Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)1章(pp.18-22)

<18頁写真脚注> 

スタン・ケントンクリニックにて(1961年、キース・ジャレット16歳)。気鋭の若手ミュージシャンが集まるワークショップ(原画提供:ジェイミー・エバーソルド) 

 

キース・ジャレットは16歳でエマウス・ハイスクールの卒業資格を取得(飛び級)し、ボストンのバークリー音楽大学への入学が許可された。だが彼は入学を数カ月間保留してアレンタウンに残り、その間、企業での事務仕事をしながら、ジャズミュージシャンとしての経験を積むべく、小さなクラブをいくつか演奏して回った。この間、彼は名門宿泊施設の、ザ・ディアヘッド・インから出演依頼を受けた。アレンタウン郊外数マイルのポコノ山地にあり、ここの専属トリオのピアノ奏者が病気になったとして、数週間、代打で出演することになった。人生初の、ピアノ奏者としての本格的な仕事だった。その後、彼はこのクラブに繰り返し出演し、時にはギターを弾くことさえあった。代打で出演したこの時の本番を、テナーサックス奏者のスタン・ゲッツがたまたま客席で見ていたのだ。後にキース・ジャレットは、微笑ましくも当てこすりつつ、彼がギター奏者としてやってみろと言った張本人だと語ったのである。ザ・ディアヘッド・インで最初の演奏活動をはたした、丁度30年後の1992年9月16日、そしてこの頃までには同世代ではピカイチのピアノ奏者として認められたジャレットは、かの地で再びトリオのコンサートを披露した。この時はベースがゲイリー・ピーコック、ドラムスがポール・モチアンであった。このコンサートで、彼はこの伝統あるクラブとそのオーナーに、「良い音楽」であるとして敬意を表したのである。 

 

1962年に話を戻そう。地元のジャズ関係者であるフレッド・ウェアリングがキースの演奏を耳にして、ザ・ディアヘッド・インでの契約が終了すると同時に、彼のディキシーランドバンドへの入団をオファーした。後にウェアリングは、自身の率いる「ペンシルベニアンズ」というバンドのツアーに奏者として参加するよう声をかけている。すぐ引き続いて、ジャレットは自分が代打を勤めたピアノ奏者のジョニー・コーツと共演した。キースは難なく役割をチェンジし、ピアノではなくドラムを叩いてみせた。 

 

 

この本番のすぐ後、1962年の春、ジャレットは正式なレコード制作のオファーを受ける。デッカ・レコード社がビッグバンドリーダーのドン・ジャコビーと提携し、毎年一枚レコードを制作するというもの。様々な音楽学校・音楽大学から毎年異なる学生を交代で選んで「カレッジ・オールスター・バンド」を編成するのである。フレッド・ウェアリングの仲介で、ドン・ジャコビーからキース・ジャレットに招集がかかった時、キースは自身を「学生」と称したが、実際はまだ入学手続きを済ませていなかった。同年リリースされたLPには、彼は最年少にしてバークリー音楽大学からただ一人選抜されたオーケストラのメンバーとして記載されている。このアルバムのライナーノートを執筆した、当時「ダウン・ビート」の編集者であったチャールズ・スーバーは、ジャレットの多芸な演奏を「興味深く独特な」と描いている(真意は色々考えられるが)。これに続けて、彼は更に謎めいたことを書いている。それは、彼がバークリー音楽大学での学生生活を始めていないけれど、入試は突破した、というのが本当なら、その場合にのみ意味を成す一文である。「彼はバークリー音楽大学の実技試験に際しては、母親が伴奏を弾き(ジャコビーではなく)、ブラームスの協奏曲、ガーシュウィンの作品、そして数曲自作のジャズの曲を素晴らしく弾ききった。」 

 

 

このアンサンブルのメンバー18名を見てみれば、キース・ジャレットとドン・ジャコビー(ベニー・グッドマンやレス・ブラウンと共演し教育者としても素晴らしい)以外は誰も、後にジャズの殿堂に入ってきそうな面々はいない。キース・ジャレットは、これ以前にレコーディングスタジオなる所に足を踏み入れたことがない。また当日演奏をともにするメンバーとは誰一人とも面識がない。彼が感じたことは、カウント・ベイシーのコード数個を除いては、ピアノの譜面は基本的に何も中身がないということ。ジャレットはバラード演奏に際しても装飾音形を入れていいとされたが、それでも音楽自体はバンドリーダー自身のやり方に制限されている。収録曲はビーバップの作品の典型的なアレンジで構成されている。チャーリー・パーカーの「ラヴァー・マン」、ディジー・ガレスピーの難解にしてテンポの速い「グルーヴィン・ハイ」、ミディアムテンポのスウィング曲が数曲あって、そして「アネマ・エ・コーレ(魂と心)」のようにホロっとさせるような曲をジャズ風にアレンジしたものが数曲。だがバンドリーダー自身が関わるトランペットのコーラス(メロディを担当する曲の部分)がいくつかあるのを除いては、演奏者がインプロヴァイゼーションをする余地は殆どない。 

 

キース・ジャレットが取った行動は、こういう楽曲を扱う楽団においてピアニストがとるべき賢明なものだった。一歩引いて、あまり弾きすぎず、ブラスセクションのコーラスの合間に時宜を得てコードを鳴らし、後方でお行儀よくしていること。装飾音形を入れてもいいよ、とされたバラードにしても、対旋律や装飾音形を、入れるにしてもチョコチョコ。ところが、バラードのうちの「Young Man With The Blues」と「Just For A Thrill」だけは、そのイントロの部分で、後に彼が一流のプロとなってふんだんに魅せる素晴らしいスタイルの片鱗が、すでに聞いて取れるのである。彼は、ホーンセクションが必ず鳴らすコードをメロディックなフレーズにして、そっくりそのまま、それも極めて繊細なタッチで演奏する。一つひとつの音はもたれ気味だが、アーティキュレーション(スラーやスタッカート等の付け方)は誰が聞いても明確に。そしてホーンセクションが何かしら特徴的なモチーフを演奏する場合、彼もその吹き方を共有し、右へ倣えで従う。「何がすごいの?」と思うかも知れないが、経験豊富なミュージシャンが聴けば、もう耳はピクピクしっぱなし、そのピアノ弾きの名前をチェックし、1,2年以内に自分のバンドにピアノ弾きが必要になったら、即獲得に乗り出すのである。 

 

フレッド・ウェアリングはミュージシャンであるだけでなく、テレビプロデューサーや出版者、そして興行主としても活躍していた。彼を通して、そして彼に同行するツアーを通して、ジャレットはビル・エヴァンス・トリオと面識を持つようになる。当時ここには、ベースのゲイリー・ピーコック、そしてドラムのポール・モチアンという、後にジャレットのバンドで一緒になる二人がいた(ポール・モチアンは最初のバンドで、ゲイリー・ピーコックは2つ目のバンドで)。彼は生まれてはじめてビル・エヴァンスの演奏を生で聞いた。ビル・エヴァンスというピアノ奏者は、当時独自のスタイルを持ち、他のピアノ奏者にとってはお手本であった。彼はマイルス・デイヴィスの革新的なレコーティング「カインド・オブ・ブルー」に奏者として参加したのだ。フレッド・ウェアリングは音楽に関して先見の明のある人だった。彼はキースに、パリへ乗り込みナディア・ブーランジェに師事するよう勧めた。彼女は世界中を股にかけるアーティストであり、彼女の薫陶を受けた欧米の作曲家は数知れず。その中には、アーロン・コープランドレナード・バーンスタイン、クィンシー・ジョーンズ、それからフィリップ・グラスもいた。パリ、そして時折アメリカで教育活動を展開するという、ブーランジェの国境をこえて取り組む姿勢と、ピアノやオルガンを演奏し、教育者として、或いは音楽理論の専門家として、その求めるものの高さは、キース・ジャレットにとっては、またとない刺激となるはずであった。だが当の本人は、このような大きな一歩を踏み出すにあたっては、依然として躊躇するのであった。 

 

仮に実際に師事して結果が出たとしても、その因果関係については誰もわからない、というのである。自由であることを好むキース・ジャレットは、他の天才的とされるアーティスト達と同様、音楽を「教え・教わる」ことに懐疑的だった。それはこの仕事を始めた時からである。なので、系統だった教育を受けるということに、あまり関心が持てなかった。音大卒よりマシな芸をするアーティストは、この世にゴマンといる。 

「マシな」人材がいた音大も、中身はただの保管庫。新進気鋭の開拓者のための授業など、あるはずもない。ナディア・ブーランジェに教わってもうまく行かなかった、という実例は存在する。キースが参加したスタン・ケントンのサマーキャンプで受けたマスタークラス(上級者向けの講習)のおかげで、奨学金への道が開かれ、キース・ジャレットは1963年にこれを受給、バークリー音楽大学への進学を果たした。 

 

 

 

 

バークリー音楽大学当時は「音楽院」)は、当時から世界中のジャズミュージシャンにとっての名門校であるニューヨークのジュリアード音楽院双璧をなすとされ、こちらはマイルス・デイヴィスが在籍するも、音楽性の不一致から「学ぶこと無し」と退学したことも有名だ。キース・ジャレットにとっては、これがある意味判断材料となったのか、バークリー音楽大学の学生として悶々とした日々を一年過ごした後、大学側の働きかけもあり、彼は退学するに至った。 

 

 

 

授業の一部(特に対位法)は、そこそこよかったのだが、他の授業については、デイヴ・ブルーベックUCLAアルノルト・シェーンベルクから十二音技法を短期間教わった時の違和感と、同じような経験を味わった。シェーンベルクは折に触れて、ブルーベックの書く譜面について、いちいち一つひとつの音について、作品中で使う理由を訊ねたという。ブルーベックにしてみれば「いい音がすると思うから」と答えるわけだ。するとシェーンベルクは、説明不十分だと一刀両断する。音の配置の取捨選択については、常に自分のしたことを覚えていて、その理由を説明できなければならない、という。それがブルーベックが最後に教わったことだった。キース・ジャレットも同じような目に遭った。ロバート・シェアの授業だ。シェアはよくジャレットの提出する譜面に赤ペンを入れては、与えられた調を転調することは出来ないと説明した。学内コンサートですでにうまくいっているものについても、である。 

 

 

 

ジャレット自身今でも自分がバークリー音楽大学から追われた理由については、大学側が恐れていたことがあるから、と思っている。それはキースが、ボストンで組んでいたトリオの、他の二人と共謀して反バークリーのキャンペーンに打って出るのではないか、というものだった。この二人はバークリーをドロップアウトしていた。だがキースの堪忍袋の緒が切れたキッカケは、学内で開いたジャムセッションでのことだった。この時、ジャレットはピアノの蓋を開けて手を突っ込み、弦を指で弾いて音を出していた。それを見た大学の事務職員が「出ていけ!」と叫び、彼を会場から追い出してしまったのだ。キースは「どーもっ、お世話になりやしたぁ」と切り返し、その場を立ち去った。この話の後日談として、ジャレットが後にドヤ顔で語ったことがある。ある年のニューポート・ジャズ・フェスティバルで、ジャレットがゲイリー・バートンと共演した時のことだった。本番終了後、あの時の事務職員がやってきて、当時の一件について平謝りに謝罪したという。ジャレットはこう返したとのこと「何をおっしゃいますか、あの退学沙汰が土台になって、今まで皆さんのご贔屓になっているんですから!」2014年1月のジャズマスターズの受賞記念スピーチの中でも、あの時の「落ちこぼれトリオ」への誇りがうかがい取れる。 

 

だが、「誇り」は1964年当時は通っていた学校に後ろ足で砂をかけた者にとっては、助けにもならないし、腹も満たせない。キース・ジャレットは退学後数カ月間、ボストンに残らねばならず、この間、例の落ちこぼれトリオは、本番の機会をうまいこと得られなかった。キースに言わせると「全米1の保守的な街」で生き延びるために、彼はやむなく、おそらく人生初にして最後の、音楽での妥協をし、カクテルバーで演奏したり、BGMの仕事を引き受けたりした。この決してバラ色の日々とは言い難い時期に、彼は高校時代の友人で、1歳年下のマーゴット・アン・アーニーと再会する。彼女はボストンのニューイングランド美術学校に通い始めたところだった。二人は再び友達付き合いを始め、やがて同じ年に結婚する。キース・ジャレットは、二人の関係発展について、不安な気持ちと故郷を遠く離れた郷愁が導いたもの、としている。さて、キース・ジャレットたちについては、事情通の間では、それほど広範囲ではないにせよ徐々に顔と名前が売れてきたとはいえ、懐具合は大して良くなってはいなかった。彼は何とかしてボストンの「檜舞台」で彼のトリオの名を上げようと、何度も何度も頑張ったが、いかんせん、中途退学という学歴と彼自身の音楽芸術に対する妥協のない価値観のおかげで、その機会は非常に限られてしまっていた。何度も何度も頑張った結果、この若夫婦は一念発起し、ツテもコネもないことを覚悟の上で、ボストンを離れた。ジャズが日々溢れる街、ニューヨークを目指して。