Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)2章pp26-33

数ヶ月の内に、キースは音楽活動の日の当たる場所に活路を見出していた。アート・ブレイキーのバンドがこれまでのジャズの代弁者あったとすると、チャールズ・ロイド・カルテットは時代、すなわち、懐の深さを示す幸福感あふれる雰囲気や、ヒッピーの色とりどりの「花の力」、更には若者層の底なしの熱気をもつ「ロックの時代」を見据え、そのイメージに適応した。これに一役買ったとされるのが、デューク・エリントンルイ・アームストロング、そして一部マイルス・デイヴィスとも関わった敏腕レコードプロデューサーでもある、バンドのマネージャーの ジョージ・アヴァキアンだ。当時、ロイドが大きな支援を受けていた人物がもう一人いる。ビル・グレアムだ。彼は2つのコンサートホールを持ち、サンフランシスコのフィルモア・ウェスト、更には後にニューヨークのフィルモア・ウェストを所有していた。実に行動力のある男で、何か事を起こすには、それを評価しうる適切な「場や人」、そしてそれらに対する十分な宣伝が必要だということを、心得ていた。時流を捉え自らの目的達成に利用する人物?時流を自ら創造する人物?グレアムは、歴史学者達が頭を悩ます錚々たる人物達の一人である。ビル・グレアムは間違いなく、仕切りの才に長け、確かなビジネスセンスの持ち主である。だがそれ以上に、彼は時代の空気を読む力があった。当時は芸術活動に政治色が出ていた。「反◯◯」的な芸術活動が腰を据えて立ち向かったのが、ベトナム戦争という愚行へと事を急いて乗り出した政治体制だ。ベトナム戦争については、ケン・キージーという人物が、自ら霊感的に感じたことを、小説や予告なしのパフォーマンスを通して表現した。また、ハーバード大学のある精神科の教授(訳注:ティモシー・リアリー)は学生達に、当時の社会情勢から言って、政治の指導者達が仮に受診に来たら、どこも悪くない(のに愚行に走った:補訳)と言ってやれ、と釘を刺した。 

 

 

 

フィルモア・ウェストは20世紀初頭創立の、老舗のダンスホールだ。1950年代に、チャールズ・サリヴァンは黒人ミュージシャンのスター達を登場させた。その中には、ジェームス・ブラウン、ボビー・ブランド、そしてアイク&ティナ・ターナーや、ヘイト・アシュベリーの「反体制的」なシーンを扱ったステージも展開した。このロックの聖なる館で、時代を彩ったスター達がパフォーマンスを繰り広げた。音楽の生活共同体 グレイトフルデッド、反骨のヴォーカリスト グレイス・スリックを擁するジェファーソン・エアプレイン、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、「ブルーな気持ち」に苦しんだジャニス・ジョプリン、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、サンタナ、天才 ジミ・ヘンドリックス、バターフィールド・ブルース・バンド、そしてマディー・ウォーターズ。新たな熱を帯びたあらゆる世代のミュージシャン達が、ここに集った。彼らは知っていた。ロックとブルースは兄弟みたいなもの。ジャズはインドのラーガ旋法とよくあう。クラッシック音楽の作曲家であるカールハインツ・シュトックハウゼンでさえ、自らの「長老」として歓迎する存在だ。ということを。随分あとになってグレイス・スリックは「60年代のことを覚えている、なんて言う人がいたら、きっとその人はその時代にはまだ生まれていなかったのだろう」と言ってのけた。この異様な時代を総括した言葉で、当時の社会のうねりが、居合わせた者にしか理解できず、しかも回顧を許さぬ掟があることを、よく言い表している。 

 

チャールズ・ロイドが自身のバンドを率いてフィルモア・ウェストに出演した際には、「サイケデリック・ジャズ集団の第一号」と称された(ハーパースマガジンによる)。1966年の3月と9月には、このバンドを象徴するようなタイトルの「ドリーム・ウィーバー」と「フォレスト・フラワー」のレコーディングが行われた。2つのレコードには、「バード・フライト」「ダルウィーシュ・ダンス」「ラブ・シップ」といったミステリアスな曲や、現実逃避的な曲のスタンダード「イースト・オブ・ザ・サン」といったところが、1967年のベストセラーと称されている。「ダウン・ビート」誌はいち早くこのヒットを採り上げ、この驚くべき新手のジャズミュージシャン達を次のように評した。「彼らはもはや、大学の講堂のステージ等にお行儀よく立たない。地味なシャツやネクタイは身に付けない。代わりにヒッピーならではのカラフルに飾りのついたシャツを着て、大昔の「誰とでもヤれる」天国が現代に蘇った「恍惚の」讃歌を歌い上げる」。報道各紙もまたそろって、各音楽シーンの融合によって発生した様々な変化について報じた。「混沌からの脱出路」との見出しは「タイムズ」誌である。様々な音楽的価値観が、ここへ来て急に手を結ぶとは、思いもよらなかったという。「ダウン・ビート」誌の編集者ダン・モルゲンスターンの見方は、もっと現実的だ。「目下ファン層が減りつつあるジレンマに陥るジャズにとって、排他的な態度は禁物だ。ロックがその架け橋となるなら、ジャズはそれを渡らぬ愚は犯すまい。」グレイス・スリックには申し訳ないが、後年だいぶ経った後のインタビューで、チャールズ・ロイドは1960年代当時のことを鮮明に記憶していた「もはや音楽に境界線など無かった。若い連中は何でも聴いていた。フィルモア・ウェストで本番があれば、我々はドアが開いて温かく好意的に迎えれられた。ホームグラウンドのジャズの方と言えば状態は悲惨だった。クラブはただただ生き残ることに必死だったのだ」。 

 

 

チャールズ・ロイド・カルテットもまた、熱狂的に迎えられた。「ドリーム・ウィーバー」収録後まもなく、初のヨーロッパツアーが行われたのだ。時は1966年の春。そこから2年間、5回のツアーで40もの国々を歴訪する。その中には、1967年のソビエトツアーでは、タリン、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、そしてモスクワでコンサートを開催している。1966年5月1日、カルテットにとって最高の見せ場がおとずれる。フランクフルトでのドイツジャズフェスティバルだ。1953年からのフェスで、世界で最も長年続くものの一つだ。ジャズの新星を発掘・紹介する場として有名である。最初のツアーは北欧諸国、ドイツ、フランス、イタリアを、21日間で20回のコンサートを開催して巡り、手放しの歓迎を受けた。ノルウェーの有力紙「アフテンポステン」から、フランスの専門紙「ジャズ・ホット」まで、この高い表現力を持つバンドを「正にジャズの未来図」と、賞賛の嵐をこぞって書き綴った。ベルギーのベース奏者ブノワ・ケルサンは、1950年代にチェット・ベイカーとパリで演奏活動をしていたが、彼らの演奏の何事かを理解し、ある本番の後で次のように印象を語っている「チャールズ・ロイドの音楽は、今風で、自由闊達だが、決して無秩序でも根無し草でもない。モード・ジャズのコンセプトでありつつ、ハーモニーもあり、曲の構造もしっかりしている。サウンド、リズム、メロディの素材に新たな可能性の扉を開きつつも、音楽的な骨組みづくりを支える自然な表現であり形式に基づく演奏だった。」 

 

 

 

 

バンドの活動の中心であり、注目が集まる処でもあるのが、若干28歳のチャールズ・ロイド。彼のカリスマ性はメンバー達に認められ、そして彼には観客を熱狂させる力を持つ。何でもかんでもユートピア的なものがもてはやされる時代にあっては、どうでも良いとは言えない。ところでキース・ジャレットも批評家達につぶさに観察されている状態であった。特に彼の、言うなれば、「鷲掴みにするような」邪道なピアノの運指が標的だった。要するに、彼のような演奏家はめったにお目にかかれないのだ。クラシックの技術を駆使し、ジャズのインプロヴァイズをする豊かな想像力があり、これらを併せて王道・邪道のあらゆる今風の演奏効果を生み出してしまうのである。 

 

 

1966年のヨーロッパツアーを巧みに切り盛りしたマネージャー ジョージ・アヴァキアンは、ヨーロッパでの肯定的な反応を予見し、それを利用してアメリカのバンドに対するヨーロッパの興味関心を、更にひこうと目論んだのだ。「世界中が、愛と平和のメッセンジャーたるチャールズ・ロイド・カルテットを可愛がってくれれば、彼らの生まれ故郷アメリカの国民も誇りに思ってくれるはず。」同時に、その頃の彼らが高く評価されるグループたり得たのは、舞台上での4人そろった有り様、一人一人の音楽的スキルとその組み合わせ、これらがあればこそであった。それが取り沙汰されたのが、1966年の秋、ヨーロッパツアーから帰国後に参加したニューポート・ジャズ・フェスティバルでのことである。この時、キース・ジャレットはピアノ独奏にも挑戦し、ジャーナリストのホイットニー・バリエットをして、異例の称賛を得た「ロイドはジャレットに1曲自由に任せた処、長くて、複雑で、感情表現満載の一品を仕上げ、驚異的かつ高い独創性を感じさせてくれた。これ程のワーグナー風の和声の厚みを持つ演奏ができるのは、セシル・テイラーとデイヴ・ブルーベックくらいだろう。」モントレージャズフェスティバルでは、バンド自体も、このフェスの主な注目株の一つだった。このカルテットは、若いファン層の万華鏡の如き耳に相応しく、虹色の如きサウンドを持っている。なんとしてもジャズを孤立から抜け出す道への壁をぶち壊したかったのである。 

 

彼らの演奏に耳をそばだてたマイルス・デイヴィスは、その時の印象を全て胸に秘め、2年後に「イン・ア・サイレント・ウェイ」と「ビッチェズ・ブリュー(好色女の秘薬)」をリリースする。フリージャズの急進派煽動家達の抵抗にもめげず、ジャズの世界に究極の新スタイルを樹立した銘品である。マイルス・デイヴィスは1945年(19歳)にはチャーリー・パーカーと共演し、ジャズをアメリカ生粋の芸術にまで高め、その後新しいスタイルのジャンルが出てくるたびに影響を与え続けた。だからこそ、そのスタイルを学ぶ上で、この2枚のレコードは、ベテランも駆け出しにとってもフリーパスのようなものなのだ。 

 

 

 

新しい音楽のスタイルが世に認められるには、それが完全に未知のものであるか、過去に対する明確な反逆であるかを、感じ取れる開拓精神溢れる者達が必要だ。更にいうと、そこに権威信頼の厚い人物が現れて(牧師さんのような)、「新しい」を祝福してくれないといけない。エディ・ハリス、アーマッド・ジャマル、そして特に「イン・クラウド」のラムゼイ・ルイスなどは、しつこいくらいのベースとドラムによるリフや、本当にエンドレスなモチーフの繰り返しを引っさげて、チャールズ・ロイドが入り込もうとする同じ方向へと向かっていた。それも、何でも有りのヒッピー達(フラワーチルドレン)の助勢を受け、人々を魅了するジャズ・ロックの音楽を広めつつである。最終的には、「牧師さんのような」の親玉であるマイルス・デイヴィスが、天下御免の「ウィッチズ・ブリュー(魔女の秘薬)」を引っさげて、新しいスタイルの承認として、洗礼よろしくこれを頭に塗るのだ。祈りの言葉を捧げるのは、ギター奏者のラリー・コリエルである「マイルス・デイヴィスジョン・コルトレーン、そしてジミ・ヘンドリックスの間にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。みこころのニューオーリンズになるごとく、ニューヨークにもなさせたまえ。我らの日々の転調を、今日も与えたまえ。我らソリストのバックで転調を間違える者を、我らがゆるすごとく、我らソリストのバックで転調を間違える罪をもゆるしたまえ。我らをディスコにあわせず、金儲け主義より救いだしたまえ。アーメン。 

 

ジャレットが所属するチャールズ・ロイド・カルテットは、当初穏やかにまとまっていた。なぜなら、全員が互いに距離を適度に保ち、お互いをほぼ無条件に理解し容認したからだ。ドラムのジャック・デジョネット、ベースのセシル・マクビー(間もなくロン・マクルーアと交代)、キース・ジャレット、そして天才教祖チャールズ・ロイド、この4人はジャズ・ロック初の「スーパーグループ」と目された。キース・ジャレットは3年間に8回のレコーディングにバンドとともに参加している。その内スタジオ録音はたったの2つ。1966年の「ドリーム・ウィーバー」と1969年の「サウンドトラック」である。その他は、モントレージャズフェスティバル、フィルモア・ウェストオスロ、そして旧ソ連のタリンでのライブ音源だ。今聞いても、特にライブ音源には、バンドから聴衆へと届いたであろうほとばしる火花が、ものすごく感じ取れる。このカルテットの成功が示すように、ロックのファン層は、新しいサウンドを耳にしても、ミュージシャン達のステージ上での姿やライブ等が行われる場所が、自分達の求めるものに一致するか、少なくとも馴染みのあるものなら、門戸を開けてくれるということだ。このカルテットは、後のマイルス・デイヴィスが編成したバンドにも同じことが言えるが、実際には、ジャズの純正主義者達が糾弾するほど、自分達の音楽的価値観を妥協してなどいないのである。依然としてチャールズ・ロイドのバンドは、ロックミュージシャン達が生命維持装置にコードを差し込むようにアンプにプラグを差し込んで、そうでないと息ができないかのように振る舞う一方で、電気のカケラも必要としない「アコースティック」バンドであり続けていた。 

 

ロイドのカルテットの最初のレコーディングは、結成1ヶ月後に行われた。収録曲はいずれも、延々と続くロックのリズムやモチーフの繰り返し、或いは胸ぐらをつかむような音圧とは、全く出発点が異なるものだ。その一方で、初期のジャズの形式に則り主題のコード進行に従ってインプロヴァイゼーションをする手間暇は、めったにかけない。「ドリーム・ウィーバー」にはそういう曲は一つも収録されていない。おかげでジャズ純粋主義者達に攻撃の口実を与えてしまっている。LPの締めの曲「ソンブレロサム(帽子をかぶったサム)」は、ラテン・アメリカならではのリズムの鼓動や、表現と音色において打楽器風の作り込みをしている。それでも意識して贅肉を落としたパフォーマンスは、キース・ジャレットならではである。この曲も「ジャズの目次」には載らないだろう。コード進行に気分良く乗っかっているジャズミュージシャン達にとっては、ニューオーリンズでの創成期からディジー・ガレスピーによるビ・バップの時代に至るまで、南米あるいはカリブ海諸国のリズムは、魅力あるものとして歓迎しているのだ。1960年代、熟練のジャズミュージシャン達は、この手法を、当時ファン層を巨大なものにしてしまっていたビートルズに対する、魅力あふれる対抗策として取り入れた。「なんでもござれ」のロックや歌謡曲に効果的な対抗策として、ブラジルのボサ・ノヴァやサンバを取り入れたのが、アントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルトといったところ。スタン・ゲッツサクソフォンチャーリー・バードのギターとの組み合わせも行われた。 

 

 

お互い共鳴しあって聴きあい、新旧関わらずあらゆる形式にジャズを採り込み、多様なインプロヴァイゼーションや個々の発想や全体のコンセプトをすべてバランスを取る方法を見いだせる、しかも聞く人を恍惚とさせる盛り上がりをつくりだすことも怠らない、そんな事ができるジャズというアンサンブルならではの、理想的な事例が、他の収録曲に見出すことが出来る。3部構成の組曲「オータムシーケンス」(ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」からヒントを得たもの)は、まず穏やかに、空想でも浮かべる感じで、自由な感じの装飾的なフレーズが聞こえてくる。演奏するのはチャールズ・ロイドのフルート。これに他のメンバーが、キラキラと美しい飾りを巻きつけてゆく。ひとしきりのフルートソロのあと、すぐさま「枯葉」のモチーフへ。ロマンチックな雰囲気はどこへやら、音圧のあるキース・ジャレットのピアノソロが力強いベースとドラムのスウィングに乗って現れる。短いモチーフからまとまった形の主題へとインプロヴァイゼーション作ってゆくやり方メロディやリズムの断片が出て来たときの間のとり方、それを演奏しつつ、繰り返される時は「圧」を高めてゆくやり方、ハーモニーを次々展開させて無調性になるまでもってゆくやり方、そして曲全体に対するコントロールを意思じつつ細かな激しい音型を弾き流し続け音色に荒々しさを出してゆくやり方、いずれも実に印象的だ。これらはこの曲だけでなく「ドリーム・ウィーバー」や「バード・フライト」でも発揮されている。だがこういった演奏の仕方が人々を魅了するのは、例えて言うなら、それが描かれている大きな一枚のキャンバスに対して、何人もの他のミュージシャン達の影響という絵筆が入っているからである。チャールズ・ロイドのサックスには、ジョン・コルトレーンのフレーズの歌い方とアルバート・アイラーの賛美歌のような表現が感じ取れる。セシル・マクビーの奏でる数々のベースラインは、ちょっと聴いただけでは音楽的な空白状態を生んでしまっているように思われがちだが、そうなるギリギリのところで、ジャック・デジョネットの安定感のあるドラムの推進力で持ちこたえるのだ。 

 

これよりも、更に注目すべきは、ライブ音源だ。様々なフェスや、フィルモア・ウェストでのものは、聴衆の反応も聞くことができる。モントレージャズフェスティバルの「ソーサリー」などは、キース・ジャレットが強烈なリズムビートを繰り返し弾きまくり、曲の出だしから熱狂の嵐を巻き起こしている。だがステージ上で、聖ウィトゥスのダンスのように、何かに取り憑かれたようなパフォーマンスをガチで見せるのは、ジャレットだけではない。メンバー4人共様々なパフォーマンス面の個性を持っているが、実際にはお互いガッチリ結びつけあっている。そうすることで、伝統的な「ソロ(主役)と伴奏(脇役)」という発想をかなぐり捨てて、その上で、パワー全開の発電所のような圧倒的な印象が生まれてくるのだ。こういうのが以前には、彼らの先輩格のレジェンド的なバンドで、人数は一人少ないビル・エヴァンス・トリオ(ビル・エヴァンススコット・ラファロポール・モチアン)にも聞かれた。チャールズ・ロイド・カルテットは4人の奏者が対等の力関係で、正に爆発寸前まで盛り上げてゆく。この猛烈な力技の中核がキース・ジャレットジャック・デジョネットの二人である。彼らはあくまでも音楽的に、なおかつ自己制御をしっかりとって、互いを感じ、相手とのやり取りをし、同時に音楽を前へ推進してゆくのだ。二人が自然と理解し合えたのは、おそらく次の要因もあるだろう:デジョネットは10年ほどシカゴのACM(American Conservatory of Music)という音楽院でクラシックのピアノを学び、キース・ジャレットは元からドラムが大好きで、遊びでなく本格的にマスターしたという背景がある。 

 

フィルモア・ウェストの大半のお客にとっては彼らのサウンドはそれまでにないものだったに違いない。キース・ジャレット初のソロレコーディング曲「ラヴNo.3」のような楽曲に対して、フィルモア・ウェストのお客は大きな感銘をうけた反応を示している。これは、その反応が、単に音楽それ自体だけでなく、ミュージシャン自身の圧倒的な存在感、ことキース・ジャレットの場合、ピアノを前にした佇まいも、その要素であることを裏付けている。ピアニストの歴史上、奏者の本質を理解する上で、音だけでなく姿も捉える必要があったピアニストは、そう滅多にお目にかかれない。キース・ジャレットが小さいブルースのカケラ(モチーフ)を手にすると、それを様々な音詰まった玉手箱に仕上げ、複雑なリズムを次々と積み重ね、文字通り楽器(ピアノ)の心臓部へと入り込み、古くなった記憶装置を更新するかのようにメインの主題を塗り替え、ハーモニーを付け直し、ピアノをドラムセットのように扱い始め、全く当たり障りのないモチーフを弾いたかと思えば、ルール無用のフリージャズの極致に走ったり、それこそセシル・テイラーのように発作的な演奏ばかりするようなプレーヤーでさえ今までしたことのないパフォーマンスを見せる。これら全ては、後になってキース・ジャレットが単独コンサートで見せた偉業を垣間見ることのできるものだ。 

 

 

だがここでビックリすべきは他にある一貫性だ音楽面での、文章の筋の通り方というべきか聴き手いちいち頭を捻らなくても理解できるのだ。ここで、またもや、古臭いスタイルだの、昔ながらの方法や技術がキラリと光る。まるで、考えが溢れかえって頭が煮詰まった人間にとって、最もシンプルな方法とは、薄味のラグタイムシンコペーションから、ビ・バップのオフビートへと飛び移るか、はたまた、「印象派こそ最高」という発想と、苦し紛れで思いついたプリペアド・ピアノのスカスカの仕組みとを、比べるしか無い、と言わんばかりだ。何が一体より印象的かについては、なかなか決し難い。キース・ジャレットの、何でもまとめ上げてしまう音楽の力か?はたまた、「何でもまとめ上げ」た彼の頭の中を、難なく、誰が見てもわかりやすい形に変換してみせる天賦の才能か?他のアルバムの収録曲も同様に、印象的に証明してみせたものがある。本物の「ワールド・ミュージック」というものが、あらゆるジャンルを懐深く採り入れる力を持っている、ということだ。ジャズの素材、前衛音楽、アメリカのエンタメから巧みに引用したもの、熱気あふれるゴスペルサウンド、それとジョン・レノンポール・マッカートニーの「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」のような最新の流行歌などだ。ジョン・レノンポール・マッカートニーはジャズを採り入れることにはオープンで、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの公演に参加したことからもそれがわかる。 

 

以上のメンバーで構成されたチャールズ・ロイド・カルテット過ごした1966年から1969年までの3年間は、華々しい出来事が満載で、全ての関係者のキャリアにとっても重要なものであった。この名声絶頂期に解散した理由は、ここまでの話とは全く関係ないのだ。音楽面でのコンセプトが底をついたというよりも、人の弱さが理由である。イアン・カーによると、チャールズ・ロイドは、新時代のミュージシャンとして、人々を熱狂の渦に巻き込み、「愛のヴァイブレーション」を発信する一方で、依然として昔気質のバンドリーダーだったのだ。身分制度の頂点に立つ親玉として、自分は飛行機で移動、メンバーは車で移動。自分は大金をせしめ、メンバーには現ナマをチョコっと渡すのみ。最初のヨーロッパツアーの際、全員に週当たり75ドル(現在の貨幣価値で1ドルは約1600円)が支給され、各自必要経費はそこから出すようになっていた。ボスが結局何ドルせしめていたか、コネチカット州のウエスレヤン大学での2時間の公演の後で判明する。支給される全額の3,500ドルが、ベース奏者のロン・マクルーアの手に渡された。彼はすぐ計算し、各々が100ドル、全体の15%がマネージャーとすれば、金額が割り出せた。この公演の後、ギャラは以前よりはフェアに支給されるようになったが、ここで広まった不信感が、徐々にカルテットの雰囲気に暗い影を落とし始めた。1969年、ジャック・デジョネットは話し合いの決裂を受けて退団(数回の本番をポール・モチアンと交代)、同じくキース・ジャレットも去ることになった。ベース奏者のロン・マクルーアは、60年代最高のバンドの哀れな最後を、次のように回想している。後にチャールズ・ロイド・カルテット最後の本番となる公演終了後、ロン・マクルーアはマネージャーに、次回以降の本番の予定を確認すべく電話をかけた。ジョージ・アヴァキアンはこう答えたという「何だ、知らないのか?チャールズはスラッグス(マンハッタンのジャズクラブ)でやってるよ。別のバンドを結成してね。」 

 

 

ロイドはバンドを解散した。他のメンバーには一切予告なしだった。チャールズ・ロイド・カルテットは長きに亘り、まばゆいばかりの心躍る音楽によって世界中の称賛を受け、そしてここに、誰も予想しなかった幕引きを、なんの音沙汰もなく、してしまったのだった。

Keith Jarrett伝記(英語版)2章(pp.23-26)

2.ジャズへと向かう3つのステップ: 

アート・ブレイキー、チャールズ・ロイド、マイルス・デイヴィス 

 

ミュージシャン達がニューヨークに望むもの、それは夢の実現。ミュージシャン達をニューヨークで待ち受けるもの、それはこんな現実「ジャズミュージシャン達と経験したことが一つある。それは、彼らがいつも失業状態にあったことだ」しとやかな言い方だが、ニューヨークという「群像風景」の中で、ひときわその名を輝かせた、ジャズミュージシャン達の女神にして、セロニアス・モンクの愛人、そしてチャーリー・パーカーの死に水を取ったとされる、ニカ・ケーニヒスワーター(通称「バロネス(男爵未亡人))の言葉である。ロックミュージックが席巻し始めてからというもの、特に1964年のビートルズによる「全米攻略」以降、ジャズは脇役へ後退したというか、陳列棚の端へ追いやられた。それまではジャズを聞くお客さんは沢山いて、デイヴ・ブルーベックジェリー・マリガン、或いはチェット・ベイカーといったアーティスト達の新曲リリースを心待ちにしていたのに、だんだん姿を消し始めるにつれ、ジャズは今や、社会的に孤立無縁な者の常である、一人悶々と物申す状況に追い込まれた。 

 

これより、ジャズのクラブは次々と店を閉め始め、代わってディスコが次々と姿を見せ始める。大物アーティスト達は、アート・ファーマージョニー・グリフィンのように、活動の場を求めて海の向こうのヨーロッパへ向かう者もいれば、身の置き場を求めてブロードウェイのオケピットへ向かう者もいた。この頃、各音楽雑誌は、「在りし日のジャズ」などと、性急にも死亡記事がごとき掲載を始めた。ことが進展したきっかけの一つは、1960年頃ニューヨークで開催された「ジャズの10月革命」に触発を受けたオーネット・コールマンドン・チェリーそしてセシル・テイラーといった、フリージャズによってジャズ界にくさびを打ち込んだ者達だ。そんな最中の1964年の年の瀬、若干19歳のピアノ奏者キース・ジャレットと、その幼妻・マーゴットは、ジャズの世界で活躍する場を求めて、この夢の残骸が散乱する街へとやってきたのだ。 

 

こういう状況では、「払って頂ける額で十分です」というミュージシャンが求められるものだ。だがキース・ジャレットは違う。ジャズの真髄を奏でるべく、インプロヴァイズ、或いは作曲も、いずれにせよ、自分と愛妻が食っていくためだとしても、「エンタメ」は永久放棄したのだ。彼の選択は「愛の巣」にこもること。暇を持て余し、ドラムの練習をし、その間、デザインを学んだマーゴットの電話交換手のバイト代を当てにして、彼曰く・臨時休業中の芸術家様は、空腹を抱えていた。彼とて、やむなしの「暇を持て余し」状態である。状況が以前と比べて複雑なのだ。かつての「無限の可能性を秘めた国」が連想させる状況は、もはや「神話」であった。ニューヨークには音楽家の組合があり、ここへの加入が求められた。クラブでギャラをもらって演奏したければ、加入後最低4ヶ月間待たねばならない。だがそれ以外の方法では、このニューヨークという、大切なものを奪い去る街で、アレンタウン出身のキース・ジャレットなんて誰も知らないというのに、「ジャズの歴史を書き換えてやる」と意気込んで、そこそこの演奏機会をモノにするなど、無理な話というやつだ。 

 

自分達の下宿を「愛の巣」とは、清らかなものの言い方だ。まだ若いこの夫婦が、スパニッシュ・ハーレムに居た時にせよ、ロウアー・マンハッタンに居た時にせよ、脳天気な親戚連中が田舎から「愛の巣」に押しかけてきて、そのおもてなしをする必要がなかったことは、幸いだった。特にキースはヴィレッジヴァンガードやザ・ドムといったジャズクラブでのジャムセッションで、店のミュージシャン達からお声がかかるのを、辛い思いをしながら毎晩待っていたのだ。ザ・ドムだけでも、彼はクラリネット奏者のトニー・スコットや盲目のマルチサックス奏者であるラサーン・ローランド・カークと言った面々と出番待ちに甘んじていた。数カ月間、待ちの試練にさらされたところで、たまたまバークリー音楽大学の卒業生の一人がヴィレッジヴァンガードに出演する際、ピアノ奏者がいないということで、キースに出演のお声が、ようやくかかった。 

 

これぞまさに、シュテファン・ツヴァイクが著書「Sternstunden der Menschheit」(歴史が決まった瞬間)でいうところの、思わぬ星のめぐり合わせが、重要な転機へと導く、というやつだ。もっともこの場合は、人類全体に関わる話ではないが。ヴィレッジヴァンガードは、まだ駆け出しのミュージシャンの登竜門として評判をとっており、有名ミュージシャンも好んで足を運んでは、面白そうな輩を探しに来ていた。1965年のある秋の夕暮れ時、やってきたのが、あのアート・ブレイキーだったのだ。彼はキース・ジャレットのピアノをわずか10分耳にしただけで、新しく結成するジャズメッセンジャーズへ彼を招待した。同じような誘われ方をしたのが他にも居て、トランペットのチャック・マンジョーネ、テナーサックスのフランク・ミッチェル、そしてベースのレジー・ジョンソンだった。迎えるアート・ブレイキーはドラム奏者でバンドリーダー、年齢は「アラフィフ」、先程の3人の倍くらいの年齢だ。 

 

キースがゲスト奏者としてアート・ブレイキーのバンドに厄介になっていたのはわずか4ヶ月間だった。しかしこの間、ブレイキーのような大名人とされるジャズミュージシャンも、地方巡業で稼ぐとなると、こうなる、という空気感を知るには十分であった。彼らミュージシャンにツアーマネージャーを加えた全員で、だだっ広い国内を、一台の車の中に楽器や機材とともに詰め込まれ、巡業で回る。彼らはいつもヘトヘトだった。何しろ、交代で車を運転し、終わっても豪華なスイートルームが待っているわけではないのだ。それでも、ブレイキーと関わりを持ったことは、キース・ジャレットにとって願ったり叶ったりであった。お客さんを前にしてインプロヴァイズを聞いてもらえる機会があって、かなり才能に恵まれたミュージシャンであることを実証し(ドサ回りの車の、硬くて座り心地の悪い椅子なら、3歳の頃からピアノ椅子で慣れ親しんでいる)、しかもそれを、ジャズの世界で高い評価と強力な発信力を持つバンドを通して、世間にお披露目出来たのである。 

 

ジャズ・メッセンジャーズが結成されたのは1954年。ピアノ奏者のホレイス・シルヴァーがその中心メンバーだった。ハードバップという、当時新しく生まれた骨太のスタイルを持つジャズの、教科書的な存在だ。発生はアメリ東海岸で、当時ハリウッドの音楽スタジオなどで盛んに演奏された「クール・ジャズ」という、アイロンがけしたようにスムーズな音楽に対抗するものと目されている。明らかに1940年代のビ・バップへの揺り戻しだが、異なる点もある。よりシンプルな仕組みのハーモニー。そして素材も、アフリカ系アメリカ人の歌、例えばブルースやゴスペル、あるいは「仕事歌」などから採られている。ビ・バップは後期になるとあまりに小難しくて、エリート意識丸出しで、複雑怪奇だと時に批判されるようになったが、ハードバップはそのような批判は無縁で、生き生きとして、ストレートで、聞いていてうっとりさせてくれる、とされた。音楽雑誌「ダウン・ビート」によれば、アート・ブレイキーはドラムに「自然体で向きあい」、こだわりのない心持ちで、アンサンブルするメンバーにとって文字通り「原動力」だった。各コーラスの締めに添える華麗な「プレスロール」(スネアドラムの技法)、耳に残る独特なハイハットは、常に聴く人の心を掴み、ワクワクさせた。そんな彼の音楽や率いたバンドにとって最も大切な刺激をもたらしたのが、彼より1歳年下の、「ビ・バップの父」チャーリー・パーカーだった。パーカーが亡くなった1955年3月12日当日、アート・ブレイキーはパーカーの様子を見にニューヨークのアパートを訪れている。その時アートは、バード自身のレコードの最高傑作はどれだと思うかと彼に訊ねたところ、「まだ出来上がっていないよ。今ちょっと新作に取り組んでいるのさ」と答えたという。 

 

そう言われたアート・ブレイキーの方も、新しいミュージシャン達と、常に「新作」に取り組んでいた。1965年に新たなメンバー編成となったジャズ・メッセンジャーズでは、彼は「いつまでも同じ連中」とはやりたくない、として次のように述べている「常に新しい音、新しい人を求めていなければいけない。一つのバンドが録音したら、次のバンドが同じような演奏になってはいけない。各バンドが、新鮮なコンセプトと前進する意思を持って、各々独自色を出さねばならない。」常々彼は、若手との共演は頭を活性化する、といっている。当時、テナーサックス奏者のフランク・ミッチェルが19歳、キース・ジャレットが20歳(1つ上)、チャック・マンジョーネとベース奏者のレジー・ジョンソンが26歳。これら若き大物達のおかげで、アートは自身のミュージシャンとしての緊張感を常に保つこととなった。 

 

1966年1月、メンバーを一新したジャズ・メッセンジャーズは、カリフォルニア州ハーモサビーチにある名門クラブ・ライトハウスカフェでのコンサートを開催。このライブ録音が制作され、思わぬ幸運となった。ジャレットにとては初めての本格的なアルバムとなったこの作品は、彼の若さあふれる多芸ぶり、音楽に対するイマジネーション、そしてずば抜けたインプロヴァイゼーションの産物、これらに早くも太鼓判を押すことになる。1曲目はアルバムタイトルでもある「バターコーン・レディ」。軽快なカリプソトリニダード島の黒人音楽)で、ジョージ・シアリング風のピアノのイントロ、リラックスした感じのホーンセクションによるぶっつけ本番の演奏、そしてジャレットのソロ。こちらはジョン・ルイスを思わせるような、今風で言えば「指一本で検索」的な無駄のないスタイルに基づくもの。聴く人を、リラックスした「カリフォルニア・ドリーミング」の世界観あふれるアルバムの中へといざなう。ところが、2曲目の「レクエルド」(想い出)になると、打って変わって、スペイン・カスティーリャ地方の深い古井戸を彷彿とさせる雰囲気になる。チャック・マンジョーネのミュートトランペットによる奔放なリズムのイントロは、マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」とセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」をあわせた空気感が漂う。これにジャレットが続く。ピアノの蓋を開けて中に手をつっこみ、中の弦を弾いて、呪文を唱えるようなアルペジオ(分散和音)を鳴らす。この時、中の弦はミュートをかけるのだが、それはまるで、ジョン・ケージの「プレペアードピアノのためのソナタとインターリュード」へ、ジャズ奏者として、彼に対して敬意を表しているかのようである。こういった素晴らしい音の数々を盛り上げてゆくのがアート・ブレイキーだ。ティンパニマレット(フェルトのついたドラムのバチ)を使っって、トムトムで3連符を弾き続け、その低く唸る音は、さながら「音の嵐」の接近を思わせ、今にも大爆発して大騒ぎが始まろうとする雰囲気を醸し出す。 

 

残りの収録曲は、いずれもハードバップの手法を用いたものだ。簡素なモチーフが2つの管楽器によって演奏され、曲が展開されてゆき、そして元のモチーフに戻るべくカラ元気なコーラスが聞こえてくる。彼らホーンセクションが極上の快適さを感じていなかったというなら、折角キース・ジャレットがブロックコードを目一杯音数をつけて演奏したのに、彼らの不快感は手の施しようがなかったことだろう。ジャレットが間違いなく自らの音楽スタイルを確立したこと、彼のフレージング(表現の付け方)が斬新なものであること、これらがよく分かるのが、最後の収録曲「シークレット・ラブ」だ。スタンダードナンバーをアップテンポにして演奏している。作曲者のレニー・トリスターノのクールなセンスに加えて、彼が一つひとつの音を徹底的に磨き上げて、最後に糸を一本通した仕上がりは、まるで真珠の首飾り。だがそれは「首もすっ飛ぶような」猛スピードで演奏されているので、並の奏者にはとてもできない。アート・テイタムの名人技、ビル・エヴァンスの至高の感性、そしてポール・ブレイの神秘性、これらが全部一つに溶け合い、キース・ジャレット独自のスタイルとなった、そんな感じがする。あの日、ハーモサビーチのライトハウスカフェに集まった180余名ほどの観客のうち、先見の明のある者達は、舞台上にいるピアノ奏者が、ジャズのピアノ、いやさジャズそのものの進化をもたらすかもしれない、と気づいたことだろう。 

 

キース・ジャレットが、このバンドでは自分自身の望む方向に進む後押しにはならない、と感じていたことは間違いない。あらゆるバイタリティを備えているが、所詮その音楽のピークは1950年代(10年一昔前)のものだった。それに、この頃ジャレットは、ドラム演奏に対する独自の考えを持っていて、ブレイキーのそれとは相容れないものだった「実際、ブレイキーとの共演は楽ではなかった。私自身がドラム奏者であり、私のコンセプトは彼と真逆で、断ち切ろうと思っても無理な葛藤だった。」この葛藤は、間もなく終わりを告げる。ニューヨークのファイブスポット、そしてボストンのとあるクラブ、いずれもブレイキーとの契約終了にあわせ、チャールズ・ロイドのバンドが後任に入ったのだ。 

 

 

ドラム奏者のジャック・デジョネットは、以前ニューヨークでキースの演奏を聞いたことがあった。彼はチャールズ・ロイドの元への加入に際し、新しいバンドリーダーにピアノ奏者としてキースを推薦した。何ということか、ここから先に記すことは、「虫の知らせ」が関係者全員にあったとしか思えないことである。ジャレットはジャックに先んじて、チャールズ・ロイドに対し、ブレイキーの元を脱退し、ロイドの元への加入の可否を打診していた。ロイドはジャレットの顔と名前を記憶にとどめていた。ボストンの、とあるカクテルバーで彼の演奏を耳にしたのだ。バーの雰囲気をものともせず、キースの記憶はロイドの頭に残った。そしてデジョネットがキースを推した時、ロイドはキースのことをちゃんと思い出したのである。新しいジャズバンドをひとつ立ち上げるのに、こんなにも立ちはだかるはずだった数々のドアが、すでに開け放たれているなんて、滅多にあることではない。正に音楽の赤い糸のお導きである。

Keith Jarrett伝記(英語版)1章(pp.18-22)

<18頁写真脚注> 

スタン・ケントンクリニックにて(1961年、キース・ジャレット16歳)。気鋭の若手ミュージシャンが集まるワークショップ(原画提供:ジェイミー・エバーソルド) 

 

キース・ジャレットは16歳でエマウス・ハイスクールの卒業資格を取得(飛び級)し、ボストンのバークリー音楽大学への入学が許可された。だが彼は入学を数カ月間保留してアレンタウンに残り、その間、企業での事務仕事をしながら、ジャズミュージシャンとしての経験を積むべく、小さなクラブをいくつか演奏して回った。この間、彼は名門宿泊施設の、ザ・ディアヘッド・インから出演依頼を受けた。アレンタウン郊外数マイルのポコノ山地にあり、ここの専属トリオのピアノ奏者が病気になったとして、数週間、代打で出演することになった。人生初の、ピアノ奏者としての本格的な仕事だった。その後、彼はこのクラブに繰り返し出演し、時にはギターを弾くことさえあった。代打で出演したこの時の本番を、テナーサックス奏者のスタン・ゲッツがたまたま客席で見ていたのだ。後にキース・ジャレットは、微笑ましくも当てこすりつつ、彼がギター奏者としてやってみろと言った張本人だと語ったのである。ザ・ディアヘッド・インで最初の演奏活動をはたした、丁度30年後の1992年9月16日、そしてこの頃までには同世代ではピカイチのピアノ奏者として認められたジャレットは、かの地で再びトリオのコンサートを披露した。この時はベースがゲイリー・ピーコック、ドラムスがポール・モチアンであった。このコンサートで、彼はこの伝統あるクラブとそのオーナーに、「良い音楽」であるとして敬意を表したのである。 

 

1962年に話を戻そう。地元のジャズ関係者であるフレッド・ウェアリングがキースの演奏を耳にして、ザ・ディアヘッド・インでの契約が終了すると同時に、彼のディキシーランドバンドへの入団をオファーした。後にウェアリングは、自身の率いる「ペンシルベニアンズ」というバンドのツアーに奏者として参加するよう声をかけている。すぐ引き続いて、ジャレットは自分が代打を勤めたピアノ奏者のジョニー・コーツと共演した。キースは難なく役割をチェンジし、ピアノではなくドラムを叩いてみせた。 

 

 

この本番のすぐ後、1962年の春、ジャレットは正式なレコード制作のオファーを受ける。デッカ・レコード社がビッグバンドリーダーのドン・ジャコビーと提携し、毎年一枚レコードを制作するというもの。様々な音楽学校・音楽大学から毎年異なる学生を交代で選んで「カレッジ・オールスター・バンド」を編成するのである。フレッド・ウェアリングの仲介で、ドン・ジャコビーからキース・ジャレットに招集がかかった時、キースは自身を「学生」と称したが、実際はまだ入学手続きを済ませていなかった。同年リリースされたLPには、彼は最年少にしてバークリー音楽大学からただ一人選抜されたオーケストラのメンバーとして記載されている。このアルバムのライナーノートを執筆した、当時「ダウン・ビート」の編集者であったチャールズ・スーバーは、ジャレットの多芸な演奏を「興味深く独特な」と描いている(真意は色々考えられるが)。これに続けて、彼は更に謎めいたことを書いている。それは、彼がバークリー音楽大学での学生生活を始めていないけれど、入試は突破した、というのが本当なら、その場合にのみ意味を成す一文である。「彼はバークリー音楽大学の実技試験に際しては、母親が伴奏を弾き(ジャコビーではなく)、ブラームスの協奏曲、ガーシュウィンの作品、そして数曲自作のジャズの曲を素晴らしく弾ききった。」 

 

 

このアンサンブルのメンバー18名を見てみれば、キース・ジャレットとドン・ジャコビー(ベニー・グッドマンやレス・ブラウンと共演し教育者としても素晴らしい)以外は誰も、後にジャズの殿堂に入ってきそうな面々はいない。キース・ジャレットは、これ以前にレコーディングスタジオなる所に足を踏み入れたことがない。また当日演奏をともにするメンバーとは誰一人とも面識がない。彼が感じたことは、カウント・ベイシーのコード数個を除いては、ピアノの譜面は基本的に何も中身がないということ。ジャレットはバラード演奏に際しても装飾音形を入れていいとされたが、それでも音楽自体はバンドリーダー自身のやり方に制限されている。収録曲はビーバップの作品の典型的なアレンジで構成されている。チャーリー・パーカーの「ラヴァー・マン」、ディジー・ガレスピーの難解にしてテンポの速い「グルーヴィン・ハイ」、ミディアムテンポのスウィング曲が数曲あって、そして「アネマ・エ・コーレ(魂と心)」のようにホロっとさせるような曲をジャズ風にアレンジしたものが数曲。だがバンドリーダー自身が関わるトランペットのコーラス(メロディを担当する曲の部分)がいくつかあるのを除いては、演奏者がインプロヴァイゼーションをする余地は殆どない。 

 

キース・ジャレットが取った行動は、こういう楽曲を扱う楽団においてピアニストがとるべき賢明なものだった。一歩引いて、あまり弾きすぎず、ブラスセクションのコーラスの合間に時宜を得てコードを鳴らし、後方でお行儀よくしていること。装飾音形を入れてもいいよ、とされたバラードにしても、対旋律や装飾音形を、入れるにしてもチョコチョコ。ところが、バラードのうちの「Young Man With The Blues」と「Just For A Thrill」だけは、そのイントロの部分で、後に彼が一流のプロとなってふんだんに魅せる素晴らしいスタイルの片鱗が、すでに聞いて取れるのである。彼は、ホーンセクションが必ず鳴らすコードをメロディックなフレーズにして、そっくりそのまま、それも極めて繊細なタッチで演奏する。一つひとつの音はもたれ気味だが、アーティキュレーション(スラーやスタッカート等の付け方)は誰が聞いても明確に。そしてホーンセクションが何かしら特徴的なモチーフを演奏する場合、彼もその吹き方を共有し、右へ倣えで従う。「何がすごいの?」と思うかも知れないが、経験豊富なミュージシャンが聴けば、もう耳はピクピクしっぱなし、そのピアノ弾きの名前をチェックし、1,2年以内に自分のバンドにピアノ弾きが必要になったら、即獲得に乗り出すのである。 

 

フレッド・ウェアリングはミュージシャンであるだけでなく、テレビプロデューサーや出版者、そして興行主としても活躍していた。彼を通して、そして彼に同行するツアーを通して、ジャレットはビル・エヴァンス・トリオと面識を持つようになる。当時ここには、ベースのゲイリー・ピーコック、そしてドラムのポール・モチアンという、後にジャレットのバンドで一緒になる二人がいた(ポール・モチアンは最初のバンドで、ゲイリー・ピーコックは2つ目のバンドで)。彼は生まれてはじめてビル・エヴァンスの演奏を生で聞いた。ビル・エヴァンスというピアノ奏者は、当時独自のスタイルを持ち、他のピアノ奏者にとってはお手本であった。彼はマイルス・デイヴィスの革新的なレコーティング「カインド・オブ・ブルー」に奏者として参加したのだ。フレッド・ウェアリングは音楽に関して先見の明のある人だった。彼はキースに、パリへ乗り込みナディア・ブーランジェに師事するよう勧めた。彼女は世界中を股にかけるアーティストであり、彼女の薫陶を受けた欧米の作曲家は数知れず。その中には、アーロン・コープランドレナード・バーンスタイン、クィンシー・ジョーンズ、それからフィリップ・グラスもいた。パリ、そして時折アメリカで教育活動を展開するという、ブーランジェの国境をこえて取り組む姿勢と、ピアノやオルガンを演奏し、教育者として、或いは音楽理論の専門家として、その求めるものの高さは、キース・ジャレットにとっては、またとない刺激となるはずであった。だが当の本人は、このような大きな一歩を踏み出すにあたっては、依然として躊躇するのであった。 

 

仮に実際に師事して結果が出たとしても、その因果関係については誰もわからない、というのである。自由であることを好むキース・ジャレットは、他の天才的とされるアーティスト達と同様、音楽を「教え・教わる」ことに懐疑的だった。それはこの仕事を始めた時からである。なので、系統だった教育を受けるということに、あまり関心が持てなかった。音大卒よりマシな芸をするアーティストは、この世にゴマンといる。 

「マシな」人材がいた音大も、中身はただの保管庫。新進気鋭の開拓者のための授業など、あるはずもない。ナディア・ブーランジェに教わってもうまく行かなかった、という実例は存在する。キースが参加したスタン・ケントンのサマーキャンプで受けたマスタークラス(上級者向けの講習)のおかげで、奨学金への道が開かれ、キース・ジャレットは1963年にこれを受給、バークリー音楽大学への進学を果たした。 

 

 

 

 

バークリー音楽大学当時は「音楽院」)は、当時から世界中のジャズミュージシャンにとっての名門校であるニューヨークのジュリアード音楽院双璧をなすとされ、こちらはマイルス・デイヴィスが在籍するも、音楽性の不一致から「学ぶこと無し」と退学したことも有名だ。キース・ジャレットにとっては、これがある意味判断材料となったのか、バークリー音楽大学の学生として悶々とした日々を一年過ごした後、大学側の働きかけもあり、彼は退学するに至った。 

 

 

 

授業の一部(特に対位法)は、そこそこよかったのだが、他の授業については、デイヴ・ブルーベックUCLAアルノルト・シェーンベルクから十二音技法を短期間教わった時の違和感と、同じような経験を味わった。シェーンベルクは折に触れて、ブルーベックの書く譜面について、いちいち一つひとつの音について、作品中で使う理由を訊ねたという。ブルーベックにしてみれば「いい音がすると思うから」と答えるわけだ。するとシェーンベルクは、説明不十分だと一刀両断する。音の配置の取捨選択については、常に自分のしたことを覚えていて、その理由を説明できなければならない、という。それがブルーベックが最後に教わったことだった。キース・ジャレットも同じような目に遭った。ロバート・シェアの授業だ。シェアはよくジャレットの提出する譜面に赤ペンを入れては、与えられた調を転調することは出来ないと説明した。学内コンサートですでにうまくいっているものについても、である。 

 

 

 

ジャレット自身今でも自分がバークリー音楽大学から追われた理由については、大学側が恐れていたことがあるから、と思っている。それはキースが、ボストンで組んでいたトリオの、他の二人と共謀して反バークリーのキャンペーンに打って出るのではないか、というものだった。この二人はバークリーをドロップアウトしていた。だがキースの堪忍袋の緒が切れたキッカケは、学内で開いたジャムセッションでのことだった。この時、ジャレットはピアノの蓋を開けて手を突っ込み、弦を指で弾いて音を出していた。それを見た大学の事務職員が「出ていけ!」と叫び、彼を会場から追い出してしまったのだ。キースは「どーもっ、お世話になりやしたぁ」と切り返し、その場を立ち去った。この話の後日談として、ジャレットが後にドヤ顔で語ったことがある。ある年のニューポート・ジャズ・フェスティバルで、ジャレットがゲイリー・バートンと共演した時のことだった。本番終了後、あの時の事務職員がやってきて、当時の一件について平謝りに謝罪したという。ジャレットはこう返したとのこと「何をおっしゃいますか、あの退学沙汰が土台になって、今まで皆さんのご贔屓になっているんですから!」2014年1月のジャズマスターズの受賞記念スピーチの中でも、あの時の「落ちこぼれトリオ」への誇りがうかがい取れる。 

 

だが、「誇り」は1964年当時は通っていた学校に後ろ足で砂をかけた者にとっては、助けにもならないし、腹も満たせない。キース・ジャレットは退学後数カ月間、ボストンに残らねばならず、この間、例の落ちこぼれトリオは、本番の機会をうまいこと得られなかった。キースに言わせると「全米1の保守的な街」で生き延びるために、彼はやむなく、おそらく人生初にして最後の、音楽での妥協をし、カクテルバーで演奏したり、BGMの仕事を引き受けたりした。この決してバラ色の日々とは言い難い時期に、彼は高校時代の友人で、1歳年下のマーゴット・アン・アーニーと再会する。彼女はボストンのニューイングランド美術学校に通い始めたところだった。二人は再び友達付き合いを始め、やがて同じ年に結婚する。キース・ジャレットは、二人の関係発展について、不安な気持ちと故郷を遠く離れた郷愁が導いたもの、としている。さて、キース・ジャレットたちについては、事情通の間では、それほど広範囲ではないにせよ徐々に顔と名前が売れてきたとはいえ、懐具合は大して良くなってはいなかった。彼は何とかしてボストンの「檜舞台」で彼のトリオの名を上げようと、何度も何度も頑張ったが、いかんせん、中途退学という学歴と彼自身の音楽芸術に対する妥協のない価値観のおかげで、その機会は非常に限られてしまっていた。何度も何度も頑張った結果、この若夫婦は一念発起し、ツテもコネもないことを覚悟の上で、ボストンを離れた。ジャズが日々溢れる街、ニューヨークを目指して。

Keith Jarrett伝記(英語版)1章(pp.13-17)

このプログラムにはジャズはまだあがっていない。このピアノの「神童」が将来どうなってゆくか、そのカギは過去の音楽、すなわちクラシック音楽にあった。もっと言えば、世間をあっと言わせたのが、1988年のこと。この名ジャズピアニストにして、フリーソロインプロヴァイズの先駆者は、固定概念を物ともせず、世にその演奏を問うたのが、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻の全曲録音である。このピアニストのジャズにおけるキャリアがあまりに輝かしかったおかげで、彼の原点がクラシック音楽にあったことが、すっかり日陰になってしまっていたのだ。彼がジャズとともにクラシックも意識していたこと、バッハから現代に至る数々の作曲家の存在にも自らの音楽がブレなかったこと、これらは音楽評論の世界ではかなりの広範囲で想定外のことであった。 

 

婦人会での演奏の翌年以降、彼は様々な機会に人前でピアノを披露している。演奏会を開いたのが、市内の私立学校でライト・スクール。当時彼が通っていた学校で2年飛び級をしていた。そのうちの1回は、3歳半年下の弟でバイオリンをやっていたエリックの伴奏をして、バイオリン協奏曲の形で本番を開いた。その後はピンでピアノの独演会を次々と開催し、ライオンズクラブ主催によるアトランタの講堂での演奏、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン、その他様々なイベントで、その凄腕で観客を沸かせた。 

 

 

キース・ジャレットの両親は、かなり早い段階から、彼の才能を見抜き支援をしてきたことはハッキリしている。だが同時に、ひたすら自制に努めたのが、才能ある子供に対し、親がよくやらかす過ちというやつだ。アーティストの中には輝かしいキャリアの影で、人として悲惨な目に遭ってきた者達がいて、その回顧録を幾つか読んでみれば、その「親がよくやらかす過ち」がすぐわかる。レニングラード音楽院のサマリィ・サヴシンスキー教授(当時)が、後の名ピアニストで当時3歳だった弟子のラザール・ベルマンについての、1934年の評価記録を読むと、まるでキース・ジャレットの先生がキースのことを書いたような内容であることがわかる。「この少年は音程感は完璧、譜読みも完璧、鍵盤を叩く指さばきも流麗、様々な曲に取り組んではこれをよく知り難なくこなす、しかも時には目一杯心を込めて弾きこなす。本報告書では、バッハのメヌエットのうちの一つについて触れてみたい。」 3週間後、レニングラード市のコンクールが国立音楽院で開催された。ベルマンもこれに参加した。審査員の一人、アンナ・ヴラーソヴァの記録には、次のようにある。審査委員会は、彼に最大限可能な補助を与えるべきで、今後彼が力をつけてゆくに当たり、専門家をつきっきりにすべく、彼の周辺の教育環境を整備すべきである」。国家の補助と両親の「野望」が結託したこの取組の結果、ベルマンは2005年に亡くなるまで、生涯世界中で最高の演奏の場を経験することになったはずである。ところが肝心のピアノ弾き本人回顧録を読めば、この報告書に真っ向から「対旋律(カウンターアタック)が異議を歌い上げ」、彼が払った代償がよく読み取れる。「私の人生に幸せはカケラもなかった。誰にも構ってもらえてない気分だった。奴らにとって私は動作実験をしたかった機械に過ぎなかった。本当に、陳列棚に飾られた子供だったのだ。」 

 

キースは母親には恵まれていた。例えばの話、キースの2番目のピアノの先生は、デボド教授とかなんとかいう人物だった。この先生がキースに指示していたのが、他の子供達は付き合うな、優れた才能に傷がつく、というものだった。彼女はそれに気付くと、即刻この先生とのレッスンを全てキャンセルした。物理的な人生の成功よりも、モラルや倫理観に重きを置くという発想に導いた、クリスチャン・サイエンスの信者としての見解からきた判断だろう。だがこんなシンプルな事例を見てもわかるように、息子達、それもずば抜けた才能を持つキースも、ごく普通の子供時代を送ることが、この両親にとって非常に重要だったのだ。「ごく普通の子供時代を」の中には、父親の影響で、あらゆるスポーツにたいする興味、というのも含まれていた。キースの場合は、バスケットボール、卓球、アメフト、チェスからレスリングもやった。当時の彼は気付くはずもなかったであろうが、やがて彼がミュージシャンとしてのキャリアを歩む中で、子供の頃に鍛えられた体の強さは、大いに彼に味方した。 

 

キース・ジャレットには4人の弟達がいた。名前は、エリック、スコット、グラント、そしてクリスである。。いずれもミュージシャンとして活躍している。だが、下から一番上の弟を除く3人にとっては、キースのずば抜けた才能は、励みでもあり、脅威でもあったに違いない。8歳年下のグラントは、東海岸を中心にクラブやホテルのバーなどで本番をこなし、そこそこ上手くいっていた。だがその後の作家としてのキャリアの中で、彼は(例えば2002年出版の More Towels という自伝的な本の前書きと後書きにも見られるような)キースが音楽面で全然助けてくれなかった、と歯に衣を着せずに不平を綴った。3歳半年下のエリックは優れたバイオリニストであり、兄同様、神童と言ってもよかろう。スコットは兄弟達のいわば中堅どころ。1952生まれで、ギター奏者、歌手、そしてポップス音楽の作曲家でもある。キースは彼のレコーディングに数回参加しており、二人の関係が良好であることはよく知られている。一番下のクリスは1956年生まれ。兄キースの背中に最もよく食いついてきており、長年の道を経て、現在では作曲家、ピアノ奏者として、とくドイツで目覚ましい音楽活動を繰り広げている。かの地において、彼はオルデンブルク大学で研究活動を続け(これに先立ち、クリーヴランド近郊のオーバーリン音楽院を学費納付不能となったため退学している)研鑽を積み、そこで程なく後進の指導に招かれ、数年間その職責を全うした。現在はフランスとの国境近く、ドイツ南西部のパラティネート(プファルツ)に居を構えている。 

 

 

 

キースの弟達に対してキースのずば抜けた才能よりもはるかに大きな影響を及ぼしたのは、1956年頃から始まった両親の別離であったと考えられている。この間、年端のゆかぬ子供達(上は11,12歳、下はまだ乳飲み子)を抱える母親にとって、かつての安住の家庭は悪夢と化した。イアン・カーが記したイルマ・ジャレットの証言として、当時の精神的・経済的崩壊が彼女にとっていかばかりであったか、見てみよう「あの頃から困難な戦いの日々が始まった。傍らには5人の子供達。私は苦境に立たされた。死んでしまおうと考え、この子達の顔をじっと見つめた。そして思い直す。家にあるものは片っ端から売ってでも色々な支払いを済ませなきゃ。もうグチャグチャだった。とにかくこの子達を支えてゆく、そのことだけに奔走する日々が長く続いた。食べるものに事欠くこともあった。家賃がままならないこともあった。この子達を支えてゆくために、仕事のかけもちを2つも3つもぶっ通しでこなし続けた。そのことに後悔はない。」 

 

更に悪いことには円満な別れ方とはいかなかったのであるダニエル・ジャレット金銭面では手を差し伸べたがイルマとは一切口を利かず子供達とも10年間以上接触を絶ってしまったキースが大人になってからずっと後に、ダニエル・ジャレットと息子達とのコミュニケーションが再開した。初めに長男のキースが、そして後に弟達、という順番だった。彼ら5人の子供達の人間形成期に起きた両親の別離が、どれほど破滅的な影を落としたか、想像に難くない。もっとも暗い影が落ちたのが8歳のエリックだ。彼は両親の離婚後、自分が歩む方向性を見失ってしまい、習っていたバイオリンをパタッと止めてしまった。一方、キースは、自らを高めてゆかねばならない人生の時期にあって、自らが求める音楽の道という殻の中に入り込み、不仲になってしまった家族の雰囲気から身を守る術を知ることとなる。だがもう一つの側面として、本人は意識していたかどうかはともかくとして、彼の音楽の志向がこの時期に変化している。彼の音楽のバックグラウンドから、クラシック音楽は影をひそめた。15歳の時、ピアノのレッスンを完全にやめてしまったのである。その後、彼がどんどん傾倒していったのが、父の音楽の嗜好であった。それは質の高いエンターテイメント音楽、それから、ジャズである。 

 

 

<16頁写真脚注> 

キースと3歳年下の弟エリック(1954年撮影)。二人の天才少年は、時々公の場で演奏を披露していた(写真提供:クリス・ジャレット)。 

 

 

だがこの不安定な環境にあったことにより、彼が音楽に集中したとしても、家の中で落ち着いていられるわけではなかった。家族は住まいを転々とせねばならず、家の中は狭苦しくて窮屈だった。例えば、5人の子供達のうち2人が同時に練習するとか、キースが集中しようとしている間、他の連中が関係ないことで騒がしくしているとか、といった具合。飼っていた犬がピアノの周りをウロチョロしていたせいもあり、家族全員、お互いにウルさくならないよう最大限努力しても、十分とは行かなかった。ジャレット家はさながら、火薬を詰めた樽のように見えることもあった。ほんの少しのキッカケで、導火線に火がついて大爆発を起こすような状態だった。後年、キース・ジャレットがピアノのソロコンサートで、会場内の雑音にやたらとピリピリしていたのは、この頃の経験が原因でないだろうか?、ということは、わざわざ心理学的に難しく分析しなくても、皆がそう言いたくなってしまうことだろう。 

 

この頃から、キース・ジャレット他の若手ミュージシャン達と演奏活動を始める。アレンタウン及びその近郊で、バーやクラブに出演の機会を持った。だが、ジャレット自身が言う「退屈極まりない街」だけに、ある程度キチンとした演奏の機会が十分あるとは言えなかった。かろうじて、マット・ガレスピーという人物が率いる、そこそこのビッグバンドがあり、ジャレットはそこに参加し、学校のパーティーや地域のお祝い事といった場で、演奏経験を積んでいった。程なく、彼は人生初の、ジャズ史の巨人の一人と出会う機会を得ることになる。デイヴ・ブルーベックである。キースは以前彼のコンサートを見に行ったことがあった。キースはブルーベックが様々な音楽をピアノにアレンジする手法を、徹底的に勉強した。その結果、音楽的なコンセプトをしっかりと凝縮できれば、派手な超絶技を弾きまくらなくても、聴き手が納得するものは作れる、という結論を出したのだ。同時に、これがジャレットにとって、良い音楽の目安として刻み込まれたと考えられる。 

 

他にも、彼をジャズミュージシャンの道へ、更にまっしぐらに走らせるキッカケがあった。ミシガン州立大学での、スタン・ケントンによるサマーキャンプ(夏の音楽講習会)である。彼はこの講習会を雑誌「ダウン・ビート」(世界中のジャズマニア必携の本)で知り、1週間の参加を決めた。この講習会では、若手ミュージシャン達が少人数のアンサンブルを組んで、スタン・ケントンバンドのメンバー達や、ノーステキサス大学の教授陣の指導を受けたり、ノーステキサス大学のビッグバンドが試奏するための作品を、受講生が実際に書いてみたりした。キース・ジャレットはノーステキサス大学のビッグバンドのために、「カーボン・デボジット(エントツ内の燃えカス)」という曲を、ピアノ譜を書いてバンド譜にアレンジした。これが成功を収め、ミネソタ州から来ていたあるバンドのリーダーが、自分の楽団で演奏したいからと言って、譜面の購入を申し出たのだった(売買取引自体は成立しなかった)。ジャレットはこの作品を出版することはなかった。その講習会のすぐあと、彼はインディアナ州でのジャズクリニック(勉強会)を訪れた。そこでスタン・ケントンバンドのメンバーの一部と再会する。メンバー達にとってキースの印象が相当強かったのだろう、彼はその場でコンサートでの演奏参加を招待され、アトランティックシティ(ニュージャージー州)とポッツビル(ペンシルベニア州)での2公演をこなしたのだった。16やそこらのミュージシャンには考えられない名誉である。キース・ジャレットがこれ程の短期間に達成した、高度な音楽性を世に披露する、衝撃的な出来事だった。

Keith Jarrett伝記(英語版)1章(pp9-13)

1.アレンタウンに育つ 

 

ペンシルベニア州アレンタウン、といえば、アパラチア山脈山麓に広がる丘陵地帯にある町だ。ふらっと訪れるような場所ではない。行かなきゃ!と決めて訪れるような場所だが、果たして誰が好き好んで?という話である。ここは工場の町で、人口は12万人。アメリカで何番目に大きいか、といえば224位と下の方。で、上位に(非公式)入る要素もある。「最も保守的なコミュニティ」として、これが12位だ。 

 

ビリー・ジョエルが1982年にリリースしたアルバム「ナイロン・カーテン」でこの町に捧げた曲がある。政治通の彼は、きっとベルトルト・ブレヒトの言葉を意識していたであろう「辛い時に歌なんか歌うか?」ブレヒト自身がこう答えている「歌うとも、辛い時のことをね」。 

 

 

ペンシルベニア州は、看板だった重工業が、20世紀終盤にかけて落ち込みを見せていた。ビリー・ジョエルは当初、自身でも言っているが、幼少期を過ごしたロンクアイランド近郊の小さな町・レヴィットタウンのことを書くつもりだった。後にベスレヘムという、アレンタウン近郊の小さな町(1980年代初頭、町が誇る製鉄・炭鉱業が次々と撤退し、その打撃はアレンタウンよりも深刻だった)に変更したものの、どちらも言葉・字面が歌いにくいと言うか、リズムにはまらないと言うか、そんなわけでアレンタウンに落ち着いた。強烈なリズムビートの効いた働く人の曲で、中産労働者階級を忘れまいと、かつて豊かだった町の様子を描いている。この、経済的な絶望状態への鎮魂歌において、実はアレンタウンという町自体は主役ではない。産業崩壊の時代にあえぐ多くのアメリカの各都市の状況を象徴的に描いたに過ぎない。「アレンタウンはアメリカ全体を体現している。だから、ジミータウンだろうが、ボビーバーグだろうが、なんとかタウンだろうが、何でもいいのだ。実在のアメリカの町として、日々の生計に困窮する、その象徴である。」 

 

 

 

この歌がリリースされ、ヒットした後、アレンタウンの市長は式典を開き、ビリー・ジョエルを名誉市民として表彰した。その象徴となるような鍵のレプリカをこの式典で授与された。こんなことまでする背景を、ビリー・ジョエルは理解していた。市民の一部には、町についたイメージや、そのイメージがジョエルの作った歌詞の中で、改めて認識されてアメリカ中に広まっていったその様が気に入らなかったものの、実際は後々にこの物寂しさ漂う歌によって潤ったことも事実である。アレンタウンの人々が町へ出て、自分の出身地を口にすれば、ポップス音楽を知っている人なら(要するに全員)「あぁ、アレンタウンか。ビリー・ジョエルが歌ってたよね」と声をかけくれる。アメリカでは、こういう「有名にしてしまう」という意味で「地図に載せる」という言い方をする。 

 

 

これを見ても、ポップス音楽がいかに世間で幅を利かせているか、言い換えれば、いかに力を持っているかがよく分かる。キース・ジャレットは、この、彼の生地から名誉市民として表彰されたか?ミュージシャンの中でも指折りの彼が、この町出身の彼が、アレンタウンを有名にしただろうか?仮に彼がピアノと大編成オーケストラのために、「アレンタウン」と銘打った組曲か何か書いたとしても、彼の故郷の評判を上げることなど、不可能だったはずだ。世間の注目を広く集めるには、ビリー・ジョエルのような人物が一肌脱いで、聴衆に向かってアピールしてくれないとどうしようもない。だが、フランク・シナトラライザ・ミネリ、あるいはトニー・ベネットといったところが、シカゴやニューヨーク、あるいはサンフランシスコならともかく、「わがアレンタウンよ」だの「想い出のアレンタウン」だのと言っても、誰も真面目に受け取ってはくれなかっただろう。 

 

アレンタウンが位置するのは、かつては五大湖周辺の豊かな工業地帯であったエリアの真ん中だ。ここはかつては世界最大の工業地域の一つだった。この「帯」はウィスコンシンからニュージャージーまで隅々に広がりを見せていたが、1970年以降、各種重工業が低賃金の途上国へ生産拠点を移し、更には安価な輸入品や貧しい国々からの労働者達が移民として流入してきたことにより、経済は打撃を受け、いまや「ラストベルト(錆びたベルト)」などと汚名を着せられている。ドイツで言えば、北西部のルール工業地帯のように、アメリカのこの「錆びた地帯」も、社会構造上難しい問題を抱え、状況の改善にも時間がかかり、そして現在に至るまで、依然として健全に機能するビジネスサービスが十分に出来上がっていない。 

 

デトロイト町を見ればアメリカを襲った経済危機がこの地域に与えた影響がわかるデトロイトかつては自動車産業が盛んで、1950年代には人口150万ほどの都市だった。それが30~40年の間に、人口は半分ほどになってしまったのだ。この街に残った人々の多くは、働き口の機会があまりにもなさすぎるアフリカ系アメリカ人だった。デトロイトには人が住まなくなった住宅や、朽ち果てた家屋、そして廃校となった校舎などが8万5千もあり、さながらゴーストタウンの様相であった。2013年7月、ついに、大都市としてはアメリカ史上初の財政破綻の宣言(連邦破産法9条適用申請)に至り、この地球上にある、他の夢も希望もないな土地と同じように、深刻な危機的状況にあると目された。そこから始まったデトロイトの一部の起業家達の努力の甲斐もあり、少なくとも状況は若干の好転を垣間見るに至っている。建設業者達によって中心街の多くの家々や高層ビル群が買い上げられ、取り壊しの上、新しい建物ができたり、従来のものを再建したりするなどした。徐々に街に活気をもたらし、撤退していた企業が戻ってきたり、新興企業が居を構えたりと、その大半が街の中心街へと集まってきた。市当局も改革に乗り出した。行財政の刷新、中低所得者層に対する不動産購入支援など、新しい時代の魁となる手を打ち出すようになる。 

 

 

 

キース・ジャレットアレンタウンの出身であるバークリー音楽大学での短い学生時代中退を過ごしたボストンと音楽キャリアをスタートさせた時期のニューヨークは別にして、彼はこのかつての工業地帯に自らの根を下ろしている。1972年以降、彼は隣接のニュージャージー州オックスフォードに住んでいる。彼が生まれた町からは目と鼻の先だ。ペンシルベニア州の頭部から隣接するニュージャージー州西部の間に位置するリーハイバレー全体とその中にあるアレンタウン市は、彼が生まれた当時の様子は、今とは大きく異なっていた。当時は製造業はもとより無煙炭、鉄鋼、原油採掘が大規模に展開し、安定した雇用と繁栄を維持し、若い世帯にも将来の希望を感じることのできる場所だった。キース・ジャレットは、アレンタウンをあまり好きになれなかったと想像される。自身がこの町で若い頃を過ごした時のこと、特に文化的側面について、彼はボロクソ言っている「音楽のことで言えば、アレンタウンはアメリカで最も救いようのない町の一つだ。心の糧のない、音楽もない、よってこの町で生きてゆく意味もない。退屈極まりない町だ」。 

 

 

 

妥協を許さぬアーティストらしい発言である。世界の音楽の中心地にその身を置くか、はたまた自分の世界に没頭できるような未開の地で自由に呼吸するか、どちらかでないと気がすまないのだ。だがアレンタウンは、当時「吹奏楽の町」としても有名だったのだ。ここはアメリカ初のコンサートバンド(本格的な編成の吹奏楽)の本拠地であり、その歴史の長さは、ドイツや他のヨーロッパ各国の多くのアマチュア吹奏楽団と比べても引けを取らない。このバンドと他の地元のアンサンブル集団は、ウェストパークにある市の野外音楽堂で、定期的にコンサートを開いていた。それに、市の開催で、DCIイースタンラシックスという、年に一度世界最高峰の実力を誇る新進気鋭のマーチングバンド(ドラムと金管楽器の楽団)とダンスグループの競技会が開かれる。例えばチャールズ・アイヴズは、こうした野外イベントでの皆に親しまれるバンドの演奏にインスピレーションを受け、彼ならではの管弦楽曲の力作を残している。1896年に建設されたマーケットホール(ショッピングセンター)は、3年後に改装され、あらゆる文化的行事が開催できるようになった。1959年になると、アレンタウン交響楽団という、ホールに先立ち1951年に設立されたオーケストラの本拠地となった。現在この建物はミラーシンフォニーホールといい、創立以来出演したアーティストは錚々たる面々である。20世紀初頭にはフランスの大女優サラ・ベルナール、その後はコメディのマルクス兄弟(代表作「I'll Say She Is」はここで上演され、後にブロードウェイのミュージカルショーで成功を収める)、ポピュラー音楽歌手のビング・クロスビー、ジャズミュージシャンの巨匠ベニー・グッドマンはツアーの際はアレンタウンをよく入れた。 

 

だが残念ながら、アレンタウンで幼少期を過ごした間も、そして一端のアーティストとなって自らの成長の過程を振り返ったときも、思い出すのが様々な困難に翻弄された家族のことだというキース・ジャレットにとっては、どれも大して興味を惹かなかった。キース・ジャレットの両親が出会ったのは第二次大戦前のこと。二人は1942年に結婚した。長い間、キース・ジャレットの父ダニエル・マーチン・ジャレット(1919~2004)の祖先は18世紀のスコットランドアイルランド人とフランス人移民であるとされてきた。だが、父方のルーツは主にドイツ系であるというのが、現在の処より可能性があると見られている。なにしろ、ペンシルベニア州と、特にリーハイ郡とアレンタウンとその周辺都市圏(the greater Allentown area)というのは、数で物を言わすドイツ系移民が地域性に影響力をを利かせていた。18世紀初頭のイザーク・ジャレットまで遡り、ジャレット家の父方のルーツを辿ると、ハースやウェッツェル、クナッペンベルガー、ステイブラー、シェーラーといったドイツ系の人名が沢山でてくる。こうした人名の多くをしっかりとその本国まで遡って見た結果、彼らは今日で言う所の、ドイツ南西部バーデン・ヴュルテンベルク州のスワビアなどの地域の出身であった。ひとたび新天地に落ち着き、ペンシルベニアに新たな居を構えた後も、こうした移民達は長きに亘りドイツ語を使い続けたのである。興味深い証拠資料がある。イザークの息子ジョン・ヨハネス・ジャレット(1759~1846:アンナ・マリア・スタインマンという女性と結婚している)が建てた家にある日付を記した石碑には、ジャレットのスペルがドイツ語風に「Tcherret」と刻まれている。母方の祖母のルーツを辿ると、オーストリア・ハンガリー帝国に行きつく。 

 

 

 

 

彼の祖母アンナ・テムリンスティリアシュタイアーマルク州)南東部ソゲルスドルフという小さな集落で生まれたこの地は、第二次大戦後新たな国境が引かれユーゴスラビア領となり、現在はスロヴェニア領となり地名もセゴヴチとなっている。1910年前後のこと、アンナはこのヨーロッパ激動の故郷を離れ、ペンシルベニア州ベスレヘムへ向かった。数年前にアメリカへ渡っていた2人の姉達と合流するためである。ベスレヘムで、アンナはヨーゼフ・クジマと出会う。彼はスロヴェニア人で、国の最北東端にあるプレクムリャという歴史のある地方の出身だった。この地は、歴代スロヴェニアオーストリアハンガリー、そしてクロアチアと4つの国々が国境を争った場所だ。アンナが20歳になった時、ヨーゼフ・クジマと結婚。二人はオハイオ州クリーヴランドへと移り、そこで2人の子供をもうけた。ルドルフという男の子は、5歳の時に車にはねられて死亡。そしてイルマという女の子は、後にキース・ジャレットの母となるのである。アンナが3人目の子供を身ごもっている間に、彼女の夫は彼女を残して失踪する。残された彼女はペンシルベニアへ戻り、そこで、男の子としては2人目のジョセフを出産した。それから4年後のこと、アンナは結核に倒れる。イルマと弟の2人は孤児院へ移された。 

 

若干30歳のアンナは、結核療養所からリーハイ郡ホームホスピスへと移された。これ以上は手の施しようがない、との判断からである。だがそこで彼女は、後に大きな意味を持つことになる出会いがあった。クリスチャン・サイエンスキリスト教系の新宗教)の信者との出会いである。アンナ・クジマとこの信者との言葉の交わし合いが、ある種奇跡の治癒を彼女にもたらしたことは、明らかであった。程なく彼女は快方に向かい、やがて完治してホスピスを退院してしまった。レントゲン検査でも、肺はすっかりきれいになっていた。退院後、彼女はアレンタウンに向かう。2人の子供達はそこで学校に通っていたのだ。ジョセフは卒業を目前にしたある日、凍った川面でスケートをしている最中に、氷の割れ目に落ちて、溺れてしまった。イルマの方は、卒業後就職して不動産仲介人のロスコー・Q・ジャレットの秘書となり、後にロスコーの息子と結婚することになる。前後するが、アンナ・クジマは結核から完治の後、娘のイルマとともにクリスチャン・サイエンスに入信したことをつけ加えておく。 

 

 

 

母方の民族学的ルーツに関しては、イアン・カーの手によるジャレットの伝記に記載してあることが、ちょっとした混乱を広めてしまっている。同書によれば、アンナ・クジマは幾つもの言語を話したとされている。その中には、ハンガリー語、ドイツ語、英語、そして「ウィンディッシュ」という、ハンガリー系ジプシーの方言の一つとされる言葉が含まれている。イルマが自分をハンガリー系ジプシーの子孫だと誤って思い込む羽目になったのは明らかである。ウィンディッシュはジプシーの方言の一つでもなければ、クジマという名字もマジャール人ハンガリー人)であることを世間に示すものでもない。旧オーストリア・ハンガリー帝国内という多民族・多言語地域では、ウィンディッシュというのは、スロヴェニアの人々にとっては時々自分達を侮辱するような言い方なのだ。クジマという名前は、概ね全てのスラブ系言語に見受けられる。ウクライナ語、スロヴァキア語、ロシア語、セルビア語、それからクロアチア語にも、である。だが、特によく見受けられるのが、アンナ・テムリンとヨーゼフ・クジマの出身地スロヴェニアの最北東端地域である。プレクムリャ地区にはクジマという村があるくらいだ。キース・ジャレットの家族のうちスロヴェニア出身の家系は、今でのその一族がプレクムリャやスティリアに居て、ハンガリー系やローマ系関連のルーツは存在しない。明らかに当時の移民達によく見られた傾向であり、特に彼らが新しく住むことにしたアメリカにおいて自分達のアイデンティティを確立しようとする時に、自分達が中央ヨーロッパの南東部出身であると堂々という者は。数の上では少なかった。後のインタビューでも、また自身がマシな判断をしているにも関わらず、キース・ジャレットは自分がハンガリー系ジプシーのルーツを持っているという神話を確たるものにしようとしているのだ。おそらくその目的は、自分の音楽の好みがベラ・バルトークであることは遺伝的なものだということを明らかにしたいからだろう。 

 

キース・ジャレット両親は大金持ちとはいかなかったが、夫の父親が不動産仲介人をしていたことでまとまった収入を確保していた。祖母のうちアンナ・クジマが同居して子供達の面倒を見ていた。息子が5人いた。長男のキースが1945年生まれ。そして末のクリスがその11年後に生まれている。父方にも母方にも、音楽をする者がいたが、プロ級という程ではなかった。キースの母と父は、考え方に置いては比較的保守的な父に比べて、母はリベラル、芸術に関しては、母のほうが明らかに洗練されたセンスを持っていた。キースの母はアレンタウンのハリソン=モートン中学校在学中に、トランペット、トロンボーン、そしてドラムスをやっていた。また、美声の持ち主であったと推測される。キースの高い知性、「電光石火」の思考力、卓越した音楽性、完璧な音程感、耳コピーの能力、更には流れに乗った(時に元の素材よりマシな)インプロヴァイゼーションといったものは、明らかに、特に彼の母にとっては、若干3歳からピアノを習った賜物であった。この昔ながらのお稽古事が、大きく実を結んだ。キースが5歳の時、フィラデルフィアで、当時バンドリーダーを引退したポール・ホワイトマンがパーソナリティーを務めるテレビ番組「TV Teens Club」に出演して腕を披露し、賞を獲得したのだ。 

 

 

 

 

彼が初めてソロのリサイタルを人前で開いたのは7歳の時だ。アレンタウンの婦人会の集まりで、1953年4月12日午後3時。演奏曲目はバロックからロマン派までのピアノ曲を並べたものだった。それは正に、ヨーロッパのクラシック音楽200年分の音楽絵巻、といった風情だった。バッハとその次男、モーツアルトベートーヴェンシューマンメンデルスゾーングリーグブラームス、サン・サーンス、モシュコフスキー、そしてムソルグスキーといった作曲家の作品とともに、子どもじみたものではあったが堂々たる自作の演奏会用の曲を2・3曲も披露したのだった。

Keith Jarrett伝記(英語版)序曲(pp.5-8)

ジャレットの思いと才能は底無しだ。それが彼の人となりを形成し、音楽を形作って凡百のピアニストから抜きん出る原動力なのである。こういったものは、必ずしも簡単には耳に届くものではない。本当に優れたジャズミュージシャン達とは、それぞれが自分のスタイルを磨き上げることで、自分だけのやり方で不可能と思われることに挑む術をマスターしなければならない。そして、自分らしさを保ちつつも、いつでもサプライズを起こせる状態であることを求められる。キース・ジャレットの最も注目すべき点は、どんなことにも意欲的に取り掛かる旺盛な行動力と、人を魅了する演奏力だ。彼の演奏にはやりすぎ感が全く無い。彼のタッチは、溢れんばかりの音の彩りを生み出す。彼の共演者にとって、彼は耳が肥えた仲間であり、だからこそ彼は刺激を受け、彼も共演者たちに刺激を与える。打楽器奏者のようにピアノを叩いたかと思えば、クロード・ドビュッシーのような音をも紡ぎ出す。セロニアス・モンクのように、鍵盤楽器はおろかどんな楽器でも予想もつかないような音色を、ピアノから聞かせる。彼が演奏をどう始めて展開してゆくのか、そして更に加速してゆくのか、はたまた建築物の基礎石のように聴き手の記憶にスドンと打ち込んで終わらせるか、こういったサプライズには、常に彼のそうした演奏の要素が存在する。 

 

 

キース・ジャレットの人となりを描こうと思うなら、どんな場合でも音楽のこと一本でゆくべし。彼は現役バリバリのミュージシャンであり、理屈をこねず、弟子を引き連れることもせず、うんちくを溜め込むでもなく、煽動家でもエッセイストでもない。彼は完全に事の本質、すなわち、音楽にのめり込んでいるのだ。 

 

これは彼のプライベートエリアが限られていることと結び付きがある。誰もが認めるであろう彼の世界的な知名度とはかけ離れている。キース・ジャレットは地元にしっかりと根を張っている。入居時に築100年だった家屋に、彼は1972年以降ずっと住んでいる。そこは、彼が生まれてから子供時代を過ごしたアレンタウンから5キロと離れていない。ニューヨークは確かに彼の気を惹いたであろう。だが想像に難くない、ガードが固く内気なキース・ジャレットなら熟知していたであろう、ジョン・スタイベックがニューヨークを印象的に描いてみせた言葉がある。「ニューヨーカーが出来るまで」(ニューヨーク・タイムズマガジン掲載記事)によれば、ニューヨークという街は、人の肌の上にとどまらない。毛穴から人の体内に潜り込んでくる。一度ニューヨークに居を構え、そこを住まいとしてしまったら、もう他の街では満足できなくなる。ニューヨークに、自らの一部を吸い取られてしまうようなものだ。 

 

 

ジャレットの頑ななまでの自制心と、音楽への没頭、これらが見て取れるもう一つの要素がある。彼がこれまで舞台や録音スタジオで共にしたミュージシャン達は錚々たるもので、彼自身が50年以上に亘る音楽家としてのキャリアを改めておさらいして、他にもっといないか確認する必要など全く無いほどだ。自身のグループでレコードを出す前に、彼が所属したバンドはたった3つしか無い。アート・ブレイキーの「ジャズ・メッセンジャーズ」、チャールズ・ロイド・カルテット、そしてマイルス・デイヴィスのオープンアンサンブル。「たった3つ」とはいえ、音楽家として自己開拓をする道に並んでいた一里塚としては、なんとも豪勢である。 

 

まずアート・ブレイキー。彼の共演者をリストにまとめれば、それだけで「ジャズ人名辞典」の一丁上がりだ。次にチャールズ・ロイド。アート・ブレイキーとは全くの畑違いだが、なにしろ彼は「ナウい」ので、キース・ジャレットにとっては2人共大切な存在だ。若者達がだんだんロックに傾倒していた時代、彼らに受け入れられた最初のジャズミュージシャンは、事実上チャールズ・ロイドだと言ってよい。最後にマイルス・デイヴィス。彼は才能ある若手に対し門戸を開いていた。マイルス・デイヴィスがしたことは、音楽の開拓か、それとも音楽の転覆か、それは意見が簡単に擦り合うものではない。モード・ジャズにしろジャズ・ロックにしろ、彼以外にも先駆者と目される人物は存在する。だが、フリージャズ(彼はこれを一過性の悪夢として受け流した)を除いては、マイルス・デイヴィスは1945年以降ジャズのあらゆるスタイルにおいて、後世の道標として彼の業績を残した。 

 

マイルス・デイヴィスが率いた様々なバンドは、ジャズ大学なんてものがあるとするなら、そこのゼミのようだ、などと揶揄された。だが、その大学のゼミで何をそろって学んでいたのかを、マイルス・デイヴィスと共演した数多くのピアノ奏者達を見ても、さっぱり見えてこない。見える鍵が一つある。ギター奏者のマイク・スターンの言葉だ。ギター演奏の最も至難の業とされるのが「息継ぎ」。別の言い方をすると、「音楽に息継ぎをする間を与える」こと。これこそが、彼がマイルス・デイヴィスから学んだことである。多くの他のミュージシャンたちは口を揃えて言い伝える:マイルス・デイヴィスは人を導く「教師」ではなく、人を自学自習できるよう後押しする「世話役」だ。2つ3つとネタが供され、2つ3つと打ち合わせが済めば、あとは各奏者におまかせ。マイルス・デイヴィスならではの、「イっちゃってる」位の自信、佇まい、共演者の音楽性に対する信頼、いずれもが、素晴らしい演奏をする上で効果的だった。予めガチガチに演奏コンセプトを作り上げ、事故があっても予防対策は万全にするというやり方より、よほど効果があった 

 

 

ブレイキーにしろ、ロイドにしろ、デイヴィスにしろ、ジャレットが彼らとレコーディングに取り組み始めたばかりの頃の音源を聴いてみると、誰もが思うことがある。それは、彼がその時点で、既に3人それぞれから多くを学び、同時にそれをしっかりフィードバックしているということ。だがその後この3人の巨匠達と共演を続けても、後に彼自身が率いたバンドの録音と比べると、大してスタイルがしっかりしてきたわけでもなく、また、達成したものも増えていない、というのが聴く人の印象である。ところがどっこい、彼はピアノの弾き方と共演者の聴き方について、必要なルーチンを着々と身につけていたようである。ジャレットは早熟であったが、その後の自己開拓を止めず、自分の判断基準を他人のそれよりも単純に信じ込んでいた。ジャズミュージシャンとして、ソロ活動以外では、ジャレットが好むのはデュオ、トリオ、カルテットと言った小さな編成だ。大編成の中に居る彼の姿は想像し難しい。唯一の録音は彼が16歳の時に遡る。ドン・ジャコビー指揮のカレッジ・オールスターズだ。この時彼は、バークリー音楽大学のピアノ学生を代表して参加している。あながち間違いとも言えない見方だが、彼は引きこもりの気がある一方で、時々その引きこもっている場所を抜け出しては、国際的な舞台で、引きこもりとはとても思えないような腕前を披露している。これがまた、彼に救いの神が如きオーラを与えるのだ。ところが彼は内気で無愛想ですらあることから、多くの信者を引き連れる「教祖様」には、なれるはずもない運命だったのだ 

 

 

同様に、彼の持ちネタは、たった3つ。スタンダート、自作、それから一人で演奏する時のインプロヴァイゼーションである。これにクラシック音楽が加わる。レパートリーはバッハから現代音楽までこなす。キース・ジャレットの音楽に対するアプローチは、驚くほど一本筋を通しており、時に自己否定に陥ることもある。スイスのローザンヌでソロ演奏会を開いたときのこと。本番中、舞台前方までツカツカと歩いて来たかと思ったら、観客に向かって、今日のところはここで演奏をやめるから、あとは誰かやりたい方ヨロシク、などと言ってのけたのだ。彼からインスピレーションがなくなってしまい、抜け殻になってしまったから、ということである。そんな事を言っても、彼ほど音楽に全集中する者が居るわけがないのであり、ジャレットの演奏を聴きに行く人は、こうした彼の立居振舞に用心する必要がある。 

 

ジャズ音楽におけるピアノとクラシック音楽におけるピアノには、それぞれ異なる音楽の考え方がある。ジャズ音楽では、ピアノを万能の楽器と称する奏者は一人もいない。ジャズ音楽では、しばしばピアノは制限があることを露呈している。この楽器は奏者にとっては、体の一部とは到底言えず、音も特徴がなさすぎる。ピアノに関する用語とは真逆の言い方だが、文字通り「触れ合うことの出来ない」たぐいのもの、というわけである。アフリカ系アメリカ人が生んだこのジャズという音楽において、重要な役割となる音色やニュアンスといった概念が求めるものを満たすことは、基本的に不可能だった。なぜキース・ジャレットは演奏中おとなしく椅子に座っていられないのか、なぜ見ているこちらがハラハラするくらいピアノの鍵盤に腕を強くブチ込もうとするのか、なぜ彼がジャズを演奏する時は血に飢えた戦士のように振る舞うのか、お考えいただければ答えがわかる。彼はそうやってピアノで、ブルースギターのように呻くようなサウンドを生み出そうというのだ。奏者が何もしなければ、ピアノはひとりでにブルーノートを鳴らし始めることはない。奏者が絞り出さねばならないのだ。仮に自らがケンタウルスのようにピアノと合体しても、である。「合体」したことで名声を博したキース・ジャレットであるが、これを神業などと思ってはいけない。頭脳の手柄であり、手柄とは努力のことだ。敏腕ジャーナリストでありジャズに関する文献を手掛けるピーター・リューディが、キース・ジャレットのことを天才と呼ぶ理由の一つがこれだ。そしてこの本も天才の偉業について、これから見てゆく。

Keith Jarrett伝記(英語版)序曲(pp.3-5)

キース・ジャレットが生まれたのは、こうして世界が「これ以上落ちることのないところまで落ちた」1945年5月8日、ペンシルベニア州の小さな工場(こうば)の街・アレンタウンで生まれた。彼がこの記念すべき日に生まれたことは、何やら運命に逆らえない感じがする。まるで彼がこの世に生を受けたとんでもなく記念すべき日を、その後のキャリアの出発点として揺るぎないものにする、と言わんばかりではないか。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線終結の日であり、この日は、古い世界秩序と新しい世界秩序の境目となった。言い換えれば、アメリカはヨーロッパへと凱旋し、ヨーロッパは新世界・アメリカを手放して瓦解した、その境目となったと言えよう。この「欧」と「米」の橋渡しとしての姿が、彼の生きざまとそこから生まれた作品の中に、容易に見て取れる。 

 

ヨーロッパとアメリカ、それぞれの土地での振舞い方の違いを前にしても、しっかりと耳を傾けて賢く反応する。両方の土地でのモノの見方と文化を持つ人物の代表者として、ヨーロッパとアメリカ、どちらで生活を送ってもしっくり馴染める。彼のようなアーティストは、そう多くはない。出身地・アレンタウンは、フィラデルフィアの北80キロ(50マイル)、ニューヨーク市の西140キロあまり(90マイル)。彼の生まれた家族は、「旧大陸」というものをしっかりと抱いていた。片方の祖父母がヨーロッパからの移民で、渡米後も時折、旧・オーストリア・ハンガリー帝国内の言語の幾つかを日常使っていた。 

 

キース・ジャレットは、音楽活動に取り組み始めた頃から、アーティストとして明らかにヨーロッパのモノの見方を持って今日に至る。だが、彼の家族背景、彼自身のヨーロッパ音楽に対する嗜好、それ自体は、成功したジャズミュージシャンである彼が「旧大陸」で様々なものが発展してゆく様を注視し、そして自らのルーツを探求した理由としては、十分とは言えない。この「注視」と「探求」に影響を与え、大西洋をこえてゆこうと思わせたのは、他ならぬヨーロッパ自体の発展そのものだったのだ。第二次大戦後、明らかに焦土と化したヨーロッパ大陸を、アメリカ文化は情熱的に席巻した。だが戦後20年もの間に、ヨーロッパの人々はこの新しい文化をしっかり受け止め、自らの美的尺度と融合させ、ジャズの本場との違いを地ならしできるまでに至った。キース・ジャレットにとってさえも、ヨーロッパのジャズがアメリカの支配から開放され、隅々まで広がっていったからこそ、彼の芸術的表現と音楽家としての地位について、細かく立体的ににその姿を描いてゆく上で、ヨーロッパというものを彼の中に取り込むことが、難なく出来たといえよう。そうでなければ、「その姿を描く」ことは困難であったはずである。 

  

ジャレットの膨大なレコーディングの実績の大半は、正統派のヨーロッパ音楽に敬意を表して作られている。彼は長きに亘り、いわゆる「アメリカン・カルテット」と共に、「ヨーロピアン・カルテット」を率いていた。1971年からは、彼の重要なレコーディングはミュンヘンのレコード会社であるECMからリリースされている。ジャレットはヨーロッパの嗜好を受け入れることもできるのである。例えば、彼の唯一の正式な伝記執筆者として今日まで目されている、イアン・カーは、イギリス出身である。多くのことに批判的なジャレットだが、彼が受け入れる唯一のジャズに関する本は、イギリス人が書いたものだ。ジェフ・ダイヤーの「バット・ビューティフル」といって、フィクションと実話を見事に織り交ぜた逸品である。以上の話は筋が通っており、キース・ジャレットの人物像を描くとしたら、アメリカ人で、ヨーロッパに自ら望んだ多くの縁を持つ人、という具合でよろしかろう。 

 

だがキース・ジャレットヨーロッパに向けた好意的な眼差しはあくまでも彼自身の美的価値観則るものでしかないはずだ。双方向的に、ヨーロッパとアメリカ両方のジャズ・ミュージシャン達が、お互いに持っているものを交換しあうには、ヨーロッパ出身の名手達:ヤン・ガルバレク、アルベルト・マンゲルスドルフ、デイヴ・ホランドジョン・マクラフリンケニー・ホイーラー、あるいはトーマス・スタンコといった面々が、舞台に立つ必要があった。フェスにしても、ベルリン、デン・ハーグモントルー、アンティーブといった場所でぶち上げる必要があった。ドナウエッシンゲンのような数々の権威ある前衛音楽の会合は、ジャズにもその門戸を開ける必要があった。レコードレーベルも、MPS、ECM、あるいはFMPといったところを設立する必要があった。プロデューサーにしても、エンジニアにしても、マンフレート・アイヒャーやエリック・コングスハウクくらいの腕のたつ人材が現れる必要があった。グラーツダルムシュタットの研究所やアーネムだのアムステルダムだのといったオランダ各都市の教育機関を開設する必要があった。 

 

ヨーロッパで興ったこれら全てが、少なくともある一定期間、キース・ジャレットのようなアーティスト達にとってはヨーロッパとのつながりを感じるために、あるいはアメリカ人ジャズミュージシャン達にとってはヨーロッパが自分達を歓迎してくれていることを知るために、必要があった。にもかかわらず、バリトンサックス奏者のエッケハルト・ヨストが歯に衣着せぬ物言いで、両者の社会文化的な違いを分析した結果によると、「アメリカにはジャズ音楽がある。だがヨーロッパにはそれを聞くにふさわしい耳がある」。多くのアメリカ人達が感心するのは、ヨーロッパの人々のジャズ音楽の聴き方だ。しっかりと耳を傾け、決して「ごちそう居並ぶ中の付け合せ」扱いなどしないのである。 

 

セシル・テイラーといえば、不遇の時代が長く続いたことがあるピアノ奏者である。当時の彼の音楽は、「アメリカンエンターテイメント」の求めるものに相容れなかったのだ。この事実は、例えば、アメリカ国内のクラブ(老舗と呼ばれるものでさえも)において、生演奏をする時、実際には店のフロアスタッフ達によって切り盛りされていたことを、ポツポツと物語る要因である。インプロヴァイズの長さは店で出すドリンク一杯を飲み干すくらいにする。演奏の音量はレストランで魚のヒレの煮込み料理を食べながら歓談できるくらいにする。こんな条件下では、セシル・テイラーの音楽は相容れずはずもない。耳にきつい演奏の圧、音が激しくぶつかる和音、そして信じがたいほどに濃密な音楽の作り込み方、これが彼の音楽だ。テイラーと共演したベース奏者の1人であるブエル・ネイドリンガーによれば、彼らの演奏は頻繁にクラブのオーナーの抵抗に遭ったという。前衛音楽の急先鋒であるテイラーが本番を続けるのを阻止しようとする様を、次のように物語る「私達はよく、ラジオの本番中に出されるような、演奏中止の合図を食らったものだった。掌を下に向けて、首元を横切らせて「カット!ストップ!今すぐやめろ!」の合図だ。だが、ハイそうですか、とはいかないものだ。仮にクラシック音楽の大御所のイーゴル・ストラヴィンスキーが、同じ店に座って作曲のペンを走らせていたとして、「ストップだ、イーゴル!ウィスキーの注文が来なくなるだろうが!」なんて、彼に対して言うわけがないだろう。それと同じ。」セシル・テイラーは演奏しながら音楽を紡ぎ出す。これは全てのジャズミュージシャン達と同じ。彼らのインプロヴァイズとは、現代音楽の作曲家がやる「チャンス・オペレーション」と同じである。 

 

だが客観的にどの角度から見ても、このような判断の仕方では、別の側面を説明しきれない。アメリカには昔からずっと、良心に基づく開拓精神を大いに歓迎しようとする姿勢がある。ひっきりなしに移民がやってくるこの大陸には、芸術活動における新しい取り組みに対しては、オープンな姿勢を示す長い伝統がある。この伝統は、18世紀中頃にまでも遡ることができる。この頃、世界に誇る天才政治家であるベンジャミン・フランクリンが、自身が草稿に携わった「独立宣言」よろしく、弦楽四重奏曲を作曲している。多くの典型的なアメリカ人アーティスト達が、「一匹狼」、つまり「変人」「無印の迷い牛馬」「親なしの子牛」「はぐれ者」「よそ者」と同義語とされる言葉で評されるのには、確たる理由がある。これら同義こそがそのヒントだ。これによって明らかになるのが、「一匹狼」という言葉が初めて取り沙汰された頃の、時代背景とものの考え方である。当時、アメリカ人達は、手つかずの自然を、彼らのふるさとへと変えていった。西部への「扉が開いた」時代である。開拓民達は不安を抱えつつもよく働き、家畜達とともにあった。だが同時に、彼らは大地を駆けてゆく牛の群れに畏敬の念すら抱き、牛達の中に、自分達の「無限の自由がほしい」という思いを見出したのだ。チャールズ・アイヴスやカール・ラッグルズといった作曲家の音楽の中に見られる「原始的」「無垢」と19世紀の間みなされた精神は、後に見直され、「見かけは気さく、中身は複雑」と評されることのある、彼らの自信に満ちた音楽哲学のあらわれと定義づけられた。 

  

こうした音楽の反逆者達に対し、キース・ジャレットはこれまで心を寄せ続け、楽壇の古い教義と老いぼれ共の学識を嘲笑う多くのアーティストたちの作品を、キース・ジャレットはこれまで研究し続けている。これは偶然でもなんでも無いことだ。こういった人物達は、音楽的に高尚かつ手の混んだ仕事には目もくれず(訳注:音楽的に下卑た単純な仕事とはかけ離れた取り組みをするということは全く無く)、悪名高いほどに一般社会規範を守らず、歴史的にも予想外で、自分達が得意とする分野があったとしてもその枠に収まらず、楽壇から追い出された挙げ句、なんと20世紀の音楽シーンを作る最も驚くべき革新的人材となってしまったのだ。彼らは自由を求めるその過程で、音楽の研究にとどまらず、哲学者、理論家、文学者、異端の教育者、台本作家、喜劇役者、偶像破壊者、更には実験を重んじる科学者が取り組むような分野にまで手を出した。