about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第9回

第7章  名前のないもの 

   

<写真脚注> 

スウィングの精神で:(左から)マーカス・プリンタップ、ウォルター・ブランディング、テッド・ナッシュ、そして僕、満員のお客様達は、年齢、肌の色、そして人種は様々です。皆が一つになって盛り上がる音楽は、そう、ジャズです。 

 

僕にはどうしても理解できないことがあります。人間の創造力というのは、神秘的な領域の話で、それも限られた特別な人達だけが持てる能力だ、と思っている人、多くないですか?子供達にインプロバイゼーションを教える機会があるのですが、シャイな子なんかですと、何でもいいからやってみなさい、と言っても、ひるんでしまいます。そんな時、僕はこう説明してあげるのです「簡単だよ、鳴らしてみるだけさ。そう、頭に浮かんだこと、指先や唇で感じたこと、何でも音にしてOK!もっと大きく!もっと元気に!そうそれ!それがインプロバイズだよ!」。子供達が、痛々しいけれど、自由な気持ちで奏でる音符が生まれてきます。僕は「ね?簡単だよって言ったでしょ?上手にやらなきゃ、なんて思うから難しいのさ」。 

 

僕達の身の回りをよく見まわしてみれば、人間の創造力の賜物が目に入ってきます。僕が今住んでいるニューヨークの、ブロック一つ一つ、通り一本一本、ガラスも、鉄骨も、コンクリートも全て、それから街中のあらゆるアート、標識、送電線、配管、絵といった、マンハッタンを世界一ステキなメトロポリス(大都市)にしてくれるものが、全て作った人がそれぞれ居るんだ、と思うだけで、度肝を抜かれる思いがします。僕達人類同胞、その創造力が生み出したものは、そこいら中に溢れかえっています。着ている服、話す言葉、暮らしのスタイル、それらは多くの組み合わせという形でも感じ取ることができます。創造力は身に付けてゆく必要などありません。誰でも生まれながらにして持っているモノなのですから。それに気付いて発揮すればいいのです。この地上に生きる人類一人一人に、この世にないモノを生み出す創造力というギフトは与えられています。創造力は語りかけてきます「やり方は数え切れないほどあるぞ」。政治家が決めた法律もなければ、いつのまにか決められているルールもありません。創造力は何物にも束縛されないのです。眠っている時に見る夢のように、自分で制御することもできません。浮かんだ創造のネタを表現する方法だけは、自分で選んで決めましょう。 

 

変なことを思いついたな、と思ったら、他の人も同じことを考えていて、その人はそれを実行に移して大成功した、なんてこと、よくありますよね?自分の考えを伝えてみたら、笑われた、なんてこと、よくありますよね?いい考えが浮かんだ、と思って、よくよく検証してみたら、やっぱりバカバカしくて笑われても仕方のないものだった、なんてこと、よくありますよね?考えてみたけれど、行き詰まってしまったなんてものもあれば、そうでないものもあったりします。 

 

でも失敗した経験をバネにして、より一層自分としっかり向き合って行くようにしてゆけばいいのです。這い上がって、大失敗やら大誤算やらを乗り越えれば、自分が創造したものを他の人に堂々と伝える「分厚い面の皮」が出来上がる、というもの。そして自分でやってみる経験を通して、理論を作ってゆくこととと、実際にやってゆくこととの違いが、分かってきます。自分自身の創造力を、尊いものと考える気持ち - 実行に移せるネタと、それをやり遂げるために身についている自分の「武器」 - これこそは、モノを創り出す自分だけの力を、果てしなく伸ばしてゆく、その第一歩なのです。 

 

僕がジャズを演奏する機会が世界中に広まり始めた頃、どこからともなく批評家や僕より年上のミュージシャン達が現れ始めて、僕の演奏は確実性がなく、ソウルもフィーリングも欠けていて、小手先の技術に走っている、というのです。僕は若かった頃、音楽の中身や表情を演奏の中に充実させてゆく努力を、怠っていました。ですからこういった批評で、僕の自信は揺らぎました。確かに僕だって、多くの人、特に同世代の人達と同じように人生山あり谷ありではあったけれど、音楽を演奏する者としての資格があるのだろうか、と思うようになってしまったのです。不安にさいなまれ、僕に下された評価について、愚痴を聞いてもらった相手が、スイーツ・エジソンという、ブルースを極めたトランペットの名人でした。 

 

彼は「お前さん、生まれは?」 

 

僕は「ニューオーリンズです。」 

 

「小さい頃は何をしていた?」 

 

「演奏活動をしていました。」 

 

「親父さんの仕事は?」 

 

「ミュージシャンです。」 

 

すると彼は言いました「だったらこれ以上何を望むよ?いいかい、自分らしく『振る舞う』んじゃない、自分らしく『なる』んだよ」。創造力とは何かについて、僕が最も大切にしている教えの一つです。創造力とは、自分らしくなること、自分自身の考え方を尊重すること、自分自身の「夢が埋まっている鉱山」から色々掘り出してくること 

 

単純極まりない、とお思いでしょうが、でも世の中自分よりスゴいアイデアが溢れかえている、と思うと、ついやる気をなくしてしまいますよね。それに革新的なアイデアを思い付いたとしても、そんなものは大抵バカバカしいと言われてしまうし、大抵受け入れられるのは昔からある物の考え方ですから(といって、それがイイネ、とは滅多になりませんが)。大学でジャズを学ぶ学生達が、大抵なりたがるのが、イノベーター、つまり芸術形式の世界観を変えてしまうこと、具体的にはルイ・アームストロングチャーリー・パーカーのような存在になりたい、というわけです。イノベーションに欠けるものは「失敗」だ、とされてしまうのです。 

 

僕はこういうのを、不可能な基準、ということで、スーパーマンスタンダードと呼んでいます。それはつまり、若い人がジャズを学ぶメリットは唯一つ、その人本人でもやっとの思いで理解できるような説明の仕方で、ジャズとは何かを決め直す、そんなチャンスをモノにすることだ、というのです。こういう子達が音楽教育に求めるチャンスとは、レジェンド達の一人に自分もなることであり、彼らから学ぶということではありません。今ある音楽の中に学ぶ価値があるものが存在するかもしれない、とは考えないのです。 

 

音楽評論家としても活躍したジャズピアニストのレナード・フェザーが、かつてモンクに訊ねた言葉が「何か新しいことをなさってはいかがですか?」 

 

モンクの答えは「そんなのは他のヤツに考えさせればいい。何か良いもの、ってのはどうだい?」 

 

スーパーマンスタンダードとは、設定レベルが高すぎて、自分では達成できません。常に「自分は努力が足りない」と思い込む羽目になります。彼氏や彼女で、何をしてあげても満足しない人みたいなもので、こちらが頑張るほど、ますます図に乗って文句を言ってくる、というわけです。 

 

子供達が、イノベーターにならないと成功したとは言わない、と考えてしまうと、現実を無視した期待を持ってしまい、結果、芸術の基本を大切にする姿勢が阻害されてしまいます。これは例えて言うなら、チャーリー・パーカーの演奏を聴いたら、そういう次元の演奏をしないといけない、と考えるようなものです(心配しなくても無理なんですけれどね)。ミュージシャンというものは「これが大好き」という気持ちを持たないとか、「誰の影響もうけたくない」と思うとか、そんなことでは音楽の持つ最高のパワーというものを実際に体験することはできません。ひどい人になると、今ある音楽と関わり合いを持つのは、自分の敵とベッドに一緒に入るようなもんだ、と信じられない考え方をすることもあります。つまり、自分より優れたものに触れてしまうと、その影響で、今の自分の無垢で新鮮なサウンドが損なわれる、というのです。 

 

こんなことを言う子達がいます「ジャズの進化を前に進めたい」。僕は言ってやります「CDをかき集めて車に載せて、これでいいだろうっていう所まで前へ進めてこい」とね。なぜなら、ジャズの進化は、前に進むとか、後や横に進むと言う話ではないからです。自分なりに一石を投じればいいのであって、結果、それらは、なるようになってゆくものです。誰も考えたことのないものを思いつくことがあるでしょう。それは必ずやジャズに新たな美しさや中身を与えることになります。しかしそれによって、ジャズの立ち位置や取り巻く環境を変えることは、起こり得ないのです。ジョン・ルイスがよく言っていました「(ジャズが)どこか新たな場所へ移動するというのは、これまでもなかったし、これからもない。ジャズにあるのは、美しく広大な流れ、それだけだ」。名人達人と呼ばれた人達が色々と試行錯誤を繰り返した結果したことというのは、マックス・ローチは、既にしっかりと出来上がっていたドラムの演奏スタイルに多くの奏法を加えたこと、ジョー・ジョーンズは数多くのドラムの演奏実績を残したこと、同じ様にバド・パウエルはピアノ、でもそれ以前にアート・テイタムやジェームス・P・ジョンソンも同じように演奏実績を残しています。 

 

僕がいつも若い人達に勧めるのは、良い演奏をする価値を見直しなさい、セロニアス・モンクだのデューク・エリントンだのいったレジェンドの一人になれるかどうかなんて、考えないようにしない、ということです。自分だけのモノを手に入れて、それを音に反映させる、それはその人の力になります。世界中の人が注目し真似してくれる、とはいかないかもしれませんが、きっと君は納得できるはず。まずは良い演奏をしないと、レジェンドと呼ばれるかどうかは、その次の話です。 

 

創造力を発揮するのは、伝統という主流の内側だったり外側だったりするわけです。内側で発揮すれば、今在るモノを更に良く実行する方法が生まれるし、外側で発揮すれば、今までにない世界が生まれます。どちらも「イノベーティブ」と言えるのです。伝統に活力を与えるもよし、伝統に異議を唱えるもよし。芸術活動に取り組んで身についたものは、こうやって役立てるのです。芸術の世界が表現してゆくのは、想像しうるあらゆるタイプの人々、皆それぞれに抱えてきたものと向き合い取り組んできています。彼らの姿を、誰もが納得する、力強い、そして自分独自の表現方法で描くのです。自分はダメだ、こんなに出来ないことだらけだ、と思い込んでも、偉大なイノベーター達が持っていた知識や技を得て、彼らの創造力とはどんなものだったのかを理解していれば、そんな「出来ないことだらけ」は一掃することが出来ます。イノベーター達の業績は、教え、励まし、そして喜びを与えてくれるのです。 

 

ダニー・バーカーは子供達に、他人の創造力を尊重し、他人が創造力を発揮する余地を尊重せよ、と教えました。まずはその心掛けを持って、その上で次のステップアップは、創造的なアウトプットができるようになる力をつけてゆくには、他の人と共に創造することができるようになるのが必要です。それには、他の人が何をできるかをしっかり見つめ、自分のしていることを、他人のしていることに、柔軟に適応できるようになるようにならないといけません。 

 

アメリカは歴史の浅い国です。自らの無礼さと強情により、自らが何者なのかを考える上で重大な危機に苦しめられてきています。長い年月にわたり、ヨーロッパの芸術だけが価値あるもの、という幻想を抱きました。また、芸術は階級意識を増長させるとも信じていました。芸術を愛するなど、インテリぶったヤツの言うことだ、というわけです。今日でもなお、アメリカ人の多くが、芸術とはある種の夢見で現をぬかし、実生活を送る上では本質的な必要性はなく、そのくせ分かりにくいもので、ゴミや埃と一緒だ、と思っています。学校で真っ先に予算削減の対象にいつもなってしまうのは、そのためです。「芸術は実用性のないもの」という考え方がそこにはあります。「何せ、芸術家の多くがそんなに給料をもらえていない。時には全く稼げていないのもいるし、もし金儲けしている、などというなら、そんなのは俗悪な神聖冒涜のたぐいだ」。芸術は、理数科目と違って必要のないものだ。だから、芸術に公的資金が投じられると世間の攻撃の的になるのです。 

 

近年見られる一部のトレンドは別にして、芸術活動への取り組みは、人々が知恵を合わせるとこんなことができるんだ、ということを実現する機会になっています。そうやって表現されるものには、最も人が強く望むこと、日々の暮らしの在り様、愛し合う男女の心の内、精神世界との結びつき、人が生まれる時、死ぬ時、そして生まれてから死ぬまでの間の「生」、これらとの向き合い方、こういったものが映し出されるのです。要するに、芸術とは、今の自分の姿をくっきりとさせ、そして、自分はこんな可能性も持っているぞ、ということを広げて見せる、ということです。芸術は、平和な時代でも戦争の時代であっても、節度を持って生き抜いてゆく術を与えてくれます。芸術作品は、洞察力のあるものであれば、良く作り込まれていれば、十分的確な表現が成されていれば、人類の偉大さの証として時代を超えて残ってゆきます。ホメロス、チョーサー、ミケランジェロ、ベートーベン、それ以外の場所や時代に生きた偉人達の業績というものは、現代文明の持つリンガフランカ(人類共通の言語)の一部なのです。 

 

アメリカで創造された全ての芸術の中で、ジャズこそ、最も良く「アメリカ人とは何か」を語るものです。民主主義は、人々の創造力を爆発的に強大化し、アメリカ独自の芸術は創造力溢れる芸術家達を、これまでになく輩出することになるだろう、ということを示しています。そういった芸術家達のことを、そして彼らの業績のことを理解する上で、生きる上で大いに役立つ創造力、勇気、そして忍耐力といったもので、自分の身を固めることが出来るのです。 

 

しかし実際は、最も価値あるイノベーションは、やはりジャズそれ自体なのです。ジャズは求めるものを満たす大切さを教えてくれます。芸術とは、それに命を与える人を養い育てるために創られているのです。1800年代初頭にベートーベンが言ったことですが「今の(1800年代初頭)教会音楽の本当の姿を捉えようと思うなら、教会音楽の音階が出来たばかりの時代に戻って勉強しないといけない」。別の言い方をするなら「常識に頼るな、原点に返れ」ということです。 

 

物事の本質を知るには、その大元まで可能な限り戻って近づくこと、これは僕の信念です。物事は、時間が経つと徐々にその意義にしろ、込められた熱意にしろ、そういったものが損なわれてゆきます。丁度、太陽から遠ざかる程、温度が下がってゆくのに似ています。ジャズを初めて作った人々というのは、奴隷制から解放された世代から、たった二世代しか離れていません。彼らは日々の暮らしの中で、政治の仕組みとして、人間性を否定するような細かく分け隔てられた形式を持つ人種差別の犠牲者だったのです。ですから彼らにとって、自由とは、大変な重みをもつ言葉でした。こうしたジャズミュージシャンの先駆け達は、自分達の「芸の術」を通して、新たに見出された、人としての自分の自由について溌剌と謳歌したのです。でも自分が謳歌するだけでなく、他人が謳歌することも、彼らは嬉々として聴き入りました。彼らは分かっていたのです。昔、黒人は鎖で数珠つなぎになっていたけれど、今度は「自由」でお互い数珠つなぎになるんだ、とね。そしてこれは理屈ではなく、自分達が送る人生の中で感じ取ったことでした。 

 

こうした先駆け達は、あらゆる種類の人々と、この喜びをシェアし伝え合うことに、心躍らせました。彼らは人間関係のバランスをとる名人にもなったのです。ブルースに乗ってインプロバイズし、スウィングという皆で取り組むリズムを好み、協力し合って物事を創り出す完璧な方法を編み出したのです。ここまで見てきたように、スウィングとは、アメリカの歴史において一つの時代を描き、そしてある種の世の中の見方を定義したものなのです。 

 

この「世の中の見方」では、集団で物事を決めてゆく力は信用に足る、としています。心に抱く思いと、良い方法での人の好みに導かれる「より良いやり方」をチームが追求してゆくことで、悪い決定だとか面白みのない決定などというものは、飲み込まれてしまうのです。チーム一丸となって物事に取り組む集団が、心に何かしらの思いを抱く時、そしてメンバー全員が公平・公正であると互いを信じる時、何があっても調和を保つと決意を固める時、これを人は「スウィング」と呼びます。「自分達のやり方」が、自分のやり方となるのです。この物の考え方は、聴衆、CDを買ってくれる人々、サポートスタッフ、そして自分達の家族との在り方についても広がります。出来ないことはありません。毎週日曜日、教会での集団礼拝で、何も練習なんかしなくても一斉に祈りを唱えるではありませんか。同じ思いを皆が持っているからこそ、揃って進むことができるのです。 

 

ジャズバンドが演奏する時、スウィングこそ唯一つの目標。全員一丸となりたいと思わせる原動力なのです。音楽としてのジャズ、それは集団としての熱い思いを発揮するミュージシャン達が、腕を磨き上げ、通すべき筋を共有し、組織としての体制を確立する、それらは全て時間の流れというプレッシャーの支配の下で行われることです。全員一丸となることで、音楽はスウィングします。全員一丸とならなければ、音楽はスウィングしません。ですから、ジャズは「皆で一緒にやろう」ということになっていますが、実際は「皆で一緒にやらなきゃ」なのです。スウィングの出来栄えは、その過程でいかに誠実に「皆で一緒にやらなきゃ」とやるか、にかかっています。 

 

演奏に際しての様々な意図を明確に打ち出してゆくことによって、集団でメリハリのついた結果を完璧に表現してゆくことに集中する、これって、音楽以外の場面でも、色々な頑張り所で当てはまることですよね。スウィングしている(活気のある)家族は、居心地幸せだし、何をやってもうまくいきます。同じことが、ビジネスや、チームとしての取り組みにも言えるでしょう。自分がやろうと思っていることがどんなものかによって、実際にそれを行動に移した時、その評価が左右されます。だからこそ、人は謝辞する時に「こんなつもりではありませんでした。ごめんなさい」と言うのです。きっと「次は自分が本当に意図したことを行動に移します」とでも言いたいのでしょうね。スウィングとは、人の思いがそのまま行動に現れる代物です。そして民主主義にとって大切なツールなのです。新しいテクノロジーによって世界のグローバル化が進むにつれて、世界の諸々の文化同士の距離がだんだん近付いてきています。こういった諸々の文化が鉢合わせになった時、もしかしたらお互いのやり取りは、緊張した気持ちと、どちらかが相手を潰す、という考え方がベースになってしまうかもしれません。でも大丈夫。この「ズレ」が「世界の終わり」などと勘違いしなければ、実際は新たな「世界の始まり」だとわかります。「バベルの塔」の逆バージョンですね。今まで離れ離れだった僕達が、今度は一緒になって、喧々諤々を乗り越えて調和を生み出すのです。 

 

個人の創造力と集団行動に対する責任感、こういったことを重視するジャズを理解することによって、今僕達の時代が迎えている歴史上先例のないグローバルな人間同士のやり取りをする上での、考え方や心の在り方を作ってゆくことができます。人種・民族間の信念の違いというものは、簡単に消え去ってはいかないものです。皆が皆、こちらのやり方に合わせようと自分のやり方を捨てようなどとは思わないでしょう。最適な居場所というものを誰もが持っていた1950年代の、古き良き「オジーとハリエット」のようには、僕達はもう戻れないのです。国境という仕切り線の数が、今よりうんと少なくなった世界においては、市民としての在り方はどうあるべきか、ということを、もう一度よく考えてゆかねばならない時が来ています。 

 

僕が子供の頃教わったのは、人に与えられる権利と人が負うべき責任義務は、その人が市民としてどう在るかによって決まってくる、ということです。一般的には、子供は自分で自分の後始末をつければいい存在です。大人になると、自分が責任を負うべき人の数はぐんと増えます。家族、隣人、地域、国家、そして世界全体、とね。この輪は無限に広がってゆくものです。そして市民としての成熟度の高さは、その人が背負っていることの大きさと数と、ダイレクトに結びついているものです。 

 

芸術の世界では、この梯子段は、まず自分自身の腕前に責任を果たす、次に自分の取り組む芸術分野、芸術の世界全般にと、責任の輪が広がってゆき、最後は人間性それ自体に責任を果たしてゆくところまで届いてゆくのです。 

 

ジャズは、人類には誰の目にも明らかな尊厳がある、と主張します。今のテクノロジーの時代にあっては、前向きな人間性よりも洗練されたマシーンのほうが重要なんだ、とコロッと騙されてしまいがちです。だからこそ、芸術は、自分とは何かを測る大切なバロメーターなのです。栄誉ある自分、最高の自分とは何かを、教え、明らかにしてくれるのが芸術です。世界中どこでも、政治家や財界人といった人達は、貧弱な文化的活動をぶち上げては、それに対する取り組みには手抜きをするのです。こういったことが表れているのが、学校の教育現場、家庭。そして世界に目を向けてみれば、それは、金をため込み、ブクブクと太って、だらしない立居振舞をし、モラルに欠け、粗野で、自制心のない若者達だったりします。 

 

文明を築き上げてゆくことの大変さは、誰もが知っています。現在のテクノロジーは、やがて時代遅れとなってゆくものです。でも人間の魂を動かしてゆくものは、何時の時代も変わりません。僕達は今でもホメロスの作品を読みますが、だからといって古代ギリシャの文明の利器を使いたいなどとは思いませんよね。ベートーベンの時代の貴族政治に戻ろうなどと思う人はいなくても、彼の音楽は今でも耳にするのは、それが人の魂の深みに訴えかけてくるからです。彼はそれを「第九」で作り上げて見せました。彼の音楽は、当時の姿そのままで演奏しても、今この瞬間、僕達の魂を高揚させてくれます。それから、いつの時代の人も、今自分が生きている時代が最悪だ、と考えますが、同じ位めでるべきことも沢山あるのが常というものです。 

 

ジャズミュージシャン達は、相反するもの同士を調和させることが出来ます。ジャズを創造した人は奴隷の子孫であり、しかし彼らは自由を雄弁に語るのです。ブルースというジャズにとっては血液のように大切なものは、しばしば、心を辛くするようなメロディや歌詞を、楽しく踊りたくなるようなビートに乗せてきます。だからといって、それに騙されてはいけません。楽しそうに聞こえているだけですのでね。ブルースは私達を、しっかり地に足のついた状態に保ってくれます。それからジャズは、今の時代の、文化に関わる様々な疑問に答える手助けをしてくれます。バランスのとれた生き方をする上で、僕達が創造してきた様々な美学のツールを、どうやって使って行けばいいのか?科学技術の進歩が、人と人とのやりとりに取って代わるようなことをさせずに、生活を快適にするようにするには、これをどう捉えてゆけばいいのか?他の文化と融合してゆく時に、他の文化をバカにしたり、逆にこちらの文化の素晴らしさを捨ててしまったり、そんなことをしなくて済むにはどうしたらいいのか? 

 

ジャズほど柔軟性のある芸術はありません。ジャズは、一人一人の良さを信じる、それから、一人一人が理性的な選択をちゃんとできる、という信念に基づくからです。ジャズは、一人一人の意思決定力に任せてくれます。文書化された規制だの、様々な制限を設定した階級制度だのを用いて、一人一人の自由を排除するようなことは、しません。ジャズの世界では、バンドの中での自分の立ち位置を決めるのは、心の広さと演奏の腕前です。ジャズの哲学が根差すのは、人々、それも平凡で善良な市民が、生活を向上させ、豊かになってゆくべきだ、という発想です。 

 

リスペクト(敬意)とトラスト(信頼)、これがジャズが教えてくれるものです。偉大なミュージシャン達の演奏を聴いてみると、彼らが仲間のミュージシャン同士の腕前をリスペクトしていた、ということが分かります。例えばリズムセクションが演奏から外れている時は、ミュージシャン達は自分が演奏することよりも他のプレーヤーをしっかり聴こうとしますし、リズムセクションが演奏に加わっている時は、お互いに対するトラスト(信頼)を音に感じ取れます。というのも、プレーヤーは常に、他のプレーヤーが創り出した演奏に反応し、それに適応してゆこうとするからです。僕の考えでは、エルヴィン・ジョーンズがこのことを一番うまく言葉で表現しています。彼が言った言葉ですが、しっかりとしたレベルで他のプレーヤーと演奏するなら、そいつと心中する気持ちで行け、とね。勿論、本当にそうしたらいけませんよ。でもこれこそジャズであり、これこそ実際に心に抱く本当の気持ちなのです。 

 

非常にシンプルで、そして最も本質的な環境において、創造力と革新性は、人の魂(ソウル)の大切さを、人間に繰り返し語りかけてきます。これら二つは、別々に、そして一つになっても、人間の感情が広がった結果生まれたものですし、そして、人間を表現する最高の手段なのです。僕達は芸術に携わる者の務めとして、理解し、何度も結び付け直してゆかなくてはいけないのが、この創造力と革新性です。それは単に経済的な発展をもたらす手段としてだけではなく、民主主義をキチンと機能させ、完成された市民としての在り方を保つ手段としても、です。僕達は文化に携わる者の務めとして、見出さなくてはいけないのが、人間同士の共通の一致点というものです。それはたとえ、自分にとって最強最悪の競争相手ともね。そうやって、どんな人とも誠意を持って演奏に限らず色々な物事への取り組みができるのです。 

 

「誠意を持って」と言いましたが、この誠意というものについて、学ぶべき最大の教訓が、ロックンロール以降の時代、ジャズミュージシャン達の多くが金儲けに走る決断をした頃に見出せます。いつの時代も、最高のジャズの演奏には、プレーヤーの誠意と信念が音に表れています。というのも、ミュージシャンの腕前と内に秘める能力とは、大変な苦労の結果手に入るものであり、なかなかこういったものを妥協して失うようなことは、できないことです。でも当時ジャズミュージシャン達が、「ジャズなんてダサい」と言われたくなくて、知名度や金にめがくらみ、自分の芸や技を安売りすることに走ってしまった結果、ジャズは、政治や多くのビジネス活動が直面する同じ試練を味わうようになったのでした。リーダーシップの不十分さ、品質の低下、深遠な意味の喪失、そして人に対する気遣いの無さ - 突き詰めた所、「誠意」が大きく損なわれてしまったのです。「結局ジャズって何だ?」「俺が何を演奏しようと、何か変わるのか?」 

 

とは言え、こんな不作の時代にあっても、面白いことというものは、色々な所で生まれています。何でも芸術で表現して見せたい、という人間の希望は、誰にも止められません。クリエイティブアート(創造芸術)においては、「ひらめき」と「ひたむき」が揃った時に、目に見えるエネルギーが発生するのです。このエネルギーが、物事を変化させる力となるのは、常に新しいものを求める人の中で発生する時ですが、そういうい人が集団となってもなお革新出来であり続けるなら、エネルギーがもたらす力は途方もないものとなります。言葉で言い表すことのできないこの大きなワクワク感は、色々な方向から組み合わさってくる創造力のモザイクに、自分も参加してゆくことから生まれるものです。忘れないでください。創造力とは身につけなくてはならないモノではなく、生まれながらにして身についているモノです。人は誰もが芸術家としての潜在能力を持っており、芸術家とは、その潜在能力である創造力を、とことん育んでゆく、その心を突き動かすのは、人が住むコミュニティとの絆をつくらなきゃ、という気持ちであり、その場所は選びません - 地下鉄、ピクニック、夕食後のひと時、ビジネスの場においてさえも - 。嬉しいこと、伝えたいことを届けようとする気持ち、これを自分にインスピレーションを与える人、つまり、自分と同じ人類にも贈りたいという心は、やめられませんよ。 

 

この気持ちに突き動かされて、70歳のルイ・アームストロングは、死の影が忍び寄っても、唇が月の表面のように傷だらけになっても、ついにあの、たっぷり血の通った音に辿りついたのです。この気持ちに突き動かされて、病気がちで張力に障害を持ってしまったベートーベンは、夜中の2時半過ぎに目を覚まして、ピアノの響板に頭を突っ込んで、苦心した一つのパッセージを練り直し、それは約200年後の今でも至高の名曲の中で息づき、僕達に語りかけてきます。この気持ちに突き動かされて、後年寝たきりになりがちになったアンリ・マティスは、鮮やか過ぎるくらいの色彩を使いこなし続けた後に視力に重大な支障をきたしてからも、気力を振り絞って、長い棒を使って、記憶と感覚を頼りに、壁や天井に描き続けたのです。この気持ちに突き動かされて、デューク・エリントンは、50年間コンサートツアーを続けた後、余命数か月となっても、彼とバンドがライブで作り上げた栄光に満ちた最終結果を満喫しようと、全作品2000曲余りを聴けるだけ聴きまくったのです。彼らを止めることは、誰にも、何事にも、決して出来ませんでした。 

 

この気持ちには、名前はありません。この気持ちは、くたびれ年老いたカウボーイが、ハーモニカを吹いて歌を歌い、飼牛をつれての辛い移動にも、まずいコーヒーにも耐える力となったのです。この気持ちは、僕達皆が感じていたいし、その輪に加わりたいものです。それは僕達に生まれながらに与えられた権利ですが、単にそれに気付かないだけです。でも僕達が歴史にその名を刻むアーティスト達の演奏を聴く時、彼らの多くは、今より困難な時代を生き抜いたことを思うと、彼らがこう言っているように聞こえます「この溢れかえる皆が認める創造力は、今もそしてこれからも、手の届く所にあるし、それだけでなく、人間の持つエネルギーと能力、そして一人一人に与えられた時間を費やす価値のある、唯一のものだ」。 

 

デューク・エリントンの言葉「THE people ARE my people」(「人々」とは、私にとっては、その一人一人皆が大切な存在なのだ)。この考え方を自分のモノにすることが出来れば、過去のがっかりするような出来事から立ち直り、昔の人達が果たせなかった夢を叶えることになるでしょう。今でも聞こえます、ダニー・バーカー先生の言葉「そう、それがジャズってもんだ」。