Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)序曲(pp.3-5)

キース・ジャレットが生まれたのは、こうして世界が「これ以上落ちることのないところまで落ちた」1945年5月8日、ペンシルベニア州の小さな工場(こうば)の街・アレンタウンで生まれた。彼がこの記念すべき日に生まれたことは、何やら運命に逆らえない感じがする。まるで彼がこの世に生を受けたとんでもなく記念すべき日を、その後のキャリアの出発点として揺るぎないものにする、と言わんばかりではないか。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線終結の日であり、この日は、古い世界秩序と新しい世界秩序の境目となった。言い換えれば、アメリカはヨーロッパへと凱旋し、ヨーロッパは新世界・アメリカを手放して瓦解した、その境目となったと言えよう。この「欧」と「米」の橋渡しとしての姿が、彼の生きざまとそこから生まれた作品の中に、容易に見て取れる。 

 

ヨーロッパとアメリカ、それぞれの土地での振舞い方の違いを前にしても、しっかりと耳を傾けて賢く反応する。両方の土地でのモノの見方と文化を持つ人物の代表者として、ヨーロッパとアメリカ、どちらで生活を送ってもしっくり馴染める。彼のようなアーティストは、そう多くはない。出身地・アレンタウンは、フィラデルフィアの北80キロ(50マイル)、ニューヨーク市の西140キロあまり(90マイル)。彼の生まれた家族は、「旧大陸」というものをしっかりと抱いていた。片方の祖父母がヨーロッパからの移民で、渡米後も時折、旧・オーストリア・ハンガリー帝国内の言語の幾つかを日常使っていた。 

 

キース・ジャレットは、音楽活動に取り組み始めた頃から、アーティストとして明らかにヨーロッパのモノの見方を持って今日に至る。だが、彼の家族背景、彼自身のヨーロッパ音楽に対する嗜好、それ自体は、成功したジャズミュージシャンである彼が「旧大陸」で様々なものが発展してゆく様を注視し、そして自らのルーツを探求した理由としては、十分とは言えない。この「注視」と「探求」に影響を与え、大西洋をこえてゆこうと思わせたのは、他ならぬヨーロッパ自体の発展そのものだったのだ。第二次大戦後、明らかに焦土と化したヨーロッパ大陸を、アメリカ文化は情熱的に席巻した。だが戦後20年もの間に、ヨーロッパの人々はこの新しい文化をしっかり受け止め、自らの美的尺度と融合させ、ジャズの本場との違いを地ならしできるまでに至った。キース・ジャレットにとってさえも、ヨーロッパのジャズがアメリカの支配から開放され、隅々まで広がっていったからこそ、彼の芸術的表現と音楽家としての地位について、細かく立体的ににその姿を描いてゆく上で、ヨーロッパというものを彼の中に取り込むことが、難なく出来たといえよう。そうでなければ、「その姿を描く」ことは困難であったはずである。 

  

ジャレットの膨大なレコーディングの実績の大半は、正統派のヨーロッパ音楽に敬意を表して作られている。彼は長きに亘り、いわゆる「アメリカン・カルテット」と共に、「ヨーロピアン・カルテット」を率いていた。1971年からは、彼の重要なレコーディングはミュンヘンのレコード会社であるECMからリリースされている。ジャレットはヨーロッパの嗜好を受け入れることもできるのである。例えば、彼の唯一の正式な伝記執筆者として今日まで目されている、イアン・カーは、イギリス出身である。多くのことに批判的なジャレットだが、彼が受け入れる唯一のジャズに関する本は、イギリス人が書いたものだ。ジェフ・ダイヤーの「バット・ビューティフル」といって、フィクションと実話を見事に織り交ぜた逸品である。以上の話は筋が通っており、キース・ジャレットの人物像を描くとしたら、アメリカ人で、ヨーロッパに自ら望んだ多くの縁を持つ人、という具合でよろしかろう。 

 

だがキース・ジャレットヨーロッパに向けた好意的な眼差しはあくまでも彼自身の美的価値観則るものでしかないはずだ。双方向的に、ヨーロッパとアメリカ両方のジャズ・ミュージシャン達が、お互いに持っているものを交換しあうには、ヨーロッパ出身の名手達:ヤン・ガルバレク、アルベルト・マンゲルスドルフ、デイヴ・ホランドジョン・マクラフリンケニー・ホイーラー、あるいはトーマス・スタンコといった面々が、舞台に立つ必要があった。フェスにしても、ベルリン、デン・ハーグモントルー、アンティーブといった場所でぶち上げる必要があった。ドナウエッシンゲンのような数々の権威ある前衛音楽の会合は、ジャズにもその門戸を開ける必要があった。レコードレーベルも、MPS、ECM、あるいはFMPといったところを設立する必要があった。プロデューサーにしても、エンジニアにしても、マンフレート・アイヒャーやエリック・コングスハウクくらいの腕のたつ人材が現れる必要があった。グラーツダルムシュタットの研究所やアーネムだのアムステルダムだのといったオランダ各都市の教育機関を開設する必要があった。 

 

ヨーロッパで興ったこれら全てが、少なくともある一定期間、キース・ジャレットのようなアーティスト達にとってはヨーロッパとのつながりを感じるために、あるいはアメリカ人ジャズミュージシャン達にとってはヨーロッパが自分達を歓迎してくれていることを知るために、必要があった。にもかかわらず、バリトンサックス奏者のエッケハルト・ヨストが歯に衣着せぬ物言いで、両者の社会文化的な違いを分析した結果によると、「アメリカにはジャズ音楽がある。だがヨーロッパにはそれを聞くにふさわしい耳がある」。多くのアメリカ人達が感心するのは、ヨーロッパの人々のジャズ音楽の聴き方だ。しっかりと耳を傾け、決して「ごちそう居並ぶ中の付け合せ」扱いなどしないのである。 

 

セシル・テイラーといえば、不遇の時代が長く続いたことがあるピアノ奏者である。当時の彼の音楽は、「アメリカンエンターテイメント」の求めるものに相容れなかったのだ。この事実は、例えば、アメリカ国内のクラブ(老舗と呼ばれるものでさえも)において、生演奏をする時、実際には店のフロアスタッフ達によって切り盛りされていたことを、ポツポツと物語る要因である。インプロヴァイズの長さは店で出すドリンク一杯を飲み干すくらいにする。演奏の音量はレストランで魚のヒレの煮込み料理を食べながら歓談できるくらいにする。こんな条件下では、セシル・テイラーの音楽は相容れずはずもない。耳にきつい演奏の圧、音が激しくぶつかる和音、そして信じがたいほどに濃密な音楽の作り込み方、これが彼の音楽だ。テイラーと共演したベース奏者の1人であるブエル・ネイドリンガーによれば、彼らの演奏は頻繁にクラブのオーナーの抵抗に遭ったという。前衛音楽の急先鋒であるテイラーが本番を続けるのを阻止しようとする様を、次のように物語る「私達はよく、ラジオの本番中に出されるような、演奏中止の合図を食らったものだった。掌を下に向けて、首元を横切らせて「カット!ストップ!今すぐやめろ!」の合図だ。だが、ハイそうですか、とはいかないものだ。仮にクラシック音楽の大御所のイーゴル・ストラヴィンスキーが、同じ店に座って作曲のペンを走らせていたとして、「ストップだ、イーゴル!ウィスキーの注文が来なくなるだろうが!」なんて、彼に対して言うわけがないだろう。それと同じ。」セシル・テイラーは演奏しながら音楽を紡ぎ出す。これは全てのジャズミュージシャン達と同じ。彼らのインプロヴァイズとは、現代音楽の作曲家がやる「チャンス・オペレーション」と同じである。 

 

だが客観的にどの角度から見ても、このような判断の仕方では、別の側面を説明しきれない。アメリカには昔からずっと、良心に基づく開拓精神を大いに歓迎しようとする姿勢がある。ひっきりなしに移民がやってくるこの大陸には、芸術活動における新しい取り組みに対しては、オープンな姿勢を示す長い伝統がある。この伝統は、18世紀中頃にまでも遡ることができる。この頃、世界に誇る天才政治家であるベンジャミン・フランクリンが、自身が草稿に携わった「独立宣言」よろしく、弦楽四重奏曲を作曲している。多くの典型的なアメリカ人アーティスト達が、「一匹狼」、つまり「変人」「無印の迷い牛馬」「親なしの子牛」「はぐれ者」「よそ者」と同義語とされる言葉で評されるのには、確たる理由がある。これら同義こそがそのヒントだ。これによって明らかになるのが、「一匹狼」という言葉が初めて取り沙汰された頃の、時代背景とものの考え方である。当時、アメリカ人達は、手つかずの自然を、彼らのふるさとへと変えていった。西部への「扉が開いた」時代である。開拓民達は不安を抱えつつもよく働き、家畜達とともにあった。だが同時に、彼らは大地を駆けてゆく牛の群れに畏敬の念すら抱き、牛達の中に、自分達の「無限の自由がほしい」という思いを見出したのだ。チャールズ・アイヴスやカール・ラッグルズといった作曲家の音楽の中に見られる「原始的」「無垢」と19世紀の間みなされた精神は、後に見直され、「見かけは気さく、中身は複雑」と評されることのある、彼らの自信に満ちた音楽哲学のあらわれと定義づけられた。 

  

こうした音楽の反逆者達に対し、キース・ジャレットはこれまで心を寄せ続け、楽壇の古い教義と老いぼれ共の学識を嘲笑う多くのアーティストたちの作品を、キース・ジャレットはこれまで研究し続けている。これは偶然でもなんでも無いことだ。こういった人物達は、音楽的に高尚かつ手の混んだ仕事には目もくれず(訳注:音楽的に下卑た単純な仕事とはかけ離れた取り組みをするということは全く無く)、悪名高いほどに一般社会規範を守らず、歴史的にも予想外で、自分達が得意とする分野があったとしてもその枠に収まらず、楽壇から追い出された挙げ句、なんと20世紀の音楽シーンを作る最も驚くべき革新的人材となってしまったのだ。彼らは自由を求めるその過程で、音楽の研究にとどまらず、哲学者、理論家、文学者、異端の教育者、台本作家、喜劇役者、偶像破壊者、更には実験を重んじる科学者が取り組むような分野にまで手を出した。