about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)7章pp.106-110

7.栄華と危機 

 

キース・ジャレットにとって1980年代は初っ端から、演奏活動の面で忙しかった。1970年代にリリースした数々のソロアルバムが、ことごとく大成功を収め、彼はピアノ奏者として、ずば抜けた存在となっていた。同時に、彼の心に火がついて取り組み始めたのが、クラシック音楽の研究だ。レパートリーはバロック時代からウィーン古典派、更には欧米の現代音楽の作曲家にまで広がった。1979年に始まった彼のコラボレーションは、ミネソタ州セントポール室内管弦楽団(指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス)との共演で、作曲家達も、アメリカとカナダからは、コリン・マクフィー、ルー・ハリソン、オーストラリアからはペギー・グランヴィル・ヒックスらが参加した。これらの作曲家達の作品を、彼は1981年5月と6月にパリ市立劇場にて、アンサンブル・アンテルコンタンポランという、現代音楽に特化した管弦楽団と共に演奏している。これらの作品は、1982年3月にドイツのシュトゥットガルトでも上演された。同年8月には、カリフォルニア州のカブリオ現代音楽祭に参加し、ストラヴィンスキーのピアノ協奏曲、ジョン・ケージの「ダンス・4・オーケストラ」そして、ペギー・グランヴィル・ヒックスの「エトルスカン協奏曲」を演奏した。 

 

 

 

1980年の年末から1981年の年始にかけて、ジャレットは長年の夢であった、長期間を裂いての公開講座の実施に向けて、準備に取り掛かった。「想像つかない」とお思いになるかもしれない。教育というものに否定的であり、「先生」と名のつく役目を「人を育てることを拒む奴ら」とさえ、言ってはばからない、というのが彼のイメージだろう。この期間全体を通して、彼は既存のものよりも、より包括的な内容を頭に描いていた。彼がマイク・ゼリンという、ジャーナリストであり自らもジャズ・ミュージシャンと話をした時、構想中の公開講座について、音楽のみならず、「人間の感性全般を目覚めさせる」機会としたい、と語っていた。 

 

ジャレットが新しい段階を迎えていたのは、演奏活動だけではなかった。最初の妻と離婚し、家族と別れた後、彼の生活は大きく変わっていた。ローズ・アン・コラヴィートは、キース・ジャレットの創造性を掻き立てる新たな存在として、と言っても、常に彼に寄り添っているだけで、ツアーにも同行した。彼がこれまで積み上げ継ぎ合わせてきた音楽観を広げたのは、彼女が画家として作ってきた作品である。この新たな人間関係が生み出したと、明らかにそう言える目に見える変化は、他にも沢山あった。ジャレットはツアー中、今まで以上にプライベートの活動に取り組むようになる。スポーツはテニス、ジョギング、あるいはスキーなんかもやるようになった(これで親指を怪我して、1981年の公演をいくつかキャンセルする羽目になったほどである)。彼はまた、時間を裂いて自宅の改良に乗り出し、建築家を一人雇って、新しいスタジオと更なる建て増しの構想設計を依頼した。これに先立つ1970年代中盤には、敏腕マネージャーのジョージ・アヴァキアンとの契約を終了し、音楽活動はプロのサポート無しの状態が、後にブライアン・カーを新しいエージェントとして迎えるまで、ずっと続いていた。 

 

 

この何かと騒がしい時期に、上手くいくことばかりが起きていたわけではなかった。大きな所では、1979年の暮れから80年初頭にかけて、金融関係企業への投資に乗ってしまったことがある。4年にわたる投資の結果、不本意にも40万ドル(4千万円)の損失を出し、財政難に陥ってしまった。このため、税務署への巨額の返済に追われることとなり、これまで以上に公演活動を、日程に入れてゆかねばならなくなった。これにより、ローズ・アン・コラヴィートを側につれて、彼は1983年は8ヶ月半ツアーを実施することとなる。ローズ・アン・コラヴィートがイアン・カーに語った当時の苦しさについて「当然のことながら、やたら体の故障が続いていたはずで、腰・背中の状態は、非常に悪かった。文字通り満身創痍といったところ。本来あんなに演奏活動をするべきではなかったけれど、損失補填のためには仕方がなかった」。当然の結果だが、ジャレットは公開講座の構想を断念し、この計画のためにと、自宅近辺に借り上げた建物もキャンセルしなくてはならなくなった。(彼の屋台骨の傾きは1987年まで続き、そこでようやくある程度の返済の目処が立つことになる)。 

 

 

 

更に追い打ちをかけたのが、彼のソロコンサートに対する関心が薄れ始めてきたことがある。彼のソロコンサートを見たという人の数は、既に数が多く、その上彼の音楽はますます複雑難解になってきていて、「ケルン・コンサート」の頃のとっつきやすさは、影を潜める手の込みようであった。ジャレットが3年間ソロコンサートを実施せず、その間、クラシック音楽の研鑽や、ゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットらとのトリオにシフトしていったのは、当然のことである。この「2つ目の」トリオが、ニューヨークのライブハウスであるヴィレッジヴァンガードに再びその姿を表したのが、1983年の6回公演実施のときだった。1977年以来の復活で、以降、2014年11月まで毎回出演をするようになる。 

 

ところが、である。実はジャレットは、1985年と1986年に2つのソロアルバムを収録している。彼が個人で大事にしている、自宅のスタジオでの制作だ。これら2枚のアルバムは、彼の音楽活動の転換点であり、新しい可能性の開花であった。それもこれも、40歳の誕生日の前後に訪れた、創作活動上の危機を乗り越えた賜物なのである。その危機が起きたのは、1985年前半のこと、当時彼は子供の頃以来クラシック音楽に、というよりも、クラシック音楽演奏家達と関わり、彼らが「演奏家」という役割に不満を覚えているのでは、という印象をしばしば受けた。更に彼が実感したのが、インプロヴァイゼーション抜きの演奏に対する違和感の強さだ。ニューヨーク、リンカーンセンターのエイヴリー・フィッシャー・ホールでのリサイタルでは、ショスタコーヴィチベートーヴェンスカルラッティ、そしてバッハの作品を演奏し、ニューヨーク・タイムズ紙に絶賛の記事が載るも、彼は強い虚無感と無力感を覚えたと吐露している。彼は、自分がクラシック音楽の世界では「蚊帳の外」ではないかと、疑念を強めてゆく。当時彼は、財政面での問題が片付いておらず、また前妻との間に、2人の息子達に関する問題もくすぶっていた。 

 

後に妻のローズ・アン・コラヴィート語ったところによるとこの逆風の最中、ジャレットといえば、家の戸口の踏み段に座って、ボーッと遠くを見つめてばかりいたという。そんなある日、彼は突如雷に打たれたように、クラシック音楽との関わりを終えて、キャリアの原点「誰にも邪魔されないインプロヴァイゼーション」への回帰へと、活動を始めたのである。この瞬間のことを、ジャレットはイアン・カーに語っている「ある日、スタジオへ行き、フルートがあったので、手にとって吹いてみた(スタジオ内は無音響)。でもそのフルートをただチャラチャラ吹いていただけなのに、なんだか、自分のエンジン機関が、自分の車体全体が、高級車に変身したようになって、パイプの中にはゴミだの雫だのが多少こびりついていたけれど、オクタン価94の最高の状態に、突然変わったような気がした。あの変化は、それっきりだった。そしてその気持の状態は、1ヶ月位だろうか、ずっと続くことになる。その間、僕はひたすら、朝起きて、食事をし、スタジオに走っていった。この時頭の中にはリズムや2つ3つと音が鳴っていたり、時には短いフレーズが聞こえることもある。スタジオに入ると、録音機のスイッチを入れる。何の変哲もないカセットプレーヤーだ。僕は無事に録音されていてくれよ、と願うんだ。」 

 

 

こうして生まれた1985年のスピリッツ」は、生まれ変わったキース・ジャレットお披露目となった一人のミュージシャンが卓越した技巧を全てかなぐり捨て、音楽の源へと回帰した姿である。その男は、純粋に音そのもの以外には目もくれず、最小限の手段を用いて(録音方法も)、純真ながらも、感性と創造力に満ちあふれていた。こうして生まれたものは、彼の演奏キャリアの中で、最高の音楽表現を、誰も疑うことない形で音にしてみせた。当人にとっては、自らの解放以外の何物でもなかったはずである。 

 

全体的にアルバムスピリッツ」が聴く人に与える印象はジャレットが探し求めているのは有史以前の音楽とはなにかということ。この音の風景には、国境もなければ音楽形式のカケラもなく、東洋も西洋も存在しなければ、ただひたすらに、音、リズム、雰囲気、楽器の操作、そしてそこに込める感情、それだけが展開されている。意図してフルートと打楽器が演奏の主役に抜擢されている。これらは人の有り様と中身、息遣いと鼓動に近い。ここに収められている「スピリッツ(魂)」の大部分には、どこまでが人為的でどこまでが自然発生的かが、ハッキリ線引されていない。それはまるで、ジャレットが、鳥の歌声や風の音を手本にして、彼の創作をパターン化したように感じられる。同時にここに感じ取れるのは、強い信仰儀礼的な性格である。ネイティブアメリカン達が、太陽や、春が到来したばかりの頃を崇め奉る音楽のようである。フルートの低音域の音は、蜂の羽音を彷彿とさせ、太鼓の恐ろしげな音は、シャーマンの祈祷を思い起こさせる。 

 

大昔の生物に詳しい学者が、人類の音楽の歴史を再構築するのに奮闘した結果、現代人の知らない、遠い世界の、あるいは大昔の歌の数々を、今の時代に聴くに相応しいレベルまで紡ぎ出したことについての、「やったぞ!」と喜ぶ勝利の歌、というべき作品だ。ペンタトニックを用いたメロディが描く情景は、極東アジアの文化であったり、他では中世ヨーロッパの「儀礼」、もしくは荘厳な貴人達の行列、といった趣だ。次はアーチ状の天井が高い礼拝堂の中にいる気分。僧侶達が集まり、聖娼を唱える。言葉の音節は無視して、メロディに音を次々当てはめる。自由な感じで、天国的な装飾音符を奏でるのは、ソプラノサックスである。流れの最後にピアノが入ってくるが、全体を支配する気配は全く無く、単にサックスやフルートの伴奏であり、あるいは一つだけ、作品全体を通して聞かせるトレモロが現れるのみである。 

 

スピリッツ」はファンに衝撃を与えたそれまでリリースされたアルバムの、どれとも全く異なるものだったからだ。この1年後に収録が行われたものは(こちらも様々な楽器を駆使して自宅のスタジオで録られた)その後27年ほどお蔵入りとなる。もし27年もしまい込んでいなかったなら、こちらのリリースも、更に衝撃的だったことだろう。そのアルバムの名は「ノー・エンド」という。1986年収録だが、リリースされたのは27年後の2013年だ。ジャレットの全く知られていなかった側面があらわになっている。ロックミュージシャンとしての一面だ。ギターやフェンダーベースを駆使して、その筋の名人達にも匹敵しうるパフォーマンスを聞かせている。このアルバムは、たとえ日の目を見なかったとしても、ジャレットが40歳の誕生日の前後に訪れた、創作活動上の危機を乗り越える上での、彼にとっての癒やしの過程となったのである。最初の「スピリッツ」が、天界と向かい合っての作品なら、次の「ノー・エンド」は大地の道に根を下ろした作品、と言えよう。「ノー・エンド」に収録されている楽曲の大半は、ジャレットが何でも楽器をこなせる力を持っているということだけでなく、普段聞き慣れない音楽形式の持つ鼓動を用いて曲にメリハリをつける才能と、面倒なグルーヴのやり方をマスターしていることを示している。ここまでエレキギターを弾きこなせるようになるには、ダイアー・ストレイツのギタ―奏者マーク・ノップラーに相当期間弟子入りし、エリック・クラプトンジャムセッションを何度も行い、そうやってロックミュージシャン達全体と、クラブだのコンサートホールだのでしのぎを削る苦難を免除される、そのくらいやらないとダメだ。 

 

肩の力を抜いて聞ける音楽であり、リズムは人の心を捉えて話さない魅力がある。そしてジャレットはギターとベース、ドラムの3役をこなし、サザン・ロックへの真っ直ぐな思いを表現している。彼がつま弾くフェンダーベースは、昔のロックで、路上で数年勝負してきたベテランの趣を裏に感じさせる。サウンド全体が、やりすぎ感のある音の密度を出そうという傾向と不釣り合いであり、ベースが鳴りすぎて他のパートをしばしば消し去ってしまっているが、実際は大した問題ではない。リズムを聴いて感じる傾向、これを聴くことができる他のレコードといえば、フル・ティルト・ブギー・バンドや、天下無双のジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスといったバンドだ。ジャレットの演奏するリズムを聞いていると、本当にジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスを引き合わせるようなことをしたらどうなるだろう、と思わず考えてしまう。だが2013年にリリースされた「ノー・エンド」が世に驚きを持って迎えられたとしても、キース・ジャレットが1960年代のフォーク・ロックバンドを一人3役で楽器を弾きこなして重ね録りした、その成果がもたらした当然の結果である。この作品と、例えばボブ・ディランのレコード作品の数々、そして「凡庸とはまるで無縁」と称すべき「レストレーション・ルーイン」は、大変失礼と思われるかも知れないが、比べて引けを取らないと考える。 

 

ノー・エンド」は、録音当時のジャレットが、音楽的にどの発展段階あったのかについて、光を当てて知ることができる注目すべきは2年間に3つの対象的なアルバムをリリースしたことだロック音楽のアルバム「ノー・エンド」の後、ジャレットはまたまた世間をアッと言わせる方向転換を見せる。今度は微細が売り物のルネッサンス音楽と、繊細な表現力を誇るクラヴィコードである。「ブック・オブ・ウェイズ」、このレコードを作れたのは、この世でキース・ジャレットだけだ。まずエレキギターでリフを弾き、長年の活躍を見せるロックミュージシャン達の心に畏敬の念を植え付け、次にクラヴィコードのような華奢な楽器を使ってのレコーディングをこなすべく、バロック時代やルネッサンス時代に日常的に行われていた、今は使われない演奏方法に属する余計な飾り付けをすべて排除して演奏する。こんなことができるキース・ジャレットというミュージシャンを目のあたりにできるなんて、音楽の歴史上、これが当たり前だった時代など、いまだかつて無いのだ。