about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.123-127

8.あるカリスマ的レコードの歴史 

 

ご存知の通り、「偉業」の多くは偶然の産物ではなく、手塩にかけて創られるものだ。時にはそれが、意図せず、そして不本意ながら創られることもある。そういった「偉業の創り主」が一人もいなかったのが、1977年の国際現代音楽祭である。この年はフランスのロワイヤンで開催された。その中にポーランドの作曲家ヘンリク・グレツキがいた。「交響曲第3番」という南西ドイツ放送(バーデン・バーデン)による委嘱作品の初演に立ち会っていたのだ。5度の和声をふんだんに使用したこの曲の作者は、かつてセリエリズムの作曲家でありオリヴィエ・メシアンの門下生であった。だが開催地フランスの大御所ピエール・ブーレーズを取り巻く前衛主義者達の興味関心は、文字通り微動だにしなかったのである。一般大衆はこのイベントの存在を、全く知らなかった。ガラッと状況が変わったのが、この交響曲を、フランスの映画監督モーリス・ピアラが「刑事物語」(ジェラール・ドパルデュー主演)のサントラに使ったことだ。更には、90年代初頭のこと、イギリス・イングランドのある独立系ラジオ局が、番組のいくつかにテーマ音楽をつけようと、大曲をいくつか候補にした中に、グレツキのこの交響曲が入ったことである。「交響曲第3番」の第2楽章がテーマ音楽の第1号になったのは、偶然ではないし、不思議なことでもない。ラジオ局の担当者達が鋭いカンを働かせたこと、そして、この作品が、「効果的な販売戦略」であるMAYA(新しいものの誘惑と、未知のものへの怖れとの、絶妙な臨界点)に、完璧にハマるように書かれていた、ということなのだ。別の言い方をすれば、商材(そしてこのカテゴリーに入る芸術作品)とは、新鮮さと親しみやすさの両方を兼ね備えていれば、自ずと成功するものだ、というわけである。1977年当時のロワイヤン国際音楽祭のマーケットに無くて、1992年に存在したもの、それは、この交響曲が、ほぼ四六時中ラジオで放送されていた、という事実である。この曲のCDは、発売後1年で30万枚を売り上げ、本書執筆中の現在(2020年)の売上は100万枚まで伸びている。 

 

 

 

グレツキ交響曲が初演されたのが1977年。その2年前の1975年1月24日、キース・ジャレットが、渋々、そして不本意ながら、腰を下ろしていたのが、「こんなのありえない」というピアノの前だった。時刻は夜の11時過ぎ。ケルン歌劇場での本番が始まるところだ。この本番を、彼はキャンセル寸前まで思いつめていた。ピアノは最悪だし、他にも色々と齟齬が生じていた。それを思いとどまらせたのが、彼の責任感であり、当日来てくれた満員のお客様であり、すでに頑張っていたスタッフチームであったのだ。マンフレート・アイヒャーとマルティン・ヴィーラントにより、この本番は録音され、雑音等クリーニングがかけられた。このあたりは、昔の絵画が取り繕い修正をかけられて売りに出されたのを彷彿とさせる。そしてリリースされたタイトルが、これまた味も素っ気もない「ケルン・コンサート」である。当初は2枚組LP、後にCDとなり、総売上は400万枚に及んでいる。ジャズのソロアルバムとしては、今のところ史上最高の数である。だがグレツキのCDと違って、「ケルン・コンサート」は、どこぞの団体が宣伝目的で使用するため後ろ盾についたわけでもなく、冷徹かつ計算づくのマーケティングシステムに従ったわけでもなく、この人気ぶりを勝ち得たのだ。ある程度の処までは間違いなく言えることだが、このアルバムの成功の理由は、依然謎である。それはキース・ジャレット本人にとっても、である。 

 

このコンサートを巡っては、これまで頻繁に話題にされてきた様々な状況があり、それがこの後リリースされたレコーディングに、大いに伝説となって華を添えた。この音源は、後に近代ジャズ史における最大の語り草となってゆく。1975年1月17日、ドイツ・アッパーフランケンのクローナハから始まった、キース・ジャレットのヨーロッパツアーは、パリのシャンゼリゼ劇場を締めくくりとする11会場を巡るもので、ケルン歌劇場は、その5番目の会場だ。当時はマンフレート・アイヒャーがまだキース・ジャレットの運転手となって、会場間の移動に、自家用車ルノーR4のハンドルを握っていた。そして、ローザンヌからケルンに到着したときには、時刻も遅く、2人共ヘトヘトだった。現地でジャレットは、情報のくい違いが在ったことを告げられる。指定したコンサート用グランドピアノ(ベーゼンドルファーのモデル290インペリアルで、すでに準備されて奈落に置いてあった)ではなく、舞台クルーがエッチラオッチラ転がしてきたのは、何とベーゼンドルファーベーゼンドルファーでも、小型のグランドピアノだったのだ。更にこの楽器は合唱練習に使っているもので、ボロボロの、音は酷く、高音域にはまともに鳴る音がなく、右のペダルと鍵盤のいくつかが故障していた。単に舞台クルーが間違えただけなのか、それともケルン歌劇場の担当者が常日頃から「ジャズミュージシャンなんて小型グランドピアノで十分だ」と思っていた現れか、未来永劫、真相は明らかにならないだろう。もっとも後者の方は、多くのジャズミュージシャン達が興行主やホール側との折衝の際に舐めさせられた辛酸の数々を思うと、あながち無いとは言えない。ともかくジャレットは、このヒドイ楽器では弾けない、と考えた。話し合いがメンツを替えていくつか時間をかけて行われ、現状をすべて考慮し熟考を重ねた結果、ようやく彼は本番に臨む決意を固めた。だが面倒は他にもあった。極度の疲労と、かねてよりの腰痛もさることながら、彼もマンフレート・アイヒャーも、時間の無い中その辺のイタリアレストランで食事を腹に詰め込む羽目になった。これでは本番全体に影響が出るのは必至で、殊、演奏に期待を高く持つなど、ありえないように思えた。 

 

 

結果は予想を覆すものとなった。ジャレットは所謂「火事場のクソ力」を発揮する。触れる鍵盤やペダルを限定し、集中力を切らさなかった。インプロヴァイゼーションも圧を強くして、というより、より適切に言うなら、感情をしっかりと込めて進めていった。その様は、まるで劇場のミューズが彼に取り憑き、そして、「崇高な美しさを持つメロディ」と、「相当な不細工さを持つメロメロ」との、紙一重の境目を越えぬよう導いているようだった。何がこの収録を大成功に導いたのか、そしておそらく高い評価を得たであろう要素の大半は何か、と考えると思いつくのが、次々と生み出されるメロディや装飾音符に対して、ハーモニーが制限されていたことである。結果として出てきたものは、誰もこれまでに聞いたことのないような代物に思えたのだ。3和音の時代は終わったのだと理解していない輩に、全員まとめて喝を入れようとして、アルノルト・シェーンベルクが言い放った言葉に、今後もハ長調の楽曲は数多くでてくるだろう、というのがある。その証明が必要なら、「ケルン・コンサート」を聴くとよい。これまでの音楽史上様々うまれた和声に関する原則が、現代のより新しく高度な概念にそって、変貌を遂げて生き残ってゆく様が、堂々示されている。 

 

自身の音楽観に関する美意識を、ジャレットはリズムのオスティナート(繰り返し)や3和音へのこだわりという形で表現した。それに明らかに賛同したであろう、彼の同世代の多くは、1960年代、政治や社会、そして個々の在り方においても自らを解放していた。だが彼ら自身の新たな自由というものに対する意識の中で、自分と対峙する物の考え方を受け入れる準備がままならず、伝統だの因習だのと言ったものが見え隠れすると、全て拒絶するのであった。テオドール・アドルノというドイツの社会音楽学者は、何かと物議を醸す彼の講義の中で、「耳障りの良いパッセージ」ばかりを有難がる傾向を批判した。そういうメロディを楽曲全体の手の込んだ構造の中から、「いいとこ取り」をしたり、「子供みたいに同じ節をしつこく繰り返したり」することに異を唱えた。抗いがたいご意見で、そうなると、「ケルン・コンサート」のような作品の魅力を理解しようと、他の有識者達にも訊いてみたくなる。この音源を聞いていると、その素晴らしい魅力から、引き合いに出したくなるのが、シューベルトの「冬の旅」や、ショパンノクターン前奏曲、あるいはポロネーズなどに見られる韻律的にも自由なフィオリトゥーラ(メロディにつける修飾)のように優雅さを持つ手の混んだ表現といったものである。更には、様々なサウンドが、新鮮であり、独特なものであり、純真さが漂い、低俗さすら感じてしまう。だからこそ当時の若者達は、そういったサウンドに自分達を重ね合わせることができたのだ。一つ、「耳障りの良いパッセージ」と呼ばせていただけるなら、として、「ケルン・コンサート」パート1の演奏開始約7分後に突如現れる、旋律的なモチーフは、フランシス・レイ監督の「ある愛の詩」(1970年)という、アリ・マッグローライアン・オニールという夢の組み合わせが出演した映画を、かすかに思い出させる。サントラには、魅惑的な減6度の和音が使われ、当時の全ての若者達の涙を誘った。ここでアドルノ先生には悪気はないが、彼の知的な厳格さよりも、フランツ・ヴェルフェルの知恵を拝借する。フランツ・ヴェルフェルの次の言葉は、「ケルン・コンサート」のことを言っているようだ「交響曲第9番と、喪失感を心に抱いて手回しオルガンで演奏される流しの歌、比べてみれば同じもの」。 

 

だがケルン・コンサートの方はさすがに、「耳障りの良いパッセージが2つ3つ」以上のものをもたらしてくれる。インプロヴァイゼーションという独自性の塊でありながら、一定の体裁と一貫性を持ち合わせているところは、驚くべきというほかない。数々主題はいずれも独自性があり、示導動機から展開部、再現部という流れ、変奏形式やロンド形式までもが、しっかりとした手綱さばきで駆使され、均整の取れた適切な形で聴衆の前に供される。まるでジャレットが事前に準備したのでは、と思いたくなるほどだ。全音階による和声の枠組みは、ビ・バップの手法による調整や変更を一切用いず、主音でフレーズを終わらせるようなこともせず、そうすることで、ジャレットは自分の紡ぎ出すメロディラインの数々を、いちいち主音で終わらせる必要もなく、自由闊達に繰り広げることができるのだ。ジャレットのインプロヴァイゼーションは、同じメロディをそこかしこに使い回すようなことはしないが、地震の規模を表すマグニチュードのように、天井知らずの自由な展開を見せる。使ったピアノは欠陥だらけだったが、昔からよく言われるところの、制限のない自由な状況よりも、制限がある状況のほうが、あれやこれやと物事を次々と生み出す上では、より効果的であるということを、体現しているようである。 

 

パート1」の出だしは当たり障りないリズムの素(ここでは♪♬)が、その日の演奏全体の土台となり、様々な変奏へと形を変えてゆくのを、実際にやってみせるといった趣である。はじめの3つのパートでは、このモチーフを使う。これを発展させてシンコペーションのかかったフレーズにすると、16分音符―8分音符―16分音符という並びになり、ケークウォークやラグタイムと言った、アフリカ系アメリカ人の影響を受けた音楽によく見られる形になる。4つ目のパート「パートIIc」、実際はこのコンサートのアンコールであり(別にこのアルバムに限った話ではない)、外の部分と比べると、幾分特殊なケースとなっている。ここではジャレットは、これまでに作曲したものをインプロヴァイズしている。何もないところから次々と音楽を紡ぎ出してゆく「自由な演奏」ではない。 

 

このコンサートで最高の腕の見せ場がくるのは、どちらかというと深く物思いにふけるような瞬間で、それは最初の部分に現れる。ここでジャレットは、左手はAマイナーとGメジャーを行き来し、右手は鳥が自由に歌うかのように印象的な手の込んだ表現を形作る。この演奏は、いかなるテクノロジーをもってしても、楽譜に書き起こすことは不可能である。岸波由紀子と山下邦彦という2人の日本人ミュージシャンが、実際にケルン・コンサート全編を譜面に書き起こしたのだが、彼らをもってしても音符にするのがほぼ不可能という困難に直面したのが、彼の思い描いたストーリー性である。微妙な差異をつけたタッチ、ほのかな音量変化、凝った歌い方、コントロールの効いたルバート(テンポを落としながら演奏する方法)と音量の増減(こんなピアノでもできるのだと感心するが)、これら全てが、ストーリーの持つサウンドの骨格を形作る。この骨格の、本当に驚くべきは、それに乗ってくるメロディが自由に歌えるところにある。自然現象ではないかと思えるくらい自由で、それでいて表現芸術としてのしっかりとした構造も感じさせる。「ケルン・コンサート」の壮大なルバートのパッセージの数々で、これを耳にすることができる。ゲルノット・ブルメの論文にあるように、ジャレットは「ケルン・コンサート」と「サンベア・コンサート」において、自身のインプロヴァイゼーションと、インド北部のラーガ(ラヴィ・シャンカールなどが行っているもの)との間にいくつか見られる共通点、これらを実践してみせたのである。相違点も色々とある(ジャレットの音楽はピアノでラーガをやろうというのではない)。だがそういった違いを全て踏まえた上で、彼の新たな試みは、その大部分において、インド音楽のもつ音階旋法に対する好みが見受けられる。特にハモリを伴わない単旋律のモチーフによるパッセージは、ハーモニーの展開もなければ、持続低音が設定されていたりする。明らかに、アーティストが異なる音楽の仕組みを使いこなし、しかも「今この場で」というインプロヴァイゼーションともしっかりと向き合うとなると、音楽的にグチャグチャにならないようにするには、皆同じ様な問題を克服する必要がある。 

 

アンコールであるパートIIc」については、「ケルン・コンサート」を詳細に分析したピーター・エルスドンが、「リアル・ブック」に掲載されている海賊版のいくつかや、「モリーズ・オブ・トゥモローという名前の曲と、「パートIIc」とを結びつけて言及している。「リアル・ブック」とは、非公認(人によっては「非合法」と呼ぶかも)のジャズの曲集で、最初に刷られた時はボストンの大学生達が、自分達だけの間で練習などに使うのが目的だった。海賊版にせよ「リアル・ブック」の最初に刷られたものも、どちらも「ケルン・コンサート」以前に世に出たものだ。原則コンサートの終わりにはフリーインプロヴァイズをするのだが、これを断念し、自身の作品や他の作曲家の音楽をアンコールに使用したのは、ジャレットに言わせれば、あくまで「原則の範囲内」であって、「やむを得ない例外措置」ではない、とのことである。