Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.131-136

9.アメリカズソングブック 

 

1983年1月の、ある霜の降りるような寒い月曜日のことだった。キース・ジャレットゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネット、そしてマンフレート・アイヒャーの4人が夕食のテーブルを囲んでいたのは、ニューヨークのとあるインド料理の店だ。彼らが意見を交わしていたのは、来るレコーディングセッションでの収録曲の選定である。スタジオは「ザ・パワー・ステーション」。西53丁目(マンハッタン区)の9番街と10番街の間に位置する。ハドソン川が近くにあり、「きれいな場所」とは言い難い土地柄だ。勿論彼らは、ただ何となく集まって、野菜カレーやタンドリーチキンを頬張りながら、ビールのコースターに曲目を書きなぐっていたわけではない。4名とも今回のプロジェクトをよく把握しており(発起人はジャレットとアイヒャー)、準備も進めてきていた。プロとしては当然のことである。この日の集まりは、今回の企画について、より深く掘り下げてお互いの意見を声に出してみようという趣向だ。 

 

ジャレットとディジョネットは、チャールズ・ロイドやマイルス・デイヴィスの所に居た頃からの旧知の仲で、コンサートにせよレコーディングにせよ、そこで交わしたサウンドやリズムは、彼らにとっては「お国言葉」の合図のようなもので、十分な意思の疎通ができる心地よさがあった。これに対しジャレットとピーコックとは、どちらかと言えば付き合いが浅い。これに先立つこと6年前、彼ら2人は「テイルズ・オブ・アナザー」をレコーディングしていた。だがジャレットにとってはこのアルバムはあまり重要なものにならなかった。ピーコックが主導の作品であり、また彼らの方向性も異なっていた。問題の核心はそこではなく、今回新たに取り上げる素材そのものにあった。3人共これまで扱ったことのあるものだが、それぞれの見方が異なっていたのである。 

 

 

この時、ジャレットの発案で、スタンダードナンバーに絞ろうということになっていた。曲の出どころである「グレート・アメリカン・ソングブック」なるものは、ハッキリとした定義はないが、1920年代、30年代、そして40年代を中心としたハリウッド映画やブロードウェイ・ミュージカルのヒット曲の数々のことをいう。これらは普通のジャズミュージシャンのレパートリーとしては、常に重要な地位を占めていた。だが1960年代のアヴァンギャルドという、無垢な人々からすると革命的とも言える趣味の持ち主達に言わせれば、「アメリカンソングブック」のネタなんぞ、月の彼方にでも放り捨てるか、それがだめなら「図書館の蔵書目録」にでもしまい込みたいものだった。だが、そこまで急進的なミュージシャンでなくとも、こういった、ともすると「お涙頂戴物」な楽曲は、その辺のしがないバーで、うんと遅い時刻に、これを聴きたいという常連さん達にでもあつらえたら良い、とされてしまう。基本的には20世紀を生きたアメリカ人なら誰でも、これらの楽曲を聞いて育ったはずだ。キース・ジャレットに至っては、まだ売れなかった頃、ボストンのカクテルバーを渡り歩いて、大学時代の落ちこぼれ仲間で結成したトリオで、歌い手さん達の伴奏をして、かなり集中的に取り組んだ経緯がある。ソロコンサートでは、こういった楽曲をインプロヴァイズして、それも抜群の腕前と気持ちの入れようで、聞かせるのが常だった(通常はアンコールで)。 

 

一方、ジャレットより10歳年上のゲイリー・ピーコックといえば(ジャレット自身もかつて言った通り)、誇り高きアヴァンギャルドのキャリアを辿ってきたと言えよう。1964年にビル・エヴァンス・トリオでスタンダードナンバーに取り組んだごく短い期間を除けば、彼は、アルバート・アイラードン・チェリー、ラズウェル・ラッド、そして勿論、ポール・ブレイマイルス・デイヴィスといった、「何処を切ってもアヴァンギャルドな」連中と共に過ごしているのだ。この後、ピーコックは音楽界から完全に遠ざかり、日本にしばらく移る。彼はそこで日本語を身につけると、食事療法や禅・仏教などの東洋思想を学んでゆく。彼はさらにアメリカに帰国後、今度は細菌学について大学の課程を受講し始めた。彼は音楽活動への復帰には、強い難色を示した。ましてやスタンダードナンバーの収録など、もってのほかだった。使い古しの音楽ネタに取り組んでみようと、彼に最終的に決心させたのは、キース・ジャレットジャック・ディジョネットの音楽に懸ける誠実さと、マンフレート・アイヒャーのプロ意識、これに尽きると考えられる。 

 

当初の計画では、制作するのは1枚だけ。こういったスタンダートの楽曲を、長期間かけていつまでも集中して取り組む気など、4人共頭になかった。言い出しっぺの考えでは、こういった楽曲がふさわしいと思われる場所、例えばジャズクラブなどといった建物で演奏してはどうか、というものだった。ところが最初のレコーディングセッションを終えてみると途端に、この企画はもっと規模が拡大することになることが、明らかに目に見えてしまったのだ。結局、当初の「1枚だけ」ではなく、3枚のアルバムが完成した。2枚はスタンダードナンバーだけで構成され(もっとも内1枚は、ジャレットが自作の「ソー・テンダー」をちゃっかり1曲目に配している)、残りの1枚は、2枚に載せきれなかったものを集めた、という風情である。コンサートの方は、収録と同じ年の9月にヴィレッジヴァンガードを皮切りに、1984年末以降も更に続き、大成功を収めた。これにより、客との距離が近いクラブのような場所で実施しようというプランはお蔵入りになった。規模が大きめのコンサートホールやフェスへの出演が組まれた。。結局このプロジェクトは、30年以上にも亘るものとなり(1983年1月のテーブルにいた4人共予想だにしなかったであろう)、人は彼らを「スタンダード・トリオ」呼び、ジャズの歴史にその名を刻んでしまったのである。 

 

 

このバンドが長期間に亘って成功を収め続けたことについては、多くの点で特筆すべきことがある。トリオという編成自体は、最も良く知られた形態の一つであり(人によっては「ありきたり」とさえ言われる)、同時に、非常に洗練されたジャズの合奏形態である。トリオが結成されるにあたっては、ミュージシャン達は最高の演奏とどうしても比べようとする。というのも、ジャズの歴史の何処を切り取っても、素晴らしいトリオが存在しているからだ。トリオ編成での演奏は、下手なごまかしは一切効かない。一つ一つのサウンド、一つ一つのリアクション、一つ一つのミスが、この究極の編成では簡単にあらわになる。農家で小麦を「カラ竿」で打って、カラと中身を選り分けるが、正にあれを見ているようだ。多くの場合鍵を握るのはピアノ奏者達である。ジャズの表情を変化させるのに影響力を持ち、なおかつこれをスタイリッシュに展開させてゆくのだ。 

 

1920年代の至高の編成によるトリオの数々を除けば(名コルネット奏者のビックス・バイダーベックがピアノを弾いてサックス、ギターと組んだものや、ジェリー・ロール・モートンがジョニー・ドッズとベイビー・ドッズの兄弟と共にクラリネット、ドラムスで組んだものなど)、一般に最初期のピアノトリオと目されているものには、1930年代にクラランス・プロフィットやナット・キング・コールが率いたアンサンブルも含まれる。こういったバンドはピアノ、ギター、ベースで編成される。アート・テイタムも用いたものだが、実は彼は、1944年には既にベース、ドラムスとの編成に取り組んでいたのだ。ビッグバンドという大編成の楽団を率いるベニー・グッドマンもスウィングトリオに取り組んでいる。彼はジーン・クルーパをドラムに、テディ・ウィルソンをピアノに(左手でベースのパートを代わりに弾いた)それぞれ起用した。カナダ出身のピアノ奏者オスカー・ピーターソンは、説得力のある表現と華麗な技術で知られているが、その評判の大半は、彼のトリオでの取り組みによるものである。当初ドラムスの代わりにギターを編成に入れていたが、1959年にドラム奏者のエド・シグペンをそれまでのギター奏者に替えて起用している。デューク・エリントンも、1950年代から、自身のバンドのリズムセクションによるトリオを手掛けている。同じ様にエリントンの注目すべきレコード作品が幾つかある。ベース奏者のチャールス・ミンガス、ドラム奏者のマックス・ローチらとのトリオだ。他にも優れたトリオの演奏者としては、エロル・ガーナー、ハンク・ジョーンズアール・ハインズ、フィニアス・ニューボーン・ジュニア、バド・パウエルマッコイ・タイナー、ハンプトン・ホース、アーマッド・ジャマルポール・ブレイ、そしてなんと言っても、1950年代以降全てのジャズピアノ奏者達に影響を与えたビル・エヴァンスである。 

 

ビル・エヴァンス・トリオといえば、3つの各パートが対等な立場にある。キース・ジャレットが最初に組んだトリオ(チャールズ・ヘイデン、ポール・モチアン)の手本となったトリオであり、もしかしたら2番目のゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットとのトリオにとっての方がお手本になったかもしれない。結成直後から、最新アルバム「サムホエア」(2009年)まで、3人の名前はアルバムのカバーに、同じ字の大きさと同じ印字の目立ち方でで「キース・ジャレットゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネット」と記載されている。これはおふざけでもなければ、なにかごまかそうともしていない。上下関係の存在に対する、ある種の拒否表現である。同じ拒否反応をシェアしているのが、モーツァルトからブラームスチャイコフスキーといった名作曲家達によって受け継がれた同じ拒否反応である。同時に彼らは、「ピアノトリオ」などという表現は理にかなわない、ということを世に訴えることで、このアンサンブル形式の地位の向上に努めてきた。こういった作曲家達にとっては、ピアノが弦楽器群の上に君臨してるなどというのは、言葉に既に現れてしまっているものの、音楽的な側面から鑑みるに、喉に刺さった骨のように厄介なものだった。彼らは3人一組でのやり取りを模索していた。3つの全然違う楽器の音色を対比させることで、概ね同じような弾き方をしていても、それぞれの役割を果たすことになるのだ。 

 

もしもキース・ジャレットゲイリー・ピーコック、そしてジャック・ディジョネットの3人が、自分達の音楽活動を縮小してこのプロジェクトに懸けていたら、30年にも亘る期間彼らが活動を維持できたかどうかについては、何とも言い難い。当然そのようなことはなかったし、特にジャレットにとっては、このトリオのプロジェクトは、単に「沢山あるうちの一つ」として取り組むものだった。3人はコンサートやツアーのたびに顔を合わせるわけだが、それ以外の時間は、自身の目指す高みへ向かう悪路を突き進んでいたのである。更に驚くべきは、皮肉なことに、ジャレットも、ピーコックも、そしてディジョネットも、ジャズのスタンダード曲の分野において、これほどまでの活力を吹き込むことに成功したことである。トリオの演奏活動期間中、16枚ものライブ録音が、レコードやCDでリリースされた。もう一つのスタジオ収録作品は、1991年に亡くなったマイルス・デイヴィスへのオマージュとしてのもので、彼らを夜に知らしめる出発点となった、マンハッタンのザ・パワー・ステーションで録音された。他にもさらに4枚のCDがあり、収録曲の多くはキース・ジャレットが作曲したものである。 

 

スタンダードナンバーと呼ばれる作品には2つの役割がある。一つは永遠の人気曲として、もう一つは後世に残る楽曲の基準を示すものとして、である。多くは32小節の「AB」もしくは「AABA」形式であり、ハーモニーもI、IV、V、Iというコード進行を伴う。こうした楽曲形式の原点は、19世紀の民謡や愛唱歌にも見受けられるとは言え、全体的に見れば、スタンダードナンバーとは、20世紀前半のアメリカのエンターテイメント業界による産物である、と言える。これらの楽曲は、幅広い性格を持ち、出来映えの差も相当幅がある。それ故に、楽曲の持つほのかな雰囲気や旋律のひねり具合が、巧妙に無駄なく作られていることに対して、肯定的な評価がなされている。そうかと思えば、ありきたりなお涙頂戴の雰囲気や、下手くそで使い古されたようなサウンド作りをして出来上がったメロディに対して、否定的な評価もなされている。だが、音楽というエンターテイメントの世界でも安定感のまるで無い分野にあって、これだけ幅広く様々な作品があることについて、どのような感想を心に抱いたとしても、「ザ・グレート・アメリカン・ソングブック」という殿堂に入れてもらいたければ、いかなる場合も、メロディは簡潔な形で、そして無駄なく親しみの持てる歌い易さが必要だ。ところが、こういった条件は、スタンダードナンバーの作曲家の中でも重鎮とされる一人ジェローム・カーンも認識しているように、客観的な尺度できちんと抑えてゆくことが容易ではないことは、誰が見ても明らかだ。彼のミュージカル「ロベルタ」が1933年に初演された後のこと、「煙が目にしみる」にせよ、「イエスタデイズ」にせよ、ある一人の音楽評論家が下した評価は、ジャズのスタンダードに携わる物全てにとって、金槌で頭を殴られるような衝撃的なものだった。彼曰く、このミュージカルには、上演後ホールを出た時に、口笛や鼻歌で思わず出てくる曲が、何一つ無い、とのこと。 

 

これを頭に入れておくと、1940年代にビ・バップの革命的な音楽が世の中に与えてた衝撃の凄さが、理解しやすくなる。ビ・バップでは、スタンダードナンバーは依然としてインプロヴァイゼーションのベースとして使用されていた。だが一番肝心な要素であるメロディは、完全に無視されてしまっている。一方で和声進行、あるいは和声の変化の仕方は、引き続きその役割を果たしていた。こんな具合にして、マイルス・デイヴィスの「ドナ・リー」は「インディアナ」という楽曲を当てはめたものであるし、「チェロキー」はチャーリー・パーカーの「ココ」に形を変え、「アイ・ガット・リズム」はディジー・ガレスピーの「アンソロポロジー」やレスター・ヤングの「レスター・リープス・イン」と言った具合。原曲のもつ軽やかな曲想は、ビ・バップ特有の主題/モチーフの歌い方という新時代の仕組みの中に組み込まれると、もはやその面影すら感じ取ることは出来ない。 

 

従前からキース・ジャレットといえば、魅力的なメロディを弾かせたら右に出るものはおらず、スタンダードナンバーの主題の素材を、常に高く評価してきていた。ジェローム・カーンリチャード・ロジャース、ハロルド・アーレン、コール・ポータージョージ・ガーシュウィン、ヴァーノン・デューク、ヴィクター・ハーバート、ヴィンセント・ユーマンス、ホーギー・カーマイケル、ハリー・ウォーレン、アーヴィング・バーリン、クルト・ヴァイルといった作曲家達が持っていた、溢れんばかりのメロディを創り出す才能が、失われてしまう危機にあると、キース・ジャレットは何度も何度も言及した。「スタンダードナンバーが過小評価されているのは、メロディを作る難しさが知られてないからだと思う。」優秀な作曲家はこれを理解しており、メロディを作る才能のある同業者に一目置いている。そういった同業者の中には、正当な言い方どうかわからないが、「ウケればそれでいいと思っているヤツ」とみなされている人達もいる。アルノルト・シェーンベルクに言わせれば、ジョージ・ガーシュウィンは、20世紀前半のアメリカの作曲家の中では最も重要な人物の一人である、という。そしてヨハネス・ブラームスが、ヨハン・シュトラウス二世作曲のワルツ「美しく青きドナウ」の序奏部分を数小節書き、その下に、かの有名な「作曲者が自分でなくて無念」と書き込んだその理由を、ブラームス自身は良く理解していた。