Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版) 4章pp58-61

感受性が豊かなアーティストにとって、この地を取り巻く歴史について、心の内にそれを思い描くことは、容易いことだ。ウォルト・ホイットマンの有名な格言「草の葉一枚一枚にも、歩んだ歴史があるのだ」。キース・ジャレットの家の台所に、メモを貼るボードがある。そこには、インディアン「スー族」の酋長・イエローラーク(黄色いヒバリ)の有名な「偉大な霊(たましい)よ」の英語訳が貼ってあるのも、頷ける話だ。 

 

偉大な霊(たましい)よ 

あなたの声は、吹く風の中に聞こえる 

あなたの吐息は、この世の全てに命を与える 

さあ今度は、私の言葉を聞いてほしい、私は、ちっぽけで心許ないから 

あなたの、力と賢さが必要なのだ。 

調和の取れた美しい世界を、ずっと歩いて行けますように 

そんな世界ゆえの紫紅の夕焼けを、ずっと見つめていられますように。 

あなたの創ってくれたものの有り難みを、私の両手が理解し、 

あなたの声を一つ残らず、私の両耳が聞き取れますように。 

あなたが我ら人類に教えてきたことを、 

私の頭が理解できるよう、賢くなれますように。 

あなたが、草葉の陰や石ころの隙間へ、そっと忍ばせた大切な教えに 

私が気づいて、それを自分のモノにできますように。 

「力が必要」と言ったが、それは他人に勝ちたいからではない、 

「自分自身」という、最悪の敵に勝ちたいからだ。 

あなたに、何時、何処で出会うことがあっても良いように、 

私の手は両方とも、常に汚れなく 

私の瞳は両方とも、常に迷いなく、在れますように。 

そうすれば、いつの日か 

夕日が地平線から消えゆくように、私がこの世から消えゆく時、 

私の霊(たましい)は、堂々胸を張って、あなたの傍らに行ける。 

【訳注:「紫紅の夕焼け」は、アメリカ西部の美麗の象徴】 

 

1972年、キース・ジャレットの名声は益々上がり、カーラ・ブレイ(ピアノ)、メレディス・モンク(舞踏家)、ソニー・ロリンズ(サックス)、メリー・ルー・ウィリアムズ(ピアノ)らと共にグッゲンハイムフェローシップに採用された。これでまとまった額の助成金を得て、1973年の2枚組アルバム「イン・ザ・ライト」の制作資金に当てることができた。前の章で書いたように、このアルバムはECMからリリースされた数多い稀代の名作の一つで、音楽の様々なジャンルを超えた彼のオリジナル作品を聴くことが出来る。アルバムの収録曲はいずれも、チャールス・ロイドやマイルス・デイヴィスらと関わっていた6年の間に亘って書かれたものだ。どの作品を聴いても、彼が音楽家としてスタートした当初から、何らかの形式やスタイル、きまったカテゴリー、型に則ったレッテルへの隷従を拒否してきた意志が伝わってくる。彼は言葉遣いにエレガントさをもたせようと、人並み外れた気遣いを見せたが、アルバムの1曲目「メタモルフォーゼス」の解説文は、そんな彼も「エレガント」と思うような書き方であり、ご多分に漏れず、神がかった物の見方が織り交ぜられている。それが現れている言い方が「universal folk music(人類を一つの民族と見なした時、皆で共有できる音楽)」だ。彼は自分の曲作りを説明する時に、「自動記述法」という言葉を使った。これは、以前からシュールレアリスト達が心理学の用語から取ってきた言葉であり、マルグリット・デュラスジャック・ケルアックアメリカ)といった作家達が用いた手法だ。この、理性的な意識を働かせずに曲を作るというやり方は、以前からジャレットが使っていた方法の一つであり、フリーインプロヴァイズ(彼がその後ソロ奏者として広く認知されたスタイル)をする上で大切な要素である。このアルバムの他の収録曲はいずれも、幅広く変化に富み、演奏も大変困難な作品であり、クラシックの奏法に、強い表現をするところでは、どちらかといえばジャズによくある情熱的な音の処理が採り入れられている。 

 

このような独特な楽曲は、彼の創作力が遺憾なく発揮されている1987年の「ブック・オブ・ウェイズ」で、その役割を果たしている。この頃までには、彼は、ソロ演奏活動、トリオやカルテットでのアンサンブル、更にはそれらのレコーディングを通して、現代のジャズにおいて存在感を放つとする評価をすでに得ていた。ジャレットは、アーティストとしての内面的な発信には、常に目まぐるしく様々な変化が見られ、そして音作りにおいても、常に様々な手法を試みつつその成果を聞かせた。傍から見る者にとっては、困惑するばかりかも。だが、困惑しないですむ要素も、しっかりと一つある。それがトリオでの演奏活動だ。彼の音楽活動において、揺るがぬバックボーンである、と言っていいだろう。 

 

ジャズのピアノトリオが持つ雰囲気といえば、質素で厳粛。これはクラシック音楽で言うと、弦楽四重奏に似ている。高度な知的要素が凝縮してるのが発信された時が、その真骨頂だ。アーティストとしての技量、状況変化に対処できる冷静さ、コミュニケーション能力、これらが最も鮮明にわかるのが、トリオの演奏中のメンバー間のやり取りだ。この編成での演奏は、楽曲のストーリーや作り込み方、インプロヴァイズに対する互いの反応、こういったものが、一番ハッキリわかりやすく伝わる。演奏上の至らぬ点を、サウンドを大きく響かせて、すました顔してごまかすのが、一番難しい編成である。曲を作る者と演奏する者、どちらにとっても、クラシック音楽なら弦楽四重奏、ジャズ音楽ならトリオ、これらは、全てをあらわにする、容赦なく厳しい試金石なのだ。 

 

 

ヨーゼフ・ハイドンと、ビル・エヴァンスの間には、似ている点が幾つかある。ハイドンが「弦楽四重奏曲集作品33」として1781年に出版した6曲に添えられた謳い文句は、「全く新しい特別な方法で作曲された」。何のことかと言えば、メロディに付随する他のパートの役割だ。メロディの進行に絡むように、当てはめられ、これに加担する形になっている。4つのパートが同等の扱いで、曲全体を発展させ前へと推進させるという、クラシック音楽における対位法の一種である。後にモーツアルト弦楽四重奏のスタイルにも影響を与えたこのやり方を、ベートーヴェンは「オブリガード伴奏(対旋律を伴奏として駆使する方法)」と称した。 

 

ハイドン弦楽四重奏なら、ビル・エヴァンスはジャズピアノトリオだ。歌心のあるベースを聞かせるスコット・ラファロ、そして凝ったドラムを聞かせるポール・モチアンとのトリオは、彼の作品を通してこの編成に新風を吹き込んだ。1959年には彼らの革新的なデビューアルバム「ポートレイト・イン・ジャズ」(間違いなく史上初の「完成された」ジャズピアノトリオの録音)が世に出る。惜しむらくは、その後続いたアルバムは1960年と61年リリースの2つしかなく、最後セッションが行われた10日後、スコット・ラファロが交通事故で急逝(享年24歳)してしまったことだ。ビル・エヴァンスのジャズピアノトリオは伝統的な編成(ピアノが主で、2つの伴奏がある)で、彼はこれを、どの声部も対等にあつかい、対位法にも似た声部の使い方をする編成にまで仕上げた。エヴァンスはこう語る「例えばベース奏者が、自分の耳に入ってきたものに、何か応えたがっているとする。その時は裏方の伴奏で4拍子のリズムを刻み続けてればいい、とはならないだろう。プレーヤーがもっと繊細な音楽の中身を発信できるというのに、基本的な4拍子を、来る日も来る日も、刻み続けねばならぬ理由は無い。」ドラム奏者についても同じこと。エヴァンスは、打楽器ならではのモチーフを、ベース奏者の話と同様に、作り込んでゆく事ができたのである。 

 

 

彼は応えたがっている」これは、ビル・エヴァンスの説明の中にある重要な一文だ。「応え」たい気持ちと、「応え」られる能力、これが、彼のコンセプトにとって重要だ。これは、キース・ジャレットのコンセプトにとっても重要だ。彼は、このコンセプトを持って自分のトリオのメンバー選びに、かなり心を砕いたのである。彼が引っ張ってきたミュージシャン達は、彼が他のバンドで一緒に演奏したメンバーか、そうでなければ彼がよく知っている人間であり、更に言えば、ジャック・ディジョネットゲイリー・ピーコックの二人は、ビル・エヴァンスとも関係があった。エヴァンスがジャレットに授けたこの二人は、いわば、ジャズピアノトリオのピアノにとって、頼りがいのある「両腕」だったのである。こういった点からも、ジャレットはビル・エヴァンスの後継者、と言えるだろう。 

 

ジャレットのアーティストとしての人生でジャック・ディジョネットとの付き合いが最も長いと思われる。この二人は、チャールス・ロイド・カルテットの中核メンバーであり、マイルス・デイヴィスが色々組んだアンサンブルでも、中心的役割を常に果たしていた。デジョネットとジャレットがこれらのグループを脱退したタイミングが、いずれもほぼ同じであること、そして二人は、自分自身のアーティストとしての活動を、お互いとともに続けていること、この2つの点は、「たまたま偶然 

」などではない。ジャレットは人生初のジャズピアノトリオを組むに当たり、デジョネットではなくポール・モチアンをドラムに選んだ。当然この背景にあるのは、デジョネットとは既に2つのバンドで(チャールス・ロイドとマイルス・デイヴィスの二人の元で)一緒にやってきていたわけで、モチアンと一緒にやることで、ジャレットの経験値はあがるし、実際、これはまたとない取り組みとなった。このように特定のメンバーと深く長い付き合いになることは、ジャズの世界ではなかなか見られない。チャーリー・ヘイデンとの音楽活動は、途中何回か中断の時期を含めて、1966年から2014年に彼が亡くなるまで続いた。ジャック・ディジョネットとも同様、ジャレット、デジョネット、ゲイリー・ピーコックとのトリオは、1983年発足当初からしっかり結束が固く(1970年代半ばに何度か既に一緒に、不定期でやっていた)、今なお、モダンジャズの世界では最も堅固な音楽面でのパートナーシップであるとされている。 

 

1972年がキース・ジャレットにとって自分のことは何かと自分で決める年だったとするならば忘れてはいけないことがあるそれは彼にとってのこの自由は彼が自分自身を磨き育てた長い年月そしてその期間中、他のバンドリーダー達のやり方に従い、同時に自分がアーティストとして一本立ちできるかどうかを試した中で、生まれてきたものだ、ということ。ジョージ・アヴァキアンは、ジャレットがチャールス・ロイドとの契約中も、自身のキャリアを追い求めていることに、興味をもって注目していた。彼はジャレットの最初のトリオが結成される1967年までには、ジャレットのマネージメントを買って出ていた。アヴァキアンは、ジャレットが「自分の意志で、自分が音頭を取って」レコーディングをすることが確認できてから、トリオを結成しようと目論んでいた。このトリオが結成されるまでの10年間、ジャズがどう発展したかを見つめてきた者達にとっては、ベースにチャーリー・ヘイデン、ドラムスにポール・モチアンというジャレットの人選は、きっと驚きだったであろう。この二人は確かに、とびきりのミュージシャンだが、全く違う畑の者同士だったのだ。 

 

彼はカントリー出発点であり世間の見方は概ね彼の目指す音楽は、世間ずれがなく、素朴で、原点回帰、あるいは、敢えて陳腐さを求めている、と言われるほどだった。彼はダブルベース奏者としての、伝統的かつ体系的な教育を、しっかりと受けたにもかかわらず、その後「音楽の反逆児」となる。サックス奏者のオーネット・コールマンと共に、今なお伝説の、1950年代終盤にニューヨークの名門ファイブスポットで開催されたコールマンのカルテットのライブと、それに続く「フリージャズ」(活動名をそのままタイトルにしたもの)のレコーディングに参加した(偶然にもこの時、ダブルカルテットのもう一方のベース奏者がスコット・ラファロだった)。対するポール・モチアンは、洗練されたドラム奏者だ。「音楽の反逆児」とは無縁で、高度な緻密さを持つ室内音楽を創り出したビル・エヴァンス・トリオのメンバーである。コールマンのトリオが、徹頭徹尾のアヴァンギャルドで、素っ気なく荒削りな演奏の仕方をするのに対し、ビル・エヴァンスの音楽は、まるで自己陶酔型の音楽であるかのような印象を与えるものだった。 

 

このように音楽性がまるで違う者同士を、キース・ジャレットが自分のトリオに選んだのは、彼が自分の価値観に偏りを持たなかったからだ、ということ以上のものを物語っている。マイルス・デイヴィスとは違うアプローチで、キース・ジャレットは、この二人を一緒にすると、揃って、ほとばしるほどのエネルギーを爆発させるポテンシャルがあることを、きっと感じ取っていたのだろう。その後程なくして、ジャレットはサックス奏者のデューイ・レッドマンを、この初めてのトリオに迎えた。かくして、所謂「アメリカン・カルテット」がここに誕生する。チャールス・ロイドやマイルス・デイヴィスの元にいた時期に、アーティストとして一本立ちしてゆくために、着々と取り組んでいた活動と言えば、他にも、先述のアルバム「レストレーション・ルーイン」(1968年)や、ジャック・ディジョネットとのデュオアルバム「ルータ・アンド・ダイチャ」(1971年)の制作がある。「ルータ・アンド・ダイチャ」の方は、ジャレットがまだマイルス・デイヴィスの元に居た頃の制作であり、これを手掛けたマンフレート・アイヒャーによって2年後ECMよりリリースされることになる。デュオアルバムの秀作は他にもある。ヴィブラフォン奏者のゲイリー・バートンとのレコーディングだ。そして1971年といえばジャレットにとっては奇跡的とも言える多産な年だが、同年ECMで制作されたのが、彼のソロアルバム「フェイシング・ユー」である。1972年の幕開けとともにこのレコードが世に出ると、これを目で見て耳で聞いたすべての人々は、キース・ジャレットは人生の新たなステージを迎えたとの宣言、そう受け止めたのである。