Moving to Higher Ground - How Jazz can Change your Life を読む

Random House Trade Paperback "Moving to Higher Ground" を読んでゆきます(語句・文法解説付き)

<日本語全訳・後半>ウィントン・マルサリス「Moving to Higher Ground ハイヤーグラウンド 上を向いていこう:ジャズは貴方の人生を変える」

第5章  仲良きことは美しき哉 

   

<写真脚注> 

スウィングダンス:誰もが心に抱く願いを、立場を越えて表現する最高の方法 

 

ミズーリ州カンザスシティで公演を行った時のことです。ボブ・ホールデン知事が僕達一行を昼食に招待してくださったのですが、丁度その時刻に、ミズーリ大学のバスケットボールチームが、大一番の試合を控えているところでした。正直、ホテルで観戦したかった、と思いつつ、ジェファーソンシティの知事邸に到着。ところが知事の方も、何となく目が訴えているように僕には見えたので、恐る恐る「ところで知事は、バスケットボールは御覧になったりしますか?」と訊ねてみました。思った通り、彼はすぐ満面の笑顔で「よくぞ言ってくれました!ささ、2階へ。試合が始まりますよ。」 

 

テレビ観戦が終わり、下の階で食事ということになりました。会話の中で、知事が子供の頃仲良くなった黒人の子の話をしてくれました。知事の生まれた小さな町には、黒人の住民が一人もいなかったとのこと。ある時、重病を患い入院した先で、同い年で同じ病気で入院していたその子と同室になったそうです。「ああ、また『私の知り合いの黒人』話か・・・」と思ったのも束の間、知事の次の言葉に、僕はハッとしたのでした。「今更、黒人も白人もなく仲間のはずなのに、こんなような聞くのもウンザリな話題ばかりで、いつも会話が弾む羽目になってしまう。お互い知り合いになっただの、仲間の輪ができただの、こういう話がいつまでたっても『この国全体がそうなった』にならない。皆さん、どうしてなんでしょうね?」 

 

数年後のこと。ルイジアナ州の州都バトンルージュは、同市の二つの大学の快挙に熱狂していました。ルイジアナ州立大学が全米フットボール選手権優勝、サザン大学が南西部黒人インカレ総合優勝を、同時に果たしたのです。大喜び一杯のヴェス・アンダーソンが、僕に電話をくれました。彼が電話をかけてきたところは、一日がかりの祝賀イベントの真っ只中で、その最高潮に達したのが、両校のマーチングバンドによる州議事堂入口階段での国歌合同演奏でした。「こりや、今夜のニュースはこれできまりだね」彼は笑ってこう言いました。この後、暴動でも起きない限り、この合同演奏がニュースにならないわけないだろうと、僕達は二人ともそう思いました。なのに結局、ニュースにはならず、後に人々の記憶から消えてしまったのです。 

 

ホールデン知事が望む「国全体が『知り合い、仲間になった』であるとか、バトンルージュの州議事堂階段で肩寄せ合って歌い上げた、二校のマーチングバンドといったものが示すもの、これがジャズの本質的な要素なのです。まるでジャズは、この国における人種差別の偽善や不条理をさらけ出すために創られたようにすら、思えてなりません。 

 

かつて植民地政策を敷いた国々は、征服した人々に対して創り用意した社会環境が、それぞれ異なっています。本国の人々と征服された国の人々について、フランスは混在させ同化させた。スペインは混在させ抹殺した。イギリス人は混在させるも、それがイギリス人によるものではない、と信じ込ませたのです。つまり、理論や法、そして「イエスの御名の下に」というキリスト教の決め台詞でガチガチに固め、「神の救済」と言う名の苛烈な管理体制を敷いたのでした。アフリカから連れてこられた奴隷達は、南北アメリカ大陸のいたる所に居たものの、USAにおいては、奴隷とは、拘束されるべき人間であり、それによって、アメリカの象徴たる「個人の自由」がバランスよく保たれるよう仕向けられました。奴隷は、合衆国憲法において、「一人」とは数えられず、「3/5人」と数えられるよう規定されたのです。彼らを奴隷の状態のままにしておくことによる経済効果は絶大であったため、やがて国家全体として行うことになってゆきます。同時に、アメリカの精神的アイデンティティに暗い影を落とすことになり、それは今なお続いています。 

 

国歌で「自由の大地」と歌い上げられるこの国で、人を「所有物」として扱ったことの名残、そして、奴隷制度廃止の後に始まった人種差別、こういったことによって引き起こされた様々な問題は、多くの犠牲者を出した南北戦争や、その100年後に発生し、今なお決着のつかない公民権運動があったにもかかわらず、未だに解決されないままです。奴隷制度は、その後のアメリカの政治体制、金融体制、倫理観、そして憲法で崇高に謳われる中心的概念「全ての人々に平等な正義」「全ての人々は平等に創られている」云々、こういったものを作る上で影響を残しました。「全ての」:いい言葉ですよね。「一部の」なんかよりも。 

 

ここで僕から問題提起を一つ。ジャズと言えば、アメリカが世界にもたらした最も偉大な芸術です。これを創ったのは、かつて奴隷制度から解放され、社会の「最少数派」とされていた人々です。ところで、これと同じことは、アメリカ以外の社会でも発生していたのです。例えばブラジル。社会学者のジルベルト・フレイレは、著作「大邸宅と奴隷小屋:ブラジルの市民社会発達についての考察」の中で、サンバが持つ国民全体にとっての重要性について着目しています。サンバはブラジル人の精神そのものであり、国民的音楽として絶対視されるべきものだ、と彼は述べています。そしてサンバの原点がアフリカの一地方にあるというなら、ブラジル人である、ということは、一部アフリカ人である、というのです。 

 

フレイレがこの本を書いた1933年、当時アメリカの有識者団体はどこも、黒人をキチンとした形で受け入れようとすることが出来ていませんでした。こんな調子でしたから、アメリカを代表する音楽(ジャズ)は、アメリカ国民が分かち合う伝統文化の中心にあるとは、到底見なされません。 

 

ジャズとは、ある特定の人種の為の音楽ではありません。全ての人が演奏し、そして聴いて楽しむものです。実際人々は、ずっとそうしてきています。しかしジャズのこれまでの歩みを人に伝える上では、どうしても深く掘り下げて語らねばならないことが有ります。それは人種隔離、白人/黒人しか在籍していないバンド、人種差別、性差別、メディアの影響、そして「アメリカ人とはかくあるべきだ」という物の考え方です。未だに、黒人か白人か、と言う物事に対する見方がなくならない傾向にあります。マーチン・ルーサー・キングJrは黒人にとっての指導者、と見なされているようですが、彼が導いたのは黒人にとどまらず、多くの人種・肌の色の人々だったのです。公民権運動は黒人解放運動と思われがちですが、実際この国民全員が関わった運動は、アメリカ人皆の目標である、合衆国憲法と言う紙に書かれたことを実現し実行しようということが、その中心にありました。ジャズも全く同じことです。 

 

ミュージシャン達は、普段の生活の中では差別を受けていましたが、自分達が音楽を学ぶにあたっては、差別など全くありませんでした。白人のテナーサックス奏者、スタン・ゲッツは、自分がこれと思い惚れ込んだプレーヤーの演奏スタイルに影響を受けてゆきます。野心的で才能に恵まれ、頂点を目指した彼にとって、最高のものは黒人プレーヤーによるものだったため、そこに注目してゆきました。マイルス・デイビスが影響を受けたのは、黒人のフレディ・ウェブスターと白人のハリー・ジェームスです。ルイ・アームストロングに影響を与えたのは勿論、彼のメンターであったジョー・「キング」・オリヴァーの演奏スタイルですが、同じ様に白人プレーヤーであったボフミール・カレイルやハーバート・クラークの演奏スタイルからも影響を受けています。これこそが音楽と言うものです。好きなものを耳にしたら、それを自分が演奏してみる。特にテレビなど無かった時代には、プレーヤーの見た目よりサウンドの方が、はるかに大事でしたからね。人種に関する奇妙な思い込みが、歴史に蔓延してしまっているのです。ジャズがもたらしてくれる「共に行こう」という素晴らしい発想は注目されず、いつの時代も「この演奏はどんな人種が行っている」に目が行ってしまうのです。 

 

その思い込みは、今でもアメリカに巣食っていて、人の時間を無駄にし、ジャズの精神を蝕んでいます。 

 

それは歴史上、早くから見受けられました。ジャズの持つ情報量や知的センス、そして人間性の深みといったものは、黒人に対する不合理な扱いというものを、くっきりと人々に示して見せました。そのため、知識層による誹謗中傷の圧力も、すぐに発生したのです。ありとあらゆる手段がとられました。一つは無視すること。ジャズを創ったのは黒人、黒人は無価値、故にジャズも注目する値なし。もう一つは貶めること。映像スクリーンで漫画だのセックスのシーンだのと一緒に流すことで、ジャズは子供向けの番組か、「18禁」ぐらいでしか、まともに使えない、としてしまう。この奇妙な取り合わせは、ビデオが普及するにつれて更に密接になってゆきました。こうなると正規の教育機関で扱われることなど、ありえない、ということになってしまうでしょう。公民権運動が興るまではずっと、学校現場では、練習室でさえもジャズの演奏をしたら退学処分、といったことが、黒人の子弟が通う学校においてさえも、実際に行われていたのです。 

 

その後時代は、ジャズを保護・支援しつつも、積極的には取り上げないという風潮に変わります。音楽史の通説として、20世紀の3大影響力とよく言われるのが、ストラビンスキー、シェーンベルク、そして「ジャズ」。「デューク・エリントン」でも「ルイ・アームストロング」でもない、全体カテゴリーとして、二人のヨーロッパにおける巨人と並べられてしまっているのです。 

 

よくジャズは、ミンストレルショーのBGMと間違われたり、売上数重視のダンスミュージックと一緒くたにされたりします。ニューヨークタイムズ紙でも、未だに「ジャズ/ポップス」とひとくくりにされる始末。ようやく、全米各地の何百もの教育機関でジャズの教育が行われるようになったものの、あくまでもアフリカ系アメリカ人歴史学習は切り離されてしまっています(そういった意味では、自国の歴史学習自体が、疎かになっているとも言えましょう)。 

 

訳注:ミンストレルショー(minstrel show) 

1840~1880年アメリカで人気のあった演芸。顔を黒く塗った白人が、黒人の口調や動作をまねて歌ったり踊ったり、あるいは喜劇的な演技をする。 

 

ジャズに対する強い攻撃も行われています。それも、ハッキリとは言わないけれど、残酷なほどに人を小バカにするようなやり方で。例えばニューオーリンズの音楽を「ディキシーランド」などと呼びますが、これは南北戦争以前の、奴隷制を維持していた南部連邦の軍歌と結びつけようとする意図が現れています。「自由を謳歌するヤツには奴隷の鎖を」。そして現在は、強い攻撃はハッキリと行われています。「いわゆる」と前置きして、褐色の肌をした音楽の類、と称し、ブルースをこき下ろし、ジャズの命たる「スウィング」は、どう演奏されようが、もはや過去の遺物だ、と言い放つのです。こういう物の見方が増長する認識というのが、ジャズは革新を遂げてヨーロッパの芸術としての音楽の一翼を担うようになっただの、あるいは、いい加減に演奏されるラテン、インド、アフリカのゴチャ混ぜ音楽へ「進化した」だのというものです。 

 

ジャズに対する最も狡猾な攻撃の一つを行っているのは、自らを「ジャズの友達」と称する人達です。「進んだ物の見方をする人達」を自負する人達が言うには、ジャズは自然発生的に生まれた、とのこと。アレン・ジンスバーグによれば、ジャズは「誰だって演奏できる。ラッパを持って吹けばいいんだ」。当然、もしそれが本当だというなら、ジャズの発展には系統的なものは何もなく、そして黒人の自由解放以外には何の美学的目的もない、ということになってしまいます。 

 

1950年代のビート派の物の考え方、これの現代版が、現在の新しもの好き達による「全ての音楽を愛する」という発想です。その方針はこうです。「私は音楽は何でも好きだ。だからジャズとは何か、なんて関係ない。これはジャズだとか、これはジャズではないとか、どうでもいいことだ」。耳の肥えた優秀な方々にとっては、ジャズの意味などと言うものは存在しない、ということでしょうか。となると、意味のないものは人には教えられない、ということになります。意味も定義もこの音楽にはない、と言う考え方のおかげで、ジャズの教育における精神面での中核は、木っ端微塵にされてしまい、将来ジャズを演奏し、楽しみ、ジャズで人を育てる道は不要だ、ということになってしまっているのです。 

 

ホメロスは、たった二冊の著作で歴史に名を刻みました。「イリヤド」と「オデッセイ」です。それでも、ギリシャ人の共通認識としては、この二冊に込められた内容は膨大であり、だからこそ彼らは何世紀にもわたって、この二冊の読みこなしを繰り返し、ギリシャ人であるとはどういうことか、ひいては、人間であるとはどういうことか、について、少しでも明確な理解の仕方を求め続けているのです。ジャズも、これと同じく、アメリカ人であるとはどういうことか、についての洞察に、展望を与えてくれます。そこまでではないにしても、アメリカ人に理解するよう促せば、そうなる可能性を秘めています。我が国の伝統において、アメリカ人とは何か、についての核心に関する議論は、もはや殆ど行われていません。そして依然としてアメリカ人は、ジャズの定義と同じ位基本的なことについて、皆が合意できていないように思えます。 

 

今や私達は、ジャズとの関わり合いが非常に貧弱です。ジャズと言う言葉も、これに伴い、この音楽が生まれた頃と比べると、きちんとした定義を持たなくなってきてしまっています。ジャズについて、何かを知ろうとするところから始まって、年月をかけて演奏し議論を重ねるうちに、結論としてこの言葉には、実体のある意味がない、ということになってしまいます。これにより、ジャズは人に教えられないモノ、とされる始末。なにせ、ジャズなんか演奏しない、とうのであれば、ジャズを理解するなど出来るはずがありません。努力した挙句、とことん謎めいて不明確になってしまったなんて、まるでジャズの本当の姿を隠すことによって、私達の生きる道に関する重要な真実に向き合わせない、かのようです。ここにあるものは秘密の代物、それがジャズです。 

 

ロックンロールには意味があります。ヒップホップやサルサ、サンバ、そしてタンゴといったものは全て、それぞれ独自のサウンドを思い起こさせます。しかし今日、ジャズは、こういう音楽の総称なのか、はたまたどれにも当てはまらないのか、良く分からなくなっていて、正しく理解されていません。しかしもしもこの音楽が、アメリカ人にとって何かしら意味があるものなら、そこにある様々な要素は、私達の生活の在り様に見られる様々な側面を反映しているはずです。ここのサウンドは重要ですが、アンサンブル全体としてのサウンドも重要です。ステージ上で大勢の演奏が一つに「なってゆく」その過程は、朝鮮人にしろナイジェリア人にしろ、移民がアメリカ人に「なってゆく」道のりに似ています。「なってゆく」ことを望まなくてはいけないのです。スウィングすることの過程とは、常に変化している物事に対して、常に調子を合わせる過程と同じであり、、自由が保証されている社会における今風の生き方です。と言ってもそれを選択する/しないは、その人次第です。 

 

人種差別が産んだ別の強迫観念によって、いつまでも答えを探そうとする羽目になる、本質的にポイントのずれた問題が、「この音楽は誰のものか」です。答えようものなら、肌の色が何色が一番上手か決めよう、などという無益な取り組みをしなくてはならなくなります。要するに、ルイ・アームストロングが一番で、肌の色が濃い目なら、ジャズは黒っぽい肌をした黒人の縄張りだろう、ということになります。しかし、となると、ルイ・アームストロングと同じレベルの黒人は他に誰だ、と言う話です。そしてその人と肩を並べる有色人種、はたまたビックス・バイダーベックのような白人達はいるのか?有色人種である「クレオール」であるシドニー・ベシェより上手な黒人人種のソプラノサックス奏者は誰か?そんな人はいません。「黒人人種」と認められる血の濃さは?ジャンゴ・レインハルトはどうなる?ちなみに彼は、ベルギー出身のジプシーですがね。 

 

本物のミュージシャンだ、という決め手は何か?肌が黒くて先祖が奴隷であることが必要条件か?となると、ジャック・ティーガーデンやバディ・リッチのような白人ミュージシャンと同じレベルの演奏が出来ていない黒人ジャズミュージシャン達はどうなんでしょうか?「十分黒人とは言えない」ということか?となると、ある特定の分野 - 例えば競泳や管弦楽など - で圧倒的に白人が強いのは、黒人に単に競争力がないからなのか?それとも自分の能力に対して狭い料簡を持つことに甘んじてしまうのは、文化の置かれている状況のせいなのか?「生まれつきなんだから、自分じゃどうしようもない。やっても無理なんだから、やるなよ」アメリカのプロバスケットボールの世界では、同じ白人でも外国人であるヨーロッパの選手の方が活躍しています。肌の白さが足りないからか?アメリカの白人選手は、黒人選手の持って生まれた優れた点に対して、これを受け入れようとする文化的背景を育まずに育ってきたからなのか? 

 

別の見方をすれば、黒人はこういった扱いを受け入れるよう、国全体でお膳立てが成され、長い間に亘って状況が好転することなど望み薄にされ、それが黒人の生きる道となってしまったのです。当初黒人に対する差別と抑圧は、あまりにも完璧で、「自由」などというものは感じ取ることすらありえないことでした。ジャズミュージシャン達にとって、「平等」として「優越感」といったものを初めて実感したのは、白人達と黒人達がオフの時間に、一緒に演奏するようになってからです。舞台上では序列は実力主義。だからこそ、コールマン・ホーキンスやレックス・ステュワートといった人達が、人種に関係なくミュージシャン達からリスペクトされていたのです。 

 

ルイ・アームストロング、、シドニー・ベシェ、そしてデューク・エリントンといったようなジャズ奏者達が向かい始めたヨーロッパというところは、舞台上でなくても彼らが普通の人間として扱いを受ける地です。彼らがかの地で享受した自由は、アフリカ系アメリカ人が本国では決して味わえないモノでした。彼らはどんな女性達とも、交流を持ち、男女の関係を許され、そして勿論ミュージシャンである彼らに対し、どんな女性達も関心を寄せたのです。彼らは凱旋の後、もてはやされ、世の中を闊歩するようになりました。小奇麗に着飾り、好きなように振る舞い、稼ぎも増えて、自分達の演奏したいものを演奏しました。世界では自分達の音楽は、民主主義と自由を意味するようになっていたことを、彼らは理解し始めたのです。 

 

ジャズの中に在るものは、アメリカの開拓者達の活力と不屈の精神、そしてそれは、黒人と白人両方のミュージシャンのものです。でもこの国では、舞台上でも、そしてレコーディングスタジオの中でさえ、依然として分離された状態でした。意識の高い黒人達の間では、愛想笑いと「イェッサー!」の一言では拭い切れない、深い憤りの念が、常にあったのです。意識が高くなるほど、彼らの憤りは増幅されてゆきました。しっかりとした教育を受けるほど、怒りは激しくなっていったのです。このように公正でない状態がいつまでも続くと、生きる喜びが削がれてゆきました。彼らが公共の場で辛酸を舐めさせられた社会構造を、粉砕すべく、こう言った人々は自分達の能力とエネルギーを注ぎ込んだのです。 

 

文筆家達、出版業者、そして音楽ファンはこぞって、ベニー・グッドマンを「スウィングの王様」と称しました。確かに彼の率いたバンドは、とてつもなく良い楽団でしたが、当の本人は、その様な自覚はありませんでした。それは当時同じく活躍中だったデューク・エリントンカウント・ベイシーについても同じでした。グッドマンはそう呼ばれることを受け入れていました - 受け入れない人などいるわけがありまあせん - しかし自分は相応とは感じていなかったのです。もし皆さんが黒人ミュージシャンだとして、自分はスウィングの王様となるに相応しいと思いたいですか?多分そういう思いは皆さんを大いに困惑させるのではないでしょうか?デューク・エリントンはその生涯の中で、1920年代はポール・ホワイトマンが「ジャズの王様」、1930年代はベニー・グッドマンが「スウィンの王様」と、それぞれ称されていたのです。 

 

もし皆さんが映画に出演したい、それもメイドだの召使いだのとしてではなく、出演したいと思ったら、もし皆さんがメトロポリタン歌劇場のステージで歌ってみたいと思ったら、そしてその才能が実際あったとしたら、多分その気持ちは皆さんを押し潰してしまうでしょう。ジャズの演奏家の多くは、そういう人達なのかもしれません。 

 

黒人にとっても白人にとっても、ジャズは全て、人種の隔離や差別は間違えていると訴える術でした。白人のミュージシャン達は、我が国では、最も偏見を持たれない人達の部類に入っていたのです。有名な話を一つ。1926年、マンハッタンのローズランドボールホールで開かれたバンドコンテストは、地元ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソン・オーケストラと、中西部から来た白人で構成されるジョン・ゴールドケット率いる楽団との対決でした。ミュージシャン達の点数が集計されました。蓋を開けて見れば、大半の票が投じられたのはヘンダーソンオーケストラ - コールマン・ホーキンス、レックス・ステュワート、そしてベニー・カーターを擁する - だったものの、ゴールドケットの楽団 - こちらはフランキー・バウアーとビックス・バイダーベックを擁する - が結局勝利します。 

 

「完敗だった」とレックス・ステュワートは当時を振り返ります。「あいつら生真面目な白人のボーヤ達には負けたよ」。しかし双方のリーダー共、相手の演奏にしっかり耳を傾けていて、このコンテストの後、ゴールドケットはヘンダーソンオーケストラの首席アレンジャーであるドン・レッドマンに、ヘンダーソンはゴールドケットの楽団のメンバーで、やはりアレンジャーのビル・シャリスに、それぞれ仕事の依頼をしています。両バンドは再び相見え、その時は引き分けています。 

 

さてこのように、圧倒的不利と目された白人バンドが大勝し、これに黒人ミュージシャン達が潔く兜を脱ぎ、双方のリーダーは相手の人種よりも音楽に注目したという美談ではありますが、もし黒人バンドが連戦連勝となったろどうなるのでしょう?きっと勝ちを認められない、若しくは「元々黒人には勝てっこない」と片付けられるか、でしょうね。 

 

ジャズは、「古き良きアメリカの伝統」となってしまった人種差別が、不当であることをさらけ出して見せたのです。ミュージシャン達は、恐らく、そして愚かなことに、そうとは知らず、そしてそう感じることもなく、憂うこともしなかったのかもしれません。何世代にも亘り、人々が犠牲となっていった根深い傷を残すも手間のかからない仕打ち、それらは、木に吊るされることだったり、白人の子供を「ミスター〇〇」と呼ばされたり、等々。それなのにミュージシャン達は、芸術活動に携わる中で物を見る力を研ぎ澄ませてゆくことで、人種差別がもたらす苦情を更にヒシヒシと感じていたにも拘らず、「これは実にあってはならないことだ、あちこちに発信してゆこうじゃないか」とは言わず、「これは実際に有り得ないことだ、あちこちに発信しないでおこうじゃないか」と収めてしまったのです。 

 

人種差別に対する僕の怒りの大半は、ケナーで育った頃に由来します。時代は公民権運動に最盛期からその後にかけて、といったところ。僕にとって本当に酷い思いがするものであり、僕はそれを演奏で表現しました。しかしこれに対し、僕が縁を持ったジャズの大御所達は全て、アート・ブレイキーからジョン・ルイス、ウォルター・デイビスJrまで、人間は人間でしかない、それ以上も以下もない、と信じていたのです。ある時僕がアルトサックス奏者のフィル・ウッズのことについて、失礼なモノの言いようで語った時に、僕を叱ったアート・ブレイキーの様子を、僕は決して忘れることはないでしょう。彼の言う通り、あらゆる憎悪はどこかで終わらせなければなりません。そしてそれを終わらせる一助となろうとするなら、誰にこびへつらう必要はないのです。本当にモンクやチャーリー・パーカーの域に達しようとするなら、彼らは断じて黒人の白人に対する優越感に言及せず、「私達の音楽は全ての人の為のモノとなることによって、我が国の在り様を台無しにする人種差別を完全に否定するようになる」と言ったことを忘れてはなりません。「ビーバップは国民の統合について表現したものだ」ディジー・ガレスピーは僕に、彼にしろチャーリー・パーカーにしろ、彼らの音楽によって統合「されてゆくこと」が目的なんだと言いました。ディジーが僕にこういったのは1980年頃で、当時僕の頭には統合のことは全くありませんでした。「その時代はいつか来るだろう。でもそんな必要はない」僕はそう考えていました。 

 

「統合」と言うものについては、僕は子供の頃の遺恨がありました。1969年、僕が8歳の頃、母は僕を、ケナーにあるキング牧師記念「統合系」カトリックスクールへ入学させたのです。白人の子供達が大多数を占める中、黒人は僕と友人のグレッグ・キャロルのたった二人だけ。もし皆さんがこの「たった二人」だったら、「統合」されたくないはずです。何しろ生徒も先生もこちっらを日常的にいじめてくる連中で溢れかえっている学校なのですから。いじめられるのが快感、というなら話は別ですけれどね。絶え間なくいじめの集中砲火を受けていると、それまで経験したことのない疲労感に襲われました。父はかつて言っていたのは、自分は大人になるまでの間、さほど多く白人と出会う機会が無かったので、蔑みを受けたこともなかったとのこと。勿論、社会全体としての不当な扱いは広く行き渡っており、父もそれに適合するようにはなっていました。しかし父は、完全に黒人しかいない環境で育ってきていましたから、26歳になるまではずっと、路面電車の前の方の席に座ることは許されませんでした。僕にしても、統合系の学校へ通いだす以前は、白人と出会うことはあまりなかったのです。ケナーでは、白人が家の玄関口にやってくると、その界隈の子供達はこぞって、その家の父親がトラブルに巻き込まれるような何かをしでかしたのではないか?と知りたがったものでした。そしていよいよ白人との出会いと言うものが本格化し、事態は良い方向へは進みませんでした。「Bozo(おバカさん)」「Hersley Bar(ハーシーのチョコレートバー)」「Burnt Toast(黒焦げのトースト)」といったニックネームは、「おはよう」「こんにちは」あるいは「ようこそ」といった挨拶程度の物言いだったのです(白人側にとっては)。 

 

重圧が常にのしかかっていました。いつもその重圧により、本当の自分らしさを捨て、他人が決めつけた自分の姿を受け入れる。それにより自分を決めつけた人より下等でいなければならなくなったのです。それが正しい行いだと、先生方は信じていましたし、その生徒達も、そしてその親達もそう信じ、議論に上ることすらありませんでした。9歳とか10歳とか、ある程度の処まで全く違う育てられ方をしてきた人間が、人間としての在り様を守るために、戦わねばならなくなったのです。いつも酷い言われようでした。「君って他の黒人達と違うんだね」「うちの従妹、黒人の何者かに強盗に遭った」「君、なんで学校の宿題なんかやるのさ?僕の家の庭掃除をするのに、学校の勉強なんか関係ないじゃないか?」 

 

取っ組み合いのけんかになると必ず、子供達は輪になって取り囲み、こう口々に囃し立てました「喧嘩だ、喧嘩だ、クロンボVS白人様だ」こう言ったことは、年配の世代が耐え忍んだことよりは、遥かにマシだということは知っていました。といって年配の世代が実際に酷い仕打ちを受けていてからと言って、自分自身が置かれている状況を甘受することには、全くなりません。自分の体感したことしか、人は実感がわかないものです。苦しいことは記憶に残ります。それは実際にあったことを歪めてしまうのです。自分のことを「クロンボ」と呼んだ、自分の持っている本の表紙に、勝手に大きな唇の悪戯描きをした、学校でプレゼントの度に猿のグッズを押し付けてきた、そういう白人は一人残らず記憶に残るでしょうが、自分をかばってくれた大柄なドイツ系の子や、家に自分を招待してくれたユダヤ系の子については、記憶を呼び起こすことが難しくなってしまうものです。 

 

所謂「統合」について言えば、全てが異なっていました。本当に細かなことまで全てが、です。いじめに関わらない方の白人の大半は、貧困層とイタリア系でした。だから学食では、いつでもスパゲティやラザニアなどと言ったイタリア料理の類には、ありつくことができました。イタリア料理はいいのですが、毎回となると困ります。家ではいつもクレオール料理というフランス料理の技法に基づく食事が出されました。ガンボとか赤豆とご飯を炊いたもの等です。それから白人達はよく、僕達の話の仕方について、いつもからかってきました。こういったことに不平を言う僕に対し、細かくは覚えていませんが、お母さんは大体こんなことを言うのでした「いいかい、誰にでも生まれ育った場所と言うものがあるし、誰にでも何かしら逃げられない背負っているものがある。だから学校に通っている間は、自分と言うものを捨ててしまう必要はないんだからよ」。お父さんは食べ物については「文句を言うな、何だかんだ言ってみな食ってるんだろ?」 

 

僕の両親は、僕ら子供達が成長の過程で最大限の準備を施してくれました。僕は幼い頃、フレデリック・ダグラス、ナット・ターナージョージ・ワシントン・カーヴァー、ブッカー・T・ワシントン、ラングストン・ヒューズと言った処は、本を読んでいました。お母さんはハリエット・タブマンのことを話すのが好きでした。彼女は僕達を、昔のカビルドの跡地を見せに連れて行ってくれました。そこはかつて、奴隷売買が行われていた場所です。展示されている鎖やら枷(かせ)やらを見ていて、奴隷制度と言うものの現実をしっかり認識したことを、今でも覚えています。お父さんと仲間のミュージシャン達は、歴史のことや政治のことをいつも話題にしていました。今でも覚えている、ある日の話です。その日は父と床屋にいたのですが、誰かが概ねこんなことを言っていました「エリス(ウィントンの父)と議論しようったって、誰もかないっこないさ。何と言っても世界中を回っているんだからね。全く大したミュージシャンだよ。皆が知っていることさ」。 

 

祖父も、大叔父も、政治の話をよくしました。大叔父とは、僕が6歳から8歳の頃よく一緒に過ごしました。彼の名前はアルフォンスと言いましたが、僕達は皆彼のことを「ポンプ(尊大な人)」と呼んでいました。ニューオーリンズにあった彼の家は、南部特有の、廊下がなくて裏口までつながって見通せるような、小さな「ショットガンハウス」と呼ばれていたもので、仕事は墓石工、彼は多くのことを見聞きしており、気が向けば話が溢れてきます。 

 

「撃ち合いになった経緯が全てなんだ」彼は言いました。1883年生まれですから、1900年に発生した、所謂「ロバート・チャールズ暴動事件」については、記憶があります。二人の警官がロバート・チャールズという名の若い黒人に対し、執拗に同行を強要したため、ロバート・チャールズが警官たちに向けて発砲、その後民家へ逃げ込み、合計、警官7名が死亡、20名が負傷の末、ロバート・チャールズは射殺された、というものです。「事件が起きた当日は、まだ奴は撃たれていなかった」大叔父は言いました。 

 

僕の大叔父は筋金入りの愛国主義者でした。いかなる、誰からの侮辱も甘受しないタイプでしたから、僕には不思議でなりませんでした。彼はアメリカ人=白人とは思っていなかったのです。1960~1970年代という「ブラックナショナリズム」という言葉が、若者の間で、あるいは単に流行を追いかける連中の間で、キーワードだった時代に育った人間にとっては、奇妙な考え方でした。ポンプは兵役にあったこともあり、アメリカ合衆国と言う国を信じる男だったのです。 

 

アメリカは偉大な国だ。」彼はいつもそういっていました。「欠点もあるが、偉大な国なんだ。」彼はモハメド・アリが嫌いでした。「彼は国から金をもらう人だろうけれど、国の為に戦っているわけじゃない。俺に言わせれば、あんなのは英雄なんかじゃない。」彼はブラックムスリム運動を嫌いました。家に帰る時は、「Mjuhammad Speaks」(新聞の名前)は持ってくるな、あるいは、マーカス・ガーベイと彼の持論であるアメリカ回帰運動のことは話し出すな、絶対に、と言うわけです。「アフリカなんかに行ってみろ、また白人の所に売られて帰ってくるだけだ。」と彼はよく言いました。彼は偏見とは立ち向かうべきだ、という信念を持っていたのです。彼のモットーは、「侮辱は面と向かって言わせろ、そうすればおいそれとは行かない。相手の目を離させるな。手出しできなくなる人間の数が増えてくれば、そのうちそれが当たり前になっていくだろうからな。」 

 

3・4年生になる頃には、僕の学校での成績は、他の子供達より頭一つ抜け出ました。既にリコンストラクション(南北戦争によって崩壊した南部諸州と奴隷制度、これらの戦後処理)のことは耳にしたことが有りましたし、プレッシー対ファーガソン裁判や、ブラウン対教区委員会裁判、そしてキング牧師マルコムXのことも、内容を理解し知っていましたし、名前も頭に入っていました。それぞれの相関関係や時系列は、完全には分かっていませんでしたが、黒人の人々は社会の中で闘争中であり、社会の何かが台無しにされている、という自覚は持っていました。そしてハッキリと分かっていたことは、その台無しになれていることによる犠牲者は、僕達黒人なんだ、ということです。そんなわけで、例えば歴史の授業中に教科書を開けて、嬉しげな奴隷達の姿があると、「奴隷の何が嬉しいのか?」と疑問をいつも抱くのでした。 

 

こういう子供達に自分を受け入れさせる方法は、唯一つ、彼らがしていることを自分も彼らに対してすること、そうでないと、増々こちらは無価値な人間と見なされて、ひたすらバカにされる羽目になる、ということにも気付きました。とにかく辛かった。元居た黒人の学校は、成績が良好で生き生きとした性格でいれば、尊重され、女子も男子もいる社会の輪の一部に、自分は入れたのに、そこから飛び込んだ今度の環境は、前向きな姿勢は否定されるわ、自分は社会的交流から完全にのけ者にされるわ、といった具合でしたからね。 

 

僕の大叔父は、僕に、自分らしさを保つ権利は守らねばならない、そしてそれは時として犠牲を伴う、ということを叩きこんでくれました。なので僕は心を決めて、誰かに「nigger」(クロンボ)と呼ばれでもしたら、そいつと戦うようにしていました。勝ったり負けたりしましたが、とにかく覚悟を決めて、バカっぽく振る舞わない、他人にナメられるようなことは一切しない、そのようにしていました。何があっても、道化のように振る舞うことを当然とされた黒人のイメージ、その真逆の振る舞いや行動を心掛けました。 

 

統合校の授業内容には、黒人に関するものは一切出てきません。僕達黒人は、この世に存在しない、と言わんばかりです。意図的にそうしたのではなく、学校側にとっては、至極当たり前の認識だったのです。例えば黒人に関するレポートを作ってこようものなら、教師たちはニッコリ笑って、猫なで声で「これ何のことかな~?うーん、先生わかんなーい。」何にしても、僕はレポートはいつも奴隷制だのと言った題材を選んでいました。自分が興味を持てるものでしたから。 

 

僕達の近所も、騒動が絶えない処かもしれません。黒人の子供達の間には、守るべき掟がありました。自分らしさを保とうと頑張るのは、厳しいかもしれません。しかし他の子達に一目置かせる方法はあるのです。ケンカに勝つ、イジメに毅然とした態度をとる、ダズンズやボール遊びができる、女の子達とおしゃべりができる、といった具合。黒人の仲間の子達を取り込んでゆくには、何とかなりますが、人種差別となると、状況を変えようとしても大して打つ手がないのです。 

 

そうです。人種差別は、今も昔も小さなことではありません。個人で何とかなるような代物ではないのです。今もなお、46歳になっても僕はこれに苦しんでいます。生活のあらゆる場面に存在し、影響は重くのしかかります - 自分の知り合いの上の世代の人達に、自分の家族に、「世の中はこうだ」とテレビが示すそのやり方に、教師たちが自分に働きかけるやり方に、子供たち同士の人間関係の在り方に、ね。白人の住むコミュニティの道路は舗装されているけれど、黒人のはされていない、誰でも知っている基本手なことですが、これと同じ位、誰でも知っていることかもしれませんね。そのレベルから始まって、およそ考えられることは全てに亘っているのでしょう。例えば僕が子供の頃、フットボールの子供達のリーグ戦の話。黒人のチームが3つ、白人のチームが8つか9つありました。白人の方には何だってありました:コーチは2人、両側のサイドラインに飲み水、ホームグラウンドにはハッシュラインが引いてあり、練習用設備も色々整っているし、親達もスタンドに見に来ていました。一方僕達の方は、ユニフォームは10年前くらいから使っているもの、親達はスタンドに姿はなく、コーチは1人、ディフェンスにエキストラバックを当てられない。これで更に、審判達は僕達に不利な判定をするのです。僕はかつて、審判に暴言を吐いて退場になったことがありました。「どうせウチら負けるんだから、判定まで不利にしなくてもいいじゃんか」白人全員が悪いわけではなく、世の中の全体の仕組みにっ腹が立ったのです。 

 

腹を立てると、自分がかえって物笑いの種になってしまうこともあります。僕のモダンジャズ演奏の初仕事は、ニューオーリンズのタイラーズ・ビアガーデンでのステージでした。バンドのリズムセクションは全員白人 - マイク・ペレーラ、リッキー・セバスチャン、そしてアルヴィン・ヤング。アルヴィンがリーダーです。当時僕は15歳。メンバー皆が僕の面倒を見てくれて、力をつける後押しと、励ましをくれたのです。それなのに僕は、最初の頃に受けたインタビューで、白人はロクな演奏が出来ない、といったようなことを言って、彼らの心を傷つけてしまったのです。ありもしないことを、彼らの気持ちを考えず口にした僕は、本当に愚かでした。こういう正しくないことを、恨みがましく言ってしまった経験の記憶と言うものは、世の中が自分に対して思い知らせてくることに対する怒りの気持ちを抱えていると、つい忘れてしまいがちです。プライドや正義感みたいなものが、怒りの気持ちを抑えなくしてしまうのです。根深い人間の性ですし、これが現実なのです。 

 

レイ・ブラウンというベースの大御所に、僕は自分の子供だった頃の話をしたことを、今でも覚えています。彼の反応はというと、「何だい、そんなしょうもない話は、1960年代に終わったと思っていたぜ」。僕の返事は「いえいえ、もっとヒドイ話がありましてね」。 

 

音楽により深く関わるようになり始めた頃に気付いたことなのですが、怒りの気持ちは、確かにある種の力を与えてくれるものです。燃料の様なものですが、リスクは高くつきます。あっという間に燃え広がり、自分の身の回りを全て焼き尽くすものです。年を取るに従い、怒りの気持ちは持たないようにしないと、そのうち自分自身を焼き尽くしてしまうことでしょう。 

 

高校進学に合わせて、僕の一家はニューオーリンズへ引っ越し、兄のブランフォードと僕はいよいよ、ニューオーリンズセンターという芸術学校へ通い始めます。ここは新しくできた芸術系の公立先進校であり、僕の父はここでジャズの教鞭を取っていました。一般教養科目の方は、午前中にベンジャミン・フランクリン・ハイスクールでの受講となります。この2校がニューオーリンズを代表する公立学校でした。 

 

ニューオーリンズセンターは新しい芸術教育を行う実験校としてスタートしたばかりで、僕はその第1期生となったのです。講師陣は稀にみる素晴らしい方々でした。1人1人が芸術を愛し、後進の指導を大切にしようという気概に溢れています。お互い言葉を交わせば、それだけで学びの意欲をかき立てました。僕の音楽に対する情熱と力量の土台は、ここでのクラシック、ジャズ、声楽の授業で培われたものです。今でも、ここでの経験を思い出すと、感無量です。 

 

時は遡って、ケナーに居た頃、僕の目には、あの厄介な偏見に満ちた白人連中というのは、本人達はそうは思っていないでしょうが、どちらかというと僕達黒人の貧困層との共通点が多かったように映っていました(僕達だって、そうは思いたくないのですが)。ただ僕は、フランクリンハイスクールに通い出してから、白人にも色々な人達がいるんだ、ということに気付くようになったのです。それまで「白人」と単に一括りにしていましたが、生活を共にしてわかったことです。 

 

僕が通っていた小学校には、貧困層若しくは中流階層でも下の方のイタリア系アメリカ人家庭の子達が沢山通っていました。彼らは彼ら同士で、そして僕達とも、よくケンカになりました。これに対して新しく通うことになった高校は、ユダヤ系の子達が多く在籍しています。知り合いの黒人の学生は誰一人として、「このユダヤ人め」という言い方はしていなかったと記憶しています。あくまでも「白人」。でも様子を見ていると、小学校の頃のイタリア系の子供達と違い、ユダヤ系の子供達は、彼ら同士でケンカになるような場面には、出くわしませんでした。彼らには、もっとしっかりした知的なしきたりがあったのです。それは僕にとって興味深いことでした。学校で「このクロンボ」などと呼ばれたことは一度もありません。四六時中ケンカする必要もありません。それは実にしっかりとした市民社会としての姿です。クラスメートたちの会話に耳を傾けてみれば、僕の日頃の取り組みや思いに対して、好奇心を持ってくれていることに、何度も気付くことがありました。当時の僕にとっては、実に新鮮な経験でした。フランクリンハイスクールの子供達の方が、たたずまいが知的で、僕は沢山のことを学んだのです。彼らの中には、男女問わず、僕も出演していたタイラーズのジャズセッションをよく見に来ていて、週明けの月曜日にそれを学校の話題にしようと楽しんでいました。音楽系でも何でもない高校生が、ジャズの本番を見に行くなんて、今ではほとんど聞かない話かもしれません。当時ですら、珍しい状況ではありました(当時の僕には、そういう認識はありませんでしたが)。 

 

2年生になると、「ハックリベリー・フィンの冒険」を授業で扱うことになりました。授業担当のキース先生という方は、最初の時間におもむろにこう言い放ったのです。「皆さん、この授業では『このクロンボが』という言葉を口にすることとします」。生徒達は「このクロンボが」と言うと、くすくすと笑いました。これは僕にとっては、あまり愉快なことではありません。さて、このキース先生ですが、節度を持ちつつも奇抜な発想も出来て、そして僕のことを可愛がってくれるのです。僕は1年生の頃から、この先生の授業では上位の成績を収めていました。先生は僕達にこう言ったのです。「僕は君達に不愉快な思いをさせたくないと思っている。しかし、この作品を学ぶ上では、『このクロンボが』という言葉を使いこなせるようにならないといけないんだ。なぜならこれこそが、作者のマーク・トウェインが言おうとしていることを理解する、その中心にあるものだからなんだ」。僕は心の中で「こんなクソな作品イヤだ」と呟いたのです。 

 

授業が終わると、キース先生は僕を傍へ呼んで、こう言ったのです。「まぁ、もし君がこの作品に取り組めなくて、授業にも顔を出したくない、というのなら、それでも進級には影響しないから大丈夫だ。でも私は、あくまで今のやり方で、この作品を授業で扱ってゆきたい。なぜなら、これが現実、今の世の中の姿だからなんだ。白人が人間に向かって「このクロンボが」と、呼ばないなんてことはウソだ。彼らは実際そういう言い方をする。その現実を、僕は君達に知ってもらいたいんだ。この教材を中途半端に扱うつもりは、僕にはない。そして君僕の授業を受けて欲しいと思っている」。 

 

すんなり納得はできませんでしたが、僕は「わかりました、やってみます。」と答えました。 

 

今となっては、この授業を受けて本当に良かったと思っています。この本、そしてキース先生の教えは、僕にとっては神の啓示のようでしたからね。先生は、この本とそこから学ぶべきことを、しっかりとコントロールしながら授業を行いました。そして今、僕は常々、個の取り組みは全てのアメリカ国民にとって、必要なことだと感じています。人種問題がもたらす苦痛、闘争、愚かさは、一つ残らずアメリカ国民は向き合ってゆくべきです。向き合わないというのなら、それは例えていうなら、ある人がガンに侵されているのに「言ったら傷つくから」といって教えてあげないのと同じです。教えてあげなければいけません。そうすればその人は、取るべき行動を明快に状況を理解した上で選べるからです。僕はそう思っています。 

 

白人と黒人が、お互い相手が何者か、そしてお互い力を合わせるとどんな国作りができるのか、それを知るには、実は白人と黒人は密接につながっているんだ、ということを理解する必要があります。理解しない、というなら、それは例えていうなら、車のキーを手に持っているのに、それを失くした、と思い込んで、手に持っていることを忘れて、そこいらじゅうを探し回っているようなものです。これでは、いつまでたっても車のキーが見つかった、とはならないでしょうね。自分の手を見ろ!持っているじゃないか!探し回るな!というわけです。今の黒人と白人は、これと同じ状況だということです。勿論、我が国には多くの人種・民族がやって来るわけですので、誰もが皆「マイノリティー」になってしまうように見えます。「マイノリティーという存在がもたらす様々な問題」を僕達は話し合って行くわけですが、やはり黒人と言うものは、我が国では、他とは切り離されたマイノリティー集団などではなく、アメリカと言う国がどういう国なのか、を考える上では、僕達は話し合う話題の中心にすべき存在なのです。 

 

自分はアメリカ人としてどうあるべきか、ジャズはそう考えるよう、人々に促します。民主主義、個人の自由、人種・民族に関係なく人間性を受け入れる態度、こういったことがいかに素晴らしいか、を表現する方法を、ジャズは与えてくれます。それは正に、アメリカの民主主義が在るべき姿そのものです。 

 

この章の冒頭で書きましたように、ジャズがアメリカの国民的な芸術であるが故に生まれてしまった、不安定な状況があるのです。アメリカの文化の中で、ジャズがしっかり成熟してきたため、あからさまに、それまでアメリカでは当たり前だと考えられてきたものを否定してかかったのです。一つは、人種隔離が国全体の社会通念になってしまっていること。もう一つは奴隷制度は昔は正当化されていたということ。これらを「そんなことは過去になかった」と否定してかかったのです。さて、どうしたものか・・・肌が濃い色をしている人間は人間以下、身分を低くするのは当然だとして、その後のアメリカ人として受ける仕打ちを決定づけてしまった、300年間にもわたる信念を国民の記憶から消して去ろうというのでしょうか?そこまでしなくても、人々にとっては、ジャズの在り方をあっさりと記憶から消し去ってしまえば事足りる、ということです。そしてジャズを消し去ったことで、それがもたらす全ての洗練されたスタイル、技巧、そして表現するものを伝える力も消し去られるのです。 

 

「あっさり記憶から消えたこと」は、他にもありました。1929年に始まった世界大恐慌の際、アメリカ人はこの音楽の持つ奥深い内容を、こぞって味わい、傷ついた心を癒しました。それは政治家が不正を犯して拘束されると、奥さんや宗教に救いを求めるのと同じです。このことは、今やアメリカ人の記憶からは消えてしまっています。良く見落とされがちなのは、1930年代の白人の凄腕ミュージシャン達の世代丸ごとです。ジャズにどっぷりハマってしまっていたためです。安易に受け入れられたものもあります。10代の子達を食いものにした歌謡曲の数々です。折角我が国の価値が持つ全ての概念を黒人が音楽芸術に仕上げたものがあるにも拘らずに、ね。もう一つは海外のバンドやグループの数々。ローリングストーンズなどは、ブラックアメリカンの「真似事」をするイギリスのバンド - イギリスと言えば、かって独立戦争で戦った相手です ー 我が国にだってバンドやグループがあるにも拘らずにね。もっと多くの人々の目に留まったことと言えば、。スウィングという国民的ダンスが人知れず消え去ってみたり、かつて黒人をコケにしたミンストレルショーが、ヒップホップにその内容が復活してみたり、我が国の音楽文化が、世界中に安っぽい姿で輸出されていった、猥雑でお金さえ儲かればいいと言わんばかりのビデオで使われているBGMの数々など、です「。音楽面でのイノベーションを、テクノロジーやCDの売り上げ、病的な庶民感覚といった視点で定義していっ安直さの結果です、全ては。 

 

ところがここで、誰も予想し得なかったことが発生します。こういった安っぽいビデオの中で、1970年代まででしたら想像すら出来なかった、黒人の男達と白人の女達が、何やらロマンチックな雰囲気を醸し出す映像が発信され始めます。こういったミンストレルショーのようなラッパー達は、自分達が住む貧民街で心に描いた「いつか郊外に住むぞ」の夢を売りながら、何百万ドルもの大金を稼ぎ出しました。黒人のアスリート達は、信じられない位国民的な人気者になりました。大企業のトップに黒人(男性も女性も)が就任しました。そしてその上、DNAの研究が進むにつれて、人類は全てアフリカに起源があること、そして多くの要素において、DNAの差異と言うものは、異なる人種間で比べるよりも、同じ人種間の中で比べる方が、より大きなものが見出される、ということが判明してきたのです。 

 

人種問題がもたらす、あらゆる偽善、不条理、恥辱:それはジャズが表現する最も深遠な真実です。そして、ルイ・アームストロングが舞台で笑顔を見せ、ニカニカと歯をむき出しにして、「ヨッシャ!」(訳注:yassah : yes, sir)と言ってみたりする中で、彼がトランペットとボーカルの両方で届けた、一つ一つの怒りの音、得意げな音、磨き抜かれた音、血まみれの音に込められているものこそ、この「真実」なのです。デビュー当初のマイルス・デイビスや、ディジー・ガレスピーも同じこと。そして皆さんご存知でょうか、白人ミュージシャン達のサウンドも、同じことなのです。白人ミュージシャン達も、人種問題がもたらす弊害が、アメリカ人の生活の根本を蝕んでいたことを、知っていました。人種問題がもたらす誤った認識が、彼ら白人にとって有利に働き、おかげでお金は稼げるし、「〇〇王」だの「No.1の〇〇」だのと呼ばれるようになり、その一方で黒人は注目してもらえなくなった、ということを、白人ミュージシャン達は認識していたのです。彼らの心は傷つきました。それはそうでしょう。彼らが演奏したいと思った音楽は、アメリカを一つにまとめ上げ、そして彼らは、その「一つになったアメリカ」の一員になりたいんだ、と望んでいたのですから。そうなれば、どんなに素晴らしいだろう、と思っていたのですから。信じ難いですか?でしたらデイブ・ブルーベックに訊いてみてください。 

 

ジミー・マクパートランド、ピー・ウィー・ラッセル、デイブ・タフ、ジーン・クルーパ、バド・フリーマン、アート・ホーディス、ウッディ・ハーマン、ギル・エヴァンスズート・シムズといった、真摯な白人ミュージシャン達が皆、調和を試みたもの、それは、この国の現実の姿と、彼らがジャズを通して知ったこの国の底力。しかしジャズは、誤った呼び方をされてしまったのです。「黒人と言う人種に特有の音楽」「黒人音楽」「アフリカ系アメリカ人の音楽」などといったものは、生理学や文化人類学をきちんと理解していないからこそ、出てきた悪名です。そのせいで彼らは、文化の「天国と地獄の狭間」に立たされました。一部の白人達からはバカにされる。一部の黒人達からは強い敵意のせいで心からは受け入れてもらえない。そんな状況に手を焼きました。ネチネチとした攻撃にも耐えました。それは、黒人の音楽を「横取り」している、というものです。ジャズは空気と同じ、誰のモノでもあるのに、です。ベニー・グッドマンはお金を払って、フレッチャー・ヘンダーソンにアレンジをしてもらったのです。それを「横取り」などと、訳が分かりません。白人ミュージシャン達が、こうして手を焼き耐える中、黒人ミュージシャン達の大御所達も調和を試みたものがありました。それは、ジャズを通して彼らが知った、この国の可能性と、人種差別を維持し正当化する為のウソが作り出してしまったこの国の現実の姿。黒人ミュージシャン達が、更に味わうことを余儀なくされた現実。それは、自分達の社会集団は、ジャズと言う芸術活動に殆ど関心が無かった - そういう意味では芸術活動全般にほどんど関心が無かった - 全く頭痛の種は尽きません。 

 

さて、これこそが、黒人も白人も全てのミュージシャン達が皆さんの心に届けたいと願うこと:嫌悪の対象に堕したこと(国家、思想、人)への愛しさを表現する方法、それは、それが嫌悪の対象から、もう一度愛すべきものへと戻ってゆくくらい、熱い気持ちでそれを愛し抜け、というものです。僕は19歳の時、マイルス・デイビスからこのことを問われました。「何を考えて、そんなクソみてぇな演奏しやがった!」演奏の表面的なことを言っているのではありません。彼は見抜いていたのです。僕がジャズのことを、まるで分っていなかったことを。僕が理解していたジャズと言う音楽は、「クソみてぇな」もの、ウソと欺きの混沌、悪意も善意もいっしょくた。こんなことでは、陣の潜在能力を引き出すこともできない、自分はどういう人間なのかを気付くこともできない、ひいては、自分も皆も、アメリカの芯の偉大さに気付くこともできない、というわけです。でもそれを乗り越えた時、それに真剣に取り組んだ結果克服した時、アメリカがかつて想像すらしたことの無いような、文化と芸術の興隆が実現することでしょう。どこまでも公正な民主主義の世の中を実現しようと、たゆまぬ努力を続けたデューク・エリントンギル・エヴァンス、チャールス・ミンガス、ジョージ・ガーシュウィンといった、多くの、先見の明を持つミュージシャン達の作品の中で、予言されている「仲良きことは美しき哉」が、実現することでしょう。なぜなら、ジャズとは、アンサンブルで演奏される時、それは「共に行こう、共に在ろう、共に居よう」と歌っているモノだからです。 - 少なくとも演奏が始まってから終わるまではね。 

 

そして音楽の世界では、曲が演奏されてる間に起こることは、人生に起こることを表現しているのです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第6章  名人達から教わったこと 

   

<写真脚注> 

最高の教育の機会 - ジョン・ルイス大先生との共演。本番の舞台上で演奏するというプレッシャーのおかげで、1回のコンサートで2か月間練習室に籠り切って身に付くものと同じものが得られるのです。 

 

黒人霊歌で僕が「いいな」と一番思うのは、歌の中では、モーゼやイエス、エゼキル、そしてアブラハムといった、本来違う時代の人とされる人物達が、あたかも今この場で、声をそろえて「私は彼らと語り合った」と言っているかのように思わせてくれることです。 

 

僕にとっては、過去の出来事と言うのは、全て消えることなく残って積み重なってゆき、それが今という瞬間を作っているように思えます。でも訳あって、この考え方が受け入れてもらえない分野があって、それがジャズの教育や演奏活動、あるいは批評の仕方なのです。「過去の積み重ね」という考え方ではなく、耳にすることが出来るのは、あまりにも単純化された説明の仕方で、ジャズに関する物書きの方々が好んで繰り返し語る「順調に伸び行く音楽の進化」というやつです。極貧の黎明期、ニューオーリンズでの20世紀初頭の前後10年。喧噪の成長期、シカゴやニューヨークでの1920年代の10年。ビッグバンドスウィングの1930年代。ビーバップが誕生した1940年代。その後の乱立する学校や学校以外の教育機関の時代。それぞれが、ブルースという根源からジャズという音楽を、より彼方へと進化させていった、と物書きの方々は言うのです。 

 

でも本当に優れたミュージシャン達は知っています。このジャズという音楽は「学校」とかそういうこととは全然関係が無い、ということを。僕の父も言っていますが「学びの場(ステージ)は唯一つ。『君は演奏できるのか?』という学びの場(ステージ)だ」。その問いかけには、男女問わず、「できるさ」と心から答えられる、それが求められる場(ステージ)なのです。 

 

僕は色々な人の話から、ジャズについて非常に大切なことを多く学びました。その人達の色とりどりの語り口のおかげで、話題に上る音楽の周辺とその中身に、自分も入り込めるのです。ジャズは、人とその行いを表現する音楽です。ミュージシャンの名前を口にするだけで、サウンドに込められているそのミュージシャンの人となりが、呼び起こされてきます。時々ベテランのミュージシャン達は、ぼーっと座って、聞いたこともないようなミュージシャン達の名前を次々と口にしては、何某はどこの出身だとか、この曲の演奏は良かっただの、あの曲の演奏は良かっただのと褒めちぎってゆくのです。「そうさ、ボビー・ムーアってやつは、性格がきつくて、やたらとまくし立てる男だった。ディジーディジー・ガレスピー)に訊いてみな。教えてくれるだろう。ボビーが自分の楽器を持って部屋に入ってくると、皆、自分の楽器を片付けてしまったものさ。」 

 

時には、色々な名手達の行いから、僕は学びました。1980年代後半、僕達はパール・ベイリーとのコンサートを開催しました。彼女はこの時、僕に差し入れをくれたのです。昔はミュージシャン達は、本番を一緒にする時はいつも礼を尽くしたもので、それを伝えたくて、とのこと。今、僕はジャズフェスティバルが開催されても差し入れはしませんが、いずれはそうするべきかな、と思っています。 

 

トニー・ウィリアムズが、マイルス・デイビスのバンドでドラムを叩いていたのは、彼が17、18歳の頃でした。彼はアルバム全曲 - 一人一人のソロも、空で歌うことができたのです。気性が激しく、人とは打ち解けないし人付き合いもしない性格でしたが、音楽とそれを奏でるミュージシャン達に対する観察力の素晴らしさを、随所で発揮していました。ミュージシャン達というものは、最高に調子が良い状態の時は、演奏中に足踏みをしないことに気付いた、と彼は僕に教えてくれたことがあります。というのも、そもそも演奏中に足踏みなんかしてしまうと、出てくるリズムが、ポリリズムと言って、腹をさすりながら頭をポンポンとはたくような、妙チキリンなものになってしまう、というわけです。 

 

ドラムの名人、エルヴィン・ジョーンズは、世界でも指折りのソウルフルな男でした。僕はよく彼の家に夜の11時頃に訪ねてゆくと、奥様のケイコさんが、ロブスターだの寿司だのを用意してくれていて、日本酒なんかも次々と出してくれました。何回かツアーで一緒に彼とは回ったことがあり、僕は彼を父親のように慕っていました。ある時僕達が共演した際、かなり激しい演奏になってしまったため、僕の唇が出血しだしてしまったことがあります。彼の音量があまりにも大きすぎたためなのですが、そんなこと思っていても言いたくなかったので、彼には黙っていました。でもそうもいかず、結局恐る恐る彼に言ってみたのです。彼はしばらく僕をじっと見ると、こう言いました「そういう時は言わなきゃ。誰も解らんだろうが」。 

 

ジャズの作品を合わせ練習する際に必要なのが、これを仕切る人の「外交的手腕」というやつです(大げさに言えば)。仕切る人の音楽性に「ついて行こう」と思わせなければなりません。言いたいことを、しっかり伝えたり、グッと我慢したりと、絶妙な綱渡りをする必要があります。何だかんだ言っても、仕切る人が一人で出来ることなど限られているわけで、他の人達が演奏の大半を作ってゆくわけです。その中でも特にドラム奏者の存在は大変大きなものがあります。彼とは口論になってしまったら大変です。作曲やバンドリーダーもこなした円熟のミュージシャンだったベニー・カーターは、ジャズ界では最もエレガントな人でした。彼の音楽は、洗練され、明快であり、自身の音楽への取り組みは真剣そのものでした。僕は一度彼が、言う事を聞かないドラム奏者にイラついているのを見たことがあります。二人とも互いに譲らず、押し問答が続きました。ベニーは「外交的手腕」を発揮し、「好きにしな、好きにしな」と言って、この大論争を収めたのです。これとは別の方法を取っていたのがフランク・ヴェス。編曲もこなすテナーサックス奏者で、カウント・ベイシー楽団の大黒柱だった人です。彼のやり方はこうです。「お前らバカ共は、なんでそんなバカデカイ音をかき鳴らしてんだ、あ?!」と「質問」をし、音量が下がるのを待ちます。すると音量が下がってゆく、というわけです。 

 

ミュージシャンの中には、人をこき下ろすにしても、ユーモアを交えてくる人達がいます。1987年の夏のこと。僕達のツアーに参加してくれたチャーリー・ラウズは、セロニアス・モンクの楽団の偉大なテナーサックス奏者です。彼の演奏は最高にスウィングの効いた、的確なものでした。彼のお気に入りは、僕達の荒っぽい演奏スタイルである「バーンアウト:焼き尽くし」。テンポを加速し、あらゆる種類のドラムのリズムパターンをピアノと連動させ、その間ベースが喰らい付き、頑張ってビートを重ねてゆくのです。ある夜、セントルイスのクラブでのこと。僕がテンポの速い、スウィングをかけない細かな音符が並ぶ、高音域の狂ったような、メロディックでないれど吹くには楽しいという、延々続くソロを吹いたのですが、僕が汗だくになっているのを見たチャーリー・ラウズが言った言葉は「すごいや、お客さんが喜ぶわけだ」。 

 

じっくりそう考えてみると、小さい頃から、僕の身の回りにはレコードやら生身のミュージシャンやらが沢山存在していたにもかかわらず、僕の音楽面での好みは、自分と同世代のそれと大体同じでした。そしてある程度僕が理解し始めていたのは、こういったミュージシャン達の偉大さは、彼らの五感の鋭さと、そこでつかんだ思いを力強く表現することに在った、ということです。今までに、彼らのほぼ全員に面と向かって会い、そして幸運にも、彼らの多くと演奏を共にしてきています。他は彼らの演奏の録音を通して知っているだけですが…。ではここで、13名の名人達から教わった、より大きな教訓の数々を、おススメのCD数タイトルと共にご紹介します。当然のことながら、ジャズというものは、誰の許可を得ずとも、自分にとってためになることを見つけてゆけば良いのです。演奏に耳を傾けさえすれば良いのです。 

 

ルイ・アームストロング 

 

ルイ・アームストロングに会ったことはありますか?」といつも聞かれます。 

 

僕の答えは「ありません。そして会わなくて良かったと思っています。なぜなら、彼に対する僕の好みがハッキリする前に、彼は1971年に亡くなったからです」。彼はラッパを持つアンクル・トムみたいなものでしかない、と僕は考えていました。こんな大御所を目の前にして、無礼千万な考えや思いを、心に抱いてしまう機会が巡ってこなくて、本当に良かった、と思っています。 

 

ルイ・アームストロングといえば、誰よりも深みのある感情表現と、高いレベルで洗練された音楽性です。彼は飾らない心と思いやりを持ちながらも、心に大きな炎をいつも灯していました。牛のように体格が良く、その気になれば人間を一人ノックダウンさせてしまうこともできた、とのこと。 

 

ルイ・アームストロングは、人は誰にはばかることなく、自分らしくあるべきだ、ということを示した人です。常に彼は自分自身を把握し、そして愛おしみました。彼は自らのアーティストとしての腕前に誇りを持ち、これを大切にしましたが、同時に、例えば「読み書き」といった、自分がしっかり取り組むべき課題と自覚していた事柄についても、キチンと向き合っていたのです。 

 

ポップス(訳注:ルイ・アームストロングの愛称)は、社会階層のドン底にあえぐ者の一人として、貧困の苦しみの中で育ちました。世間の最下層を知る彼にとっては、貧困とは、お金に困っている人々のアイデンティティを定義する要素には、必ずしもなり得ないモノでした。彼を育てた人々は、極限状態にあっても生きることを大切にし、その前向きな姿勢は彼にきちんと受け継がれ、後にそれは彼の奏でるトランペットの音に乗り全世界へと伝わったのです。僕が育ってゆく過程で出会った、最もお金に困っている人達、例えば僕の大叔母や大叔父といった人達というのは、最も輝いていた人達でもありました。一緒に居るのが実に心地よい人達です。美味しいモノを一緒に食べて - と言っても、豆御飯だの、ベーコンサンドだの、ハヤト瓜の詰め物ですが - 「色々なことがあった」幼い頃の思い出話を、いつも実に楽しそうに聞かせてくれたのです。 

 

では皆さんも、ルイ・アームストロングになったつもりで、彼の生い立ちを一緒に見てゆきましょう。幼い頃、彼は子供達だけで編成したカルテット(訳注:バーバー・ショップ・カルテット)で歌っています。誰もが彼の歌声を聞くと「大したもんだ」と言います。そんな折、大晦日の晩のこと。ふざけて銃を発砲してしまったことにより、警察に逮捕されてしまうのです。収監された先は、有色人種の浮浪少年達が専ら集められる「少年の家」。ここでコルネットを習い始めると、みるみる他の子供達を追い越して上達してゆきます。「ルイ君はスゴイな」と皆が口々に言います。ニューオーリンズには当時からコルネットの名手が沢山いて、彼は以前からこういった名手達の演奏を、鋭い感性を持つ耳で聴き漁っていたのでした。その時、彼の耳に入ってきたのは、名手達が奏でる音だけでなく、「奏でようとする」心であったのです。やがて彼は、その両方を自分のモノにしてゆきました。 

 

彼は、様々な機会に自分の才能を世に示し、その度に自分への誇りの気持ちを膨らませてゆきました。彼は同世代の若者達から群を抜いて上手かった - それも桁外れに。誰よりも学ぶ吸収力があり、誰よりもハーモニーを聞く力があり、誰よりも心に残るメロディを生み出す力がありました。「教えてくれよ」と皆が乞うてきたのです。17歳になるまでには、彼はニューオーリンス中の大人達よりも腕を上げていました。 

 

その後彼は、キング・オリバーの楽団に入団します。楽団が本拠地を置くシカゴで、彼に「そうだ、シカゴでも俺は誰よりも上手くなってやる」という思いが降りてきたのです。彼はニューヨークへ向かい、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に入団、ここでも気付けば抜群の腕を見せつけました。やがてヨーロッパにまで進出を果たしました。どこへ行ってもこんな感じで、彼は「皆、自分の才能をちゃんと評価してくれている」と思ったのです。 

 

やがて彼の演奏を聞いた人々は、皆彼に心惹かれるようになりました。しかし中には、彼が、極貧・無学の人々が無邪気に心からの喜びを謳歌するその象徴である、として、彼を見下し嫌う人達もいたのです。彼は気にしませんでした。何故か?そういう人達とは関わらなかったからです。幼い頃などは特にね。「そういう人達」が味わうことのなかった喜びや悲しみを、彼は沢山味わいました。そして、「そういう人達」は、彼の様な人材を世に送り出すこともありませんでした。だからこそ、彼はこう思ったことでしょう「そうとも、あんたらは多くを手にしているかもしれないが、俺に様に吹けるヤツはいないじゃないか」。とね 

 

何度も言いますが、「桁外れに」吹ける、のです。この「桁外れに」がポイントです。「大半の仲間が、程度の差こそあれ自分と同レベルの演奏ができるかどうか微妙だ」ではありません。「自分が23,24歳になると、もう誰も自分の足元にも及ばなくなってしまっている」なのです。これは「桁外れ」な違いですよね。ポピュラー音楽に携わる者全てが、彼のマネをしました。その数は計り知れません。彼が訪れることのできない場所など、この世界にはどこにもなかったでしょうし、人々は彼の真似をしようとしました。彼の方も、それを知っていました。1929年、あるいは1930年頃までには、ポーランド人、フランス人、イギリス人、ロシア人、と、誰もが彼のようになることを目指しました。彼は行く先々で、自分の真似をしようとする人々の演奏を耳にして、そういう人々全てに、彼は喜びと幸福をもたらし続けました。そんなことが出来る人は、きっと自分も最高の気分であることでしょう。 

 

ルイ・アームストロングは、誰かの真似をしようなどとは、考えもしませんでした。彼の演奏には、一つのごまかしもありません。「一点の曇りのない芸」とは、このことです。アインシュタインは、自分の考えだした相対性理論の方程式は、十分単純な作りになっているから、間違いなく「正しい」と証明される、と言ったとされています。アームストロングの芸も、それと全く同じく単純:「自分らしくてOKだ」。 

 

ルイ・アームストロングサウンドには、癒しの力があります。彼の演奏には、自らの経験に基づく知恵と、人々を受け入れる寛容さがあります。自分に本当に不幸な出来事が起きた時に訪ねてゆく人の声の中に聞こえるサウンド、というものを、彼は持っています。「訪ねてゆく人」とは、自分のおばあちゃんだったり、おかあさんだったり、そのような人達だったりします。そういう人達は、声や手のぬくもりを通して、「大丈夫だぞ」と教えてくれます。ルイ・アームストロングの音楽全体に見受けられる、その感覚、温もり、親しみ、そして「この人には何を言ってもわかってもらえる」という感覚 - 彼には、聞く人の視点に立って理解しようとする姿勢があった、ということなのです。 

 

ジャズのライター達によって、ジャズに関する誤った認識に基づいた線引きが、成されてしまっています。若い人達が、今までにない演奏方法を創り出すと、それはすなわち、年配の人達に対して当然示すべき敬意を捨てた、という印象を与えてる。そういった時代の流れや音楽の形式を「革新」と表現して、表面的な細分化をしようというものです。例えば、前衛芸術の典型とされる、ジョン・コルトレーンのカルテットは、「自分達はルイ・アームストロングよりも先進的だ」、と思っていたのではないか、と考える人がいるかもしれません。とんでもない話です。メンバーであったドラム奏者のエルヴィン・ジョーンズが、かつて僕に話してくれました。ある時、カルテットがシカゴで公演を行った際、ルイがこれに参加したのですが、メンバー全員、彼の前ではすっかり子供のようにワクワクしてしまった、とのこと。ピアノ奏者のマッコイ・ターナーも、その夜のことについて、「あの人は、やっぱり王様だ。オーラがすごかったよ」。 

 

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アート・ブレイキー 

 

アート・ブレイキーという人は、ドラム奏者としても、バンドリーダーとしても、何かにつけて「相反する」考え方や行動をとっていた人のようです。背が低いながらも、実際の背丈より大きく見えたのは、パワフルな人だったからでしょう。一言話すその中で、とても深い真実と、とてもクリエイティブなウソの、両方を織り交ぜてくるのです。ジャズに関しては、あらゆることについて、キチッとして誠実さを示し、節度ある威厳を感じさせる話し方をしました。ところが一方で、これまで受け入れられてきた規範を拒むようなことを、何でもやってきたのです。 

 

ブレイキーは、新しいことや誰も気付かなかったことに思いを寄せる人でした。知的で、貪欲で、何事もとことんやり抜く彼は、アフリカのドラム奏法を学びに、ガーナへ向かいます。アメリカでは、ジャズドラム奏者の実力を測る際に、3つ4つの異なるリズムをいっぺんに弾ける力が、どの位あるか、が物差しになっている、と彼は気付きました。彼がよく言っていた言葉に「自分の右手がしていることを、自分の左手には知らせるな」というのがあります。彼がイスラム教に改宗したのは、アメリカでイスラム教への改宗が盛んになる前のことでした。自分も考え方に基づいて信仰を深めていった彼ですが、この様なことを書くと、奇妙に思う人もいるかもしれません。何しろ彼は、あらゆる女性と関係を持ち、自分に都合が良い時だけ真実を語り、ヘロインを常習したり、ですからね。コニャック、マリファナ、コカインなど、彼には物足りない代物でしかなかったのです(訳注:いずれもイスラム教では禁止事項)。 

 

彼はよく「お高く留まっている」と思われていましたが、彼と一緒に居て教えられたことは、他人を決めつけるようなことをしてはいけない、なぜなら、そんなことは誰にもできないからだ、ということです。彼の性格は実に独特なもので、皆、彼の人となりに惚れ込んだのです。他人を知り尽くすことなどできない、よって、他人を決めつけることなどできない、と、いつもハッキリそう言っていました。アート・ブレイキーのこの考え方は、「氷山の一角」というお馴染の言葉がピタリと当てはまります。目に飛び込んでくるものは、本当の姿のごく小さい一部分でしかない、ということです。 

 

彼の出発点はビッグバンドで、ドラムパートを編成に加える上でのオーケストレーション(大編成アンサンブルの作品を作る方法)をよく心得ていました。彼は楽譜が読めませんでしたが、そう感じさせない位、彼の耳は素晴らしく、1回ないし2回聞いただけで、一曲全体を把握してしまう力を持っていたのです。その上で、それに手を加えて改良しようとしたのです。これはドラム奏者という、立場上楽譜や指示がほとんど与えらえれないミュージシャンにとって、重要なスキルなのです。ドラム奏者の裁量が制限されてしまっては、音楽に柔軟性がなくなってしまいます。曲作りにおいては、全員が一斉にタイミングをそろえて音を鳴らす「ヒット」や、音を強調する「アクセント」を設定する場合がありますが、そんな時でもドラム奏者は、どのシンバルを使うのか、どこでバスドラムを「ドスン」と一発下支えに入れるのか、テンションの上げ方と下げ方をどのようにもってゆくか、について、一人で決めてゆくのです。ドラム奏者が発信するグルーブ感の効いた、ダンスと打楽器の色付けを思い起こさせるアフリカのテイストが、ヨーロッパの演奏会用音楽へ加わるのです。 

 

「ブー」とは、私達の彼に対する呼び名です。彼のイスラム名「アブドラ・イブン・ブハイナ」を「ブー」と短縮したものです。ブーの強靭さは超人的でした。彼が好んで自慢していたことは、「俺と一緒にラリってた奴らは、みんな15年前に逝っちまったよ」。彼はツアーの時は、日を重ねてゆく毎にだんだんタフになってゆくのです。例えば、ヨーロッパツアーを2か月間行うとします。最終日が近付いたころの早朝夜明け前に、彼に声をかけても、彼はきっと素晴らしいパフォーマンスを見せることでしょう。僕が初めて彼のバンドのツアーに参加した時のことです。ニューヨークからヒューストンへ車で移動し、本番をこなして、そのままロサンゼルスへ車で移動し、また本番。彼は70才かそこらでしたが、眠気のまばたき一つしない。一方僕達は彼よりも40・50歳も若いのに、ヘトヘトになっていたのです。 

 

彼の教えには、いつも彼の実感がこもっていました。彼の実行力、能力、信念は強く、傍にいるだけで、演奏とは何なのか、を学ぶことが出来たのです。彼のアプローチは気さくで自然でありつつも、本番に向けての練習中は、度が過ぎるほど他のメンバーに気を配り、そして何より、本番お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかに心を砕いていました。「演奏は音量変化をしっかりつけて、人々は音楽に込められた物語に反応する。練習は完璧に、下手で薄っぺらで準備不足のパフォーマンスを聞くのに金を払う人などいない」。 

 

彼は、物事を理解しようと頑張る人には、とことん味方になってくれました。これは優れたジャズのバンドリーダーというものを考える上で重要な性格(キャラクター)です。バンドリーダーとのやりとり、といえば、「ちゃんと聴けよ」「いや、聴いてもわからないですよ」「だったらやめろ」。聴いても解らない、が延々続けば、「もうお帰り下さい」ということになってしまいます。リハーサル中、ブレイキーは常に、本番と同じテンションで演奏していました。その理由を尋ねると、「俺はこんな風にしかドラムを叩けないからさ」と答えるのです。 

 

ドラムといえば伴奏楽器ですが、彼はソリストに対して、どのように音量変化をつけてゆくかを組み立て行く達人でした。囁くような音量から吠えるような音量まで出せるという、彼の代名詞ともいうべき「プレスロール」(訳注:ドラムのロール奏法の一つ)は、たった2秒で、つま先で撫でるようなp(ピアノ)から足踏みするようなf(フォルテ)まで音量を一気に変化させることが出来たのです。彼は他人に花を持たすことを厭わない人でした。リーダーとしては、心広く、人にインスピレーションを与えるような存在であり、自分が関わったミュージシャン達に対しては、彼らの力をいかんなく発揮できる舞台を与えることで、その力を最大限に引き出すことのできる人でした。 

 

そんな風に接するうちに、ある時彼らにこう言ってやるのです「そろそろ君も自分のバンドを立ち上げて自分の音楽を発信してゆく時だ。もし行き詰って、金でもモノでも困ったら、いつでも戻ってこい。俺達はいつでもここで待っていてやるからな。」彼は自分のバンドを家族のように切り盛りしたので、彼に関わったミュージシャン達は、再び彼の元を訪れるのでした。 

 

僕達がニューヨークの名門ジャズクラブ「マイケルズ」に出演していた頃は、タイコ叩き達は皆、よくここに集まってきたものでした。パパ・ジョー・ジョーンズ、フィリー・ジョー・ジョーンズエルヴィン・ジョーンズ、ルイ・ベンソン、マックス・ローチバディ・リッチといった錚々たる顔ぶれが居並ぶと、そこはまるでドラム奏者達によるジャズクラブの様でした。「他のミュージシャン達は鳴かず飛ばずになっちまったが、俺たちタイコ叩きはバリバリだぜ。」などと、よく言ったものでした。今となっては昔の話ですが、1980年代初頭は、幅広い世代のドラム奏者達が、元気にスウィングを効かせていたのです。皆がブーの元を訪れるようになりました。彼のサウンド、演奏表現、ジャズ・メッセンジャーズの音楽には、彼のジャズ全体に対する愛情が込められていたのです。彼はよく管楽器奏者達にシャウトコーラスを吹かせてやったり、バンド全体ではリフもよくやらせたりしました。これは通常規模の大きなバンドがすることですが、彼は小編成のバンドであっても、これをよくやらせていました。きっと彼は、自分がこよなく愛したビッグバンドの全盛期が懐かしくて仕方なかったのではないか、と僕はそんな気がします。当時僕はビッグバンド用の譜面が書けず、今そのことがとても悔やまれます。出来ることなら、今再び、彼と仕事がしてみたい、と願うばかりです。 

 

まだ若く経験が浅い自分を取りててくれるバンドリーダーに対して、心に抱く敬愛の気持ちを言葉で説明するのは、なかなか大変です。チャンスを与えてくれる人のことは、いつまでも忘れないものです。ジャズミュージシャン達が「彼のおかげで今の自分がある」という言葉の重みは、大変なものです。 

 

もし僕が彼を一言で表現するとしたら、「不滅」、という彼のアルバムタイトルの一つを使うでしょう。彼はまさにそのものでしたから。それだけに、彼の死は、僕達全員にとってショックでした。ハーレムのアビシニアンパプテスト教会での追悼集会でのことは、未だに忘れられません。大変な数の元妻達とその子供達が全員参列していました。会はとても和やかな雰囲気で、彼の思い出を肴に、演奏や談笑の華を咲かせたのです。彼が皆から愛されたのは、彼自身が音楽や僕達皆に心を砕いてくれたからにほかなりません。彼の生き様は、ジャズの神髄を体現したものです。それは「安易に手に入れるようなものは、あっけなく失われてしまう」というものです。彼は人を決めつけるようなことをしませんでした。自分の演奏に厳しく、他人への演奏面での要求は安易に妥協せず、スウィングは常にビシッと決める。しかし彼が決して言わなかった一言は「俺の考え通りにやれ」。何事に対しても誠実であることが、どれ程価値があることか、そしてそういう生き方を選ぶことが、どれ程大きな力になることか、彼はそれを教えてくれました。 

 

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バードランド(訳注:ニューヨークの名門ジャズクラブ)の夜 第1集~第3集 

 

オーネット・コールマン 

(訳注:原書出版時2008年の7年後に逝去) 

 

数年前に偶然にも、オーネット・コールマンに、とあるミュージックストアで出くわした時のこと。ひとしきり話をした後、彼が僕に言った意外な一言「後戻りするなよ」。というのも、彼自身の音楽の原点が、ずっと古い時代にあるからです。彼は音楽の歴史の流れから外れた存在であり、時代の先駆者であり、そしてずっと古い時代、それもジャズが生まれる前の頃にベースがあります。彼の演奏方法は、コード進行に従ってインプロバイズする方法が確立される以前、メロディと装飾音型だけで演奏していた時代のものなのです。メロディのネタが豊富で、ハーモニーのことを知らなくてもできることから、彼の音楽は、幼い子供達がインプロバイゼーションを学ぶ上で大変良い教材になるのです。 

 

元々彼はチャーリー・パーカーのスタイルを基礎にしていました。初期の楽曲「バード・フード」などに、それを垣間見ることが出来ます。しかし彼は、努めて、人が話をする際につける仕草の変化を、演奏に反映しようとしました。また、彼は、むせび泣くような演奏の仕方を特徴としています。彼の、最も物悲しくて頭に残る楽曲「寂しい女」は、同時に彼にしかないサウンドを聞かせてくれます。彼は超一流の、メロディを主とする音楽家であり、ジャズの歴史上No.1ではないかと思われます。彼が音楽を組み立てるスタイルは、知的であり、ハーモニーを変化させることなく、目まぐるしく変わってゆく人の心の様子を、音に描いて見せたのです。 

 

一時彼は、伝統的な形式、主に変化をつけたブルースとリズムに固執していたことがありました。しかし間もなく彼は、フレーズの区切りにこだわらずに、純粋にインプロバイズしてゆくために、その両方ともいっぺんに排除してしまったのです。こうして、ひたすら自由に流れてゆくメロディ、というスタイルが出来上がりました。若い頃、彼は一時期ニューオーリンズに住んでいました。彼のカルテットにいた名ドラム奏者であるエド・ブラックウェルは、1950年代に僕の父と一緒に演奏活動をしていました。ブラックウェルによると、オーネットは彼に対し、4小節/8小節だのといったフレーズの区切り方をするな、とよく言っていたそうです。常に、より自然に湧き上がってくるような、実生活での人間同士の意志のやり取りを演奏の中にも求めていて、偶数単位と決めてフレーズを演奏していなかった彼は、「俺のフレーズを終わらせるな」とよく言っていました。彼には1小節毎が、あくまでも区切りだ、というわけです。 

 

彼のスタイルは何が革新的なのか。それは、メロディを自由に流し続けることで、一般的なコードのパターンにはまってしまい、使い古されたような感じのするメロディが、クドクド繰り返されるのをのを防ぐことが出来るからです。ところがこれは、プレーヤーにとっては足枷なのです。というのも、コードといえば、音楽表現をする上での4本柱の一つだからです(残りの3つは、リズム、メロディ、そしてテクスチャ[質感])。そしてコード進行に乗って新しくメロディを創ってゆくことは、ジャズのインプロバイゼーションにおける最も大きな挑戦だからです。このスキルの重要性に対し、一石を投じたのが、オーネットであるわけです。彼の後進の多くは、彼の様なメロディに対する才能やブルースに関する十分な知識は持ち合わせていませんでした。オーネットが活躍し始めてからというもの、ジャズのインプロバイゼーションとフリーインプロバイゼーションが混同される傾向が強まり、そして「まともな」と思われているライター達の中には、ヨーロッパの方が旧来のブルース形式にとらわれずインプロバイゼーションをするという点で、新のジャズの革新派である、などと本気で信じ込む者が出てくる始末。 

 

数年来、オーネットは同じ演奏スタイルを維持し続けています。時々ヨーロッパのアヴァンギャルド的な手法に手を出すことはありますが、哀愁漂うサウンド、天才的なブルースのメロディ、炎のように熱く、そして自然と体が動き出すスウィングのリズムといったものが、彼を根っからのジャズマンだと説明しています。 

 

彼は、共感的理解の大切さを教えてくれます。彼に話を聞いてもらっている時に感じるのは、こちらの言いたいことが既に理解できていて、そしてこちらの言う事をしっかり把握し、その深い意図に反応してくれている、ということです。本当によく耳を傾けてくれるので、「どうやってこちらの思っていることがわかってくれるのだろう?」と感心してしまいます。オーネットは、こちらが話すそのニュアンスを全て感じ取り、どんな小さな情報も、どんな表情仕草も、すべて把握しようとします。その姿勢からは、表にでない細やかなことまで注意を払う大切さを、教えられます。誰かが思わず眉をひそめる。彼はそれを音にして見せます。目上の人と会話中、時計を見たいけれど、話に興味がないと思わせたら失礼かな、と心が葛藤する。彼はそんな気分をも音にして見せます。オーネット・コールマンとは、他のどのジャズミュージシャンよりも、人とのやり取りの中に生まれるわずかな心の揺らぎをも、完璧に音にできるミュージシャンなのです。 

 

彼は他人の演奏をしっかり聞くことが出来る人です。それは僕が彼の家に行って一緒に演奏した時に知ったことです。どうしても音楽という言葉は、相手が話を分かってもらえず、イライラする代物です。話を振っても、キチンと返ってこない。こちらが小さく吹いても、相手は大きく吹いてくる。こちらがポリリズム(複合リズム)を演奏しているのに、相手はドタバタ突進するだけ。こちらがソリストに「おい、バックを聞いてたのかよ?」と訊けば、相手は「え?なに?」と返すだけ。その点、彼のインプロバイズのやり方は、他の頭デッカチなその他大勢のミュージシャンなんかよりも、よほど勉強になります。オーネットは教えてくれます。才能とは通説を極めることではなく、どこからでも喰い漁って行けばいいんだ、と。 

 

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世紀の転換 

 

ジョン・コルトレーン 

 

トレーンは我慢の人です。彼が腕を上げていったのは、彼の大変な努力と我慢強い粘りの賜物であることは、誰もが認めるところです。とは言え、同時に彼の人生を見てみると、物事は作ってはぶち壊してゆかねばならない、という強迫観念がもつ「両刃の剣」のようなものだった、ということが、ハッキリと分かってきます。 

 

僕は、彼が18歳か19歳の頃の演奏をテープで聴いたことがあります。ビックリするほど下手くそです。彼ほどの素晴らしいサウンドの持ち主が、こんなにサマになっていないのを、他に聞いた記憶がありません。本当に彼が吹いているのか?と思いたくなります。何もかもが課題だらけ:耳を鍛える、技術を磨く、サウンドを良くする、音楽のとらえ方を勉強する、どれもが猛特訓を要するレベルだったのです。彼はそれらを克服すべく、自分独自の方法で、それこそ取り憑かれたように練習してゆきました。そして彼の仕事に対する心構えが功を奏し、まずはしっかりとした腕前をモノにし、それからディジー・ガレスピーマイルス・デイビスの両方のバンドに参加してゆくことになってゆくのです。 

 

コルトレーンの素晴らしい才能を誰よりも早く見出したのが、マイルス・デイビスです。マイルスが彼のサウンドに感じ取ったのは、志の高さと、田舎の牧師のような真面目さでした。音楽評論家達の多くが彼の問題点として指摘したのは、高度なコード進行になる程、変化に富んだメロディを展開できなくなることです。マイルスは、そのことをよく理解していました。というのも、マイルス自身も駆け出しの頃、チャーリー・パーカーと一緒に吹いていた時に、和声法には苦労したからです。マイルスは、バード(チャーリー・パーカー)直伝の、アート・テイタムから受け継いだハーモニーの扱い方を、コルトレーンに叩き込みました。バードは代理コードを多く駆使する人です。これにより変化にとんだコードが隙間なく詰め込まれ、楽曲が一層エキサイティングになる、というわけです。演奏する側にとっては、元々難しい曲の進行である処に、更に負荷がかかってくるようなものなので、演奏時間は同じでも新たに加わった「障害物」の数々があるおかげで、普通にしていたらゴールにたどり着くのが、より困難になってしまうのです。トレーンはこれにどう取り組むべきかに気付くことが出来ました。あとは時間をかけてしっかり問題を解消してゆきました。こうして彼は、ジャズの歴史上、和声にかけては最も洗練されたミュージシャンの一人となったのです。やせっぽちの弱虫男が、マッチョな筋肉ヒーローに生まれ変わったようでした。 

 

折角マイルスがコルトレーンの演奏の腕を買ってくれて、そのことをコルトレーンも分かっていたのに、トレーンは薬物の常習から抜け出せていなかったのです。ヘロインは、チャーリー・パーカーが残してしまった負の遺産であり、トレーンも他のバードの弟子達が数多くそうであったように、ジャンキーになってしまったのです。マイルスの処へ来る前に、ディジー・ガレスピーのバンドを麻薬が原因でクビになっていたのに、今度はマイルスの処でも同じ理由でクビにされてしまいました。さすがに、これにはコルトレーンも懲りたようで、ようやく麻薬をやめるか、人間やめるか、選ぶ決心をつけたのでした。 

 

その後彼を受け入れたのが、テロニアス・モンクです。モンクの音楽と言えば、神聖な雰囲気が漂い、熱気あふれるものです。単にモンクの傍に居るだけで、トレーンは自らが向上してゆくのを実感し、モンクの音楽を演奏することで、コルトレーンは、自分のやる気と能力をもっと大事にしてゆこうという気になってゆきました。この間、彼は同時に心の健全さも取り戻し始めます。精神面での回復により、学習意欲をかき立てた彼は、東洋の宗教、東洋や中東の音楽、そして勿論、その和声についても研究を深めてゆきました。彼は以前にも増して、彼独自のスタイルを作り込んでゆくことに、やっきになってゆきます。彼は急激に腕前を上げました。毎日朝から晩まで練習に明け暮れました。おそらく以前からずっとそうだったとは思うのですが、今度は彼は以前と違い、自分の演奏の核心となるコンセプト作りにも取り掛かり、そしてそれを意識して自分の演奏に反映させようとしました。 

 

彼は、エルヴィン・ジョーンズ、マッコイ・ターナー、そしてジミー・ガリソンと共に、最高のジャズアンサンブルの一つを結成します。彼らの演奏に込められた情熱は、後にも先にも他の追随を許さないものでした。彼らの音楽に対するアプローチの深さと真剣味は、それまでジャズの根本とされていたものに、力強く新しい方法で新風を吹き込んだのです。この「クラシックカルテット」(伝統的な4人編成バンド)により、トレーンは、いかなるテンポの楽曲でもブルース形式こそがその中心である、ということを訴えてゆきました。彼が掘り起こしにやっきになったのは、ジャズと黒人霊歌、そしてアフリカ系アメリカ人の教会音楽との結びつきの強化で、その作品のひとつ「アラバマ」は、1963年にバーミンガム州の教会で4人の黒人の少女達が犠牲になった爆弾テロに対する、彼自身の熱いメッセージが込められているのです。彼は「トゥンジ」や「アフリカ」といった作品で1960年代のパン・アフリカ主義運動に関わりましたが、依然、アメリカのポピュラー音楽や伝統的なジャズとも結びつきを保ち、デューク・エリントンや歌手のジョニー・ハートマンとの共演をアルバムとして残しています。何しろスウィングがしっかり効いているのです。 

 

このカルテットを代表するアルバム「至上の愛」の「パート4:賛美」は、祈りを書き綴ったものです。トレーンが演奏するインプロバイズされたメロディは、まるで彼が祈りの言葉を歌い上げているようです。それを支えるバックは、ピアノの低い音によるトレモロ。これはよくアメリカでは、アフリカ系の教会の礼拝でよく耳にするサウンドです。トレーンの遺した言葉の一つに「神はとても優しく、そしてしかも隅々まで、私達に息吹を送り込んでくれる」。これは、僕から言わせてもらえるなら、まさしくコルトレーンのすべてを物語っている、と思います。彼は熱く語りかける牧師のようでした。自分の奏でるサックスを通して、聞く人の心に変化を起こそうとするのです。炎の様な情熱家ではありませんが、キレず、アセらず、いつもマッタリと、そしてシッカリ自分の信念を持っていました。彼のサウンドに秘められたものが私達の心の琴線に、思いの深さ、寄り添う気持ち、しかもそれらは、どこまでも美しい高貴さで、そっと触れてくるのです。誰もが心を奪われます。彼の真心に人は涙せずにはいられません。 

 

コルトレーンは皆から愛される人なのです。 

 

ところが後に、彼の良さである使命感が、アダとなり始めます。強い使命感というものは、完璧さをもたらすこともありますが、同人に破綻をもたらしかねません。運動トレーニングをやらなきゃ、と思いすぎると、止められなくなり、やがて逆効果が現れるのと同じです。コルトレーンの場合、彼に「もたらされた破綻」「現れた逆効果」は、カルテットの崩壊だったのです。 

 

トレーンが皆を愛し大切にする様は、まるで聖人の様でした。グループに参加したいというミュージシャンが現れると、彼はこれを拒むことを嫌いました。ある本番では、ホーンセクションが50名ほどに膨れ上がり、ドラムのエルヴィンに合わせてスウィングしてゆきました。プログラムは、各曲の演奏時間が決まっておらず、一つの曲に1時間15分かかることもあります。それから彼は練習に際しても、いつでもどこでもさらっていました。例えば本番で彼がソロを吹くとします。彼のソロの後、ピアノのマッコイがソロを弾くわけですが、この時コルトレーンは、自分が吹く番まで舞台裏で練習しているという始末。彼は自らの方向性というものにおいては、何事についても妥協を許さない人でした。それは聴衆に対しても、自分自身に対しても、そして自身のバンドに対しても、です。音楽は流れに任せ、どこまでも響き行くままにこれをただ見届ける、といった具合。 

 

そうするにあたって、彼の根底にあったのは、当時音楽評論家や学者の間で主流となっていた間違ったヨーロッパアートの発想でした。当時、これに感化されたミュージシャンやアーティストは多く、現代の芸術活動を進歩させる唯一の方法は、抽象主義しかない、と言う信奉です。考え方としては、古臭い発想です。音楽分野では、歴史学で言う処の「偉人理論」が用いられます。ハイドンに取って代わったベートーベン、それと取って代わったワーグナー、それにドビュッシー、ストラビンスキー、シェーンベルクと替わり続ける。それぞれが「これが今風」と称される位、十分に「抽象的」と評価されたら、「交代完了」というわけです。 

 

ヨーロッパの人達が自由を享受した1900年代初頭から約60年の時を経て、アルバム「アセンション」により、コルトレーンは伝統の手錠を打ち壊した「今風の人」となったのです。 

 

自身が身に付けた芸術の基礎をかなぐり捨てて、重要かつ強靭な時代の先端を行くアイデンティティを手に入れようとする気持ちと戦ってゆくことは、ほぼ不可能です。この、富んだ思い違いに自らを懸ける学者達は昔から存在し、一向になくなりません。彼らに教わって台無しにされた学生達も、その数はあまりに多いのです。抽象主義の曖昧さを克服する頃までには、「自分は結局何をしていたの?」と分からなくなるのです。そして一旦自分が「何をしていたの?」と、自分を見失ってしまうと、今度は、自分がしてきたことは大して重要ではなかった!と思い込み、しかも、その理由は何なのか?が分からなくなってしまうのです。未だにアヴァンギャルド(前衛)と呼ばれる代物ですが、ドイツでは20世紀初頭に掘り下げられ、その50年後にその波はジャズに押し寄せました。それから更に50年後の現代ですが、依然として、1920年代にキング・オリヴァー楽団が演奏していた音楽よりも新鮮味がない、というわけです。 

 

僕が思うに、ずっと後になってからコルトレーンは、この「何をしていたの?」の一人に陥ってゆきます。わずか2・3年のうちに、彼はクソ真面目な田舎の少年から、革新的な天才ジャズミュージシャンへ、そして音楽ひとつで心の奥深い所にある思いを伝える伝道師へと駆け上がりました。当然のことながら、「音楽ひとつで」の「音楽」とは、混沌とした状態を織り成したような代物でなければならない、なぜなら、それこそが20世紀においては先進的な芸術のあるべき姿だと、皆が思っていたからです。だからこそ彼は、スウィングのような、ある種ジャズの基本的な事柄から、嬉々として自分を遠ざけて行ったのでした。 

 

トレーンは、世の中とは大きくかけ離れた存在になってしまいました。彼が精進してゆく中で次々と見出していったものは、彼独自の世界観が強く表れています。彼が生み出す音楽は抽象的な性格を強めてゆきました。初めは彼を信奉してついてきた人達も、その多くは抽象的な表現が音楽の中で幅を利かせるにつれて、先へ行けなくなり、途方に暮れてしまい、元々の立ち位置が分からなくなってゆきます。もっともコールマン自身は今でも、名サックス奏者として、他の様々な音楽文化を採り入れた天才として、ハーモニーにかけてはズバ抜けた洗練さを誇るブルースの達人として、その真摯な求道者として、人々の記憶に残っています。彼はこれら全てであり、そしてこれ以上の傑物です。 

 

彼がミュージシャンとして辿った道のりを考えてみると、ヨーロッパ芸術というものは総じて、一体どこに向かっているのか?という疑問が湧いてきます。アヴァンギャルドの頂点に君臨するピカソは、抽象主義の世界に身を投じたものの、やがて彼は気付きます。抽象主義は自分にとっては、色パレットに出した「色」の一つであり、他の「色」である芸術スタイルと「優劣」の差は無い、ということを。ピカソが辿り着いたこの境地に、なぜほとんどのジャズミュージシャン達は辿り着かないのでしょう?瞬間芸術のスタイルしかないんだ、と言わんばかり。何と残念なことでしょう。コルトレーンなら、どんなスタイルでも演奏する上でも、これまでになかった価値ある何かを見出せたはずだった、と僕は思います。そうすれば、ジミー、マッコイ、そしてエルヴィンも、もう少し長く彼のバンドに留まってくれたのではないでしょうか。 

 

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マイルス・デイビス 

 

マイルス・デイビスからは二つのことを教えられます。一つは音楽のことで、もう一つは生きる上でやってはいけないこと、です。彼のミュージシャンとしてのキャリアは2部構成。第1部は、彼がセントルイスからニューヨークへ出てきた1945年から1960年代中盤までの、ひたむきに芸を極める求道一直線の時代。第2部は、1960年代後半から1991年逝去までの、ひたすらに媚びを売る愚道一直線の時代。 

 

当初彼は、なかなか芽が出ず、伸び悩んでいました。まだ駆け出しだった10代の頃、彼はチャーリー・パーカーのレコーディングに参加していました。彼にとっては、良くもあり悪くもある状況です。良いのは、バード(チャーリー・パーカー)目当てのお客さん達に自分の演奏を聞いてもらえること。悪いのは、バードの後でどうしても比べられてしまうこと。巨匠チャーリー・パーカーは史上最高の管楽器奏者であるのに対し、若輩マイルスは、腕ではまだまだ一人前とは言えません。彼は音程感覚に課題がありました。当時の録音を聴くと、彼がコードの変化について行けていなかったり、何とか楽器を上手く吹きこなそうと必死になっている様子が伝わってきます。それでも彼は20代の10年間、自分だけにしかないサウンドや演奏スタイルを生み出そうと、ガムシャラに努力し続けました。彼は一夜にして腕を上げた、とはいかなかったものの、ひたすらに知恵をつけ努力を積み重ねてきたことが、その音からうかがえるのです。 

 

ビーバップに挑もうとする他のトランペット奏者達と同様、彼もディジーのような疾風怒濤の演奏スタイルに憧れを抱きました。当初は、とても話にならない状態だったものの、2・3年のうちに、ディジーの良さを受け継いだ演奏スタイルを身につけてゆきます。これには感心した人々もいましたが、当のディジーは違いました。ディジーがマイルスに対し、磨きをかけるよう諭したのは、自分自身の良さを生かした、自分自身のスタイルというものでした。 

 

マイルスの音色は彼独特のものであり、情感豊かでした。だからこそ彼は意図して音を眺めに吹き、フレーズとフレーズの間には、間(ま)をとって歌い上げました。彼が研究し始めたのは、レスター・ヤングやビリー・ホリデーといった、「間」を大切にしフレーズに表情をつけて歌い上げる人達です。彼は徹底的にジャズの歴史をひもとき、どうやったら自分がそこに一石を投じることが出来るかを探ろうとしました。そうして彼のサウンドは、だんだんと自分らしさを帯びてきたのです。それは、痛々しく、飾り気がなく、内向的で、感情的な激しさを持っていました。彼は気付いていたのです。彼には自分のサウンドで人々の魂に触れる力がある、ということを。天から授かったこの強力な武器があれば、人は優れたミュージシャンとなって、速くて複雑なフレーズもお手のもの。賞賛も、仲間の敬愛も欲しいまま。でも一般の人々はどうか?そう甘くはありません。一皮むけるには、人の魂に手が届かなければなりません。そしてマイルスは、依然としてその一皮がむけていない。バードにつられてしまった多くの同世代の音楽仲間達同様、彼にもドラッグの間の手が忍び寄ります。音楽活動を本格化させる前にやめちまえよ!と迫ります。しかし彼の「天から授かった強力な武器」が、ドラッグをはね返せ!と後押しし、彼はそれをやってのけたのです。 

 

小手先の技術を上回る、音楽面での表現手段が持つ価値というものを、彼が身に付けた腕前は示しています。マイルスは知的好奇心の塊のような人でした。彼の音楽がきちんと機能するには何が必要かを知りたくて、新鮮なアイデアを次々と好んで試してゆきました。どのような合奏体としてのサウンドを望んでいるのか、自分の求めるものを常に把握しているのがよく伝わってきたとのこと。彼は20代になったばかりの頃、ギル・エヴァンスジェリー・マリガンジョン・ルイス、その他若手アレンジャー達で新しい表現方法を探っている人達にのめり込んでゆきます。長続きはしませんでしたが、彼が率いた9人編成のバンドがレコーディングした12曲に、後に名付けられたのが「クールの誕生」です。 

 

これから彼は、イノベーターとしての名声をほしいままにしてゆくのですが、実は彼が腕を振るったのは、コーディネーターとしてでした。様々な人達のアイデアを、置き換え、アレンジし、一つにまとめ直してゆくのですが、そのやり方で出来上がったものは、間違いなく彼自身のモノと分かる。素材を合わせて整えてゆき、味付けは、1900年代初頭の頃の曲の奏法を使い、元ウタを土台として仕上げてゆくものです(ビーバップのミュージシャン達が書いた複雑な新しいメロディは、往時のティンパンアレーの曲にありがちなハーモニーに乗っていました)。彼の第1期クインテットは素晴らしく、レッド・ガーランドポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズ、そしてジョン・コルトレーンらが、ピアニストのアーマッド・シャマルのコンセプトによって、ニューオーリンズジャズのグル―ヴ、ヴァンプ、そして音のない間(ま)をふんだんに取り入れたソフトで抒情的な4拍子のスウィングを発信してゆきました。 

 

彼はいつも、その洞察力を生かして才能ある人を発掘してきました。それというのも、彼自身、演奏家として苦労人でしたから、他人が必死で音に乗せて伝えようとすることを、ちゃんと聴き取る方法を知っていたのです。自分がそうであるが故に、他のミュージシャン達が内に秘めている、知性とソウルが組み上がってゆくのを、彼は理解できる人でした。だからこそ、他の誰も見抜けなかったジョン・コルトレーンの才能を、彼は見抜けたのです。優秀なリズムセクションの活かし方を良く心得ていた彼は、良く整理されつつもしっかりスウィングの効いた演奏スタイルを採り入れることにより、その優秀なリズムセクションが、単なる「縁の下の力持ち」以上に活躍できる余地を得ることができました。彼の天才的に素晴らしいメロディ、理にかなった展開をしてゆくソロ、そして音楽的なストーリー展開のセンスの良さによって、彼の作品は高揚感と深みがあり、高い志を持つミュージシャンなら誰もがハマってゆきました。彼は次々と優れたアルバムを世に送り出しました。その中には、ギル・エヴァンスがマイルス独特のサウンドを生かそうとして、完璧な合奏譜を提供した3作品「マイルスアヘッド」「ポーギーとベス」「スケッチ・オブ・スペイン」が含まれています。 

 

彼の代表作であるアルバム「カインド・オブ・ブルー」は、モード手法に基づいて作られています。ビーバップの心臓部である複雑なコード進行を備えつつも、彼と彼のメンバー達がインプロバイズを繰り広げるのは、ベーシックな音階である、というこのモード手法は、彼が最初に取り入れたとされることがあります。実際には彼以前にも、デューク・エリントンチャールズ・ミンガスディジー・ガレスピーギル・エヴァンス、それから編曲家のジョージ・ラッセルといった面々が、モード手法を実験的に取り入れていたのですが、マイルスのモード手法の使い方は、ジョン・コルトレーンキャノンボール・アダレイ、ジミー・コッブ、ポール・チェンバース、そしてビル・エヴァンスウィントン・ケリーがピアノとしてこれに臨み、まさに極めつき。ぜい肉が落され、メロディックで、スウィングの効いた、これぞマイルス・デイビス、といった感じです。 

 

彼は外に向けた顔も、また独特でした。自分は綺麗に着飾る。とりまきはハイソサエティな、きらびやかで、冷ややかで人を寄せ付けないような面々。黒人が受難の時代にあっても、自分は他人のいいようには絶対にさせない。彼は人種・民族の分断を良しとしませんでした。あらゆる人種の人達と共演したのは、そのためです。もっとも彼は、誰と、何時共演するか、については、かなりこだわりのある人でしたが、それは常に音楽的な理由や事情に基づくものでした。気分が乗って、一定の条件が揃った時にだけ仕事をする、と言う有様。彼の態度には、相反する二面性がありました。それは、下卑た振る舞いの下に覆われている、大いなる優しさ、というやつです。聴衆には背を向ける、他人に対して自分の機嫌を取るよう強要する。そうかと思えば、聴衆の方へ向き直り、一発の熱いサウンドで聴き手のハートをメロメロにする。それは「理由なき反抗」という、1960年代の中・後半にはピッタリのやり方でした。彼の声はガリガリ、ギシギシするようなダミ声で、皮肉交じりのユーモアセンスの持ち主で、「クール」(格好いい)を極めた人です。 

 

「自分を崇拝しろ」と言わんばかりのマイルスでしたが、演奏はともかくピカイチでした。1960年代中頃、彼が結成した新しいバンドに参加したハービー・ハンコックロン・カータートニー・ウィリアムス、そしてウェイン・ショーターといった、いずれも若い黒人ミュージシャン達は、皆彼の音楽に惚れ込んだ面々。それも、彼の人との交わり方の成すところが大きいのです。彼の存在感は大きく、彼のリーダーシップの下、メンバー達は新しいジャズの演奏方法を開花してゆきます。そういった動きを、彼は懐広く受け入れるのです。それは彼が、様々なコンセプトを機能させてゆく能力があったからにほかなりません。マイルスの人材起用術、彼らを自由に演奏させる操縦手腕、そして万全の環境を整え好機を逃さず録音に踏み切る機知、これらにより、このバンドは1960年代を代表するジャズのレコードのいくつかを残してゆきました。 

 

マイルスはこのバンドで演奏するにあたっては、かなり勇気をもって臨んでいました。彼と同世代のジャズミュージシャン達の多くが、ビーバップの時代から抜け出すことが出来ずにいた中、彼は自分より15~20歳若いメンバー達と演奏し、彼らを受け入れ、自分をそこに適応させようと努力したのです。本当の処、彼はウェイン・ショーターの「オービッツ」や「ピノキオ」といった曲については、ついて行けていませんでした。コード進行は難しすぎるし、和声もチャーリー・パーカーの下で駆け出しの頃経験したものとは、全く異質のものでした。それでもなお、彼は一つ一つの音に魂を込め、深く掘り下げ、よく考え抜いて演奏をし続けます。しかしやがて、彼のアプローチには、「きちんとした態度」というものに陰りが出始めるのです。20年間、ビーバップをモノにしようと打ち込んでいた時とは異なり、彼は新しい素材を自分の血肉にしようというところまで、入れ込むことはしませんでした。だんだんと、ただ音を鳴らして表情記号通り吹いているだけ、肝心の曲の形式は、ハービー、ウェイン、ロン、そしてトニーに丸投げ。自分とバンドのメンバーぐらいしかほとんど気付かないような、元歌の形式なので、大したことがないように思われてしまうかもしれません。でもこのことは、彼らの新しいスタイルにとって最も大切な要素の一つに、しっかりと向き合えていないことの表れであり、やがて彼の音楽作りを支配してゆくようになる「だらしなさ」を予感させるものでした。 

 

この時点では、彼の音楽界における信頼性は、依然として健在でした。かつてバードと共演し、優れたレコード作品を次々と世に送り出し、バンドの芸術性に深く関わり、多くのミュージシャン達や聴衆に対し、人として、そしてミュージシャンとしての誠実さを示してきた男。彼の初期の音源は、どれをとっても、手を抜いたものなど見当たりません。才能、知性、そして彼が表現したいものが、全てを出し切って音になっているのです。 

 

ここで彼が直面してしまったのが、「中年の危機」であり、あらゆる芸術分野のあらゆるアーティストにとって最悪の「逆運」のひとつです。1960年代後半、アメリカ全土で若者達による社会運動が激化しました。音楽では、R&Bが黒人層、ロックンロールが白人層、そしてジャズの居場所は、もうないのか?という状態でした。R&Bにしろロックンロールにしろ、これを演奏していたのは、主にカリスマ性のある若手のアマチュアミュージシャン達でした。よりシンプルな音楽と歌詞、そしてバックビートを駆使して、聴く人の人生をも変えてしまうようなパワーと、絶大な人気により、プロのミュージシャン達を圧倒してゆきます。こうなると、40歳の男がスーツを着て、ベース、ドラム、ピアノ、サックスと一緒にトランペットでクロマティック(半音階)なんか吹いているようでは、これ以上の時代遅れは有り得ない、というわけです。 

 

マイルスといえば、トレンドリーダーとしてかつては名を馳せていたのに、今や時代を後追いする側へと後退してしまったのです。彼はこれまで自分が取り組んできた音楽をかなぐり捨て、自分の理解できる範囲を超えてしまっている音楽「サイケデリックロック」の形式による演奏に、手を出してゆきました。そもそもミュージシャンというものは、自分が本気でやりがいを感じている素材を使ってベストを尽くした場合にのみ、素晴らしいパフォーマンスができるのが常です。思いあがったジャズミュージシャンは「歌謡曲なんて楽勝さ。何しろコードはたった二つ。ビートは一つしかないんだから」、などと「思い込む」こともあるかも知れません。でも実際はそう簡単にはいきません。ビートルズは常にベストを尽くした演奏をします。素直な音がするのは、彼ら自身がそういう心持ちで演奏に臨んでいるからです。素直さに欠けるミュージシャンが同じことをしても、ウソッパチな音がするだけです。 

 

大方の年配のミュージシャン達と同様に、マイルスもロックンロール、ファンク、あるいはバックビートの音楽というものを良く分かっていません。マイルスは「白人のロックギターリストを連れてきてワーワーペダルで弾かせれば全てOKだろ」と考えます。ところがOKではなかったのです。そうやって彼が作ったものは、味も素気もないブランドのエレキロック。これでは若い音楽ファンは見向きもしません。彼はこれを、ある種斬新な取り組みだという印象を与えようと、アヴァンギャルド的なノイズ音楽と結び付けたりもしたのです。今や昔の話ですので、安心して言いますが、ロックンロール台頭以前に活躍していたジャズ奏者の中で、レッド・ツェッペリンパーラメントファンカデリックブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリートバンド、コモドアーズ、U2、あるいはこれらに並ぶ域に達するポップバンドをキチンと作り上げたのは、誰一人いません。 

 

興味深いのは、マイルスはこのような背信行為をしてもなお、ブラックファンクへの鞍替えはしなかったことです。彼はスティービー・ワンダーマーヴィン・ゲイと張り合う気はありませんでした。彼はロックへ鞍替えし、それがもたらしてくれる大金と大観衆が目当てだったのです。 

 

ステージ上で楽しみたい、飛んだり跳ねたりしたい、何でも好き放題やりたい、そう思うことは、別に悪いことではありません。ただ、彼の師であるチャーリー・パーカーとその同世代の人々は、黒人ミュージシャン達の為に、黒人を茶化すミンストレルショーのしきたりにメスを入れるべく、立ち上がったのです。彼らはベラ・バルトークやストラビンスキーといったヨーロッパの巨匠達の、音楽に対する真摯な取り組みに注目し、自分達の芸術活動への取り組みにおける精神的支柱として取り入れようと力を尽くしました。そうすることで、アフリカ系アメリカ人がたどった歴史の深さを表現しようとしたのです。マイルスもかつては、これに取り組んだ一人であったのに、今や彼が達した結論は、「そんなの大して真摯にやることじゃない、金も名誉も得られるか、わかったもんじゃない」というものでした。 

 

「自分は常に時代の最先端にいて、以前の実績とは無関係に、新しい音楽を次々と思いつくことができる」彼は自分をそう思い込むようになってしまっていたのです。こうなると人間は、ハムスターの回し車に乗ったように、いくら走っても、どこへも行けなくなります。自分は何としても「格好いい」存在でなければならない、そして「格好いい」かどうかを決めるのは、若い人達であり、そして自分が「渦中の人」となること、という幻想を抱き始めます。ある若い女の子が、ジミ・ヘンドリックスのファンだとします。そうしたら、彼女が好きそうな曲を吹かなきゃ、と思う。それからファッションも気にし出す。何にせよ、後手に回らないようにしようとする。 

 

結局、彼は黒人ミュージシャンの第一人者だとか、ジャズの第一人者だとかいう評判をひっさげて、挙句、ダメなロックミュージシャンとしてのキャリアを歩むことになったのです。それでもなお「ロックミュージシャン」として生きながらえたのは。ロックの批評家達や音楽業界関係者達の、情けをかけた言葉「まぁ、超一流のジャズミュージシャンが、ロックに鞍替えするなら、ロックだってスゴイんだってことを、ちゃんと考えた方がいいってことだね」のおかげなのです。 

 

鞍替えすると、何かしら本人がダメージを受けるものです。マイルスは1975年に一旦現役を引退しますが、この時彼はほとんど再起不能の状態でした。彼ほどの知性と、飽くなき誠実さを兼ね備えた人なら、理解していたこと:それは、彼はもはや檻に入れられて、愛玩動物に堕した、年寄りのライオンのように、今でもアフリカの大地にその身はある、かのように扱われつつも、実際は檻の前を通り過ぎてゆく人間達が、じっと見つめたかと思えば、百獣の王が喰らうはずもないポテトチップスか何かを、餌として放り投げてゆく、そんな状態だということです。自分が今どんな場所に居させられているのか、自分がどんなに酷い状況にあるのか、マイルスというライオンには分かっているのです。 

 

1981年、マイルスは現役に復帰します。僕達は皆、大いに期待しました。「さぁ、何を聞かせてくれるだろうか?」なんと彼は、しょうもないブラックポップスを演奏してきたのです。こんなのを持ち出してくるなんて、この数年間何を心に思い描いてきたのか?と言う感じでした。こんなバカげた結末になってしまったことは、本人も辛かったでしょうが、彼の復帰に付き合った共演者達も、さぞ辛かったことでしょう。皆それは分かっています。 

 

それでも色々なことが起きた年月が、全て過ぎ去った今、現在彼は「カインド・オブ・ブルー」といった銘盤のミュージシャンとして、再び名を馳せています。芸術とはこういうものです。人の記憶に残るのは、アーティストが成し遂げたことの内の、最高のものであり、成し遂げなかったことではありません。そして、その素晴らしさが本物なら、後世に残ってゆくことでしょう。ジャズがこの世にある限り、マイルスが成し遂げたことの内の、最高のものもまた、残ってゆくことでしょう。 

 

彼のことは、研究する価値があります。特に、名誉や金、男/女、人気、のために演奏をするか、それとも音楽それ自体のために演奏するか、どちらを選ぼうか決めようとしている若い人達におすすめです。彼を研究することで、厳しい努力、飽くなき好奇心、深遠な精神、といったものの価値が見えてきます。より深く研究することで、人はどのようなタイミングで、たとえキャリアが絶好調であっても、誠実さの欠如に足を取られるか、これが分かってきます。彼は、あの諺を地で行ったのです。 

 

最高とされるものは、一度壊れると、最悪なものとされてしまう。 

 

おススメの銘盤 

 

クロニクル:珠玉のレコーディング 完全版 

 

カインド・オブ・ブルー 

 

マイルス・アヘッド 

 

キリマンジャロの娘 

 

 

 

デューク・エリントン 

 

1969年4月29日の夕方、ホワイトハウスにはデューク・エリントンの姿がありました。大統領自由勲章の授与式が行われたのです。この日は、彼の70回目の誕生日でした。翌日の夜、彼の姿はオクラホマシティシビックセンターにありました。バンドを率いてのコンサートへ戻ってきたのです。このコンサートツアーは、彼が半世紀近くも取り組んできたものです。 

 

彼はそういう人だったのです。あらゆる人のために奔走する彼は、自分の全てを懸けて絶え間なく音楽を創り続けた、ジャズの不動の代表選手なのです。 

 

デュークはアメリカ一の多産なミュージシャンであり、その音楽には学ぶべきことが沢山詰まっています。彼が生きるその根っこにあるもの、そして無限に湧いてくるインスピレーションの源、それは、全ての人に対し好奇と愛情の念を持っていた姿なのです。皮肉な話ですが、エレガントな着こなし、そして「いつも自分は本番舞台上」という佇まい、このせいで皆が彼とは少々距離を置くのでした。もっとも彼の自叙伝「Music Is My Mistress」によれば、「俺の人生は宴」のようであった、とのこと。彼が知り合いとなり、そして彼が愛した人々が織り成すカレイドスコープ(万華鏡)を通して、彼の世界が描かれています。 

 

頭に血が上った人同士のやり取りや、人の異常な欠点というものを、彼は好みました。中の悪い2人がバンドに居るとします。彼なら、まず、隣同士に座らせる。絡み合いのあるソロをやらせる。そして様子を見る。彼はミュージシャンが好きなのです。それも単に演奏だけでなく、その人自身を愛してしまうのです。それがあるからこそ、何年間にも亘って、できるだけ多くの人々と共演したい、だとか、同じメンバーと何十年も演奏を共にしたい、とかいう気持ちになれるのです。 

 

愛し合う男女の豊かな心の生き様を表現させたら、彼の右に出るミュージシャンはいませんでした。彼がピアノで一音鳴らしただけで、月明かりがすうっと差し込んできます。かれは女性達を愛し、彼女達も彼を愛したのです。 

 

人生とは先が読めないもの。これも彼が愛したことです。彼はカオス(混沌とした状態)を大事に好んでは、その中に音楽的な作品へと「仕上げてゆく方法を見出しました。かれのバンドはまとまりに欠け、指示が通りにくく、彼以外の人間にはとても御し切れない集団だったのです。まずはテナーサックス奏者のポール・ゴンザルベス。本番中、大半の時間居眠りしていたかと思えば、パッと目を覚まして30コーラス熱気あふれるソロを吹く。ジョニー・ホッジズ。情熱的なバラードを演奏したかと思えば、指をこすり合わせる仕草で「ギャラ上げてよ」と合図する。レイ・ナンスは背が高いので、自分のマウスピースが見つけられない、ましてや楽譜などいうまでもない。この様なバンドですから、誰がリーダーになっても頭がおかしくなってしまったことでしょう。でもデュークは違ったのです。大概の人が混乱を収めるのに型で自分を守ろうとする処を、彼は型で抱きしめてあげようとしたのです。 

 

それまでずっと、甘美な社交ダンスの音楽を主に演奏していた24歳の時に、彼はシドニー・ベシェの音楽を耳にし、初めてニューオーリンズ音楽の力を理解しました。当時大半の人々が新しいホットジャズを、単なる目先の新しいモノ、昔ながらの甘美さのある音楽から見れば敵だ、と見なされていたのです。デュークはジャズが、ホットで尚且つ甘美な音楽となりうることを、見抜きました。彼は既に自分のモノにし始めていた甘美な音楽を手放すことはしませんでした。でも彼は、新しい音楽表現を身に付けていくという難題に取り組むことを決意し、早速ニューオーリンズ音楽の芸術的要素を混ぜ込みはじめました。その土台となるものを、彼は一生懸けて解明し、磨き上げてゆくことになります。 

 

彼はジャズを「音楽による言論の自由」を呼び、メンバー達にはよく「自分のパートに人格を与えること」と言い聞かせていました。ポール・ゴンザルベスがデュークの門をたたいた時には、ベン・ウェブスターの有名なソロの数々を披露したそうです。楽団に採用されたものの、ツアーに参加した時もまだベン・ウェブスターのような演奏をしていた彼を、デュークは傍へ呼び寄せ、こう言ってやりました「ベン・ウェブスターは過去の人間だ。私はポール・ゴンザルベスを採用したんだ」。 

 

彼の音楽が時代遅れになるようなことはありませんでした。なぜなら、彼は自ら進化することを止めなかったからです。アメリカの作曲家達がヨーロッパ音楽に盲従し盲従し、それが未来を切り拓くことになるんだ、と信じ込んでいた時に、デュークは自分のすべきことを続け、ジャズという国境を越える言葉で、自分が生きている時代を表現する新たな方法を編み出します。ダンスミュージックを手掛け、色々な土地に固有の音楽を採り入れ、男女の間のことや、手に手を取り合う人々の様子を素材とし、これらの絵の具が載ったパレットで描いた名作の数々は、映画、バレエ、テレビ、劇場、教会、そしてコンサートホールでのステージで披露されてゆきました。彼のキャリアは、人々にこう語りかけます「私達には私達自身の音楽がある。だから私は、より洗練された音楽を作る上では、何もストラヴィンスキースクリャービンシェーンベルクを本格的に勉強しなくちゃいけない、とは思わない。私の道を最高に極める方法を追求するのみだ。」 

 

おススメの銘盤 

 

ブラントンウェブスターバンド 

 

カーネギーホールコンサート 

 

エリントンインディゴ 

 

極東組曲 

 

 

 

ディジー・ガレスピー 

 

僕がディジーに初めて会ったのは、15歳の頃、ニューオーリンズのチャピトゥーラスストリートにある「ロージーズ」というクラブでのことでした。僕のお父さんが僕を紹介してくれたのです。「これが俺の息子だ。トランペットを吹くんだよ。」 

 

ディジーは更衣室の出入り口の傍に立っていました。僕に自分の楽器を手渡すとこう言いました「ボク、何か吹いてごらん」彼の楽器についているマウスピースは、僕が吹いたこともないような、本当に小さなもので、「プー」と音を絞り出すのがやっとでした。彼は僕のお父さんと呆気にとられて立ち尽くしてしまい、そして「よーくわかった」と、その場のバツの悪さを振り払うように言いました。それから僕にもたれかかって顔を近づけると、「練習しろよ、下手っピー」と言ったのです。 

 

彼を「ディジーおじさん」等と呼んで、温和で柔軟性のある人だと考えている人達もいるようですが、決してそんな人ではありません。彼の演奏は、知性の大切さをよく示しています。彼は技術的な面を、それを上回る知性でカバーしました。名手と呼ばれるミュージシャン達の中では、恐らく彼が最も、ブルースが持つ気取らない感覚が少ない人だと思います。僕はディジー本人の口からそう聞いたことがあります。彼は大きな音で吹く人でもなく、メロディックなプレーヤーかと思えば、その第一人者と言うわけでもない。そんなでしたから、彼の演奏から、人と触れ合う温かみが生まれてこない、と思われてしまう。誰もが人としてのディジーは大好きだったのですけれどね。とは言え、彼のリズム感覚にはズバ抜けた洗練さがあり、ハーモニーの使い方の名人であり、その研究も熱心に行っていました。ロイ・エルドリッジからデューク・エリントンまで、彼は若い頃聞いた音楽は全て自分の中に取り込み、複雑ながらもバランスを知的にキープしたリズムとハーモニーの上に、独自のスタイルを構築し、これを発展させてゆきました。ディジーは頭の回転が速く、とんでもない速さのテンポでアイデアが次々と流れ出てきます。そんな風にトランペットを吹いてみようと考えた人など、それまで居ませんでしたし、ましてや実際にはやってみた人もいませんでした。 

 

ミュージシャンなら誰もが彼をリスペクトしていました。なぜなら、誰よりも吹くのが上手であるのに加えて、彼の知識は豊富で、そしてそれを惜しみなく皆に分け与えていたからです。彼は皆にビーバップの表現方法を教えてあげました。ドラマー、ベーシスト、そしてピアニストに対してもです。彼は、若手が自分独自のサウンドを追求するのを、とことんサポートしました。そしていつも、ハーモニーのことを研究する為にも、ピアノが弾けるようになる大切さを強調したのです。ディジーが僕にそのことを話してくれたのは、彼がメトロノームオールスターズで、ファッツ・ナバロ、マイルス・デイビスとトランペットセクションを共にした際、この二人が全く聞き分けがつかないくらい、ディジーとそっくりな吹き方をしたのを受けてのことでした。だから、彼が僕の演奏で気に入ってくれたのが、誰もやらなかった吹き方ですが、僕がオクターブ上げて、しかも一つの音とそのオクターブ違いの音を同時に吹いて見せたこと、だったそうです。 

 

彼は革命的な人だ、と当然のように呼ばれていますが、僕に言わせれば、それ以上の存在です。彼は、新しい音楽スタイルへ、第二次大戦以前の、我が国の音楽の歴史においては比較的古い頃の、最高の音楽的要素を取り込むことが、価値ある取り組みであるということを理解していた、という点で、現代音楽における天才だった、と僕は考えます。ディジーはそれらを全て、自分の音楽に活かそうとしたのです。ダンス音楽、コメディー音楽、劇場の様な広いキャパの場所からキャバレーのフロアショーの様な限られた空間まで演奏の場として選び、ラテン音楽との関係を密に保ちました。 


世代を越えた演奏交流にも、彼は意欲を示しました。彼がレコーディングを行ったのは、ロイ・エルドリッジやデューク・エリントンといった一世代前のミュージシャン達(大勢いた中でこの二人だけ、ここでは名前を挙げておきます)と、そこへ多くの若手ミュージシャン達を投入したバンド。その中には、ジョン・ルイス、ラロ・ジョフリン、メルバ・リストン、ジョン・コルトレーンダニーロ・ペレス、それからジョバンニ・イタルゴといった顔ぶれがありました。 

 

彼はジャズにおいて、大きな挑戦を志します。キューバップ形式の発展に寄与することです。これは、ジャズとキューバ音楽(ジェリー・ロール・モートン曰く「スペイン風」)との結びつきを確かなものにしようとするものです。彼はラテン音楽の技術的な部分については、完璧に理解していた、というわけではありませんが、人々を結びつける方法の一つとして重要である、との理解を示しました。そういうわけで、彼が最後にビッグバンドを結成したとき、その名は「ユナイテッドネーションズオーケストラ(世界の国々の合同バンド)」。優れたミュージシャン達が、パナマ、ブラジル、プエルトリコ、そしてアルゼンチンから結集したのです。共演者全員、彼を好きになったといいます。 

 

彼はビッグバンドの伝統を守ろうともしました。ジャズ・アット・リンカーンセンターでの、ある公演の後、彼が僕に言ったのが「今日やったビッグバンド、大事にしろよ。アメリカ独自のオーケストラミュージックを手放すことが未来への発展だなんて、とんでもない話だ」。チャーリー・パーカーはディジーよりも、音楽的才能では深い所を極めていたかもしれません。しかしディジーチャーリー・パーカーよりも、我が国の文化における音楽の位置づけについては、深い認識を持っていたのです。 

 

僕は二十歳の頃受けたインタビューで、かなりヒートアップしたことがありました。売れっ子と呼ばれる人達のこと、無知なジャズ評論家達のこと、凡人と呼ばれる人達のくだらなさ(遠回しに「僕は例外」としつつ)、といったことを、品の無い言い方であれこれと言い散らかしたのです。多くの人々の怒りを買いました。数週間後、僕はディジーサラトガジャズフェスティバルの舞台裏で顔を合わせました。彼は僕を手招きすると、やおら自分の楽器ケースを開けて見せました。彼は例のインタビューに同席していたのです。 

 

僕は、その時のお詫びをしようとしてしいたことを、彼に伝えました。 

 

すると彼は「ダメ、ダーメ。自分が本当だと信じることは、口に出して言わないといかん。まぁ、あんな言い方をすれば、無事に逃げられる、とはいかないだろうがな。やり返された時の準備はしておけよな。もしかしたら、この先ずっと続くかもしれないからさ。お前さんも、まだ本当には分かっちゃいないだろう。口をついて出る言葉の重みってやつがな。だがお前さんなら、すぐに理解できるようになるだろう。」 

 

ディジーは本当に知的な人だ、と僕が言った通りです。 

 

おススメの銘盤 

 

ショー・ナフ:ディジー・ガレスピーゼクステット(六人編成のバンド)とオーケストラ 

 

ソニーサイドアップ:ディジー・ガレスピーソニー・スティットソニー・ロリンズ 

 

オン・ザ・フレンチ・リビエラ 

 

 

ビリー・ホリデー 

 

まるまる1年間、ずっとビリー・ホリデーばかりを聴いていた時期が、僕にはあります。24歳か、もう少し後のことかもしれません。僕は彼女自身のレコードや、ライブなどでの他のアーティストが演奏する彼女の楽曲を、ぶっ通しで聴き漁り、彼女の根っこはどこにあるのか、を解き明かそうとしました。そして、とても興味深いことが聴いてゆくうちに明らかになりました。 

 

彼女は、歌える音域が限られており、器用さもありませんでした。スキャットを歌わず、正確には、ソロと言えるような歌い方もしませんでした。ソロはメロディをそのまま使い、事前練習の通りに歌いました。彼女はルイ・アームストロングの影響を受け、彼女の演奏を聴いていると、時計が刻む時間の流れに乗っているような気分にもなります。バラードやトーチソング(失恋哀歌)を歌う時は、より深い意味を吹き込み、的確なリズムの下、どんな店舗の曲でも熱のこもったスウィングを効かせました。悲しい歌を心躍るように - 彼女のサウンドに込められた、この重要なパラドックス(逆説)が、彼女の音楽作りを内容豊富にしているのです。 

 

彼女の退廃ぶりは、周知の通りです。レイプ、売春、アル中、薬漬け、虐待、あらゆることに打ちのめされ、キャバレーカード(キャバレーで働く人の公的身分証明書)まで取り上げられてしまい、職を失う。彼女が受けた偏見は、尋常ならざるものでした。こんな目に遭って、「人生をハツラツと」なんて、無理な話です。でも彼女の一番の凄さは、ここではありません。ありとあらゆることで虐げられた人生を送る人は沢山います。その中でビリー・ホリデーのような歌を歌える人など、誰一人いないでしょう。そう、彼女のサウンドには悲しみが込められています。しかしその核心には、前を見据える気持ちがあるのです。 

 

僕は「レディ・サテン」が大好きです。彼女の遺作となったものです。僕が幼かった頃、父がよく演奏しました。「全盛期の彼女の肥えの面影が、ほとんど残っていない」として低い評価を与える人達もいますが、僕にしてみれば、「メッセージの伝え方より、その中身を重要視されることもある」ということを教えてくれる作品です。ビリーは、スウィングの効いた甘美な表情で、沈痛な感情を醸し出せています。甘い物に塩を少し加えると、甘さが増します。苦い物に砂糖を少し加えると、苦味がひきたちます。彼女の表現はこんな感じですね。 

 

おススメの銘盤 

 

レディ・デイ:ビリー・ホリデー全集(コロンビアレコード版)1933年~1944年 

 

ビリー・ホリデー全集(ヴァ―ヴレコード版)1945年~1959年 

 

レディ・イン・サテン 

 

 

ジョン・ルイス 

 

時々、ジャズに取り組むにあたって、自分は元々不良っぽかった、と吹聴したりするミュージシャンを見かけます。「ウチら、繁華街育ち。さんざんケンカもしてきたぜ」、という伝統みたいなものは、ルイ・アームストロングジェリー・ロール・モートンマイルス・デイビスなんかに見られたものです。でもマイルスなんかですと、本当は彼の父親は歯科医で、尚且つ農場を経営して人まで雇っていたのですが、マイルスはそれを知られたくなかったのです。しかし、そんなルイ・アームストロングみたいな育ち方をしているミュージシャンばかりじゃないって、思いませんか?みんなが修羅場をくぐってこなくてはいけない、となると、誰もミュージシャンになれなくなってしまいますよね。 

 

ジョン・ルイスはジャズミュージシャンに相応しくない、と考える風潮が、音楽ライターやミュージシャン達の間にありました。彼はヨーロッパ音楽を好み、それを公言していたこと、そして、彼の音楽作りが非常に明快であったこと、更には、アル中でもシャブ中でもなければ、バカでかい声で話すでもない、どんな病気にかかっていたかなどと調べる必要もない、等々が、その「相応しくない」理由、とされています。でもそんな理由は全て、彼の遺した音楽が信じられないほど質が高いことを見れば、関係ないことがわかるというものです。彼が最後に制作した2つのCD:エヴォリューションⅠとⅡは、まるで素晴らしい詩集のようです。 

 

 

「ジャズミュージシャンに相応しい」云々については、僕はある時父に、自分の音色がジャズを吹くにはクリア過ぎるかどうか訊ねたことを覚えています。 

 

父が言ったのは「そもそもジャズの音色って何だよ?」 

 

「だから、ルイ・アームストロングの音色とかだよ。」 

 

「ポップスの音色はクリアじゃなかった、ってのか?大体、ジャズの音色なんてものはないだろ。あるのは『音色』だろが。」 

 

これをジョン・ルイスは理解していたのです。彼は、それまでジャズやジャズミュージシャン達に付きまとった、多くの固定概念を超越した人でした。彼は常に物事の核心を突いてきます。彼の存在そのものが音楽でした。初めて彼と、あるコンサートで共演した時、終わり一時間半のところでヘトヘトになってしまいました。そもそも僕は、若手で音量とスタミナバリバリのミュージシャン達については、どんなジャンルの子とも共演するのに慣れていました。そういう子達と本当の体力勝負の演奏になっても、こちらは何とでもなるのです。でもジョン・ルイスは、彼の集中力がすごくて、僕はヘトヘトになってしまったのです。何度一緒にリハーサルをしても、彼がその後の本番に持ち込む真剣味のレベルが予測できません。「真剣味」というのは、一瞬一瞬に注ぎ込む、彼の音楽的に意図するところのことを言います。彼が聴き取り、そして発信する、それらは全てが本質的であり、全てに意味があるのです。先ほど「一時間半」といいましたが、その間ぶっ通しで、奏でられる音一つ一つすべてに、ということです。ピアニストであるジョン・ルイスが居る場所は、「ピアノの泉」であり、僕はその中に浸かっていて、彼の集中力のド真ん中に居ると、そのエネルギーによってヘトヘトになってしまうのです。例えば、日なたに長時間居座るとします。自分では意識しなくても、一時間半も経って気がつけば汗だくになっていることでしょう。ジョン・ルイスは、汗だくにさせる太陽だ、というわけです。 

 

彼と僕が以前一緒にやったことのある本番の一つが、ディジー・ガレスピーを記念してのもので、場所はニュージャージー州。よくある、トランペット吹きがワンサカ、ベース弾きがワンサカ、この時は250人位集まっていました。ステージに全員が上がって、「ラウンド・ミッドナイト」を演奏する、という企画です。全員鳴らしまくってくることは分かっていました。サウンドがキチンとかみ合わず、大事故になりかねない状況です。演奏を始める前にジョンの方を見て思ったのが、今でも忘れません「こんなコントロールの効かない状況で、彼はどうするつもりなんだろうか?」。彼が40年間率いたモダンジャズカルテットは、全体のバランスも、個々のプレーヤーの音量も完璧でしたからね。まずは僕のヘタクソなソロ、とにかくこのバカデカイ音をかき分けて聞かせなきゃ、と、躍起になって吹きました。次にジョン。なんと彼は、いつもと全く同じ弾き方をしだしたのです。途端にステージ上の全員が、ストンと音量を落とし、彼のソロが聞こえるようにしたのです。その日一番の拍手喝采をさらったのは、当然彼でした。 

 

彼が何をしでかしたのか、説明するのが難しいのですが、彼のアプローチからは、自分の信じる価値観やクオリティをしっかり持ち続けることの力のすごさを、教わることが出来ます。僕が的外れなことを吹くと、彼は首を横に振ってこう言ったものです「色々変化球を投げてくる前に、自分が旋律を吹いているんだ、ということをキチンと自覚したまえ」。彼は一度、僕が主催するジャズアットリンカーンセンターオーケストラを指揮してくれたことがあります。この時はデューク・エリントンの音楽を取り上げたコンサートでした。僕はプレーヤーとしては参加せず、聴いていたのですが、自分が普段率いている子のオーケストラが、こんなにもコントロールが効いてバランスのとれた演奏をしたのを、初めて耳にしました。サックスのヴェス・アンダーソンに訊いてみました「彼はどうやって、皆のバランスをとって、スウィングバリバリの演奏を聞かせたんだろう?」。ヴェスは、こう答えました「じっと立って、こっちを見つめていただけさ。ウチらは自分の下手さは自覚しているから、彼がこっちをじっと見て、ちゃんとした演奏をするのを待っているなら、そうするしかなかった、ってことだね」。まさにこれが、名人の持つ神通力、というやつです。 

 

本番の度に、彼はこういった内容豊富でコンパクトなテーマを音にしてきて、僕達メンバーにそれをキチンと対処するよう、譲りません。何があってもね。彼とその音楽についてこさせるのです。いつもの口調で語りかけ、視線をそらさず見つめ続けると、その圧のせいで、自分の邪念が露呈されてしまう、そんな感じです。デカい態度はとれなくなります。何も言わず、自分の思いと立ち居振る舞いをちゃんとしろ、でなければ立ち去れ、ということです。彼との演奏は、こんな感じです。舞台上ではキチンと演奏しろ、でなければハネとけ(降壇しろ)。 

 

彼はこんなことを言ったこともあるかも知れません「このレコードを聴いてみなさい。ネタが増えるだろう。そこから学ぶんだ」。インプロバイズされたソロを展開してゆくのは、魚釣りと同じだ、彼はよく言っていました。「船に釣り上げて、何匹かは水の中へ戻す。でも時々いいのが上がったら、夕食のおかずに取っておく。ちゃんとさばいて料理してやれば、その魚は浮かばれる」。 

 

型にはまらないのが、ジョン・ルイス。デューク、サッチモ、あるいはテディ・ウィルソンのスタイルだってお手のもの。しかし自分は見失わない。ところが彼は、ビーバップの最初の世代の一人でもあるのです。彼はディジー・ガレスピーのビッグバンドのピアニストであり、優れたアレンジを書き、そして彼自身もバンドリーダーとしてモダンジャズカルテットを率いました。色々な芸術分野の知識を多く持ち、何につけても博学であり、誰よりもブルースとは何かを理解した人です。ところで彼の自己表現からは、ブルースにつきまとう負のイメージを感じ取ることがありません。型にはまらないのがジョン・ルイスミシシッピ州あたりでギターを抱え、他人の女に手を出して、わざわざ人生を台無しにするような輩とは無縁。しかしブルースを知り尽くす彼は、いつでもどこでも、ブルースを表出して見せたのです。 

 

ジョンは真実一路の生き方にこだわりました。率直に、誠実に語りかけ、それはそのまま演奏にも反映されるのです。こんなことを言ったら聴く側は気に入らないかな、と思いつつ言葉を発したなら、彼は必ず相手の返答を待ち、そして彼はそれに対して更に応えてゆきます。時には彼はひとを褒めちぎることもあります。ウソを決してつかない人ですから、本心からそう思ってくれていることが、すぐに分かるのです。 

 

彼は奥様のミリアナさんをこよなく愛しました。本番があれば、彼女の評価が下るまでは、終わったことにはなりません。僕は二人が持つ独特の雰囲気に浸りたくて、よくアパートに押し掛けるのが好きでした。彼は彼女を頼りにしていました。彼女もミュージシャンで、素晴らしい音楽性を持ち、彼女もまた彼をこよなく愛し、そして知的で洞察のあるコメントを彼に与えるのです。二人が一緒にいるところを眺めているのは、なかなか面白くて、お互いに相手を困らせるようなことには関わらず、音楽を愛し、芸術を愛し、お互いを愛する、それがこの二人です。 

 

僕はよく彼のリビングで楽器を吹きました。彼は座って、楽譜を広げると、協奏曲か何かをキッチリと弾くような感じで、あらゆるジャンルの曲を弾きだすのですが、何と広げた楽譜とは全然関係ない曲だったりするのです。彼のサウンドは澄み切っていて美しく、一つ一つが真珠の様でした。本当にその楽譜をしっかりと弾いているかのような素振りに、時々僕は笑ってしまいました。そして彼も弾きながら歌いだします。ある時弾いている彼に、そんなの楽譜に書いてありましたっけ?と訊いてみたら、彼は「ほら、吹き損ねているぞ」といって、すましてスウィングし続けるのでした。 

 

おススメの銘盤 

 

モダンジャズカルテット MJQ 40年 

 

エヴォリューション 

 

エヴォリューションⅡ 

 

 

セロニアス・モンク 

 

モンクを研究して面白いと思うのは、彼の持つ正反対の矛盾するキャラクターです。彼の立居振舞は「イッちゃってる」というやつでして、変な帽子をかぶる、本番中他のメンバーがソロを演奏している間中グルグル回って踊っている、そうかと思うと、いつまでもじっと黙っている等。ところが音楽は、いたってマトモ。論理的、数学的、そして首尾一貫。彼のインプロバイゼーションは、他のどのジャズミュージシャン達よりも、首尾一貫とした主題の展開をしてゆこうという集中力を感じることができます。アイデアが浮かべば、それを上下に、前後に演奏を繰り広げてゆきます。「ミュージシャンとは数学者だ」と、彼は好んで言ったものです。 

 

モンクの演奏には教会音楽のサウンドが反映されています。そして、人間の魂の深みを知る人だけに感じ取ることが出来る、人が精神面で大切にしなくてはいけないもの、それを彼はしっかりと備えていました。そんなわけで、彼は賢くもあり、同時に子供っぽくもあるのです。十分年齢を重ねた大人には、あまり見受けられないキャラの組み合わせです。子供というものは、辛い現実を取り除くために物事を整理整頓する、なんてことは普通しませんよね。モンクは天才的な管理能力を発揮して、そういう無駄の全くない真直ぐな気持ちを、聴き手に届けるのです。彼のしていた指輪に刻まれた文字は「MONK」。逆さにすると「KNOW」。そういえば、彼のアルバムの一つに「オールウェイズKnow」というのがありました。 

 

彼は曲名を考えるのが素晴らしく、おそらく音楽史上No.1でしょう。「カミング・オン・ザ・ハドソン」「トゥリンクルティンクル」「グリーンチムニー」「クレスプキュールウィズネリー」。もし「曲名付け大賞」なんてものがあったら、彼はきっとそれに輝くことでしょう。 

 

ジェームス・P・ジョンソン、ウィリー・ザ・ライオン・スミス、ファッツ・ウォーラー、あるいは彼が大いに尊敬するその他スマートな東海岸系のピアニスト達は、よく鍵盤を右へ左へ慌ただしく弾きますが、モンクはしません。これとは方向性の違う技を駆使します。音を曲げたり、濁らせたり、呻かせたりするのです。彼のスタイルは、時代遅れではないし、そうかといって今風でもありませんでした。スウィング全盛の1930年代のシャッフルリズムで演奏するのと同時に、彼が使い手として、またその教育者として知られているのが、1940年代のビーバップ。モダンジャズとそれ以前のジャズの区切り目とされるものです。彼は独自の方法による作品を生み出してゆきます。まずはジャズの基本形(モンク・プレイズ・デューク・エリントン)、そして速弾き(フォア・イン・ワン)、コード進行に則ったメロディ作り(イン・ウォークド・バド)、ブルース(ブルー・モンク)。これら全てが彼独特のスタイルであり、大きな批判が、ミュージシャン達からも一部出ました。自分で全然弾けていない、他のプレーヤーが弾いた方がマシだ、というものです。モンクは多くの批評家達から嫌われていました。やがて、バド・パウウェルに唆されて手を出した薬物のことで、警察のがさ入れをくらい、キャバレーカードを失ってしまいます。そんなこんな色々ある中でも、モンクは我が道を貫き通し、「自分らしさ」を確立してゆきました。彼のこうした生き様は、人々に自信を与えることでしょうね。 

 

彼は一風変わった個性の持ち主でした。僕は彼の息子さんから、彼が持ち歩いていたとされるマネークリップ(札挟み)を頂きました。息子さんが言うには、セロニアスはこれによく1000ドル札を一枚挟んでいて、誰かがお金の無心に来ると、それを取り出しては、良くこう言ったそうです「じゃ、これ両替してよ」。これが彼の物の見方です。人とは逆の発想を持っているのです。 

 

もし誰かが「何があったの?」と彼に訊ねれば、彼はこう答えるでしょう。 

「何時だって何だって、起きているでしょうが、え?」 

 

おススメの銘盤 

 

ソロ・モンク 

 

リヴァーサイドレコード社全集 

 

ライブ・アット・ジ・イット・クラブ 

 

 

ジェリー・ロール・モートン 

 

ジェリー・ロールからは、人々と交流する喜びを教わることが出来ます。彼がインスピレーションを受けたのは、豊かな文化を誇った世紀の変わり目にあったニューオーリンズ。牧師も、売春婦も、サロンのピアノ弾きも、みんな彼が愛した人達でした。そういう「夜の人々」「古き良き時代」とは全く無縁の育ち方をした彼が、「そういう」音楽であるジャズの大作曲家として、また知的な解説者として評される最初の人物となってゆくのは、何とも皮肉な話です。彼はニューオーリンズ生まれのクレオールです。クレオールの多くは、特に彼の生まれた時代は、高尚なライフスタイルを好んでいました。彼らにとって最高の音楽は、オペレッタの音楽のピアノ演奏です。バッハでもショパンでもない、ましてやゴットシャルクでもない。クラシック音楽の最も軽めのオペレッタこそが、最高とされました。「ヨーロッパの洗練された文化」という、中身の無い上面ばかりのお飾りの、何がいいのかはともかく、それが彼らの好んだ音楽なのです。それから彼らは、黒ん坊共を悪しきものとして見なしていました。「黒ん坊一人の存在は、誰かの家の裏庭にある警察犬二頭の死体より、しょうもない」この言葉は、ジャック・バトラーというトランペット奏者がジェリーに対し、「俺たち黒ん坊は・・・」といった時にジェリーがバトラーに返したものです。 

 

しかし彼がアラン・ロマックスと共に、ジャズとその解説の録音を、アメリカ議会図書館のために行ったものを聴けば、ハッキリと見えてくるものがあります。彼は人生において出会った全ての人々について、精通した知識があったこと、それから、彼は人種に対する偏見はあっても、その音楽に対しては全く偏見を持たなかったこと、です。 

 

少年時代、彼はニューオーリンズの夜の街の、最もアブナイ側面に心を惹かれました。そこでは、あらゆる種類の、あらゆる社会階層の人々が、出会い、そして交わっていたのです。ジェリーは、社会の最底辺では、人々は人種ではなく世間で何をして暮らしているかによって皆が等しく扱われてゆくことを、つぶさに見てゆきました。こうして彼とシドニー・ベシェは、ニューオーリンズ音楽をアメリカをはじめ世界に広めてゆく大きな務めを果たすことになります。モートン音楽史上最初に曲作りに用いたのが、ニューオーリンズポリフォニー技法;クラリネット、トランペット、そしてトロンボーンが、それぞれ全く異なるメロディを一斉に演奏する、というものです。この対位法をキチンと使いこなして音楽作品に仕上げることが出来たのは、彼とデュークエリントンだけでした。彼が他にも体系化したのがコーラスフォーマットです。これにより、一つの楽曲の中で、ある部分が別の部分と切れ目なくハマってゆくことが出来るようになりました。この、今までになかった楽曲形式のおかげで、同じハーモニーの流れをエンドレスで繰り返すことから解放されたことになります(「ブラック・ボタン・ストンプ」「パールズ」参照)。 

 

アメリカ議会図書館の録音の中で、シンコペーション、音量バランスのとり方、リフ、ブレイク、そしてコールアンドレスポンス、といったあらゆることについての説明録音を遺しました。こうした表現方法の中には、アメリカだけにしかない、そして音楽的価値が高いモノもあり、それらは特にアメリカ人の生き方を表現している、という認識を、彼は持っています。彼が生きる時代、そして彼の出身地にとって、彼が経験したことと彼が語る話は、彼の周囲の人々にとっては訳の分からない内容に思えたかも知れませんね。 

 

 

彼のジャズについての知識もさることながら、実はジャズの持つ意味に対する理解こそ、彼の深みが見られるところです。人間、記憶力が良ければ、音楽について沢山覚え身につけてゆくことは可能です。でもジェリー・ロール・モートンは、ジャズの大切さ、歴史の流れの中での位置づけ、そして同世代のミュージシャン達のそれまでの成果、といったものを、良く認知し理解していました。これ程の人材は、彼以外ニューオーリンズから輩出されたことはありません。 

 

彼は自己顕示欲が強く、そして他人の批評を好んでしたため、あまりよく思われていませんでした。僕が思うに、ジェリー・ロールは、彼が生きた時代の不当・不正といったものに勝てなかったのではないか、という気がします。彼を傷つけたものは、まずは人種差別、そして彼の価値に見合う報酬を与えることが出来なかった音楽出版業界、更には音楽の嗜好の変化という厳しい現実もありました。彼は時代遅れの人とされ、デュークエリントンやその他名手達の陰でかすんでいるなどと、本人はそんな年でもないのに評されてしまう有様。「雉も鳴かずば撃たれまい」の時代にあっても、彼は敢えていつも声を上げました。例えていうなら、奴隷の身分で文句ばかり言っているようなもので、平穏な時間が長続きなどするはずもなかったのです。 

 

ジャズは暮らしの中に溶け込んでいるもの、ということを示す豊かな情報源、それがジェリーでした。「世間の営みをミュージシャン達は音にして返す」というわけです。彼のこのビジョンこそが、今ジャズに必要なのです。なぜなら今ジャズは、日々の営みからかけ離れた、何かよそ者が学ぶエリート向け専門分野のように教えられてしまっているからです。ジェリー・ロールの演奏を聴くと、彼が生きた世界の全てが聞こえてくるようです。街中の雑音、道行くパレード、人の死、教会に響く音楽、ユーモアに沸く笑い声、喧嘩、カリブ音楽で盛り上がるダンス、イタリア系の人々の歌声、売春宿から漏れ聞こえる調べ、港で働く人の歌、インディアンのシュプレヒコールラグタイム、強く激しいストンプのリズム、ゆったりのびんり走り行く馬車、そしてロマンチックなバラード - ありとあらゆる音楽と人々の営みが、そこには響き渡っているのです。 

 

確かに彼は、傲慢で自信過剰な性格ではありましたが、その音楽の持つ豊かさが物語るのは、彼が実に多くの人々と交流を持っていた、ということです。優雅な暮らしぶりの大物達から、社会の底辺に居る人々まで、彼はまるで彼らの中に乗り移って、彼らの生き様を音に奏でているようです。ですから、彼の音楽がかかると、そういった人々が目の前に蘇ってくるように思えるのです。 

 

おススメの銘盤 

 

米国議会図書館用録音 

 

1923年~1924年 

 

1926年~1930年 

 

 

チャーリー・パーカー 

 

バード、といえば何と言っても、底知れぬ頭脳の明晰ぶりです。頭の回転が速く、論理的で、それが長時間続くのです。バードが世に出る以前は、超絶技巧を駆使して速いパッセージを演奏しても、それは音楽の中身というよりは、人をあっと言わせる効果のため、とされるのが普通でした。例えば『「ヴェニスの謝肉祭」による変奏曲』のように、元ウタがあってそれを素材にした作品の中で、より印象に残る主題を次々と作るための手段でした。でもチャーリー・パーカーの場合、その超絶技巧そのものが主役、というわけです。人を圧倒する力を持ち、内容豊富なメロディを、これ以上は無理と思われる速さで吹き綴ってゆくその能力こそ、彼の最も驚くべき音楽の業績なのです。多くの人が彼の真似をしようとしてきましたが、今のところ誰一人足元にも及びません。 

 

彼がこうした演奏スタイルを築き上げるまでには、実はかなりの年月がかかっているのです。苦労の末に手に入れた、というわけです。でも他のミュージシャン達は、完成したものをレコードで聴くだけですから、皆自分達の楽器がそもそもどういうものなのかをよく考えずに、彼のスタイルでインプロバイズしようとします。バードの演奏の素晴らしさは、なかなか他人が表現し切れるものではありません。バードが乗り越えた苦労を、自分でも経験してみることが必要なのでしょう。至高の論理性、完璧なテンポ感、音の全てに込められている純粋さと詩的センスと魂、これらがどんな速さでも維持されているのです。更には、かなり複雑な演奏であるにもかかわらず、全ての人々の心に語りが届くような演奏だったとのこと。ジョン・ルイスが僕に話してくれたことですが、チャーリー・パーカーの本番には、およそあらゆる人々が足を運んだものだったそうです。ジョンはいつもそのことに大いに感心したとのこと。船乗り、消防士、警察官、役人、売春婦、麻薬仲間、普通のサラリーマンまで、誰もが、バードが吹き始めると、会場はそのサウンドに釘付けだったのです。皆座席で、あるいは通路で、口をポカンと開けて聴き入ります。バードが年月をかけて築き上げた演奏ですから、中身は充実の極み。アメリカ音楽の全てがそこに詰まっています。バイオリン弾きのリール、黒人霊歌キリスト教の野外伝道集会での歓声、ミンストレルショーの小唄、ボードビルショーの楽曲、アメリカの様々な歌謡曲、ブルース、ラグタイム、サロンや家庭の居間から聞こえてくるピアノ演奏、ヨーロッパのクラシック音楽。そして、パーカーがカンザスシティ出身であることの証ともいえる、ブルースを演奏する際の非常に魅力的な強く速いストンプのリズムや、リフのかけ方も、言うまでもありません。 

 

ところでバードから僕達が学ぶべきことが、もう一つ別にあります。それは、超有能な人間は、まずは何を置いても真っ先に、才能を身につけることが必要だ、ということです。なぜこんなことを言うのかといいますと、結局、バードの命を蝕み、音楽の発展を阻んでしまったのは、音楽とは全く関係の無い、薬物だったからです。彼は真の天才でした。だからこそ僕達は、彼について研究する必要があるのです。それにしても皮肉なものです。音楽以外の生活はバランスが崩れきっていたのに、音楽では最高にバランスのとれたミュージシャンだった - 目もくらむようなスピードで吹きまくっても整然とした演奏を聞かせ、最高に洗練されたハーモニー進行に基づいてこういった完璧なメロディを創り出し、どんなバンドに出演してもその場で初めて聞く曲で驚くべきソロを吹いて見せて、これ程多くのあらゆる層の人々と自然に心を通い合わせる - なんてことがあるんですね。 

 

薬物さえなければ、彼の物語は、もっと栄光に満ちていたことでしょう。言っても仕方ないことですけれどね。僕の大叔父がよく言っていました「人生何が災いするかわからん」。時には自分以外の周囲の状況のせいで、自分ではどうすることもできなくなることがあるでしょう。彼は自分が生きるこの世界を一つにしようとしました。人々の価値を向上させようとしました。自分の音楽を他と肩の並ぶ程にしようとしました。彼はこういったことを、自分が歓迎されていない文化の中に在っても、それをモノともせず、しようとしました。ということは、他の人なら日々の生活の中でやり過ごしていた、ある種の侮辱の数々を・・・そうですね、多分、バードの頭と心は、あしらいきれなかった、ということなんでしょうね。 

 

おススメの銘盤 

 

サボイセッション全集 

 

チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス 

 

ワン・ナイト・イン・バードランド 

 

 

マーカス・ロバーツ 

 

マーカス・ロバーツは現代を代表する天才です。確たる独自性とソウルを備えたミュージシャンであり、注目すべき人物なのです。ロックが台頭した時代の後、ジャズミュージシャンの名手がどれ程のアーティストとしての腕前を持っているか、マーカスをチェックしていただければわかります。 

 

僕が初めて彼と会ったのは、1983年のジャクソンビル・ジャズフェスティバルです。彼のことは、それ以前に聞いたことはありました。というのも、当時ジャズを演奏しようという目の不自由な器楽プレーヤーは彼ぐらいでしたからね。その1・2年後、僕がフロリダ州立大学で開催したマスタークラスで、僕は彼のピアノを聞くこととなります。彼は「星影のステラ」を弾いて、かなりいい音で聞かせてくれました。でもその演奏は、あまりにも使い古されたフュージョンポップミュージック満載、といった感じで、目の前で誰が演奏しているのか、というのが印象に残らなかったのです。 

 

1980年代初頭、僕は意欲的な若手ミュージシャンなら、誰に対しても興味を持っていました。マーカスには電話番号を教えてあげました。彼から電話がかかり始め、あれこれ質問が来るようになります。彼の真面目さには、僕も惚れ込んでいたのですが、何せ僕自身が電話でキチンと話をするタイプではなかったものですから、彼とのやり取りは、いつも手短に済ませてしまっていました。いつも言っていたのが「まぁ、これ憶えな、あれやりな」くらいでした。あるいは、僕がピアノでモンクの曲を一節(8小節)弾いて見せて、いかにもこの先全曲最後まで弾けるぞ、みたいなフリをして、こう言ったのです「僕はトランペット奏者だけどこの曲を知っている。君が知らないっていうのはどういうワケ?」それでも彼は、こういった失礼な態度にもめげず、僕に電話をかけ続けました。 

 

やがげ僕は、彼のズバ抜けた知性に気付きます。彼が興味を持つ対象の幅広さと、今の時代にジャズを演奏することの様々な問題点を理解できる能力は、本当に際立っていました。同時に気付いたのが、彼の頑固さと、しっかり意志を持って自分の物の見方を表明できることです。彼をイジメ倒すことは無理だと感じました。僕の気難しい態度に耐えるのは大変だったと思います。しかし彼は、それに耐えました。なぜなら、彼は実際に本心から、演奏に意欲的だったからです。それだけではなく、彼は既に、自分なりの演奏というものを確立していて、それに対して信念を持って取り組んでいました。自分と意見が合わない相手には、臆することなくそれを伝えることが出来たのです。 

 

彼がニューヨークに出てきて僕のクインテットに参加したのが1983年か84年の初頭だったのですが、当時はケニー・カークランドがバリバリピアノを弾いていたので、彼の演奏を耳にすることは全くありませんでした。1985年、ケニーとブランフォードが僕のクインテットを退団します。この時僕は、どうしたらいいか、あるいは次に誰に声をかけるか、途方に暮れた状態だったのです。僕の心が折れたのは、この2人の仲間達がロックを演奏する為、ということで僕から去って行ってしまったことです。僕自身もこれからジャズを演奏し続けるかどうか、分からなくなっていました。クラシック一本に絞ろうか、と思ったほどです。ジャズというものは、支えとなる基盤が無いと、取り組むこと自体が困難な代物です。音楽ライター達は、僕がいろいろ投資なってしまったことについて、囃し立てて書きました。僕は、というと、昔ながらの「合点ですぜぃ、ダンナぁ」的な演奏スタイルで、ライター達に甘んじて屈する気は全くありませんでした。そして僕は、ポピュラー音楽という、彼らが好み記事が売れて儲かるものに対しては、ズケズケと批評を展開していたのです。多くのジャズファンや関係者たちは、注目せずにはいられなかったことでしょう。 

 

僕は必死で次のメンバー達となる人を探しました。といっても、僕の年齢でジャズを演奏したいと考える人すら、そんなに多くはいません。加えて、僕自身も今後、本当に上手だ、といわれるまでになれるのか疑問でした。以前から僕は注目を集めており、それは僕なんかよりも上手で、そして僕なんかよりも長くこの世界で頑張ってきた人々の妬みを買っていたのです。なので、罪の意識もあったのです。僕自身、今より腕を上げる自身はありましたが、そういった人達を上回る処まで行けるのか?僕が求める、ある種の独自性や発想力を持って演奏できる人がいるだろうか?そういった信念の持ち主を見つけることができるだろうか? 

 

ほとんど最後の手段として、僕はマーカスに電話を掛けたのです。それは、彼の演奏、というよりも、彼の誠実さを買ってのことでした。彼が来て演奏するようになってから、僕は新しい発見をします。それまで僕の身の回りには、目の不自由な人というのはいませんでした。彼から最初に教わったことは、人は一人では何もできない、ということ。僕は他人をあまり信頼しない人間でした。自分のバンドを失ってしまい、何でも一人でやらなくては、と思っていたところです。マーカスは「それは無理だ」とハッキリ教えてくれました。「この音楽は、一つとして、自分が一人でやれるものなどない。常に他人との関わりがそこにはある。そのことをしっかり分かっていなくてはいけない。」 

 

僕達のツアーマネージャーである、バーノン・ハモンドが、前もって彼に、僕達の本番の録音テープを送ってありました。その中のいくつか、例えば「ブラックコード」(「ブロム・ジ・アンダーグラウンド」より)などは、かなり複雑な楽曲です。マーカスは録音テープにあった楽曲を、全て理解した上でやってきました。彼の本気度は十分伝わってきたのです。それでも彼は、最初のツアーでは大変な苦労をしました。僕達はケニー・カークランドのパワフルな演奏に慣れていて、マーカスのサウンドには、まだそれ程の大きな響きはありません。1か月半のツアーの後、2・3週間の休みを取ります。その休みの後に戻ってきたマーカスは、まるで別人がピアノに座っているようでした。 

 

この時から僕達は彼を「Jマスター」と呼ぶようになります(僕が子供の頃、ミュージシャンが良い演奏をすると「He put some Johnson on it(あいつのホンバンはビンビンだった)」と良く評されていました。ということで、マーカスは「Jした」というわけで、僕達は最高の賛辞として「Jマスター」という名誉の称号を贈ったのです)。 

 

マーカスは教会の中で子供の頃を過ごしました。そこで彼は、ブルースや人間性の表現といったものに対する、自然な感性を吸収してゆくことになります。彼は目が不自由であったため、特別なカリキュラムを持つ学校へ通いましたが、おかげで彼は、下世話な社会環境からは隔離されることになります。彼の高校とカレッジでの成績は素晴らしく、平均3.7を維持しました。しかも彼は、昼間授業中取った録音を、夜になって点字でノートを作らねばならなかったのです。 

 

バンドに加入後、彼は学生時代に身につけた「物事に取り組む心構え」を忘れず、ビアノの歴史、ジェリー・ロール、デューク、モンク、そしてバド・パウエルといったところを系統的に学び始めます。ところで、彼はジャズの伝統である「自分を探す」という経験をしていません。何かしようと思うなら、何でも自分で経験してみろ、といわれることがあります。でも彼の場合、自分らしさを保っているかどうか、と問われれば、彼は常に自分らしさを保っていました。彼の独自性は、ピアノのタッチに表れています。軽快でありながら適度な重みがある、エレガントでありながら物悲しい。これらは「優しいとっつぁん」ヴェス・アンダーソン(アルトサックス奏者)の言葉です。彼はこういう表現が上手いのでね。先日もヴェスと話したのですが、Jの音楽は、こんなに変化に富み楽しいのに、もっともっと知られていい、残念でならない、とのこと。僕から読者の皆さんに、彼の演奏を語る上で参考になる作品を挙げておきますので、是非チェックしてみてください。 

 

まず彼は、比類なき伴奏者だ、ということ。素晴らしいリフ、創造性あふれるコールアンドレスポンス、機知に富んだリズムの洗練さ(「トゥルース」の「アライバル」をチェック)。素材の展開方法は完璧かつ革新的(「ザ・ジョイ・オブ・ジョプリン」の「イージーウィナーズ」をチェック)。独自のブルース演奏の仕方(「イン・オーナー・オブ・デューク」の「ナッシング・ライクイット」をチェック)。アメリカの歌謡曲への取り組み(「コール・アフター・ミッドナイト」の「モナ・リサ」をチェック)。グルーヴ、それから世界各地の民俗音楽へも、自らのコンセプトを発揮して取り組んでいます(「ディープ・イン・ザ・シェド」の「ネプチャドネザール」をチェック)。彼の「スピリチュアル・アウェイクニング」も「ディープ・イン・ザ・シェド」の収録曲の一つですが、ここ40年間に発表された最もディープなメロディがいくつも使われている楽曲です。 

 

彼の知性が沢山詰め込まれているのが「ブルース・フォー・ザ・ニュー・ミレニアム」。ありとあらゆる楽曲形式やオーケストレーションや色彩感、そして、独特な方法でカントリーブルースに染まっている今風のリズムコンセプト、という組み合わせ(「ア・サーバント・オブ・ザ・ピープル」と「ホエールズ・フロム・ジ・オリエント」を聞くと、それがビシビシ伝わります)。彼はビーバップ以降のピアニストには数少ない、両手でキチンと弾きこなすプレーヤーの一人で、僕達の世代ではNo.1です。彼が駆使するリズム感は「チェロキー」の数多いバリエーションに見られるように、他の追随を許しません。彼はピアノ演奏にかけては、何をやらせても名人級です。伴奏、大編成の中でのソロ、独奏、トリオの中でのソロ(「タイム・アンド・サーカムスタンス」の「ハーベストタイム」をチェック)。 

 

彼は、僕が作曲する演奏時間の長い曲、例えば「ブルー・インタールード」や「シティ・ムーヴメント」のようなものを、他のメンバーよりも早く理解してしまいます。彼らが譜読みをしている間、僕は彼のためにピアノのパートを弾いてやります。彼はすぐに自分のパートをモノにすると、今度は他のパートの間違え探しを始めます。「うーん、これはGですね」などと彼は言うのです。ハーリン・ライリーという、ジェフ・ワッツの後任に入ったドラム奏者が言うには、Jが他のパートをあれほど素早く、しかも完璧に覚えてしまうなんて、今思い返しても頭がおかしくなる、とのこと。 

 

そして彼には、自分の身の回りで起きていることについて、観察する力とその結果を分析する能力があります。マジでスゲー!と言いたくなるほどですよ。例えば僕達が楽屋に居て、そこへ4人の女性が入ってくるとします。彼は会話をじっと聴いて、彼女たちが立ち去ると、一人一人がどんな子だったかを説明できるのです。「3番目の子が才色兼備ってとこかな。2番目の子はポッチャリ系。3番目の子は、眼鏡をかけていたんじゃないかな」。僕達はビックリです。「何でわかるの?目が不自由なのに、眼鏡をかけていた、なんて?」。彼はどうやって推理したかを説明してくれます「うん、才色兼備な子は、2・3言しか話していないのに、みんな彼女との会話を膨らまそうと躍起になっていた。そして彼女の言っていたことが結構知的だったことからすると、彼女が才色兼備だったんじゃないかなってね」。 

 

彼の真面目さが余計に引き立てて、マーカスの可笑しさは世界No.1クラスです。可笑しい、でも的確。彼は情報の蓄積がいかに大切か、という信念を持っています。彼と話す時、自分が情報発信元だ、と彼に伝えるなら、彼はこう言うでしょう「僕達は経済問題についての話から始まったけれど、そしたら今から君についても話をしておかないといけないね。」 

 

それから僕達は、およそあらゆることについて、熱い議論をよくしました。ベートーベンとバッハと、どちらが優れているか?まずはお互い、自分の意見の裏付けとなる資料集めです。僕はベートーベン派なので、交響曲第6番を用意します。彼はバッハ派なので、平均律クラヴィーア全集を用意し、これで議論開始です。僕はすぐに、ジョン・コルトレーンカルテットと、ベートーベンの晩年の弦楽四重奏曲のいくつかの、それぞれテープを作り、二人してこれを繰り返し聴きました。「さあ、それぞれ4人編成のアンサンブルだな」実に色々な話題が飛び出します。インプロバイゼーションにおける教会音楽の効果、ニューオーリンズスタイルのポリフォニー、ジャズの形式でフーガを作曲できるか、独奏曲と比べた時の合奏用アレジの価値、曲中テンポ感に変化を加えることについて、「現代的」ということの意味、フットボールのこと(僕達は二人とも、オークランド・レイダースの大ファンなのです)、色々なメロディのクオリティ、民俗音楽。一度、シアトルで、滅多にない夜がオフになった日があって、その夜は9~10時間ぶっ通しで話し続けた、と記憶しています。23年前の話ですが、いまだに二人で会うと、「シアトルでの長話、思い出すなぁ」と言います。何について話したかは、覚えていないのですが、とにかく楽しかったことは、よく覚えています。 

 

マーカスは信念の塊のような人です。彼がよく言っていたのは「信念は偉大さの基盤であり、しかしそれは、いざという時に発揮して、自分の伝えたいことを明快に、そして力強く相手に届けて、人を動かしてゆかないといけない」。 

 

彼が1991年に僕のバンドを退団してしまった時は、言葉では言い尽くせないくらい残念な思いをしました。Jは僕の世代を代表するミュージシャンです。僕に言わせれば、彼は現代の真のイノベーターです。ジャズ・アット・ザ・リンカーンセンターオーケストラのメンバー達に、これまで共演した自分達より若い世代のミュージシャンの中で、天才といえば?と訊けば、マーカスだ、と皆これからも答えるでしょう。それから彼がメンバーに対して死ぬ程リハーサルで絞ったことや、「こんなの演奏できるのかよ?!」という音楽的な要求をしてきたことを、面白おかしく話すことでしょう。彼はメンバー達から一目置かれ、そして愛されているのです。 

 

彼は偉大なジャズミュージシャンたる要件を、全て兼ね備えています。洞察力のある知性、社会生活という視点で身の回りで起きていることに対する理解力、物事を改善してゆきたいという願望、ブルースの知識、音楽の伝統に対する敬愛の念、毅然と振る舞う勇気、底知れぬ潜在能力、規律を守る態度、不動の自信、そして我慢強さ。彼は自分の物の見方というものを、決して犠牲にはしません。様々な異なる種類の音楽を演奏することも厭わない彼ですが、演奏方法は自分なりのやり方で常にこれに臨みます。 

 

彼は自分の信念を貫くために、金儲けをし損ねたことがあります。その時彼は折れなかったので、一部のミュージシャン達が手を出している「売れればイイ」主義の大口仕事の一つに、彼はありつけなかったのです。彼は今でも旺盛な演奏活動、そしてスウィングで活躍中です。彼がローランド・ゲリン、そして僕の弟のジェイソンがドラムで参加しているトリオは、独特な今風のサウンドを持っています。数か月前にはある楽曲のレコーディングもしましたし、本番を一緒にやったり、マスタークラスを開催したりもしています。ここ数年来の彼の活動ぶりは、益々旺盛になってきています。彼は根っからの演奏家であり、彼自身が音楽そのものであり、そして根っからの教育者でもあります。Jマスターが提唱するのは、今この社会に在るものや起きていることの多くを、ありのままに表現してゆくこと。彼はもっと高い評価を受けるべき人物です。今こそ、彼は、本当に。 

 

おススメの銘盤 

 

ディープ・イン・ザ・シェド 

 

ザ・ジョイ・オブ・ジョプリン 

 

ブルース・フォー・ザ・ニュー・ミレニアム 

 

 

 

 

 

 

 

 

第7章  名前のないもの 

   

<写真脚注> 

スウィングの精神で:(左から)マーカス・プリンタップ、ウォルター・ブランディング、テッド・ナッシュ、そして僕、満員のお客様達は、年齢、肌の色、そして人種は様々です。皆が一つになって盛り上がる音楽は、そう、ジャズです。 

 

僕にはどうしても理解できないことがあります。人間の創造力というのは、神秘的な領域の話で、それも限られた特別な人達だけが持てる能力だ、と思っている人、多くないですか?子供達にインプロバイゼーションを教える機会があるのですが、シャイな子なんかですと、何でもいいからやってみなさい、と言っても、ひるんでしまいます。そんな時、僕はこう説明してあげるのです「簡単だよ、鳴らしてみるだけさ。そう、頭に浮かんだこと、指先や唇で感じたこと、何でも音にしてOK!もっと大きく!もっと元気に!そうそれ!それがインプロバイズだよ!」。子供達が、痛々しいけれど、自由な気持ちで奏でる音符が生まれてきます。僕は「ね?簡単だよって言ったでしょ?上手にやらなきゃ、なんて思うから難しいのさ」。 

 

僕達の身の回りをよく見まわしてみれば、人間の創造力の賜物が目に入ってきます。僕が今住んでいるニューヨークの、ブロック一つ一つ、通り一本一本、ガラスも、鉄骨も、コンクリートも全て、それから街中のあらゆるアート、標識、送電線、配管、絵といった、マンハッタンを世界一ステキなメトロポリス(大都市)にしてくれるものが、全て作った人がそれぞれ居るんだ、と思うだけで、度肝を抜かれる思いがします。僕達人類同胞、その創造力が生み出したものは、そこいら中に溢れかえっています。着ている服、話す言葉、暮らしのスタイル、それらは多くの組み合わせという形でも感じ取ることができます。創造力は身に付けてゆく必要などありません。誰でも生まれながらにして持っているモノなのですから。それに気付いて発揮すればいいのです。この地上に生きる人類一人一人に、この世にないモノを生み出す創造力というギフトは与えられています。創造力は語りかけてきます「やり方は数え切れないほどあるぞ」。政治家が決めた法律もなければ、いつのまにか決められているルールもありません。創造力は何物にも束縛されないのです。眠っている時に見る夢のように、自分で制御することもできません。浮かんだ創造のネタを表現する方法だけは、自分で選んで決めましょう。 

 

変なことを思いついたな、と思ったら、他の人も同じことを考えていて、その人はそれを実行に移して大成功した、なんてこと、よくありますよね?自分の考えを伝えてみたら、笑われた、なんてこと、よくありますよね?いい考えが浮かんだ、と思って、よくよく検証してみたら、やっぱりバカバカしくて笑われても仕方のないものだった、なんてこと、よくありますよね?考えてみたけれど、行き詰まってしまったなんてものもあれば、そうでないものもあったりします。 

 

でも失敗した経験をバネにして、より一層自分としっかり向き合って行くようにしてゆけばいいのです。這い上がって、大失敗やら大誤算やらを乗り越えれば、自分が創造したものを他の人に堂々と伝える「分厚い面の皮」が出来上がる、というもの。そして自分でやってみる経験を通して、理論を作ってゆくこととと、実際にやってゆくこととの違いが、分かってきます。自分自身の創造力を、尊いものと考える気持ち - 実行に移せるネタと、それをやり遂げるために身についている自分の「武器」 - これこそは、モノを創り出す自分だけの力を、果てしなく伸ばしてゆく、その第一歩なのです。 

 

僕がジャズを演奏する機会が世界中に広まり始めた頃、どこからともなく批評家や僕より年上のミュージシャン達が現れ始めて、僕の演奏は確実性がなく、ソウルもフィーリングも欠けていて、小手先の技術に走っている、というのです。僕は若かった頃、音楽の中身や表情を演奏の中に充実させてゆく努力を、怠っていました。ですからこういった批評で、僕の自信は揺らぎました。確かに僕だって、多くの人、特に同世代の人達と同じように人生山あり谷ありではあったけれど、音楽を演奏する者としての資格があるのだろうか、と思うようになってしまったのです。不安にさいなまれ、僕に下された評価について、愚痴を聞いてもらった相手が、スイーツ・エジソンという、ブルースを極めたトランペットの名人でした。 

 

彼は「お前さん、生まれは?」 

 

僕は「ニューオーリンズです。」 

 

「小さい頃は何をしていた?」 

 

「演奏活動をしていました。」 

 

「親父さんの仕事は?」 

 

「ミュージシャンです。」 

 

すると彼は言いました「だったらこれ以上何を望むよ?いいかい、自分らしく『振る舞う』んじゃない、自分らしく『なる』んだよ」。創造力とは何かについて、僕が最も大切にしている教えの一つです。創造力とは、自分らしくなること、自分自身の考え方を尊重すること、自分自身の「夢が埋まっている鉱山」から色々掘り出してくること 

 

単純極まりない、とお思いでしょうが、でも世の中自分よりスゴいアイデアが溢れかえている、と思うと、ついやる気をなくしてしまいますよね。それに革新的なアイデアを思い付いたとしても、そんなものは大抵バカバカしいと言われてしまうし、大抵受け入れられるのは昔からある物の考え方ですから(といって、それがイイネ、とは滅多になりませんが)。大学でジャズを学ぶ学生達が、大抵なりたがるのが、イノベーター、つまり芸術形式の世界観を変えてしまうこと、具体的にはルイ・アームストロングチャーリー・パーカーのような存在になりたい、というわけです。イノベーションに欠けるものは「失敗」だ、とされてしまうのです。 

 

僕はこういうのを、不可能な基準、ということで、スーパーマンスタンダードと呼んでいます。それはつまり、若い人がジャズを学ぶメリットは唯一つ、その人本人でもやっとの思いで理解できるような説明の仕方で、ジャズとは何かを決め直す、そんなチャンスをモノにすることだ、というのです。こういう子達が音楽教育に求めるチャンスとは、レジェンド達の一人に自分もなることであり、彼らから学ぶということではありません。今ある音楽の中に学ぶ価値があるものが存在するかもしれない、とは考えないのです。 

 

音楽評論家としても活躍したジャズピアニストのレナード・フェザーが、かつてモンクに訊ねた言葉が「何か新しいことをなさってはいかがですか?」 

 

モンクの答えは「そんなのは他のヤツに考えさせればいい。何か良いもの、ってのはどうだい?」 

 

スーパーマンスタンダードとは、設定レベルが高すぎて、自分では達成できません。常に「自分は努力が足りない」と思い込む羽目になります。彼氏や彼女で、何をしてあげても満足しない人みたいなもので、こちらが頑張るほど、ますます図に乗って文句を言ってくる、というわけです。 

 

子供達が、イノベーターにならないと成功したとは言わない、と考えてしまうと、現実を無視した期待を持ってしまい、結果、芸術の基本を大切にする姿勢が阻害されてしまいます。これは例えて言うなら、チャーリー・パーカーの演奏を聴いたら、そういう次元の演奏をしないといけない、と考えるようなものです(心配しなくても無理なんですけれどね)。ミュージシャンというものは「これが大好き」という気持ちを持たないとか、「誰の影響もうけたくない」と思うとか、そんなことでは音楽の持つ最高のパワーというものを実際に体験することはできません。ひどい人になると、今ある音楽と関わり合いを持つのは、自分の敵とベッドに一緒に入るようなもんだ、と信じられない考え方をすることもあります。つまり、自分より優れたものに触れてしまうと、その影響で、今の自分の無垢で新鮮なサウンドが損なわれる、というのです。 

 

こんなことを言う子達がいます「ジャズの進化を前に進めたい」。僕は言ってやります「CDをかき集めて車に載せて、これでいいだろうっていう所まで前へ進めてこい」とね。なぜなら、ジャズの進化は、前に進むとか、後や横に進むと言う話ではないからです。自分なりに一石を投じればいいのであって、結果、それらは、なるようになってゆくものです。誰も考えたことのないものを思いつくことがあるでしょう。それは必ずやジャズに新たな美しさや中身を与えることになります。しかしそれによって、ジャズの立ち位置や取り巻く環境を変えることは、起こり得ないのです。ジョン・ルイスがよく言っていました「(ジャズが)どこか新たな場所へ移動するというのは、これまでもなかったし、これからもない。ジャズにあるのは、美しく広大な流れ、それだけだ」。名人達人と呼ばれた人達が色々と試行錯誤を繰り返した結果したことというのは、マックス・ローチは、既にしっかりと出来上がっていたドラムの演奏スタイルに多くの奏法を加えたこと、ジョー・ジョーンズは数多くのドラムの演奏実績を残したこと、同じ様にバド・パウエルはピアノ、でもそれ以前にアート・テイタムやジェームス・P・ジョンソンも同じように演奏実績を残しています。 

 

僕がいつも若い人達に勧めるのは、良い演奏をする価値を見直しなさい、セロニアス・モンクだのデューク・エリントンだのいったレジェンドの一人になれるかどうかなんて、考えないようにしない、ということです。自分だけのモノを手に入れて、それを音に反映させる、それはその人の力になります。世界中の人が注目し真似してくれる、とはいかないかもしれませんが、きっと君は納得できるはず。まずは良い演奏をしないと、レジェンドと呼ばれるかどうかは、その次の話です。 

 

創造力を発揮するのは、伝統という主流の内側だったり外側だったりするわけです。内側で発揮すれば、今在るモノを更に良く実行する方法が生まれるし、外側で発揮すれば、今までにない世界が生まれます。どちらも「イノベーティブ」と言えるのです。伝統に活力を与えるもよし、伝統に異議を唱えるもよし。芸術活動に取り組んで身についたものは、こうやって役立てるのです。芸術の世界が表現してゆくのは、想像しうるあらゆるタイプの人々、皆それぞれに抱えてきたものと向き合い取り組んできています。彼らの姿を、誰もが納得する、力強い、そして自分独自の表現方法で描くのです。自分はダメだ、こんなに出来ないことだらけだ、と思い込んでも、偉大なイノベーター達が持っていた知識や技を得て、彼らの創造力とはどんなものだったのかを理解していれば、そんな「出来ないことだらけ」は一掃することが出来ます。イノベーター達の業績は、教え、励まし、そして喜びを与えてくれるのです。 

 

ダニー・バーカーは子供達に、他人の創造力を尊重し、他人が創造力を発揮する余地を尊重せよ、と教えました。まずはその心掛けを持って、その上で次のステップアップは、創造的なアウトプットができるようになる力をつけてゆくには、他の人と共に創造することができるようになるのが必要です。それには、他の人が何をできるかをしっかり見つめ、自分のしていることを、他人のしていることに、柔軟に適応できるようになるようにならないといけません。 

 

アメリカは歴史の浅い国です。自らの無礼さと強情により、自らが何者なのかを考える上で重大な危機に苦しめられてきています。長い年月にわたり、ヨーロッパの芸術だけが価値あるもの、という幻想を抱きました。また、芸術は階級意識を増長させるとも信じていました。芸術を愛するなど、インテリぶったヤツの言うことだ、というわけです。今日でもなお、アメリカ人の多くが、芸術とはある種の夢見で現をぬかし、実生活を送る上では本質的な必要性はなく、そのくせ分かりにくいもので、ゴミや埃と一緒だ、と思っています。学校で真っ先に予算削減の対象にいつもなってしまうのは、そのためです。「芸術は実用性のないもの」という考え方がそこにはあります。「何せ、芸術家の多くがそんなに給料をもらえていない。時には全く稼げていないのもいるし、もし金儲けしている、などというなら、そんなのは俗悪な神聖冒涜のたぐいだ」。芸術は、理数科目と違って必要のないものだ。だから、芸術に公的資金が投じられると世間の攻撃の的になるのです。 

 

近年見られる一部のトレンドは別にして、芸術活動への取り組みは、人々が知恵を合わせるとこんなことができるんだ、ということを実現する機会になっています。そうやって表現されるものには、最も人が強く望むこと、日々の暮らしの在り様、愛し合う男女の心の内、精神世界との結びつき、人が生まれる時、死ぬ時、そして生まれてから死ぬまでの間の「生」、これらとの向き合い方、こういったものが映し出されるのです。要するに、芸術とは、今の自分の姿をくっきりとさせ、そして、自分はこんな可能性も持っているぞ、ということを広げて見せる、ということです。芸術は、平和な時代でも戦争の時代であっても、節度を持って生き抜いてゆく術を与えてくれます。芸術作品は、洞察力のあるものであれば、良く作り込まれていれば、十分的確な表現が成されていれば、人類の偉大さの証として時代を超えて残ってゆきます。ホメロス、チョーサー、ミケランジェロ、ベートーベン、それ以外の場所や時代に生きた偉人達の業績というものは、現代文明の持つリンガフランカ(人類共通の言語)の一部なのです。 

 

アメリカで創造された全ての芸術の中で、ジャズこそ、最も良く「アメリカ人とは何か」を語るものです。民主主義は、人々の創造力を爆発的に強大化し、アメリカ独自の芸術は創造力溢れる芸術家達を、これまでになく輩出することになるだろう、ということを示しています。そういった芸術家達のことを、そして彼らの業績のことを理解する上で、生きる上で大いに役立つ創造力、勇気、そして忍耐力といったもので、自分の身を固めることが出来るのです。 

 

しかし実際は、最も価値あるイノベーションは、やはりジャズそれ自体なのです。ジャズは求めるものを満たす大切さを教えてくれます。芸術とは、それに命を与える人を養い育てるために創られているのです。1800年代初頭にベートーベンが言ったことですが「今の(1800年代初頭)教会音楽の本当の姿を捉えようと思うなら、教会音楽の音階が出来たばかりの時代に戻って勉強しないといけない」。別の言い方をするなら「常識に頼るな、原点に返れ」ということです。 

 

物事の本質を知るには、その大元まで可能な限り戻って近づくこと、これは僕の信念です。物事は、時間が経つと徐々にその意義にしろ、込められた熱意にしろ、そういったものが損なわれてゆきます。丁度、太陽から遠ざかる程、温度が下がってゆくのに似ています。ジャズを初めて作った人々というのは、奴隷制から解放された世代から、たった二世代しか離れていません。彼らは日々の暮らしの中で、政治の仕組みとして、人間性を否定するような細かく分け隔てられた形式を持つ人種差別の犠牲者だったのです。ですから彼らにとって、自由とは、大変な重みをもつ言葉でした。こうしたジャズミュージシャンの先駆け達は、自分達の「芸の術」を通して、新たに見出された、人としての自分の自由について溌剌と謳歌したのです。でも自分が謳歌するだけでなく、他人が謳歌することも、彼らは嬉々として聴き入りました。彼らは分かっていたのです。昔、黒人は鎖で数珠つなぎになっていたけれど、今度は「自由」でお互い数珠つなぎになるんだ、とね。そしてこれは理屈ではなく、自分達が送る人生の中で感じ取ったことでした。 

 

こうした先駆け達は、あらゆる種類の人々と、この喜びをシェアし伝え合うことに、心躍らせました。彼らは人間関係のバランスをとる名人にもなったのです。ブルースに乗ってインプロバイズし、スウィングという皆で取り組むリズムを好み、協力し合って物事を創り出す完璧な方法を編み出したのです。ここまで見てきたように、スウィングとは、アメリカの歴史において一つの時代を描き、そしてある種の世の中の見方を定義したものなのです。 

 

この「世の中の見方」では、集団で物事を決めてゆく力は信用に足る、としています。心に抱く思いと、良い方法での人の好みに導かれる「より良いやり方」をチームが追求してゆくことで、悪い決定だとか面白みのない決定などというものは、飲み込まれてしまうのです。チーム一丸となって物事に取り組む集団が、心に何かしらの思いを抱く時、そしてメンバー全員が公平・公正であると互いを信じる時、何があっても調和を保つと決意を固める時、これを人は「スウィング」と呼びます。「自分達のやり方」が、自分のやり方となるのです。この物の考え方は、聴衆、CDを買ってくれる人々、サポートスタッフ、そして自分達の家族との在り方についても広がります。出来ないことはありません。毎週日曜日、教会での集団礼拝で、何も練習なんかしなくても一斉に祈りを唱えるではありませんか。同じ思いを皆が持っているからこそ、揃って進むことができるのです。 

 

ジャズバンドが演奏する時、スウィングこそ唯一つの目標。全員一丸となりたいと思わせる原動力なのです。音楽としてのジャズ、それは集団としての熱い思いを発揮するミュージシャン達が、腕を磨き上げ、通すべき筋を共有し、組織としての体制を確立する、それらは全て時間の流れというプレッシャーの支配の下で行われることです。全員一丸となることで、音楽はスウィングします。全員一丸とならなければ、音楽はスウィングしません。ですから、ジャズは「皆で一緒にやろう」ということになっていますが、実際は「皆で一緒にやらなきゃ」なのです。スウィングの出来栄えは、その過程でいかに誠実に「皆で一緒にやらなきゃ」とやるか、にかかっています。 

 

演奏に際しての様々な意図を明確に打ち出してゆくことによって、集団でメリハリのついた結果を完璧に表現してゆくことに集中する、これって、音楽以外の場面でも、色々な頑張り所で当てはまることですよね。スウィングしている(活気のある)家族は、居心地幸せだし、何をやってもうまくいきます。同じことが、ビジネスや、チームとしての取り組みにも言えるでしょう。自分がやろうと思っていることがどんなものかによって、実際にそれを行動に移した時、その評価が左右されます。だからこそ、人は謝辞する時に「こんなつもりではありませんでした。ごめんなさい」と言うのです。きっと「次は自分が本当に意図したことを行動に移します」とでも言いたいのでしょうね。スウィングとは、人の思いがそのまま行動に現れる代物です。そして民主主義にとって大切なツールなのです。新しいテクノロジーによって世界のグローバル化が進むにつれて、世界の諸々の文化同士の距離がだんだん近付いてきています。こういった諸々の文化が鉢合わせになった時、もしかしたらお互いのやり取りは、緊張した気持ちと、どちらかが相手を潰す、という考え方がベースになってしまうかもしれません。でも大丈夫。この「ズレ」が「世界の終わり」などと勘違いしなければ、実際は新たな「世界の始まり」だとわかります。「バベルの塔」の逆バージョンですね。今まで離れ離れだった僕達が、今度は一緒になって、喧々諤々を乗り越えて調和を生み出すのです。 

 

個人の創造力と集団行動に対する責任感、こういったことを重視するジャズを理解することによって、今僕達の時代が迎えている歴史上先例のないグローバルな人間同士のやり取りをする上での、考え方や心の在り方を作ってゆくことができます。人種・民族間の信念の違いというものは、簡単に消え去ってはいかないものです。皆が皆、こちらのやり方に合わせようと自分のやり方を捨てようなどとは思わないでしょう。最適な居場所というものを誰もが持っていた1950年代の、古き良き「オジーとハリエット」のようには、僕達はもう戻れないのです。国境という仕切り線の数が、今よりうんと少なくなった世界においては、市民としての在り方はどうあるべきか、ということを、もう一度よく考えてゆかねばならない時が来ています。 

 

僕が子供の頃教わったのは、人に与えられる権利と人が負うべき責任義務は、その人が市民としてどう在るかによって決まってくる、ということです。一般的には、子供は自分で自分の後始末をつければいい存在です。大人になると、自分が責任を負うべき人の数はぐんと増えます。家族、隣人、地域、国家、そして世界全体、とね。この輪は無限に広がってゆくものです。そして市民としての成熟度の高さは、その人が背負っていることの大きさと数と、ダイレクトに結びついているものです。 

 

芸術の世界では、この梯子段は、まず自分自身の腕前に責任を果たす、次に自分の取り組む芸術分野、芸術の世界全般にと、責任の輪が広がってゆき、最後は人間性それ自体に責任を果たしてゆくところまで届いてゆくのです。 

 

ジャズは、人類には誰の目にも明らかな尊厳がある、と主張します。今のテクノロジーの時代にあっては、前向きな人間性よりも洗練されたマシーンのほうが重要なんだ、とコロッと騙されてしまいがちです。だからこそ、芸術は、自分とは何かを測る大切なバロメーターなのです。栄誉ある自分、最高の自分とは何かを、教え、明らかにしてくれるのが芸術です。世界中どこでも、政治家や財界人といった人達は、貧弱な文化的活動をぶち上げては、それに対する取り組みには手抜きをするのです。こういったことが表れているのが、学校の教育現場、家庭。そして世界に目を向けてみれば、それは、金をため込み、ブクブクと太って、だらしない立居振舞をし、モラルに欠け、粗野で、自制心のない若者達だったりします。 

 

文明を築き上げてゆくことの大変さは、誰もが知っています。現在のテクノロジーは、やがて時代遅れとなってゆくものです。でも人間の魂を動かしてゆくものは、何時の時代も変わりません。僕達は今でもホメロスの作品を読みますが、だからといって古代ギリシャの文明の利器を使いたいなどとは思いませんよね。ベートーベンの時代の貴族政治に戻ろうなどと思う人はいなくても、彼の音楽は今でも耳にするのは、それが人の魂の深みに訴えかけてくるからです。彼はそれを「第九」で作り上げて見せました。彼の音楽は、当時の姿そのままで演奏しても、今この瞬間、僕達の魂を高揚させてくれます。それから、いつの時代の人も、今自分が生きている時代が最悪だ、と考えますが、同じ位めでるべきことも沢山あるのが常というものです。 

 

ジャズミュージシャン達は、相反するもの同士を調和させることが出来ます。ジャズを創造した人は奴隷の子孫であり、しかし彼らは自由を雄弁に語るのです。ブルースというジャズにとっては血液のように大切なものは、しばしば、心を辛くするようなメロディや歌詞を、楽しく踊りたくなるようなビートに乗せてきます。だからといって、それに騙されてはいけません。楽しそうに聞こえているだけですのでね。ブルースは私達を、しっかり地に足のついた状態に保ってくれます。それからジャズは、今の時代の、文化に関わる様々な疑問に答える手助けをしてくれます。バランスのとれた生き方をする上で、僕達が創造してきた様々な美学のツールを、どうやって使って行けばいいのか?科学技術の進歩が、人と人とのやりとりに取って代わるようなことをさせずに、生活を快適にするようにするには、これをどう捉えてゆけばいいのか?他の文化と融合してゆく時に、他の文化をバカにしたり、逆にこちらの文化の素晴らしさを捨ててしまったり、そんなことをしなくて済むにはどうしたらいいのか? 

 

ジャズほど柔軟性のある芸術はありません。ジャズは、一人一人の良さを信じる、それから、一人一人が理性的な選択をちゃんとできる、という信念に基づくからです。ジャズは、一人一人の意思決定力に任せてくれます。文書化された規制だの、様々な制限を設定した階級制度だのを用いて、一人一人の自由を排除するようなことは、しません。ジャズの世界では、バンドの中での自分の立ち位置を決めるのは、心の広さと演奏の腕前です。ジャズの哲学が根差すのは、人々、それも平凡で善良な市民が、生活を向上させ、豊かになってゆくべきだ、という発想です。 

 

リスペクト(敬意)とトラスト(信頼)、これがジャズが教えてくれるものです。偉大なミュージシャン達の演奏を聴いてみると、彼らが仲間のミュージシャン同士の腕前をリスペクトしていた、ということが分かります。例えばリズムセクションが演奏から外れている時は、ミュージシャン達は自分が演奏することよりも他のプレーヤーをしっかり聴こうとしますし、リズムセクションが演奏に加わっている時は、お互いに対するトラスト(信頼)を音に感じ取れます。というのも、プレーヤーは常に、他のプレーヤーが創り出した演奏に反応し、それに適応してゆこうとするからです。僕の考えでは、エルヴィン・ジョーンズがこのことを一番うまく言葉で表現しています。彼が言った言葉ですが、しっかりとしたレベルで他のプレーヤーと演奏するなら、そいつと心中する気持ちで行け、とね。勿論、本当にそうしたらいけませんよ。でもこれこそジャズであり、これこそ実際に心に抱く本当の気持ちなのです。 

 

非常にシンプルで、そして最も本質的な環境において、創造力と革新性は、人の魂(ソウル)の大切さを、人間に繰り返し語りかけてきます。これら二つは、別々に、そして一つになっても、人間の感情が広がった結果生まれたものですし、そして、人間を表現する最高の手段なのです。僕達は芸術に携わる者の務めとして、理解し、何度も結び付け直してゆかなくてはいけないのが、この創造力と革新性です。それは単に経済的な発展をもたらす手段としてだけではなく、民主主義をキチンと機能させ、完成された市民としての在り方を保つ手段としても、です。僕達は文化に携わる者の務めとして、見出さなくてはいけないのが、人間同士の共通の一致点というものです。それはたとえ、自分にとって最強最悪の競争相手ともね。そうやって、どんな人とも誠意を持って演奏に限らず色々な物事への取り組みができるのです。 

 

「誠意を持って」と言いましたが、この誠意というものについて、学ぶべき最大の教訓が、ロックンロール以降の時代、ジャズミュージシャン達の多くが金儲けに走る決断をした頃に見出せます。いつの時代も、最高のジャズの演奏には、プレーヤーの誠意と信念が音に表れています。というのも、ミュージシャンの腕前と内に秘める能力とは、大変な苦労の結果手に入るものであり、なかなかこういったものを妥協して失うようなことは、できないことです。でも当時ジャズミュージシャン達が、「ジャズなんてダサい」と言われたくなくて、知名度や金にめがくらみ、自分の芸や技を安売りすることに走ってしまった結果、ジャズは、政治や多くのビジネス活動が直面する同じ試練を味わうようになったのでした。リーダーシップの不十分さ、品質の低下、深遠な意味の喪失、そして人に対する気遣いの無さ - 突き詰めた所、「誠意」が大きく損なわれてしまったのです。「結局ジャズって何だ?」「俺が何を演奏しようと、何か変わるのか?」 

 

とは言え、こんな不作の時代にあっても、面白いことというものは、色々な所で生まれています。何でも芸術で表現して見せたい、という人間の希望は、誰にも止められません。クリエイティブアート(創造芸術)においては、「ひらめき」と「ひたむき」が揃った時に、目に見えるエネルギーが発生するのです。このエネルギーが、物事を変化させる力となるのは、常に新しいものを求める人の中で発生する時ですが、そういうい人が集団となってもなお革新出来であり続けるなら、エネルギーがもたらす力は途方もないものとなります。言葉で言い表すことのできないこの大きなワクワク感は、色々な方向から組み合わさってくる創造力のモザイクに、自分も参加してゆくことから生まれるものです。忘れないでください。創造力とは身につけなくてはならないモノではなく、生まれながらにして身についているモノです。人は誰もが芸術家としての潜在能力を持っており、芸術家とは、その潜在能力である創造力を、とことん育んでゆく、その心を突き動かすのは、人が住むコミュニティとの絆をつくらなきゃ、という気持ちであり、その場所は選びません - 地下鉄、ピクニック、夕食後のひと時、ビジネスの場においてさえも - 。嬉しいこと、伝えたいことを届けようとする気持ち、これを自分にインスピレーションを与える人、つまり、自分と同じ人類にも贈りたいという心は、やめられませんよ。 

 

この気持ちに突き動かされて、70歳のルイ・アームストロングは、死の影が忍び寄っても、唇が月の表面のように傷だらけになっても、ついにあの、たっぷり血の通った音に辿りついたのです。この気持ちに突き動かされて、病気がちで張力に障害を持ってしまったベートーベンは、夜中の2時半過ぎに目を覚まして、ピアノの響板に頭を突っ込んで、苦心した一つのパッセージを練り直し、それは約200年後の今でも至高の名曲の中で息づき、僕達に語りかけてきます。この気持ちに突き動かされて、後年寝たきりになりがちになったアンリ・マティスは、鮮やか過ぎるくらいの色彩を使いこなし続けた後に視力に重大な支障をきたしてからも、気力を振り絞って、長い棒を使って、記憶と感覚を頼りに、壁や天井に描き続けたのです。この気持ちに突き動かされて、デューク・エリントンは、50年間コンサートツアーを続けた後、余命数か月となっても、彼とバンドがライブで作り上げた栄光に満ちた最終結果を満喫しようと、全作品2000曲余りを聴けるだけ聴きまくったのです。彼らを止めることは、誰にも、何事にも、決して出来ませんでした。 

 

この気持ちには、名前はありません。この気持ちは、くたびれ年老いたカウボーイが、ハーモニカを吹いて歌を歌い、飼牛をつれての辛い移動にも、まずいコーヒーにも耐える力となったのです。この気持ちは、僕達皆が感じていたいし、その輪に加わりたいものです。それは僕達に生まれながらに与えられた権利ですが、単にそれに気付かないだけです。でも僕達が歴史にその名を刻むアーティスト達の演奏を聴く時、彼らの多くは、今より困難な時代を生き抜いたことを思うと、彼らがこう言っているように聞こえます「この溢れかえる皆が認める創造力は、今もそしてこれからも、手の届く所にあるし、それだけでなく、人間の持つエネルギーと能力、そして一人一人に与えられた時間を費やす価値のある、唯一のものだ」。 

 

デューク・エリントンの言葉「THE people ARE my people」(「人々」とは、私にとっては、その一人一人皆が大切な存在なのだ)。この考え方を自分のモノにすることが出来れば、過去のがっかりするような出来事から立ち直り、昔の人達が果たせなかった夢を叶えることになるでしょう。今でも聞こえます、ダニー・バーカー先生の言葉「そう、それがジャズってもんだ」。 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき  

ウィントン・マルサリスとサンドラ・デイ・オコナ―判事との対談 

   

<写真脚注> 

ウィントン・マルサリスとサンドラ・デイ・オコナ―との間で、「Let Freedom Swing: A Celebration on America 自由をスウィングさせよう:アメリカ祝祭の日」に際して、ジャズ、そして合衆国憲法をテーマに対談が行われました。 

 

第44代アメリカ合衆国大統領となるバラク・オバマ氏が臨む大統領就任式の前夜、ワシントンDCで開催されたケネディセンターでの祝賀行事「Let Freedom Swing: A Celebration on America 自由をスウィングさせよう:アメリカ祝祭の日」に際し、最高裁判事を歴任したサンドラ・デイ・オコナ―氏とウィントン・マルサリス氏との対談が開かれました。ジャズ、そして合衆国憲法についての話題は、本書「ハイヤーグラウンド:上を向いていこう」にインスピレーションを受けてのものです。以下、その抜粋を御覧ください。 

 

ウィントン・マルサリス 

ジャズのインプロバイゼーションの素晴らしいところの一つはですね、誰もが知っているモチーフを使って、それを全く別のものに作り変えてしまう、でもそのキャラクターは残しておく、そんなことが出来ることなんです。これって、合衆国憲法にも通じますよね。適用に柔軟性を持たせて、法律は維持しつつ、そこに解釈の余地がある。つまり、人間は理想を持つことを認められていて、それはずっとかわらないものなわけですから、憲法は常に新しさを保っているわけです。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

あなたがこの本の中で、優秀なジャズバンドと優秀な民主主義の在り様を結びつけて書いた部分があるけれど、そこが良かったわ。 

 

ウィントン・マルサリス 

それが合衆国憲法とはどういうものか、ということだと、僕は思うんですよ。優れたものが集まって、様々な問題を片付けてゆく、みたいなね。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

我が国の憲法を作った人々の、最大の貢献は何かといえば、今の政治体制「三権分立」を作ったことです。大統領、立法府、それから司法と、それぞれが他の二つに対して権限を発動できるのです。 

 

ウィントン・マルサリス 

その三つとも、色々な問題を解決していく上で、微妙なバランスを取ってますよね。個人の権利、各州政府の権限、そして連邦政府の役割といったもののね。これは音楽でも同じことなんです。いつもそうですが、ドラム奏者は大統領みたいなものです。一番大きな音のする楽器を担当しますからね。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

大統領はドラムなの? 

 

ウィントン・マルサリス 

そうです。ドラムが大統領ですね。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

なるほど。じゃあベースは?これもかなり大きな音よね。 

 

ウィントン・マルサリス 

裁判官ですね。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

あら、そうなの!司法のね~。 

 

ウィントン・マルサリス 

ミルト・ヒントンっていうベースの名人がいるんですが、彼は「ジャッジ」なんていわれてますよ。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

メンバーをシュッとさせるわけね? 

 

ウィントン・マルサリス 

ベースっていうのは、ハーモニーとリズムの両方を発信するんです。そしてリズムセクションの中心にいますので、バンド全体の動きを把握して、曲の基本リズムとハーモニーのカギを握っているわけです。それからピアノ、ピアノもリズムセクションの一人ですが、これは議会、つまり立法府みたいなものですかね。ピアノは曲に出てくる音符も音階も全てを担当します。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

ピアノは何でも演奏できる、同時にお互い聴き合わないといけない。ここがポイントね。誰か一人がソロをやっている時は、他のメンバーも演奏しているけど、ちゃんと聴いてもいるのね。 

 

ウィントン・マルサリス 

バンドで演奏していると、大事なことを色々学びますけれど、その中の一つにですね、とにかく他のメンバーを聴くことは「絶対」。そうすることで心が開かれて、自ずと色んなことが耳に入ってくるようになる、っていうのがありますね。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

なるほどね。だったら議員の先生方も、もうちょっとジャズのセオリーをお勉強なさったらいいわ。そうすれば私達の暮らしも、少しはマシになるかも。そう思いません? 

 

ウィントン・マルサリス 

同感ですね。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

この本で、あなたがお書きになったこの部分が、とってもいいわ。「チーム一丸となって物事に取り組む集団が、心に何かしらの思いを抱く時、そしてメンバー全員が公平・公正であると互いを信じる時、何があっても調和を保つと決意を固める時、これを人は「スウィング」と呼びます」。 

 

ウィントン・マルサリス 

スウィングっていうのは、バランス感覚なんですね。合衆国憲法はスウィングの極め付きの一つでしょう。お互いの目的をすり合わせて、それをまとめ上げて、気分良くそれを受け入れるには、どうすればいいか。スウィングっていうのは、お互い相反するものを一緒にまとめる行為なんですよ。そしたら、ベースを例にとってみましょう。ベースっていうのは、元々一番音量が小さくて音域が低い楽器です。これをアンプで音量を上げるわけですが、ベースが全ての拍で足並みをそろえなければいけないのが、シンバル、これはドラムセットの一部ですが、ベースとは真逆に、一番音量が大きくて音域が高い楽器です。この真逆の二つが仲良く仕事をしきれれば、それは素晴らしいことです。そうでないと、目も当てられません。ミュージシャンがいつも言っていることですが「一緒にやるからにはベストを尽くそう、この曲に取り組むからには、今も、これからも一緒にやっていこう」とね。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

この度の大統領選挙では、国民全体が未来に向けて何かしらの誓いを立てたかのように、一つにまとまったんじゃないでしょうかね。 

 

ウィントン・マルサリス 

今からワクワクしますよ。今回の結果で世界中が盛り上がっていますよ。 

 

サンドラ・デイ・オコナ― 

そうですね。私達皆で、今度の新政権が最高のものになることを願いたいものですね。うまく行ってほしいと思います。 

 

ウィントン・マルサリス 

そうです。そして皆でうまく行くよう、力を合わせていきましょう。 

 

 

 

 

 

筆者紹介 

 

<写真脚注> 

ダニー・バーカー先生のバンド(1970年):縦じまのハイウォーターパンツを穿いているのが僕で、左がハーリン・ライリー。 

 

ウィントン・マルサリス 

ニューオーリンズ出身。アート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズで研鑽を積む。現在、ジャズ・アット・ザ・リンカーンセンターの音楽監督。これまでに、大・小多くの受賞歴を誇る。 

 

ジェフリー・C・ワード 

作家。「ジャズ:アメリカ音楽の歴史」 「戦争」 他、書作多数。 

 

両名とも、かの「セレンゲティ・クラブ」のメンバー