about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)6章pp.88-92

ジャレットは天賦の才を持つソリストと書いたが彼が一般的なピアノ奏者味わう苦労をせずに来ているかと言えは、そんなことはない。グレーテ・ヴェーマイヤーというピアノ教育者が、カール・ツェルニーフランツ・リストにピアノを教えた人物)について記した本の中で、「独りピアノに縛り付けられて(この時、有名な「ツェルニー」の教本を持つかどうかは関係なく)」と、激しい言葉遣いながらも的を射た言い方をしているのみれば、あの天才ツェルニーでさえ苦労したのだから、ジャレットが苦労をしてきていても当然である。キース・ジャレットといえども、ソリストと言う孤高の立場にまつわる、心身のストレスからは、逃れられなかった。「逃れる必要がなかった」というのが、実際のところだ。このことは、彼の同業者であったグレン・グールドヴァン・クライバーン、そして少し時代はあとになるがフリードリヒ・グルダといった、ここでは無理矢理クラシックに全員分類してしまうが、彼らと同じである。ジャレットは多くの機会を得て、その長いステージ演奏のキャリアの中では、グランドピアノに座り辛い思いをして独りで居るより、他と一緒に演奏を楽しんだ。それも、ジャック・ディジョネットポール・モチアンチャーリー・ヘイデンゲイリー・バートンゲイリー・ピーコックヤン・ガルバレクデューイ・レッドマン、キム・カシュカシャン、他にも枚挙に暇のないくらい優秀なアーティストたちと一緒にである。それでもなお、強調されて続けているのが、キース・ジャレットソリストのお手本である、ということだ。 

 

ソリストというものは、自分の世界に引きこもってしまうのが常である。キース・ジャレットも然り、有名人になったことで世間の喧騒から距離を置き、ひっそり暮らしている。ジャレットが「ソリスト」になりきっていたいたわけではない、という仮説に対して、その証拠のような話がある。彼は実際のところ、音楽人生においては、「同僚の一人」という居場所をいつも持っていた。チャールズ・ロイド・カルテットでベース奏者として一緒だったロンマ・クルールは、同僚の一人としてのジャレットについて、ある種の同情の念を込めて、そして非難するではなく、次のように述べている。「キースは演奏に際しては、助け船を出してくれるようなタイプではなかった。ある曲を演奏する時、こちらがコード進行を知らされていないと、普通なら教えてくれそうなものだが、彼はそうしてくれない。彼はチームプレーをするでもなく、他のメンバーが困っていても助け舟も出さず、要するにチームプレーができないのだ。子供時代にそういう経験を積んでこなかったのだろう。例えば野球をするとかね。だがキースの才能は誰もが認めるし、ずば抜けている。彼より劣っている人間からすると、彼は取っ付き難い人間だ。私に対しても不満を持っていたことがあったんじゃないかな。エアコンの温度設定なんかだと、私は低めがいいのでね。私の設定温度は22℃だけれど、彼は、なんと82℃!、高温熱風だね。(原文は「私」が華氏72F、「キース」が華氏180F)」 

 

キース・ジャレット自分自身の音楽というよりもむしろ自分自身のサウンドの世界にハマっていたことを伺わせる、良い事例がある。視点を、彼の膨大な演奏実績に置いてみよう。歌手をゲストに迎えた散発的な収録や、アート・ブレイキー、チャールズ・ロイド、マイルス・デイビスの各バンドに居た時代を除いての話である。彼は、他人が作った曲を演奏しなければならない仕事については、滅多にやる気を見せなかった。そういうレコードは、全部かき集めても、5・6枚しかない。カナダ出身でイギリスに本拠地を置くトランペット奏者ケニー・ホイーラーが、ECMからレコードをリリースする計画が持ち上がったときのことである。彼のために、マンフレート・アイヒャーが参加を要請したのが、元マイルス・デイビスのプロジェクトにいたミュージシャン達で、ベース奏者としてデイヴ・ホランド、ドラム奏者としてジャック・ディジョネット、そしてキース・ジャレットにも声がかかった。1975年6月、ジャレットはこの要請を受諾、結果できあがった作品は、高い製作技術を発揮したものであり、ドイツレコード大賞を受賞した「ヌー・ハイ」である。いつもそうだが、ジャレットがホイーラーの書いた楽譜を受け取ったのは、収録開始直前であった。あろうことか、彼はそのうちの1曲について、スタジオまで入ったところで、ホイーラーに手渡して戻すと、特に悪びれることもなくこう言った「この曲は、僕なんかの手には負えないです。」要は、彼の好みではなく、愛着を感じられない、ということである。 

 

ホイーラーは目まぐるしい転調を好んだが、ジャレットにとっては自分の音楽観にないハーモニーの在り方だった。「この手の転調は、僕の手に余る厄介なものだった。当時の僕はそういう状況だったということだ。今回アルバムは、各曲の譜面を見た段階では、僕の琴線に触れるものがなかった。曲によっては構造が、あまりにも人為的であり、一から十まで楽譜に書き込まれていて、僕なんかは、もう少し角が取れたほうがいいのでは、と思いたくなる代物だった。そしてその発想が、一つ一つの音符に現れている。僕が他人とのセッションをあまりやらないのは、こういう事態に巻き込まれたくない、というのも理由の一つだ。」事情がわからないマンフレート・アイヒャーは、タイミングを見て音響調整室にジャレットを呼び、存念を尋ねた。ジャレットは一言「何ていうか・・・僕の手に負えないって、言ったとおりだよ。」 

 

同じようなことが起きたのが、ゲイリー・ピーコックの場合である。彼は音楽活動を休止して第一線から離れていた時期がしばらくあった。その復帰後、マンフレート・アイヒャーの要請により、彼の名前の元、レコード制作が始まる。だがこの時はキース・ジャレットジャック・ディジョネットも最初から一緒であった。こちらは1977年、結果できあがった作品は、小さな火種となり、6年後、再燃した炎から生まれ出たグループは、ジャズ100年の歴史上、最も優れた成果を残し人々の心を揺さぶるトリオとなっていった。この時も、ジャレットがゲイリー・ピーコックの書いた譜面を受け取ったのは、収録開始前日であった。ジャレットはその際、収録1曲目の「ヴィニエット(題意:触れ合いの一コマ)」に対して好意的な反応を示した。「テイルズ・オブ・アナザー」の他の収録曲については、彼は何もコメントを残していない。何年も後になって、彼がこの時ピーコックの作品をディジョネットらと楽しんで演奏できたかどうか、と尋ねられた時、こう答えた「僕の手に負えるものだったかどうかは、わからない。でも負えなかったとしたら、それは当時僕が関わっていた別の取り組みを引きずっていたからで、収録曲に合わせて修正に努めたということだ。」 

 

ジャレットは常日頃からドラム奏者のポール・モチアン作曲の才能を絶賛していたそれでもなおポール・モチアン作曲を担当したコンセプション・ヴェスル」の収録に際しては不快な思いをしたとされている。ここでは、ジャレットは全作品のうち2曲のみに参加、うち一つはフルートを担当した。フレディ・ハバードが楽曲提供した「スカイ・ダイヴ」をよく聴いてみると、トランペット、トロンボーン、サックスが各数本ずつから編成されるきちんとしたビッグバンドの代わりに、寄せ集め風のオーケストラが各曲の伴奏に当たっているが、中には数曲、キース・ジャレットのピアノやキーボードによるものもある。寄せ集めのオケがコッテコテの表現であるのに対し、ジャレットの方は高揚感を完全に封印している。フレディ・ハバード、ヒューバート・ロウズ、ベース奏者としてロン・カーター、ドラム奏者としてビリー・コブハム、ギター奏者としてジョージ・ベンソン、そしてキース・ジャレットを含む多彩さが光るリズム・セクションという、錚々たるメンバーであったにも関わらず、ドン・セベスキーが流行りのファンクジャズに便乗した挙げ句手を入れすぎた失敗作となった。幸いかな、今日ではすっかり忘れられて、ホテルのエレベーター内やショッピングセンターなどで、BGMとして生きながらえるのみである。 

 

キース・ジャレット音楽活動においては、ソロのレコーディングがその中心である。なので、ソロの作品において、彼の個性だとか、音楽面の嗜好、美的価値基準といったものが、他の作品群より不透明であるなどということが仮にあるとしたら、驚きの発見といえよう。ジョージ・バーナード・ショー曰く、芸術は普通の鏡よりも物事をよく映し出し、人の魂さえも確認できる、という。この言葉は、アーティスト本人のことのみならず、芸術作品の裏にあるアーティスト自身が顕になる、作品の受け止め方についても同じことが言える。どんなことに取り組む時もそうだが、キース・ジャレットは、彼の考え出した新しい一人インプロヴァイゼーションについて、注意深く掘り下げていった。だが同様に彼の活動に典型的なのが、演奏活動の領域拡大を、しっかりと継続的に行うことであった。ソリストとしての彼の最初のコンサートは、母国アメリカではなかった。ドイツ・ハイデルベルクでのジャズフェスティバルである。伝説の「ジャズピアノ」、1972年6月4日のことであった。こういったフェスでは通常行われていることだが(会場は満席ではなかった)、一晩の本番は、出演者が順番に登場するいくつかのパートに分かれており、キース・ジャレット一人が最初から最後まで出演するわけではなかった。その晩は4部構成で、ピアノ奏者のミハエル・ナウラ率いるカルテット(旧友でヴィブラフォン奏者ののヴォルフガング・シュルーターを含む)、クラッシックからジャズに手を出したピアニストのフリードリヒ・グルダとアーティストのポール・フックス/リンプ・フックスの共演、オランダ人フルート奏者のクリス・ヒンゼのバンド、そしてピアノソロのキース・ジャレットの4組が出演した。 

 

ドイツの音楽雑誌「ジャズ・ポディウム」7月号に、ウルリッヒ・オルスハウゼンが寄稿した賛辞として、まずはフリードリッヒ・グルダのジャズへの挑戦、それよりも絶賛だったのが、ミハエル・ナウラで、「ドイツ屈指のジャズ・インプロヴァイズを聞かせる一人」とした。更にそれよりも大絶賛だったのが、キース・ジャレットだった。無伴奏のピアノを聞かせた彼の演奏について、「オスティナート形式やモダンジャズ、それからゴスペル音楽といった要素を、印象主義表現主義の手法を用いて合わせ、そこに卓越した技術、多様性、そしてハイセンスな芸術的論理性を兼ね備えた逸品」とした。ジャレットの演奏は、ほぼフリー・インプロヴァイゼーションと言って良い。まず最初に自ら作った素材を一つ弾く。だがすぐにそこから、力強く躍動しはじめ、全ての素材を集めては整理し、一つの束にしてゆく。これは後に彼の演奏スタイルとして定着した。翌年になると、ブレーメンローザンヌでのコンサートツアー中、前年の演奏スタイルを一歩踏み込んだ形にした。その場で初めて音にする素材を提示し、即座にインプロヴァイゼーションを始める。事前に準備もしなければ、あらかじめ用意している演奏方法もない。それまで彼が編み出した手法を一つに合わせたソロコンサートだったが、後々これが、彼の通常のスタイルとなってゆく。 

 

ハイデルベルクでのこのコンサートは、ジャレットが自らの音楽の新たな方向性を見出そうと、入念に取り組んだ初の試みと言って良い。彼のECMからのデビュー・アルバム「フェイシング・ユー」は、まだ伝統的なインプロヴァイゼーションの手法にどっぷり浸かったもので、アート・テイタムチック・コリアポール・ブレイ、その他当時のピアノ奏者達が既に手掛けたやり方である。1972年の発売時には、「フェイシング・ユー」は、アメリカの音楽雑誌「ローリング・ストーン」(本書では何度も登場済)誌面で、ロバート・パーマーがレビューで絶賛し、「我々がアート・テイタムのソロアルバムを授かって以降、最高の作品」と称された。当該記事掲載時には、アート・テイタム没後16年が経っていた。その他の書評を紹介しよう。イェール大学のフランク・ティローは、ジャレットのインプロヴァイゼーションの質の高さのみならず、主題を変奏し展開してゆくテクニックの駆使の仕方を、バロック音楽の手法をほぼ完璧にものにしている、と絶賛した。「バロック音楽の手法」といっても、別にいつも大昔の音楽を弾くためだとして教科書に載せておかねばならないものではない。昔からある音楽の手法の中には、和声法のように、今でも役に立ち、しっかりと機能するものもある。こういったものは、筋金入りのアヴァンギャルドのアーティストやその信奉者達のいうように、過去の遺物として掃き溜めらることなどないのだ。 

 

【91ページ写真注】 

1972年6月4日、ハイデルベルク市公会堂で開催されたジャズフェスティバルでの、キース・ジャレットの演奏。このコンサートを皮切りに、全世界に向けてのソロコンサートが始まっている(写真提供:ハンス・カンプ) 

 

1975年、音楽雑誌ダウンビート」が興味深い比較を行ったのが、「フェイシング・ユー」と、ECM別のレコードで、ポール・ブレイの「オープン、トゥ・ラブである両作品ともこの比較記事が出る以前に、個別に紹介されていたのだが、ECMアメリカのポリドール・レコード社を通してその販路を広げ、注目を集めるようになったことをキッカケに、この比較記事が発表されるに至ったのだ。執筆したジョン・バレラスは、両方に最高の評価を与えたものの、両者の違いを鮮明にした。録音状態はどちらも細部に至るまで全く同じ出来ではあるが、内容に込められた思いと、演奏面でのことである。片や、謎めいたアーティスト、両手に「あれを弾け、これを弾け」と脳から指示を出すのを既にやめて久しく、自身をもっと高い次元の演奏媒体と思い込み、ひたすら音楽は垂れ流れるがまま(訳注:キース・ジャレットのこと)。片や「思いつくままま」という点では劣るポール・ブレイ、全て音になるものは、意識してあらかじめ細かく作り込んだもの。音源が全ての相違点を物語っている。バレス曰く、ジャレットのほうがよりアクティブで、リズムも生き生きとして、技術も柔軟性があり、その右手からは歌心あるメロディと対位法をベースにした和声の素晴らしい感性が届く。彼をジャズのビアの奏者と呼ぶのは難しい。「ジャレットはノリノリではなく、流暢だ」。対象的にブレイの音楽は無調音楽として聞こえてくる。そこには、無調音楽の特徴が全て詰まっており、調性のあるメロディや美しく響くドミソの和音で音楽を彩ることには後ろ向きだ。だがそんなことを超越して、無礼は音楽には穏やかさが重要であることをしっかり理解しており、演奏中も、今どのあたりかということを、きちんと意識して演奏を進めている。この批評を、キース・ジャレットは耳にしたのだろうか?耳にした、との証がある。後に彼が記した、ケルン・コンサートを含む1985年前後までの演奏の回顧記録である。彼曰く、十分な間を取らず、音数を弾きすぎた、自身の演奏の大半は、余計な「音数」を減らせば、もっとマシなものになっていただろう、とのこと。 

 

ジョン・バレラスこの自省を促すような論評はジャレットの後の音楽はこうなるよ、ということを示すようなものだった。実に目をみはる飛躍が訪れたのが、「フェイシング・ユー」の後、1973年にリリースした「ブレーメンローザンヌ」である。滅多にモノを語らないジャレットだが、その数少ない発言の中で、こういうのがある。公開演奏を行う際には、様々な要因が重要とされる。その場の空気感、使用する楽器、居合わせる聴衆、会場となる部屋やコンサートホール、コンサートが開催される都市と国、である。彼曰く、これら全部を、舞台に立つ者は意識して自らの中に受信して調整し、せっかく聞こうとして集まってくれている聴衆一人ひとりに報いなければならない。もちろん、演奏の成否が舞台に立つ者ただ一人の責任であるとしても、である。彼のこの発言を 

是非しっかり頭において忘れず、彼が聴衆のいくつかの立ち居振る舞いに対してどう反応するかを、とやかく言うようにして欲しい。彼は素っ気なく言いっ放しな物言いであるため、どうせお客なんか居なくても気にしないんじゃないのか?などと思われがちだが、実際は、彼にとってはホール内の聴衆が発信する様々な空気感が必要不可欠なのであり、例えて言うなら、彼の周りに空気がなければ窒息死するのと同じくらい、必要なものなのだ。