about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett 伝記(英語版) まえがき

まえがき 

 

世の中、フレンドリーに接してくれるアーティストというのは、あまり多くない。勿論、居るには居る。辛抱強い彼らは、我々に進んで丁重に接し、こちらの「しようもない」質問に知的に答えてくれる。そうやって彼らの作品や能力に光を当てそれが出来上がってゆくプロセスを見せてくれるのだ。時には、ミューズ(音楽の神様)がなかなか微笑んでくれずに、自信喪失になりかけた、そんな苦しかった頃のことをじっくり語ってくれることもある。    

  

そんな彼らより数で勝るのは疑い深いアーティスト達だ。彼らが不信感を抱くのは、自分の「生きざま」と「成果」を一緒くたに見なすヤツ、そして「成果」にはあまり興味を示さず、クリエイティブアーティストとしての「生きざま」の上面をつついて、そこにばかり集中砲火を浴びせた挙げ句、作り話や中傷としての噂を撒き散らす、そういうヤツ。ピアノ奏者のアルフレッド・ブレンデルがかつて言っていた。アーティストの世界を語る逸話には、十分気をつけろ。逸話から本質をつかもうなど、星をみる人が土星の輪を見て土星の全てを理解した気になっているのと同じだ。 

  

それから次は怒れるアーティスト達だ彼らは自分の「成果」が他人を通して発信されることを、一切拒否する。それは、彼らにとっては知的財産の強奪でしかないからだ。これが多く見られるのがジャズだ。こうした自己防衛のオーラ全開な連中の代表格が、トランペット奏者のフレディ・ケッパードだ。彼はジャズというジャンルの確立者であり、今なお代表格である。1916年、彼は自分の演奏を録音してみないかというオファーを蹴っ飛ばした。もし受けていれば、彼こそが史上初のレコードをリリースしたジャズミュージシャンになるはずだった。自分の音楽を他人に演奏されたくない。たとえ一度きりでも、ましてや繰り返しなどもってのほか。そんなことをしたら、自分の演奏が研究されマネされてしまう。それが理由だった。白人が牛耳る時代を過ごしたアフリカ系アメリカ人演奏家にとっては、「マネ」とは、「搾取」のキレイゴトだったのだ。そのわずか1年後、史上初のジャズのレコードがリリースされる。「オリジナル・デキシーランド・ジャズバンド」といって、全員白人の楽団だった。 

 

そして最後に、ラジカルな(極端に走る)アーティスト達だ。彼らの信念はこうだ。音楽は最も閉鎖的な芸術で、音楽以外の手段でガタガタ言われる筋合いはない。現代のオープン・マインドな連中でさえ、音楽のプロセスを知るのは理屈でなくハートだ、と信じる傾向にある。アルベルト・シュバイツァーがバッハの音楽について触れた言葉「クダラナイ言葉は全て黙らせてくれ。今こそ、彼の楽曲を通してのみ、彼に語っていただこうではないか」。音楽の批評をする語彙に限界を悟っている人間(演奏する側も、聞く側も、当然書く側も)なら、シュバイツァーのこの言葉は、ラジカル(根音)だけに通奏低音のように頭に鳴り続けている。 

  

なぜこんなにも、キース・ジャレットに関する文献が少ないのか?それは彼のこんな信条に答えがあるのが分かる。現在のところ世界一の影響力とオリジナリティを誇るピアノ奏者の一人である彼は、極端に口数が少ない男になってしまっている。ポール・ヒンデミットがバッハのことを「禁欲的で寡黙な人」と評しているが、キース・ジャレットはそれを地で行っている。ジャレットの音楽にコメントをつけようとする者は、全員、基本的に彼の意に逆らってのことである。もしキース・ジャレットが自ら決定できるよう自分でもってゆけていたら、この本が世間に出ることは、多分なかっただろう。 

  

2014年1月14日、ニューヨーク市リンカーン・センターで、キース・ジャレットは、アメリカのジャズ・ミュージシャンにとって最高の栄誉「ジャズの殿堂」入りの式典に、サクソフォン奏者のアンソニー・ブラックストーン、ベース奏者のリチャード・デイヴィス、そして音楽教育家のジェイミー・エーバーソルドらとともに臨んだ。彼は短い感謝のスピーチの中で、こんな話をした。音楽は言葉では語れない。音楽は音楽でしかない。一聴同じように聞こえる言葉、あるいはワケの分からない思考回路、こういったものは実際の所、斜に構えて物質的に物事を見ようという根性の上に立っているもので、楽譜の書き方を説明するのが関の山、音楽の本質など語れない。 

  

私が初めてキース・ジャレットの音楽と出会ったのが1960年代。この頃彼はチャールズ・ロイド・カルテットのメンバーだった。彼と個人的に知り合いになれたのは、当時プロデューサーだったマンフレート・アイヒャーのおかげで、ニュージャージー州オックスフォードの彼の自宅で話をする機会が持てた。彼の伝記を書きたいという思いは、彼の興味と好意を引き出せた。我々の意思疎通が突然絶たれたキッカケは、私自身の言葉だった。数々の単独コンサートをこなしてきた彼は、ある公開イベントに臨んだ。この時、我々は彼が出演した「ケルン・コンサート」について話し合ったのだが、これが妙な展開になる。このコンサートを私は、彼の最高の業績の一つと評したことで、彼の嫌悪心に火がついてしまったのだ。 

 

この事件について、話の筋が通る要素が一つある。それはジャズ・ミュージシャンにありがちなことである。彼らは「金儲け」のレッテルを貼られることを、何より恐れる。美的な称賛を金で買ったと思われると、全ての数値化されてしまう成功にも何かしら結び付けられる。こういったアーティスト達は多くの人々に認知されたいと願うあまり、金儲けと暴露されることに一種のアレルギー反応を示す。1975年のケルン・コンサートについては(これがきっかけとなり、彼はそれまでの狭くて少ない客層からより大きな世界へと一歩踏み出したのだ)、キースはジレンマに陥っていた。本レコードはジャズの歴史上最も広範囲のファン層を獲得した。だがこの時彼が使用したピアノは状態が悪く、奏者である彼の音楽的潜在能力が発揮されるのを、著しく阻害してしまっていた。たとえ人々がこぞって称賛しても、キース・ジャレットのような完璧主義者にしてみれば、成功などと絶対に評価してはならないものだった 

  

だが我々の意思疎通が終わったことで、新たな可能性がいくつか開けている。当然のことながら、(彼から話が聞けないだけに)我々は彼の音楽それ自体に注目するよう立ち戻る。(彼が関わらないだけに)このアーティストの指図は受けないですむ。大体、自分自身のことを語る上で、直接的だろうと間接的だろうと、客観性だけで行けるはずがないのだ。この伝記はキース・ジャレットの言葉力排除に関する持論にケンカを売るつもりはない。だが本書は、トーマス・エリオットが記す所の「言葉力で新発見を起こせ」という、言語の可能性を余す所無く引き出す試み、と見なすこともできよう。今の時代、最も魅力的な芸術表現の一つである音楽、そしてユネスコの世界無形文化遺産に名を連ねる価値のあるこの音楽、これにより近づくために、である。だが何よりも、この音楽をまずは耳にする必要がある。