about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)2章(pp.23-26)

2.ジャズへと向かう3つのステップ: 

アート・ブレイキー、チャールズ・ロイド、マイルス・デイヴィス 

 

ミュージシャン達がニューヨークに望むもの、それは夢の実現。ミュージシャン達をニューヨークで待ち受けるもの、それはこんな現実「ジャズミュージシャン達と経験したことが一つある。それは、彼らがいつも失業状態にあったことだ」しとやかな言い方だが、ニューヨークという「群像風景」の中で、ひときわその名を輝かせた、ジャズミュージシャン達の女神にして、セロニアス・モンクの愛人、そしてチャーリー・パーカーの死に水を取ったとされる、ニカ・ケーニヒスワーター(通称「バロネス(男爵未亡人))の言葉である。ロックミュージックが席巻し始めてからというもの、特に1964年のビートルズによる「全米攻略」以降、ジャズは脇役へ後退したというか、陳列棚の端へ追いやられた。それまではジャズを聞くお客さんは沢山いて、デイヴ・ブルーベックジェリー・マリガン、或いはチェット・ベイカーといったアーティスト達の新曲リリースを心待ちにしていたのに、だんだん姿を消し始めるにつれ、ジャズは今や、社会的に孤立無縁な者の常である、一人悶々と物申す状況に追い込まれた。 

 

これより、ジャズのクラブは次々と店を閉め始め、代わってディスコが次々と姿を見せ始める。大物アーティスト達は、アート・ファーマージョニー・グリフィンのように、活動の場を求めて海の向こうのヨーロッパへ向かう者もいれば、身の置き場を求めてブロードウェイのオケピットへ向かう者もいた。この頃、各音楽雑誌は、「在りし日のジャズ」などと、性急にも死亡記事がごとき掲載を始めた。ことが進展したきっかけの一つは、1960年頃ニューヨークで開催された「ジャズの10月革命」に触発を受けたオーネット・コールマンドン・チェリーそしてセシル・テイラーといった、フリージャズによってジャズ界にくさびを打ち込んだ者達だ。そんな最中の1964年の年の瀬、若干19歳のピアノ奏者キース・ジャレットと、その幼妻・マーゴットは、ジャズの世界で活躍する場を求めて、この夢の残骸が散乱する街へとやってきたのだ。 

 

こういう状況では、「払って頂ける額で十分です」というミュージシャンが求められるものだ。だがキース・ジャレットは違う。ジャズの真髄を奏でるべく、インプロヴァイズ、或いは作曲も、いずれにせよ、自分と愛妻が食っていくためだとしても、「エンタメ」は永久放棄したのだ。彼の選択は「愛の巣」にこもること。暇を持て余し、ドラムの練習をし、その間、デザインを学んだマーゴットの電話交換手のバイト代を当てにして、彼曰く・臨時休業中の芸術家様は、空腹を抱えていた。彼とて、やむなしの「暇を持て余し」状態である。状況が以前と比べて複雑なのだ。かつての「無限の可能性を秘めた国」が連想させる状況は、もはや「神話」であった。ニューヨークには音楽家の組合があり、ここへの加入が求められた。クラブでギャラをもらって演奏したければ、加入後最低4ヶ月間待たねばならない。だがそれ以外の方法では、このニューヨークという、大切なものを奪い去る街で、アレンタウン出身のキース・ジャレットなんて誰も知らないというのに、「ジャズの歴史を書き換えてやる」と意気込んで、そこそこの演奏機会をモノにするなど、無理な話というやつだ。 

 

自分達の下宿を「愛の巣」とは、清らかなものの言い方だ。まだ若いこの夫婦が、スパニッシュ・ハーレムに居た時にせよ、ロウアー・マンハッタンに居た時にせよ、脳天気な親戚連中が田舎から「愛の巣」に押しかけてきて、そのおもてなしをする必要がなかったことは、幸いだった。特にキースはヴィレッジヴァンガードやザ・ドムといったジャズクラブでのジャムセッションで、店のミュージシャン達からお声がかかるのを、辛い思いをしながら毎晩待っていたのだ。ザ・ドムだけでも、彼はクラリネット奏者のトニー・スコットや盲目のマルチサックス奏者であるラサーン・ローランド・カークと言った面々と出番待ちに甘んじていた。数カ月間、待ちの試練にさらされたところで、たまたまバークリー音楽大学の卒業生の一人がヴィレッジヴァンガードに出演する際、ピアノ奏者がいないということで、キースに出演のお声が、ようやくかかった。 

 

これぞまさに、シュテファン・ツヴァイクが著書「Sternstunden der Menschheit」(歴史が決まった瞬間)でいうところの、思わぬ星のめぐり合わせが、重要な転機へと導く、というやつだ。もっともこの場合は、人類全体に関わる話ではないが。ヴィレッジヴァンガードは、まだ駆け出しのミュージシャンの登竜門として評判をとっており、有名ミュージシャンも好んで足を運んでは、面白そうな輩を探しに来ていた。1965年のある秋の夕暮れ時、やってきたのが、あのアート・ブレイキーだったのだ。彼はキース・ジャレットのピアノをわずか10分耳にしただけで、新しく結成するジャズメッセンジャーズへ彼を招待した。同じような誘われ方をしたのが他にも居て、トランペットのチャック・マンジョーネ、テナーサックスのフランク・ミッチェル、そしてベースのレジー・ジョンソンだった。迎えるアート・ブレイキーはドラム奏者でバンドリーダー、年齢は「アラフィフ」、先程の3人の倍くらいの年齢だ。 

 

キースがゲスト奏者としてアート・ブレイキーのバンドに厄介になっていたのはわずか4ヶ月間だった。しかしこの間、ブレイキーのような大名人とされるジャズミュージシャンも、地方巡業で稼ぐとなると、こうなる、という空気感を知るには十分であった。彼らミュージシャンにツアーマネージャーを加えた全員で、だだっ広い国内を、一台の車の中に楽器や機材とともに詰め込まれ、巡業で回る。彼らはいつもヘトヘトだった。何しろ、交代で車を運転し、終わっても豪華なスイートルームが待っているわけではないのだ。それでも、ブレイキーと関わりを持ったことは、キース・ジャレットにとって願ったり叶ったりであった。お客さんを前にしてインプロヴァイズを聞いてもらえる機会があって、かなり才能に恵まれたミュージシャンであることを実証し(ドサ回りの車の、硬くて座り心地の悪い椅子なら、3歳の頃からピアノ椅子で慣れ親しんでいる)、しかもそれを、ジャズの世界で高い評価と強力な発信力を持つバンドを通して、世間にお披露目出来たのである。 

 

ジャズ・メッセンジャーズが結成されたのは1954年。ピアノ奏者のホレイス・シルヴァーがその中心メンバーだった。ハードバップという、当時新しく生まれた骨太のスタイルを持つジャズの、教科書的な存在だ。発生はアメリ東海岸で、当時ハリウッドの音楽スタジオなどで盛んに演奏された「クール・ジャズ」という、アイロンがけしたようにスムーズな音楽に対抗するものと目されている。明らかに1940年代のビ・バップへの揺り戻しだが、異なる点もある。よりシンプルな仕組みのハーモニー。そして素材も、アフリカ系アメリカ人の歌、例えばブルースやゴスペル、あるいは「仕事歌」などから採られている。ビ・バップは後期になるとあまりに小難しくて、エリート意識丸出しで、複雑怪奇だと時に批判されるようになったが、ハードバップはそのような批判は無縁で、生き生きとして、ストレートで、聞いていてうっとりさせてくれる、とされた。音楽雑誌「ダウン・ビート」によれば、アート・ブレイキーはドラムに「自然体で向きあい」、こだわりのない心持ちで、アンサンブルするメンバーにとって文字通り「原動力」だった。各コーラスの締めに添える華麗な「プレスロール」(スネアドラムの技法)、耳に残る独特なハイハットは、常に聴く人の心を掴み、ワクワクさせた。そんな彼の音楽や率いたバンドにとって最も大切な刺激をもたらしたのが、彼より1歳年下の、「ビ・バップの父」チャーリー・パーカーだった。パーカーが亡くなった1955年3月12日当日、アート・ブレイキーはパーカーの様子を見にニューヨークのアパートを訪れている。その時アートは、バード自身のレコードの最高傑作はどれだと思うかと彼に訊ねたところ、「まだ出来上がっていないよ。今ちょっと新作に取り組んでいるのさ」と答えたという。 

 

そう言われたアート・ブレイキーの方も、新しいミュージシャン達と、常に「新作」に取り組んでいた。1965年に新たなメンバー編成となったジャズ・メッセンジャーズでは、彼は「いつまでも同じ連中」とはやりたくない、として次のように述べている「常に新しい音、新しい人を求めていなければいけない。一つのバンドが録音したら、次のバンドが同じような演奏になってはいけない。各バンドが、新鮮なコンセプトと前進する意思を持って、各々独自色を出さねばならない。」常々彼は、若手との共演は頭を活性化する、といっている。当時、テナーサックス奏者のフランク・ミッチェルが19歳、キース・ジャレットが20歳(1つ上)、チャック・マンジョーネとベース奏者のレジー・ジョンソンが26歳。これら若き大物達のおかげで、アートは自身のミュージシャンとしての緊張感を常に保つこととなった。 

 

1966年1月、メンバーを一新したジャズ・メッセンジャーズは、カリフォルニア州ハーモサビーチにある名門クラブ・ライトハウスカフェでのコンサートを開催。このライブ録音が制作され、思わぬ幸運となった。ジャレットにとては初めての本格的なアルバムとなったこの作品は、彼の若さあふれる多芸ぶり、音楽に対するイマジネーション、そしてずば抜けたインプロヴァイゼーションの産物、これらに早くも太鼓判を押すことになる。1曲目はアルバムタイトルでもある「バターコーン・レディ」。軽快なカリプソトリニダード島の黒人音楽)で、ジョージ・シアリング風のピアノのイントロ、リラックスした感じのホーンセクションによるぶっつけ本番の演奏、そしてジャレットのソロ。こちらはジョン・ルイスを思わせるような、今風で言えば「指一本で検索」的な無駄のないスタイルに基づくもの。聴く人を、リラックスした「カリフォルニア・ドリーミング」の世界観あふれるアルバムの中へといざなう。ところが、2曲目の「レクエルド」(想い出)になると、打って変わって、スペイン・カスティーリャ地方の深い古井戸を彷彿とさせる雰囲気になる。チャック・マンジョーネのミュートトランペットによる奔放なリズムのイントロは、マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」とセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」をあわせた空気感が漂う。これにジャレットが続く。ピアノの蓋を開けて中に手をつっこみ、中の弦を弾いて、呪文を唱えるようなアルペジオ(分散和音)を鳴らす。この時、中の弦はミュートをかけるのだが、それはまるで、ジョン・ケージの「プレペアードピアノのためのソナタとインターリュード」へ、ジャズ奏者として、彼に対して敬意を表しているかのようである。こういった素晴らしい音の数々を盛り上げてゆくのがアート・ブレイキーだ。ティンパニマレット(フェルトのついたドラムのバチ)を使っって、トムトムで3連符を弾き続け、その低く唸る音は、さながら「音の嵐」の接近を思わせ、今にも大爆発して大騒ぎが始まろうとする雰囲気を醸し出す。 

 

残りの収録曲は、いずれもハードバップの手法を用いたものだ。簡素なモチーフが2つの管楽器によって演奏され、曲が展開されてゆき、そして元のモチーフに戻るべくカラ元気なコーラスが聞こえてくる。彼らホーンセクションが極上の快適さを感じていなかったというなら、折角キース・ジャレットがブロックコードを目一杯音数をつけて演奏したのに、彼らの不快感は手の施しようがなかったことだろう。ジャレットが間違いなく自らの音楽スタイルを確立したこと、彼のフレージング(表現の付け方)が斬新なものであること、これらがよく分かるのが、最後の収録曲「シークレット・ラブ」だ。スタンダードナンバーをアップテンポにして演奏している。作曲者のレニー・トリスターノのクールなセンスに加えて、彼が一つひとつの音を徹底的に磨き上げて、最後に糸を一本通した仕上がりは、まるで真珠の首飾り。だがそれは「首もすっ飛ぶような」猛スピードで演奏されているので、並の奏者にはとてもできない。アート・テイタムの名人技、ビル・エヴァンスの至高の感性、そしてポール・ブレイの神秘性、これらが全部一つに溶け合い、キース・ジャレット独自のスタイルとなった、そんな感じがする。あの日、ハーモサビーチのライトハウスカフェに集まった180余名ほどの観客のうち、先見の明のある者達は、舞台上にいるピアノ奏者が、ジャズのピアノ、いやさジャズそのものの進化をもたらすかもしれない、と気づいたことだろう。 

 

キース・ジャレットが、このバンドでは自分自身の望む方向に進む後押しにはならない、と感じていたことは間違いない。あらゆるバイタリティを備えているが、所詮その音楽のピークは1950年代(10年一昔前)のものだった。それに、この頃ジャレットは、ドラム演奏に対する独自の考えを持っていて、ブレイキーのそれとは相容れないものだった「実際、ブレイキーとの共演は楽ではなかった。私自身がドラム奏者であり、私のコンセプトは彼と真逆で、断ち切ろうと思っても無理な葛藤だった。」この葛藤は、間もなく終わりを告げる。ニューヨークのファイブスポット、そしてボストンのとあるクラブ、いずれもブレイキーとの契約終了にあわせ、チャールズ・ロイドのバンドが後任に入ったのだ。 

 

 

ドラム奏者のジャック・デジョネットは、以前ニューヨークでキースの演奏を聞いたことがあった。彼はチャールズ・ロイドの元への加入に際し、新しいバンドリーダーにピアノ奏者としてキースを推薦した。何ということか、ここから先に記すことは、「虫の知らせ」が関係者全員にあったとしか思えないことである。ジャレットはジャックに先んじて、チャールズ・ロイドに対し、ブレイキーの元を脱退し、ロイドの元への加入の可否を打診していた。ロイドはジャレットの顔と名前を記憶にとどめていた。ボストンの、とあるカクテルバーで彼の演奏を耳にしたのだ。バーの雰囲気をものともせず、キースの記憶はロイドの頭に残った。そしてデジョネットがキースを推した時、ロイドはキースのことをちゃんと思い出したのである。新しいジャズバンドをひとつ立ち上げるのに、こんなにも立ちはだかるはずだった数々のドアが、すでに開け放たれているなんて、滅多にあることではない。正に音楽の赤い糸のお導きである。