about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.154-159

11.音楽のすべてを兼ね備えたアーティスト 

 

いつの時代も「作曲」(予め楽譜を用意すること)と、「インプロヴァイゼーション」(前後の流れを鑑みその場で作り発する)とは、ジャズの世界では微妙なバランス関係にある。それが特に顕著になったのが、1960年代のフリージャズ以降だ。音楽の構造や作曲上の展開について、従来のキチンとしたルールの多くを、排除してしまったのである。時同じくして、1960年代から見受けられるようになったのは、これまでより多くの演奏家が、演奏素材として、今までのようにジャズの各時代から定番ネタとされていたものを引っ張り出すよりも、自分で作ったものを使うようになってきた。だがキース・ジャレットの場合、これとは状況が若干異なることがよくあった。自作を出すのが流行りの時代に、彼はまず、「グレートアメリカンソングブック」への新たな興味関心をハッキリと打ち出した。次に、彼の「フリープレイ」という、予め作らず、他をアレンジせず、どんな時も予めあつらえた素材など無用な取り組みの、極端な側面を強調した。2人の日本人ミュージシャン達が、相当にのめり込んで、「ケルン・コンサート」という自由にインプロヴァイされた演奏を、譜面を起こしてこれを出版した。キース・ジャレット本人にしてみれば、ベートーヴェンピアノソナタをほぐし切って、インプロヴァイゼーションにするのと同じくらい馬鹿げている、と思っただろう。そういう理由もあって、彼は、同譜の初版ト書きに、本作はインプロヴァイゼーションの複製品として印刷されているにすぎない、それは絵画を雑誌や新聞に掲載するのに印刷するのと同じだ、と記したのだ。スコアには、演奏の表面的なことは見て取れるようにしてあるものの、その深い部分は、明らかにならないままである。だが勿論、「グレートアメリカンソングブック」のネタをインプロヴァイズする者であると同時に、クラシック音楽のピアノ奏者としても活躍し、そして自由奔放なソロのピアノ奏者としての側面も持つジャレットとしては、曲作りをやってのける者としては3つの顔を持つ。まずジャズの作品を書くこと。次に「クラシック音楽」を書くこと。最後にジャズの歌い方もクラシックの骨組みも一緒くたの、イメージ上だけの楽譜を描いてみせること。この3つだ。 

 

クラシック音楽」の作曲家としてのジャレットは、彼自身も認めているが、1970年代初頭という、彼のクラシック作品の大半が生まれた頃の、ツキに恵まれた条件の数々が揃った時期がなければ、作品はすべて、楽譜棚の肥やしになって終わっていただろう。一つには、マンフレート・アイヒャーが、商売っ気なしに、ジャレットの作るものは何でも世に送り出す体制を作っていたこと。もう一つは、ジャレットの本国でのレーベルが先の見通しの甘さのせいで、危機にされされていたことである。本国側の担当者達は、クラシック音楽に取り組む彼の意見を述べる場を提供しなければ、彼らが本命とした、恍惚のジャスミュージシャンとしての彼を引き止めることは不可能なんだということを、全く分かっていなかった。キース・ジャレットは理想的な出版者としてのマンフレート・アイヒャーを見つけた。そしてここに及んで、耳で聞こえる形でも、目で見て見える形でも、彼が自分の音楽的才能として公にしていた、最後の、そしてここまで見過ごされてきたものが加わり、「音楽のすべてを兼ね備えた人間」という、自ら選んだ自分のアイデンティティを、世に立証してみせたのである。 

 

キース・ジャレットの「クラシック音楽の」作曲家としてのキャリアが始まったのは「イン・ザ・ライト」。1973年リリースのアルバムだが、その前6年分の楽曲も収録されている。初期の着想は、キース・ジャレットがチャールス・ロイド時代の頃に遡ると思われる。ここでジャレットが披露する幅広い楽曲の華やかさは、驚嘆すべきものがある。まずは「メタモルフォーゼス」(変容)。独奏フルートと弦楽合奏のための作品で、時々聞こえるサウンドは、まるで彼が新たに編み出したフリーインプロヴァイズの手法を、作曲に活かそうとしているかのようである。ここではジャズの歌い方は影を潜めているが、曲の構造に関するコンパクトなセンス、メロディラインの描き方、ずっと展開し続けるモチーフが、終わる気配もなく、しかもキチンと連想的に結びついた並べ方をしているところなどは、作曲者が誰なのか、すぐに分かる「彼の痕跡」だ。彼はこの書き方を「オートマティスム」(自動書記)という言葉で言い表した。シュールレアリスムの手法から取り入れられたもので、彼の作曲スタイルを説明するものだ。一種の夢遊病者が楽曲を作るような体験みたいなもので、よもや、題材を意識してそこから離れない、などということは一切しない。これがキチンとできれば、ジャレットのインプロヴァイゼーションのやり方にとって重要な特徴となるのだろうが、当然のことながら、これを大人数の合奏体のための曲を作る時に持ち出すとなると、目的を達成するのは、難しくなる。そうなると、作曲の際に意識が半分しか働いていないだとか、素人が自力でやるような楽譜の書き方といったものは、フルート奏者のウィリー・フライフォーゲルやシュトゥットガルトの南ドイツ放送管弦楽団(現・シュトゥットガルト放送管弦楽団)の弦楽セクション(指揮:ムラデン・グテシャ)の演奏に実際に見て取ることができることが、ひときわハッキリしてくる。 

 

異教徒の賛歌」では、ジャレット自身も演奏に加わり、彼流の、「作曲」と「インプロヴァイゼーション」との橋渡しのやり方を示す、よい例となっている。ここでは彼が一人でインプロヴァイゼーションする時の演奏と似ている点が、数多く見受けられる。何処かを切り取って、彼の「フリーインプロヴァイズ」の演奏録音に入れ込んだら、きっとわからないくらいだろう。同じことが言えるのが、「イン・ザ・ケイヴ、イン・ザ・ライト」。ピアノ、打楽器(以上両方ともキース・ジャレットが演奏)、弦楽合奏のための作品だ。だかここで少し違うのが、この作品に出てくる長いパッセージの数々である。一人のジャズミュージシャンが、クラッシック音楽の弦楽合奏エスコートされて、そのインプロヴァイゼーションが次々と溢れ出てくるようである。ジャレットは、音色の混ぜ方とオーケストレーションにおいて、見事な手腕で調和の妙を見せつけた。4本のチェロと2本のトロンボーンを用いて、トロンボーンのスライドを使う音の効果を生かした、彫りの深いメランコリックなサウンドを生み出している。はたまた「金管五重奏曲」では、旋律的な各声部についてはクッキリと独立するよう書いている。そうなれば自ずと、ドラマチックな圧の強さになってくる。そして曲の締めくくりは、芸術的な作り込みが素晴らしいホモフォニックな響きで、ホッとさせてくれる。 

 

【画像脚注】 

キース・ジャレット作曲 「フルートと弦楽合奏のためのメタモルフォーゼス(変容)」 作曲者による直筆譜。左ページ:冒頭部分  右ページ:練習番号289~304(画像提供:ECMレコード) 

 

だがこのアルバムでもっとも驚くべき作品は、「弦楽四重奏曲」である。ここではジャレットは、抑え気味の曲の展開、そして主題の組み立て方という部分において、熟練の手腕を聴かせてくれる。彼がハイドンの極めつけである、通称「ロシア四重奏曲」を、しっかりと研究し尽くした成果である。幼い頃、ジャレットはピアノだけでなく、バイオリンのレッスンを受けていた時期が数年あった。後に自分の作品に、適切な弦楽部を書くことができるようになったのは、このためでもあると考えられる。グッゲンハイム財団による助成金を得て作曲された、この「イン・ザ・ライト」を、ジャレットは「ユニバーサル・フォーク・ミュージック 

(民族・国境を越えて庶民に根付く音楽)」と呼んでいる。このことは、「ジャズ」という曖昧な形式のお題目に対して、その汚名や限界といったものに対する、人々の一般的な嫌悪感があることを、世に明らかにしている。だがこの新しい用語「ユニバーサルフォークソング」も、仮に「ジャズ」という言葉が、この音楽の持つ形式面での多様性を反映しきれないとしても、では「イン・ザ・ライト」の音楽の特徴を的確に説明し切るのか、というと 

、これまた相当に難しい。 

 

イン・ザ・ライト」の企画立ち上がった時ほとんどの人は実現可能とは思わなかった何しろ言い出しっぺはアヴァンギャルド畑のジャズ・ミュージシャンで、チャールズ・ロイドやマイルス・デイヴィスと共演したり、その名を知らしめたきっかけは、一人で行うインプロヴァイゼーションだったから、というのがその理由だ。だが丁度1年後、彼がリリースしたアルバムは、何だかんだ言って、「可能」をこえて「驚き」の作品となった。3楽章からなる「ルミニッセンス」は、弦楽合奏とインプロヴァイズを駆使するサックスのための作品。彼がこの曲を生み出すことで、証明したことがある。誤った思い込みで、「ジャズの第三の流れ」と称する、本来のジャズでもなければクラシックでもない、どちらとも与しないやり方では、「受粉しても実がならない」を繰り返すだけ、などと考えてはいけない、ということだ。と同時に、この作品は独自色が非常に強く、物議を醸す「ジャズの第三の流れ」でもないようだ。 

 

彼と、南西ドイツ放送管弦楽団の弦楽器奏者達とのやり取りの中で、普段クラシック音楽に馴れている者達には、本質的な部分で、「よその世界の話」であった、リズムのセンス、あるいはタイミングのとり方のセンス、こういったものを彼は信念を持って伝えた。そして、当然ながら、手練のインプロヴァイザーたるジャレットは、ヤン・ガルバレクを燃え上がらせ、そのメランコリックなサックスで、ジャズの宇宙へと旅立たせるには、一体どんな音楽的背景が必要かを、よく心得ていた。弦楽部のメロディラインと、ガルバレクのフレージングに際してのセンスやテンポ感や息の長く速度変化の自由な歌い方、両者は完璧にハマっている。弦楽部がゆっくりとした展開を描いて見せる。これに対しガルバレクは、極めてかすかな変化の付け方で応じる。そして力強く息の入ったモチーフを使い、弦楽部のハーモニクスの中に、自らの演奏を当てはめてしまうことが、しっかりとできている。全体として、リゲティの音楽を彷彿とさせるこの作品の、一つ一つのディテールを聴いているうちに、思わず疑問に思うこと:ジャレットは、ガルバレクの演奏スタイルに合うような曲の作り方をさりげなく使うことを念頭に、これまでのガルバレクの録音を聴いて、そのスタイルを分析したのではないか?、ということである。例えば、第1楽章「Numinor」では、中間部でチェロとコントラバスの両セクションが、度肝を抜くような、オーケストラとしてのオスティナートが聞こえてくる。このクネクネとしたモチーフは、まるで、ジャレットのソロインプロヴァイゼーションで、「ヴァンプ」という、短いコードを繰り返す伴奏の部分を引っ張り出してきたようである。とてつもない力で繰り返されると、水上の浮橋にでも立っている気分になる。 

 

第2楽章「Windsong」(風がうたう歌)、そして第3楽章「ルミニッセンス」の長いパッセージの数々では、ジャレットは連続する轟音を弦楽器で聞かせる。そのハーモニクスの中に、ガルバレクのテナーサックスあるいはソプラノサックスが絡んでくる。そしてここから、時々離脱しては、ホモフォニックのアカペラコーラスによくあるような、輝くばかりの高音部を高らかに聞かせる。この時折聞こえるサックスは、管楽器というよりは、チェロが特殊な奏法で演奏しているような趣である。ガルバレクを擁するオーケストラというものが、万が一にもそんな仕事を引き受けるか?と疑問なら、実際そうしているのが、この演奏だ。 

 

この信じられないほどに密度の濃い演奏によるサウンド、これに関連するような音楽が他にあるか、と考える時、一つの例として、オーネット・コールマンの「アメリカの空」にそういったパッセージが散見される。こちらも負けず劣らず意欲的な作品だ。「ルミニッセンス」の2年前に書かれ、ロンドン交響楽団との収録である。音楽面の意義においても、この作品はアメリカ全土で、その文化史上、あっという間に人気を博す。そして勿論、そこには様々な民族の音楽文化に起源を持ち、そしてそこに照らした要素が含まれている。古臭いだけの因習を打ち壊し続けるオーネット・コールマンは、常に伝統にとらわれないイノベーターであり、常に進化する人物であったことが、この音源から伺える。 

 

シュトゥットガルトでのルミニッセンスレコーディング終了するとすぐにジャレットはガルバレクとのアメリカツアー開始する。同作品の演奏が目的だ。1年後、ミネアポリスでの、ジャレットの作品を特集したフェスにて、「ルミニッセンス」が、ガルバレクとともに再度プログラムに採り上げられる。このツアーと様々な演奏の数々は、多くの観客を呼んだ。ところが「作曲家」としてのジャレットに対する評価は、音楽評論家達の間では、大きく異なる様々な意見が上がった。タイム誌は、ツアーの数年後にジャレットの特集記事を組み、そこでは、彼は閉所恐怖症だとか、作品は醜悪だとか、散々であった。ニューヨーク・タイムズ紙は、「ルミニッセンス」にはガブリエル・フォーレとアレクサンドル・スクリャービンの影響が見られる、とし、更には、キース・ジャレットは、いずれ将来、楽界が長年待ち望んだジャズのイノベーターとなり、そして「次世代の偉大なる音楽人」となるだろうと、ぶち上げた。 

 

同時に、ジャレットが常に進化を遂げていることを証明するもう一つの作品がある。「ルミニッセンス」と結び付きが強いもので、2年後に世に出た。「ブルーモーメント」(アーバー・ゼナ)である。「ルミニッセンス」の続編のように思われるが、手法は異なっている。「ルミニッセンス」のまとまったサウンドと比べると、足りないとはいえ、完全には失われていないもの:リズムの鼓動、明瞭なソロのパッセージの輪郭、より色濃いジャズの要素、こういったものは、「ブルーモーメント」(アーバー・ゼナ)の各要素の輪郭をしっかりと形成する。そこでは3人のインプロヴァイザー(ジャレット、ガルバレク、そしてチャーリー・ヘイデン)が、本作品には欠かせないシュトゥットガルト放送管弦楽団サウンドをバックに、顔を揃えている。同時に、ジャズとクラシックのせめぎあいが、ここでは強めである。特にチャーリー・ヘイデンの、どデカいベースのサウンドのせいだ。これはメロディのネタが現れるたびに、重要な役割を果たす。それがサックスやピアノを後方へ追いやってしまうのだ。パブロ・カザルスに献呈された第2楽章にみられるラテンアメリカ音楽の数々のリズムの中にあって、彼ら3人は、スタジオ内に陣取るオーケストラのことをすっかり忘れ、なにか魔法のようなもので、ずっとひたすら3人の間だけでジャムセッションのようなアンサンブルをしている。これはこれで素晴らしい。というのも、オーケストラの方はジャズの演奏というものについて、当時のヨーロッパでは事実上一番良く理解していたからである。