about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)5章pp.73-76

「ミスフィッツ」で生まれた圧の強さを、穏やかな静けさへと変化させてくれるのが、次の曲「フォート・ヤウー」だ。ジャレットの金糸で装飾を施すようなピアノのモチーフが、フェルマータのたびに分断される。それらの音は、次の新たな動きが起こるまで、響いては消えてゆく。徐々に打楽器の音が一つまた一つと聞こえてきて、鈍く、ふつふつと湧いてくる。そしてメロディのモチーフと、リズムの連続が姿を表し始める。連続するリズムの刻みは、さながら、ニーベルンゲンの奴隷達が、地下の彫金場で金細工を作る光景を、思い浮かばせる。 

 

 

このサウンドが織り成す世界観を、幽霊の姿を吹き消すように、ヴィレッジヴァンガードの会場をぱっと明るく照らしだすのが、ジャレットの狂騒的なピアノのパッセージ、デューイ・レッドマンの賛美歌のようなサックス、チャーリー・ヘイデンの骨太なベース、そして歌の命を吹き込まれたポール・モチアンのシンバルである。彼らの奏で始めた音楽が、次に形作るのが、蛇使いの呪文のような風景。デューイ・レッドマンがミュゼットを吹き、ベースが最低音でリズムをキープし、ピアノがそのパターンを繰り返す。そのうちに、全体がフリーバラードのようになってきて、ピアノによる高音域での装飾音形の中に小さなモチーフが繰り返され、ポール・モチアンがベルのようなサウンドを聞かせ、全体の音が小さくなってゆく様子は、さしずめ、行列が地平線の彼方へ消え去ってゆくようである。次の「ザ・ドラムス」は、これとは対象的に、小太り気味なロック音楽調で、シンプルなピアノとドラムのリフから始まり、ノリの良いゴスペル調の曲想へと発展してゆく。唐突気味に、音楽はシャッフルリズムとなり、そしてベースが主導権を握り、他のミュージシャンを裏で操るかのように引っ張って、最後は曲の灯火をフッと吹き消して終わる。「スティル・ライフスティル・ライフ」は、ショパン前奏曲風に曲が始まり、バロック調の対位法による曲想となり、やがてロマン派の風となり、ついにはモチアンのリズムが、ピアノ奏者(ジャレット)とベース奏者(ヘイデン)をジャズへと引き戻し、ジャレットのほとばしるような、歯切れのあるフレーズによってそれは決定づけられる。さてこの音源の締めくくりは「ローズ・トラヴェルド、ローズ・ヴェイルド(訳意:これまで来た道、未だ見ぬ道)。序奏の主題は、音数の多いハーモニーと、音律的には比較的自由なリズムを用いており、「物語は長く、まだその半ばにあって、まずは腰を据えて暫くじっと聞いていてくれ」、と言わんばかりである。ジャレットが一つのモチーフをいつまでも繰り返し弾き始め、ハマってしまうと、「長い物語」が大作の体を成すのでは、と期待してしまう。多くの音楽作品には、その脇の話というのがあるが、この曲を聞いていると、スティーブ・ライヒの「ドラミング」やエリック・サティの「貧しき者の夢想」といった音楽や、ムソルグスキーが少年時代は田舎の裕福な家の子であったこと、ラフマニノフが少年時代はやんちゃ坊主であったこと、そんなことが連想される。そこへデューイ・レッドマンのサックスが表現力あふれる優雅なサウンドを聞かせ、曲は日の出のような輝きを放つ。キース・ジャレットがソプラノサックスでつぶやき始めると、レッドマンとの絡み合いあら、自然界の光景を音楽という芸術で描こうとする。 

 

打楽器奏者をエキストラとして加えた「アメリカン・カルテット」による4つのジャズアルバムの中では、この「フォート・ヤウー」が最もめざましく、魅力的な作品である。理由は、必ずしも洗練された音楽性だけではない。人々を魅了し自ら脈動を打つ、ヴィレッジヴァンガードというニューヨークのクラブが持つ、雰囲気の為せる技でもある。キース・ジャレットは、ライブ演奏に際しては常に、聴衆、会場の諸条件、刻々と変わる雰囲気、その他かすかな影響効果を、逃さず感じ取って行動する。だが誤解しないように。彼は様々な状況が複雑に絡み合う、ライブという状況に、寄りかかっているわけではない。彼には膨大な数のスタジオ収録作品があり、ECMのカタログでは、そちらの方が多数である。スタジオ収録作品と言えば、ドライな雰囲気がありそうなものだが、彼はそんな聞き手の懸念を払拭させてくれる能力があった。そんな彼とカルテットの好例を紹介しよう。「宝島」の最初の曲「ザ・リッチ」だ。出だしは賛美歌調のピアノ。キース・ジャレットにはお馴染みの始まり方だ。続いてサウンドに厚みを付けてゆくのが、比較的短めのリズムのモチーフと、魅力的なコードをともなった、旋律の登場である。これをしっかりと下支えするのが、チャーリー・ヘイデンの朗々たるベース、ポール・モチアンのドラムさばき(打楽器による凝縮されたリフ)、更には、デューイ・レッドマンの堂々たる高揚感あふれるサウンド。これらは一体となって、この収録全体のカギを握る。 

 

 

タイトル曲「宝島」はギター奏者のサム・ブラウンとの絡み合いにより、キース・ジャレットが高音域で見事な対位法による演奏を聞かせる、まさに珠玉の逸品。サイド2(訳注:LP版)1曲目のような自由形式によるプレリュードには、こういった曲をキース・ジャレットが手掛ける際の、注目しておかねばならない点がある。彼がこの手の音楽を手掛ける場合、高度で幅広い技巧を求めるようなことはしない。求めるのは、「民謡風に」という音楽用語が示すように、演奏スタイルの簡素さである。これはシューマンの「子供の風景 作品15」に通じるものだ。この曲は題名にも関わらず、子供用の音楽ではない。むしろ大人が、若い頃の思い出にふける、あるいは、シューマンの言うように、「大人のための、大人による、過ぎし日の回顧」である。「ヤキ・インディアン・フォークソング」では、キース・ジャレットが序奏をピアノで、それにデューイ・レッドマンが素朴で暖かなサウンドをかぶせてくる。正にこの二人のミュージシャンの間には、音楽表現に関する高度な理解が共有されていることを、まざまざと聞かせてくれる。 

 

ゴスペル調モチーフや、リズムのノリが強調されているアルバムではあるが、反復リズムやロック調のリフなどの特徴により、アルバム「バックハンド」は、確かに、通常のジャズの枠組をやぶる全く新しい音の風景をもつ作品を、世に示している。神秘的な曲「クーム」は、まずリコーダーがセオリーにはないメリスマ(装飾音形)をつけてくる。原始時代からやってきたようなこのフレーズは、大昔にピタゴラスとその弟子達が、自分達の科学的実験の成果を音楽的なシステムに作り上げる、そのはるか昔の「元々の」サウンドを追求した成果ではないか、と思わせてしまう。原始時代の風景を音に描いたこの曲は、打楽器群による不気味にこするようなサウンド(例:カバサ)が続く中、レッドマンの鼻にかかったようなミュゼット(東洋風のオーボエの一種)、純正調のコードを無視して機能を停止させるために音程を自由に変化させるベース、これらによって、彩りが添えられている。このLPの最高の見せ場である、「ヴァパリア」というバラードは、これまた彼らのスタジオ収録作品の逸品の好例だ。実はこれ以前に、「フェイシング・ユー」で短縮版が収録されている。ジャレットが、この甘く夢見るような主題につけている和声のパターンは、常にポール・モチアンの超人的なセンスによる「反応」(レスポンス)によって支えられ、三和音の持つシンプルな美しさを、新たな和声構築の境地へと進化させ、しかも「感傷的」「安易」に堕すことなく聞かせるあたりは、以前なら「いいね」とシンプルに評されていたものだ。当時、音楽表現については、「社会通念上、誰もがこう感じるであろう」と確信できる点が、比較的見出しやすかったこともある。今こそ、勇気を持って、再びこう言おうではないか「この部分については、キース・ジャレットの凄さと趣味の良さが現れている」。 

 

キース・ジャレットは「アメリカン・カルテット」とともに、更にもう6作品を、1976年までに手掛けている。4つはABCインパルス、2つはECMからである。これら一連の作品の数々は、「フォート・ヤウー」で既に始まった取り組みの、更なる進化を示している。それは、チャーリー・パーカーからチャールズ・ロイドに至るビ・バップの伝統に、ビ・バップ領域を更に、混乱を抑えてコントロールが効くようにしたフリージャズへと拡大した音楽を加えたものである。そうしてできたのが、これら6作品だ。何度も言うが、どの作品も、考えうる音楽表現とそれが持つ力は、全て動員したいという、ジャレットの思いが現れている。通常は自身の曲がそうだが、時に仲間の作った曲もある。例えばポール・モチアンは「バイアブルー」というアルバムに1曲提供しているし、また、このアルバムには、音楽界では全く無名の、それも音楽の勉強などしたことのない、デザインが専門の女性が書いた一品もある。そう、キース・ジャレットの妻、マーゴット・ジャレットである。アルバム「バップ・ビー」にも、デューイ・レッドマンチャーリー・ヘイデン、そしてアレック・ワイルダーらの作品が収録されている。 

 

ECMからの2作品は、ABCインパルスからの4作品とくらべて、根本的な違いが2つある。一つは、楽曲の形式に関するコンセプト、もう一つは、録音技術に関することである。後にジャレットは、ほとんど全てのレコード制作をECMへとシフトするが、その理由を知る手がかりとしては、「ミステリーズ」(ABCインパルス)と「残民」(ECM)という、1976年頃ほぼ同時に制作された2枚を比べて見るだけで良い。双方の間には、膨大な数のサウンドの種類が存在し、録音技術の品質における劇的な向上(パラダイムシフト)があったと言っても、全然過言ではないだろう。例えて言うなら、「残民」が生き生きと彫りの深さを感じさせる絵画だとしたら、「ミステリーズ」は、ルネサンス以前の、遠近法が再発見される前の絵の描き方をしている、といったところ。 

 

 

遠近法を例に出したが、音ならさしずめ「三次元音響」、つまり、録音した状態をそのまま聴ける音響のことになるだろう。だが今ここでは、1950年代から行われている、電気じかけの三次元音響(ひたすら立体的に聞こえる音響)のことを言っているのではない。今ここで言っているのは、複数の音が、お互いに別々に、ハッキリときこえてくる状態のことだ。「残民」では、ピアノ奏者とその奏でる一つひとつの音が、ピアノから分離しているのが、聞こえるだけでなく、まるで「見える」かのような気分になる。同様に、ドラムと様々な打楽器から聞こえるノイズや、サクソフォンの鮮やかな音色などもそうだ。ベースも、「何となく後ろでブンブン言っている」以上の音質となる。お陰でレコードを聴く人は、個々の音が伝わらず、ベタ塗りしたような音色を耳にすることなく、代わりに、個々の音色がハッキリ聞こえて、そして混ざり合い、完璧な音として耳に刻まれる。普段の生活で言うなら、行政などの検閲を受けずに、好きに何でも聴くことができる状態のことをいう。キース・ジャレットはスタジオ収録での経験を積み、こういった違いを熟知するようになり、そしてマンフレート・アイヒャーの仕事の細かさについても、よく物申していた。くっきりとした美しいサウンドを得るためならば、彼は何時間かかってもお構いなしに、録音スタジオで、マイクを何本も、ミリ単位で、あっちへ動かしこっちへ動かししていた。 

 

 

大きな違いの2つ目は、ECMとABCインパルスとの間で、収録する楽曲形式に関するコンセプトが異なっていたことによる。殊、「シェイズ」と「ミステリーズ」が顕著だが、「ビ・バップの伝統+フリージャズ「的」音楽」は、微々たるもの。全体的に、通常のジャズの形式を踏襲し、主体の提示から、各楽器のソロコーラスが続き、最後にまた主題に戻って終わる、という形をとった。ABCインパルスの「バイアブルー」と「バップ・ビー」も、この形式に収まっている。ところで、ジャレットは、自分の作品はちょっと遠慮して、代わりに仲間の作品を推したい、と考えていたことを、思い出していただきたい。対するECMの「残民」と「心の瞳」では、ABCインパルスの方針とはうってかわり、より幅広い種類の楽曲形式がまな板に乗った。一つの音楽集団が扱える膨大な演奏効果をものにした今、使いこなしも相互の意思疎通も、更に自由度を増していた。今や自発的にお互いの発信に反応することは、「出来ればやろうね」ではなく、「当然やるよね」に変わった。 

 

 

どいつもこいつも個々のインプロバイゼーションだの、お互いのアンサンブルだの、ちゃんと結果を出そうとやる気があったのか?と言おうとして、これを引き合いに出したわけではない。大体、演奏しているのは、どちらも同じ集団。同じでないのは、楽曲の形式に関するコンセプトと、レコード制作の物理的能力である。ビ・バップの「シェイズ・オブ・ジャズ」や、ラテンの「サザン・スマイルズ」、あるいは、穏やかで流れるようなバラード「ローズ・ペタルズ」などは、伝統的なジャズの形式を踏襲している(コーラスセクションを伴う主題提示型の楽曲形式)。でもメンバー達はインスピレーションを全開にして、眼を見張るほどのノリで演奏している。例えば「ダイアトライブ」という、文字通り感情を爆発させるような楽曲では、楽曲の基本スタイルだの構成形式だのは大した意味がなく、チャーリー・ヘイデンの超高速トレモロキース・ジャレットのキーボードを押し流す音の濁流、デューイ・レッドマンに至っては、マウスピース(歌口)をくわえて、唸ったり、歯を立てたり、罵るような声を上げるなどして、常軌を逸した叫び声のような吹き方をして音楽的なフレーズを押しつぶしてしまう始末。 

 

ミステリーズ」も、こういうハジけた個々のプレーが集まっている。チャーリー・ヘイデンがエネルギッシュに演奏する「ウォーキングベース」(同じ音形をさっそうと歩くように弾くベースの奏法)は、やがて熱狂的に同じ音形を繰り返し始める。その様子は、まるで、キース・ジャレットマイルス・デイヴィスのバンドにいたとき、ワイト島でのフェスで見せたパフォーマンスを、聞き手に思い起こさえる。あれはただひたすら、自らのエネルギーを振り絞るものだった。こうしたインプロバイゼーションの離れ技を披露する曲がひしめく中、ふと耳にして涙がでてくるのが、「エブリシング・ザット・リブス・ラメント」である。アルバム「流星」ですでに登場しており、メンバー達の高い腕前が、ノビノビと見事に発揮され、ジャレットのコードはまるで象嵌を刻むように、各楽器の後方で神秘的な背景となっている。「バイアブルー」の収録曲の一つ「ヤーラ」などは、デューイ・レッドマンのミュゼットとモチアンの操る様々な打楽器によって輝きを放ち、ここではジャズの奏法に東洋音楽のサウンドが融合している。ビ・バップの王道をゆくような作品もある。デューイ・レッドマンが書いた「ムシ・ムシ」は、セロニアス・モンクばりの突発的なピアノのフレーズが時々顔を出す。