Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)1章(pp9-13)

1.アレンタウンに育つ 

 

ペンシルベニア州アレンタウン、といえば、アパラチア山脈山麓に広がる丘陵地帯にある町だ。ふらっと訪れるような場所ではない。行かなきゃ!と決めて訪れるような場所だが、果たして誰が好き好んで?という話である。ここは工場の町で、人口は12万人。アメリカで何番目に大きいか、といえば224位と下の方。で、上位に(非公式)入る要素もある。「最も保守的なコミュニティ」として、これが12位だ。 

 

ビリー・ジョエルが1982年にリリースしたアルバム「ナイロン・カーテン」でこの町に捧げた曲がある。政治通の彼は、きっとベルトルト・ブレヒトの言葉を意識していたであろう「辛い時に歌なんか歌うか?」ブレヒト自身がこう答えている「歌うとも、辛い時のことをね」。 

 

 

ペンシルベニア州は、看板だった重工業が、20世紀終盤にかけて落ち込みを見せていた。ビリー・ジョエルは当初、自身でも言っているが、幼少期を過ごしたロンクアイランド近郊の小さな町・レヴィットタウンのことを書くつもりだった。後にベスレヘムという、アレンタウン近郊の小さな町(1980年代初頭、町が誇る製鉄・炭鉱業が次々と撤退し、その打撃はアレンタウンよりも深刻だった)に変更したものの、どちらも言葉・字面が歌いにくいと言うか、リズムにはまらないと言うか、そんなわけでアレンタウンに落ち着いた。強烈なリズムビートの効いた働く人の曲で、中産労働者階級を忘れまいと、かつて豊かだった町の様子を描いている。この、経済的な絶望状態への鎮魂歌において、実はアレンタウンという町自体は主役ではない。産業崩壊の時代にあえぐ多くのアメリカの各都市の状況を象徴的に描いたに過ぎない。「アレンタウンはアメリカ全体を体現している。だから、ジミータウンだろうが、ボビーバーグだろうが、なんとかタウンだろうが、何でもいいのだ。実在のアメリカの町として、日々の生計に困窮する、その象徴である。」 

 

 

 

この歌がリリースされ、ヒットした後、アレンタウンの市長は式典を開き、ビリー・ジョエルを名誉市民として表彰した。その象徴となるような鍵のレプリカをこの式典で授与された。こんなことまでする背景を、ビリー・ジョエルは理解していた。市民の一部には、町についたイメージや、そのイメージがジョエルの作った歌詞の中で、改めて認識されてアメリカ中に広まっていったその様が気に入らなかったものの、実際は後々にこの物寂しさ漂う歌によって潤ったことも事実である。アレンタウンの人々が町へ出て、自分の出身地を口にすれば、ポップス音楽を知っている人なら(要するに全員)「あぁ、アレンタウンか。ビリー・ジョエルが歌ってたよね」と声をかけくれる。アメリカでは、こういう「有名にしてしまう」という意味で「地図に載せる」という言い方をする。 

 

 

これを見ても、ポップス音楽がいかに世間で幅を利かせているか、言い換えれば、いかに力を持っているかがよく分かる。キース・ジャレットは、この、彼の生地から名誉市民として表彰されたか?ミュージシャンの中でも指折りの彼が、この町出身の彼が、アレンタウンを有名にしただろうか?仮に彼がピアノと大編成オーケストラのために、「アレンタウン」と銘打った組曲か何か書いたとしても、彼の故郷の評判を上げることなど、不可能だったはずだ。世間の注目を広く集めるには、ビリー・ジョエルのような人物が一肌脱いで、聴衆に向かってアピールしてくれないとどうしようもない。だが、フランク・シナトラライザ・ミネリ、あるいはトニー・ベネットといったところが、シカゴやニューヨーク、あるいはサンフランシスコならともかく、「わがアレンタウンよ」だの「想い出のアレンタウン」だのと言っても、誰も真面目に受け取ってはくれなかっただろう。 

 

アレンタウンが位置するのは、かつては五大湖周辺の豊かな工業地帯であったエリアの真ん中だ。ここはかつては世界最大の工業地域の一つだった。この「帯」はウィスコンシンからニュージャージーまで隅々に広がりを見せていたが、1970年以降、各種重工業が低賃金の途上国へ生産拠点を移し、更には安価な輸入品や貧しい国々からの労働者達が移民として流入してきたことにより、経済は打撃を受け、いまや「ラストベルト(錆びたベルト)」などと汚名を着せられている。ドイツで言えば、北西部のルール工業地帯のように、アメリカのこの「錆びた地帯」も、社会構造上難しい問題を抱え、状況の改善にも時間がかかり、そして現在に至るまで、依然として健全に機能するビジネスサービスが十分に出来上がっていない。 

 

デトロイト町を見ればアメリカを襲った経済危機がこの地域に与えた影響がわかるデトロイトかつては自動車産業が盛んで、1950年代には人口150万ほどの都市だった。それが30~40年の間に、人口は半分ほどになってしまったのだ。この街に残った人々の多くは、働き口の機会があまりにもなさすぎるアフリカ系アメリカ人だった。デトロイトには人が住まなくなった住宅や、朽ち果てた家屋、そして廃校となった校舎などが8万5千もあり、さながらゴーストタウンの様相であった。2013年7月、ついに、大都市としてはアメリカ史上初の財政破綻の宣言(連邦破産法9条適用申請)に至り、この地球上にある、他の夢も希望もないな土地と同じように、深刻な危機的状況にあると目された。そこから始まったデトロイトの一部の起業家達の努力の甲斐もあり、少なくとも状況は若干の好転を垣間見るに至っている。建設業者達によって中心街の多くの家々や高層ビル群が買い上げられ、取り壊しの上、新しい建物ができたり、従来のものを再建したりするなどした。徐々に街に活気をもたらし、撤退していた企業が戻ってきたり、新興企業が居を構えたりと、その大半が街の中心街へと集まってきた。市当局も改革に乗り出した。行財政の刷新、中低所得者層に対する不動産購入支援など、新しい時代の魁となる手を打ち出すようになる。 

 

 

 

キース・ジャレットアレンタウンの出身であるバークリー音楽大学での短い学生時代中退を過ごしたボストンと音楽キャリアをスタートさせた時期のニューヨークは別にして、彼はこのかつての工業地帯に自らの根を下ろしている。1972年以降、彼は隣接のニュージャージー州オックスフォードに住んでいる。彼が生まれた町からは目と鼻の先だ。ペンシルベニア州の頭部から隣接するニュージャージー州西部の間に位置するリーハイバレー全体とその中にあるアレンタウン市は、彼が生まれた当時の様子は、今とは大きく異なっていた。当時は製造業はもとより無煙炭、鉄鋼、原油採掘が大規模に展開し、安定した雇用と繁栄を維持し、若い世帯にも将来の希望を感じることのできる場所だった。キース・ジャレットは、アレンタウンをあまり好きになれなかったと想像される。自身がこの町で若い頃を過ごした時のこと、特に文化的側面について、彼はボロクソ言っている「音楽のことで言えば、アレンタウンはアメリカで最も救いようのない町の一つだ。心の糧のない、音楽もない、よってこの町で生きてゆく意味もない。退屈極まりない町だ」。 

 

 

 

妥協を許さぬアーティストらしい発言である。世界の音楽の中心地にその身を置くか、はたまた自分の世界に没頭できるような未開の地で自由に呼吸するか、どちらかでないと気がすまないのだ。だがアレンタウンは、当時「吹奏楽の町」としても有名だったのだ。ここはアメリカ初のコンサートバンド(本格的な編成の吹奏楽)の本拠地であり、その歴史の長さは、ドイツや他のヨーロッパ各国の多くのアマチュア吹奏楽団と比べても引けを取らない。このバンドと他の地元のアンサンブル集団は、ウェストパークにある市の野外音楽堂で、定期的にコンサートを開いていた。それに、市の開催で、DCIイースタンラシックスという、年に一度世界最高峰の実力を誇る新進気鋭のマーチングバンド(ドラムと金管楽器の楽団)とダンスグループの競技会が開かれる。例えばチャールズ・アイヴズは、こうした野外イベントでの皆に親しまれるバンドの演奏にインスピレーションを受け、彼ならではの管弦楽曲の力作を残している。1896年に建設されたマーケットホール(ショッピングセンター)は、3年後に改装され、あらゆる文化的行事が開催できるようになった。1959年になると、アレンタウン交響楽団という、ホールに先立ち1951年に設立されたオーケストラの本拠地となった。現在この建物はミラーシンフォニーホールといい、創立以来出演したアーティストは錚々たる面々である。20世紀初頭にはフランスの大女優サラ・ベルナール、その後はコメディのマルクス兄弟(代表作「I'll Say She Is」はここで上演され、後にブロードウェイのミュージカルショーで成功を収める)、ポピュラー音楽歌手のビング・クロスビー、ジャズミュージシャンの巨匠ベニー・グッドマンはツアーの際はアレンタウンをよく入れた。 

 

だが残念ながら、アレンタウンで幼少期を過ごした間も、そして一端のアーティストとなって自らの成長の過程を振り返ったときも、思い出すのが様々な困難に翻弄された家族のことだというキース・ジャレットにとっては、どれも大して興味を惹かなかった。キース・ジャレットの両親が出会ったのは第二次大戦前のこと。二人は1942年に結婚した。長い間、キース・ジャレットの父ダニエル・マーチン・ジャレット(1919~2004)の祖先は18世紀のスコットランドアイルランド人とフランス人移民であるとされてきた。だが、父方のルーツは主にドイツ系であるというのが、現在の処より可能性があると見られている。なにしろ、ペンシルベニア州と、特にリーハイ郡とアレンタウンとその周辺都市圏(the greater Allentown area)というのは、数で物を言わすドイツ系移民が地域性に影響力をを利かせていた。18世紀初頭のイザーク・ジャレットまで遡り、ジャレット家の父方のルーツを辿ると、ハースやウェッツェル、クナッペンベルガー、ステイブラー、シェーラーといったドイツ系の人名が沢山でてくる。こうした人名の多くをしっかりとその本国まで遡って見た結果、彼らは今日で言う所の、ドイツ南西部バーデン・ヴュルテンベルク州のスワビアなどの地域の出身であった。ひとたび新天地に落ち着き、ペンシルベニアに新たな居を構えた後も、こうした移民達は長きに亘りドイツ語を使い続けたのである。興味深い証拠資料がある。イザークの息子ジョン・ヨハネス・ジャレット(1759~1846:アンナ・マリア・スタインマンという女性と結婚している)が建てた家にある日付を記した石碑には、ジャレットのスペルがドイツ語風に「Tcherret」と刻まれている。母方の祖母のルーツを辿ると、オーストリア・ハンガリー帝国に行きつく。 

 

 

 

 

彼の祖母アンナ・テムリンスティリアシュタイアーマルク州)南東部ソゲルスドルフという小さな集落で生まれたこの地は、第二次大戦後新たな国境が引かれユーゴスラビア領となり、現在はスロヴェニア領となり地名もセゴヴチとなっている。1910年前後のこと、アンナはこのヨーロッパ激動の故郷を離れ、ペンシルベニア州ベスレヘムへ向かった。数年前にアメリカへ渡っていた2人の姉達と合流するためである。ベスレヘムで、アンナはヨーゼフ・クジマと出会う。彼はスロヴェニア人で、国の最北東端にあるプレクムリャという歴史のある地方の出身だった。この地は、歴代スロヴェニアオーストリアハンガリー、そしてクロアチアと4つの国々が国境を争った場所だ。アンナが20歳になった時、ヨーゼフ・クジマと結婚。二人はオハイオ州クリーヴランドへと移り、そこで2人の子供をもうけた。ルドルフという男の子は、5歳の時に車にはねられて死亡。そしてイルマという女の子は、後にキース・ジャレットの母となるのである。アンナが3人目の子供を身ごもっている間に、彼女の夫は彼女を残して失踪する。残された彼女はペンシルベニアへ戻り、そこで、男の子としては2人目のジョセフを出産した。それから4年後のこと、アンナは結核に倒れる。イルマと弟の2人は孤児院へ移された。 

 

若干30歳のアンナは、結核療養所からリーハイ郡ホームホスピスへと移された。これ以上は手の施しようがない、との判断からである。だがそこで彼女は、後に大きな意味を持つことになる出会いがあった。クリスチャン・サイエンスキリスト教系の新宗教)の信者との出会いである。アンナ・クジマとこの信者との言葉の交わし合いが、ある種奇跡の治癒を彼女にもたらしたことは、明らかであった。程なく彼女は快方に向かい、やがて完治してホスピスを退院してしまった。レントゲン検査でも、肺はすっかりきれいになっていた。退院後、彼女はアレンタウンに向かう。2人の子供達はそこで学校に通っていたのだ。ジョセフは卒業を目前にしたある日、凍った川面でスケートをしている最中に、氷の割れ目に落ちて、溺れてしまった。イルマの方は、卒業後就職して不動産仲介人のロスコー・Q・ジャレットの秘書となり、後にロスコーの息子と結婚することになる。前後するが、アンナ・クジマは結核から完治の後、娘のイルマとともにクリスチャン・サイエンスに入信したことをつけ加えておく。 

 

 

 

母方の民族学的ルーツに関しては、イアン・カーの手によるジャレットの伝記に記載してあることが、ちょっとした混乱を広めてしまっている。同書によれば、アンナ・クジマは幾つもの言語を話したとされている。その中には、ハンガリー語、ドイツ語、英語、そして「ウィンディッシュ」という、ハンガリー系ジプシーの方言の一つとされる言葉が含まれている。イルマが自分をハンガリー系ジプシーの子孫だと誤って思い込む羽目になったのは明らかである。ウィンディッシュはジプシーの方言の一つでもなければ、クジマという名字もマジャール人ハンガリー人)であることを世間に示すものでもない。旧オーストリア・ハンガリー帝国内という多民族・多言語地域では、ウィンディッシュというのは、スロヴェニアの人々にとっては時々自分達を侮辱するような言い方なのだ。クジマという名前は、概ね全てのスラブ系言語に見受けられる。ウクライナ語、スロヴァキア語、ロシア語、セルビア語、それからクロアチア語にも、である。だが、特によく見受けられるのが、アンナ・テムリンとヨーゼフ・クジマの出身地スロヴェニアの最北東端地域である。プレクムリャ地区にはクジマという村があるくらいだ。キース・ジャレットの家族のうちスロヴェニア出身の家系は、今でのその一族がプレクムリャやスティリアに居て、ハンガリー系やローマ系関連のルーツは存在しない。明らかに当時の移民達によく見られた傾向であり、特に彼らが新しく住むことにしたアメリカにおいて自分達のアイデンティティを確立しようとする時に、自分達が中央ヨーロッパの南東部出身であると堂々という者は。数の上では少なかった。後のインタビューでも、また自身がマシな判断をしているにも関わらず、キース・ジャレットは自分がハンガリー系ジプシーのルーツを持っているという神話を確たるものにしようとしているのだ。おそらくその目的は、自分の音楽の好みがベラ・バルトークであることは遺伝的なものだということを明らかにしたいからだろう。 

 

キース・ジャレット両親は大金持ちとはいかなかったが、夫の父親が不動産仲介人をしていたことでまとまった収入を確保していた。祖母のうちアンナ・クジマが同居して子供達の面倒を見ていた。息子が5人いた。長男のキースが1945年生まれ。そして末のクリスがその11年後に生まれている。父方にも母方にも、音楽をする者がいたが、プロ級という程ではなかった。キースの母と父は、考え方に置いては比較的保守的な父に比べて、母はリベラル、芸術に関しては、母のほうが明らかに洗練されたセンスを持っていた。キースの母はアレンタウンのハリソン=モートン中学校在学中に、トランペット、トロンボーン、そしてドラムスをやっていた。また、美声の持ち主であったと推測される。キースの高い知性、「電光石火」の思考力、卓越した音楽性、完璧な音程感、耳コピーの能力、更には流れに乗った(時に元の素材よりマシな)インプロヴァイゼーションといったものは、明らかに、特に彼の母にとっては、若干3歳からピアノを習った賜物であった。この昔ながらのお稽古事が、大きく実を結んだ。キースが5歳の時、フィラデルフィアで、当時バンドリーダーを引退したポール・ホワイトマンがパーソナリティーを務めるテレビ番組「TV Teens Club」に出演して腕を披露し、賞を獲得したのだ。 

 

 

 

 

彼が初めてソロのリサイタルを人前で開いたのは7歳の時だ。アレンタウンの婦人会の集まりで、1953年4月12日午後3時。演奏曲目はバロックからロマン派までのピアノ曲を並べたものだった。それは正に、ヨーロッパのクラシック音楽200年分の音楽絵巻、といった風情だった。バッハとその次男、モーツアルトベートーヴェンシューマンメンデルスゾーングリーグブラームス、サン・サーンス、モシュコフスキー、そしてムソルグスキーといった作曲家の作品とともに、子どもじみたものではあったが堂々たる自作の演奏会用の曲を2・3曲も披露したのだった。