about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)3章pp43-47

3.理想のパートナーシップ 

 

ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーは、23歳で会社を立ち上げた。この際、返済可能な範囲で親戚からお金を借りて、ささやかな設立資金としたのである。彼が代理人を務めた画家、パブロ・ピカソは、彼より3歳年上だった。お互い、パートナーシップを結んだ時から、完璧な組み合わせだ、と思っていた。1人は、頼りになる勘を働かし、これから芽の出そうなイノベーターや、これから興りそうなアートを発掘するその相方は、天賦の才を持ちながらも、当時は全くの無名だった。二人の関係はお互いを信じる気持ちに基づくものであり、それは数十年も続き、世の高い評価を受ける成果を上げた。美術収集家であり画商のカーンワイラーと画家のピカソが知り合ったのはパリ。丁度その頃、この若き画家は名作「アヴィニヨンの娘たち」を描き終えようとしていたところであった。彼らが手を組んだことにより、20世紀の美術史に大きな足跡が残った。 

 

 

この二人のパートナーシップにまつわる逸話は、ほぼそっくりそのまま、登場人物名だけ変えればいいバージョンがある。それが、マンフレート・アイヒャーとキース・ジャレットである。偉大な画家、ミュージシャン、そして文筆家の伝記を書く際には、リサーチを行うわけだが、掘り下げるほどに重要さが見えてくるパートナーシップ、それが、アーティスト達と、画商や画廊経営者・出版社・プロデューサー・スポンサーとの人間関係だ。こういった仲介者抜きでは、芸術作品は世に出ることなどない。当然、広範囲に渡る認知度など得られるはずもないだろう。 

 

 

時は1969年、マンフレート・アイヒャー26歳。仕事仲間の1人が彼に託した僅かな元手で、彼はドイツのミュンヘンに独立レーベル「ECM」を設立した。彼が後にレコードをリリースすることになるキース・ジャレットは、この時2歳年下だった。二人が提携に合意・調印したのが1971年、この頃音楽ファンは、チャールズ・ロイドやマイルス・デイヴィスの下でメキメキ腕を上げた天才の存在に、気づき始めていた。ジャレットはかねてよりツアーに注力し、主要なジャズミュージシャン達とのレコードをリリースし、自身の名前でピアノ・トリオのレコーディングも手掛けていたものの、本格的なブレイクには至っていなかった。アイヒャーは音楽の良さをしっかりわかるプロデューサー。ジャレットは厳しく頑固なアーティスト。二人はきっと、お互い信頼し合えるだろうと、程なく見抜いたと考えられる。50年間に亘り、このパートナーシップは、今でも続いており、ジャズの歴史に大きな足跡を残し、20世紀と21世紀の音楽演奏に重要な貢献をしている。 

 

 

 

 

「カーンワイラー/ピカソ」と「マンフレート・アイヒャー/キース・ジャレット」の2組を比べると、どちらも、キャリア開始からの付き合いで、年齢も20代中・後半、片や芸術家で片や宣伝係と、表面的な話は似通っているが、両者をなぞらえる理由は他にある。カーンワイラーは画商としては無名で、美術史家、出版者、作家として知られており、活躍の場はビジュアルアーツの分野だけではなかった。後に伝説となる彼の画廊では、アヴァンギャルド(今だに「20世紀初頭の代物」と誤解される)の画家達の中でも無名どころを紹介し、キュビズムの定番作品についての本を執筆し、当時若手だった作家達の本を出版した。その中には、ギョーム・アポリネールアンドレ・マルロー、ミシェル・レリス、マックス・ジャコブ、そしてガートルード・スタインといった顔ぶれがある。同時に彼は、独自の絵を手掛ける新進気鋭の画家達の作品を、彼独特の発想による限定版「beaux livres美術書)」で紹介し、こうした画家達のちょっとした「フォーラム」(集まる場所)としての役割を果たした。 

 

一方マンフレート・アイヒャーは本職のミュージシャンだ。ベルリン・フィルコントラバス奏者であり、またジャズのベース奏者としても少し活動した後、レコードプロデューサーとして専念するべく、それらから全て手を引いた。だが、その出発点から、彼は(カーンワイラーが自身の「仕事」で見せたように)そこいらのレコードプロデューサーとは違い、実際の制作も全て手掛けた。「人を食い物にする産業」(ジャンルによっては理由もなく)として知られる分野において、彼は人から疑いの目を向けられるようなやり方や、調略的な行為を一切排除した。彼の興味関心のターゲットは、ジャズのみにあらず。それどころか音楽のみにあらず。映像・舞台にも広がり、イングマール・ベルイマンジャン=リュック・ゴダール、エルランド・ヨセフソン、ブルーノ・ガンツ、そしてロバート・ウィルソンらとも良好な関係を保った。他にも文学や詩で、特にフリードリヒ・ヘルダーリンやトーマス・エリオット、そしてイオルゴス・セフェリスらの作品の数々についてのフォーラムを開催し、ハインツ・ホリガークルターグ・ジェルジュ、そしてギヤ・カンチェリらの音楽を用いた。映画監督では、テオ・アンゲロプロスジャン=リュック・ゴダールらのアドバイザーも務めたことがある。彼はジャン=リュック・ゴダールが1962年にアンナ・カリーナの主演で手掛けた「女と男のいる舗道」に見られるような、「省略・欠落がもたらす風変わりな感覚」や「照明・音響・そして楽曲に関する類稀な創造意欲」が、特にお気に入りだった。1990年にはアイヒャーは音響助手として、ゴダールの「ヌーヴェルヴァーグ」制作に関わり、そして翌年の「新ドイツ零年」ではさらに踏み込んで関わっている。極めつけは、ゴダールの記念碑的作品ともいうべき「ジャン=リュック・ゴダール映画史」制作に参加、サウンドトラック5枚、CDブック(イラスト付き)4巻をリリースした。1992年には、マンフレート・アイヒャーは監督としてハインツ・バトラーとともに「完新世の人間」(マックス・フリッシュの同名小説に基づく)をてがけた。この映画では、楽曲の一部の制作にキース・ジャレットが関わっている。本作はロカルノ国際映画祭において審査員特別賞を受賞している。 

 

アイヒャーの設立したECM社(Edition of Contemporary Musicの略)は成長し、1600作品をカタログに掲載するに至った。そしてそれは「現代音楽」と「古楽の現代版」の両方について、あたかもこれを所蔵する今の時代の資料庫のようである。この会社では、「作品を切らす」とか「カタログから排除する」という発想は存在しない。ECMの商品発売には、昔ながらの出版業者に見られるような、どの商品にも高い芸術的価値を添えようと心を砕き、商品デザインや編集チェックに際して高いハードルを自らに課す姿勢が伺える。小さな経営規模と企業の独立性を堅持しつつも、そのオーラは全世界を照らすほどである。最も大切にするものは、高品質な芸術性と、それを適切に編集し音にして届ける技術だ。つまり、儲け一辺倒の考え方では、ECMが数多く画期的な作品をリリースしていることの説明にはならない、ということになる。 

 

 

アメリカの各レコード会社は、キース・ジャレットのレコードを1960年代と70年代の後半にリリースしている。その後、彼はほぼ独占契約状態でECMとレコード制作を行うようになる。ECMのレコード制作にかける精神を鑑みれば、アメリカの各レコード会社が、文字通り「見込み違い」をしていたことがわかる。1973年から78年にかけて、キース・ジャレットの所謂「アメリカンカルテット」とのLPを8枚制作したABCレコードは、キース・ジャレットとの契約において「専属契約における例外事項」と標して、ECMと「クラシック音楽」およびこれに類するレコーディングを契約期間中認める内容を取り交わした。この手の演奏が実際にどんな影響を及ぼすか、彼のイメージを高めることになるのか、については「完全に何もありえない」との判断からである。この判断に至る理由は、ABCレコードにはなんの関係もないことを鑑みれば、キース・ジャレットを小馬鹿にした発想であることは、言うまでもない。このアプローチについては、1970年代初頭に、ジャレットのマネージャーであったジョージ・アヴァキアンも念押ししている。「エド・ミシェル(ABCの「インパルス!」レーベルのプロデューサー)に長時間かけて話したことは、仮にキースが、インパルス!の守備範囲の音楽以外、つまり場合によっては彼自身のイメージを向上したり彼のファンを喜ばせたりする事もありえるような、そして場合によってはインパルス!の従来の作品の価値を高めるような事もありえるような、そういう楽曲に取り組む自由を与えられたとしても、インパルス!の売上に悪影響は全く無い、ということだった。だが、驚いたことに、この合意の結果出てきたものは、彼の過去の録音全てを遥かに凌ぐ出来だったのだ。」 

 

全く、誰も想像し得ないことだった。1970年代初頭といえば、「マハヴィシュヌ・オーケストラ」「リターン・トゥ・フォーエヴァー」そして「ウェザー・リポート」といったアンプを駆使したフュージョンバンドの全盛期である。そんな時代に、ジャズミュージシャンが、独りでグランドピアノを弾いて、ソロインプロヴァイズして、専門家達の絶賛を浴びたのみならず、ビジネス面でもバッチリ結果を出したのである。もっと言えば、「ザ・ケルン・コンサート」の売上400万枚は、ソロのレコードとしては、今日まで未だに破られていない記録だ。キース・ジャレット曰く「皆、口々に、マンフレートは馬鹿じゃないの?と言っていた。とてつもないリスクと思われたからだ。当時のアメリカのレコード会社は、どこも考えるはずのないことだった。だがこれこそ、彼の類稀なる才能のひとつなのだ。「こう」と信じたら、万難を恐れないのである。」 

 

売上面でのリスクを孕んでいたのは、「フェイシング・ユー」、そして3枚組LPの「ソロ・コンサーツ」が既にそうだった。だが、あの10枚組LPの「サンベア・コンサーツ」(1976年の日本ツアー全5回公演完全収録版)でさえ、当初はレコードプロデューサー達が「エコノミック腹切り」(訳注:「エコノミックアニマル」(日本人の揶揄)との洒落)として、商売上の自殺行為だと眉をひそめたものの、蓋を開けてみれば、今だに売れまくっているのだ。長時間録音のLPレコードも末期を迎え、そろそろCDが登場する直前の頃、ダン・モルゲンスターンは、この「サンベア・コンサーツ」の過剰なリリースを「明らかな巨人症」と評した。そして、環境不適応に陥った恐竜達同様、自らを滅亡へといざなおうとしている、と分析した。ジャズ側の人間で、ECMの音楽芸術面での企業目標とLPレコードの生き残りの両方を間違えて分析しているのは、モルゲンスターンだけではない。 

 

ECMの設立当初数年間の様子を見た、アメリカの主要レーベル各社は、同社をして、なんだかヘンテコで物覚えの悪いヨーロッパによくある屋台の連中が盛り皿でレコードを売っているようなものだ、と思ったことだろう。各社が間違いに気づいたのが、「ダウン・ビート」誌の「レコード年間売上大賞」の記事だ。第1回は1974年にジャレットが「ソロ・コンサーツ」で受賞し、以降定期的に受賞している。1970年代初頭、キース・ジャレットが経験値を増やしたことが2つある。1つはアメリカのジャズミュージシャンの懐具合。もう1つは、アメリカのレコード会社の実際のやり口。後者は例えば、1967年から71年のアトランティックレコードや、マイルス・デイビスのバンドに参加していた間のコロンビアレコードといった各レーベル。アトランティック・レコードとの契約が、ジャレットの大人気にも関わらず予定通り終了してしまったのは、レコード会社側が、彼の作品がその後も売れるかどうか、疑問を呈したからである。だがジョージ・アヴァキアンはコロンビア・レコードを何とか納得させて、ジャレット、チャーリー・ヘイデンポール・モチアンの3人によるジャレットのオリジナル曲による2枚組LP制作を実現しようとした。このトリオに、更にサックスのデューイ・レッドマン、ギターのサム・ブラウン、パーカッションのアイアート・モレイラ、そして弦楽・管楽両セクションで脇を固めた。このレコードはタイトルを「エクスペクテーションズ」といい、発売した1972年にフランスの「シャルル・クロス」ディスク大賞を受賞した。ここにいたって、コロンビア・レコードはジャレットとの2枚目の制作に乗り出す確信を得た。ジャレットとしては、次はソロアルバムを、と決めていた。このレコード制作に当たり、ジョージ・アヴァキアンは、グリニッジ・ヴィレッジのマーサー・アーツ・センターでの単独コンサートの模様を収録した。ところがコロンビア・レコード側が、本制作による収益の見込みは全く無いと判断し、契約を破棄。代わりにハービー・ハンコックを起用した。彼のフュージョン音楽のほうが、収益が大いに見込めたからである。 

 

今の時代の人間から見ると、目下最大のジャズ・ミュージシャンと、緻密なこだわりの仕事で賞を総なめするプロデューサーとのコラボレーション、こちらを、どう考えても選ぶだろうと思うのではないか。それぞれの守備範囲において完璧をどこまでも追い求める二人の、譲れない思いの産物なのに。だが、1970年頃の時代だと(もしかしたら今でも)、ほんの少しLPを出しただけのドイツ人プロデューサーを信じ込むような、これからしっかり実績を作ってゆかねばならないアメリカ人ジャズミュージシャンには、「どう考えても~だろう」なんて確実なものは何一つ無い、というのが、きっと普通の考え方なのだ。だが実際は、マンフレート・アイヒャーは、その強力な説得力で彼の芸術観や技術面の主義主張といったものを、相手に納得させることが出来る人物なのだ。彼はピアニストのマル・ウォルドロンビリー・ホリデイの伴奏者であり、1967年以来ミュンヘン在住だったチャールズ・ミンガスの元のパートナーだった人物)をソリストとして最初のレコードリリースに際して出演をとりつけたり、その後すぐに、ECMレーベルで別のソロ作品のためにチック・コリアを招聘したりしてみせた。 

 

アイヒャーがジャレットに送ったもの、それは、自身がプロデュースする作品がどのようなものかを説明する例としての試作品だった。一つは、発売前のチック・コリアのソロ。もう一つはヤン・ガルバレクの最新リリース作品「アフリック・ペッパーバード」。これらと一緒に、新しいLPを一緒につくろうと誘った。丁度キース・ジャレットが、コロンビアに肘鉄を食らったときだった。アイヒャーはオプションとして3つのプロジェクトの提案を行った。チック・コリアとの共演、ゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットとのトリオ、あるいはソロLP、といった具合。これら音源を聴いて納得したジャレットは、目新しくて面白そうだとして、オファーを受諾、これこそ後に前人未到のリリースにつながる第一歩だった。その後間もなく、マイルス・デイビスとのミュンヘンツアー中に、ソロのレコーディングの日取りが決まった。ノルウェーオスロで、1971年11月、たった1日だけというもの。結果誕生したLPが「フェイシング・ユー」。その後マンフレート・アイヒャーが手掛けた28枚にも及ぶのソロ作品の第1作目である。