界でも安定感のまるで無い分野にあって、これだけ幅広く様々な作品があることについて、どのような感想を心に抱いたとしても、「ザ・グレート・アメリカン・ソングブック」という殿堂に入れてもらいたければ、いかなる場合も、メロディは簡潔な形で、そして無駄なく親しみの持てる歌い易さが必要だ。ところが、こういった条件は、スタンダードナンバーの作曲家の中でも重鎮とされる一人ジェローム・カーンも認識しているように、客観的な尺度できちんと抑えてゆくことが容易ではないことは、誰が見ても明らかだ。彼のミュージカル「ロベルタ」が1933年に初演された後のこと、「煙が目にしみる」にせよ、「イエスタデイズ」にせよ、ある一人の音楽評論家が下した評価は、ジャズのスタンダードに携わる物全てにとって、金槌で頭を殴られるような衝撃的なものだった。彼曰く、このミュージカルには、上演後ホールを出た時に、口笛や鼻歌で思わず出てくる曲が、何一つ無い、とのこと。 

 

これを頭に入れておくと、1940年代にビ・バップの革命的な音楽が世の中に与えてた衝撃の凄さが、理解しやすくなる。ビ・バップでは、スタンダードナンバーは依然としてインプロヴァイゼーションのベースとして使用されていた。だが一番肝心な要素であるメロディは、完全に無視されてしまっている。一方で和声進行、あるいは和声の変化の仕方は、引き続きその役割を果たしていた。こんな具合にして、マイルス・デイヴィスの「ドナ・リー」は「インディアナ」という楽曲を当てはめたものであるし、「チェロキー」はチャーリー・パーカーの「ココ」に形を変え、「アイ・ガット・リズム」はディジー・ガレスピーの「アンソロポロジー」やレスター・ヤングの「レスター・リープス・イン」と言った具合。原曲のもつ軽やかな曲想は、ビ・バップ特有の主題/モチーフの歌い方という新時代の仕組みの中に組み込まれると、もはやその面影すら感じ取ることは出来ない。 

 

従前からキース・ジャレットといえば、魅力的なメロディを弾かせたら右に出るものはおらず、スタンダードナンバーの主題の素材を、常に高く評価してきていた。ジェローム・カーンリチャード・ロジャース、ハロルド・アーレン、コール・ポータージョージ・ガーシュウィン、ヴァーノン・デューク、ヴィクター・ハーバート、ヴィンセント・ユーマンス、ホーギー・カーマイケル、ハリー・ウォーレン、アーヴィング・バーリン、クルト・ヴァイルといった作曲家達が持っていた、溢れんばかりのメロディを創り出す才能が、失われてしまう危機にあると、キース・ジャレットは何度も何度も言及した。「スタンダードナンバーが過小評価されているのは、メロディを作る難しさが知られてないからだと思う。」優秀な作曲家はこれを理解しており、メロディを作る才能のある同業者に一目置いている。そういった同業者の中には、正当な言い方どうかわからないが、「ウケればそれでいいと思っているヤツ」とみなされている人達もいる。アルノルト・シェーンベルクに言わせれば、ジョージ・ガーシュウィンは、20世紀前半のアメリカの作曲家の中では最も重要な人物の一人である、という。そしてヨハネス・ブラームスが、ヨハン・シュトラウス二世作曲のワルツ「美しく青きドナウ」の序奏部分を数小節書き、その下に、かの有名な「作曲者が自分でなくて無念」と書き込んだその理由を、ブラームス自身は良く理解していた。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.127-130

ケルン・コンサート」が1975年リリースされた際の論評の熱狂ぶりはこれに先行した2作品フィエシング・ユー」「ソロ・コンサート以上のものだった中でも最大級の賛辞を贈ったのが、「ローリング・ストーン」誌に寄稿したロバート・パーマーである。すでにテリー・ライリーやラ・モンテ・ヤングらによって知られていた「トランスインダクション」(催眠誘導)の域に深く達している音楽だ、とロバート・パーマーは記している。「この魅力には誰もがすぐにハマるし、これこそがジャレットの凄さである。誰もが馴染みのあるメロディやハーモニーのネタから、誰も聴いたことのない、そして予想すらしないような組み合わせを生み出すのだ。彼の演奏は、「アヴァンギャルド」でも「意味不明」でもない、「いつも新鮮」なのだ。そして彼を見ていて感じるのは、自分の道をしっかりと歩み、音楽の垣根を完全に超越し、そして真の意味で、なおかつ最も広い意味で、人々に愛される演奏家となっている、ということだ。」この録音を聞いた「ダウン・ビート」誌の論説委員達は、その頑固なまでのブレの無さもさることながら、その耳を疑いたくなるほどの無駄の無さと透明性である、としている。「彼のピアノ独奏は音楽の世界では他に類の無いものであり、「ケルン・コンサート」は、その中でも最も感動的で、そして彼の「類の無さ」を最も良く説明するものである。」 

 

これらの論評を読んでいるとこの作品を単なる音楽芸術作品としてではなくあらゆる芸術作品の中にあっても極めて非凡なものとして、捉えている傾向を垣間見ることができる。これにより「ケルン・コンサート」は新しい時代を切り拓く象徴となってゆく。実際、もしこのレコードよりも10年早く、チェ・ゲバラだのアンジェラ・デイヴィスだののポスターが、共同アパートだの生活共同地区といったような場所に飾られていたら、「ケルン・コンサート」の真っ白なカバージャケットが、世界中の学生アパートののレコードラックを飾ることはなかっただろう。ジャレットの音楽には、その時代がストレートに現れていると思われているのと同時に、過去にも光を当てるとも思われている。フリージャズがその受難の時代に在った頃と言えば、世の中では「芸術」を定義し直そうという動きがあり、アファーマティブ・カルチャーに甘んじる傾向に対し反旗を翻してゆく。和声、通奏リズム、演奏における「主従」のバランスのとり方等、あらゆる既存のものに対し、ミュージシャン達は抗い始めた。ところが、である、キース・ジャレットは「何でも反対」的風潮からは距離を置き、自らの自由意志によって、あらゆる既存のものをネタとして扱い、更には、素直に楽しめるものを表現してゆくことに、一切のブレを生じさせないことを、世に示してゆく。 

 

リチャード・ウィリアムスは、著書ブルーモーメントの中でマイルス・デイヴィス最高傑作とされるカインド・オブ・ブルーについて女優のクリスティーン・スコット・トーマスが、その魅力と自身の身の上話を語ったものを引用している。その話の内容と似たようなことを「ケルン・コンサート」も連想させる、と言えよう。なぜならこの2つのアルバムは(制作の経緯や方法の違いはかなり大きくあれど)フランツ・ヴェルフェルが分類する「示唆に富んだものを思い出させるもの」に入ることは、明らかであるからだ。「今の主人と付き合っていた頃、彼はフランス人で、ある日、彼のおばあさんの家がノルマンディーにあるというので、プジョー404に乗って行った。屋根が雨漏りするような代物だったけれど、そのカセットデッキにあったのが、「カインド・オブ・ブルー」だった。今、この曲が耳に入ってくると、懐かしい座席の革の匂い、恋愛の真っ最中だったときの気持ち、海辺を走ったこと、こういったことが思い出される。」後に「ケルン・コンサート」は様々な小説や著作で取り上げられた。その中には、ジェーン・エルモアの「ピクチャー・オブ・ユー」(2009年)や、バーティス・ベリーの「リデンプション・ソング」(2001年)などがあり、1970年代を語る上で欠かせないものとして扱われている。この作品は音楽史における一つの時代の象徴とされた。それは、スコット・ジョプリンラグタイムが「ジャズの時代の幕開け」であり、グレン・ミラー・オーケストラの第二次大戦中の編成であるサックス4本にソロで引っ張るクラリネットという管楽セクションであったりと、肩を並べるものだった。 

 

だがキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」は、一時の流行り以上のものであり今でも様々な時代の記憶を呼び起こしてくれる。発表当時の1970年代には既に、様々な分野のアーティスト達がこの作品を、文化を発信する独自の形態として、芸術分野の商業面での扱いに置いてはびこる皮肉めいた考え方に対抗する自由な精神のシンボルとして、モダニズム文化の持つコミュニケーションに対する批判的な発想、これと対等に張り合うものとして、更には、人類史上残された多くの傑作とされる芸術作品の一翼を担うものとして、見ていた。「音楽は現代的であろうとするなら、崇高なものであってはならない」とする、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの、若干皮肉交じりで、そして自信満々のモットーは、キース・ジャレットにとっても一つの指針となっていた可能性がある。精神分析学には、フリーインプロヴァイゼーションを説明する言葉が、既にある。全てをその場で発信する音符に込めるという、夢遊病者のような能力がもたらすべきもの、として、「中断された注意」という。この精神状態は文筆家達にも見られる。その一人がマルグリット・デュラスだ。「私がペンをとると、集中力が極端に低い状態になる。私はただの「ふるい」、既にそうなったと自認する。頭の中は穴だらけ。」マルグリット・デュラスが、キース・ジャレットとの間に見出したつながりがある。放っておいてもどんどん出来上がってゆくインプロヴァイゼーション、あるいは「自動インプロヴァイゼーション」の一種としての、キース・ジャレットのフリーな演奏方法と、彼女自身の作文方法である「自動作文」という、同じ言葉を繰り返してしまったり、意味不明な言葉を使ってしまったり、波があったりするという、流れるような書き方、この2つにつながりを見出したのだ。彼女は著書「苦悩」という、自分の日記のようなスタイルの、カブール(ノルマンディー)からの年代記の中で、情夫に対する敬意を表そうと、ジャレットのピアノをファウンド・オブジェとして取り込んでいる。「我に描かれし幾つもの夜は、言葉として残され、今より、終わりも目的も持たない。既に夜の帳は残忍なものとなる。カジノはどこも静まり返り、ダンスホールはどこも酷い空虚さに満ちている。その中で、賭け事をする部屋はどこも人が溢れかえり、重たいカーテンの向こう側には、キース・ジャレットのグランドピアノが、その魅力と輝きを放つ。」 

 

ジャレットの持つ、人の想像力や連想力を掻き立てる創造性は、「音楽を使って、きっかけもなく物事を思い出させる」として、デュラス以外にも、彼女以上に利用されている。ジャレットが天才的手腕を発揮した4年後、ロバート・ウィルソンが舞台作品を発表する。ミュージカルラブストーリーで、全16場。初演の会場はベルリン・シャウビューネで、作品名は「デス・デストラクション・デトロイト(死、壊、デトロイト)」という。その付随音楽として、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」がバッチリハマっていると思われるのが、第9場である。この作品は、上演時間6時間、19人のダンサーやピクチャーリドル(字幕で、人に問いかけるようなメッセージを投影する)が用いられ、夢遊病者を彷彿とさせる振り付けがなされている。ウィルソンの劇場用作品は、ストーリーがなく、ベースとなる舞台理論もなく、時系列も全く意識されていない。ジャレットは延々ぐるぐる回るような音楽作りをすることがあるが、これは演劇作品で特に意味なくなされる舞台上での行為を、音楽で行ったようなものである。歌詞のない歌と、主題のない演劇、というわけだ。 

 

ジャズ音楽はその演奏者達をご覧いただくと分かる通り奏者自身を表現しているのみならずそこに体温のある思いが込められている。キース・ジャレットは常にそう演奏している。心、魂、そして考えを込めるのだ。アメリカの抒情詩人であるロバート・ブライは、ライナー・マリア・リルケの詩の翻訳でも知られるが、彼がジャレットの革新的な美的感覚に触発されているのも、うなずける。一方ジャレットの方も、ブライの詩をいくつか盛り込んだのが、彼が注意深く編集を施した、本のようなレコードカバーである。彼の詩「When Things Are Heard」(題意:情報が耳から入ってくる場合)の中でブライはジャレットの演奏について触れている 

 

君が情熱の炎を燃やさねば、力の源は生まれない 

だから、君が信じられるものを求めるならば、その炎の中に身を置くことだ。 

 

自分の日記を書く時は自らを告白することになる。映画監督であり、自身の作品に出演もするというナンニ・モレッティが、自らの心の内を映画にしたのが、「親愛なる日記」(1993年)という3つのエピソードから成る作品だ。奇妙な日記の体をなしており、イタリアを旅する各場面は、お互い関連性はあるものの、秩序はまったくない。その中で主人公はとりとめもなく旅を続ける。作品自体は、見る人が興味を持つかどうかはお構いなし、といった印象だ。映画の最初の場面では、モレッティピエル・パオロ・パゾリーニに関する文章を読んでいる。そして彼愛用のバイク「ヴェスパ」に飛び乗り、向かう先は、パゾリーニが轢殺された場所(オスティア海岸)である。荒涼とした浜辺、道路脇の鶏よけ用金網、あばら家が数軒あるその風景に添えられる音楽が、「ケルン・コンサート」である。同じ北イタリアでも、ピンク・フロイドのサントラが添えられた、アントニオーニ・ミケランジェロ監督の作品に見られるような、開けた街の風景とは、全く違う。 

 

当のキース・ジャレット本人は、「ケルン・コンサートに対しては両極の思い抱いている世間が音楽面での成功と見るであろう(と言って、そう思うにあたっては、何かしら芸術面を推し量る物差しを使うわけでもない)ことに対しては、どれもこれもジャレットは既に、不安と不満を感じるような関わり合い方をしていた。先述の通り、ここでも見え隠れするが、「商業目的」という言葉が絡むと、ジャズミュージシャンは不信感を何事に対しても抱くのは、未来永劫つきまとうことだ。当然ながら、ジャズミュージシャンだって自分の作品が認められるよう努力しているし、そう願うことすらある。だが、いざそれが大規模に実現してしまうと、今度はそれを振り払おうとする。それはまるで、「お金ウィルス」に感染したら重症化する、と怖れているかのようだ。 

 

ジャレットは、これまで受けた数々のインタビューの中で、今でも「ケルン・コンサート」を聴き返すのかについて、今まで隠していましたがと言わんばかりに語っている。「いいえ、本来ありえない余計な音が多すぎるものですから… その設定の仕方が気に入らないのです。仮に録音し直すとしたら、僕が曲中から削ろうとする音の数に、皆さん信じられない思いをなさるでしょう。」更によくわかるのが、音楽学生にお薦めする自分のレコード作品について答えた、2009年10月のスチュアート・ニコルソンとのインタビューだ。「ケルン・コンサートについては、面倒くさい事情がありましてね。まず当時と今とでは、ピアノの弾き方が違うのです。ですから、ピアノ奏者として聴くなら、今のタッチの仕方は、まるで聞こえてきません。適切な音量変化もついていないし、僕自身もそう弾いていない。ですが、演奏中に、様々な断片が勝手に組み上がっていったような場所がありましてね、そこは僕の他の作品の中には、見られないようなものです。ぶっつけ本番、ピアノも予定外の代物、でもそういう思いが頭の中でグルグル回っていて、僕はまだ若輩者でしたからね。結果として出てきた音色や表現は、そういう思いがでているわけでして、当時そんな演奏をする人なんて誰もいないわけですよ。ですから、アルバム発売のタイミングというものは、その時それがどのように受け入れられて、そしてどのくらい生き長らえるかが、大いにカギとなります。そして気に入ったものとなるまで、ずっと続いていくわけです。ですからお薦めは、「テスタメント」と「ケルン・コンサート」、それとちょっと抽象的ですが「レイディアンス」なんかが、いいんじゃないでしょうかね。 

 

ケルン・コンサート」を会場で聴いた人々と、同じ年齢層の今の音楽ファンにも、このアルバムが訴えるものがあるという。その背景や理由について分析調査したものについては、これといったものは見当たらない。当時会場にいた人々の中で、今でも当時の録音を聴く人の多くにとっては、演奏に込められた情熱、ネタとして扱われたジャズやゴスペルあるいはアメリカに昔から伝わる楽曲、ロマン派音楽のやや冗長な演奏の持ってゆき方、しつこいまでのリズムのパターン、これらは皆まとめてコンパクトで色とりどりの一品としてまとまり、古き良き日の物語として、長年に亘り人々の知る処となり、何度でも聴いてみたいと思う作品となった。このレコードから聞こえてくる数々のサウンドには、過ぎし日の物語が息づいているのである。

「喰らふべきアーティスト」キース・ジャレット

キース・ジャレットは、「珍味/珍獣」でなく、日々の糧として「喰らうべきアーティスト」。なぜなら、彼は、「基礎」と「独自性」が確かで、かつ多彩さで人を魅了する…彼の伝記を半年読んで、そう考えます。因みに私は不勉強で、彼の伝記を読み始めるまでは、殆ど彼のことを知りませんでした。

どんなエンタメも、取っ付き難いものはあります。でも食わず嫌いを棄てれば、楽しみが広がるだけでなく、この世界に自分とつながるものが増えて良いと思います。

以下、石川啄木の随筆「喰らうべき詩」の抜粋です(彼と石川啄木との関連性は、全く関係ありません)。

 

くらうべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。
 う心は、両足を地面じべたに喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つのみちである

 

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.123-127

8.あるカリスマ的レコードの歴史 

 

ご存知の通り、「偉業」の多くは偶然の産物ではなく、手塩にかけて創られるものだ。時にはそれが、意図せず、そして不本意ながら創られることもある。そういった「偉業の創り主」が一人もいなかったのが、1977年の国際現代音楽祭である。この年はフランスのロワイヤンで開催された。その中にポーランドの作曲家ヘンリク・グレツキがいた。「交響曲第3番」という南西ドイツ放送(バーデン・バーデン)による委嘱作品の初演に立ち会っていたのだ。5度の和声をふんだんに使用したこの曲の作者は、かつてセリエリズムの作曲家でありオリヴィエ・メシアンの門下生であった。だが開催地フランスの大御所ピエール・ブーレーズを取り巻く前衛主義者達の興味関心は、文字通り微動だにしなかったのである。一般大衆はこのイベントの存在を、全く知らなかった。ガラッと状況が変わったのが、この交響曲を、フランスの映画監督モーリス・ピアラが「刑事物語」(ジェラール・ドパルデュー主演)のサントラに使ったことだ。更には、90年代初頭のこと、イギリス・イングランドのある独立系ラジオ局が、番組のいくつかにテーマ音楽をつけようと、大曲をいくつか候補にした中に、グレツキのこの交響曲が入ったことである。「交響曲第3番」の第2楽章がテーマ音楽の第1号になったのは、偶然ではないし、不思議なことでもない。ラジオ局の担当者達が鋭いカンを働かせたこと、そして、この作品が、「効果的な販売戦略」であるMAYA(新しいものの誘惑と、未知のものへの怖れとの、絶妙な臨界点)に、完璧にハマるように書かれていた、ということなのだ。別の言い方をすれば、商材(そしてこのカテゴリーに入る芸術作品)とは、新鮮さと親しみやすさの両方を兼ね備えていれば、自ずと成功するものだ、というわけである。1977年当時のロワイヤン国際音楽祭のマーケットに無くて、1992年に存在したもの、それは、この交響曲が、ほぼ四六時中ラジオで放送されていた、という事実である。この曲のCDは、発売後1年で30万枚を売り上げ、本書執筆中の現在(2020年)の売上は100万枚まで伸びている。 

 

 

 

グレツキ交響曲が初演されたのが1977年。その2年前の1975年1月24日、キース・ジャレットが、渋々、そして不本意ながら、腰を下ろしていたのが、「こんなのありえない」というピアノの前だった。時刻は夜の11時過ぎ。ケルン歌劇場での本番が始まるところだ。この本番を、彼はキャンセル寸前まで思いつめていた。ピアノは最悪だし、他にも色々と齟齬が生じていた。それを思いとどまらせたのが、彼の責任感であり、当日来てくれた満員のお客様であり、すでに頑張っていたスタッフチームであったのだ。マンフレート・アイヒャーとマルティン・ヴィーラントにより、この本番は録音され、雑音等クリーニングがかけられた。このあたりは、昔の絵画が取り繕い修正をかけられて売りに出されたのを彷彿とさせる。そしてリリースされたタイトルが、これまた味も素っ気もない「ケルン・コンサート」である。当初は2枚組LP、後にCDとなり、総売上は400万枚に及んでいる。ジャズのソロアルバムとしては、今のところ史上最高の数である。だがグレツキのCDと違って、「ケルン・コンサート」は、どこぞの団体が宣伝目的で使用するため後ろ盾についたわけでもなく、冷徹かつ計算づくのマーケティングシステムに従ったわけでもなく、この人気ぶりを勝ち得たのだ。ある程度の処までは間違いなく言えることだが、このアルバムの成功の理由は、依然謎である。それはキース・ジャレット本人にとっても、である。 

 

このコンサートを巡っては、これまで頻繁に話題にされてきた様々な状況があり、それがこの後リリースされたレコーディングに、大いに伝説となって華を添えた。この音源は、後に近代ジャズ史における最大の語り草となってゆく。1975年1月17日、ドイツ・アッパーフランケンのクローナハから始まった、キース・ジャレットのヨーロッパツアーは、パリのシャンゼリゼ劇場を締めくくりとする11会場を巡るもので、ケルン歌劇場は、その5番目の会場だ。当時はマンフレート・アイヒャーがまだキース・ジャレットの運転手となって、会場間の移動に、自家用車ルノーR4のハンドルを握っていた。そして、ローザンヌからケルンに到着したときには、時刻も遅く、2人共ヘトヘトだった。現地でジャレットは、情報のくい違いが在ったことを告げられる。指定したコンサート用グランドピアノ(ベーゼンドルファーのモデル290インペリアルで、すでに準備されて奈落に置いてあった)ではなく、舞台クルーがエッチラオッチラ転がしてきたのは、何とベーゼンドルファーベーゼンドルファーでも、小型のグランドピアノだったのだ。更にこの楽器は合唱練習に使っているもので、ボロボロの、音は酷く、高音域にはまともに鳴る音がなく、右のペダルと鍵盤のいくつかが故障していた。単に舞台クルーが間違えただけなのか、それともケルン歌劇場の担当者が常日頃から「ジャズミュージシャンなんて小型グランドピアノで十分だ」と思っていた現れか、未来永劫、真相は明らかにならないだろう。もっとも後者の方は、多くのジャズミュージシャン達が興行主やホール側との折衝の際に舐めさせられた辛酸の数々を思うと、あながち無いとは言えない。ともかくジャレットは、このヒドイ楽器では弾けない、と考えた。話し合いがメンツを替えていくつか時間をかけて行われ、現状をすべて考慮し熟考を重ねた結果、ようやく彼は本番に臨む決意を固めた。だが面倒は他にもあった。極度の疲労と、かねてよりの腰痛もさることながら、彼もマンフレート・アイヒャーも、時間の無い中その辺のイタリアレストランで食事を腹に詰め込む羽目になった。これでは本番全体に影響が出るのは必至で、殊、演奏に期待を高く持つなど、ありえないように思えた。 

 

 

結果は予想を覆すものとなった。ジャレットは所謂「火事場のクソ力」を発揮する。触れる鍵盤やペダルを限定し、集中力を切らさなかった。インプロヴァイゼーションも圧を強くして、というより、より適切に言うなら、感情をしっかりと込めて進めていった。その様は、まるで劇場のミューズが彼に取り憑き、そして、「崇高な美しさを持つメロディ」と、「相当な不細工さを持つメロメロ」との、紙一重の境目を越えぬよう導いているようだった。何がこの収録を大成功に導いたのか、そしておそらく高い評価を得たであろう要素の大半は何か、と考えると思いつくのが、次々と生み出されるメロディや装飾音符に対して、ハーモニーが制限されていたことである。結果として出てきたものは、誰もこれまでに聞いたことのないような代物に思えたのだ。3和音の時代は終わったのだと理解していない輩に、全員まとめて喝を入れようとして、アルノルト・シェーンベルクが言い放った言葉に、今後もハ長調の楽曲は数多くでてくるだろう、というのがある。その証明が必要なら、「ケルン・コンサート」を聴くとよい。これまでの音楽史上様々うまれた和声に関する原則が、現代のより新しく高度な概念にそって、変貌を遂げて生き残ってゆく様が、堂々示されている。 

 

自身の音楽観に関する美意識を、ジャレットはリズムのオスティナート(繰り返し)や3和音へのこだわりという形で表現した。それに明らかに賛同したであろう、彼の同世代の多くは、1960年代、政治や社会、そして個々の在り方においても自らを解放していた。だが彼ら自身の新たな自由というものに対する意識の中で、自分と対峙する物の考え方を受け入れる準備がままならず、伝統だの因習だのと言ったものが見え隠れすると、全て拒絶するのであった。テオドール・アドルノというドイツの社会音楽学者は、何かと物議を醸す彼の講義の中で、「耳障りの良いパッセージ」ばかりを有難がる傾向を批判した。そういうメロディを楽曲全体の手の込んだ構造の中から、「いいとこ取り」をしたり、「子供みたいに同じ節をしつこく繰り返したり」することに異を唱えた。抗いがたいご意見で、そうなると、「ケルン・コンサート」のような作品の魅力を理解しようと、他の有識者達にも訊いてみたくなる。この音源を聞いていると、その素晴らしい魅力から、引き合いに出したくなるのが、シューベルトの「冬の旅」や、ショパンノクターン前奏曲、あるいはポロネーズなどに見られる韻律的にも自由なフィオリトゥーラ(メロディにつける修飾)のように優雅さを持つ手の混んだ表現といったものである。更には、様々なサウンドが、新鮮であり、独特なものであり、純真さが漂い、低俗さすら感じてしまう。だからこそ当時の若者達は、そういったサウンドに自分達を重ね合わせることができたのだ。一つ、「耳障りの良いパッセージ」と呼ばせていただけるなら、として、「ケルン・コンサート」パート1の演奏開始約7分後に突如現れる、旋律的なモチーフは、フランシス・レイ監督の「ある愛の詩」(1970年)という、アリ・マッグローライアン・オニールという夢の組み合わせが出演した映画を、かすかに思い出させる。サントラには、魅惑的な減6度の和音が使われ、当時の全ての若者達の涙を誘った。ここでアドルノ先生には悪気はないが、彼の知的な厳格さよりも、フランツ・ヴェルフェルの知恵を拝借する。フランツ・ヴェルフェルの次の言葉は、「ケルン・コンサート」のことを言っているようだ「交響曲第9番と、喪失感を心に抱いて手回しオルガンで演奏される流しの歌、比べてみれば同じもの」。 

 

だがケルン・コンサートの方はさすがに、「耳障りの良いパッセージが2つ3つ」以上のものをもたらしてくれる。インプロヴァイゼーションという独自性の塊でありながら、一定の体裁と一貫性を持ち合わせているところは、驚くべきというほかない。数々主題はいずれも独自性があり、示導動機から展開部、再現部という流れ、変奏形式やロンド形式までもが、しっかりとした手綱さばきで駆使され、均整の取れた適切な形で聴衆の前に供される。まるでジャレットが事前に準備したのでは、と思いたくなるほどだ。全音階による和声の枠組みは、ビ・バップの手法による調整や変更を一切用いず、主音でフレーズを終わらせるようなこともせず、そうすることで、ジャレットは自分の紡ぎ出すメロディラインの数々を、いちいち主音で終わらせる必要もなく、自由闊達に繰り広げることができるのだ。ジャレットのインプロヴァイゼーションは、同じメロディをそこかしこに使い回すようなことはしないが、地震の規模を表すマグニチュードのように、天井知らずの自由な展開を見せる。使ったピアノは欠陥だらけだったが、昔からよく言われるところの、制限のない自由な状況よりも、制限がある状況のほうが、あれやこれやと物事を次々と生み出す上では、より効果的であるということを、体現しているようである。 

 

パート1」の出だしは当たり障りないリズムの素(ここでは♪♬)が、その日の演奏全体の土台となり、様々な変奏へと形を変えてゆくのを、実際にやってみせるといった趣である。はじめの3つのパートでは、このモチーフを使う。これを発展させてシンコペーションのかかったフレーズにすると、16分音符―8分音符―16分音符という並びになり、ケークウォークやラグタイムと言った、アフリカ系アメリカ人の影響を受けた音楽によく見られる形になる。4つ目のパート「パートIIc」、実際はこのコンサートのアンコールであり(別にこのアルバムに限った話ではない)、外の部分と比べると、幾分特殊なケースとなっている。ここではジャレットは、これまでに作曲したものをインプロヴァイズしている。何もないところから次々と音楽を紡ぎ出してゆく「自由な演奏」ではない。 

 

このコンサートで最高の腕の見せ場がくるのは、どちらかというと深く物思いにふけるような瞬間で、それは最初の部分に現れる。ここでジャレットは、左手はAマイナーとGメジャーを行き来し、右手は鳥が自由に歌うかのように印象的な手の込んだ表現を形作る。この演奏は、いかなるテクノロジーをもってしても、楽譜に書き起こすことは不可能である。岸波由紀子と山下邦彦という2人の日本人ミュージシャンが、実際にケルン・コンサート全編を譜面に書き起こしたのだが、彼らをもってしても音符にするのがほぼ不可能という困難に直面したのが、彼の思い描いたストーリー性である。微妙な差異をつけたタッチ、ほのかな音量変化、凝った歌い方、コントロールの効いたルバート(テンポを落としながら演奏する方法)と音量の増減(こんなピアノでもできるのだと感心するが)、これら全てが、ストーリーの持つサウンドの骨格を形作る。この骨格の、本当に驚くべきは、それに乗ってくるメロディが自由に歌えるところにある。自然現象ではないかと思えるくらい自由で、それでいて表現芸術としてのしっかりとした構造も感じさせる。「ケルン・コンサート」の壮大なルバートのパッセージの数々で、これを耳にすることができる。ゲルノット・ブルメの論文にあるように、ジャレットは「ケルン・コンサート」と「サンベア・コンサート」において、自身のインプロヴァイゼーションと、インド北部のラーガ(ラヴィ・シャンカールなどが行っているもの)との間にいくつか見られる共通点、これらを実践してみせたのである。相違点も色々とある(ジャレットの音楽はピアノでラーガをやろうというのではない)。だがそういった違いを全て踏まえた上で、彼の新たな試みは、その大部分において、インド音楽のもつ音階旋法に対する好みが見受けられる。特にハモリを伴わない単旋律のモチーフによるパッセージは、ハーモニーの展開もなければ、持続低音が設定されていたりする。明らかに、アーティストが異なる音楽の仕組みを使いこなし、しかも「今この場で」というインプロヴァイゼーションともしっかりと向き合うとなると、音楽的にグチャグチャにならないようにするには、皆同じ様な問題を克服する必要がある。 

 

アンコールであるパートIIc」については、「ケルン・コンサート」を詳細に分析したピーター・エルスドンが、「リアル・ブック」に掲載されている海賊版のいくつかや、「モリーズ・オブ・トゥモローという名前の曲と、「パートIIc」とを結びつけて言及している。「リアル・ブック」とは、非公認(人によっては「非合法」と呼ぶかも)のジャズの曲集で、最初に刷られた時はボストンの大学生達が、自分達だけの間で練習などに使うのが目的だった。海賊版にせよ「リアル・ブック」の最初に刷られたものも、どちらも「ケルン・コンサート」以前に世に出たものだ。原則コンサートの終わりにはフリーインプロヴァイズをするのだが、これを断念し、自身の作品や他の作曲家の音楽をアンコールに使用したのは、ジャレットに言わせれば、あくまで「原則の範囲内」であって、「やむを得ない例外措置」ではない、とのことである。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.118-122

この百科事典に載っているもののお陰で、次々と生み出されるレコーディングは、いずれも高い品質なのだ。更には、キャパが大きいことも重要だ。だがこれは、ジャレットが自身の「しきたり/儀礼」を厳格に守った故の結果なのである。殆ど全てのアーティストが、何かしら非常識な日常の決まり事を持っている。そのおかげで、毎日の面倒事に悩まされること無く、高いレベルでの創作活動を続けることができるのだ。部外者から見ると、こういった「しきたり/儀礼」というものは、事情をわかっていたならば、その怪しげな雰囲気を醸し出すことによって、非凡なアーティストがその一流の状態を誇示する、そういう気まぐれな行為みたいなもの、という印象を受けるものだ。だがこういった「しきたり/儀礼」の数々は、猛烈な集中を要する状況下での、筆舌に尽くしがたい心身のストレスに耐える助けとする上で、通常絶対に欠かせないことなのである。キース・ジャレットは演奏会を開く際、当日リハーサルのあとで、本番に使うグランドピアノを3台も用意させたことが、何回かある。他にも、夕方6時前後に音響確認を終えた後、舞台裏へゆき、関係者全員:録音エンジニア、プロデューサー、付き人、それから彼の妻、彼らを伴って食事をとり、1,2杯飲んで、それからソロコンサートでもトリオのコンサートでも始める、といったことをしていた。ジャレットは何年にも亘り、移動の際には自分のベッドを持ち運び、理学療法士を一人同伴させ、マッサージやストレッチを、本番前、本番休憩中、演奏後に行っていた。ヨーロッパへのツアーの際はフランスのニースに通常滞在し、演奏会やレコーディンクのスケジュールを組んだ。そうすることで、仕事が済めば、個人でチャーターした飛行機に飛び乗り、ニースのホテルへ直行し「自分のベッド」で眠ることができるのだ。この「眠る」習慣が人を驚かせた例を一つ、2013年夏のミュンヘンで行われたキース・ジャレットのトリオのコンサートでのことである。この公演は盟友マンフレート・アイヒャーのバースデーコンサートでもあった。この日の締め括りに、ジャレットは3名を代表してマイクを手に取り、「Thank you, Manfred(有難う、マンフレート)」という3つの単語でアイヒャーを労った。演奏会終了後のパーティーにキースは姿を見せなかった。既にニースへ向かう飛行機の座席にいたというわけである。 

 

アーティストが「一番のお気に入りの作品は?」と質問されることがある。優秀な連中はよく、「今、譜面台に乗せて演奏中のもの」と答えるのだ。キース・ジャレットもその一人。最新作が出るたびに、それが彼の最高傑作と感じている。「レイディアンス」か?、はたまた「カーネギー・ホール・コンサート」か?などと聞かれれば、いつでも「今演奏中のもの」と答えるのだ。ジェフ・ダイヤーが秀作「バット・ビューティフル」で記している通り、近年最も印象的とされるジャズは、形式上の境界線上にあるものばかりである。とても「ジャズ」と区分できる音楽ではない。これは「カーネギー・ホール・コンサート」にも当てはまる。この2枚組CDで、ジャレットの演奏は、ジャズの持つありとあらゆる側面を聴く者に届けている。それが特に顕著なのが、2曲目(無題)である。ジャレットの左手が重厚なノリを聞かせる低音のリズムは、聴く者の肋骨を貫通する。その様は、バンブーラドラムを彷彿とさせる。ニューオーリンズコンゴ・スクエアで、かつてアフリカ系の奴隷達が心の慰みに集まって演奏したものだ。ジョージ・ワシントンケイブルの小説によく描かれていることでお馴染みであろう。鎖に繋がれた奴隷達の打ち付けるような音が聞いて取れる一方で、そこを包んで通り抜けるのは、奇をてらわず普通の3度/7度といったブルーノートを駆使した表情豊かで甘美なメロディ。まるで自由解放を賛美するゴスペルのようである。もしアルヴォ・ペルトがピアノ用にノクターンでも作曲していたならば、きっとこんな感じだったろうというのが、CD3曲目(無題)である。後期ロマン派の曲想と、低音部・高音部それぞれが、最低音/最高音を強調しているあたりが、きっと似た感じだったろうと思われる。ここではキース・ジャレットの腕の「魅せ所」、朗々と連続する低音の発信源が、まるでダブル・ベースの木の胴体のようで、金属製のピアノの弦が鳴らしているとは到底思えない。ジャレットのリズムをバラバラに演奏するのを聞いて、中世の音楽技法で、2人の歌手が一音ずつ交互に歌う「ホケトゥス」という演奏方法を思い出した方、そして、ジャレットが思い切り手指を広げて演奏するのを見て、セロニアス・モンクの型破りな演奏方法を思い出した方、あながち的外れではない。「カーネギー・ホール・コンサート」に出てくる古い音楽のリズム、「ラ・フェニーチェ」に出てくるブルースを思わせる音楽、「クリエイション」に収録されている2014年のソロコンサートで聞かせたインプロヴァイゼーションの、天から鐘の音が降ってくるような、そして教則本でも弾いているかのような剛毅さ、これらのいずれかでも耳にしたなら、どんな音でも一旦耳にしたら「これぞキース・ジャレット」というサウンドにしてしまう鬼才のピアノ奏者が、その霊感を遺憾なく発揮し続けていると、誰もが思うことだろう。 

 

音楽の歴史を紐解くと楽曲とその作者の生き様を結びつけて考えようとすることが、繰り返し行われている。だがこの様な短絡的な行為は間違えであり、ジャレットの例もそうである。彼のインプロヴァイゼーションによる演奏を収録したものに「パート1―10」といった簡素な番号を打ってみたり、公演開催地をレコードのタイトルにしてしまったり、このようなことを見ていると、当時の彼の私生活の有り様だの、心理的状態だのを勝手に決めつけられたくないという意図が見え隠れしている。極稀に彼は、収録曲の個人的な背景を匂わせることがある。この例の一つが「ア・マルティテュード・オブ・エンゼルス」。病気直前の作品である。そして回復直後の作品が「アフターザ・フォール」。インプロヴァイゼーション偏重を終えた1996年、そして新たな美的追求を始めた1999年、2つの作品はその印である。2つともリリースされたのは、収録後20年後。随分時間がかかっているが、その分じっくり間をとったとも言える。「パリ/ロンドン」も同じ様に彼の個人的な事情によるところがあり、副題を「テスタメント」(誓約書/財産分与の覚書)としたのも頷ける。パリのサル・プレイエル、そしてロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでの公演後間もない2008年の暮れに、キース・ジャレットの2番目の妻ローズ・アンは、彼に三行半(みくだりはん)を突きつける。結婚後30年のことであった。これが当時の彼にとって何を意味したか、この3枚組CDのライナーノーツを読むと、そのきっかけが掴めそうだ。黒いリボンで束ねられたこのアルバムで、かれはその思いを包み隠さず示している。ビ・バップ風のマンボのリズムにせよ、高揚感のある感情表現にせよ、ジャズワルツだのポップス風の楽曲にせよ、その一つ一つの音が、ローズ・アン・コラヴィートへのオマージュの様に響き渡る。 

 

 

2011年4月リオ・デ・ジャネイロ市立劇場で収録されたライブ音源もまた、ジャレットの生活の一端を聴き手に覗かせる。だが「パリ/ロンドン:テスタメント」と比べると、見え隠れするものは、明るく輝いている。「リオ」の方は、自由な息吹が感じられる音楽であり、気ままな雰囲気のアルペジオを多用し、フランツ・リストの「巡礼の年」第3年に出てくる4曲目「ティボリ・エステ荘の噴水」を彷彿とさせる。のりの良いスウィング満載の音楽は、キース・ジャレットも認めている通り、新しい恋人、ヤマザキアキコという日本の女の子がそのカギとなっている。トリオの東京公演の際に出会い、その後間もなく3番目の妻となる人である。だがここで少し理性的に物事を捉えよう。私生活に関する情報が頭に入ると、作品の聴き方はより音楽的な方向へと向かうことは、これまでも証明されている。頭に入った情報は単に人をその気にさせてしまう可能性もあり、そうなると、実際にどんなサウンドであるかとか、客観的に気づくはずのことに集中することとか、そういったことが結局無視されてしまう羽目になる。こういう現象を完全に排除することは不可能とはいえ、時に外部情報があまりにインパクトが強くなってしまうと、音楽以外の要因に影響されて音楽を聴くことを疑う考え方が、どうしても頭から離れなくなってしまう。 

 

 

 

2016年7月14日の夕方のこと。この日フランスは「パリ祭」で祝日であった。ニースに滞在中だったキース・ジャレットと妻は、気分転換に散歩に出る。ほどなく戻ろうということになり、海岸遊歩道の「プロムナード・デ・ザングレ」沿いにある常宿へ向かった(当時はますます行われなくなってしまったヨーロッパでのソロコンサートツアー中の、かねてよりの滞在地であった)。地元住民達はどうしても騒ぐし、観光客も無邪気にはしゃぐしということで、彼らを避けたかったのである。海岸遊歩道は車両が入ってこれないように防御壁が設置されていた。2人が戻ろうとなったその直後、男が一人、白いトラックに乗って、その防御壁へ突っ込んできた。トラックは人でごった返している遊歩道を突っ走り、沿道の家屋番号11から147まで、距離にして1.5マイルを次々人を撥ねながら走行した。これにより21カ国から訪れていた86名が犠牲となる。フランス警察との銃撃戦の末、犯人は射殺された。このイスラム原理主義者によるテロ攻撃は、近年では最悪の事件の一つである。事件の2日後、キース・ジャレットミュンヘンフィルハーモニーホールでのコンサートに臨む。チケットは完売であった。この模様は、3年後にECMからライブ録音としてリリースされ、彼の栄光に満ちたキャリアの中でも、ひときわ輝くものとなる。 

 

公演後キース・ジャレット親しい友人達や仲の良い知り合い達と集まった。。この日の彼はどこか興奮気味だった。ソロでの公演後は大概そうなのだが、この日の夜は、彼の口をついて出てくる話は、殆ど2日前の事件のことばかりだった。自分にも妻にも一歩間違えれば惨劇になっていたかも知れないテロであった。この事件から受けた恐怖心は、依然として彼の表情に現れており、心理的にも、またそれが指先にもくすぶっていた。 

 

ミュンヘン2016」開演後、約14分ほどの録音(タイトル「パート1」)を聴くと、この公演が異様な雰囲気で始まったことが、ハッキリと伺える。明らかに、ジャレットが即座にやりかたったことは、ホール内を音で埋め尽くしたい、ついてはあらゆるサウンドを洪水のように撒き散らし、何らかリズムのきまった形に収まってしまう前に、考えられるコード進行をランダムに全て発信してしまいたい、ということだった。最初の演奏にはありとあらゆる表現を伴う演奏がほとばしっていた。転げ回る音の連続、騒々しいほどの音の塊、全音音階とドシドシと響くコード、それらから次々とモチーフが絞り出され、それぞれの間には、どんなに目立たないほどの音符も、そこに入り込むことが許されない状態だった。実際の処、この演奏には何もかもがごった返しているが、一つだけ見当たらないものがある。それはしっとり感傷的な要素である。演奏を聞いていると、何らかの精神的な混乱と戦おうとしているかの如く、輪郭をハッキリつけよう、音をしっかり決めていこう、と、もがいているのが聴いて取れる。自らそう匂わせたいのか?その可能性もある。だが「パート1」は、この2枚組CDの他の演奏と同様に、ダラダラしたものとパット見可愛らしいもの以外は、あらゆる音楽表現が勢揃いしている。音楽がそんな感じなので、聴く方は明確な形と地に足のついた音楽性に圧倒されてしまいそうになる。 

 

キース・ジャレットは、インプロヴァイゼーションピアノ奏者として長いキャリアを誇っていたが、この日ほど気合の入った演奏は滅多になかったであろう。一人音楽を紡ぎ出し続けるのはお手の物、そして彼の創造力の豊かさは圧倒的であった(たまに演奏している最中のコンセプトとかけ離れた音が飛び出してしまい、行き場を失っていた)。確かに、ジャレットが力を発揮して演奏しだすと、どのコードがどのフレーズの終止形となってゆくのかを、聴き手は正確にはつかめない。彼の通常の演奏スタイルは、いうなれば、音楽の何かしら根本的なことを探し求めたり、未だ聴いたことのない音の組合わせを追求したりすることにあるのだ。時として、ピアノの鍵盤が勝手に意思を持って、自分たちの秘め事を主人であるジャレットに知られたくなくて、「これは立派なものだ」とされるもの中から答えを、必死になって探し始めているようにも感じられる。聴衆はいかなる場合も、ジャレット自身の作業工程の中身がどうなっているかの概観を見れる状況にあった。金属片に音を例えるなら、音の鋼鉄を叩き、つぶし、そして曲げることにより、作り上げた銀装飾のように見事なメロディの数々を歌い上げるのだ。 

 

もしかしたら2016年ミュンヘンでのあの夏の夜は普段と何も変わらなかったのかも知れないだが全てがいつもより一点集中している。キース・ジャレットは感覚を研ぎ澄まし、組み上げたハーモニーを囲む壁をつき抜こうと、次々とコードを発信しては後ろへ前へと動き回り、ついには高音域において不協和音の突破口を見出し、低音域と共に両手で無調性音楽の空間へと躍り出る。だが、彼の和声的な対位法という手に負えないほどにこんがらがった結び目と、果てしなく発展してゆくメロディという正しい道標たる解けた糸との間において、ジャレットが考えついたのは、劇的に高い効果を持ちつつも簡潔な、特徴的な断片の数々であり、それを歌い上げてゆくのは、誰も真似ができない。このように次々と音楽がやってくるのは、実際に体で感じることができる。それらは理性の中でグルグル考えられた挙げ句、回り道をしてやってきたわけではない。まっすぐ心と体に突き刺さってくるのだ。シューマンのようなアラベスク模様を描くことを含めたインプロヴァイゼーション、後期ロマン派風の舟歌、12小節区切りのブルース、これらが誰もが知っている形で、しかも新鮮な歌い方で聞こえてくる。こうなってくると、時間と空間が共に遠くの古代アフリカから霊を呼び出す儀式が再発見され、はるばるミュンヘンフィルハーモニーホールまでやってきたのが全ての原因ではないか、と思ってしまう。キース・ジャレットは、すでにチャールス・ロイドやマイルス・デイヴィスらと共演していた頃から、高い習熟度でのフリーインプロヴァイズを展開し、自力で十分首尾一貫としたメロディを創り出し、それに誰にも真似できないような表情をつけてみせた。それは仮に、素材が時代的に古いもので組み立てたときであっても、である。このことは、彼の音楽家としてのキャリアの中で決して変わらないことである。この行為は、ジャレットにしてみれば(ベートーヴェンも同じ、と申し上げさせていただく)、心に感じることを表現することであり、何かを真似たものを作るだの、他の人が作ったものを再現するだの、そういうことでは全く無い。 

 

このCDには、ライブの終わりに聴衆からかかったアンコールが録音されている。この公演が大成功だったことを詳細に示すものだ。ここではジャレットはいつもの習慣で、昔ながらの鉄板ネタでお客をシンミリさせようとして、地獄の底に収監してあったものを解き放ち、天国に捧げる芸術作品として相応しい価値のあるものへと形を変化させてゆくのである。フランク・シナトラはチャールズ・キスコの1930年の歌「イッツ・ア・ロンソム・オールドタウン」という、作曲してから30年も経っていた楽曲を、最高に心を打つような演奏でレコーディングしたと、長い間考えられていた。だが今や時代は2016年となり、キース・ジャレットにしてみれば、このウットリするほど夢見心地なGマイナーの歌を、聴く者の心をときめかすほどに、完璧にバランスの取れた表現ニュアンスを、そこかしこに散りばめた、夜の情景を描いた元気いっぱいの一品に変えた。かくして聴衆全員の心を動かす、忘れられない一夜となったこの本番が、キース・ジャレットにとって最後のコンサート出演のひとつとなることを、その時は誰一人知る由もなかった。