about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)1章(pp.13-17)

このプログラムにはジャズはまだあがっていない。このピアノの「神童」が将来どうなってゆくか、そのカギは過去の音楽、すなわちクラシック音楽にあった。もっと言えば、世間をあっと言わせたのが、1988年のこと。この名ジャズピアニストにして、フリーソロインプロヴァイズの先駆者は、固定概念を物ともせず、世にその演奏を問うたのが、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻の全曲録音である。このピアニストのジャズにおけるキャリアがあまりに輝かしかったおかげで、彼の原点がクラシック音楽にあったことが、すっかり日陰になってしまっていたのだ。彼がジャズとともにクラシックも意識していたこと、バッハから現代に至る数々の作曲家の存在にも自らの音楽がブレなかったこと、これらは音楽評論の世界ではかなりの広範囲で想定外のことであった。 

 

婦人会での演奏の翌年以降、彼は様々な機会に人前でピアノを披露している。演奏会を開いたのが、市内の私立学校でライト・スクール。当時彼が通っていた学校で2年飛び級をしていた。そのうちの1回は、3歳半年下の弟でバイオリンをやっていたエリックの伴奏をして、バイオリン協奏曲の形で本番を開いた。その後はピンでピアノの独演会を次々と開催し、ライオンズクラブ主催によるアトランタの講堂での演奏、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン、その他様々なイベントで、その凄腕で観客を沸かせた。 

 

 

キース・ジャレットの両親は、かなり早い段階から、彼の才能を見抜き支援をしてきたことはハッキリしている。だが同時に、ひたすら自制に努めたのが、才能ある子供に対し、親がよくやらかす過ちというやつだ。アーティストの中には輝かしいキャリアの影で、人として悲惨な目に遭ってきた者達がいて、その回顧録を幾つか読んでみれば、その「親がよくやらかす過ち」がすぐわかる。レニングラード音楽院のサマリィ・サヴシンスキー教授(当時)が、後の名ピアニストで当時3歳だった弟子のラザール・ベルマンについての、1934年の評価記録を読むと、まるでキース・ジャレットの先生がキースのことを書いたような内容であることがわかる。「この少年は音程感は完璧、譜読みも完璧、鍵盤を叩く指さばきも流麗、様々な曲に取り組んではこれをよく知り難なくこなす、しかも時には目一杯心を込めて弾きこなす。本報告書では、バッハのメヌエットのうちの一つについて触れてみたい。」 3週間後、レニングラード市のコンクールが国立音楽院で開催された。ベルマンもこれに参加した。審査員の一人、アンナ・ヴラーソヴァの記録には、次のようにある。審査委員会は、彼に最大限可能な補助を与えるべきで、今後彼が力をつけてゆくに当たり、専門家をつきっきりにすべく、彼の周辺の教育環境を整備すべきである」。国家の補助と両親の「野望」が結託したこの取組の結果、ベルマンは2005年に亡くなるまで、生涯世界中で最高の演奏の場を経験することになったはずである。ところが肝心のピアノ弾き本人回顧録を読めば、この報告書に真っ向から「対旋律(カウンターアタック)が異議を歌い上げ」、彼が払った代償がよく読み取れる。「私の人生に幸せはカケラもなかった。誰にも構ってもらえてない気分だった。奴らにとって私は動作実験をしたかった機械に過ぎなかった。本当に、陳列棚に飾られた子供だったのだ。」 

 

キースは母親には恵まれていた。例えばの話、キースの2番目のピアノの先生は、デボド教授とかなんとかいう人物だった。この先生がキースに指示していたのが、他の子供達は付き合うな、優れた才能に傷がつく、というものだった。彼女はそれに気付くと、即刻この先生とのレッスンを全てキャンセルした。物理的な人生の成功よりも、モラルや倫理観に重きを置くという発想に導いた、クリスチャン・サイエンスの信者としての見解からきた判断だろう。だがこんなシンプルな事例を見てもわかるように、息子達、それもずば抜けた才能を持つキースも、ごく普通の子供時代を送ることが、この両親にとって非常に重要だったのだ。「ごく普通の子供時代を」の中には、父親の影響で、あらゆるスポーツにたいする興味、というのも含まれていた。キースの場合は、バスケットボール、卓球、アメフト、チェスからレスリングもやった。当時の彼は気付くはずもなかったであろうが、やがて彼がミュージシャンとしてのキャリアを歩む中で、子供の頃に鍛えられた体の強さは、大いに彼に味方した。 

 

キース・ジャレットには4人の弟達がいた。名前は、エリック、スコット、グラント、そしてクリスである。。いずれもミュージシャンとして活躍している。だが、下から一番上の弟を除く3人にとっては、キースのずば抜けた才能は、励みでもあり、脅威でもあったに違いない。8歳年下のグラントは、東海岸を中心にクラブやホテルのバーなどで本番をこなし、そこそこ上手くいっていた。だがその後の作家としてのキャリアの中で、彼は(例えば2002年出版の More Towels という自伝的な本の前書きと後書きにも見られるような)キースが音楽面で全然助けてくれなかった、と歯に衣を着せずに不平を綴った。3歳半年下のエリックは優れたバイオリニストであり、兄同様、神童と言ってもよかろう。スコットは兄弟達のいわば中堅どころ。1952生まれで、ギター奏者、歌手、そしてポップス音楽の作曲家でもある。キースは彼のレコーディングに数回参加しており、二人の関係が良好であることはよく知られている。一番下のクリスは1956年生まれ。兄キースの背中に最もよく食いついてきており、長年の道を経て、現在では作曲家、ピアノ奏者として、とくドイツで目覚ましい音楽活動を繰り広げている。かの地において、彼はオルデンブルク大学で研究活動を続け(これに先立ち、クリーヴランド近郊のオーバーリン音楽院を学費納付不能となったため退学している)研鑽を積み、そこで程なく後進の指導に招かれ、数年間その職責を全うした。現在はフランスとの国境近く、ドイツ南西部のパラティネート(プファルツ)に居を構えている。 

 

 

 

キースの弟達に対してキースのずば抜けた才能よりもはるかに大きな影響を及ぼしたのは、1956年頃から始まった両親の別離であったと考えられている。この間、年端のゆかぬ子供達(上は11,12歳、下はまだ乳飲み子)を抱える母親にとって、かつての安住の家庭は悪夢と化した。イアン・カーが記したイルマ・ジャレットの証言として、当時の精神的・経済的崩壊が彼女にとっていかばかりであったか、見てみよう「あの頃から困難な戦いの日々が始まった。傍らには5人の子供達。私は苦境に立たされた。死んでしまおうと考え、この子達の顔をじっと見つめた。そして思い直す。家にあるものは片っ端から売ってでも色々な支払いを済ませなきゃ。もうグチャグチャだった。とにかくこの子達を支えてゆく、そのことだけに奔走する日々が長く続いた。食べるものに事欠くこともあった。家賃がままならないこともあった。この子達を支えてゆくために、仕事のかけもちを2つも3つもぶっ通しでこなし続けた。そのことに後悔はない。」 

 

更に悪いことには円満な別れ方とはいかなかったのであるダニエル・ジャレット金銭面では手を差し伸べたがイルマとは一切口を利かず子供達とも10年間以上接触を絶ってしまったキースが大人になってからずっと後に、ダニエル・ジャレットと息子達とのコミュニケーションが再開した。初めに長男のキースが、そして後に弟達、という順番だった。彼ら5人の子供達の人間形成期に起きた両親の別離が、どれほど破滅的な影を落としたか、想像に難くない。もっとも暗い影が落ちたのが8歳のエリックだ。彼は両親の離婚後、自分が歩む方向性を見失ってしまい、習っていたバイオリンをパタッと止めてしまった。一方、キースは、自らを高めてゆかねばならない人生の時期にあって、自らが求める音楽の道という殻の中に入り込み、不仲になってしまった家族の雰囲気から身を守る術を知ることとなる。だがもう一つの側面として、本人は意識していたかどうかはともかくとして、彼の音楽の志向がこの時期に変化している。彼の音楽のバックグラウンドから、クラシック音楽は影をひそめた。15歳の時、ピアノのレッスンを完全にやめてしまったのである。その後、彼がどんどん傾倒していったのが、父の音楽の嗜好であった。それは質の高いエンターテイメント音楽、それから、ジャズである。 

 

 

<16頁写真脚注> 

キースと3歳年下の弟エリック(1954年撮影)。二人の天才少年は、時々公の場で演奏を披露していた(写真提供:クリス・ジャレット)。 

 

 

だがこの不安定な環境にあったことにより、彼が音楽に集中したとしても、家の中で落ち着いていられるわけではなかった。家族は住まいを転々とせねばならず、家の中は狭苦しくて窮屈だった。例えば、5人の子供達のうち2人が同時に練習するとか、キースが集中しようとしている間、他の連中が関係ないことで騒がしくしているとか、といった具合。飼っていた犬がピアノの周りをウロチョロしていたせいもあり、家族全員、お互いにウルさくならないよう最大限努力しても、十分とは行かなかった。ジャレット家はさながら、火薬を詰めた樽のように見えることもあった。ほんの少しのキッカケで、導火線に火がついて大爆発を起こすような状態だった。後年、キース・ジャレットがピアノのソロコンサートで、会場内の雑音にやたらとピリピリしていたのは、この頃の経験が原因でないだろうか?、ということは、わざわざ心理学的に難しく分析しなくても、皆がそう言いたくなってしまうことだろう。 

 

この頃から、キース・ジャレット他の若手ミュージシャン達と演奏活動を始める。アレンタウン及びその近郊で、バーやクラブに出演の機会を持った。だが、ジャレット自身が言う「退屈極まりない街」だけに、ある程度キチンとした演奏の機会が十分あるとは言えなかった。かろうじて、マット・ガレスピーという人物が率いる、そこそこのビッグバンドがあり、ジャレットはそこに参加し、学校のパーティーや地域のお祝い事といった場で、演奏経験を積んでいった。程なく、彼は人生初の、ジャズ史の巨人の一人と出会う機会を得ることになる。デイヴ・ブルーベックである。キースは以前彼のコンサートを見に行ったことがあった。キースはブルーベックが様々な音楽をピアノにアレンジする手法を、徹底的に勉強した。その結果、音楽的なコンセプトをしっかりと凝縮できれば、派手な超絶技を弾きまくらなくても、聴き手が納得するものは作れる、という結論を出したのだ。同時に、これがジャレットにとって、良い音楽の目安として刻み込まれたと考えられる。 

 

他にも、彼をジャズミュージシャンの道へ、更にまっしぐらに走らせるキッカケがあった。ミシガン州立大学での、スタン・ケントンによるサマーキャンプ(夏の音楽講習会)である。彼はこの講習会を雑誌「ダウン・ビート」(世界中のジャズマニア必携の本)で知り、1週間の参加を決めた。この講習会では、若手ミュージシャン達が少人数のアンサンブルを組んで、スタン・ケントンバンドのメンバー達や、ノーステキサス大学の教授陣の指導を受けたり、ノーステキサス大学のビッグバンドが試奏するための作品を、受講生が実際に書いてみたりした。キース・ジャレットはノーステキサス大学のビッグバンドのために、「カーボン・デボジット(エントツ内の燃えカス)」という曲を、ピアノ譜を書いてバンド譜にアレンジした。これが成功を収め、ミネソタ州から来ていたあるバンドのリーダーが、自分の楽団で演奏したいからと言って、譜面の購入を申し出たのだった(売買取引自体は成立しなかった)。ジャレットはこの作品を出版することはなかった。その講習会のすぐあと、彼はインディアナ州でのジャズクリニック(勉強会)を訪れた。そこでスタン・ケントンバンドのメンバーの一部と再会する。メンバー達にとってキースの印象が相当強かったのだろう、彼はその場でコンサートでの演奏参加を招待され、アトランティックシティ(ニュージャージー州)とポッツビル(ペンシルベニア州)での2公演をこなしたのだった。16やそこらのミュージシャンには考えられない名誉である。キース・ジャレットがこれ程の短期間に達成した、高度な音楽性を世に披露する、衝撃的な出来事だった。