Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)5章pp.77-84

チャーリー・ヘイデンといえば、ジミー・ブラントンレイ・ブラウンといった奏者たちと同じ、「ウォーキングベース」のスタイルを持つ印象的な存在として知られているが、同時に、自らリフを創り出し、それをしっかりと演奏し続けることができる。これにはテコでも動かないカウチポテト族も、思わず足でリズムを取り始めてしまうほどである。デューイ・レッドマンのマウスピースやリードを使いこなした「奇声」はお馴染みのところだが、同時に彼の朗々と抒情的に歌い上げるサウンドは、どんなキーで演奏しても音が曇らないのでは、と思わせる。ドラム奏者のポール・モチアンは、音の彫刻家といったところだろう。だが彼もその気になれば、アート・ブレイキーのような熱狂ぶりで、ドラムのリム(縁)だのハイハットだのシンバルだのを、チンガラガッシャーンとやらかすことだってできる。そしてキース・ジャレットは、兎にも角にも、何でもござれである。こうした多様性がどこよりもクッキリと耳にできるのは、銘品残氓」そして、これとは一貫性はないがこちらも大作の「心の瞳」、これらに勝るものはない。「ワールド・ミュージック」という言葉は、気の利いた言い回し故に使い古されてしまった感もあるが、まだその意味が残っているとしたら、「残氓」は、凝り固まった主義主張や音楽ジャンルの定義付けも無い分、そう呼んで差し支えないだろう。素直な心の持ち主が聴いたのでは、序奏の深みのあるフルートの音がどこから鳴り響いてくるのか、推定できないだろうし、既存の音楽の仕組みに当てはまるような、リズムの使い方に制約のないサウンドのパターンを、見出すことも出来ないだろう。そしてベースが四分音符を弓で叩いて鳴らすようなモチーフを、いつまでも弾き続けると、それはそれでジャズのリフになってしまうものだ(5拍子なのに、である)。その瞬間私達は、チャーリー・ヘイデンが、音楽的な意図を綺麗サッパリ洗い流して無の境地に至り、何処にも行きそうもないし、逆に何処へでも行ってしまいそうなピチカートの雨あられの陰に、彼の存在が隠れてしまうことに気づく。ソプラノサックスとテナーサックスは、東洋風に響くサウンドで細かく描かれたアラベスク模様を、音にして描き、そのベースにある、ポール・モチアンの刻み続ける一定のリズムによってテンションが上り、自らトランス状態に陥ろうとしてるように見える。と思いきや、突如現実に引き戻すのが、転調だ。これにより新たな調性に浸りはじめ、同じメロディの素材を使いながら、「五度圏」を巡る旅が始まる。最初の基音からその5度上、そのまた5度上、そのまた・・・と繰り返しつつ元に戻るその様子は、「人類共通の庶民の音楽」という新たな枠組みの中で、バッハが「平均律クラヴィーア曲集」で示したことが正しかったことを、証明して見せているようである。 

 

大体1時間かかる2部構成の「残氓」で、メンバー達は音楽のことが全て載っている事典のページを、一枚づつ開いてゆく。大昔のストライドピアノ奏法から始まって、スイング、ビ・バップ、フリージャズから、新興宗教か何かの激しいダンスのような音楽まで、次々と音としてページから飛び出してゆく。対位法とは?情熱的な演奏とは?四声旋法とは?あるいはドイツ人が「民謡風に」というところの、素朴な叙情性ある演奏とは?こういった問いかけに対する答えを、メンバー達は探しているようである。聞こえてくるのは、ジャレットが古代からの「天体の共鳴」について探り、これを説明するべくチェレスタを弾き始める。天国のような音楽が、クッキリとしたコントラストを聞かせるのが、ゴツゴツとしてサウンド。ヘイデンのベースだ。そして今度はジャレットが登場。「天体の共鳴」などという精神世界の高みに登る力が、ピアノに隠されているのかを、試すのである。ヘイデンがこれに続き、よく響くベースの音でジャレットの芳醇なピアノの響きを、更に豊かにする。「残氓」のエンドに登場するこのデュオほど、官能的で神々しいデュオは、なかなか思い浮かばない。録音は、透明性が高くバランスも良く取れていて、聞く人にとっては、自分とメンバー達との間には録音機材など一切なく、ステージ上に一緒にいて聴いているような気分になるくらい、演奏の全てが、何一つ漏れなく、レコードに収まっている。 

 

ここから「心の瞳」への道のりは、さほど長いものではない。「心の瞳」には息の長いパッセージが幾つか出てきており、それらは繰り返しのパターンが再度用いられ、そして音楽全体の持つ、瞑想にふけるような恍惚状態の雰囲気以外では、実際にはほとんど何も起きていないように思える。聴く人の耳が釘付けになるのは、数多くの素晴らしいモチーフが、曲全体の色合いが次々と変化する中で、浮かんでは消えてゆく様子であり、あるいはジャレットの、音楽的な土台をガッチリ固め、彼の両手にコントロールされるも、次々と自由に飛び出してくる演奏内容である。ここでもメンバー達が、あれやこれやと様々なサウンドをたっぷり聞かせてくれるのが魅力的だ。「心の瞳」が収録されたのは1976年5月。オーストリアブレゲンツのコルンマルクト劇場でのライブで、「アメリカンカルテット」による欧州ツアー中に、ECMが計画・実施を担った。この作品を最後に、結成から5年の歳月を経て、カルテットは間もなく幕を閉じる(だがメンバー同士の人間関係には一切のキズは残らなかった)。4人の内、ジャレット、ヘイデン、そしてモチアンの3人に至っては、このカルテットの前身と見るならば、10年にも及ぶ演奏コラボがある。 

 

だが、個々の創造性がもれなく詰まっているにも関わらず、このグループはこれで幕を閉じることとなった為か、この収録には美的情緒がしっかりと刻まれた。この録音は、「残氓」の基礎的な素材を幅広く土台としている。もしそうしなかったなら、幾つかのパッセージは長すぎて収集がつかなくなり、キース・ジャレットもそれとなくコメントしているように、デューイ・レッドマンなどは参加を拒否したことだろう(この録音では出番はあまりない)。第1部には奇妙な部分がある。演奏が突然止まり、30秒ほどの間、文字通りポッカリ穴が開く。それまでソプラノサックスを吹いていたジャッレトが、ピアノでコードを弾き出す。続いてヘイデンが、ためらいがちにベースを爪弾く。更にはモチアンが、何となく自信なさげに打楽器の音をポツリポツリと聞かせる。LP2枚組であるにもかかわらず、内1枚は片面しか録音されていないという、奇抜さもある。だがこうしたヤキモキさせるようなことが、この最後の作品にはいくつかあるにも関わらず、「アメリカンカルテット」は、1970年代の、最も多様性があり、最も革新性があり、最も創造性がある、そんなジャズアンサンブル集団であったことは、誰もが間違いなく認めるところである。「そんなことはない」というのであれば、特に大作「残氓」のことを考慮すれば、理由は唯一つ。「ヨーロピアンカルテット」の存在である。 

 

アメリカンカルテットと比べた時、「ヨーロピアンカルテット」は、かなり異なる経緯を持つ。そして、かなり多くの注目を集めた。それは、ジャレットとECMが接点を持った初期の段階における、アメリカでの注目度と比べた場合の話である。注目を集めたのは、アメリカ人とヨーロッパ人が共演したからでは、当然ない。大西洋を挟む両側のミュージシャン達が一緒にレコーディングを行うなど、時々行われていて、特に、ケニー・クラークバド・パウエルドン・バイアス、オスカー・ペティフォード、ドン・チェリージョージ・ラッセル、そしてリー・コニッツといった名手達が、一度、二度と、ヨーロッパに拠点をおいて活動をするようになってからは、尚更のことだった。だが1970年代は依然として、アメリカ人ミュージシャンにとっては、本国に拠点を保つ場合、ヨーロッパ人が主軸のバンドと活動を多く行い、お金をとって演奏会を開き、楽曲を提供し、レコーディングを行うといったことを、ある程度長い期間行うというのは、やはり例外的なことだった。 

 

 

ヤン・ガルバレクキース・ジャレットは、共にECMに所属していた。ジャレットは、彼のことを、親しくなるずっと以前から知っていた。1966年にチャールズ・ロイド・カルテットが初めてヨーロッパツアーを行った際、ジャレットは、ストックホルム在住の、とあるジャズ仲間から、ジョージ・ラッセル(当時スウェーデン在住)が弟子達の一部との演奏を収録するから聴きに来てくれないか、と頼まれていた。そのメンバーの1人がヤン・ガルバレクだった。彼の特徴的なサウンドに、すぐさまジャレットは興味を持った。後にジャレットは、この時ガルバレクに心惹かれたことを、自身の公式伝記執筆者であったイアン・カーにこう語っている「これは、あるスウェーデンのバンドの演奏を聞いたときのことだ。そのバンドのテナーサックス奏者のサウンドが耳に入ってきて、僕はこう思った『おいおい、チョット待ってくれよ、これは要チェックだろう』僕は彼のサウンドを耳の奥に刻み込んだ。そしてこう思ったんだ。いつかこのサウンドが、僕にとって力になる、とね。その時の彼は、まだ幼くて、僕も人のことは言えないけど、彼は本当に幼い子どもだったからね」。実際はその時、ガルバレクは19歳、ジャレットは21歳、「幼い」という年齢ではなかった。 

 

一方ガルバレクは、ストックホルムでのチャールズ・ロイド・カルテットのライブを聞いていて、特にリズムセクションと、そしてジャレットの演奏に印象を受けていた。このカルテットの演奏した「枯葉」を聞いたガルバレクは、そこに、古い時代のジャズ、現代のサウンド、古典、印象派、無調音楽、そして実験音楽といった、音楽の歴史絵巻を見出したという。チャールズ・ロイド・カルテットが後年行った、あるヨーロッパツアーの際、ジャレットはオスロで開かれたヨン・クリステンセンヤン・ガルバレクとのジャムセッションを聴く機会を得ることが出来た。ジャレットは、これほど印象的なフリージャズを耳にするのは初めてだった。二人が60年代後期に再会したのがボストン。そこではキース・ジャレットマイルス・デイヴィスのバンドにいた。そしてヤン・ガルバレクは、彼らの演奏が行われたクラブの、最前列に、1週間毎晩通い席を陣取った。バンドは当時良い状態だったはずだが、ガルバレクのほうは、今ひとつ掴めるものはなかった。ちなみに、湯治のラインアップは(チック・コリア脱退後のことである)、ゲイリー・バーツ、マイケル・ヘンダーソンジャック・ディジョネット、そしてキース・ジャレット。後にキース自身、デイヴィスが招集した最高のメンバー、と称している。このメンツで音源を世界に発信できなかったCBSには、落胆したと、彼は語っている。 

 

1972年、マンフレート・アイヒャーがキース・ジャレットに、ヤン・ガルバレクとのコラボを持ちかけた際は、、すんなり話がまとまった。既にこの数年前、ジャレットとガルバレクは、ある共通の音楽プロジェクトに向けて一緒にやれないかと、アンテナを張っていたところだった。すんなり話がまとまったことがもう一つ、キース・ジャレットがマンフレート・アイヒャーへの、レコーディングの提案である(既に計画中のカルテットの制作の先に)。そこには、予めジャレットがガルバレクに作曲を申し出ていた、サクソフォン弦楽合奏の為の新作も含まれていた。1973年冬、ヤン・ガルバレクは渡米し、ジャレット家に数日間滞在、そこで将来どんなレコーディングをしようかと話し合った。ガルバレクは当時を振り返り、話し合いは友好的かつリラックスした雰囲気で、音楽のことを語り合ったが、それは他の人が想像するであろう、仕事の議論とは全く違うものだった、という。食事を共にし、一緒に散策し、互いを知る機会となり、二人の新作を語る上で、余計な事を言う必要はない、という結論に至った。数カ月後、キース・ジャレットの「ヨーロピアンカルテット」の初録音が、オスロで行われた。ジャレットとABCインパルス!との契約によると、自分自身の名前を冠したカルテットでの演奏を禁止していたため、アルバムのタイトル曲「ビロンギング」を使い、このカルテットは「ビロンギング」の名の下、正式にその名をお披露目された。このセッションの数日後、「ルミネッサンス」のタイトルの下、ドイツのルードヴィヒスブルクで、管弦楽作品集の収録が行われた。タイトル曲「ビロンギング」の収録は、ジャレットの才能に誰もが心を動かされた。マンフレート・アイヒャーによると、ジャレットはLPの収録は1度きりで、それ以上はしない、との強い気持ちであった。彼はよく、マイルス・デイヴィスのように、技術的に完璧な演奏を収録するよりも、その場の各奏者の自発的な思いつきを大事にした。こうなると、ミュージシャン達は相当な努力をして演奏に集中することが、明らかに求められるようになる。ヤン・ガルバレクによると、レコーディングがテキパキと終了したためしなどなく、しかもリハーサルもほとんどなしで行われた。オスロのアルネ・ベンディクセン・スタジオの上を、あたかもマイルス・デイヴィスの霊が舞い、こう求めているようだった「これなら吹ける、と思うものなんか吹くな。こんなの吹けるかな、と思うものに挑め。」 

 

このバンドはドイツ国内で数回コンサートを開催した。その後、ヨーロッパツアーへと進出するのだが、ECMによる「ダブルプログラム」の一環であり、ツアーの謳い文句は「インプロヴァイズド・ミュージックの夕べ」であった。各回とも、2部制で、それも両方とも2つのフォーメーションが続けて配されて、実施された。第1部で、キース・ジャレットの「ヨーロピアンカルテット」に、エグベルト・ジスモンチ(ギター)と、ナナ・ヴァスコンセロス(打楽器)が加わる。第2部では、「オレゴン」に続いて、ヤン・ガルバレクラルフ・タウナーのデュオである。この「ヨーロピアンカルテット」は、「アメリカンカルテット」同様、5年間(1974~1979)続いた。だが公開演奏の回数も、たった4枚というアルバムリリースも、アメリカンカルテットに比べると少なかった。5枚目のアルバム「スリーパー」は、ずっと後の2012年にリリースされた(人によっては「死後の遺作」などと揶揄する者もいる始末)。音源は、1979年の東京でのコンサートと、その他の会場でのものが収められている。アメリカンカルテットに比べると、公開演奏の機会もアルバムリリースも少なかったが、行く先々の聴衆は「ヨーロピアンカルテット」を大いに歓迎し、「アメリカンカルテット」の優れた点に迫るものと、もてはやした。 

 

これらの音源を聴いていると、なぜこうした音楽が、今日まで世界中のミュージシャン達にインパクトを与えているのか、そしてなぜこの2つのカルテットが、モダンジャズの歴史上、最高峰に君臨するものの一つとみなされているのかが、容易に理解できる。このカルテットを知る音楽ファンの多くは、そのデビュー作「ビロンギング」が記憶にある。メンバー達は、この収録まで、一緒に公開演奏に臨んだことも無ければ、単に一緒に演奏したことすら無かったのだ。このアルバムは、リハーサルを殆ど行わず、一発録音のみでありながら、稀に見る傑作であり、参加メンバー同士が、お互いを直感的に理解し合ったという、奇跡がもたらした成果である。この録音に匹敵する、鮮明さとバランスの良さを持つ作品はない。4人の間には、自然に音楽家としての絆が生まれ(身勝手な技のひけらかしなど微塵もなく)、自信に満ち溢れ、意思の疎通を常に意識し、芸事を生業とするものとのしての思慮分別を持って、仲間の考えていることには、的確に呼応し、敬意を表しているのだ。敢えてロマンティックな物の言い方をすれば、メンバー達をまとめ上げ、これほど音楽的に自由なアンサンブルを送り届けることが出来た原動力は、「一目惚れ」という気持ちに尽きると思われる。「ビロンギング」は、っジャズ100年の歴史の、栄光の史実に記録されるに値する作品だ。 

 

新しいサウンド、突飛なサウンド、新しい形式、尋常ならざる美的感覚、そういった観点から行くと、このアルバムには、革新性だの革命性だのというものは全く無い。もしこの音楽を、定番の芸術作品として分類しようものなら、あるいは、採り上げられた音楽素材の話題性について、何らか理屈をつけて疑問を呈したり、今時の音楽としてはその質はいかがなものかと疑ってかかったりしようものなら、愚問として自分に跳ね返ってくるだろう。異例ずくめのレコーディングセッションであったにもかかわらず、出来上がった音楽は、形式は完璧、演奏は無傷という仕上がりだった。「様々な芸の結晶」から、珠玉を一粒ご紹介しよう。バラード「ブロッサム」(意訳:花、ほころぶ)は、バロック調に春の出来事・心境を描いたもの。ピアノの序奏で導き出される民謡風のメロディは、ガルバレクがしっかりと燃えるような音色で聞かせる。その様は四方に相対し、まるで全ての人々にその姿を見せる石像のようである。思わず心に浮かんでしまうのが、アリスティド・マイヨール作の裸婦銅像「地中海」だ。作者曰く「陽の陰る庭にかざる像」。この庭を、そっくり描いているようなジャレットの伴奏は、ピアノによる「伸びゆく枝葉」、そしてメロディを支えるハーモニーによる「陰り」を思わせる。パレ・ダニエルソンの歌心あふれるベースが、示唆に富むトレモロで同じ絵を描きはじめる。勿論、ヨン・クリステンセンのドラムも、「やらされ感」を微塵も感じさせない。 

 

 

このアルバムを聞いていると、高い塔が幾つも連なって立っているようで、その中にあって「ブロッサム」は正に最高峰。もちろん他にも秀作揃いで、「スパイラルダンス」はスィングが効いていて、ゴスペルソングの「ロング・アズ・ユー・ノウ・ユーアー・リヴィン・ユアーズ」(意訳:長かろうが、それが君の人生)では、ジャレット、ダニエルソン、クリステンセンからなるリズムセクションストンピングにのせて、ヤン・ガルバレクが喜びの歌をうたう。曲名が短いところで、「ビロンギング」は、ガルバレクがボーカリストのようにメロディを歌い、ジャレットが雰囲気のある伴奏を弾く。目を閉じて聴いてみれば、シューベルトの無言歌の演奏に、どちらかというと相応しいともいえる、ガルバレクとジャレットの二人の興に入った挙動が目に浮かぶようである。そして、「ソルスティス」はロマンチックさで上回る「ブロッサム」を、感情むき出しに演奏し、「ザ・ワインダップ」はお道化たスクエアダンス。「ザ・ワインダップ」の方は、激しく弾きまくるキース・ジャレットのソロの部分を含む。無伴奏で、元のメロディを細切れにし、単音にしたものが、リズミカルに歌われ、そうすることで拍を取るための基本リズムを刻むビートを演奏しなくても、曲の鼓動を感じさせるという、良いお手本である。 

 

それから3年後に制作されたアルバム「マイ・ソング」の魅力も、ひけを取らない。リズムの複雑なビ・バップ以外では、フリージャズのナンバー「マンダラ」が、比較的哀愁に満ちた曲想を聞かせてくれる。聞きやすい作品で、時に物悲しさもある。聞き手に大きな負担を掛けずに、また謎掛けめいたものもなく、そのまま聞けば良い、いった具合である。きっと録音スタジオには、穏やかな空気感が満ちていたのだろう。それがあればこそ、こんなにも滑らかで、優雅にコントロールされた音楽が生まれてくるのである。例えば、素朴なカントリーミュージック風に曲が始まったかと思えは、次に茶目っ気あふれるルンバのリズムになり、やがて主軸となるビートが失われて3拍子のワルツにかわり、曲を締めくくる。このアルバムを聞いた印象としては、ジャレットは殊更ガルバレクが傍らにいるのが心地よく、胸襟を開いて意見交換し、途切れなく会話の言葉がつながり、ジャレット1人が音楽面の責任を全て負わねばならないという責任感から、彼を開放してくれた、そう感じたことだろう。同じことが言えるアルバムが、「ニューダンス(訳注:New Danceの当て字)」「パーソナル・マウンテンズ」「スリーパー」。これら3作品と「ビロンギング」のリリースの間は5年。この間、ジャレットは世界を驚かせ続ける。「ケルン・コンサート」そして「サン・ベア・コンサーツ」のリリース、クラシックの委嘱作品の発表、ドイツのオットーボイレン修道院にある、名職人カール・ヨーゼフ・リープが手掛けたバロックオルガンを弾きに訪れたことである。1979年収録の3作品を聞いていると、「ヨーロピアンカルテット」が世界的舞台から去ってゆくにあたり、最後に幸福感あふれる気持ちを音にしたようである。今となっては、もう少し長く、彼らの活躍を享受したかったと思うしかない 

 

「パーソナル・マウンテンズ」は、1979年の東京でのライブ音源だが、レコードの発売は、その10年後となった。その訳はおそらく、先行発売のヴィレッジヴァンガードでの録音「ニューダンス」において、半数の曲目がバージョンが違うとはいえ、重なってしまっていたからであろう。それから「スリーパー」、こちらは「パーソナル・マウンテンズ」と気を同じくして制作され、他の2作品からの素材を合わせており、先述の通り、リリースされたのは2012年と、ずっと後のことである。これら3作品では、同じ曲を2度、あるいは3度耳にすることができ、4人のメンバー達がインプロヴァイゼーションを底なしに発揮してくれる様子が、類まれなる鮮やかさで思い描くことができる。その中でも、キース・ジャレットは別格なのだ。楽曲の形式を気にせず、そして、「パーソナル・マウンテンズ」という曲について、同名のアルバムに収録されている分と、「スリーパー」に収録されている分とが、全く同じ楽曲であることを一旦頭からどけて聴いたなら、全く違う楽曲を聴いていると、コロッと信じてしまうだろう。特にインプロヴァイゼーションの部分などは、尚更である。曲に変化をつける技の豊富さの賜物であり、そしてジャレットとガルバレクが元ネタを変化させる手法は、世界中どのジャズを専攻できる大学でも、修士号を獲得できること、請け合いである。「プロセッショナル(意訳:聖殿に向かう行列)」では、ピアノが瞑想めいた装飾音符を響かせる。その様は、ビリー・ホリデイが歌う伝説的なバラード「ドント・エクスプレイン(意訳:訳は言わないで)」のイントロで使った手法によく似ている。ここへテナーサックスが加わると、曲想が変わり、ヒッチコックの映画のようなミステリアスな情景に。だが再びジャレットが雰囲気を変えてくる。ベートーヴェンピアノソナタの楽章から引っ張ってきた感じだ。彼はこれを掘り下げすぎて、戻ってくるのに難儀しているようである。こういった印象は何に由来するのか。それは、ジャレットは一回演奏したものは、頭と指先が絶対に忘れないことにある。彼の演奏を聴く時は、注意力を切らさないことをおすすめする。驚きに沢山出会えるのだ。例えば、ドビュッシー流の分散和音を、シェーンベルクばりの無調音楽で使ったり、ブギウギのリズムを、モーツアルト時代のアルベルティ・バス(低音部の分散和音を用いるリズム音形)で演奏したりする。 

 

1979年は、キース・ジャレットにとっては、音楽面での転機であったが、同時に私生活においても転機が訪れる。2つのカルテットの活動が終わった。そしてソロ活動への取り組みは、彼をジャズ界の頂点へ押し上げたばかりでなく、インプロヴァイゼーションの歴史において、異色の地位を与えた。ジャズとクラシックの両分野にわたる彼が作った曲の数々は、34歳にしてその多才さを見せつけただけでなく、未だそれは氷山の一角に過ぎないこと、音楽界での地震予知能力ともいうべき、先見の明をフルに発揮しつつ、ピアノ奏者として、作曲家として、そしてインプロヴァイゼーションの凄腕でもあるという、彼のとどまるところを知らない快進撃に、更に期待がかかっていた。 

 

休むことなくスタジオからスタジオへ、コンサートホールからコンサートホールへと駆け回り、ここまで文字通り、一瞬の途切れもなく音楽活動に取り組んできたことによる、ツケを払うことになる。アーティストが、公演活動を頻繁に行い、自身の音楽に没頭するばかりだと、例外なくそれは、夫婦間の溝の拡大を徐々に招く。マルゴットは家に残って二人の息子ガブリエルの世話をし、世間から隔離された専業主婦としての立場に追い込まれる。当然、状況は悪化するのみだ。以前は、マルゴットとガブリエルも頻繁にキースとツアーでは同行していたが、3人の誰にとっても、決して嬉しいこととは言えなかったようである(イアン・カー曰く)。キースにしてみれば、コンサートには集中しなくてはいけないし、家族で休暇中アウトドアした際の腰痛に悩まされなければいけないし、といった具合。 

 

           

1978年1月に次男のノアが生まれた後は、マルゴットはツアーへの同行がほぼ不可能になった。だがキース・ジャレットとは、それ以前から、家庭を自分の居場所と考える男ではなかったということなのだ。想像だが、子供時代に両親の離婚問題があった彼にとって、音楽とは、その頃から、そしていまだに引きずって、自分の精神状態を守るための地下壕のようなものに、なってしまっていたのだろう。ローズ・アン・コラヴィートという若い女と、1974年にボストンへ仕事で少し滞在した際に出会い、関係を持ったことで、ぐらついていた夫婦関係が更に悪化する。ローズ・アンとキースは、その後お互い音信が途絶えるが、4年後に再会する。よりを戻そうと言い出したのはローズ・アンの方だが、ジャレットもまんざらではなかったはずである。この関係はヒートアップし、結果、1979年にマルゴットと、ついに離婚に至った。当然予想される通り、8歳だった当時の息子ガブリエルとは、その後数年間、連絡をシャットアウトされる。後にある程度以前の状態にもどるのだが、この間、次男のノアとは、従前の関係が保たれた。その頃、キースは自宅敷地内に新しいスタジオを建設中であったが、マルゴットが邸宅の所有権を放棄したため、彼はそこに居続けることができた。 

 

 

 

この離婚の直後、ジャレットはローズ・アン・コラヴィートとともに、後に成功を収める日本へのツアーに乗り出し、「パーソナル・マウンテンズ」と「スリーパー」のレコーディングもこれに伴い行われた。その後の全米クラブツアーも成功裏に終わる。その中には、かの伝説のニューヨークのヴィレッジヴァンガードでのライブがあり、後にアルバム「ニューダンス」として収録・リリースされた。キース・ジャレットは自身のカルテットがニューヨークでライブを行う時は、ヴィレッジヴァンガードを選ぶのが常だった。元来彼は、付き合いの長い友人達には、誠実に、そしてその関係を大切にする人間で、それはこのクラブに対しても全く同じだった。何しろ、1960年代に彼のトリオがほとんど無名だった頃からずっと、このクラブだけがしっかり迎えてくれているのだ。ジャレットと、クラブのオーナーであるマックス・ゴードンとの間の約束で、ジャレットへの出演料を力いっぱい抑えることで、入場料を一番安いところで$6.50に維持した。全5回のライブのチケットは、いつも完売。毎回当日になると、待ちわびるファンの行列は、何と7番街まで続いたという。キース・ジャレットアメリカでの人気は上昇し、同時に、ヨーロッパでの人気の度合いに迫っていた。