Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)3章pp47-52(end)

1972年、「フェイシング・ユー」がリリースされる。同じ年、「誕生」がアトランティックから発売される。「誕生」は1971年の録音で、所謂「アメリカンカルテット」(ジャレット、デューイ・レッドマンのテナーサックス、チャーリー・ヘイデンのベース、ポール・モチアンのドラム)の初レコーディングである。1972年4月にコロンビアから「エクスペクテーションズ」をリリースしたときと同じメンバーだ。この3つのリリースは、アメリカでたいへん大きな反響を呼んだ。これほど様式上の多彩さを放ち、これほど内容の濃い3作品をたった1年でリリースできるジャズミュージシャンは、他にいなかったのである。音楽ファンも業界も敏感に反応した。ヨーロッパでは既に長く認知され、高く評価されていた彼らの成果を、アメリカ全体がこれまで楽しめていなかったかのような反応だった。ロックジャーナリストのロバート・パーマーは、雑誌「ローリング・ストーン」で、「前・マイルス・デイビスのピアニスト」から、一気に出世して、「ジャズ界随一の、若手で独自のスタイルを持つピアニストの一人」に駆け上った男に注目した。彼が見るに、「エクスペクテーションズ」は1972年発売の全てのレコードの中で、最も音楽的内容が幅広いものだった。彼は「フェイシング・ユー」を評して「間違いなくここ数年で最もクリエイティブで満足の行くソロアルバム」。 

 

ドイツのニュース雑誌「シュピーゲル」の、1972年7月10日号の記事で、ドイツの、孤軍奮闘のレコードレーベルが、これほどの完成度を誇るジャズのレコードの数々を世に送り出すとなると、アメリカの優秀なミュージシャン達を次々と海外へと引き抜いてしまう、と真剣に書き記している。10年後、「タイム」誌が、ついにECMの評判と凄さを認めた「若手ジャズミュージシャンがECMのレーベルを欲しがるのと、短編作家が「ニューヨーカー」に作品を載せてほしいのと、同じだ」。マイク・ゼリンが「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」で書いたのは、これよりは直球表現だ「ECMは現存する最もクリエイティブなジャズレーベルだ」。 

 

1979年以降3つのレコーディング(バッハ、ヘンデル、ルー・ハリソオンの各作品集)だけを除いては、キース・ジャレットは、独占契約を結ばない状態にも関わらず、ECMからのみレコードのリリースを行っている。マンフレート・アイヒャーとの契約がなかったら、これらのレコードが世に出なかったかどうか…それは今でもわからない。本書執筆中の現時点では(2020年)、ECMのジャズレーベルと「新シリーズ」と称するクラシックと現代音楽(1984年に追加立ち上げ)とで、ジャレットの作品は80以上にのぼる。アメリカではレコードプロデューサー達は売上第一主義であることもあり、ECMが沢山取り組み成果を出した、「音楽面では何でも良いからやってみよう」という発想は、実行に移すことなど許されなかったのだろう。キース・ジャレットの、音楽の世界でのアーティストとしての評価(そして今では誰も疑う余地のない)を大いに押し上げたもの、それはマンフレート・アイヒャーの、卓越したレコード制作であり、商売っ気、あるいは、良いものを求める気持ちに対する妥協を一切排除して、音楽を作り出そうとする者達に、それを実行する可能性の扉を開けた懐の深さであったのだ。勿論一方で、キース・ジャレットが音楽の世界で傑出した存在であるおかげで、ECMのレコードレーベルも価値をあげていることは、所謂「持ちつ持たれつ」なのである。。 

 

 

アイヒャージャレットのコラボレーションがどんなものだったのか。しっかりと理解しようとするなら(ジャレット氏が気軽に人と仲良くするとは認識されていない状況で)、この二人の、音楽と音楽制作についての見解や、何かに付けて妥協なく高い基準を求める姿勢、これらがガッチリと噛み合った結果、行きつく先に何があるのか、これを思い描かねばならない。マンフレート・アイヒャーが、キース・ジャレットをパートナーとしてどのように見ていたか(そしてこれはECMでレコードを出すミュージシャン全てについても同じことが言える)、ここが重要だ。アイヒャー自身もミュージシャンであり、その耳は、「耳が良い」とされるアーティスト達に引けを取らない。地震観測所の観測員のように、あらゆる音や振動や響きを感知している。言葉でいちいち説明しなくても、自分の言いたいことを相手に明確に伝えることができる。音楽面での「投げかけ」と「反応」を察することが出来る。彼自身がアーティストだからなせる業だ。ここで2枚の写真をご覧いただこう(48・49ページ参照)。キース・ジャレットとマンフレート・アイヒャーの二人が収まっている。ミュンヘンアメリカハウス(米国啓蒙施設)で1973年に撮影されたものだ。様々な出版物にも使用されたもので、2012年11月から翌年2月まで、ミュンヘンの「芸術家の家」(ハウス・デア・クンスト現代美術館/展覧会会場)で開催された「ECM―文化における考古学展」において期間中配布されたカタログにも掲載された。2枚の内の一つでは、キース・ジャレットがいつものようにピアノに向かっている。その近くでマンフレート・アイヒャーが佇み、耳を研ぎ澄まして演奏を聴いている。もう一つでは、二人は場所を交換し、マンフレート・アイヒャーがピアノに向かって、その運指をキース・ジャレットがじっと見つめている。アイヒャーとジャレットとの関係を象徴的に定義しようと思うなら、この2枚の写真が役に立つ。二人に共通し、そして二人を結びつけるカギが示されているのだ。それが所謂「芸の腕前」である。編集をどうするかは、一つ残らずジャレットとアイヒャーの間で話し合われる。この時のアイヒャーはプロデューサーというより音響監督である。彼はペーター・シュタインやロベール・ブレッソン、あるいはアンドレイ・タルコフスキーのように、自分の文化伝承の担い手としての役割をよく自覚しており、彼らの存在は、アイヒャーが他のアーティスト達と一緒に仕事をする上で影響をもっている。 

 

当然、これらのレコードは、単なる見聞きするための産物だ。アイヒャーとジャレットとの、稀代のモノづくり力が合わさった産物だ。他の優秀なプロデューサーあるいは版元同様、アイヒャーは常に2・3手先を読みながら、ミュージシャン達を煽り、導き、まとめてゆく。そうやって彼ら自身気づかぬうちに、考え方を同じ方向にもていってしまうのだ。キース・ジャレットの「ヨーロピアン・カルテット」が実現したのは、なんと言ってもアイヒャーのお陰である。彼がイニシアチブをとって実現した、バイオリン奏者のギドン・クレーメルとの共演では、アルヴォ・ペルトが自作「フラトレス」を独奏バイオリンとピアノ用に改編し、レコーディングが行われ、「タブラ・ラサ」というアルバム(1984年)に収められ、このエストニア人作曲家が広く世界に知られるようになった。ECMはこれまでに、ミュージシャン達のコンサートツアーや音楽プロジェクトの立ち上げや監修、あるいは作曲の依頼をしてきている。ときにはECM自身が主体となることもある。キース・ジャレットのパートナーとなったドイツ・ミュンヘンECMというチームは、彼らにとって最も大切なアーティストが、話し合いの場に参加し、主導権も時に持ち、制作能力をフルに発揮できるようお膳立てをすることによって、ヨーロッパの音楽シーンに躍り出ることを可能にした。仮にアメリカで最も優秀なマネージメントがついたとしても、アメリカという土壌からでは、こうは行かなかったであろう。キース・ジャレットチャーリー・ヘイデンポール・モチアンのトリオの、最初のツアーはECMが運営の任にあたった。ソリストとして実力をつけたジャレットが最初に行ったソロコンサート(フリーインプロヴァイズ抜きの通常のジャズのスタイルでの、スタンダードナンバーや自身の作品の演奏で、今でも語りぐさになっている)は、ドイツのハイデルベルクジャズフェスティバルで行われた。アイヒャーの尽力が実現に導いたのである。 

 

キース・ジャレットECM関わったお陰で彼にとって重要なミュージシャンとしてのプロジェクトを恣にできたのは確かだが、同じようにマンフレート・アイヒャーも、キース・ジャレットの領分において、自分がして良いことと悪いことをわきまえていたのも確かなことだ。これを踏まえて、やがて彼はジャレットのプロデューサーや音楽面でのパートナーのみならず、アドバイザー的な役割も果たすようになる。彼のカウンセリングは極めて巧妙であり、だからこそ、疑り深く、時として過剰なまでに神経質なジャレットとのコラボレーションが、こんなにも長く続くことを可能にしているのだ。ジャレットと違わず、アイヒャーもクラシックとジャズの両方に通じており、この二つの分野の間を取り持つことが出来た。その際彼は、ドイツ・グラモフォンで制作助手時代に身に着けた仕事の正確さと熱意を、ジャズの分野での彼の仕事にあたり、しばしばこれを発揮してみせた。これで自信をつけたジャレットは、アイヒャーがプロデュースする普通では考えられないような作品を手掛けるようになる。1973年の自身の作品集「イン・ザ・ライト」ではアメリカン・ブラス・クインテット金管五重奏団)とフリッツ・ソンレイトナー弦楽四重奏団のための作品、その後の「ルミネッセンス」(発光)では自身の指揮で、シュトゥットガルト室内管弦楽団弦楽合奏)とヤン・ガルバレクサクソフォン)のための作品をレコーディングした。 

 

マンフレート・アイヒャー1971年11月から1975年10月の間に手掛けたレコード(全てABCレコードの「アメリカン・カルテット」のLPと同時にリリース)を全て吟味してみるとその編集の出来具合がわかる。何しろ、当時はそれらのレコードが利益を生むかどうか、誰にもわからなかったのである。 

「フェイシング・ユー」:ジャレットの最初のソロアルバム。 

ルータ・アンド・ダイチャジャック・ディジョネットとのデュオ 

イン・ザ・ライト弦楽合奏金管五重奏ジャズコンボ更には弦楽四重奏チェンバロと、大規模なプロジェクト 

ブレーメンローザンヌ2つの公演(フリーインプロヴァイズによる) 

「レミネッセンス」サクソフォンヤン・ガルバレク)、シュトゥットガルト室内管弦楽団弦楽合奏 

「ケルン・コンサート」(ソロインプロヴァイズ付)ケルン歌劇場での公演 

「アーバー・ゼナ」ピアノ(キース・ジャレット)、ベース(チャーリー・ヘイデン)、サクソフォンヤン・ガルバレク)、シュトゥットガルト放送交響楽団 

以上が全て、と言っていいだろう音楽の主流から外れたもので、ニッチな音楽ファンのための一風変わったリリース作品とみなされることが多かった。だがそれと同時に、これらのレコードは、キース・ジャレットが無双なるミュージシャンであること、そしてマンフレート・アイヒャーが勇壮なるプロデューサーであることを、大いに知らしめた。 

 

マンフレート・アイヒャー自身の理念は崇高にして、ジャズの母国・アメリカのプロデューサーの口からは、決して出てこないものであろう「これらのレコードの多くは、売るために作ったのではない。それ自体がこの世に形を留めるために作ったのだ。」この現れの一つが、アイヒャーの「握手でヨロシク」主義だ。ECMがミュージシャン達と契約するときは、正式な契約書を取り交わさないのである。ピアノ奏者のポール・ブレイが言うように、これは、どのレコード制作に際しても、アイヒャーがミュージシャン達と自分自身に与える選択の自由と言うやつだ。「ポリグラムとレコーディングしたときは、35ページにも及ぶ契約書を取り交わした。ところがECMではこうだ『今回の収録がご満足なら、また次もやりたくなるでしょう』そりゃ全くそうだ。彼らの仕事に満足なら、そして彼らも私の仕事に満足なら、また次もやりたくなるだろう。そんなわけで、次回の約束に当たっては、確認も保証も契約もいらなかったよ。」 

 

 

もうひとつのポイント。プロデューサーとは、収録作品に「その名を刻む」べきか、はたまた黒子に徹するべきか?プロデューサーとは、グレン・グールドの教えに従い、その責務を、作曲家や演奏家同様、間違いのないサウンド作りに徹するべきか?プロデューサーとは、耳の肥えたリスナーの期待にどこまでも応じられる努力を尽くすべきか?プロデューサーとは、フランツ・リストの指揮者への求めに准じて、仕事が始まると同時に存在感を無にするべきか?その答えは、実はもう一枚見ていただきたい写真があって、そこに助けとなるヒントが有る。エンリコ・ラヴァとステファノ・ボラーニのデュオアルバム「ザ・サード・マン」(第3の男)のカバー写真である。トランペット奏者のボラーニが右手で頬杖をつきピアノによりかかり、ピアノ奏者のラヴァがピアノに向かって座りボラーニと話をしている様子だ。よく見ると、誰か男性の靴が一足、明らかに本来履いていた人物が写っていたのに、これを消してしまっているのがわかる。この写真が何を物語るかについて、お役に立てるものをご紹介しよう。一つは付属のCDブックレット、もう一つは、ラース・ミューラー出版の2010年の「風と光 ― ECMとその所蔵写真」だ。ECMの製品について、デザインや写真に関する逸話と解説が載っている。元々、この写真に写り込んでいたのは誰か、そしてこの靴の持ち主は、ということだが、持ち主はマンフレート・アイヒャーなのである。アイヒャーが、ピアノ奏者のラヴァの、おそらくこれまでの音楽活動についての雑談であろう、黙って聴いているのだ。彼は白髪の長髪で、その佇まいは、まるでボラーニを鏡で映したようなのである。 

 

 

彼はその姿が目につこうがその声が耳に入ろうが常にザ・サード・マンなのだ彼の存在が音楽やミュージシャンにどんな影響を与えるのか4849ページの写真計2枚が最もよく説明してくれるだろう。マンフレート・アイヒャーは、ミュージシャンに自由に行動させているが、現場には常に居て、その存在感を放っている。ECMのレコーディングセッションに参加してみれば、誰もがその多くの作品に感じられる魔力を理解するだろう。場所はどこでも同じ。オスロやニューヨークのような喧騒の地でも、静かなところでは冬場のロホヤ(フィンランド:ここではアルヴォ・ペルトの「テ・デウム」が収録された。繊細な演奏を誇るエストニア・フィルハーモニック室内合唱団と「音楽と会話のできる」指揮者のトヌ・カリユステによる演奏)においてもだ。このプロデューサーの人となりが、数々の録音現場の雰囲気を作っているのだが、いちいち丁寧にコントロールしているわけではない。アイヒャーが底にいるだけで、アーティストが自らの力を発揮するのである。集中力、インスピレーション、創造意欲、そしてアーティスト達の放つオーラ、これらは全て、録音現場にいればハッキリと感じ取れる。それから時に絶対起こり得ないことが起きたりもする。夢だの現だのを超越ような話だが、1993年1月、凍てつくように寒いある日の収録時のこと。アルヴォ・ペルトの「聖シルアンの歌」の56小節目、全員が一斉に音を止めたあと、その音が増幅して大きくなっていったのだ。 

 

先述のポール・ブレイが、この現象について、ミュージシャンの立場から述べている。音楽に対する自分の考えを持っているプロデューサーとは、重要な存在なのだ。なぜなら、そういうプロデューサーは稀だからである。「ECMでレコーディングするミュージシャンは、誰もが、マンフレート・アイヒャーと『共演』するのだ。彼はエキストラ参加者みたいなものだ。他でやられたら、たまったものではない。そういった意味では、彼は天才だと思う。もとい、天才「である」。彼は元々ベース奏者だが、自身が他のミュージシャン達と演奏することは、今はしていない。これは良しとする者もいれば、否とする者もいるけどね。」良しとする者の一人が、アルヴォ・ペルトである。そして彼こそ、マンフレート・アイヒャーについて最も簡潔に説明し切る人物だ。キース・ジャレットと共演した時に、そのまんまのことが起きたことについて、次のように語っている。「私はECMと音楽の分野を超えて結びつきが取れた。このお陰で、私の作曲活動は新たな可能性や良さが出るようになった。」