Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett 伝記(英語版)序曲(pp.1-3)

序曲:「天才」の所以…1945年・欧米 

 

ルフレート・カントロヴィッチは、ニューヨークに亡命中、ドイツ語で日記にこうしたためている。「Es ist gut, heute allein zu sein(今日は独りがいいな)」。日付は1945年5月8日カントロヴィチは更に続ける「もう過去の話だ。この12年間、1000年も続いた犯罪行為も、ここに極まれリ、だ。むこう(ドイツ)の様子を思い描こうとする。でもどれもが無数の現実の前には、チャチな描写でしかなかった。深く考えるのが怖い。ベートーヴェンの5番なんか放送しているやつが居るのか。勝者の讃歌のつもりか?勝者なんかない。あるのは敗者のみだ。この戦争が終わって、これから浮き彫りになるだろう。」 

 

「無数の現実」という言葉は、数年後、別の物書きが使うことになる。場所はヨーロッパ。すでに過去の面影のない大陸だった。その物書きは、後に彼の記念碑的な作品となる「文学のモザイク」を仕上げるべく、散見する人々の記憶や証言を集めていた。歴史に残る目撃証言、無味乾燥な外交辞令、人知れず発せられた告白、歪められた事実、公式に説明されたこと、あるいは、全てに蓋がされてしまう前にしたためられた、非公式な調査結果や、なぐり書きのメモ。ヴァルター・ケンポフスキーの「Echolot」(直訳:音響深測機器)は超大作である。歴史的な瞬間を迎えていた当時の時代の空気感を集めたもので、時代を生き延びた魂が、数千ページに及ぶ紙面に深く刻まれている。 

 

1945年5月8日時点では、暗雲は未だ吹き飛ばされ尽くしたとはいっていなかった。だが、当時の人々の振る舞いや発言から、古い時代のコンセプトは崩れつつあると、多くの人々が感じていた。その時とうとう明らかになったことだが、ヨーロッパのあらゆる「力」の数々は、もはやアメリカ抜きには新たな出発は成し得なかった。それは文化についても同じこと。この日、ヨーロッパによるヘゲモニー(覇権)は、終わりを告げた。ポール・ヴァレリーの思い切った発言に見られるように、「ヨーロッパは、その役目を終えた」。 

  

アメリカ文化なるものは、既に存在が確立して久しくなかったか?ジャズは既に20世紀の娯楽音楽として、「新世界」たるアメリカのクラシック音楽のように、斜陽のヨーロッパにとって見えない壁として立ちはだかった存在ではなかったのか?ラグタイム音楽を演奏するピアノ奏者達は、無数のリズムの変化を自分達の音楽に取り込み、そうすることで、20世紀の幕開けに際し研ぎ澄まされた感性を築いたのではなかったか?彼らは自分達の時代が軽快に進むことを望んだのであり、遠慮がちに歩みをすすめようなどと思ってはいなかった。ラグタイムとは、訳してみれば「引き裂かれた拍子」ととなる。そのリズムは、ヨーロッパ人の言う拍子感に対し、アフリカ系アメリカ人が初めて抵抗を示したものであり、整然と行進するその両足に向かって、足を絡ませようと棒を放り投げるようなことだった。シンコペーションは、何かにつけて音楽に盛り込まれるようになり、やがてシンコペーションのかかっていない音楽は演奏したくないと言わんばかりになった。従来の演奏技法や表現に新たなひねりを加える演奏家達が、大いにもてはやされるようになった。 

 

多くのヨーロッパのアーティスト達が、活気が失われたことに苦しみ、これまでの美的感覚を刷新することでこれを乗り切りたいと願っていた。20世紀の前半、そしてその後も長く、音楽だけでなく芸術全体が、四角四面に4拍子を刻むようなものからの決別対しては、これを健全な動きであるとする評価が相次いだ。ドビュッシーはこのトレンドの口火を切って、アフリカ系アメリカ人のダンスを取り入れたスタイルの音楽を引っさげ、ラベルがこれにジャズのブルースを取り入れたもので続き、更にはミヨーが独自のスタイルを確立するに至る。絵画ではピカビアが1913年に描いた2枚のキュビズム画「Chansons negre」。1927年~1928年に「警世の画家」オットー・ディックスが当時の社会を揶揄して描いた「シティ:トリプティック」。モンドリアンが1942年に描いた「ブロードウェイ・ブギウギ」。そしてマティスが1947年に描いた一連のシルエット画「ジャズ」。そしてジャン・コクトーエリック・サティ、ジョージ・グロスマルセル・カルネルイ・マルジャン=リュック・ゴダールボリス・ヴィアン、フリオ・コルタサル、そしてペーター・リュームコルフといった面々は皆、ジャズのリズムに感化されたアーティスト達である。1918年にストラヴィンスキーが作曲した「ラグタイム」の初版楽譜は、拍子をパブロ・ピカソが一筆書きのイラストを添え、後にレオニード・マシーンが振り付けをつけた。ジャズがついに芸術として世に受け入れられたことは明白だった。歴史家のエリック・ホブズボームが指摘するように、ヨーロッパがこの音楽に魅了された理由は、これが完全にアメリカ的であるからだ。「ジャズ=今」であり、金銀のメッキがまばゆく輝く楽器によるバンドと、ボディがまばゆく輝くヘンリー・フオードの乗用車と、いずれもアメリカからやって来たのだ。 

 

ジャズは大戦前からヨーロッパで知られていた。1945年5月8日大戦に幕が下りてから以降の日々、その巨大なサウンドは全てを蹴散らすのに十分であった。 

 

ジャズは20世紀の音楽を牽引するスタイルとして、ヨーロッパの隅々まで受け入れられた。フランスでは、自国の実存主義の「ひとつまみ」が加わり、当時の心躍る「パルファム・スペシアル」(とっておきの香水)となった。 

 

フランス以外のヨーロッパ諸国には、戦後の全く新しい「人として生きる気風」を発信することは不可能であったと思われる。クロード・ルテールのクラリネットや、後進のビル・コールマンのトランペット、そしてジェームス・ムーディサクソフォンサウンドは、サン・ブノワ通りやフォブール・サントノレ通りといった所のクラブやコンサートホールからばかりでなく、同じく市内のユシェット通り或いカーン通りといった繁華街の地下に降りた店からも聞こえてきた。サン・ジェルマン大通りにあるカフェ・ド・フロールやカフェ・ドゥ・マゴといった名店からは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールアルベール・カミュとが意見をたたかわす声が聞こえてきた。実存主義者達にとっては、自らの作品を歌ってくれる歌手であり、本質的には官能的な存在であるジュリエット・グレコが人々に届けた作品の作り主は、ジャン・コクトーレーモン・クノー、それからカミーユ・ブリーンといった面々も並ぶ。ジャック・プレヴェールが作詞を手掛けた「枯葉」が、ジュリエット・グレコの燃えるような真っ赤な唇から奏でられた時、「遅ればせながら真打登場」とばかりに世を席巻し、フランソワ・モーリアック曰く「戦後の時代を表現した極め付き」となった。 

 

アメリカ人は、自分達の音楽をヨーロッパが何故ここまで魅力的に感じたか、そのワケを十分理解できていた。自分達は今更ジャズに対する聴き方を変える必要はなかった。なにせこの音の文化に励まされ、銃を取って戦い、そして勝利したのだ。気鋭の劇作家であるアーサー・ミラーに言わせれば、第二次大戦後の時代を例えるなら、鉄の扉を体全体で押し開けようとしていたら、突如内側に扉が開いたようなものだ、という。宇宙船か何かに乗って、無重力空間をスイスイと航行するかのように、上下左右の感覚がまったくない感じだとのこと。ほどなく、底なし能天気の本国には、社会監視活動が再登場する。だがいずれにせよ、ほんの僅かではあったものの、歴史的な瞬間だった。人々を一つの方向に向かわせる強制力のない時間であった。「気づけば、心躍る、人として基本に返った空気感だった。其の空気に、私達は無邪気な小動物のように耳をそばだて香りを感じ取ろうとしていた。」 

 

キース・ジャレットが生まれたのは、こうして世界が「これ以上落ちることのないところまで落ちた」1945年5月8日、ペンシルベニア州の小さな工場(こうば)の街・アレンタウンで生まれた。彼がこの記念すべき日に生まれたことは、何やら運命に逆らえない感じがする。まるで彼がこの世に生を受けたとんでもなく記念すべき日を、その後のキャリアの出発点として揺るぎないものにする、と言わんばかりではないか。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線終結の日であり、この日は、古い世界秩序と新しい世界秩序の境目となった。言い換えれば、アメリカはヨーロッパへと凱旋し、ヨーロッパは新世界・アメリカを手放して瓦解した、その境目となったと言えよう。この「欧」と「米」の橋渡しとしての姿が、彼の生きざまとそこから生まれた作品の中に、容易に見て取れる。