Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)6章pp.97-102

同じ年、そしてこのアルバムが、いわばジャレットとアイヒャーの二人の「手元に転がり込んできた」その後で、キース・ジャレットは180度方向転換をして周囲をアッと言わせた。マンフレート・アイヒャーに刺激を受けた彼は、ドイツのウンターアルゴイ郡へ向かった。ドレイファルティゲイトゾルゲルという、オルガンを見にゆくためである。カール・ヨーゼフ・リープがオットーボイレンのベネディクト修道院のために作った2つのオルガンのうちの一つだ。このプロジェクトは、彼にとっては自分のやりたいことが、理想に近い形で達成できたものと思われる。彼は曲作りの最初の一発目の音から、実際の楽器を使って鳴らすことが出来た。この楽器に触れるにあたっては、自らの知識をフル活用できる状態で、瞬間ごとの思いつき、直感、そして彼の音楽的才能の導くがままに、これに臨んだ。2つのコラールのような「賛美歌」が、9つの楽章から構成されるSphere(音楽の天球)」を、取り巻くようにアルバムの最初と終わりに配置されている。。明確な形はなく、音の変化を頼りに、音色を基軸にした曲の組み立て方は、非常に今風の印象を与えるのだが、それでも、ハーモニーが分かる状態に作ってある。 

 

キース・ジャレットがこの楽器魅力として感じたであろうことが、2つある。一つは音量幅。もう一つは音色の数。音色については、このオルガンには50本のパイプがあり、彼は自分の望む効果を出すために、パイプを半分だけ抜き差しするなどしてた。これにより無限とも言える数々の音色を産み出していた。新たなサウンドを開拓しようとする「賛歌」の収録曲は、「ステアケイス」に通じるものがある。「ステアケイス」との違いは、曲、というか「歌」と言っておこう、「ステアケイス」は卓越したピアノが「歌う」様々なニュアンスであるのに対し、「賛歌」のほうは、音色が「歌い方の構造」を決める要因となっていることにある。これら音色を主軸に曲を作るやり方は、アルノルト・シェーンベルクの「5つの管弦楽の為の小品」作品16の、第3曲で、従来の手法によるメロディの作り方ではなく、代わりに音色やリズム、曲想といったものでこれを作ってゆくという方法に、似ている。この手法について、シェーンベルクが「5つの小品」作曲後に語ったのが「和声の変化は、ほんのかすかに。新しく別の音色を持つ楽器が入ってきても、その「入り」は角が立たないように。新たな和声の色合いだけが耳に入ってくるようにすること」とある。この「音色旋律」は、シェーンベルクの考え出したものだが、これが数多くの花実を結ぶのが、この手法を自分の作品全てに使用した作曲家アントン・ヴェーベルンである。対するキース・ジャレットの作品群も、同じ様な音色変化の付け方を踏襲しているが、こちらは調性を持つサウンド作りであり、一つ一つの音色が次々と重なってゆき、音が分厚くなってゆくやり方をしている。醸し出される雰囲気は、特にサウンドの変化があまりにも微小すぎる中でリズムカルな動きが殆ど見られないといとうところが、ジェルジ・リゲティの作品である「ヴォルーミナ」(オルガン曲)や「アトモスフェール」(当時革新的とされた音の多重構造をもつ管弦楽曲)に、極めて近い。古典派・ロマン派の言うところの曲の展開方法は、ここでは全くお呼びでなく、ただひたすら、サウンドが変化してゆくのみである。ハッキリとしたリズムも、この音の風景にある流れには存在しない。休符も、途中で曲を遮るようなことも、「どこへいってしまったの?」と言った具合である。 

 

このように音の振動が続くさなかで、全く止まる気配のない音がいくつか存在し、それらが結果として、オルガンのパイプを一本残らず使い尽くし、音が積み上がった巨大な山と、何層にも重なったハーモニーが生まれる。ジャレットがこの音の層(あるいは音の層が積み上がった山)を動き回る様は、地層調査員か、はたまた魔法使いの弟子が自分の拙い魔法でやらかしたことに途方に暮れつつも、積み上がった音の塔から脱出する出口を探し続けているかのようである。出てくるサウンドによっては、様々なオルガンのパイプを厳正な方法で使用した結果のものもあれば、逆に無謀な方法で使用した結果のものもある。とくに鮮明なのが「賛歌」2曲目の第7楽章で、長い持続音からの始まり方は、ラ・モンテ・ヤングという、最小限の手数で圧倒的な効果を生み出そうという様々な作曲法の、大親分のような作曲家がいるが、ジャレットが弾いているその後ろからじっと見ているかのようである。基軸となる音がいくつか会って、そこにまた継続的に鳴り続ける音が、周りに組み立てられてゆき、ついには、様々周波数に分かれるいくつもの音と、色々な和音がぶつかって生まれた圧とで、ちょっと聴いただけでは理解不能な混沌とした状態が発生する。恐らく、こんなグロテスクな音の積み重ね方を、ジャレットに吹き込んだと思われるキッカケがある。1975年、スイスのベルンに立ち寄った時のことだ。この時ジャレットは、マンフレート・アイヒャーの自家用車で、ローザンヌからケルンのコンサート会場へ向かう途中だった。昼間、街中の教会の尖塔という尖塔から次々と鳴り響く鐘の音、それも倍音(訳注:本来音の5度等上の音が聞こえること)豊かな響きに、ジャレットもアイヒャーも感銘を受けた。キース・ジャレットはこの時、いずれ何かのレコーディングで背景効果でこれを使ってみたいと、興味を示したという。 

 

先程も書いた通り、「賛歌では2つのコラール前奏曲」が、最初の曲、最後の曲として配置されそれが9つの楽章からなる「Spheres」を囲むようになっている。ところで、従来型の「大昔の音楽」が何か絡むのは、「前」座で演「奏」する「曲」としての「コラール(賛美歌)」である、ということの説明、それだけである。他は何も絡まない。前奏曲だの、トッカータだの、フーガだのといった、典型的なパロック音楽の名残が、何かあるかと言えは、全く無い。この音楽が人を感動させないなど、ありえない話だ。この曲の大半は、文字通り、初お「耳」えであり、驚嘆に値するものであり、他に類を見ないものである。だがジャレットの演奏から受ける印象といえば、あらゆる音楽ファンのために、というよりは、自己完結が目的、といったところだ。この手の話は、別の作品についてだが、マンフレート・アイヒャーがかつて言った言葉をここで紹介しようと思う「本作品が届くのは、ファンの心の中までではなく、その手前までである(直訳:この音楽は、聴衆に届くことを期して作られたではなく、この世に存在させるために作られたのである)」。 

 

3年後キース・ジャレット再びオットーボイレン訪れる。ここで修道院のオルガンとソプラノサックスによる、7部構成の「インヴォケイションズ」収録のためである。これは2枚組LPとしてリリースされることになるが、もう1枚が、奇妙な組み合わせとなった。前年にすでにスタジオ収録してあった、5部構成のピアノソロで「蛾と炎」である。今回の訪問は、オルガンサウンドの研究が目的ではなく、自分の持ちネタとして、その音質を利用して明確な曲の構造を作ってゆくために、インプロヴァイゼーションと作曲と両方のために、オルガンを弾くためであった。「賛歌」の時は、ジャレットは、オルガンの持つサウンドの可能性を引き出すことに執心したことは明らかで、「インヴォケイションズ」では、その様々な音色を、形式を用いる曲作りに活かそうとした。「インヴォケイションズ」では、オルガンを補うのがサックスのソロ。役割としては、教会の牧師のようなもので、神の御加護を得て問題を解決しようと、礼拝に集まる人々を励ますようである。どちらかと言えば暗い雰囲気を醸し出すオルガンが奏でる音楽が、時折サックスがかぶさってきながら、2拍子から6拍子で聞こえてくる。この暗い雰囲気は、第2部でも聞こえてくることとなる。ここでは、低音のオスティナート(訳注:同じ様なリズムの繰り返し)が、仏教の寺院に経典が刻んである車輪があるが、それを連想させる雰囲気を創り出す。これをベースとして、サックスは短いフレーズを何度も繰り返し、時折不規則に、歓声を上げるようなモチーフが飛び出す。ほどなく、セメントミキサー車か、あるいは工場を彷彿とさせるような、分厚い音が鳴り、その上に乗るように、強力な主音域によるサウンドが響き渡り始める。次に、形が全く見えないパッセージが現れる。ほとんど性格が変わってしまったサウンドに彩られており、明らかに第5部(全体の中間部)が、それまでと明確なコントラストを付けて入って来れるようにすることを目的にしている。この時、オルガンは、なかなか動き始めないタービンエンジンのようなサウンドを聞かせ、サックスがそこに加わってくるメロディが分裂したものは、ガーシュウィンの「サマータイム」(ポギーとベス)を彷彿とさせる。その後、攻撃的な音の塊が現れ、そしてその塊が崩れ、神聖はオルガンは町中に響くオルガンに堕してゆく。この間サックスは、神様から昇天を約束されたが如く、音の流れに揺られたゆたうようである。 

 

このオルガン曲と、ピアノ曲である「蛾と炎」が、なぜ2枚組LPとなったのか、音楽ファンにしてみれば、ハッキリした理由がわからないところだ。おそらく、キース・ジャレットというアーティストがもつ力量の二面性をアピールしようというのだろうが、それならもっとマシな組み合わせがあろうというものだ。なぜなら明らかに、「蛾と炎」つまりピアノの方は、キース・ジャレットのキャリアの中では、ソロの傑作の部類にはいらないからだ。彼の燦然と輝く数多くのライブ音源と比べると、「蛾と炎」は、あまりに異質で、かつその価値も落ちる。この組曲の「パート1」のインプロヴァイゼーションが使用する、変に飾り立てたモチーフは、切れ目なく変化してはまた作り変えられるのだが、めぼしい展開を見せずに終わる。キース・ジャレットの、ライブでもスタジオ録音でも、よく耳にするような、良く言えば極めて親しみやすい、色々なフレーズが次々と飛び出してくる狂詩曲のようなものだ。モチーフがアラベスク模様のようになり、まずはファリャの交響的印象「スペインの庭の夜」を彷彿とさせる牧歌的な情景を描き出す。そして鋭い切れ味のコードでバラバラになると、「パート5」ではキース・ジャレットの独自性が真骨頂を発揮する。そこまでの間、パート2では民族音楽風で、パート3では突如ジャズ・ロックが入り、パート4になるとそれまでより和声が洗練されてくる。ベートーベンのようにマッチョな骨太で、マヌエル・デ・ファリャのように金細工のように繊細な、そんなピアノが聴きたければ、「パート5」がうってつけである。 

 

2度目のオットーボイレンでのオルガン演奏の前に、キース・ジャレットは、とあるピアノソロのレコーディングを行っている。これが後に、このジャンルでは当時最高のリリース数をはじき出すこととなった。この分野の専門家達は、概ね揃って否定的な反応を示したものの、事実上、キース・ジャレットと、そのプロデューサーのマンフレート・アイヒャーが、独自のレコード制作のカテゴリーを確立する力があることを、証明することとなった。1976年の、キース・ジャレットの日本ツアー中に行われた全5回のソロリサイタルをまとめた「サン・ベア・コンサート」が制作される。音楽業界は、この会社は、自ら「帰らぬ人」となることを選んだと見た。だが音楽ファンとレコード収集家達は、自らを「変える」ことを選んだ。この10枚組LP、後に6枚組CDは、現在まで長きに亘り注目を集め、この大事業の歴史的価値は、誰もが当然であると認めるところである。キース・ジャレットは毎晩でも、ゼロから音楽を紡ぎ出せる、そう認めたくない人も、この5回のコンサートの記録を、客観的な証拠として受け入れればよいのだ。11月5日、8日、12日、14日、そして18日、会場には、伝統的に演者に対して敬意を払うとされる、日本の聴衆が詰めかけていた。そんなホールにて、キース・ジャレットはピアノに座り、場の空気感と、自ら発信する音楽観に、その身を任せることで、自らを刺激し、インプロヴァイゼーションを始める。それは、全てを集中し、一瞬で音楽の垣根を消し去り、常に新しいものを生み出すという、他に比類なき演奏であった。 

 

本収録のスケールの凄さを、いきなり鮮明に示すのが、初日の京都公演の、45分間ぶっ通しの演奏である。まず小さなメロディの断片が、3度のインターバルで繰り返されると、これがインプロヴァイゼーション全体の中心的なモチーフ(ライトモチーフ)となる。これは後に、シンフォニックな様相を帯びてくる。イメージとしては、ベートーヴェンの「運命」や、ブラームスの第4交響曲の、それぞれ第1楽章を思い浮かべていただければよい(少なくとも、音楽の核となるものが、その複合体へと発展してゆく様子のことである)。勿論ここでは、ソナタ形式との二元論については、全く関係ない話とする。一方、大阪公演では、演奏の出だして聞こえてきたのは、アメリカの歌謡曲か何かをひねったものと思わせるもの。だがこれはキース・ジャレットのトリックで、古典派だのロマン派だのといったピアノの弾き方に浸りきっての「惑わし」である。ひとしきり自由に序盤を終えると、京都公演での小さなモチーフが、左手から流れてくる。だが出てくる音楽は、京都公演の時とは真逆。一つの地味なモチーフから、壮大な音楽も、歌謡曲も、両方ござれと、ジャレットが見せつけているようである。ところがここで一転、リズムの重厚な、シンプル極まりないモチーフの数々と、オスティナートへと方向転換する。京都公演に続き二度目に登場のライトモチーフは、ここでお役御免、本番終了まで舞台裏へと消え去った。 

 

 

数日後の名古屋公演では、京都/大阪公演でのイントロのことは、すっかりキース・ジャレットの頭から消え去り、代わりに、力強く、分かりやすくて、メロディを軸に据えて様々に展開してゆくというスタートを切る。これに左手で軽く伴奏がついた。京都/大阪公演と比較すると、抑制の効いた瞑想的な音の風景が、展開してゆく。ここでハッキリ聞き取れるのが、ジャレットはその時々の楽器に特有の性能品質を把握するやいなや、自然にそれを活かして、自分の演奏を組み立ててゆく、ということ。名古屋のピアノは、高音域が素晴らしいと判断し、左手から離れた音域でのフレーズや、メロディを構築する際にこの音域を組み入れていくことに集中した。そして彼は演奏に興じるあまり、歌い出す(というか、唸りだす)。そして、会場のピアノの高音域の輝かしいサウンドを駆使し、無調音楽が展開し、演奏が進むにつれて、バルトークの「アレグロ・バルバロ」を彷彿とさせるものとなっていった。気づけば彼は、20世紀初頭の大作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンの「ピアノのための小品」を彷彿とさせるような、といってもその「影」程度であるが、いずれにせよ、彼ならでは、ほんの小さな雫から、一曲仕上げてしまう彼の音楽づくりは、何度考えても素晴らしい。終盤に向けて、冷淡であるも素晴らしいアヴァンギャルド風から、ロマン派のウンと端っこをかすめて、最後は柔らかくシメている。 

 

 

2日後の東京公演は、出だしは更に親しみやすく、そして今までより素っ気なく始まる。今度は全てが内向きで、会場のファンは、ジャレットが、今度は表現も抑えて、卓越した技も封印し、外界をシャットアウトして自分の世界に一人こもった、と思ったであろう。今回は先の3公演とくらべると、大人しめか、と思いきや、後に更に本領を発揮する。いつもは外さない音や、間違えない指使いがあった(あくまで超名人レベルでの話)時だけ、顔に出ている。演奏開始から8分ほど経ったところで(まだ内向きモード)、小さな装飾音符が演奏され、これをキッカケにオスティナートを弾き始める。しばらく弾いた後、いよいよ自分の殻から脱出し、外へと繰り出す。ここからは、いつも通り、多彩で、驚き満載、ジャレットの百科事典なみの頭の引き出しは、先の3公演で実証済みである。そして勿論、彼が絶対に外せないのが、ジャズのルーツへの回帰である(アフリカ系アメリカ人の演奏に見られる、一種の恍惚状態)。ゴスペル、そして働く人の為の歌に盛り込まれた、コテコテのブルーノートに自ら浸るのである。 

 

 

 

 

最終公演は札幌ジャレットのパフォーマンスは穏やかに始まるまるで素朴な昔のお話でも語るかのような感じである間違いなく5会場の中でもっとも「もったいぶた」始まり方であるが、こんな8小節単位で、昔ながらの長・単調を駆使したハーモニー進行が、いつまでも続くなど、誰も思うわけがない。そして間もなく、ジャレットは今まで聞かせたことのない、ひたすら繰り返すモチーフを持ち出して、新しい「お話を語りだす」。そしてすぐさま、この不安定な動機から抜け出す道が目の前に現れると、ジャレットはいよいよ自由に、新しいメロディやハーモニーを拾い集める道へと繰り出すのである。 

 

サン・ベア・コンサートレコードが克明に記録した、次々と飛び出す音楽の様子は、正に内容に底なしの様相であり、思い描くネタを発揮するのに、1秒の1/3もかからない、といったところだ。日本で5夜インプロヴァイゼーションの公演を行った、とうことは、5回全く違うプログラムをこなしたということだ。自分もインプロヴァイゼーションをやってみようかな、と思う人は、きっとキース・ジャレットのマインドの凄さを思うと、憂鬱な気持ちになってしまうことだろう。いずれにせよ、なぜこんな事ができたかと言えば、一介の音楽プロデューサーと、一介の音楽家が、共に手を組んで、こういったレコード制作が全く出来ない市場の仕組みに、反旗を翻したことが全てである。どれだけ多くの音楽が、ちっぽけで、偉大で、あるいは独創的なアーティストたちによってインプロヴァイゼーションによって生まれても、みんな一晩で失われてしまうのは、それをわざわざ残して子孫に伝えようなどと、誰も考えたことがなかった、それだけの理由なのだ。

Keith Jarrett伝記(英語版)6章pp93-97

「ソロ・コンサート:ブレーメンローザンヌ」は、キース・ジャレットが昔ながらのジャズ伝統と袂を分かち、二度とこれまでのインプロヴァイゼーションには戻らない:前もって口頭で打ち合わせをしない、既成のコード進行を使わない、そういった意味では紙に書いた譜面も使わないという、画期的なものだ(例外として、コンサートのアンコールピースや、「ダークインターバル」、「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」といった一部のアルバムを除く)。1973年といえば、彼がよく言う「フリープレイ」が確固たる地位を得た年だ。「フリープレイ」とは、ミハエル・ナウラも、「シュピーゲル」というドイツの音楽雑誌で、キース・ジャレットが1981年にミュンヘンで開催したコンサートの記事を扱ったときに使った言葉である。ナウラによれば、キース・ジャレットの根底にあるものは、有名な中国宗教「道教」の祖である老子の教え:身についたことや、仰々しい知恵は棄ててしまえ、そうすれば、百倍になって利益が返ってくる、ということだ(訳注:元の文は「聖を絶ち智を棄つれば民の利しきは百倍す」となっている)。「ジャズの歴史上、素晴らしいインプロヴァイゼーションを聞かせるピアノ奏者は、何人もいる。だが、皆、覚えてウケると分かっているネタを、オウムみたいに繰り返してばかりだ。そこを脱却しようという、やる気のある者は、誰もいない。恐らくキース・ジャレットという、20世紀の名手が雄弁に示すのが、かのデューク・エリントンの「ジャズは、もはや、色あせた札で、使い勝手の悪い術だ」という言葉だろう。」 

 

ソロ・コンサート:ブレーメンローザンヌ」や、2年後の「ケルン・コンサート」が引き金となり、ニューヨーク・タイムズのジェームズ・リンカン・コリアーがいうところの「キース・ジャレットブーム」が巻き起こる。ジャズの歴史の中で、数あるミュージシャン達がもがき苦しむ中、ほんの一握りの者達が、やり遂げたことは、キース・ジャレットがこれらのレコードを通して成し得たことだった。それは、ルイ・アームストロングデューク・エリントン、場合によってはベニー・グッドマンデイヴ・ブルーベック、そしてマイルス・デイヴィスなんかもそうだが、キース・ジャレットは、ジャズという「内輪」から、アーティストという「公の場」へと躍り出たのだ。当時アメリカでは既に一般的になっていたのが、著名人の資産に関する詳細記事である。主要紙のひとつ「ニューヨーク・タイムズ」によると、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」の売上による1978年の申告所得額が50万ドル(税込み)。総売上数50万枚は、ジャズレコード界の快挙であり(その後400万枚ほどに至る)、彼のソロコンサートのレコードのうち、継続的に売上のあるものについては、1枚あたり10,000~15,000ドルの報酬を得る権利をうけた。ついにはECMは、10枚組の「サン・ベア・コンサート」とともに、発売規模としては当時ベートーヴェンモーツアルトのレコードと同じような枚数を、世に送り出すに至る。ジャレットはすでに一部の批評家達からジャズミュージシャンとはみなされておらず、彼のファン層は筋金入りのジャズファンのみならず、フォーク、ロック、ジャズ、クラシクと、あらゆるジャンルの音楽愛好家を含んでいた。 

 

 

1974年、「ダウンビート」誌は、「ソロコンサートブレーメンローザンヌ」を、その年のベストジャズアルバムとし、世界各国のミュージシャンの批評家達は、ジャットを世界最高峰のジャズピアノ奏者と評した。だがここで注意しておきたいのは、こうした結果公表はたいてい、音楽活動自体の数字や見た目のの様子に対してであり、演奏の実際のレベルについてではない、ということだ。キース・ジャレットに衆目が集まるのは、彼が「いいとこ取り」の才に長けているからだ。インプロヴァイゼーションひとつとっても、普通のコンサートグランドピアノを使って、電子装置を仕掛けたり、多種多様なものとの融合を試みたりする。その魅力の素となる、音楽面での内容、途方も無い演奏技術、舞台上での魅力的な所作は、どれも既存の物や前もって打ち合わせ準備したものでは、全く無いのも人気の理由だ。ここで再びニューヨーク・タイムズの記事から引用する。キース・ジャレットのソロコンサートというものの印象的な描写をしているものがある。執筆者曰く、演奏を聞いていると、まるでアート・テイタムショパンが、同じカヌーに二人で乗って、川を漕いで下っているようだ、とのこと。「ブレーメン」の演奏開始9分あたりでは、まるで二人が滝に向かっているかのような印象を受ける。演奏はノリの良さに加えて、左手はオスティナート(同じリズムの繰り返し)、右手は紡いだ音の数々が空を舞い散るように、次第に圧を強めはじめ、段々ギラギラとしてものになってゆく。やがて右手の方のフレーズが申し訳無さそうに鍵盤からいなくなる。その様子はまるで、巨大な演奏システムを持つピアノさえも超越してしまったかのようである。そして全てがいなくなり、残るのは、手が触れることのない、響きをそのまま残した音である。 

 

インプロヴァイゼーションは、19世紀の偉大なピアノ奏者たちもまた、技巧を凝らし、長いフレーズ感を保つようなやり方で、行っていたと思われる。ただし、それらは長調短調といった和声をつなげてゆくやり方で行われていて、その範囲から一歩も外には出ていない。だが、ショパンやリストが、インプロヴァイゼーションの不滅の伝統を示すお手本として、彼らの音楽の中に託して後世に残したものを、ひとつひとつ見てみれば、いずれも自由に「次々と飛び出してくるもの」が、拍子の拍数や小節線といった枠組みから外れてくるものだが、所詮は単調である。対するジャレットは、大胆な鍵盤タッチで、つま弾く複合リズムは、今まで聞いたことのない、音楽の大陸の海岸に打ち上げられた気分であり、そこにはカオスが直ぐ側に居るようであり、そしてジャレットが、従来の和声もリズムも、全てその枠組を捨て去ってしまったかのようである。特筆すべきは、オスティナートの数々だ。彼がこれでもかというくらい使い倒すものだが、これが始まって聴いていると、これほどノリよく、恍惚とした気分になり、あるいは(文字通り)「揺さぶられる」リズムは無いように思える。この音楽は、洗練されており、また人の心をつかみやすい。魅力的なメロディと、それと同居するのが、不安感を煽るようなリズムである。そしてジャレットの常套手段として、ゴスペルの手法をもちいた、楽しさあふれるリズムへと飛び込んでゆくことがある。おそらく、数ある彼の演奏スタイルの中でも最も痛烈であり、同時にこれは、彼の心の内をクッキリと表現していると思われる。彼が生み出す音楽は、ある意味全て「賛美歌」と呼んでいいかも知れない。彼が自身のインプロヴァイゼーションについて語っていたことで「僕の演奏するものを「賛美歌」と呼んで構わないなら、僕にとってはその方が適切だ。なぜなら、思い通りに演奏できたものは、全て僕には「賛美歌」だからだ。僕の音楽は、人智の及ばない力と結びつき、そして僕がその力に全てを委ねることで、一つ一つ生まれてくる(訳注:英文はこの逆・・・もし僕の音楽が、人智の及ばない力と結びつかず、そして僕もそれに抗ってしまったら、何一つ生まれてこない)。そのたびに、神様からギフトを授かる、ということさ。」 

 

この一連の流れは彼が必ず繰り返し行う演奏に置いて非常に重要な要素であるこんな風に彼はオスティナートのせて興に乗った結果「賛美歌」となり、彼自身も恍惚の状態になってゆく。恍惚は、5分やそこらでは到達しえない。ジュークボックスのような機械的な演奏と、恍惚に到達する演奏とは、お互い相容れない。同時に、こういうインプロヴァイゼーションは、ある程度は、全てのジャズミュージシャン達が「ジャズはダンスだ」という持論をもっていることを裏付ける。その中には、デイヴ・ブルーベックレニー・トリスターノといた、「知性派」も含まれる。そしてジャレットは、ジャズが、トランスのようなアフリカ音楽の流れをくむ、ということをしっかりと自覚している。だが他にも魅力的な聞き所が、ブレーメンローザンヌの2つのソロコンサートには沢山ある。透明感のある高い音域の対旋律、雨粒のような序奏、ロックばりのアクセント、ピアノによる「音の滝」、そしてラグタイムのリズムが、一斉に時を遡り、やがて中世ヨーロッパのホケトゥス(多声音楽の一種)へと昇華してゆく。ローザンヌのコンサートも、ブレーメンのと、こういった点で同等である。そして、演奏開始早々、ジャレットの信じがたい演奏表現能力をうかがい知ることができる。 

 

この優雅な演奏については、様々な葛藤、それに対する裏付け、前後の話、解決策、疑問点が上がっている。属7音の和音に固執しつつも、音程感を崩したフレーズの終止形を維持するということで、答えが出るのを遅らせている。演奏がだんだん掴み所がなくなって、調性も感じられなくなってきたところで、ジャレットは突如、あるリズムを発信する。耳に馴染みのあるスクエア・ダンスにうってつけのものであり、素直な音楽の聴き方をする聴衆を、しっかりと惹きつける。何度も言うが、いいとこ取りの彼は、使い古されたような音形やジャズ・ロックのリズムと、ピアノの弦を直接手で弾いたりハンマーにミュートを掛けたりする技とを結びつけて、演奏できてしまうのだ。まさに、ジャズの古典であるコルネット奏者のバディ・ボールデンと、現代音楽の権化である作曲家のピエール・ブーレーズとは、表裏一体の一枚のコインであり、直ぐ側にはベートーヴェンが控えているぞ、と言わんばかりの演奏の姿である。そこには、不遇の時代のフリージャズから、フォークミュージック、情熱的な手の混んだ表現、そして威勢の良いロックのリズムまで、なんでもござれだ。演奏の最後の音が耳に入ったとき、聴衆は気づき始めるのだ。スリルな気分になれたのは、演奏中に飛び出した一つ一つの細かい内容ではなく、それらがまとまった全体像であり、溢れんばかりの芳醇な演奏内容、熱い思い、ともすると「キレて」しまうかもというジャレットに対する心配の気持ち、こういったものの総体なのだ。 

 

イラッとする一文が載っているのが、ジャレットの最大の人気ソロアルバム「ケルン・コンサート」のカバーだ。それには「全曲、キース・ジャレットの作曲による」。作曲による?「インプロヴァイゼーションによる」ではないのか?その区別を、ジャレットが出来てないとでも?それはさておき、この2つの別々の言葉は、その作業にあたっては共通するベースがある。音楽を、紙に書き出すか、頭の中に書き出すか、作業は別々だが、ジャレットにとっては違いなど無いのだ。インプロヴァイゼーションは瞬間的に行う作業である。その場の判断で、フレーズの処理の仕方、音の発し方や止め方、飾り付け、変化の付け方、再構築のしかた、あるいは自由に展開する方法について、次々と音にする。そういった意味では、インプロヴァイゼーションとは最速の作曲法である。 

 

同じ様なコメントを、本頁執筆中の私殊事筆者がキース・ジャレットコンサートに関してした時、反対意見が飛び出してきた。ドイツ人作曲家ヴォルフガング・リームである。インプロヴァイゼーションは最速の作曲法ではない、という。真逆に、彼は続けて、作曲は最も遅いインプロヴァイゼーションの方法である、という。「元ネタを譜面にしても、その新鮮さが保てるなら、結果できあがるものは、説得力がある。その良い理由となるのが、例えばモーツアルトドビュッシーのように、これをやってのけた作曲家達だ。彼らの作品には、インプロヴァイゼーションを作曲する、という基本方針がある。まず、その場その場で頭に思い浮かんだものを抽出して、それを形にして、吟味できる形にしてゆくのだが、その間、失われたり損なわれたりするものは、何もない。これは大変なことなのだ!だがあっという間にとは行かない。「あっという間に」行くのは、システムが出来上がっているもの、ルールで縛られているもの、あるいは蓄積されて整理された素材を使うものだ。」 

 

恐れながら申し上げるとこのヴォルフガング・リーム反対意見はジャレットの創作活動に対する反駁にはなっていないリームジャレットも、「その場の気持」の重要性を意識し、ジャレットの音楽は「記譜」の必要がない、と言う立場である。なぜなら、「ソッコー(即行:reflex)」と「ジュッコー(熟考:reflextion)」との差がないと思っているからだ。こういった瞬時の判断の新鮮さは、単に瞬時にインスピレーションが働くかどうかである、と理解されているのだろう。そしてインスピレーションの有る/無いで、有る人がアーティスト、無い人が「コン・アーティスト」(詐欺師)だ。こういうインスピレーションが次々と流れ出てくる、そしてすぐさまそれが結果に繋がり、あらためて譜面に落とし直す必要がない、というのが、ジャレットの音楽の価値を高めているのだ。これはジャズが魅力的である理由とも同じで、ジャズとは速さが身上の創作活動である。「ジャズ」と「冷静沈着」は同義語であり、キース・ジャレットはそれを研究する格好の材料である。 

 

キース・ジャレットの初めての試みとして、「ソロ・コンサート:ブレーメンローザンヌ」で行ったことは、その後の「ケルン・コンサート」、そして、彼が全世界で注目を集めることとなる、残りのピアノのソロ演奏録音全てにおいても、継続された。ジャレットは、形式上自由に演奏できる楽曲を、形に残すことはしない。だが彼の発想を、確実に、厳密に、そしてどこまでも守り実践して、それによって生まれいづるもの全てを効果的に利用できる者など、誰もない。そしてジャレットも、単にこれで満足などしなかった。彼はピアノのソロツアーの合間をしっかり取って、他の様々な取り組みを行った。オットーボイレンのバロックオルガンを使った曲を作り、繊細なクラヴィコードハープシコードを自身の様々な楽器を駆使する作曲のネタに取り入れたり、以前使用したピアノ以外の楽器を再研究したり、クラシックの作曲家の音楽を演奏することで、新たな作曲の世界を切り拓き、神聖な音楽を生み出す作曲家ゲオルギイ・グルジエフの作品や、知的な練習曲集であるバッハの「平均律クラヴィーア曲集」に、腰を据えて取り組んだり、画家のポール・クリーが描いた、マッチ棒のように細い線の被写体に音楽をつけようと、自身のスタジオに籠ったりした。そして自己啓発を心ゆくまで果たすと、ゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットの元へむかい、一昔前の流行歌は依然健在であり、ボロボロになった歌集の表紙を開き、中の光る真珠に日の目を見せてやればいい、ということを実践した。 

 

「ソロ・コンサート」のあと、次のソロの収録までには間が空いた。ジャレットは年間70回ほどのコンサートのツアースケジュールを、忙しくこなし、同時に彼が主催するカルテットでの演奏活動や、ソロ演奏家として他の数え切れないほどのプロジェクトに取り組んでいた。その最中に開催されたのが「ケルン・コンサート」である。ヨーロッパツアー中であった1975年1月、ドイツのケルン市にある、ケルン歌劇場を会場としたこのコンサートは、素晴らしいライブ録音によるアルバムに収められ、ピアノのインプロヴァイゼーションにおける彼の名声を、最も確実なものにした。続いては「ブルーモーメント」。ムラーデン・グテーシャ指揮、シュトゥットガルト放送交響楽団を中心とした演奏で、完成度の高い彼の作品が収められている。そして名作「残民」は、いわゆるアメリカンカルテットとの逸品。その後にソロアルバム「ステアケイス」のリリースと続く。 

 

このレコード誕生には思わぬ事件があった収録は1976年5月、キース・ジャレットとマンフレート・アイヒャーが立ち会う中、パリで行われた。作曲及び演奏の依頼を受けたのは、ミシェル・ロジエ監督、アンヌ・ヴィアゼムスキーフランソワ・モーリアックの姪で、ジャン・リュック・ゴダールの元妻)主演の映画「Mon coeur rouge」(題意:心を赤く染めて)の付随音楽である。プロデューサーはアイヒャーが抜擢された。収録が行われたのはパリの「スタジオ・ダヴー」。無数の映画音楽が制作された屈指のスタジオであり、あらゆるジャンルのミュージシャン達から高い評価を受けている。ピエール・ブーレーズマイルス・デイヴィスイヴ・モンタンジーン・ケリージョーン・バエズ、更にはローリング・ストーンズといった錚々たる面々である。例によってジャレットとアイヒャーは、収録当日は相当集中してこれに臨んだ。ところが、このカツカツの映画のための楽曲収録があっという間に終わってしまい、そこで彼らは、その日の残りの時間を使い、自分達の分のレコーディングも済ませてしまおうということになった。なにせピアノが最高級品で、しかも録音エンジニアと調律師も半日仕事を頼める状態だった。 

 

こうして出来上がったのがステアケイス」は、翌年リリースされた。あらためて、この作品は、それまでのレコードとは全く毛色の違うものである。「フェイシング・ユー」や、後の膨大なインプロヴァイゼーションのセッションによる作品との違いは、音楽の素材にあるのではない。フレージング(楽譜の弾き方)やアーティキュレーション(スラーやスタッカート等の付け方)にあるのだ。基本的にこのアルバムは、サウンド(音色・音質)面でのこだわりが印象的な作品である。これに先立ち、ジャレットはケルン歌劇場設置のベーゼンドルファーのピアノに辟易していた。これをきっかけにジャレットは、ピアノの可能性を引き出すべく、自らの本能が求める音色はどうあるべきかを見つめ、その最も微妙な領域にまで立ち入ってみせた、彼の才能をいかんなく発揮する良い機会となった。世界をアッと言わせたこのアルバムは、ジャレットがピアノ奏者として最も理想とする感情表現に、限りなく近づいたとして、今も他の彼の作品を寄せ付けていない。11ある収録曲のいずれにも、感情表現以外の、具体的に音に現れている特徴がある。低めにぶら下がる音は一つもなく、しかも丸い音、クッキリと角のついた音、立体感のある音が、しっかりとした深みと、鮮明さを持っている。音が消えてゆくときの処理は、単に音量が小さくなるだけでなく、まるでトンネルから来たかのようで、音量のメーター数値が下がっていくだけでなく、音のサイズが、凝縮されて小さくなってゆく感じがする。もし「ケルン・コンサート」収録時に、これだけ立体感のある音作りと安定感の有る土台となる音の処理の仕方をしていたら、表現力の圧は、どれほどになっていただろうか、と思ってしまう。そして「部分音」、つまり倍音などを豊かに含んだサウンドが、しっかり響き渡っただろうに!「ステアケイス」は、どの音の音色もとても豊かで、それこそ音響測定器でも持ってきて、倍音を全部感知してみてほしいくらいである。 

 

インプロヴァイゼーション中核をなすこれら崇高とも言うべきサウンドに、聴く人は圧倒されてモチーフやらメロディラインやら楽曲形式を駆使した音楽づくりの方は脇に追いやられてしまうだろう1曲目はタイトル曲ステアケイス」。3部形式の組曲である例えばそのパート2」は、その素晴らし音色の醍醐味が味わえるなにしろ一つ一つの音の粒立ちがハッキリと聴いて味わえるのだ。だがジャレットが色々なフレーズをギチギチに絡ませ始めると、次第にピアノの音が、ロシアのキエフあたりのギリシャ正教会から、一斉に響き渡る鐘の音のようになってくる。たった一台のピアノから、とてつもない量の音楽が溢れかえってくる、こんな演奏は滅多に聴けるものではない。このピアノから発信されるものを全て捕まえるには、耳が2個では足りない、といっておこう。素晴らしい演奏は、2曲目の「砂時計」の「パート1」にも引き続く。ロマンチックなエレジー(哀歌)で、複数の旋律が絡み合う構造の曲を引きこなすピアノのタッチは、一つ一つの旋律が音色ごとにちゃんと聞き分けられるような弾き方となっている。3曲目の「日時計」などは、それこそ映画音楽に使えそう。銀細工師達が作業場にいて、と言った具合に(崇高な性格のこの音楽のイメージとは真逆かも・・・)。これほど信じがたいほどの音の芸術を組み上げてきたこの曲の、最後を締めくくるのは、かなり陳腐な雰囲気の組曲で、その名も「砂」。ジャレットはこの無窮動(曲の終わりが頭に戻る無限ループの楽曲)を演奏するのに、曲名にちなんで文字通り、彼の10本の指の下にある砂が真珠のように丸いアラベスク模様を描くように、次々と音符が消えてゆくように弾いている。 

Keith Jarrett伝記(英語版)6章pp.88-92

ジャレットは天賦の才を持つソリストと書いたが彼が一般的なピアノ奏者味わう苦労をせずに来ているかと言えは、そんなことはない。グレーテ・ヴェーマイヤーというピアノ教育者が、カール・ツェルニーフランツ・リストにピアノを教えた人物)について記した本の中で、「独りピアノに縛り付けられて(この時、有名な「ツェルニー」の教本を持つかどうかは関係なく)」と、激しい言葉遣いながらも的を射た言い方をしているのみれば、あの天才ツェルニーでさえ苦労したのだから、ジャレットが苦労をしてきていても当然である。キース・ジャレットといえども、ソリストと言う孤高の立場にまつわる、心身のストレスからは、逃れられなかった。「逃れる必要がなかった」というのが、実際のところだ。このことは、彼の同業者であったグレン・グールドヴァン・クライバーン、そして少し時代はあとになるがフリードリヒ・グルダといった、ここでは無理矢理クラシックに全員分類してしまうが、彼らと同じである。ジャレットは多くの機会を得て、その長いステージ演奏のキャリアの中では、グランドピアノに座り辛い思いをして独りで居るより、他と一緒に演奏を楽しんだ。それも、ジャック・ディジョネットポール・モチアンチャーリー・ヘイデンゲイリー・バートンゲイリー・ピーコックヤン・ガルバレクデューイ・レッドマン、キム・カシュカシャン、他にも枚挙に暇のないくらい優秀なアーティストたちと一緒にである。それでもなお、強調されて続けているのが、キース・ジャレットソリストのお手本である、ということだ。 

 

ソリストというものは、自分の世界に引きこもってしまうのが常である。キース・ジャレットも然り、有名人になったことで世間の喧騒から距離を置き、ひっそり暮らしている。ジャレットが「ソリスト」になりきっていたいたわけではない、という仮説に対して、その証拠のような話がある。彼は実際のところ、音楽人生においては、「同僚の一人」という居場所をいつも持っていた。チャールズ・ロイド・カルテットでベース奏者として一緒だったロンマ・クルールは、同僚の一人としてのジャレットについて、ある種の同情の念を込めて、そして非難するではなく、次のように述べている。「キースは演奏に際しては、助け船を出してくれるようなタイプではなかった。ある曲を演奏する時、こちらがコード進行を知らされていないと、普通なら教えてくれそうなものだが、彼はそうしてくれない。彼はチームプレーをするでもなく、他のメンバーが困っていても助け舟も出さず、要するにチームプレーができないのだ。子供時代にそういう経験を積んでこなかったのだろう。例えば野球をするとかね。だがキースの才能は誰もが認めるし、ずば抜けている。彼より劣っている人間からすると、彼は取っ付き難い人間だ。私に対しても不満を持っていたことがあったんじゃないかな。エアコンの温度設定なんかだと、私は低めがいいのでね。私の設定温度は22℃だけれど、彼は、なんと82℃!、高温熱風だね。(原文は「私」が華氏72F、「キース」が華氏180F)」 

 

キース・ジャレット自分自身の音楽というよりもむしろ自分自身のサウンドの世界にハマっていたことを伺わせる、良い事例がある。視点を、彼の膨大な演奏実績に置いてみよう。歌手をゲストに迎えた散発的な収録や、アート・ブレイキー、チャールズ・ロイド、マイルス・デイビスの各バンドに居た時代を除いての話である。彼は、他人が作った曲を演奏しなければならない仕事については、滅多にやる気を見せなかった。そういうレコードは、全部かき集めても、5・6枚しかない。カナダ出身でイギリスに本拠地を置くトランペット奏者ケニー・ホイーラーが、ECMからレコードをリリースする計画が持ち上がったときのことである。彼のために、マンフレート・アイヒャーが参加を要請したのが、元マイルス・デイビスのプロジェクトにいたミュージシャン達で、ベース奏者としてデイヴ・ホランド、ドラム奏者としてジャック・ディジョネット、そしてキース・ジャレットにも声がかかった。1975年6月、ジャレットはこの要請を受諾、結果できあがった作品は、高い製作技術を発揮したものであり、ドイツレコード大賞を受賞した「ヌー・ハイ」である。いつもそうだが、ジャレットがホイーラーの書いた楽譜を受け取ったのは、収録開始直前であった。あろうことか、彼はそのうちの1曲について、スタジオまで入ったところで、ホイーラーに手渡して戻すと、特に悪びれることもなくこう言った「この曲は、僕なんかの手には負えないです。」要は、彼の好みではなく、愛着を感じられない、ということである。 

 

ホイーラーは目まぐるしい転調を好んだが、ジャレットにとっては自分の音楽観にないハーモニーの在り方だった。「この手の転調は、僕の手に余る厄介なものだった。当時の僕はそういう状況だったということだ。今回アルバムは、各曲の譜面を見た段階では、僕の琴線に触れるものがなかった。曲によっては構造が、あまりにも人為的であり、一から十まで楽譜に書き込まれていて、僕なんかは、もう少し角が取れたほうがいいのでは、と思いたくなる代物だった。そしてその発想が、一つ一つの音符に現れている。僕が他人とのセッションをあまりやらないのは、こういう事態に巻き込まれたくない、というのも理由の一つだ。」事情がわからないマンフレート・アイヒャーは、タイミングを見て音響調整室にジャレットを呼び、存念を尋ねた。ジャレットは一言「何ていうか・・・僕の手に負えないって、言ったとおりだよ。」 

 

同じようなことが起きたのが、ゲイリー・ピーコックの場合である。彼は音楽活動を休止して第一線から離れていた時期がしばらくあった。その復帰後、マンフレート・アイヒャーの要請により、彼の名前の元、レコード制作が始まる。だがこの時はキース・ジャレットジャック・ディジョネットも最初から一緒であった。こちらは1977年、結果できあがった作品は、小さな火種となり、6年後、再燃した炎から生まれ出たグループは、ジャズ100年の歴史上、最も優れた成果を残し人々の心を揺さぶるトリオとなっていった。この時も、ジャレットがゲイリー・ピーコックの書いた譜面を受け取ったのは、収録開始前日であった。ジャレットはその際、収録1曲目の「ヴィニエット(題意:触れ合いの一コマ)」に対して好意的な反応を示した。「テイルズ・オブ・アナザー」の他の収録曲については、彼は何もコメントを残していない。何年も後になって、彼がこの時ピーコックの作品をディジョネットらと楽しんで演奏できたかどうか、と尋ねられた時、こう答えた「僕の手に負えるものだったかどうかは、わからない。でも負えなかったとしたら、それは当時僕が関わっていた別の取り組みを引きずっていたからで、収録曲に合わせて修正に努めたということだ。」 

 

ジャレットは常日頃からドラム奏者のポール・モチアン作曲の才能を絶賛していたそれでもなおポール・モチアン作曲を担当したコンセプション・ヴェスル」の収録に際しては不快な思いをしたとされている。ここでは、ジャレットは全作品のうち2曲のみに参加、うち一つはフルートを担当した。フレディ・ハバードが楽曲提供した「スカイ・ダイヴ」をよく聴いてみると、トランペット、トロンボーン、サックスが各数本ずつから編成されるきちんとしたビッグバンドの代わりに、寄せ集め風のオーケストラが各曲の伴奏に当たっているが、中には数曲、キース・ジャレットのピアノやキーボードによるものもある。寄せ集めのオケがコッテコテの表現であるのに対し、ジャレットの方は高揚感を完全に封印している。フレディ・ハバード、ヒューバート・ロウズ、ベース奏者としてロン・カーター、ドラム奏者としてビリー・コブハム、ギター奏者としてジョージ・ベンソン、そしてキース・ジャレットを含む多彩さが光るリズム・セクションという、錚々たるメンバーであったにも関わらず、ドン・セベスキーが流行りのファンクジャズに便乗した挙げ句手を入れすぎた失敗作となった。幸いかな、今日ではすっかり忘れられて、ホテルのエレベーター内やショッピングセンターなどで、BGMとして生きながらえるのみである。 

 

キース・ジャレット音楽活動においては、ソロのレコーディングがその中心である。なので、ソロの作品において、彼の個性だとか、音楽面の嗜好、美的価値基準といったものが、他の作品群より不透明であるなどということが仮にあるとしたら、驚きの発見といえよう。ジョージ・バーナード・ショー曰く、芸術は普通の鏡よりも物事をよく映し出し、人の魂さえも確認できる、という。この言葉は、アーティスト本人のことのみならず、芸術作品の裏にあるアーティスト自身が顕になる、作品の受け止め方についても同じことが言える。どんなことに取り組む時もそうだが、キース・ジャレットは、彼の考え出した新しい一人インプロヴァイゼーションについて、注意深く掘り下げていった。だが同様に彼の活動に典型的なのが、演奏活動の領域拡大を、しっかりと継続的に行うことであった。ソリストとしての彼の最初のコンサートは、母国アメリカではなかった。ドイツ・ハイデルベルクでのジャズフェスティバルである。伝説の「ジャズピアノ」、1972年6月4日のことであった。こういったフェスでは通常行われていることだが(会場は満席ではなかった)、一晩の本番は、出演者が順番に登場するいくつかのパートに分かれており、キース・ジャレット一人が最初から最後まで出演するわけではなかった。その晩は4部構成で、ピアノ奏者のミハエル・ナウラ率いるカルテット(旧友でヴィブラフォン奏者ののヴォルフガング・シュルーターを含む)、クラッシックからジャズに手を出したピアニストのフリードリヒ・グルダとアーティストのポール・フックス/リンプ・フックスの共演、オランダ人フルート奏者のクリス・ヒンゼのバンド、そしてピアノソロのキース・ジャレットの4組が出演した。 

 

ドイツの音楽雑誌「ジャズ・ポディウム」7月号に、ウルリッヒ・オルスハウゼンが寄稿した賛辞として、まずはフリードリッヒ・グルダのジャズへの挑戦、それよりも絶賛だったのが、ミハエル・ナウラで、「ドイツ屈指のジャズ・インプロヴァイズを聞かせる一人」とした。更にそれよりも大絶賛だったのが、キース・ジャレットだった。無伴奏のピアノを聞かせた彼の演奏について、「オスティナート形式やモダンジャズ、それからゴスペル音楽といった要素を、印象主義表現主義の手法を用いて合わせ、そこに卓越した技術、多様性、そしてハイセンスな芸術的論理性を兼ね備えた逸品」とした。ジャレットの演奏は、ほぼフリー・インプロヴァイゼーションと言って良い。まず最初に自ら作った素材を一つ弾く。だがすぐにそこから、力強く躍動しはじめ、全ての素材を集めては整理し、一つの束にしてゆく。これは後に彼の演奏スタイルとして定着した。翌年になると、ブレーメンローザンヌでのコンサートツアー中、前年の演奏スタイルを一歩踏み込んだ形にした。その場で初めて音にする素材を提示し、即座にインプロヴァイゼーションを始める。事前に準備もしなければ、あらかじめ用意している演奏方法もない。それまで彼が編み出した手法を一つに合わせたソロコンサートだったが、後々これが、彼の通常のスタイルとなってゆく。 

 

ハイデルベルクでのこのコンサートは、ジャレットが自らの音楽の新たな方向性を見出そうと、入念に取り組んだ初の試みと言って良い。彼のECMからのデビュー・アルバム「フェイシング・ユー」は、まだ伝統的なインプロヴァイゼーションの手法にどっぷり浸かったもので、アート・テイタムチック・コリアポール・ブレイ、その他当時のピアノ奏者達が既に手掛けたやり方である。1972年の発売時には、「フェイシング・ユー」は、アメリカの音楽雑誌「ローリング・ストーン」(本書では何度も登場済)誌面で、ロバート・パーマーがレビューで絶賛し、「我々がアート・テイタムのソロアルバムを授かって以降、最高の作品」と称された。当該記事掲載時には、アート・テイタム没後16年が経っていた。その他の書評を紹介しよう。イェール大学のフランク・ティローは、ジャレットのインプロヴァイゼーションの質の高さのみならず、主題を変奏し展開してゆくテクニックの駆使の仕方を、バロック音楽の手法をほぼ完璧にものにしている、と絶賛した。「バロック音楽の手法」といっても、別にいつも大昔の音楽を弾くためだとして教科書に載せておかねばならないものではない。昔からある音楽の手法の中には、和声法のように、今でも役に立ち、しっかりと機能するものもある。こういったものは、筋金入りのアヴァンギャルドのアーティストやその信奉者達のいうように、過去の遺物として掃き溜めらることなどないのだ。 

 

【91ページ写真注】 

1972年6月4日、ハイデルベルク市公会堂で開催されたジャズフェスティバルでの、キース・ジャレットの演奏。このコンサートを皮切りに、全世界に向けてのソロコンサートが始まっている(写真提供:ハンス・カンプ) 

 

1975年、音楽雑誌ダウンビート」が興味深い比較を行ったのが、「フェイシング・ユー」と、ECM別のレコードで、ポール・ブレイの「オープン、トゥ・ラブである両作品ともこの比較記事が出る以前に、個別に紹介されていたのだが、ECMアメリカのポリドール・レコード社を通してその販路を広げ、注目を集めるようになったことをキッカケに、この比較記事が発表されるに至ったのだ。執筆したジョン・バレラスは、両方に最高の評価を与えたものの、両者の違いを鮮明にした。録音状態はどちらも細部に至るまで全く同じ出来ではあるが、内容に込められた思いと、演奏面でのことである。片や、謎めいたアーティスト、両手に「あれを弾け、これを弾け」と脳から指示を出すのを既にやめて久しく、自身をもっと高い次元の演奏媒体と思い込み、ひたすら音楽は垂れ流れるがまま(訳注:キース・ジャレットのこと)。片や「思いつくままま」という点では劣るポール・ブレイ、全て音になるものは、意識してあらかじめ細かく作り込んだもの。音源が全ての相違点を物語っている。バレス曰く、ジャレットのほうがよりアクティブで、リズムも生き生きとして、技術も柔軟性があり、その右手からは歌心あるメロディと対位法をベースにした和声の素晴らしい感性が届く。彼をジャズのビアの奏者と呼ぶのは難しい。「ジャレットはノリノリではなく、流暢だ」。対象的にブレイの音楽は無調音楽として聞こえてくる。そこには、無調音楽の特徴が全て詰まっており、調性のあるメロディや美しく響くドミソの和音で音楽を彩ることには後ろ向きだ。だがそんなことを超越して、無礼は音楽には穏やかさが重要であることをしっかり理解しており、演奏中も、今どのあたりかということを、きちんと意識して演奏を進めている。この批評を、キース・ジャレットは耳にしたのだろうか?耳にした、との証がある。後に彼が記した、ケルン・コンサートを含む1985年前後までの演奏の回顧記録である。彼曰く、十分な間を取らず、音数を弾きすぎた、自身の演奏の大半は、余計な「音数」を減らせば、もっとマシなものになっていただろう、とのこと。 

 

ジョン・バレラスこの自省を促すような論評はジャレットの後の音楽はこうなるよ、ということを示すようなものだった。実に目をみはる飛躍が訪れたのが、「フェイシング・ユー」の後、1973年にリリースした「ブレーメンローザンヌ」である。滅多にモノを語らないジャレットだが、その数少ない発言の中で、こういうのがある。公開演奏を行う際には、様々な要因が重要とされる。その場の空気感、使用する楽器、居合わせる聴衆、会場となる部屋やコンサートホール、コンサートが開催される都市と国、である。彼曰く、これら全部を、舞台に立つ者は意識して自らの中に受信して調整し、せっかく聞こうとして集まってくれている聴衆一人ひとりに報いなければならない。もちろん、演奏の成否が舞台に立つ者ただ一人の責任であるとしても、である。彼のこの発言を 

是非しっかり頭において忘れず、彼が聴衆のいくつかの立ち居振る舞いに対してどう反応するかを、とやかく言うようにして欲しい。彼は素っ気なく言いっ放しな物言いであるため、どうせお客なんか居なくても気にしないんじゃないのか?などと思われがちだが、実際は、彼にとってはホール内の聴衆が発信する様々な空気感が必要不可欠なのであり、例えて言うなら、彼の周りに空気がなければ窒息死するのと同じくらい、必要なものなのだ。

「ウイーン・コンサート」ライナーノーツ 考察

I have courted the fire for a very long time, and many sparks have flown in the past, but the music on this recording speaks, finally, the language of the flame itself."

 

キース・ジャレットのファンの方にはお馴染みの、「ウイーン・コンサート」のライナーノーツです。彼の伝記を執筆した、ドイツ人のヴォルフガンク・サンドナーは、この一文を「謎めいている」としています。同書の翻訳に挑戦中の私ですが、次のような解釈を試みてみます。

 

動詞courtには、次のような意味があります。

①~を得ようと努力する

②(厄災などを)自ら招いてしまうようなことをしでかす

 

名詞fireですが、キース・ジャレットのここまでの経緯から、次のような含意が考えられます。

①熱意、活力

②非難や抗議の集中砲火

③苦難、厳しい試練

 

同じく名詞sparkですが、以下の候補が挙げられます。

①ひらめき、輝き

②呼び水、火種(比喩的に)

 

そして英語でlanguageといえば、ミュージシャンはこの言葉を「演奏の仕方、楽譜の書き方、音楽表現の仕方」として頻繁に使用します。

 

最後にflameですが、

①炎

②情熱、燃えるような思い

③ののしり

 

以上を踏まえて、次のような試訳を作ってみました。

 

I have courted the fire for a very long time, and many sparks have flown in the past, but the music on this recording speaks, finally, the language of the flame itself."

「僕は長い間心の中に、我が身を焦がす熱い火炎を抱えている。 その炎からは、これまで多くの火花が、散っては輝いていた。でも今回の収録では、本来物言わぬはずの僕の音楽が、僕の心の中の熱い炎のことを、朗々と奏でてしまっている。」

 

この文には、自ら招いた非難、体調などの厄災、そしてそれでも自らの芸術の完璧ならん事を追求する熱い思い、それに苦しみ、時に自分や他人との葛藤から火花を散らしつつも、同時にそれを励みに頑張る、そういったものを「Fire」「Flame」とし、普段は、音楽と言葉を切り離す彼なのに、自分の演奏にそれがでてしまっている、と考えます。

 

 

Keith Jarrett伝記(英語版)6章pp.85-88

6.無限の可能性を秘めたソリスト 

 

ピアノにまつわる金言格言をいくつか見てみよう。エドゥアルト・ハンスリックという、ブラームスの友人にしてワーグナーの仇敵の言葉:ピアノ奏者の腕の見せ所は、「タッチ」(鍵盤の触れ方)の奥義にある。詩人ハインリッヒ・ハイネの言葉:耳だけでなく魂でも音を聞ける者だけが称賛に値する。ピアノを弾く時は指の動きだけが必要で、手のひらだの腕だのは余計な動作だ、そう信じてやまないのが、「現在のピアノの神様による禍」(目の上のたんこぶ)こと、フランツ・リストだ。ウォルター・ピストンという、厳格で学術的とされる作曲家が、かつて、自分のピアノ作品を妙ちきりんな解釈で演奏されたら我慢できるか?と訊かれた時、プレーヤーが何を考えようが知ったこっちゃない、と答えたとのこと。アルトゥール・ルービンシュタインが友人であるレオ・トルストイに語った言葉:演奏中自分自身がノッてこないと、お客に演奏は届かない。フェルッチョ・ブゾーニの言葉:ピアノの右ペダル(ダンパーペダル:ピアノの奥義)は月の輝きのごとし。気体や水を目盛りで計って注ぐような使い方をしないこと。 

 

いずれも、謎めいていていたり、ピアノの技術が何たるかがわかりやすかったり、たとえ話で言い換えてみたりと、逆説的な物言いが多いが、ピアノ演奏が何たるかを知る上では、学ぶこと大である。だが、ふつふつと疑問が湧いてくることがある。キース・ジャレットについては、いささか異なることが当てはまるのではないか、ということである。彼にそのことを尋ねることはするまい。インプロヴァイゼーションに関して言えば、彼はシトー会の筋金入りの遵守者(黙想と禁欲を重んじる集団)のようなものであり、そして彼のソロ作品をざっと見わたしても、「沈黙に勝る雄弁なし」のオンパレードであることが、よく分かる。 

 

最初のソロアルバム「フェイシング・ユー」は1971年にリリースされた。8つのピアノ作品が収録されているが、ライナーノーツもコメントも、皆目見当たらない。その2年後、「ソロ・コンサート:ブレーメンローザンヌ」が発売。長時間にわたるインプロヴァイゼーションによる演奏に関することと言えば、録音年月日と場所のみ。音楽自体には曲名がついていない。1975年の「ケルン・コンサート」もそうだ。インプロヴァイゼーションによるピアノ演奏が収められているのが、LP4面:「パートI」そして「パートII、a、b、c」となっている。いずれもコメント文は載っていない。ケルン・コンサート次の年に制作された、2枚組LPのステアケイス」を構成する4つのセクションにも、説明文が載っていない。同じく1976年、ジャレットが収録したのは、2つの賛美歌と、そしてピタゴラスがかつて「天地が音楽という調和の賜物を作った」と称するところの、9つの楽章から構成される「天球の音楽」。ドイツ・オットーボイレンのベネディクト修道院にあるオルガンによる演奏で、アルバムのタイトルは「賛歌」(題意:賛美歌/天球の音楽)。カバーにはただ一文のみ印字されていた「特定のストップ(パイプ)を中途半端にスライドし、残りは全て、開管のままか、もしくは閉管のままにすることで、このオルガン特有の数多くの演奏効果を、今回初めて、引き出すことが出来た。」また更に同じ年にリリースされた「サン・ベア・コンサート」は、日本の各都市(訳注:5都市)で開催された5回のソロ・コンサートを収録したものだ。ガートルート・スタインの献辞「耳は目だと思え」(文意:目は物事の表面に関する情報しか入ってこないから、物事の内容に関する情報がはいってくる耳を、目のように使いこなせ)、これだけが載っている。1979年と1980年には、2枚組アルバム「インヴォケイションズ/蛾と炎)が制作された。「インヴォケイションズ」は、ジャレットが以前オットーボイレンで弾いたバロックオルガン(等)で7つの「祈り」を奏で、「蛾と炎」はドイツ・ルートヴィヒスブルクのスタジオでの、コンサートグランドピアノによる演奏である。これには、ロバート・ブライの詩「When Things Are Heard」(題意:情報が耳から入ってくる場合)が添えてあるだけ。1980年3月に収録した「祈り:グルジェフの世界」には、解説文は何も載っていない。1981の「ヨーロピアン・コンサート」(ブレゲンツ/ミュンヘン)では、添付のブックレットに、ミカエル・クルーガーの詩「キース・ジャレットの庭によせて」、そしてキース・ジャレットの創造性に思いを馳せたペーター・リューディのエッセイ「魔術師と曲芸師」が掲載されている。この4年後には、ピアノ、フルート、サックス、打楽器のための26の小品を収録した「スピリッツ」(キース・ジャレット自身のスタジオで収録)。カバーに載っているのは、ライナー・マリア・リルケソネットと、ジャレット自身が人間の魂について綴ったエッセイである。ジャレットは27年間門外不出にして温めていた楽曲を、CD「ノー・エンド」に収録した(1986年キース・ジャレット自身のスタジオで収録。様々な楽器を用いた20作品の曲集)。この作品には独特な高揚感が溢れていて、最終的に世に出たのは、2013年に2枚組CDとしてだった。カバーには、デヴィッド・フォスター・ウォレスの言葉からの引用と、ジャレット自身の考察、そして彼と対峙する人々も含め「全ての人々へ」とする献辞が寄せられている。「ブック・オブ・ウェイズ」(1986年)では、クラヴィコードによる繊細な演奏を披露。ここでも説明文は載っていない。1年後、東京・サントリーホールでのコンサートのライブ録音「ダーク・インターバル」、そのカバーには、こんな短い言葉だけが寄せられている「手を触れることができるのは、物事の端の方だけ。光をありがたいと感じるのは、物事の合間にやってくる暗黒の時だけ。」 

 

ジャレットがソロのピアノ奏者として、更に踏み込んだ活動に乗り出したのが、「パリ・コンサート」のリリースである。ここでもライナーノーツはない。3年後にリリースされた「ウイーン・コンサート」には、ロバート・ブライの詩と、キースの綴った自らの音楽と「炎」と称するものについて、謎めいた言葉がある。さらにその4年後の「ラ・スカラ」では、収録会場であるミラノ・スカラ座の舞台裏での、イタリアというお国柄が感じられる風景がコンパクトに描かれている。「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」では、それまで緻密さを極めていた音楽づくりに、シンプルな、ピアノならではの良さを発揮した演奏を挟み込み、重病からの回復のメッセージとした。本格的な活動を再開したジャレットは、2002年に、日本での2つのソロ公演を収録した「レディアンス:ソロ 大阪―東京」を発表。添付のCDブックレットには、「今回の演奏について」と称する寄稿を行っている。2006年の「カーネギーホール・コンサート」は説明文なし、そしてCD3枚組の「テスタメント」では、ジャレットのソロ活動を振り返っている。「リオ」は2枚組のCDで、15のピアノでのインプロヴァイゼーションを、ブラジルでのライブ録音で収録されており、こちらも説明文なしで出版されている。これに続くのが「クリエイション」。2014年4月から7月までに日本、カナダ、ヨーロッパで行われた4つの公演からのセレクションである。そして、本書執筆時点では最後になるのが「ミュンヘン2016」。キース・ジャレットの「年代記」といった風情である。このアルバムのカバーにも、説明文もなければ、詩篇による雰囲気作りも、金言格言も、何もない。 

 

これほど質/量ともに、ひときわ優れたキース・ジャレットの25にも及ぶソロ作品を、味も素っ気もない統計表みたいに書き記すなど、不心得だと思われるかも知れない。何しろこれから語るのは、40年間に渡り彼が残した、36時間にも及ぶインプロヴァイゼーションによる演奏についてである。この演奏では、基礎となるモデルもなければ、予め形式を決めてかかるようなことはしない、ということが頻繁にあり、その場の思いつきで、それもキース自身の内面をテンション高く掘り下げてゆく、という具合であった。聞こえてくるのは、ジャレットが全てを出し尽くし、時に意識的に、時に夢遊病者のように、時に衝動的に、時に神経外科医のような冷めきった態度で、自らが発信媒体となる音楽に相応しいものは何かを、探し求めている様子である。彼が残してきている芸術活動の成果は、膨大なものだが、この25のソロ作品だけをみても、「生涯作品」と称するに十分値する。「フリー演奏」とは、あらかじめコンセプトを持たずに演奏するという、逆説的な音楽上の概念である。何しろ、意図的なものや演奏上のスタイル、あるいは入れ知恵的なものは、全て効率よく排除しまくってしまおうというのだ。インプロヴァイゼーションを完璧に行うなどという、正気の沙汰とは思えない考え方は、当時としてはあまりに急進的な発想であり、それまでのジャズの歴史が経験した革命的なアイデアの一つとして、後世に残されて然るべきである。そういう演奏を実際に行うミュージシャンは、彼しかいないと言っても、ほぼ間違いないだろうということを思えば、「後世に残される」というのも頷けるというものだ。キース・ジャレットのこの有り様と比較できると思われるのが、カナダの異端児であるグレン・グールドだ。彼は、彼しか住んでいないという宇宙銀河系からやってきた男、と言われている。 

 

統計的に見ても才覚あふれる産物であるジャレットの記念碑的とも言うべきソロ演奏の録音は、「演奏に理屈は無用」という彼の頑固な姿勢が現れている。油と水が相容れないように、言葉による演奏解釈は、演奏から全て排除されるべきだ、というものだ。自分自身とその生み出すものに、カルト的な佇まいを増長させてしまう道に陥ってしまうアーティストにありがちな傾向としては、理屈を持ち出して口論し、自らを取り巻く音楽に関する議論は概ね否定し、謎めいた自分を演出し、お客も自分と同じく繊細であるはずだと思いこんで「心の架け橋」を築こうとしない。エミリー・ディキンソンは、傑作と称される詩の中の一つで、こう言っている「私達は、自分が解けるなぞなぞを、よくコケにする」。逆もまた然り、とは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、キース・ジャレットのソロ・コンサート、等々、枚挙に暇がない事例が示すとおりである。 

 

偉大なピアノ奏者、と、偉大なジャズピアノ奏者、両者には根本的な違いがある。アルトゥール・ルービンシュタイン、ヴィルヘルム・バックハウスルドルフ・ゼルキンスヴャトスラフ・リヒテル、アルフレート・ブレンデル、アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリといった偉大なピアノ奏者について語る時、彼らは暗黙の了解のものと、「ソリスト」と考えられる。作家のトーマス・ベルンハルトでさえ、小説「破滅者」の中で、グレン・グールドのことを書いている。彼の想像上のメンターであるヴラディーミル・ホロヴィッツや、その次善のピアノ奏者達は、グールドという登場人物を、ソリストと称している。一方で、偉大なジャズピアノ奏者と言えば、音楽家としての人生を、トリオ、カルテット、あるいはビッグバンドといった、自分の名前は出てきそうもない場所で過ごす。ソリストと思われたくないだの、伴奏無しでレコードを出すのは嫌だ、だのと言ったとしても、同業者から「あいつはスゴイ」と一目置かれることだってあるのだ。ここで例外とみなされるのがキース・ジャレットである。彼は偉大なピアノ奏者であり、同時に偉大なジャズピアノ奏者でもある。ジャズの方では、彼はバンドの一員としても、また独りでも偉大である。これを誰よりもしっかり評価できたのが、ストックホルムのポーラー音楽賞の審査員団である。「音楽のノーベル賞」と言われるこの賞は、賞金100万スウェーデンクローネ(約1,100万円)、大概は折半され、クラシックのミュージシャンと、もう一方は「ポピュラー音楽」のミュージシャンに贈呈される。2003年、本賞は史上初めて、折半されず、一人のアーティストに授与された。審査員団曰く、「音楽界の壁を難なく超えてる力の持ち主」、キース・ジャレットのことだ

Keith Jarrett伝記(英語版)5章pp.77-84

チャーリー・ヘイデンといえば、ジミー・ブラントンレイ・ブラウンといった奏者たちと同じ、「ウォーキングベース」のスタイルを持つ印象的な存在として知られているが、同時に、自らリフを創り出し、それをしっかりと演奏し続けることができる。これにはテコでも動かないカウチポテト族も、思わず足でリズムを取り始めてしまうほどである。デューイ・レッドマンのマウスピースやリードを使いこなした「奇声」はお馴染みのところだが、同時に彼の朗々と抒情的に歌い上げるサウンドは、どんなキーで演奏しても音が曇らないのでは、と思わせる。ドラム奏者のポール・モチアンは、音の彫刻家といったところだろう。だが彼もその気になれば、アート・ブレイキーのような熱狂ぶりで、ドラムのリム(縁)だのハイハットだのシンバルだのを、チンガラガッシャーンとやらかすことだってできる。そしてキース・ジャレットは、兎にも角にも、何でもござれである。こうした多様性がどこよりもクッキリと耳にできるのは、銘品残氓」そして、これとは一貫性はないがこちらも大作の「心の瞳」、これらに勝るものはない。「ワールド・ミュージック」という言葉は、気の利いた言い回し故に使い古されてしまった感もあるが、まだその意味が残っているとしたら、「残氓」は、凝り固まった主義主張や音楽ジャンルの定義付けも無い分、そう呼んで差し支えないだろう。素直な心の持ち主が聴いたのでは、序奏の深みのあるフルートの音がどこから鳴り響いてくるのか、推定できないだろうし、既存の音楽の仕組みに当てはまるような、リズムの使い方に制約のないサウンドのパターンを、見出すことも出来ないだろう。そしてベースが四分音符を弓で叩いて鳴らすようなモチーフを、いつまでも弾き続けると、それはそれでジャズのリフになってしまうものだ(5拍子なのに、である)。その瞬間私達は、チャーリー・ヘイデンが、音楽的な意図を綺麗サッパリ洗い流して無の境地に至り、何処にも行きそうもないし、逆に何処へでも行ってしまいそうなピチカートの雨あられの陰に、彼の存在が隠れてしまうことに気づく。ソプラノサックスとテナーサックスは、東洋風に響くサウンドで細かく描かれたアラベスク模様を、音にして描き、そのベースにある、ポール・モチアンの刻み続ける一定のリズムによってテンションが上り、自らトランス状態に陥ろうとしてるように見える。と思いきや、突如現実に引き戻すのが、転調だ。これにより新たな調性に浸りはじめ、同じメロディの素材を使いながら、「五度圏」を巡る旅が始まる。最初の基音からその5度上、そのまた5度上、そのまた・・・と繰り返しつつ元に戻るその様子は、「人類共通の庶民の音楽」という新たな枠組みの中で、バッハが「平均律クラヴィーア曲集」で示したことが正しかったことを、証明して見せているようである。 

 

大体1時間かかる2部構成の「残氓」で、メンバー達は音楽のことが全て載っている事典のページを、一枚づつ開いてゆく。大昔のストライドピアノ奏法から始まって、スイング、ビ・バップ、フリージャズから、新興宗教か何かの激しいダンスのような音楽まで、次々と音としてページから飛び出してゆく。対位法とは?情熱的な演奏とは?四声旋法とは?あるいはドイツ人が「民謡風に」というところの、素朴な叙情性ある演奏とは?こういった問いかけに対する答えを、メンバー達は探しているようである。聞こえてくるのは、ジャレットが古代からの「天体の共鳴」について探り、これを説明するべくチェレスタを弾き始める。天国のような音楽が、クッキリとしたコントラストを聞かせるのが、ゴツゴツとしてサウンド。ヘイデンのベースだ。そして今度はジャレットが登場。「天体の共鳴」などという精神世界の高みに登る力が、ピアノに隠されているのかを、試すのである。ヘイデンがこれに続き、よく響くベースの音でジャレットの芳醇なピアノの響きを、更に豊かにする。「残氓」のエンドに登場するこのデュオほど、官能的で神々しいデュオは、なかなか思い浮かばない。録音は、透明性が高くバランスも良く取れていて、聞く人にとっては、自分とメンバー達との間には録音機材など一切なく、ステージ上に一緒にいて聴いているような気分になるくらい、演奏の全てが、何一つ漏れなく、レコードに収まっている。 

 

ここから「心の瞳」への道のりは、さほど長いものではない。「心の瞳」には息の長いパッセージが幾つか出てきており、それらは繰り返しのパターンが再度用いられ、そして音楽全体の持つ、瞑想にふけるような恍惚状態の雰囲気以外では、実際にはほとんど何も起きていないように思える。聴く人の耳が釘付けになるのは、数多くの素晴らしいモチーフが、曲全体の色合いが次々と変化する中で、浮かんでは消えてゆく様子であり、あるいはジャレットの、音楽的な土台をガッチリ固め、彼の両手にコントロールされるも、次々と自由に飛び出してくる演奏内容である。ここでもメンバー達が、あれやこれやと様々なサウンドをたっぷり聞かせてくれるのが魅力的だ。「心の瞳」が収録されたのは1976年5月。オーストリアブレゲンツのコルンマルクト劇場でのライブで、「アメリカンカルテット」による欧州ツアー中に、ECMが計画・実施を担った。この作品を最後に、結成から5年の歳月を経て、カルテットは間もなく幕を閉じる(だがメンバー同士の人間関係には一切のキズは残らなかった)。4人の内、ジャレット、ヘイデン、そしてモチアンの3人に至っては、このカルテットの前身と見るならば、10年にも及ぶ演奏コラボがある。 

 

だが、個々の創造性がもれなく詰まっているにも関わらず、このグループはこれで幕を閉じることとなった為か、この収録には美的情緒がしっかりと刻まれた。この録音は、「残氓」の基礎的な素材を幅広く土台としている。もしそうしなかったなら、幾つかのパッセージは長すぎて収集がつかなくなり、キース・ジャレットもそれとなくコメントしているように、デューイ・レッドマンなどは参加を拒否したことだろう(この録音では出番はあまりない)。第1部には奇妙な部分がある。演奏が突然止まり、30秒ほどの間、文字通りポッカリ穴が開く。それまでソプラノサックスを吹いていたジャッレトが、ピアノでコードを弾き出す。続いてヘイデンが、ためらいがちにベースを爪弾く。更にはモチアンが、何となく自信なさげに打楽器の音をポツリポツリと聞かせる。LP2枚組であるにもかかわらず、内1枚は片面しか録音されていないという、奇抜さもある。だがこうしたヤキモキさせるようなことが、この最後の作品にはいくつかあるにも関わらず、「アメリカンカルテット」は、1970年代の、最も多様性があり、最も革新性があり、最も創造性がある、そんなジャズアンサンブル集団であったことは、誰もが間違いなく認めるところである。「そんなことはない」というのであれば、特に大作「残氓」のことを考慮すれば、理由は唯一つ。「ヨーロピアンカルテット」の存在である。 

 

アメリカンカルテットと比べた時、「ヨーロピアンカルテット」は、かなり異なる経緯を持つ。そして、かなり多くの注目を集めた。それは、ジャレットとECMが接点を持った初期の段階における、アメリカでの注目度と比べた場合の話である。注目を集めたのは、アメリカ人とヨーロッパ人が共演したからでは、当然ない。大西洋を挟む両側のミュージシャン達が一緒にレコーディングを行うなど、時々行われていて、特に、ケニー・クラークバド・パウエルドン・バイアス、オスカー・ペティフォード、ドン・チェリージョージ・ラッセル、そしてリー・コニッツといった名手達が、一度、二度と、ヨーロッパに拠点をおいて活動をするようになってからは、尚更のことだった。だが1970年代は依然として、アメリカ人ミュージシャンにとっては、本国に拠点を保つ場合、ヨーロッパ人が主軸のバンドと活動を多く行い、お金をとって演奏会を開き、楽曲を提供し、レコーディングを行うといったことを、ある程度長い期間行うというのは、やはり例外的なことだった。 

 

 

ヤン・ガルバレクキース・ジャレットは、共にECMに所属していた。ジャレットは、彼のことを、親しくなるずっと以前から知っていた。1966年にチャールズ・ロイド・カルテットが初めてヨーロッパツアーを行った際、ジャレットは、ストックホルム在住の、とあるジャズ仲間から、ジョージ・ラッセル(当時スウェーデン在住)が弟子達の一部との演奏を収録するから聴きに来てくれないか、と頼まれていた。そのメンバーの1人がヤン・ガルバレクだった。彼の特徴的なサウンドに、すぐさまジャレットは興味を持った。後にジャレットは、この時ガルバレクに心惹かれたことを、自身の公式伝記執筆者であったイアン・カーにこう語っている「これは、あるスウェーデンのバンドの演奏を聞いたときのことだ。そのバンドのテナーサックス奏者のサウンドが耳に入ってきて、僕はこう思った『おいおい、チョット待ってくれよ、これは要チェックだろう』僕は彼のサウンドを耳の奥に刻み込んだ。そしてこう思ったんだ。いつかこのサウンドが、僕にとって力になる、とね。その時の彼は、まだ幼くて、僕も人のことは言えないけど、彼は本当に幼い子どもだったからね」。実際はその時、ガルバレクは19歳、ジャレットは21歳、「幼い」という年齢ではなかった。 

 

一方ガルバレクは、ストックホルムでのチャールズ・ロイド・カルテットのライブを聞いていて、特にリズムセクションと、そしてジャレットの演奏に印象を受けていた。このカルテットの演奏した「枯葉」を聞いたガルバレクは、そこに、古い時代のジャズ、現代のサウンド、古典、印象派、無調音楽、そして実験音楽といった、音楽の歴史絵巻を見出したという。チャールズ・ロイド・カルテットが後年行った、あるヨーロッパツアーの際、ジャレットはオスロで開かれたヨン・クリステンセンヤン・ガルバレクとのジャムセッションを聴く機会を得ることが出来た。ジャレットは、これほど印象的なフリージャズを耳にするのは初めてだった。二人が60年代後期に再会したのがボストン。そこではキース・ジャレットマイルス・デイヴィスのバンドにいた。そしてヤン・ガルバレクは、彼らの演奏が行われたクラブの、最前列に、1週間毎晩通い席を陣取った。バンドは当時良い状態だったはずだが、ガルバレクのほうは、今ひとつ掴めるものはなかった。ちなみに、湯治のラインアップは(チック・コリア脱退後のことである)、ゲイリー・バーツ、マイケル・ヘンダーソンジャック・ディジョネット、そしてキース・ジャレット。後にキース自身、デイヴィスが招集した最高のメンバー、と称している。このメンツで音源を世界に発信できなかったCBSには、落胆したと、彼は語っている。 

 

1972年、マンフレート・アイヒャーがキース・ジャレットに、ヤン・ガルバレクとのコラボを持ちかけた際は、、すんなり話がまとまった。既にこの数年前、ジャレットとガルバレクは、ある共通の音楽プロジェクトに向けて一緒にやれないかと、アンテナを張っていたところだった。すんなり話がまとまったことがもう一つ、キース・ジャレットがマンフレート・アイヒャーへの、レコーディングの提案である(既に計画中のカルテットの制作の先に)。そこには、予めジャレットがガルバレクに作曲を申し出ていた、サクソフォン弦楽合奏の為の新作も含まれていた。1973年冬、ヤン・ガルバレクは渡米し、ジャレット家に数日間滞在、そこで将来どんなレコーディングをしようかと話し合った。ガルバレクは当時を振り返り、話し合いは友好的かつリラックスした雰囲気で、音楽のことを語り合ったが、それは他の人が想像するであろう、仕事の議論とは全く違うものだった、という。食事を共にし、一緒に散策し、互いを知る機会となり、二人の新作を語る上で、余計な事を言う必要はない、という結論に至った。数カ月後、キース・ジャレットの「ヨーロピアンカルテット」の初録音が、オスロで行われた。ジャレットとABCインパルス!との契約によると、自分自身の名前を冠したカルテットでの演奏を禁止していたため、アルバムのタイトル曲「ビロンギング」を使い、このカルテットは「ビロンギング」の名の下、正式にその名をお披露目された。このセッションの数日後、「ルミネッサンス」のタイトルの下、ドイツのルードヴィヒスブルクで、管弦楽作品集の収録が行われた。タイトル曲「ビロンギング」の収録は、ジャレットの才能に誰もが心を動かされた。マンフレート・アイヒャーによると、ジャレットはLPの収録は1度きりで、それ以上はしない、との強い気持ちであった。彼はよく、マイルス・デイヴィスのように、技術的に完璧な演奏を収録するよりも、その場の各奏者の自発的な思いつきを大事にした。こうなると、ミュージシャン達は相当な努力をして演奏に集中することが、明らかに求められるようになる。ヤン・ガルバレクによると、レコーディングがテキパキと終了したためしなどなく、しかもリハーサルもほとんどなしで行われた。オスロのアルネ・ベンディクセン・スタジオの上を、あたかもマイルス・デイヴィスの霊が舞い、こう求めているようだった「これなら吹ける、と思うものなんか吹くな。こんなの吹けるかな、と思うものに挑め。」 

 

このバンドはドイツ国内で数回コンサートを開催した。その後、ヨーロッパツアーへと進出するのだが、ECMによる「ダブルプログラム」の一環であり、ツアーの謳い文句は「インプロヴァイズド・ミュージックの夕べ」であった。各回とも、2部制で、それも両方とも2つのフォーメーションが続けて配されて、実施された。第1部で、キース・ジャレットの「ヨーロピアンカルテット」に、エグベルト・ジスモンチ(ギター)と、ナナ・ヴァスコンセロス(打楽器)が加わる。第2部では、「オレゴン」に続いて、ヤン・ガルバレクラルフ・タウナーのデュオである。この「ヨーロピアンカルテット」は、「アメリカンカルテット」同様、5年間(1974~1979)続いた。だが公開演奏の回数も、たった4枚というアルバムリリースも、アメリカンカルテットに比べると少なかった。5枚目のアルバム「スリーパー」は、ずっと後の2012年にリリースされた(人によっては「死後の遺作」などと揶揄する者もいる始末)。音源は、1979年の東京でのコンサートと、その他の会場でのものが収められている。アメリカンカルテットに比べると、公開演奏の機会もアルバムリリースも少なかったが、行く先々の聴衆は「ヨーロピアンカルテット」を大いに歓迎し、「アメリカンカルテット」の優れた点に迫るものと、もてはやした。 

 

これらの音源を聴いていると、なぜこうした音楽が、今日まで世界中のミュージシャン達にインパクトを与えているのか、そしてなぜこの2つのカルテットが、モダンジャズの歴史上、最高峰に君臨するものの一つとみなされているのかが、容易に理解できる。このカルテットを知る音楽ファンの多くは、そのデビュー作「ビロンギング」が記憶にある。メンバー達は、この収録まで、一緒に公開演奏に臨んだことも無ければ、単に一緒に演奏したことすら無かったのだ。このアルバムは、リハーサルを殆ど行わず、一発録音のみでありながら、稀に見る傑作であり、参加メンバー同士が、お互いを直感的に理解し合ったという、奇跡がもたらした成果である。この録音に匹敵する、鮮明さとバランスの良さを持つ作品はない。4人の間には、自然に音楽家としての絆が生まれ(身勝手な技のひけらかしなど微塵もなく)、自信に満ち溢れ、意思の疎通を常に意識し、芸事を生業とするものとのしての思慮分別を持って、仲間の考えていることには、的確に呼応し、敬意を表しているのだ。敢えてロマンティックな物の言い方をすれば、メンバー達をまとめ上げ、これほど音楽的に自由なアンサンブルを送り届けることが出来た原動力は、「一目惚れ」という気持ちに尽きると思われる。「ビロンギング」は、っジャズ100年の歴史の、栄光の史実に記録されるに値する作品だ。 

 

新しいサウンド、突飛なサウンド、新しい形式、尋常ならざる美的感覚、そういった観点から行くと、このアルバムには、革新性だの革命性だのというものは全く無い。もしこの音楽を、定番の芸術作品として分類しようものなら、あるいは、採り上げられた音楽素材の話題性について、何らか理屈をつけて疑問を呈したり、今時の音楽としてはその質はいかがなものかと疑ってかかったりしようものなら、愚問として自分に跳ね返ってくるだろう。異例ずくめのレコーディングセッションであったにもかかわらず、出来上がった音楽は、形式は完璧、演奏は無傷という仕上がりだった。「様々な芸の結晶」から、珠玉を一粒ご紹介しよう。バラード「ブロッサム」(意訳:花、ほころぶ)は、バロック調に春の出来事・心境を描いたもの。ピアノの序奏で導き出される民謡風のメロディは、ガルバレクがしっかりと燃えるような音色で聞かせる。その様は四方に相対し、まるで全ての人々にその姿を見せる石像のようである。思わず心に浮かんでしまうのが、アリスティド・マイヨール作の裸婦銅像「地中海」だ。作者曰く「陽の陰る庭にかざる像」。この庭を、そっくり描いているようなジャレットの伴奏は、ピアノによる「伸びゆく枝葉」、そしてメロディを支えるハーモニーによる「陰り」を思わせる。パレ・ダニエルソンの歌心あふれるベースが、示唆に富むトレモロで同じ絵を描きはじめる。勿論、ヨン・クリステンセンのドラムも、「やらされ感」を微塵も感じさせない。 

 

 

このアルバムを聞いていると、高い塔が幾つも連なって立っているようで、その中にあって「ブロッサム」は正に最高峰。もちろん他にも秀作揃いで、「スパイラルダンス」はスィングが効いていて、ゴスペルソングの「ロング・アズ・ユー・ノウ・ユーアー・リヴィン・ユアーズ」(意訳:長かろうが、それが君の人生)では、ジャレット、ダニエルソン、クリステンセンからなるリズムセクションストンピングにのせて、ヤン・ガルバレクが喜びの歌をうたう。曲名が短いところで、「ビロンギング」は、ガルバレクがボーカリストのようにメロディを歌い、ジャレットが雰囲気のある伴奏を弾く。目を閉じて聴いてみれば、シューベルトの無言歌の演奏に、どちらかというと相応しいともいえる、ガルバレクとジャレットの二人の興に入った挙動が目に浮かぶようである。そして、「ソルスティス」はロマンチックさで上回る「ブロッサム」を、感情むき出しに演奏し、「ザ・ワインダップ」はお道化たスクエアダンス。「ザ・ワインダップ」の方は、激しく弾きまくるキース・ジャレットのソロの部分を含む。無伴奏で、元のメロディを細切れにし、単音にしたものが、リズミカルに歌われ、そうすることで拍を取るための基本リズムを刻むビートを演奏しなくても、曲の鼓動を感じさせるという、良いお手本である。 

 

それから3年後に制作されたアルバム「マイ・ソング」の魅力も、ひけを取らない。リズムの複雑なビ・バップ以外では、フリージャズのナンバー「マンダラ」が、比較的哀愁に満ちた曲想を聞かせてくれる。聞きやすい作品で、時に物悲しさもある。聞き手に大きな負担を掛けずに、また謎掛けめいたものもなく、そのまま聞けば良い、いった具合である。きっと録音スタジオには、穏やかな空気感が満ちていたのだろう。それがあればこそ、こんなにも滑らかで、優雅にコントロールされた音楽が生まれてくるのである。例えば、素朴なカントリーミュージック風に曲が始まったかと思えは、次に茶目っ気あふれるルンバのリズムになり、やがて主軸となるビートが失われて3拍子のワルツにかわり、曲を締めくくる。このアルバムを聞いた印象としては、ジャレットは殊更ガルバレクが傍らにいるのが心地よく、胸襟を開いて意見交換し、途切れなく会話の言葉がつながり、ジャレット1人が音楽面の責任を全て負わねばならないという責任感から、彼を開放してくれた、そう感じたことだろう。同じことが言えるアルバムが、「ニューダンス(訳注:New Danceの当て字)」「パーソナル・マウンテンズ」「スリーパー」。これら3作品と「ビロンギング」のリリースの間は5年。この間、ジャレットは世界を驚かせ続ける。「ケルン・コンサート」そして「サン・ベア・コンサーツ」のリリース、クラシックの委嘱作品の発表、ドイツのオットーボイレン修道院にある、名職人カール・ヨーゼフ・リープが手掛けたバロックオルガンを弾きに訪れたことである。1979年収録の3作品を聞いていると、「ヨーロピアンカルテット」が世界的舞台から去ってゆくにあたり、最後に幸福感あふれる気持ちを音にしたようである。今となっては、もう少し長く、彼らの活躍を享受したかったと思うしかない 

 

「パーソナル・マウンテンズ」は、1979年の東京でのライブ音源だが、レコードの発売は、その10年後となった。その訳はおそらく、先行発売のヴィレッジヴァンガードでの録音「ニューダンス」において、半数の曲目がバージョンが違うとはいえ、重なってしまっていたからであろう。それから「スリーパー」、こちらは「パーソナル・マウンテンズ」と気を同じくして制作され、他の2作品からの素材を合わせており、先述の通り、リリースされたのは2012年と、ずっと後のことである。これら3作品では、同じ曲を2度、あるいは3度耳にすることができ、4人のメンバー達がインプロヴァイゼーションを底なしに発揮してくれる様子が、類まれなる鮮やかさで思い描くことができる。その中でも、キース・ジャレットは別格なのだ。楽曲の形式を気にせず、そして、「パーソナル・マウンテンズ」という曲について、同名のアルバムに収録されている分と、「スリーパー」に収録されている分とが、全く同じ楽曲であることを一旦頭からどけて聴いたなら、全く違う楽曲を聴いていると、コロッと信じてしまうだろう。特にインプロヴァイゼーションの部分などは、尚更である。曲に変化をつける技の豊富さの賜物であり、そしてジャレットとガルバレクが元ネタを変化させる手法は、世界中どのジャズを専攻できる大学でも、修士号を獲得できること、請け合いである。「プロセッショナル(意訳:聖殿に向かう行列)」では、ピアノが瞑想めいた装飾音符を響かせる。その様は、ビリー・ホリデイが歌う伝説的なバラード「ドント・エクスプレイン(意訳:訳は言わないで)」のイントロで使った手法によく似ている。ここへテナーサックスが加わると、曲想が変わり、ヒッチコックの映画のようなミステリアスな情景に。だが再びジャレットが雰囲気を変えてくる。ベートーヴェンピアノソナタの楽章から引っ張ってきた感じだ。彼はこれを掘り下げすぎて、戻ってくるのに難儀しているようである。こういった印象は何に由来するのか。それは、ジャレットは一回演奏したものは、頭と指先が絶対に忘れないことにある。彼の演奏を聴く時は、注意力を切らさないことをおすすめする。驚きに沢山出会えるのだ。例えば、ドビュッシー流の分散和音を、シェーンベルクばりの無調音楽で使ったり、ブギウギのリズムを、モーツアルト時代のアルベルティ・バス(低音部の分散和音を用いるリズム音形)で演奏したりする。 

 

1979年は、キース・ジャレットにとっては、音楽面での転機であったが、同時に私生活においても転機が訪れる。2つのカルテットの活動が終わった。そしてソロ活動への取り組みは、彼をジャズ界の頂点へ押し上げたばかりでなく、インプロヴァイゼーションの歴史において、異色の地位を与えた。ジャズとクラシックの両分野にわたる彼が作った曲の数々は、34歳にしてその多才さを見せつけただけでなく、未だそれは氷山の一角に過ぎないこと、音楽界での地震予知能力ともいうべき、先見の明をフルに発揮しつつ、ピアノ奏者として、作曲家として、そしてインプロヴァイゼーションの凄腕でもあるという、彼のとどまるところを知らない快進撃に、更に期待がかかっていた。 

 

休むことなくスタジオからスタジオへ、コンサートホールからコンサートホールへと駆け回り、ここまで文字通り、一瞬の途切れもなく音楽活動に取り組んできたことによる、ツケを払うことになる。アーティストが、公演活動を頻繁に行い、自身の音楽に没頭するばかりだと、例外なくそれは、夫婦間の溝の拡大を徐々に招く。マルゴットは家に残って二人の息子ガブリエルの世話をし、世間から隔離された専業主婦としての立場に追い込まれる。当然、状況は悪化するのみだ。以前は、マルゴットとガブリエルも頻繁にキースとツアーでは同行していたが、3人の誰にとっても、決して嬉しいこととは言えなかったようである(イアン・カー曰く)。キースにしてみれば、コンサートには集中しなくてはいけないし、家族で休暇中アウトドアした際の腰痛に悩まされなければいけないし、といった具合。 

 

           

1978年1月に次男のノアが生まれた後は、マルゴットはツアーへの同行がほぼ不可能になった。だがキース・ジャレットとは、それ以前から、家庭を自分の居場所と考える男ではなかったということなのだ。想像だが、子供時代に両親の離婚問題があった彼にとって、音楽とは、その頃から、そしていまだに引きずって、自分の精神状態を守るための地下壕のようなものに、なってしまっていたのだろう。ローズ・アン・コラヴィートという若い女と、1974年にボストンへ仕事で少し滞在した際に出会い、関係を持ったことで、ぐらついていた夫婦関係が更に悪化する。ローズ・アンとキースは、その後お互い音信が途絶えるが、4年後に再会する。よりを戻そうと言い出したのはローズ・アンの方だが、ジャレットもまんざらではなかったはずである。この関係はヒートアップし、結果、1979年にマルゴットと、ついに離婚に至った。当然予想される通り、8歳だった当時の息子ガブリエルとは、その後数年間、連絡をシャットアウトされる。後にある程度以前の状態にもどるのだが、この間、次男のノアとは、従前の関係が保たれた。その頃、キースは自宅敷地内に新しいスタジオを建設中であったが、マルゴットが邸宅の所有権を放棄したため、彼はそこに居続けることができた。 

 

 

 

この離婚の直後、ジャレットはローズ・アン・コラヴィートとともに、後に成功を収める日本へのツアーに乗り出し、「パーソナル・マウンテンズ」と「スリーパー」のレコーディングもこれに伴い行われた。その後の全米クラブツアーも成功裏に終わる。その中には、かの伝説のニューヨークのヴィレッジヴァンガードでのライブがあり、後にアルバム「ニューダンス」として収録・リリースされた。キース・ジャレットは自身のカルテットがニューヨークでライブを行う時は、ヴィレッジヴァンガードを選ぶのが常だった。元来彼は、付き合いの長い友人達には、誠実に、そしてその関係を大切にする人間で、それはこのクラブに対しても全く同じだった。何しろ、1960年代に彼のトリオがほとんど無名だった頃からずっと、このクラブだけがしっかり迎えてくれているのだ。ジャレットと、クラブのオーナーであるマックス・ゴードンとの間の約束で、ジャレットへの出演料を力いっぱい抑えることで、入場料を一番安いところで$6.50に維持した。全5回のライブのチケットは、いつも完売。毎回当日になると、待ちわびるファンの行列は、何と7番街まで続いたという。キース・ジャレットアメリカでの人気は上昇し、同時に、ヨーロッパでの人気の度合いに迫っていた。 

Keith Jarrett伝記(英語版)5章pp.73-76

「ミスフィッツ」で生まれた圧の強さを、穏やかな静けさへと変化させてくれるのが、次の曲「フォート・ヤウー」だ。ジャレットの金糸で装飾を施すようなピアノのモチーフが、フェルマータのたびに分断される。それらの音は、次の新たな動きが起こるまで、響いては消えてゆく。徐々に打楽器の音が一つまた一つと聞こえてきて、鈍く、ふつふつと湧いてくる。そしてメロディのモチーフと、リズムの連続が姿を表し始める。連続するリズムの刻みは、さながら、ニーベルンゲンの奴隷達が、地下の彫金場で金細工を作る光景を、思い浮かばせる。 

 

 

このサウンドが織り成す世界観を、幽霊の姿を吹き消すように、ヴィレッジヴァンガードの会場をぱっと明るく照らしだすのが、ジャレットの狂騒的なピアノのパッセージ、デューイ・レッドマンの賛美歌のようなサックス、チャーリー・ヘイデンの骨太なベース、そして歌の命を吹き込まれたポール・モチアンのシンバルである。彼らの奏で始めた音楽が、次に形作るのが、蛇使いの呪文のような風景。デューイ・レッドマンがミュゼットを吹き、ベースが最低音でリズムをキープし、ピアノがそのパターンを繰り返す。そのうちに、全体がフリーバラードのようになってきて、ピアノによる高音域での装飾音形の中に小さなモチーフが繰り返され、ポール・モチアンがベルのようなサウンドを聞かせ、全体の音が小さくなってゆく様子は、さしずめ、行列が地平線の彼方へ消え去ってゆくようである。次の「ザ・ドラムス」は、これとは対象的に、小太り気味なロック音楽調で、シンプルなピアノとドラムのリフから始まり、ノリの良いゴスペル調の曲想へと発展してゆく。唐突気味に、音楽はシャッフルリズムとなり、そしてベースが主導権を握り、他のミュージシャンを裏で操るかのように引っ張って、最後は曲の灯火をフッと吹き消して終わる。「スティル・ライフスティル・ライフ」は、ショパン前奏曲風に曲が始まり、バロック調の対位法による曲想となり、やがてロマン派の風となり、ついにはモチアンのリズムが、ピアノ奏者(ジャレット)とベース奏者(ヘイデン)をジャズへと引き戻し、ジャレットのほとばしるような、歯切れのあるフレーズによってそれは決定づけられる。さてこの音源の締めくくりは「ローズ・トラヴェルド、ローズ・ヴェイルド(訳意:これまで来た道、未だ見ぬ道)。序奏の主題は、音数の多いハーモニーと、音律的には比較的自由なリズムを用いており、「物語は長く、まだその半ばにあって、まずは腰を据えて暫くじっと聞いていてくれ」、と言わんばかりである。ジャレットが一つのモチーフをいつまでも繰り返し弾き始め、ハマってしまうと、「長い物語」が大作の体を成すのでは、と期待してしまう。多くの音楽作品には、その脇の話というのがあるが、この曲を聞いていると、スティーブ・ライヒの「ドラミング」やエリック・サティの「貧しき者の夢想」といった音楽や、ムソルグスキーが少年時代は田舎の裕福な家の子であったこと、ラフマニノフが少年時代はやんちゃ坊主であったこと、そんなことが連想される。そこへデューイ・レッドマンのサックスが表現力あふれる優雅なサウンドを聞かせ、曲は日の出のような輝きを放つ。キース・ジャレットがソプラノサックスでつぶやき始めると、レッドマンとの絡み合いあら、自然界の光景を音楽という芸術で描こうとする。 

 

打楽器奏者をエキストラとして加えた「アメリカン・カルテット」による4つのジャズアルバムの中では、この「フォート・ヤウー」が最もめざましく、魅力的な作品である。理由は、必ずしも洗練された音楽性だけではない。人々を魅了し自ら脈動を打つ、ヴィレッジヴァンガードというニューヨークのクラブが持つ、雰囲気の為せる技でもある。キース・ジャレットは、ライブ演奏に際しては常に、聴衆、会場の諸条件、刻々と変わる雰囲気、その他かすかな影響効果を、逃さず感じ取って行動する。だが誤解しないように。彼は様々な状況が複雑に絡み合う、ライブという状況に、寄りかかっているわけではない。彼には膨大な数のスタジオ収録作品があり、ECMのカタログでは、そちらの方が多数である。スタジオ収録作品と言えば、ドライな雰囲気がありそうなものだが、彼はそんな聞き手の懸念を払拭させてくれる能力があった。そんな彼とカルテットの好例を紹介しよう。「宝島」の最初の曲「ザ・リッチ」だ。出だしは賛美歌調のピアノ。キース・ジャレットにはお馴染みの始まり方だ。続いてサウンドに厚みを付けてゆくのが、比較的短めのリズムのモチーフと、魅力的なコードをともなった、旋律の登場である。これをしっかりと下支えするのが、チャーリー・ヘイデンの朗々たるベース、ポール・モチアンのドラムさばき(打楽器による凝縮されたリフ)、更には、デューイ・レッドマンの堂々たる高揚感あふれるサウンド。これらは一体となって、この収録全体のカギを握る。 

 

 

タイトル曲「宝島」はギター奏者のサム・ブラウンとの絡み合いにより、キース・ジャレットが高音域で見事な対位法による演奏を聞かせる、まさに珠玉の逸品。サイド2(訳注:LP版)1曲目のような自由形式によるプレリュードには、こういった曲をキース・ジャレットが手掛ける際の、注目しておかねばならない点がある。彼がこの手の音楽を手掛ける場合、高度で幅広い技巧を求めるようなことはしない。求めるのは、「民謡風に」という音楽用語が示すように、演奏スタイルの簡素さである。これはシューマンの「子供の風景 作品15」に通じるものだ。この曲は題名にも関わらず、子供用の音楽ではない。むしろ大人が、若い頃の思い出にふける、あるいは、シューマンの言うように、「大人のための、大人による、過ぎし日の回顧」である。「ヤキ・インディアン・フォークソング」では、キース・ジャレットが序奏をピアノで、それにデューイ・レッドマンが素朴で暖かなサウンドをかぶせてくる。正にこの二人のミュージシャンの間には、音楽表現に関する高度な理解が共有されていることを、まざまざと聞かせてくれる。 

 

ゴスペル調モチーフや、リズムのノリが強調されているアルバムではあるが、反復リズムやロック調のリフなどの特徴により、アルバム「バックハンド」は、確かに、通常のジャズの枠組をやぶる全く新しい音の風景をもつ作品を、世に示している。神秘的な曲「クーム」は、まずリコーダーがセオリーにはないメリスマ(装飾音形)をつけてくる。原始時代からやってきたようなこのフレーズは、大昔にピタゴラスとその弟子達が、自分達の科学的実験の成果を音楽的なシステムに作り上げる、そのはるか昔の「元々の」サウンドを追求した成果ではないか、と思わせてしまう。原始時代の風景を音に描いたこの曲は、打楽器群による不気味にこするようなサウンド(例:カバサ)が続く中、レッドマンの鼻にかかったようなミュゼット(東洋風のオーボエの一種)、純正調のコードを無視して機能を停止させるために音程を自由に変化させるベース、これらによって、彩りが添えられている。このLPの最高の見せ場である、「ヴァパリア」というバラードは、これまた彼らのスタジオ収録作品の逸品の好例だ。実はこれ以前に、「フェイシング・ユー」で短縮版が収録されている。ジャレットが、この甘く夢見るような主題につけている和声のパターンは、常にポール・モチアンの超人的なセンスによる「反応」(レスポンス)によって支えられ、三和音の持つシンプルな美しさを、新たな和声構築の境地へと進化させ、しかも「感傷的」「安易」に堕すことなく聞かせるあたりは、以前なら「いいね」とシンプルに評されていたものだ。当時、音楽表現については、「社会通念上、誰もがこう感じるであろう」と確信できる点が、比較的見出しやすかったこともある。今こそ、勇気を持って、再びこう言おうではないか「この部分については、キース・ジャレットの凄さと趣味の良さが現れている」。 

 

キース・ジャレットは「アメリカン・カルテット」とともに、更にもう6作品を、1976年までに手掛けている。4つはABCインパルス、2つはECMからである。これら一連の作品の数々は、「フォート・ヤウー」で既に始まった取り組みの、更なる進化を示している。それは、チャーリー・パーカーからチャールズ・ロイドに至るビ・バップの伝統に、ビ・バップ領域を更に、混乱を抑えてコントロールが効くようにしたフリージャズへと拡大した音楽を加えたものである。そうしてできたのが、これら6作品だ。何度も言うが、どの作品も、考えうる音楽表現とそれが持つ力は、全て動員したいという、ジャレットの思いが現れている。通常は自身の曲がそうだが、時に仲間の作った曲もある。例えばポール・モチアンは「バイアブルー」というアルバムに1曲提供しているし、また、このアルバムには、音楽界では全く無名の、それも音楽の勉強などしたことのない、デザインが専門の女性が書いた一品もある。そう、キース・ジャレットの妻、マーゴット・ジャレットである。アルバム「バップ・ビー」にも、デューイ・レッドマンチャーリー・ヘイデン、そしてアレック・ワイルダーらの作品が収録されている。 

 

ECMからの2作品は、ABCインパルスからの4作品とくらべて、根本的な違いが2つある。一つは、楽曲の形式に関するコンセプト、もう一つは、録音技術に関することである。後にジャレットは、ほとんど全てのレコード制作をECMへとシフトするが、その理由を知る手がかりとしては、「ミステリーズ」(ABCインパルス)と「残民」(ECM)という、1976年頃ほぼ同時に制作された2枚を比べて見るだけで良い。双方の間には、膨大な数のサウンドの種類が存在し、録音技術の品質における劇的な向上(パラダイムシフト)があったと言っても、全然過言ではないだろう。例えて言うなら、「残民」が生き生きと彫りの深さを感じさせる絵画だとしたら、「ミステリーズ」は、ルネサンス以前の、遠近法が再発見される前の絵の描き方をしている、といったところ。 

 

 

遠近法を例に出したが、音ならさしずめ「三次元音響」、つまり、録音した状態をそのまま聴ける音響のことになるだろう。だが今ここでは、1950年代から行われている、電気じかけの三次元音響(ひたすら立体的に聞こえる音響)のことを言っているのではない。今ここで言っているのは、複数の音が、お互いに別々に、ハッキリときこえてくる状態のことだ。「残民」では、ピアノ奏者とその奏でる一つひとつの音が、ピアノから分離しているのが、聞こえるだけでなく、まるで「見える」かのような気分になる。同様に、ドラムと様々な打楽器から聞こえるノイズや、サクソフォンの鮮やかな音色などもそうだ。ベースも、「何となく後ろでブンブン言っている」以上の音質となる。お陰でレコードを聴く人は、個々の音が伝わらず、ベタ塗りしたような音色を耳にすることなく、代わりに、個々の音色がハッキリ聞こえて、そして混ざり合い、完璧な音として耳に刻まれる。普段の生活で言うなら、行政などの検閲を受けずに、好きに何でも聴くことができる状態のことをいう。キース・ジャレットはスタジオ収録での経験を積み、こういった違いを熟知するようになり、そしてマンフレート・アイヒャーの仕事の細かさについても、よく物申していた。くっきりとした美しいサウンドを得るためならば、彼は何時間かかってもお構いなしに、録音スタジオで、マイクを何本も、ミリ単位で、あっちへ動かしこっちへ動かししていた。 

 

 

大きな違いの2つ目は、ECMとABCインパルスとの間で、収録する楽曲形式に関するコンセプトが異なっていたことによる。殊、「シェイズ」と「ミステリーズ」が顕著だが、「ビ・バップの伝統+フリージャズ「的」音楽」は、微々たるもの。全体的に、通常のジャズの形式を踏襲し、主体の提示から、各楽器のソロコーラスが続き、最後にまた主題に戻って終わる、という形をとった。ABCインパルスの「バイアブルー」と「バップ・ビー」も、この形式に収まっている。ところで、ジャレットは、自分の作品はちょっと遠慮して、代わりに仲間の作品を推したい、と考えていたことを、思い出していただきたい。対するECMの「残民」と「心の瞳」では、ABCインパルスの方針とはうってかわり、より幅広い種類の楽曲形式がまな板に乗った。一つの音楽集団が扱える膨大な演奏効果をものにした今、使いこなしも相互の意思疎通も、更に自由度を増していた。今や自発的にお互いの発信に反応することは、「出来ればやろうね」ではなく、「当然やるよね」に変わった。 

 

 

どいつもこいつも個々のインプロバイゼーションだの、お互いのアンサンブルだの、ちゃんと結果を出そうとやる気があったのか?と言おうとして、これを引き合いに出したわけではない。大体、演奏しているのは、どちらも同じ集団。同じでないのは、楽曲の形式に関するコンセプトと、レコード制作の物理的能力である。ビ・バップの「シェイズ・オブ・ジャズ」や、ラテンの「サザン・スマイルズ」、あるいは、穏やかで流れるようなバラード「ローズ・ペタルズ」などは、伝統的なジャズの形式を踏襲している(コーラスセクションを伴う主題提示型の楽曲形式)。でもメンバー達はインスピレーションを全開にして、眼を見張るほどのノリで演奏している。例えば「ダイアトライブ」という、文字通り感情を爆発させるような楽曲では、楽曲の基本スタイルだの構成形式だのは大した意味がなく、チャーリー・ヘイデンの超高速トレモロキース・ジャレットのキーボードを押し流す音の濁流、デューイ・レッドマンに至っては、マウスピース(歌口)をくわえて、唸ったり、歯を立てたり、罵るような声を上げるなどして、常軌を逸した叫び声のような吹き方をして音楽的なフレーズを押しつぶしてしまう始末。 

 

ミステリーズ」も、こういうハジけた個々のプレーが集まっている。チャーリー・ヘイデンがエネルギッシュに演奏する「ウォーキングベース」(同じ音形をさっそうと歩くように弾くベースの奏法)は、やがて熱狂的に同じ音形を繰り返し始める。その様子は、まるで、キース・ジャレットマイルス・デイヴィスのバンドにいたとき、ワイト島でのフェスで見せたパフォーマンスを、聞き手に思い起こさえる。あれはただひたすら、自らのエネルギーを振り絞るものだった。こうしたインプロバイゼーションの離れ技を披露する曲がひしめく中、ふと耳にして涙がでてくるのが、「エブリシング・ザット・リブス・ラメント」である。アルバム「流星」ですでに登場しており、メンバー達の高い腕前が、ノビノビと見事に発揮され、ジャレットのコードはまるで象嵌を刻むように、各楽器の後方で神秘的な背景となっている。「バイアブルー」の収録曲の一つ「ヤーラ」などは、デューイ・レッドマンのミュゼットとモチアンの操る様々な打楽器によって輝きを放ち、ここではジャズの奏法に東洋音楽のサウンドが融合している。ビ・バップの王道をゆくような作品もある。デューイ・レッドマンが書いた「ムシ・ムシ」は、セロニアス・モンクばりの突発的なピアノのフレーズが時々顔を出す。