about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第8回の6:セロニアス・モンク/ジェリー・ロール・モートン/チャーリー・パーカー

セロニアス・モンク 

 

モンクを研究して面白いと思うのは、彼の持つ正反対の矛盾するキャラクターです。彼の立居振舞は「イッちゃってる」というやつでして、変な帽子をかぶる、本番中他のメンバーがソロを演奏している間中グルグル回って踊っている、そうかと思うと、いつまでもじっと黙っている等。ところが音楽は、いたってマトモ。論理的、数学的、そして首尾一貫。彼のインプロバイゼーションは、他のどのジャズミュージシャン達よりも、首尾一貫とした主題の展開をしてゆこうという集中力を感じることができます。アイデアが浮かべば、それを上下に、前後に演奏を繰り広げてゆきます。「ミュージシャンとは数学者だ」と、彼は好んで言ったものです。 

 

モンクの演奏には教会音楽のサウンドが反映されています。そして、人間の魂の深みを知る人だけに感じ取ることが出来る、人が精神面で大切にしなくてはいけないもの、それを彼はしっかりと備えていました。そんなわけで、彼は賢くもあり、同時に子供っぽくもあるのです。十分年齢を重ねた大人には、あまり見受けられないキャラの組み合わせです。子供というものは、辛い現実を取り除くために物事を整理整頓する、なんてことは普通しませんよね。モンクは天才的な管理能力を発揮して、そういう無駄の全くない真直ぐな気持ちを、聴き手に届けるのです。彼のしていた指輪に刻まれた文字は「MONK」。逆さにすると「KNOW」。そういえば、彼のアルバムの一つに「オールウェイズKnow」というのがありました。 

 

彼は曲名を考えるのが素晴らしく、おそらく音楽史上No.1でしょう。「カミング・オン・ザ・ハドソン」「トゥリンクルティンクル」「グリーンチムニー」「クレスプキュールウィズネリー」。もし「曲名付け大賞」なんてものがあったら、彼はきっとそれに輝くことでしょう。 

 

ジェームス・P・ジョンソン、ウィリー・ザ・ライオン・スミス、ファッツ・ウォーラー、あるいは彼が大いに尊敬するその他スマートな東海岸系のピアニスト達は、よく鍵盤を右へ左へ慌ただしく弾きますが、モンクはしません。これとは方向性の違う技を駆使します。音を曲げたり、濁らせたり、呻かせたりするのです。彼のスタイルは、時代遅れではないし、そうかといって今風でもありませんでした。スウィング全盛の1930年代のシャッフルリズムで演奏するのと同時に、彼が使い手として、またその教育者として知られているのが、1940年代のビーバップ。モダンジャズとそれ以前のジャズの区切り目とされるものです。彼は独自の方法による作品を生み出してゆきます。まずはジャズの基本形(モンク・プレイズ・デューク・エリントン)、そして速弾き(フォア・イン・ワン)、コード進行に則ったメロディ作り(イン・ウォークド・バド)、ブルース(ブルー・モンク)。これら全てが彼独特のスタイルであり、大きな批判が、ミュージシャン達からも一部出ました。自分で全然弾けていない、他のプレーヤーが弾いた方がマシだ、というものです。モンクは多くの批評家達から嫌われていました。やがて、バド・パウウェルに唆されて手を出した薬物のことで、警察のがさ入れをくらい、キャバレーカードを失ってしまいます。そんなこんな色々ある中でも、モンクは我が道を貫き通し、「自分らしさ」を確立してゆきました。彼のこうした生き様は、人々に自信を与えることでしょうね。 

 

彼は一風変わった個性の持ち主でした。僕は彼の息子さんから、彼が持ち歩いていたとされるマネークリップ(札挟み)を頂きました。息子さんが言うには、セロニアスはこれによく1000ドル札を一枚挟んでいて、誰かがお金の無心に来ると、それを取り出しては、良くこう言ったそうです「じゃ、これ両替してよ」。これが彼の物の見方です。人とは逆の発想を持っているのです。 

 

もし誰かが「何があったの?」と彼に訊ねれば、彼はこう答えるでしょう。 

「何時だって何だって、起きているでしょうが、え?」 

 

おススメの銘盤 

 

ソロ・モンク 

 

リヴァーサイドレコード社全集 

 

ライブ・アット・ジ・イット・クラブ 

 

 

ジェリー・ロール・モートン 

 

ジェリー・ロールからは、人々と交流する喜びを教わることが出来ます。彼がインスピレーションを受けたのは、豊かな文化を誇った世紀の変わり目にあったニューオーリンズ。牧師も、売春婦も、サロンのピアノ弾きも、みんな彼が愛した人達でした。そういう「夜の人々」「古き良き時代」とは全く無縁の育ち方をした彼が、「そういう」音楽であるジャズの大作曲家として、また知的な解説者として評される最初の人物となってゆくのは、何とも皮肉な話です。彼はニューオーリンズ生まれのクレオールです。クレオールの多くは、特に彼の生まれた時代は、高尚なライフスタイルを好んでいました。彼らにとって最高の音楽は、オペレッタの音楽のピアノ演奏です。バッハでもショパンでもない、ましてやゴットシャルクでもない。クラシック音楽の最も軽めのオペレッタこそが、最高とされました。「ヨーロッパの洗練された文化」という、中身の無い上面ばかりのお飾りの、何がいいのかはともかく、それが彼らの好んだ音楽なのです。それから彼らは、黒ん坊共を悪しきものとして見なしていました。「黒ん坊一人の存在は、誰かの家の裏庭にある警察犬二頭の死体より、しょうもない」この言葉は、ジャック・バトラーというトランペット奏者がジェリーに対し、「俺たち黒ん坊は・・・」といった時にジェリーがバトラーに返したものです。 

 

しかし彼がアラン・ロマックスと共に、ジャズとその解説の録音を、アメリカ議会図書館のために行ったものを聴けば、ハッキリと見えてくるものがあります。彼は人生において出会った全ての人々について、精通した知識があったこと、それから、彼は人種に対する偏見はあっても、その音楽に対しては全く偏見を持たなかったこと、です。 

 

少年時代、彼はニューオーリンズの夜の街の、最もアブナイ側面に心を惹かれました。そこでは、あらゆる種類の、あらゆる社会階層の人々が、出会い、そして交わっていたのです。ジェリーは、社会の最底辺では、人々は人種ではなく世間で何をして暮らしているかによって皆が等しく扱われてゆくことを、つぶさに見てゆきました。こうして彼とシドニー・ベシェは、ニューオーリンズ音楽をアメリカをはじめ世界に広めてゆく大きな務めを果たすことになります。モートン音楽史上最初に曲作りに用いたのが、ニューオーリンズポリフォニー技法;クラリネット、トランペット、そしてトロンボーンが、それぞれ全く異なるメロディを一斉に演奏する、というものです。この対位法をキチンと使いこなして音楽作品に仕上げることが出来たのは、彼とデュークエリントンだけでした。彼が他にも体系化したのがコーラスフォーマットです。これにより、一つの楽曲の中で、ある部分が別の部分と切れ目なくハマってゆくことが出来るようになりました。この、今までになかった楽曲形式のおかげで、同じハーモニーの流れをエンドレスで繰り返すことから解放されたことになります(「ブラック・ボタン・ストンプ」「パールズ」参照)。 

 

アメリカ議会図書館の録音の中で、シンコペーション、音量バランスのとり方、リフ、ブレイク、そしてコールアンドレスポンス、といったあらゆることについての説明録音を遺しました。こうした表現方法の中には、アメリカだけにしかない、そして音楽的価値が高いモノもあり、それらは特にアメリカ人の生き方を表現している、という認識を、彼は持っています。彼が生きる時代、そして彼の出身地にとって、彼が経験したことと彼が語る話は、彼の周囲の人々にとっては訳の分からない内容に思えたかも知れませんね。 

 

 

彼のジャズについての知識もさることながら、実はジャズの持つ意味に対する理解こそ、彼の深みが見られるところです。人間、記憶力が良ければ、音楽について沢山覚え身につけてゆくことは可能です。でもジェリー・ロール・モートンは、ジャズの大切さ、歴史の流れの中での位置づけ、そして同世代のミュージシャン達のそれまでの成果、といったものを、良く認知し理解していました。これ程の人材は、彼以外ニューオーリンズから輩出されたことはありません。 

 

彼は自己顕示欲が強く、そして他人の批評を好んでしたため、あまりよく思われていませんでした。僕が思うに、ジェリー・ロールは、彼が生きた時代の不当・不正といったものに勝てなかったのではないか、という気がします。彼を傷つけたものは、まずは人種差別、そして彼の価値に見合う報酬を与えることが出来なかった音楽出版業界、更には音楽の嗜好の変化という厳しい現実もありました。彼は時代遅れの人とされ、デュークエリントンやその他名手達の陰でかすんでいるなどと、本人はそんな年でもないのに評されてしまう有様。「雉も鳴かずば撃たれまい」の時代にあっても、彼は敢えていつも声を上げました。例えていうなら、奴隷の身分で文句ばかり言っているようなもので、平穏な時間が長続きなどするはずもなかったのです。 

 

ジャズは暮らしの中に溶け込んでいるもの、ということを示す豊かな情報源、それがジェリーでした。「世間の営みをミュージシャン達は音にして返す」というわけです。彼のこのビジョンこそが、今ジャズに必要なのです。なぜなら今ジャズは、日々の営みからかけ離れた、何かよそ者が学ぶエリート向け専門分野のように教えられてしまっているからです。ジェリー・ロールの演奏を聴くと、彼が生きた世界の全てが聞こえてくるようです。街中の雑音、道行くパレード、人の死、教会に響く音楽、ユーモアに沸く笑い声、喧嘩、カリブ音楽で盛り上がるダンス、イタリア系の人々の歌声、売春宿から漏れ聞こえる調べ、港で働く人の歌、インディアンのシュプレヒコールラグタイム、強く激しいストンプのリズム、ゆったりのびんり走り行く馬車、そしてロマンチックなバラード - ありとあらゆる音楽と人々の営みが、そこには響き渡っているのです。 

 

確かに彼は、傲慢で自信過剰な性格ではありましたが、その音楽の持つ豊かさが物語るのは、彼が実に多くの人々と交流を持っていた、ということです。優雅な暮らしぶりの大物達から、社会の底辺に居る人々まで、彼はまるで彼らの中に乗り移って、彼らの生き様を音に奏でているようです。ですから、彼の音楽がかかると、そういった人々が目の前に蘇ってくるように思えるのです。 

 

おススメの銘盤 

 

米国議会図書館用録音 

 

1923年~1924年 

 

1926年~1930年 

 

 

チャーリー・パーカー 

 

バード、といえば何と言っても、底知れぬ頭脳の明晰ぶりです。頭の回転が速く、論理的で、それが長時間続くのです。バードが世に出る以前は、超絶技巧を駆使して速いパッセージを演奏しても、それは音楽の中身というよりは、人をあっと言わせる効果のため、とされるのが普通でした。例えば『「ヴェニスの謝肉祭」による変奏曲』のように、元ウタがあってそれを素材にした作品の中で、より印象に残る主題を次々と作るための手段でした。でもチャーリー・パーカーの場合、その超絶技巧そのものが主役、というわけです。人を圧倒する力を持ち、内容豊富なメロディを、これ以上は無理と思われる速さで吹き綴ってゆくその能力こそ、彼の最も驚くべき音楽の業績なのです。多くの人が彼の真似をしようとしてきましたが、今のところ誰一人足元にも及びません。 

 

彼がこうした演奏スタイルを築き上げるまでには、実はかなりの年月がかかっているのです。苦労の末に手に入れた、というわけです。でも他のミュージシャン達は、完成したものをレコードで聴くだけですから、皆自分達の楽器がそもそもどういうものなのかをよく考えずに、彼のスタイルでインプロバイズしようとします。バードの演奏の素晴らしさは、なかなか他人が表現し切れるものではありません。バードが乗り越えた苦労を、自分でも経験してみることが必要なのでしょう。至高の論理性、完璧なテンポ感、音の全てに込められている純粋さと詩的センスと魂、これらがどんな速さでも維持されているのです。更には、かなり複雑な演奏であるにもかかわらず、全ての人々の心に語りが届くような演奏だったとのこと。ジョン・ルイスが僕に話してくれたことですが、チャーリー・パーカーの本番には、およそあらゆる人々が足を運んだものだったそうです。ジョンはいつもそのことに大いに感心したとのこと。船乗り、消防士、警察官、役人、売春婦、麻薬仲間、普通のサラリーマンまで、誰もが、バードが吹き始めると、会場はそのサウンドに釘付けだったのです。皆座席で、あるいは通路で、口をポカンと開けて聴き入ります。バードが年月をかけて築き上げた演奏ですから、中身は充実の極み。アメリカ音楽の全てがそこに詰まっています。バイオリン弾きのリール、黒人霊歌キリスト教の野外伝道集会での歓声、ミンストレルショーの小唄、ボードビルショーの楽曲、アメリカの様々な歌謡曲、ブルース、ラグタイム、サロンや家庭の居間から聞こえてくるピアノ演奏、ヨーロッパのクラシック音楽。そして、パーカーがカンザスシティ出身であることの証ともいえる、ブルースを演奏する際の非常に魅力的な強く速いストンプのリズムや、リフのかけ方も、言うまでもありません。 

 

ところでバードから僕達が学ぶべきことが、もう一つ別にあります。それは、超有能な人間は、まずは何を置いても真っ先に、才能を身につけることが必要だ、ということです。なぜこんなことを言うのかといいますと、結局、バードの命を蝕み、音楽の発展を阻んでしまったのは、音楽とは全く関係の無い、薬物だったからです。彼は真の天才でした。だからこそ僕達は、彼について研究する必要があるのです。それにしても皮肉なものです。音楽以外の生活はバランスが崩れきっていたのに、音楽では最高にバランスのとれたミュージシャンだった - 目もくらむようなスピードで吹きまくっても整然とした演奏を聞かせ、最高に洗練されたハーモニー進行に基づいてこういった完璧なメロディを創り出し、どんなバンドに出演してもその場で初めて聞く曲で驚くべきソロを吹いて見せて、これ程多くのあらゆる層の人々と自然に心を通い合わせる - なんてことがあるんですね。 

 

薬物さえなければ、彼の物語は、もっと栄光に満ちていたことでしょう。言っても仕方ないことですけれどね。僕の大叔父がよく言っていました「人生何が災いするかわからん」。時には自分以外の周囲の状況のせいで、自分ではどうすることもできなくなることがあるでしょう。彼は自分が生きるこの世界を一つにしようとしました。人々の価値を向上させようとしました。自分の音楽を他と肩の並ぶ程にしようとしました。彼はこういったことを、自分が歓迎されていない文化の中に在っても、それをモノともせず、しようとしました。ということは、他の人なら日々の生活の中でやり過ごしていた、ある種の侮辱の数々を・・・そうですね、多分、バードの頭と心は、あしらいきれなかった、ということなんでしょうね。 

 

おススメの銘盤 

 

サボイセッション全集 

 

チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス 

 

ワン・ナイト・イン・バードランド