about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第8回の1:序章、ルイ・アームストロング

第6章  名人達から教わったこと 

   

<写真脚注> 

最高の教育の機会 - ジョン・ルイス大先生との共演。本番の舞台上で演奏するというプレッシャーのおかげで、1回のコンサートで2か月間練習室に籠り切って身に付くものと同じものが得られるのです。 

 

黒人霊歌で僕が「いいな」と一番思うのは、歌の中では、モーゼやイエス、エゼキル、そしてアブラハムといった、本来違う時代の人とされる人物達が、あたかも今この場で、声をそろえて「私は彼らと語り合った」と言っているかのように思わせてくれることです。 

 

僕にとっては、過去の出来事と言うのは、全て消えることなく残って積み重なってゆき、それが今という瞬間を作っているように思えます。でも訳あって、この考え方が受け入れてもらえない分野があって、それがジャズの教育や演奏活動、あるいは批評の仕方なのです。「過去の積み重ね」という考え方ではなく、耳にすることが出来るのは、あまりにも単純化された説明の仕方で、ジャズに関する物書きの方々が好んで繰り返し語る「順調に伸び行く音楽の進化」というやつです。極貧の黎明期、ニューオーリンズでの20世紀初頭の前後10年。喧噪の成長期、シカゴやニューヨークでの1920年代の10年。ビッグバンドスウィングの1930年代。ビーバップが誕生した1940年代。その後の乱立する学校や学校以外の教育機関の時代。それぞれが、ブルースという根源からジャズという音楽を、より彼方へと進化させていった、と物書きの方々は言うのです。 

 

でも本当に優れたミュージシャン達は知っています。このジャズという音楽は「学校」とかそういうこととは全然関係が無い、ということを。僕の父も言っていますが「学びの場(ステージ)は唯一つ。『君は演奏できるのか?』という学びの場(ステージ)だ」。その問いかけには、男女問わず、「できるさ」と心から答えられる、それが求められる場(ステージ)なのです。 

 

僕は色々な人の話から、ジャズについて非常に大切なことを多く学びました。その人達の色とりどりの語り口のおかげで、話題に上る音楽の周辺とその中身に、自分も入り込めるのです。ジャズは、人とその行いを表現する音楽です。ミュージシャンの名前を口にするだけで、サウンドに込められているそのミュージシャンの人となりが、呼び起こされてきます。時々ベテランのミュージシャン達は、ぼーっと座って、聞いたこともないようなミュージシャン達の名前を次々と口にしては、何某はどこの出身だとか、この曲の演奏は良かっただの、あの曲の演奏は良かっただのと褒めちぎってゆくのです。「そうさ、ボビー・ムーアってやつは、性格がきつくて、やたらとまくし立てる男だった。ディジーディジー・ガレスピー)に訊いてみな。教えてくれるだろう。ボビーが自分の楽器を持って部屋に入ってくると、皆、自分の楽器を片付けてしまったものさ。」 

 

時には、色々な名手達の行いから、僕は学びました。1980年代後半、僕達はパール・ベイリーとのコンサートを開催しました。彼女はこの時、僕に差し入れをくれたのです。昔はミュージシャン達は、本番を一緒にする時はいつも礼を尽くしたもので、それを伝えたくて、とのこと。今、僕はジャズフェスティバルが開催されても差し入れはしませんが、いずれはそうするべきかな、と思っています。 

 

トニー・ウィリアムズが、マイルス・デイビスのバンドでドラムを叩いていたのは、彼が17、18歳の頃でした。彼はアルバム全曲 - 一人一人のソロも、空で歌うことができたのです。気性が激しく、人とは打ち解けないし人付き合いもしない性格でしたが、音楽とそれを奏でるミュージシャン達に対する観察力の素晴らしさを、随所で発揮していました。ミュージシャン達というものは、最高に調子が良い状態の時は、演奏中に足踏みをしないことに気付いた、と彼は僕に教えてくれたことがあります。というのも、そもそも演奏中に足踏みなんかしてしまうと、出てくるリズムが、ポリリズムと言って、腹をさすりながら頭をポンポンとはたくような、妙チキリンなものになってしまう、というわけです。 

 

ドラムの名人、エルヴィン・ジョーンズは、世界でも指折りのソウルフルな男でした。僕はよく彼の家に夜の11時頃に訪ねてゆくと、奥様のケイコさんが、ロブスターだの寿司だのを用意してくれていて、日本酒なんかも次々と出してくれました。何回かツアーで一緒に彼とは回ったことがあり、僕は彼を父親のように慕っていました。ある時僕達が共演した際、かなり激しい演奏になってしまったため、僕の唇が出血しだしてしまったことがあります。彼の音量があまりにも大きすぎたためなのですが、そんなこと思っていても言いたくなかったので、彼には黙っていました。でもそうもいかず、結局恐る恐る彼に言ってみたのです。彼はしばらく僕をじっと見ると、こう言いました「そういう時は言わなきゃ。誰も解らんだろうが」。 

 

ジャズの作品を合わせ練習する際に必要なのが、これを仕切る人の「外交的手腕」というやつです(大げさに言えば)。仕切る人の音楽性に「ついて行こう」と思わせなければなりません。言いたいことを、しっかり伝えたり、グッと我慢したりと、絶妙な綱渡りをする必要があります。何だかんだ言っても、仕切る人が一人で出来ることなど限られているわけで、他の人達が演奏の大半を作ってゆくわけです。その中でも特にドラム奏者の存在は大変大きなものがあります。彼とは口論になってしまったら大変です。作曲やバンドリーダーもこなした円熟のミュージシャンだったベニー・カーターは、ジャズ界では最もエレガントな人でした。彼の音楽は、洗練され、明快であり、自身の音楽への取り組みは真剣そのものでした。僕は一度彼が、言う事を聞かないドラム奏者にイラついているのを見たことがあります。二人とも互いに譲らず、押し問答が続きました。ベニーは「外交的手腕」を発揮し、「好きにしな、好きにしな」と言って、この大論争を収めたのです。これとは別の方法を取っていたのがフランク・ヴェス。編曲もこなすテナーサックス奏者で、カウント・ベイシー楽団の大黒柱だった人です。彼のやり方はこうです。「お前らバカ共は、なんでそんなバカデカイ音をかき鳴らしてんだ、あ?!」と「質問」をし、音量が下がるのを待ちます。すると音量が下がってゆく、というわけです。 

 

ミュージシャンの中には、人をこき下ろすにしても、ユーモアを交えてくる人達がいます。1987年の夏のこと。僕達のツアーに参加してくれたチャーリー・ラウズは、セロニアス・モンクの楽団の偉大なテナーサックス奏者です。彼の演奏は最高にスウィングの効いた、的確なものでした。彼のお気に入りは、僕達の荒っぽい演奏スタイルである「バーンアウト:焼き尽くし」。テンポを加速し、あらゆる種類のドラムのリズムパターンをピアノと連動させ、その間ベースが喰らい付き、頑張ってビートを重ねてゆくのです。ある夜、セントルイスのクラブでのこと。僕がテンポの速い、スウィングをかけない細かな音符が並ぶ、高音域の狂ったような、メロディックでないれど吹くには楽しいという、延々続くソロを吹いたのですが、僕が汗だくになっているのを見たチャーリー・ラウズが言った言葉は「すごいや、お客さんが喜ぶわけだ」。 

 

じっくりそう考えてみると、小さい頃から、僕の身の回りにはレコードやら生身のミュージシャンやらが沢山存在していたにもかかわらず、僕の音楽面での好みは、自分と同世代のそれと大体同じでした。そしてある程度僕が理解し始めていたのは、こういったミュージシャン達の偉大さは、彼らの五感の鋭さと、そこでつかんだ思いを力強く表現することに在った、ということです。今までに、彼らのほぼ全員に面と向かって会い、そして幸運にも、彼らの多くと演奏を共にしてきています。他は彼らの演奏の録音を通して知っているだけですが…。ではここで、13名の名人達から教わった、より大きな教訓の数々を、おススメのCD数タイトルと共にご紹介します。当然のことながら、ジャズというものは、誰の許可を得ずとも、自分にとってためになることを見つけてゆけば良いのです。演奏に耳を傾けさえすれば良いのです。 

 

ルイ・アームストロング 

 

ルイ・アームストロングに会ったことはありますか?」といつも聞かれます。 

 

僕の答えは「ありません。そして会わなくて良かったと思っています。なぜなら、彼に対する僕の好みがハッキリする前に、彼は1971年に亡くなったからです」。彼はラッパを持つアンクル・トムみたいなものでしかない、と僕は考えていました。こんな大御所を目の前にして、無礼千万な考えや思いを、心に抱いてしまう機会が巡ってこなくて、本当に良かった、と思っています。 

 

ルイ・アームストロングといえば、誰よりも深みのある感情表現と、高いレベルで洗練された音楽性です。彼は飾らない心と思いやりを持ちながらも、心に大きな炎をいつも灯していました。牛のように体格が良く、その気になれば人間を一人ノックダウンさせてしまうこともできた、とのこと。 

 

ルイ・アームストロングは、人は誰にはばかることなく、自分らしくあるべきだ、ということを示した人です。常に彼は自分自身を把握し、そして愛おしみました。彼は自らのアーティストとしての腕前に誇りを持ち、これを大切にしましたが、同時に、例えば「読み書き」といった、自分がしっかり取り組むべき課題と自覚していた事柄についても、キチンと向き合っていたのです。 

 

ポップス(訳注:ルイ・アームストロングの愛称)は、社会階層のドン底にあえぐ者の一人として、貧困の苦しみの中で育ちました。世間の最下層を知る彼にとっては、貧困とは、お金に困っている人々のアイデンティティを定義する要素には、必ずしもなり得ないモノでした。彼を育てた人々は、極限状態にあっても生きることを大切にし、その前向きな姿勢は彼にきちんと受け継がれ、後にそれは彼の奏でるトランペットの音に乗り全世界へと伝わったのです。僕が育ってゆく過程で出会った、最もお金に困っている人達、例えば僕の大叔母や大叔父といった人達というのは、最も輝いていた人達でもありました。一緒に居るのが実に心地よい人達です。美味しいモノを一緒に食べて - と言っても、豆御飯だの、ベーコンサンドだの、ハヤト瓜の詰め物ですが - 「色々なことがあった」幼い頃の思い出話を、いつも実に楽しそうに聞かせてくれたのです。 

 

では皆さんも、ルイ・アームストロングになったつもりで、彼の生い立ちを一緒に見てゆきましょう。幼い頃、彼は子供達だけで編成したカルテット(訳注:バーバー・ショップ・カルテット)で歌っています。誰もが彼の歌声を聞くと「大したもんだ」と言います。そんな折、大晦日の晩のこと。ふざけて銃を発砲してしまったことにより、警察に逮捕されてしまうのです。収監された先は、有色人種の浮浪少年達が専ら集められる「少年の家」。ここでコルネットを習い始めると、みるみる他の子供達を追い越して上達してゆきます。「ルイ君はスゴイな」と皆が口々に言います。ニューオーリンズには当時からコルネットの名手が沢山いて、彼は以前からこういった名手達の演奏を、鋭い感性を持つ耳で聴き漁っていたのでした。その時、彼の耳に入ってきたのは、名手達が奏でる音だけでなく、「奏でようとする」心であったのです。やがて彼は、その両方を自分のモノにしてゆきました。 

 

彼は、様々な機会に自分の才能を世に示し、その度に自分への誇りの気持ちを膨らませてゆきました。彼は同世代の若者達から群を抜いて上手かった - それも桁外れに。誰よりも学ぶ吸収力があり、誰よりもハーモニーを聞く力があり、誰よりも心に残るメロディを生み出す力がありました。「教えてくれよ」と皆が乞うてきたのです。17歳になるまでには、彼はニューオーリンス中の大人達よりも腕を上げていました。 

 

その後彼は、キング・オリバーの楽団に入団します。楽団が本拠地を置くシカゴで、彼に「そうだ、シカゴでも俺は誰よりも上手くなってやる」という思いが降りてきたのです。彼はニューヨークへ向かい、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に入団、ここでも気付けば抜群の腕を見せつけました。やがてヨーロッパにまで進出を果たしました。どこへ行ってもこんな感じで、彼は「皆、自分の才能をちゃんと評価してくれている」と思ったのです。 

 

やがて彼の演奏を聞いた人々は、皆彼に心惹かれるようになりました。しかし中には、彼が、極貧・無学の人々が無邪気に心からの喜びを謳歌するその象徴である、として、彼を見下し嫌う人達もいたのです。彼は気にしませんでした。何故か?そういう人達とは関わらなかったからです。幼い頃などは特にね。「そういう人達」が味わうことのなかった喜びや悲しみを、彼は沢山味わいました。そして、「そういう人達」は、彼の様な人材を世に送り出すこともありませんでした。だからこそ、彼はこう思ったことでしょう「そうとも、あんたらは多くを手にしているかもしれないが、俺に様に吹けるヤツはいないじゃないか」。とね 

 

何度も言いますが、「桁外れに」吹ける、のです。この「桁外れに」がポイントです。「大半の仲間が、程度の差こそあれ自分と同レベルの演奏ができるかどうか微妙だ」ではありません。「自分が23,24歳になると、もう誰も自分の足元にも及ばなくなってしまっている」なのです。これは「桁外れ」な違いですよね。ポピュラー音楽に携わる者全てが、彼のマネをしました。その数は計り知れません。彼が訪れることのできない場所など、この世界にはどこにもなかったでしょうし、人々は彼の真似をしようとしました。彼の方も、それを知っていました。1929年、あるいは1930年頃までには、ポーランド人、フランス人、イギリス人、ロシア人、と、誰もが彼のようになることを目指しました。彼は行く先々で、自分の真似をしようとする人々の演奏を耳にして、そういう人々全てに、彼は喜びと幸福をもたらし続けました。そんなことが出来る人は、きっと自分も最高の気分であることでしょう。 

 

ルイ・アームストロングは、誰かの真似をしようなどとは考えもしませんでした彼の演奏には一つのごまかしもありません。「一点の曇りのない芸とはこのことですアインシュタイン自分の考えだした相対性理論の方程式は十分単純な作りになっているから、間違いなく「正しい」と証明される、と言ったとされています。アームストロングの芸も、それと全く同じく単純:「自分らしくてOKだ」。 

 

ルイ・アームストロングサウンドには、癒しの力があります。彼の演奏には、自らの経験に基づく知恵と、人々を受け入れる寛容さがあります。自分に本当に不幸な出来事が起きた時に訪ねてゆく人の声の中に聞こえるサウンド、というものを、彼は持っています。「訪ねてゆく人」とは、自分のおばあちゃんだったり、おかあさんだったり、そのような人達だったりします。そういう人達は、声や手のぬくもりを通して、「大丈夫だぞ」と教えてくれます。ルイ・アームストロングの音楽全体に見受けられる、その感覚、温もり、親しみ、そして「この人には何を言ってもわかってもらえる」という感覚 - 彼には、聞く人の視点に立って理解しようとする姿勢があった、ということなのです。 

 

ジャズのライター達によって、ジャズに関する誤った認識に基づいた線引きが、成されてしまっています。若い人達が、今までにない演奏方法を創り出すと、それはすなわち、年配の人達に対して当然示すべき敬意を捨てた、という印象を与えてる。そういった時代の流れや音楽の形式を「革新」と表現して、表面的な細分化をしようというものです。例えば、前衛芸術の典型とされる、ジョン・コルトレーンのカルテットは、「自分達はルイ・アームストロングよりも先進的だ」、と思っていたのではないか、と考える人がいるかもしれません。とんでもない話です。メンバーであったドラム奏者のエルヴィン・ジョーンズが、かつて僕に話してくれました。ある時、カルテットがシカゴで公演を行った際、ルイがこれに参加したのですが、メンバー全員、彼の前ではすっかり子供のようにワクワクしてしまった、とのこと。ピアノ奏者のマッコイ・ターナーも、その夜のことについて、「あの人は、やっぱり王様だ。オーラがすごかったよ」。 

 

おススメの銘盤 

 

ホットファイブ全集 / ホットセブン全集 

 

タウンホール・コンサート 

 

サッチモ音楽自叙伝 

 

 

 

次回は、ドラム奏者のレジェンドアート・ブレイキーについて、ウィントンの語った部分を見てゆきます。