Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)4章pp54-57

4.「キース・ジャレット」となってゆく年月 

 

ジャズの批評家、作家、そして作曲家としてもよく知られているレナード・フェザーは、1971年の年頭に当たり、火を吹くような激しい言葉を綴った。「ダウン・ビート」の年間総集号に寄稿したタイトルは「魂を売り渡した1年」。彼がこの1年間をどう振り返ったかが、よく分かる。フェザーの攻撃の対象はあらゆる者に及んだ(ミュージシャン、プロデューサー、レーベルの親玉、株主、一般大衆、音楽界の親玉と音楽界全体)。なぜなら、歌謡曲、そして、商売目的で融合したジャズとロックが圧倒的存在感を持ち、誰もそれに抗えなくなっていたからだ。ジャズミュージシャンが稼ぎを得るのに、コードを3つしか覚えず、リズムもオスティナート(延々同じリズムの繰り返し)で、自分のサウンドは電気仕掛け、そんな単細胞で済まされる時代など、過去にはなかった。フェザーに言わせれば、ここ数年来、アーティスト達はまともに腕を磨いていない、とのこと。「そんなの各自の勝手でしょ」など、通用する話ではなかった。自分のサウンドをごまかすために電子アンプやら何やら装置を使っていては、プレーヤーの個性を塗りつぶしてしまうだけだ。「周知のことだが、ロックの逸材が、これまでも、これからも、いくら輩出しようが、何年かかってもアート・テイタムジミー・ブラントン、あるいはチャーリー・パーカー級の人材は全然出てこない。実際、ロックの演奏については今までとは異なる規範が必要なのかもしれない。それは同時に、その判断基準も、今までと異なる前提に基づくべきなのだろう。何だかんだ言って、ジャズミュージシャン達が、時流に逆らっていると知った途端に方針転換した時の、あの軽薄さは、日和見主義によるものと思われる。これは皮肉でも何でも無い。」 

 

 

 

フェザーは2つ3つと全体的な話をして、事を済ませようなどと、思っていなかった。彼の持論を示す例をいくつか用意している。その一つがギター奏者のガボール・ザボだ。1967年リリースの「ザ・ソーサラー」では、悪魔的とも評される見事なスウイングのノリであったのに、その3年後のアルバム「マジカル・コネクション」では、ジャズの推進力がカケラも感じられない。ザボ曰く、一時の流行のために、自分の看板でもある、ギターの技、スウィングのノリ、自分だけの音楽的表現を、全て犠牲にしてしまった、とのこと。当時駆け出しだったピアノ奏者ピーター・ロビンソン(1970年時点ではテナーサックス奏者のアーニー・ワッツ・カルテットのメンバー)は、かつてフェザーに打ち明けた:この「電気箱」たるキーボードのお陰で、反吐が出そうになっている、と。当時のキーボードは、使えるスケールやサウンドが限られていて、音量変化をつけるのも、ほぼ不可能だった。彼にはそこが不満だった。レナード・フェザーも全く同感だった。マイルス・デイヴィスだけは、エキサイティングで新しい電子音楽を生み出したと評された。その音楽は、「エレクトリックジャズ」だの「ロックジャズ」だのといったハイフンでつないだような体の良い言葉で言い表すことなど、到底できない逸品というわけだ。「1970年を、そしてある意味その1・2年前から、音楽界に存在していたルールは、大企業による陰謀に巻き込まれた音楽が支配的になったことによって、その信念を無残にも捻じ曲げられてしまった。自分らしさを保てない者は、代わりに金を稼げるようになれ、というわけである。そんなわけで、このような言い方は一部の水商売の女性方には申し訳ないが、ジャズにとって1970年は音楽の「売女」がのさばった年であった。 

 

30年以上ジャズに寄り添い、膨大なコメントを寄せ、時にはその発展に精力的に役割を果たすことさえした男だからこそ、こんな説得力のある言葉になって聞こえてくるのだ。彼の分析は極めて正しい傾向にある。彼の論調は毒舌的で、同時に彼はロック音楽には耳を貸さない。そのことで、彼が過剰な物の言い方をしているといえる。熱の入った状態になると、更に複雑かつケバケバしい論調が見られる。1960年代以降、若者を中心としたベトナム戦争への抗議活動や公民権運動、それまでの生活様式に取って代わる新しいものの追求、現代の時間に追われる労働環境からの脱却の模索、こういったものが全て、様々な反体制的音楽文化に大きな影響を与えた。このように安易なきっかけでロック音楽に迎合してゆくと、それまでの音楽スタイルに対する挑戦的な強い試みが発生してくる。フェザーはこういったことは、敢えて無視した。例えば1950年代の終わり頃、オーネット・コールマンは既に精力的に動いていた。アンサンブルにおける従来の音量変化の付け方や各楽器の役割と地位といったものにメスを入れ、旧来の和声法や「ジャズとはこういうモノだ」といった「縛り」を解き放った。オーネット・コールマンの演奏を聞いた人の中には、彼の音楽はあまりにも王道から外れすぎていて、ジャズとの結びつきがわからない、と考える人達がいた。彼らは「新しいもの」という言葉でオーネット・コールマンの音楽を当たり障りなく言い表した。この言い方は、当時の音楽評論家達が、オーネット・コールマンがジャズの根本をひっくり返してしまったことについて、どう捉えてよいか全くわからくなっていたことを、よく表している。 

 

当時、従来の音楽に対する挑戦的な風潮があった頃、オーネット・コールマン以外にも、「これがないとジャズではない」ものを手放そうとするミュージシャン達はいた。自分たちの音楽を表現する上で、それが邪魔になってきたからである。ピアノ奏者のムハル・リチャード・エイブラムスによって発足したAACMや、レスター・ボウイのアート・アンサンブル・シカゴのような団体の取り組みは、コールマンの一見グチャグチャにしか聞こえない「フリージャズ」に負けず劣らず急進的であった。AACMというのは非営利団体として設立された、ミュージシャンによるミュージシャンのための組織である。大手レコード会社が常に売れ行きの見込みばかりを気にしてミュージシャンを振り回そうとすることから守るのが目的だ。音楽面の支援ばかりではない。社会全体のあり方の一部として、メンバーは地域活動に参加し、マイノリティ達を支援し、文化プログラムを活用して子供達が路頭に迷わぬようにし、特に黒人コミュニティにあっては、支援・保護の手を差し伸べた。音楽を新しい生活様式を作る柱とし、ジャズはその有り様の象徴となった。 

 

レナード・フェザーの「矛先」ならぬ「ペン先」は、あくまでも音楽の主流に対して向けられた。他ジャンルとの連携を模索していたのは、1960年代終盤に向けてのジャズとロックの組み合わせばかりではない。他にも、未知の冒険的なサウンドの組み合わせや実験的なグループが、次々そこかしこから、まるで森の中のキノコのように現れていた。かつてのアフロ・キューバン以来、3度目か4度目のラテン・ジャズの新たな動きが見られた。ランディ・ウェストンはブルースをアフリカへ里帰りさせ、アンソニー・ブラクストンは化学の実験よろしく「音の調合」に励んだ。その手法は、アフロ・アメリカ系のジャズのよりも、ヘンリー・カウエルらによるアヴァンギャルドに近いものだった。ドイツでは、ペーター・ブロッツマンバリトンサックスをひっさげて、ジャズ風の和声変化の中を上へ下へと吠えまくり、オランダでは、ICPという、アメリカのAACMのような自助団体が立ちあがっていた。同国では、ウィレム・ブロイカーが、彼が率いる楽団で新しいタイプの管楽器の合奏による民謡の演奏に取り組んでいた。ヨーロッパのはるか北の方では、サクソフォン奏者のヤン・ガルバレクが率いるご当地ミュージシャンの一団が突如現れ、どういうわけだか、現代ジャズの世界へと迷い込んできた。 

 

 

ところで我らがキース・ジャレットは?1970年代初頭、彼に将来の方向性を示せるものは、何一つなかった。だが占いの水晶玉でも覗けば、彼の才能に落ちる疑念の影は、微塵もなかったはずである。示せないのは彼に供された見込みも機会もオプションも、豊富にありすぎたからだ。1973年の終わり頃、「ダウン・ビート」誌に、アルバム「フォート・ヤウー」のレビューを寄稿したスティーブン・メタリッツは簡潔に褒めちぎってその評価を書いた。キース・ジャレットがニューヨークにでてきてから7,8年が経っていた。当時、彼の名前は、4つの別々のレーベルから出されている膨大な数のアルバムにでていた。アルバムはどれも似通ったものの無いものだった。「彼の演奏は可愛らしい、彼の演奏は素朴だ/(マイルスとの)彼の演奏は良く鳴る、(ソロの)彼の演奏は静けさに満ちている/彼は「自在に」演奏している、彼はガチガチのカントリー・ロックを軽快に演奏している。」これを見ても明らかなように、彼は未だ一つのスタイルに固執しようとせず、自分自身のサウンドとは何かを探している途中であった。彼が何でも完璧にこなそうそとしているから、それが足かせとなって自分のスタイルが決まらない、と考える必要はない。なにせ、仮にジャレットが自身の演奏に不満を示していても、彼が送り届ける常に新鮮な音楽は、聴手に最高の満足を与えてくれたのだ。 

 

アート・ブレイキーの元に加入した1965年末から1971年12月にマイルス・デイヴィスの元を去るまでの間、キース・ジャレットはビックリするほど実に幅広い自己開拓を果たした。ハードバップからロックジャズ、そしてアヴァンギャルドと、これら全て、合間に取り組んだシンガー・ソングライターゴスペルシンガーといったものを入れなくても、大変なものである。彼のこの実績を目の当たりにすると、旧来の音楽のジャンルの間にある壁など、単なる越えるべきもの、と思いたくなってしまう。彼が演奏する姿は、まるでこう言っているようだ「どうだ!僕は猛勉強してきたぞ!ジャズも、クラシックも、アヴァンギャルドも、不本意だけど呑み屋の流しも、ロックジャズの電子音楽だって、このとおりだ!」彼の作品でおそらく最も叩かれたソロアルバムは「レストレーション・ルーイン」だ。作詞、演奏(全部の楽器)、歌まで全て自分でこなす様は、既に、ある種ファウストのような貪欲さで満たされぬものを補おうとする、心の境地に達していると言う他ない。おそらくこの6年あまりの間、彼は自分の知らない「音楽に関する道具」を見ると、素人根性に火がついて、徹底的に試してやるという気になり、そこにあるものは全て吸い尽くしてやる、という魔力が引き出されたのだろう。そして、彼は器用な腕の持ち主ではあるが、モノにできない部分もあったのだ。それこそは、音楽のいう世界全体をその核心で束ねているものは何なのか、である。1969年4月号の「ダウン・ビート」誌のあるコメンテーターが書いた次の論評を読むと、このアルバムに対して、何かしら危険な掟破りの産物と感じているようである。「この明々白々にヒドいアルバムが、この機会にジャレットのハラワタから宿便を残さず吐き出すきっかけとなり、彼の輝くばかりの、闊達で、創造性あふれるピアノ音楽に、また無事に戻れることを、皆で祈ろうではないか。」 

 

さてこれからどうなるのか?この問いに答えるのは、ジャレットがマイルス・デイヴィスのもとを離れ、ジャレットが通ってきた豪華な音楽シーンと、その分野の多様性を思うと、そんなに簡単ではないように思える。一方で、マイルス・デイヴィスとの仕事を自分の意志で終えて前へ進もうと希望する者なら、独り立ちを選ぼうとすれば叶う話だ。折角「皇帝」の元を離れたのに、また「王」に仕えるやつなど、いるわけがない。ジャレットが電子楽器を嫌っていることを考えればすぐに分かる通り、「これからどうなるのか?」といわれれば、レナード・フェザーが猛攻擊を加えるような音楽には関わるわけがない、と予想できただろう。だが選択肢は他にもまだあり、そして彼とつながりを持つ人達(チャーリー・ヘイデンポール・モチアン、そして何よりジャック・ディジョネットという、ジャレットと同じくマイルス・デイヴィスの元を離れたばかりの)は、まだ彼の側にいたのだ。ヨーロッパでの活躍の場もあった。これはマンフレート・アイヒャーとECMが切り拓いてくれたものだ。他のアーティストと一緒に音楽をやることで発生する責任義務から開放された、という気分は確かにあっただろう。だが何よりも大事だったのは、他からのプレッシャーから開放されたことだったのだ。キース・ジャレットは、過去の実績と現在の状況を鑑みて、将来に自信を持つことができた。この時点で、彼の名は確実にジャズの歴史書に永遠に刻まれた。だが「何をした人か?」は、その後神のみぞ知る、である。 

 

ジャレットにとって、1972年は新たな、そして独り立ちの年となった。1960年代終盤には、彼と妻のマーゴットは、既にニューヨークを離れ、ニュージャージー州の大きな土地付きの一戸建てに引っ越していた。そこは彼の出身地であるペンシルベニア州アレンタウンに行く途中にある。長男ガブリエルはここで生まれた。この引っ越しには、彼の意思が全面的に反映されているわけではなかったのだが、それでも世界中のミュージシャンなら誰でも抱える問題があって、引っ越しにこぎつけたのである。自分が練習する時に、隣の厄介者が踏み込んできて、何事か探った挙げ句、警察や役所に通報されずに済む、そういう場所はどこなの?という話である。ただ、引っ越した家も、ほどなく手狭に感じるようになり、一家は近所の木造住宅に移った。合衆国建国時のオランダ人入植者達が、広大な森林を切り拓くのに住んだ家だった。その後、「はなれ」が幾つか建てられ、そのうちの一つが、後に彼のレコーディングの多くが行われるようになるケイブライトスタジオである。 

 

小川が一筋流れていて、近くの小高い山々に囲まれた、水の透き通った湖に注いでいる。ここは閑静な場所で、ハワード・ホークスやサム・ペッキンパーといった映画監督が撮影場所に選びそうな、典型的な雰囲気がある。想像していただくなら、インディアンのデラウェア族の勇者達が馬に乗って、湖畔の山々の一つに集結している。狼煙が上がり、遠くから部族の太鼓の音が聞こえてくる。別に筋金入りのロマンチストでなくてもご理解いただけると思うが、この家とその周囲は(ニューヨーク市から車でわずか2時間の場所だ)、感受性豊かな人々にとって、またとない安住の棲家なのだ。自分自身の心の奥に寄り添い、自然と一体になれる、そんな場所である。