Moving to Higher Ground - How Jazz can Change your Life を読む

Random House Trade Paperback "Moving to Higher Ground" を読んでゆきます(語句・文法解説付き)

「Moving to Higher Ground」を読む 第4回

第2章 ジャズの言葉を話す 

   

<写真脚注> 

カサンドラ・ウィルソンとマーク・オコーナーのコールアンドレスポンス:この写真の時が初めての競演だったかどうか、僕にはわかりませんが、この時の演奏では、彼のバイオリンが伴奏の出だしのフレーズを弾いた(コール)途端、彼女はインスピレーションを刺激され、あっと驚く素晴らしいレスポンスで応じたのです。 

 

「ダメだ、この案内!道に迷ったんじゃないか、おい。もうそれ、あてにしないで、さっきの人が教えてくれた通りに行ってみようぜ。」 

 

道案内の曖昧さに苦労した経験は、皆さんお持ちだと思います。 

 

「ブッシュストリートって言ってたっけ?それともブッシュネルアベニューだっけ?左に曲がるのは。」 

 

「ガソリンスタンドは、エクソンだっけ?テキサコだったかな?」 

 

元々方向音痴だから道に迷う、ということもあるでしょうが、そうでない場合、「地元の人達なら誰でも知っている」という目標物が、実際にそこに行って見ないと分からない時に、こういったことが発生します。いずれにせよ、今自分がどこにいて、どこへ向かっているのか分からないと、あてにしてきた情報にケチをつけたくなるのは、仕方のないことです。でも途中で諦めなければ、必ず「あぁ、分かった!」と思う瞬間は訪れます。「よっしゃ!ウェブスターストリートだ!」 

 

これで大丈夫。目標物の名前 - ウェブスター - のおかげで、現在位置が正確に分かります。 

 

これと同じことが、ジャズにも当てはまります。音楽用語は音楽そのもの - ストレートで、難しい言葉は使いません。今何が起きているのか、すぐに分かります。「ブレイク」「リフ」「コールアンドレスポンス」といった重要用語を、いくつか意味を把握しておくと、音楽鑑賞はもっと楽しくなります。 

 

ジャズミュージシャンは、聴きながら伝える、伝えながら聴く、これができなくてはいけません。演奏中は他のプレーヤー達が何をインプロバイズしてくるか分かりませんから、自ずと聴くことを強いられます。そしてソリストは、伴奏を弾いているプレーヤー達もインプロバイズしてくるわけですから、彼/彼女のソロのフレーズがどういう筋書きとなってゆくかをできるだけ迅速に、そして完璧に伝えることが求められます。ステージ上の全員が、発信される音楽にしっかりとついてゆく、その時一人一人が同じテンションで、聴くテンションも伝えるテンションも同じくすることが必要です。そういった理由もあってか、ジャズの用語と、人間の言語コミュニケーションの用語は、よく似通っているのです。 

 

ソロ(独奏) 

 

ソロ、とは、伴奏をバックにして一人で演奏することを言います。「私は何某だ」と一人で言い放つようなものです。初期のジャズ、つまり1920年ころまでは、ミュージシャン達はソロというものをせず、メロディにちょっとした飾りつけをしてインプロバイズする程度でした。それがだんだん、時代と共にその「飾りつけ」が発展してゆくのです。これは、子供が言葉を覚えてゆくのに似ています。初めは「ママ」や「パパ」、「いや」だったのが「おフロいや」といったフレーズになり、やがて言葉の使い方も洗練され、様々な思惑を組み合わせ、皆さんを言いくるめた挙句、本当なら認められない買い物もOKさせられてしまう程になってゆくわけです。「このおもちゃ買って!友達みんな持っているんだよ」とね。 

 

ジャズではこれが、インプロバイゼーションをかけるための短いフレーズが、長めのメロディの流れへと発展し、最後には自在にあふれ出るインプロバイゼーションとして完成し、次々とコーラスが飛び出してくるのです。例えば、ということでお勧めのソロが、キング・オリバーの「デッパーマウス・ブルース」その後のルイ・アームストロングの「ウェストエンド・ブルース」、チャーリー・パーカーの「ファンキー・ブルース」、ジョン・コルトレーンの「ベシーのブルース」です。アーティストごとに、そして時代ごとに、ソロ演奏というものが変わってゆくのがよくお分かりいただけます。 

 

だからと言って、「コルトレーンのソロの方が、ルイ・アームストロングのソロより優れているし、発展した形である」などと言うわけではありません。そのようなことは全くないからです。しかし確かに、トレーンのソロは、長さも長く、先達であるジョー・オリバーやアームストロング、チャーリー・パーカーといったプレーヤー達の手法を取り込んだ表現のスタイルが、そこには映し出されています。アームストロングはオリバーの演奏に接しています。パーカーはアームストロングの演奏に接しています。コルトレーンが演奏活動を始めたのは、パーカーがあってのことです。このように、それぞれが先輩プレーヤー達に接し、それを受け継いだ音楽作りをする過程で、自分のオリジナリティをそこへ付け加えてゆきました。 

 

こういった名人達は、よく自分達が演奏するものの中に、耳慣れたメロディを部分的に盛り込んで、聴く人にとっかかりを作ってあげる、と言ったことをしたものです。そうすることによって、長いソロを見失わないようにする。皆さんが大体理解できる外国語を聴き取るのと似たような状況を作ってくれるわけです。知らない単語が次々と出てくる一方で、知っているフレーズも3つ4つとある。結局は、聴き始めにいい感じでついてゆけると思った気持ちが、多少くじけてしまうけれど、その外国語を話す人達は、言いたいことを明確に伝えているわけなので、皆さんも何とか最後までついてゆける、というわけです。音楽の場合「言いたいこと」は単語や熟語の様な具体的な形にはなっていません。考え・感情・願い事といったものは、それでも先程の外国語を聴き取る時の例に劣らず、明確に伝わってきますし、理解しようとする価値もあります。音楽を聴く時、最後までついてゆこうとすれば、「言いたいこと」は明らかになってゆくものです。 

 

ジャズのソロは、多くのミュージシャン達が、音楽の歴史に自分の足跡を残すチャンスを与えてくれた、と言えます。ジャズでは、プレーヤーは作曲家でもあるわけで、楽譜ではなく、プレーヤーの演奏を録音したものが、最終的に記録として残ってゆくのです。 

 

クラシック音楽世界では、作曲ができないからという理由で「新しくモノを創る能力は総じて無い」とされてしまった名演奏家というものは、沢山いるのではないでしょうか。優れた作曲家の設定通りに演奏することと、自分で作ったものを頭の中で鳴らしてみて、その通りにちゃんと演奏することは、全く別物です。ジャズは音楽史上、それまでになかった存在でした。インプロバイズをしたいなら、そして自分独自の奏法を編み出したいなら(必ずしも楽なことではありません)、コード進行を幾つか身につけて、よく知られたメロディを幾つか頭に入れて、そしてブルース形式をモノにする(ブルース形式は、後述の通り、アメリカ音楽の生命線です)。これだけで「新しいモノを創る能力が要る」とされるジャズミュージシャンになれますし、自分の思いを曲の隅々まで込めて、聴いてくれる人々に一人残らず伝えることができるようになるのです。 

 

コールアンドレスポンス 

 

先程の「ソロ」の項目では、「先輩プレーヤー達の演奏を受け継ぐ」といったことをお話ししましたが、次にここでは、意思の疎通の基本中の基本である、呼びかけと反応:コールアンドレスポンスについて見てゆきます。誰かが皆さんの名前を呼んだとします。お行儀が良ければ「はい」、そうでなければ「なに?」と反応するかと思います。ジャズミュージシャン達は、あらゆる種類のコールアンドレスポンス:呼びかけと反応を駆使するのが好きなのです。「ウエストエンド・ブルース」でルイ・アームストロングが、トランペットで曲の出だしに奏でるコール(呼びかけ)、カウント・ベイシー楽団でジミー・ラッシングがブルースを歌った時にバンドが返したレスポンス(反応)。「マドマゼル・マブリ」でのマイルス・・デイビスのレスポンス、そしてジミー・ヘンドリックスの「風の中のマリー」。ベシー・スミスやマミー・スミスといった歌手達が、ブルースの初期に行った録音では、ボーカルの「コール」に対して、インストゥルメンタル(楽器)による「レスポンス」という手法が使われています。ベシー・スミスの「ヤング・ウーマンズ・ブルース」はその定番とも言うべき例です。管楽器、この場合ですとコルネット奏者のジョー・スミスが腕を振るい、ボーカルに負けない表現力で歌い上げ、更に同時にそこへリズム感と音楽的な洗練さを上乗せしています。 

 

スキャット 

 

コールアンドレスポンスは楽器演奏をするミュージシャン達の想像性をかきたてました。彼らはそれまでの型にはまらない、人間の声のニュアンスを演奏に取り入れるようになったのです。レイ・ナンスがデューク・エリントン楽団でトランペットのソロを吹く時は、いつもそうでした(ナンスは「A列車で行こう」の有名なソロを吹いています)。こうした楽器を演奏するミュージシャン達の取り組みは、歌手、つまりボーカリスト達にとって刺激となり、レベルが向上し、そして「スキャットシンギング」が生まれました。これは、歌詞をつけずに、代わりに「バダバディドゥ~」などと歌って、管楽器奏者達のお株を奪うインプロバイゼーションをするという、やってみるとなかなか面白い手法なのです。ルイ・アームストロング(「ビービーシービー」)とエラ・フィッツジェラルド(「レディ・ビー・グッド」)は、スキャットの名人でした。「ビーバップ」という言葉があります。第二次世界大戦後にディジー・ガレスピーチャーリー・パーカーによって発展した音楽スタイルで、楽器によるインプロバイゼーションをスキャットで行う時の「バダバディ」といった音に、その名前は由来しています。ディジー・ガレスピーの「ウップ・ポップ・シュバム」は、その代表作です。 

 

ヴォーカリーズ 

 

スキャットは、やがてヴォーカリーズを発展させてゆきます。ヴォーカリーズとは、既に知られている楽器演奏によるメロディに、歌詞をつけることです。こうすることで、ジャズシンガー達は、より多くの内容を歌詞に盛り込むことができるようになりました。マイルス・デイビスのアルバム「カインド・オブ・ブルー」に収録されている「フレディ・フリーローダー」の、ジョン・ヘンドリックスによるボーカルバージョンは、ジャズの歴史上最も人々に愛されたレコーディングの一つとして挙げるべき秀作です。ボビー・マクファーリンアル・ジャロウジョン・ヘンドリックス、そしてギター奏者のジョージ・ベッソンをフィーチャーし、ウィントン・ケリー、マイルス、コルトレーン、ジュリアン・キャノンボール・アダレイが、脇を固めます。 

 

一方で、楽器を演奏するミュージシャン達は、音符をすくってみたり、曲げてみたりして、人が話をしたり、笑ったり、泣いたりするような音を鳴らす方法を発達させてゆきます。デューク・エリントンの「コンチェルト・フォー・クーティー」で、クーティー・ウィリアムスがプランジャーミュート(トイレの詰まりを解消する吸引棒の先端部分をミュート(弱音器)にします)で聞かせるサウンド、「ココ」でのジョー・トリッキー・ナントンのトロンボーンベン・ウェブスターがテナーサックスで、無骨な優しさをじっくり聞かせるバラード、一度聴いたら耳から離れない、叫び声の様なトランペットのサウンドを持つロイ・エルドリッジは「レット・ミー・オフ・アップタウン」のような熱い曲を、ジーン・クルーパーとその楽団と共にレコーディングを残しています。ミュージシャン達は、あらゆる種類のボーカルサウンドを管楽器で編み出し、それを「コール」すれば、他のミュージシャン達や、聴衆からも、「レスポンス」が返ってくるのでした。 

 

ジャズは、人間同士の日常のやり取りを元に、音楽的な表現を描いてゆきます。ですので、それまでの西洋音楽が持つ技法とは、異なるものを必要とします。ジャズでは、サーカスの曲芸のように、人を「あっ」と言わせるような小手先の技は、大して評価されません。それよりも、まっすぐ、正直に、人の感情を伝え、人間として生きることの尊厳と不条理を映し出す、そんな技術が必要なのです。 

 

金管セクション(トランペットとトロンボーン)と、木管(リード楽器)セクション(サックス)との間に繰り広げられるコールアンドレスポンスは、アメリカのジャズオーケストラの「お家芸」です。カウント・ベイシーの定番曲「ワン・オクロック・ジャンプ」、「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」、「タクシー・ウォー・ダンス」、「スウィンギング・アット・ザ・デイジーチェイン」、どれもコールアンドレスポンスをたっぷりと聞かせてくれます。他にも枚挙にいとまがありません。何しろこの金管とサックスとのやり取りは、ベイシー楽団のメンバー達の、特別お気に入りの手法でしたからね。 

 

シャウトコーラス 

 

ビックバンド編成の曲では、金管セクションが終盤で、同じフレーズを何度も繰り返して、あたかも叫ぶような演奏をし始めることが時々あります。するとそこへ、サックスも入ってきて、自分達のフレーズを、金管と同じように何度も繰り返して、これに応えるのです。楽曲のこういった部分を、シャウトコーラスと言います。この「繰り返し」によって、「もうこれ以上はカンベン」の寸前までボルテージを上げてゆくことができるのです。ベニー・モーテンの「ブルー・ルーム」で使われているシャウトコーラスの表現するエクスタシー感は、他の追随を許しません。「これでは不十分」という方は、カサ・ロマ楽団の「カサ・ロマ・ストンプ」をお勧めします。シャウトコーラスが「そろそろフィナーレだぞ」とメッセージを発信すれば、ダンサー達や聴衆を熱狂させるのです。 

 

第二次世界大戦後の経済状態により、ビックバンドが音楽市場から撤退を余儀なくされてくると、金管セクションと木管セクションによるこのようなやり取りは、影をひそめるようになってしまいました。そこで、レスター・ヤングのようなソロプレーヤー達は、「一人コールアンドレスポンス」を編み出します。主題のモチーフを幾つか用意して、出だしの「コール」を演奏したら、次のフレーズで別のモチーフを使って「レスポンス」を演奏する、といったことを実践してゆきました。ジャズのソロを組み立てる方法の一つとなったものです。とはいえ、たった一人で最後まで演奏し切れるものではありません。そこで他の楽器奏者達が穴を埋めにかかるようになります。「セグメント」でチャーリー・パーカーのサックスソロに対してレスポンスをしたのは、マックス・ローチのドラムスです。「マイ・ファニー・バレンタイン」では、マイルス・デイビスのトランペットに、ハービー・ハンコックがピアノで応えます。ついにはベース奏者のチャールズ・ミンガスが、「「モーニン」といった様な曲で、バンドのメンバー一人一人にコールアンドレスポンスをさせたりもしました。ビル・エバンストリオの曲は、ほぼ全て、曲全体が一つの大きなコールアンドレスポンスになっています。 

 

優れたジャズのグループの演奏を聴くと、コールアンドレスポンスに際しては、お互いのインプロバイゼーションに対して、配慮が行き届き、上品で優雅な返し方をしていることが、しっかりと伝わってきます。声をかけ、聴き、応えるという、意思疎通の基本はこういう流れであるべきだ、と教えてくれているようです。しかし、この二番目の「聴く」があるため、日常生活ではなかなか実現が難しいバランスのとり方だ、というわけです。 

 

「私の言っていることが理解できないだろう」と言われて、開き直って「そうだよ」と返してしまう。このようなやり取りを、耳にしたり自分がしたりという経験は、誰にでも、幾度となくあると思います。こういった日常生活におけるコールアンドレスポンスの失敗と同じようなことが、音楽でも、それも「多発している」というのが、実際の処なのです。生演奏のコンサートでは、本当に厄介な思いをすることになります。でもこの本で僕が紹介してゆくレコーディングの例では、ミュージシャン達がお互いちゃんと聴き合えば、平静な状態は達成できる、ということをしっかりと伝えてくれるはずです。 

 

リフ 

 

他の人々と調和する糸口を、どうしたら見つけられるか、そしてそれをキープし、更には発展させてゆくにはどうしたらいいか、ジャズはそんなことを教えてくれます。カウント・ベイシー楽団の最古参であり、最もソウルフルなトランペット奏者のスウィーツ・エジソンは、かつて僕にこんな話をしてくれました。「本当に良いブルースなら、ジャズの本場カンザスシティー中のバンドが、そのフレーズを何度だって繰り返し30分でも40分でも止めずに演奏するよ」とね。ミュージシャンにしろダンサーにしろ、こぞって誰が一番グルーブをバッチリ決めるか、そして一旦そこにはまったら、誰が一番長くそれを保てるか、見極めようとしました。このように繰り返されるフレーズのことを、リフと言います。 

 

当初、その場の思いつきで作ったインプロバイズされたメロディなら、何でも「リフ」でした。スウィーツ・エジソンの「アップ・ア・レイジー・リバー」のソロを聴いた直後、ルイ・アームストロングは、その素晴らしさに、こんなコメントを口にしています「すげぇな兄ちゃんよぉ、俺も今夜やってみようかなぁ」 

 

後に、繰り返される断片的なメロディのことを、「リフ」と言うようになったのでした。お子さんをお持ちの方でしたら、この「リフ」の正しい使い方をご存じのはずです。 

 

 

「ほら、車の中では、すわって、すわって、すわって!」 

 

あるいは「ほーら!ごはん食べなさい、食べなさい、食べなさい!」 

 

あるいは「お姉ちゃんを、叩いちゃダメ!叩いちゃダメ!」 

 

このように、日常会話では、同じことを繰り返し重ねて言いくるめてゆくことで、話のポイントを的確なものにしてゆきます。音楽で同じことをするのが、リフです。良いリフは、常に、コンパクトで、内容がしっかりしており、バランスがよく、そして耳に心地よく残りやすいものです。良いリフは教えてくれます。日常会話の中で、簡潔に話し、要点を捉え、そしてそこからブレない方法を。 

 

リフの技法はやがて、管楽器のプレーヤー達によって、もう一つ別の使用目的を担うようになりました。ソロのプレーヤーに対して、ソロの終わりを合図するものです。チャーリー・パーカーはかつて、これに大変気分を害されたことがありました。「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」のツアー中の出来事です。チャーリー・パーカーの創造性豊かな非凡さは、他のプレーヤー達を不安にさせる脅威となってしまいました。彼のソロの部分に差し掛かり、一つ二つと火を噴くような演奏をし終えると、他のプレーヤー達は「これ以上我々を不快な気分にさせないぞ」と言わんばかりに、彼のソロを終わらせるようなリフを、弾き鳴らし始めたものでした(もっとも、これはあまり効果がなく、いつも彼は次に同じことをお構いなしにやってのけたのです)。 

 

音楽について語り合う時、大抵は一番「良い」ものについての話になります。ところがステージの上での「音楽についての語り合い」は、大抵は「どうでもヨイもの」についての話、そして他人を妬む話になります。そんなやり取りは大抵、ジャズにせよ日常生活の会話にせよ、より深くお互いを分かり合う上で、邪魔にしかなりません。それでも、ジャズについて言えば、上手に聞かせる力があれば、自分のベストな状態を堅持し、そこから更に、演奏内容に磨きをかけてゆくことも、可能ではあります。それを常にやってのけたのが、チャーリー・パーカーでした。 

 

ブレイク 

 

ジャズが発生したばかりの頃、曲の構成手段としてのソロが未だ存在しなかった段階では、バンド全体が2ないし4小節間、演奏をストップし、その間(ま)を、一人のプレーヤーがインプロバイズをしたフレーズで埋める、といったことが時々行われていました。これをブレイクといいます。その「一人のプレーヤー」にとっては、プレッシャーの塊のような瞬間です。その瞬間は、バンド全体で作ってきた演奏の流れを、自分一人の力でキープしなければならないからです。「私達のタイム」が「私のタイム」になる瞬間 - 演奏のテンポもリズム感も、自分一人のものになります。台無しにしてしまおうものなら、バンド全員から袋叩きに遭うことでしょう。なぜなら、演奏開始からそこまで、バンドのメンバー一人一人が流れを作ろうと慎重にやってきているのですからね。タッチダウンを決めるパスを受け損ねて落としてしまうようなものです。 

 

若い頃のルイ・アームストロングが実際によくやっていたのは、キング・オリバーがブレイクでソロを吹く時に、他のメンバーを出し抜くかのように、インプロバイズしたハモリを添えることでした。後にポップス(家族の長としての「親父」)と呼ばれるようになった彼は、当時師匠であったキングの演奏スタイルを完全に熟知していたので、キングが、自分がこれから演奏する内容を合図するだけで、これを聞いたルイ・アームストロングは、その場でハモリを創ってしまうことが出来たのです。「スネーク・ラブ」のレコーディングを聴いてみると、彼の卓越した和声法と、電光石火の反射能力を感じ取ることが出来ます。その才能は、1920年代、当時のジャズの中心であったシカゴのミュージシャン達を震撼させました。 

 

大抵ブレイクは、1ないし2小節感です。しかし、ディジー・ガレスピーの「チュニジアの夜」では、何と4小節間ものブレイクを聞くことができます。一人のプレーヤーが間を持たせるには、かなり長めと言えます。ノリノリ気分で演奏していても、きちんとリズムや音楽のテンポ感を維持できるか、その伴奏が全くない空間は、プレーヤーに自問自答するよう迫ります。わずかな迷いは、リズムを粉々にしてしまいかねないのです。ブレイクの中では、ほんの少しでも自分を見失うようなことがあれば、それは即ち、スウィングに対する犯罪行為だ、というわけです。 

 

ブレイクを素晴らしく演奏できる、ということは、プレッシャーの元でも一点の曇りもない優雅さを保てる、ということを表します。人生の一瞬一瞬をしっかりと制御できる、というわけです。それは、グループの中で色々なやり取りが成される時に発生する、あらゆることに対して、しっかりとした注意を払うことの大切さを教えてくれます。ブレイクでは、グループ全体として曲をどのように演奏したいと思っているかを、その一人のプレーヤーが意見を集約して、更に前進させるもよし、あるいは逆に、その瞬間、それまでの流れに対して新鮮な方向性を示すもよし、と言えます。 

 

ヘッドアレンジ(大雑把なメモ(ヘッド)を元に曲を作りながら演奏する方法) 

 

ステージ上のミュージシャンの一人が、自分の頭を指さすと、突然メンバー全員がメロディを演奏し始める、という光景を、時々見かけたことがあると思います。何だかおまじないのように見えますが、僕達ミュージシャンがメロディのことをヘッド(頭)と呼ぶ、と申し上げれば、納得していただけると思います。ヘッドアレンジとは、その場で曲を創り上げてゆく手法です。この時、予め書かれたパート譜は無く、ひたすら、リフやコールアンドレスポンスをインプロバイズしてハーモニーをつけて、そしてメロディを作ってゆきます(ヘッドアレンジは、楽譜に起こされて、きちんとした作品へと作り上げられてゆくこともあります。カウント・ベイシーの代表作品の一部は、この方法で生み出されました)。もし下手なソロを演奏しようものなら、仲間のミュージシャン達から「ちゃんとヘッドをやれよ、頼むぜ」と言われてしまうでしょう。これ以上苦痛を味あわせるな!といわんばかりに、です。 

 

これはステージ上のエチケットの事とも関わる話です。自分がソロを演奏している最中に、一人の奏者がヘッドを演奏し始めるとします。これは「やかましい、黙れ」と言うのと同じ位、行儀の悪いことです。この、一人の奏者の判断が、まだ早い、あるいは、嫉妬や恨みからくるものだ、と他のプレーヤー達が判断すれば、それを振り払い、「いいからソロを続けなさい」とメッセージを演奏で送り続けます。この場合、ソロは続けてもいい、というより、続けなければなりません。しかし他の全員がヘッドを演奏しに加わってきたなら、その時は本当にソロを終えます。中には、マナーの悪い人間が、時々、ソロを演奏し続けたりもしますが、大抵はミュージシャンたるもの、ライブ演奏を支配する監視体制「チェックアンドバランス」は受け入れるべきものです。昔の英語に「dap-off」とう言い方がありました。会話は終わりだ、と言う時に、一人の人が相手と、意味ありげに握手をします。これは「私はもう行くよ」の合図とされています。しかし時には、相手の人が「dap-off」されているにも関わらず、手を離さず話し続けることがあります。これは行儀の良いことではありません。次は「dap-off」される、つまり、絶交です。 

 

リズムセクション 

 

ジャズは個人の自由の究極的な表現方法だ、とよく言われます。実際、有名どころのミュージシャン達はソリストとして通っている人ばかりです。マイルス・デイビスルイ・アームストロングアート・テイタムは、皆ソリストです。でも本当は、ジャズバンドの心臓部と言えば、リズムセクションです。ピアノ、ベース、ドラムス、時々ここにギターが加わります。リズムセクションは、ソリスト達のサポートを通じて、自由を得ています。家族で言うと親のようなものです。子供達がひたすら楽しんでいる間、働いている。リズムセクションがきちんとしていないと、皆が憂き目にあいます。 

 

僕が昔持っていたチェスのセットは、ルークがベーシスト、そしてナイトがドラマーでした。当時、上の子達は9歳か10歳くらいで、既にリズムセクションの重要性を理解していたからでしょう、ルーク(ベーシスト)やナイト(ドラマー)を取られると「あぁ!リズムセクションは取っちゃダメ!」と泣きを入れたものでして、僕はそれを聞くのが、いつも楽しくて仕方ありませんでした。 

 

リズムセクションは、生粋のジャズの産物です。三つ(時に四つ)の楽器群は、ひたすら音楽を聴き心地良くすることを、その任務としています。 

 

リズムセクションの担当者には、卓越した反射神経が欠かせません。なぜなら、彼らがインプロバイズし創り上げる伴奏に乗ってくるソリストは、その場の思い付きで、次々と音楽を生み出してゆくからです。相手が何を言おうとしているか予測する。そして相手が言い出したら、その間に適切な反応を決めてしまう、そんなことが、リズムセクションには求められているかのようです。 

 

管楽器奏者達にとっては、良きリズムセクションを手に入れることは、良きパートナーを手に入れることよりも嬉しいことかもしれません。彼らを手放さないためなら、何でもすることでしょう。ところがリズムセクションの方はというと、束縛されたがらないのです。されたとしても、大方、5年間が限度といったところ。リズムセクションは優秀になると、歴史に名を残し、そしてレジェンドとなってゆきます。カウント・ベイシー楽団のオール・アメリカン・リズム・セクションはその代表例で、パパ・ジョー・ジョーンズ、ウォルター・ページ、フレディ・グリーン、そしてリーダーのカウント・ベイシー自身の、4人から成ります。 

 

リズムセクションのメンバーには、それぞれある種特有の性格 - 実際は典型とも言えますが - がある、と僕は思っています。ベース奏者達は大抵、大柄で愛想がよい、ドラム奏者達は、小柄で気が短い、そしてピアノ奏者達は「何でも知っているぞ」の風体であり、3時間の本番を一人でやり切れて、しかも気分よくいられる唯一のミュージシャン、こんな感じです。 

 

ピアノは長い栄光の歴史を誇り、それ自体が何役もこなす一つの楽団みたいなものです。多くのヨーロッパの大作曲家達がピアノを弾きました。ベートーベンはその一人です(この方一人で「大作曲家達が」の証明に十分なりますよね)。そして膨大な数の曲がピアノのために今日まで作られています。自分の子供に弾けるようにさせるなら何にするか、といえば、大抵はピアノと答えるでしょう。ピアノ奏者達は、昔はよく「大先生」などと呼ばれたものです。というのも、彼らは他の楽器プレーヤー達よりも音楽のメカニズムについて、大概よく理解しているからです。彼らにはいつも、僕達は的確なコード進行を弾いてもらっています。そのせいもあり、彼らをどうしても今一つ、好きになれないのですがね。 

 

ピアノ奏者達は腕ひとつで世間を渡り歩くことが出来ます。ホテルでもレストランでも、あらゆる所に演奏の場があるのです。ジャズはニューオーリンズの売春宿であちこち演奏されて生まれた、などと時折言われます。トランペット奏者達には、運悪くそんな仕事のお鉢は廻ってきませんでしたが、ピアノ奏者達にはそれが廻ってきたのでした。彼らは西部開拓時代の、酒場や、中産階級の家庭の居間なども演奏活動の場としていました。他方、ヨーロッパでは宮殿やコンサートホールを本拠地として構えていました。 

 

そして、これはアメリカ独自の、社会的地位が逆転する典型ですが、楽器の王様であるピアノは、伴奏の役割を宛がわれたのです。それも単に有名歌手や一流バイオリン奏者ばかりでなく、サックスでもクラリネットでもコルネットでもトロンボーンだって、どこのどの様な奏者の伴奏も宛がわれました。こういった運命の変化は、リズムセクションの一員となる上で必要な心がけとして、物事に相対する態度は適切に変えてゆかねばならない、ということを示しています。これはアメリカ民主主義のプロセスが、過去に身分が高かったとか、権力の座にあったとかいう人々に対して課しているとして知られている、ある種の適応性というものです。つまり、昔は王様かもしれないが、ここではタダの「ジョン」だよ、というわけです。 

 

ジャズのドラムセットは、実に調和のとれた楽器の組み合わせ方をしています。太鼓は様々なサイズのものがあり、シンバルも必要なサイズは、ほぼ一式揃っています。ヨーロッパ音楽では伝統的に、太鼓とトランペットは同じ音符の役割を担い、派手に鳴らしていることで知られています(スコットランドでは例外的に、バグパイプと同じ役割になります)。モーツアルトやベートーベン、そしてハイドンといったドイツのクラシック音楽における交響曲では、ティンパニーとトランペットの組み合わせとなります。アフロ・キューバン音楽では、太鼓とトランペットが主役です。 

 

どんなジャズのビッグバンドでも、ドラム奏者のためのパート譜がない時は、トランペットのファーストのパート譜を渡します。というの、ドラム奏者がバンドをリードしてゆく上で、演奏しなくてはならないアクセントの付いた音符を、トランペットのファーストが吹いているからです。ドラム奏者は、ジャズバンドの事実上の指揮者です。彼らはバンド全体のダイナミクス(音量を大小)、テンポ感、そして曲想をコントロールします(これについては、右に出るものが誰もいないと言われたのが、名手パパ・ジョー・ジョーンズですが、アート・ブレイキーもまた凄腕と呼ぶべき人物です。前者は頭脳派、後者は剛腕派と言えます)。 

 

ジャズではドラム奏者は、根っこの部分において他のメンバーに対して優位に立つためにも、上っ面で偉そうにすることは、控えなければなりません。演奏全体の均衡をとるために、自分自身の音量を抑え、演奏全体のバランスを知的に整えるために、他のプレーヤー達に対して、感情的な批判で圧力をかけることを手控える、そんなことが求められます。優れたドラム奏者達というのは、いかなる人間集団(家族でさえも)に対しても、どのようにこれの舵取りをすべきかの、立派な例となる仕事をやってのけます。正に、本物のリーダーとは、こうあるべきだ、ということです。セオドア・ルーズベルトの名言「穏やかな声量で話せ、そして大きなバチ(罰)を使え」そのものです。 

 

ライディングとウォーキング 

 

普通の感覚では「ありえへん」かもしれませんが、ジャズとは、一番音の大きなドラムスと、一番音の小さなベースが、一緒に全ての拍を刻んでゆきます。僕達はこれを「二つの右手」と呼んでいます。ドラム奏者の右手は、バチをもって、シンバルを「スイスイ走らせ(ライディング)」て全ての拍を刻み、一方でベース奏者の右手は、弦をはじいて、ベースを「颯爽と歩かせ(ウォーキング)」て、同じく全ての拍を刻むのです。これは、世の中の子供達が、二人の親の間で見て取る関係によく似ています。一方は厳しく、もう一方は甘く、という役割分担ですね。ドラム奏者達は、長い年月をかけて、丁度物価が上がってゆくように、自分達の音量をだんだん上げてゆきました。こうなってくると、ドラムスとバンドとの基本的な関係の在り方に変化が生じ、それまで封じ込められていたバンドの中での秩序に欠ける演奏行為について、封印が解かれてしまうことになります。 

 

ベース奏者達は、アンプを使い始めました。大音量のドラム奏者から身を守るためです。こうして、ジャズにおいて最も根底にあるチェックアンドバランスの機能が、変化してしまったのです。それまで一番音の小さかった楽器は、一番音の大きな楽器の仲間入り ― 「一番大き」くはないにせよ - をしてしまい、その気になれば破壊的行為も可能となり、実際それが起きてしまっています。ドラムスとベースの味付けを誤って料理してしまったがために、ジャズという家庭生活に、ある種の最悪の事態を引き起こしてしまっているのです。この様なことを防ぐ必要性から、ルイス・ナッシュのようなドラム奏者が、常に欠かせません。ベース奏者が無理をしなくても全体に音が聞き取れるように、自分自身は鋭敏さと抑制の効いた演奏をして、ベース奏者が演奏に加われるようにするのです。 

 

ベースはドラムスにとって、リズムを共に担当するパートナーです。またベースは、ピアノにとってハーモニーを共に担当するパートナーでもあります。演奏中、一連のコード進行において、ベースが根音を弾いてゆくのです。更にベースは、ソリストに呼応する形でメロディを担当することもできます。対旋律を弾いたり、ベース自体がソリストにだってなれるのです。 

 

ジャズはベースに対して、もっと旋律を任せるべきかもしれません。ヨーロッパ音楽(クラシック音楽)では、その優れた成果の一つに、ベースにも旋律に関わる自由度が与えられていることがあります。古くは通奏低音部などと言って、機械的で、多くは旋律らしさなど全くないモノでしたが、そこからロマン派の交響曲でベースがオーケストラの他の楽器群とやり取りをするようになるなど、高音域の楽器と低音域の楽器との贅沢な音のかけ合いが、手法として開花し発展して、旋律面で、より多彩な音楽を生み出してゆきました。 

 

ヴァンプ(即興伴奏) 

 

ジャズでは、ベースは様々な板挟みにあいます。所謂「ヴァンプ」といって、シンプルな音数で繰り返し伴奏を弾き続けるのか、それとも四分音符によるスウィングの伴奏を弾くのか、あるいはメロディとやり取りするのか、はたまた三つとも全部するのか?ベースとドラムスが、お互いに連結しているリズムパターンから離れ離れになってしまっては、バンドの演奏において、スウィング感やグルーヴ感といったものは、あまり期待できなくなるでしょう。でもその代わりに、入り組んだ感じや、人間同士が会話するような雰囲気は、増してくるものです。いずれも好みの問題です。 

 

今時の歌謡曲の大半は、ヴァンプが基盤になっています。ベースとドラムスは同じ2~4小節間のフレーズを、曲の間中ずっと繰り返し演奏します。この繰り返しによって、グルーヴ感を作ろうとすることで、曲に合わせて踊ろうとする人達に対して、演奏の意図が伝わりやすくなり、踊りやすくなります。 

 

一方ジャズは、ベースが同じことの繰り返しと、同時にブルーヴ感もしっかり出してゆくことで、ドラムスとのスウィング感に満ちたやり取りが生まれ、曲に合わせて踊ろうとする人々をリードし、一緒に踊る人達同士の横の連携が、そして彼らと音楽との結びつきが、躍動感にあふれたっモノになってゆきます。アメリカ人はスウィングを国民的ダンスとして自分達のモノにしよう!とはいかなかったせいか、若い人達は、よりシンプルで、同じことを深く考えずに繰り返し、腰を振るようなグルーヴ感を好むようになり、今日に至っています。ツイストが世に出てきてからというのも、スウィング感あふれるロマンティックなやり取りで踊るリンディーポップを経験する人達が、だんだん少なくなってきました。 

 

ギター 

 

リズムセクションを語る上で、ギターのことを欠かすわけにはいきません。今では、ほとんどギターが入った演奏にお目にかかることはないでしょう(大作曲家でピアノの名人であるジョン・ルイスは、いつも僕にこう言っていました。君のバンドにもギターを入れたまえ。スウィングにリズムの明快さがでるからと)。 

 

時代の流れと共に、ドラム奏者達は音量を抑えて叩くことに飽きてしまい、一方ベース奏者達は、自分の音が聴衆の耳に届いてないことにウンザリして、アンプの力で音量を上げるようになりました。ところで前の方のページで書きましたように、ギターは、かつてリズムセクションにおいて、最も「他者に尽くす」楽器でした。ベースよりも音量が小さく、一小節の中にある四つの拍の頭全てにおいて、ベースやドラムスと共にリズムを刻み、ピアノと共にハーモニーに動きをつけてゆく中で、ギターの音は実際には聴衆の耳に届かず、「ギターが入っている感じがする」程度だったのです。ところがロックンロールの台頭によって、ギターは最前列の中央に躍り出て、音量を上げてきたのです。こうなってくると、聴衆もギターをもてはやすようになります。一旦こうなったら、ギター奏者達は誰も「入っている感じがする」に、好き好んで甘んじようとは、思わなくなるというものです。 

 

ジャズの発展と共に、リズムセクションはだんだんアグレッシブになってゆきました。今ではリズムセクションは、バンドの後方には居るものの、そこから勢いよく出入りして、ソリスト達との立ち位置も、より柔軟なものとなりました。そしてお互いの感性をストレートにぶつけ合うようになりました。ジョン・コルトレーンチャールズ・ミンガスマイルス・デイビスオーネット・コールマン、テロニアス・モンク、アート・ブレイキー、そしてモダンジャズカルテットといった面々と演奏を共にした1960年代の優れたリズムセクションの数々は、こういった矢継ぎ早のコールアンドレスポンスを、演奏の定石としてゆきます。それぞれのリズムセクションが、ソロの伴奏付けやスウィングの仕方について、特有のスタイルとアプローチの仕方を持っています。でも今日、この二つの土台となる役割をダメにしてしまっているのが、最近の楽曲にほぼ全て見受けられるドラムとベースのソロなのです。近頃では多くの場合、ベース奏者達はスウィングに集中することを疎かにして、ソロの出番待ちに気を取られるありさまです。 

 

トレーディング 

 

昔のジャズでは、ベースが長目(5分間くらい)ソロをとっていた時代がありました。と言ってもソロを弾くのは大御所達のみで、その折はドラム奏者達は時折曲が一番盛り上がるところで、ソロだのブレイクだのを少し演奏していました。その後1950年代に入り、ソロの順序が進化し始めます。大抵の場合、まずバンドリーダー、例えばサックス奏者のチャーリー・パーカーがソロを吹き、続いて2番奏者のサックス、他の管楽器群と続き、そしてピアノ、そしてもし事情が許せば、力一杯鳴らすドラムスの代わりに、そこまでソロを取ったプレーヤー達がドラム奏者とソロの交換を行います。これをトレーディングと言います。 

 

そのような経緯から、ベースがピアノの後でソロを弾くようになりました。程なく、楽曲というものは、守るべき体裁も通すべき筋も失い、バンドメンバー全員が気の済むまでソロを演奏する場となってしまったのです。これでは、聴衆が飽きてしまうのも、無理がありません。 

 

この、ソロがオンパレードとなる形式の失敗により、全員が全部の曲で見せ場を作るということは、しない方がよい、という教訓を得ることとなりました。何にせよ、ドラム奏者とのこういった交換のことを、トレーディング4,8,2、あるいは1などと言います(小節数を数えたり感じ取ったりしやすくするために、概ね常時偶数の小節数で交替します。こうすることで、他のプレーヤーの一枚上を行こうとするチャンスが発生し、それは後に、よく耳にするところの「誰が誰より優っているか」という論評へと繋がってゆきます。 

ステージ上で「4」とか「8」とか言えば、それはドラム奏者とトレーディングを希望する、という合図になります。管楽器奏者としては、注意を怠らないことです。なぜなら、ドラム奏者は、ハーモニーやメロディについては何も演奏面で責任を負う立場にはないものの、管楽器奏者達のためにずっとリズムを刻み続けているうちに、だんだん態度が横柄になってくるからです。 

 

ジャムセッション 

 

想像してみてください。深夜の12:30とか1:00、とある夜通し朝までスウィングできる場所に着きました。そこは、バンドが演奏するステージがあり、壁には歴代のジャズミュージシャン達の写真が飾られています。そこはお客さんが満員になる日もあれば、そうでない日もあります。掃除や片付けが行き届かない日もあれば、小奇麗にしている日もあります。ステージの方へと進んでゆき、そこに居合わせた人皆と握手を交わします。皆で、そうですね、「ミス・ジョーンズに会ったかい?」と曲名を口にします。そして、さぁ始まりです。皆が笑顔になり、我先にと口を開き、リクエスト曲が叫ばれます。これを聞いたバンドのメンバー達は、嬉しい者もいれば、そうでない者もいます。バーテンダーがドリンクを用意します。これがジャムセッションの風景です。バンドのメンバー達が楽器を持って、どこからともなく登場です。リズムセクションがちゃんとしていれば、日の出の時刻までずっと、スウィングに浸りつつ、プレーヤーは演奏を、お客さんはそれを聴くことを、続けることでしょう。 

 

カッティングセッション 

 

時々、悪意を持った人がステージ上で席を同じくしていると、気付けば音楽面でのせめぎあいになってしまっていることがあります。この様な場合、勝った方が負けた方を「切り捨てた」と言います。これが「カッティング(切り捨てる)セッション」と呼ばれる理由です。切り捨てられた方は、ステージが終わって帰る頃には傷ついた気分になります。その人は演奏する資格がなかった、ということではありません。大方その人は、こんなことをずっと言い散らかしているように、ステージ上の他のメンバーには聞こえてしまっていたのでしょう「お前ら下手くそ!俺が証明してやるよ!」とね。こういう人は、むやみに大きな音で、速いパッセージばかり、甲高い音域で吹きまくっています。まぁ、技術的なことをアピールし過ぎると、確かに、他のメンバーにインパクトを与えますが、肝心な聴衆の方は、というと、始まってしばらくすれば、ポカンとしてしまうだけです。聴衆に自分を印象付けたいなら、単に大きく・速く・甲高い、ではなく、何か一味違うものが必要です。甘く漂い、優しく語り、ほのかに囁く演奏をするべきです。速いパッセージばかりが続くと、だんだんリズムに目新しさがなくなってきます。この悪意をもってステージで席を同じくしている輩の足元をすくってやるには、予測不可能でありながらスウィングはしっかり効いているリズムをキープすることです。ステージが終わって帰る頃に、幸せな気分になるのは、皆さんの方です。 

 

スウィング 

 

ジャズとインプロバイゼーションが切っても切れない関係にある、ということは、良く聞く話です。確かに、全てのジャズミュージシャン達にとって、インプロバイゼーションはジャズの真骨頂であり、集団でのインプロバイゼーションが上手く行った時の達成感は、ひとしおです。しかしインプロバイゼーションをきっちり決めてこようとするのは、他の多くの音楽ジャンルでも行っていることなのです。ではジャズのインプロバイゼーションは何が違うのか?最もはっきりと分かるのがリズムです。ジャズはスウィングします。少なくとも、そうしようとしてる、と考えられています。人の営みで「素晴らしい」と称されること全てに言えることですが、スウィングする上で欠かせないのが、心のバランス、他人とのバランス感覚、そして時機・手段・加減の心得です。スウィングという美酒の蒸留方法ですが、ヨーロッパの行進曲とワルツ、そしてアフリカの6/8拍子の音楽を素材とし、これらを合わせて4拍子のダンスリズムへと仕上げてゆきます。風味はどこまでも上品で、角が取れ、思いやりにあふれているのです(アフリカの6/8拍子の音楽って何だ?とお思いの方、音楽自体はお聞きになったことがあると思います。通常、カウベルを使っていて、6拍子1区切りのリズムが特徴です)。 

 

スウィングに対するリスペクトが、今色あせています。これは今、アメリカの民主主義の状態を説明する上で、良い例えになると思います。民主主義とは繊細なものです。物事を繊細な状態に保つには、バランス感覚が欠かせません。そして民主主義とは、一人の力を他人と合わせて、皆でそれを分かち合うということがどういうことなのかを、鋭敏に理解している状態のことを言うのです。これが分からなくなった時、誰が一番強いのか、誰が一番大声か、誰が一番注目されるのか、の争奪戦が民主主義なんだ、ということになってしまうのです。弱肉強食の横行だ、というやつです。 

 

これがスウィングの歴史で起きてしまったことなのです。ドラム奏者達は嬉々として、ベース奏者達の音を掻き消し始める。ベース奏者達はアンプを持ち出して応戦する。ピアノ奏者達は短くて刻みつけるようなリズムを弾きはじめ、これによってスネアドラムに戦いを挑む。リズムギター奏者達はお手上げだと言って席を立つ。管楽器奏者達は一つの曲で一晩中狂ったようにソロを吹きまくる。結果生じたのは、完璧な不均衡、皆の気持ちを無視した表現の自由。多くの人々が、こういった「スウィングしない」アプローチを受け入れてしまっています。しかし、いつの日か必ず、ミュージシャン達はこの惨状を吟味し、世界中でスウィングへの回帰がみられることでしょう。 

 

技術的な話をしますと、スウィングとは、四拍子に乗って演奏される3連符にアクセントをつけて(部分的に)生じる雰囲気のこと、とお考えください。皆さんご存知かと思います「ミッキーマウス・クラブ・マーチ」は、スウィングの素晴らしいサンプルです。この曲はシャッフルリズムという、スウィングの基盤となるリズムの上に作られています。 

 

まずベースとして、1、2、3、4、と拍子をとります。そして各拍を三等分し、各々三つめの音にアクセントをつけると、シャッフルリズムの出来上がりです。アクセントの付いた各拍3つ目の音は、コントロールするのが厄介です。しかしこれが、ミュージシャンにリズムをとる上での、大きな柔軟性をもたらしてくれるのです。 

 

下の図を読み解いてゆきましょう。まずは基本となる拍とメロディ。メロディは歌詞を書き記してありますので、ご確認ください。その上で、アクセントの付いた音節を見てみましょう。三連符とピッタリ合っているのが、お分かりいただけると思います。 

 

音楽では、リズムは大抵いつも、ダンスと結びつきがあります。そしてダンスと言えば、国や地域の文化における儀式や、人々の生活の中での冠婚葬祭においては、その中心にあるものです。スウィングは、ダンスとしても音楽としても、アメリカ社会の柔軟性を物語るものです。ジャズでは、ベースは各拍で音符をさっそうと歩かせます。ドラム奏者も同じように、各拍でシンバルをスイスイと走らせたり、時にはブラシの形をしたバチでこれを表現したりもします。ミュージシャン達は、一拍一拍全て、お互いの連携が取れているかチェックしなくてはいけません。これがスウィングの難点です。常に他人の気持ちを分かっていることが強いられます。スウィングの技術を手短に話せば、「共存しろ」となります。そしてこれは、なかなか難しいことです。ベース奏者とドラム奏者が、四六時中、言い争いが絶えないのは、このためです。他人との関係の浮き沈みを、自由にコントロールできる人など、この世にはいないのですから。 

 

三つのことがスウィングには必要です。一つは完璧な協調性。スウィングというダンスは、他の人々と一緒に踊るものであり、皆が気の赴くままにステップを踏んでいるからです。二つ目は知的な意思決定力。自分にとって、その時最良と思われる判断が、グループ全体にとって、あるいは判断したその瞬間において、必ずしも最良とは限らないからです。三つめは善意。互いを信頼し合えることが必要です。皆が同じく良い音楽を作りたいと思っている、と信じること。エゴや、悪口のデマに振り回されないと信じること。この信頼が不可欠だからです。 

 

それからスウィングは、じっくり考えて行うものではありません。即座の判断が求められます。パッと思いついたことを再確認する時間はありません。自分が正しいと思ったことを、すぐ実行しなくてはいけません。スウィングをするということは、ミュージシャンの本心にあるものが試される、ということを意味します。自分が何者なのかを自問自答する、自分の心の、より深いところまで自覚する、自由自在に反応する、と言った具合に。スウィングとは、、音楽という言語での会話です。自分の思いを正確に伝えることで、会話に参加している仲間がそれを理解し受入れ、返答としてその仲間が持っている情報と感情を口にする気にさせる、というわけです。 

 

スウィングは、人の本心にあるものをさらけ出せる、という点で、ある意味「聞き出すのが上手」と言えます。金品を借りる時の保証人、あるいは教会の神父、牧師のように寄り添い、本音で語りなさい、と導くのです。そして、ここがスウィングの醍醐味 - この恩恵にあずかるのは、演奏する人、ダンサー、そして聴衆全ての人々なのです。 

 

そんなスウィングが色あせてしまっている今のアメリカ人にとって、ダンスを楽しむうえでも大変残念なことが起きています。異性と共に踊るダンスから、疎遠になってしまったことです。全く誰もしなくたった、とは言いません。しかしスウィングがあったからこそ、一緒に踊る相手との触れ合いから伝わるものを感じ取りたい、という思いが募る、というものです。今では、クラブで、たまにスローな曲がかかった時だけ、それだって、いつもというわけではないようです。 

 

スウィングは復活しなければなりませえん。それは、大勘違いな回顧主義的な考え方からではありません。スウィングは時代遅れなリズムなどでは到底なく、近年ますます垣根がなくなってゆくこの世界にとっては、まさに最適な存在なのです。ドラムマシーンを掻き鳴らそうが、顔を突き合わせずネットか何かでレコーディングをいくらしようが、そんなものが及ぶものではありません。「パート譜をメールで送ってください。こちらで録音して送り返しますから。編集よろしく」 

 

バンドがバッチリ決まったスウィングをしている時、演奏する方も聴く方も、そして時には音楽評論家達さえ、足や頭でリズムをとったり、ハマった挙句に腰なんか振って踊り出すことさえあります。それから、主に演奏する側の領域になりますが、ジャズの作曲においては、技術面でくどくど説明する、というものは、あまり聞かれません。というのも、かのデューク・エリントンのお行儀の悪い言い方をすれば「そういう会話は、臭くて周りの迷惑だ」というわけです。とは言え、ジャズを語る上では、多少は形式について触れないわけにはいきません。 

 

形式と和声 

 

僕がいつも聞かれる質問「ああいうのは、チャチャっと作ってしまうんでしょう?」僕の答えは「そうですね。でもちゃんと形式があって、そこにハマるようにはしますけどね。繰り返しのある形式にですね。」特に使うのが、32小節形式です。 

 

勿論、ジャズの作品は、全部が全部繰り返しのある形式に基づいて作られている、というわけではありません。それでも、この形式は、多くの作品に採り入れられています。この形式を理解するには、まずは小節数を勘定するところから始めます。例えば、「ハニーサックル・ローズ」「ホワット・イズ・ディス・シング・コールド・ラブ」「恋の味を知らないあなたに」そしてA列車で行こう」、これらは全て、32小節形式に基づいています。もう一度言いますが、これらの曲の小節は、1234/2234/3234/4234/と数えることが出来、そしてこの32小節は、8小節ごとの4つのセクションに分けられます。A[8] A[8] B[8] A[8] 

 

御覧の通り、4つの内3つが、同じメロディの素材を含んでいます。3番目が異なっていて、これは「ブリッジ」と呼ばれています。 

 

32小節形式を学ぶ上で、うってつけな曲が「オー・レディ・ビー・グッド」です。最初のA(8小節あります)が2度繰り返されると、ブリッジBへとさしかかります。小節数を数えきること自体は、やろうと思えば難しくはありません。聴き取れるようになるのに時間をかけなくてはいけないのは、メロディの変化、そしてもう一つ変化するもの - それが和声です。 

 

和声というものは、頭で考えようとしすぎると、ややこしいと思えてきてしまいます。似たような話で言えば、音楽に合わせて踊るのが難しい、と思った時、リズムに乗って体を動かそうとせず、頭で考え始めてしまい、足の動き、どの拍で何をするか、腰の動き、首の振り方など、曲は流れ続けているのに、結局混乱して、壁際に立ち尽くしてしまう、なんてこと、ありますよね。それよりも、その場で出来ることから実際にやってみる方が、ずっとたやすいことです。それで何とかなってしまうことは、多くの方が経験しているかと思います。踊ることについて言えば、実際に体を動かしてみる方が、説明のやり取りよりも、はるかに簡単、というわけです。和声も同じで、説明で理解しようなど、ほぼ不可能であり、聴いたり感じたりして理解しようとする方が楽です。 

 

僕の父は、人前でピアノを弾くようになり始めた頃、楽曲には、途中でキーが変わる場所がある、ということに、自分で気付いたそうです。更に父は、それが一定の間隔で発生することも突き止めたのです。彼は後に、その場所は「ブリッジ」と呼ばれるところだ、ということを人から教わり、彼が言うには、一旦そこで「発見」したブリッジというものを、他の曲にも当てはめてみると、大抵のスタンダードナンバーに見られるAABA形式に基づいて、楽曲演奏が出来るようになったそうです。 

 

マイルス・デイビスの名曲「ソー・ホワット」は、ブリッジについて学ぶのにうってつけです。この曲に使われている和声は、たった2つ。Aの部分でDm(ニ短調)、そして、ブリッジでEbm変ホ短調)。D(b)からEb(ミのb)へ半音上がるこの和声のコントラストは、聞きやすく作られているのです。 

 

レナード・バーンスタインがかつて言っていたことですが、歌も楽器もやらない人に説明するのに、一番難しいのが、和声と和声進行の概念だそうです。ジャズミュージシャン達は、和声進行のことを「チェインジ」と呼びます。コードの変化のことですね。僕が小さい頃、父とその友人達が挨拶を交わすと、いつも決まって聞くのが「君の奥さん元気かい?」すると大抵答えは「あぁ、チェインジされられているよ」つまり、「手を焼いている」という意味です。 

 

ジャズでは、和声が変化するたびごとに、音楽の他の要素も変わってくるわけですので、プレーヤーはこれに振り回される形になります。それぞれの和声には、それ用の音がセットになって用意されていて、プレーヤー―はこれらを組み立てて、インプロバイズされたメロディを作ってゆくのです。この音のセットを音階といいます。和声が変化すれば、使う音階も変化します。これにきちんと対応するためにも、各々の和声が、互いにどのように関連付いているかを聞き取れるようなること。そしてメロディに適切な表情をつけること。そうすることで、和声が変化しても、その関連性をしっかりと捉えてハンドルさばきが出来る、というものです。 

 

僕が19歳かそこらだった頃、ウェイン・ショーターが僕にこんなことを言いました「音符は人間だと思い給え。そして自分の方から近寄って行って、一人一人にちゃんと挨拶し給え」。当時は「この人頭おかしいんじゃないの?」と思っていましたが、今は彼の言っていたことの意味がわかります。音符や音階やコードは人間だと思って「彼らと人間関係を作って」おくこと。親しい関係である程、より豊かな音楽を生み出せる、というわけです。人間の数だけ和声に対するアプローチの仕方も存在します。例え話を少ししますと:二人の人が近しい関係にあるとします。そこへ三人目を連れてきますと、二人の関係に変化が生じます。さらに四人目が加わると、雰囲気を折角作ったのに、それを台無しにしかねないし、更に増えれば、もっと悪い方向へと向かって行きかねません。和声はこれに似たところがあります。6つかそこらなら、きちんとしたものになるかもしれませんが、7つとなるとソロを台無しにしてしまいます。和声に関しては、しっかりとした技術を身に付け、音階を重視すること。そうでなければ、和声の壁を突き抜けてもなお、耳に心地よく聞こえるような強烈なフレーズのメロディを探してくることです。話をテニスに例えましょう。芝のコートでは素晴らしいプレーができる人でも、クレーコートでは散々だったり、アスファルトコートではパッとしなかったりするかも知れません。テニスコートと言うものは、様々な状態があると考えられるわけです。それらを一つ一つ対応してゆくこと。音楽に話を戻せば、一つ一つ異なるっハーモニーに対して演奏するなんて、時代遅れで古臭い、そう思い込むことにやっきになっているのが、1950年代に始まり今尚自分達を最先端だと疑わない、アバンギャルド(前衛主義運動)と称する流れです。彼らの発想の根拠がご理解いただけるかと思います。 

 

少し前のことですが、テナーサックス奏者のフランク・フォスターが、ハーレムのジャズモバイルが主催したストリートコンサートで演奏した時のことです。ある若手のテナーサックス奏者が、最初のコーラスから「調子外れ」なことを吹き始めたのです。出てくる音は、和声進行もリズムの設定も無視したものでした。 

 

フォスターは、この若手奏者を制止します。「何してるんだ?」「心のままに吹いているだけです」「だったら、その「心」は、Bbにしろ、このバカヤロメ!」 

 

ジャズミュージシャン達がインプロバイズする、ということは、小節という何度でも繰り返される区切りのある構造の中に、新しメロディを生み出す、ということを意味します。この区切りは、大抵の場合、32小節であるということは、ここまで申し上げた通りです。もっとも、この形式における小節の数については様々で、8小節(例・コルトレーンの「レゾリューション」:アルバム「至上の愛」より)、12小節(例・チャーリー・パーカー 

の「ナウズ・ザ・タイム」)、はたまた16小節(例・モンクの「ライト・ブルー」)だったりします。小節数はどうあれ、一つのサイクルをコーラスと呼びます。3分間の演奏なら10コーラス位になるでしょうか。いくつもあるコーラスの中で、何が起きているか、オフィス空間にあるキュービクルの飾りつけに例えてみましょう。一人一人のキュービクルは同じ広さ/一つ一つのコーラスは同じ小節数。社員の様々な個性や目的に基づく飾りつけやセッティング/演奏者の様々な考えや色合いや趣に基づくメロディ作りや伴奏付け。もっともこちらは、ソリストのネタが底をついてしまったり、逆にダラダラ際限なく演奏したり、はたまたベースがほんのわずかでもソロを取らねばならない、といった事態が起きてしまってはいけません(テナーサックス奏者が時々、ソロで出しゃばりたがるベース奏者のように振る舞って、憂さ晴らしをする事もあります)。 

 

さてここまで、沢山の用語を見てきました。ジャズの世界へ入ってゆく道を見つける手助けとなることと思います。一つだけ、触れずにおいたものが、実はあります。それはブルースです。ブルースはジャズの核心そのものです。次の章は丸ごと、ブルースの事だけを見てゆくことにしましょう。 

 

次回は、第3章を見てゆきます。