Moving to Higher Ground - How Jazz can Change your Life を読む

Random House Trade Paperback "Moving to Higher Ground" を読んでゆきます(語句・文法解説付き)

「Moving to Higher Ground」を読む 第8回の2:アート・ブレイキー/オーネット・コールマン

アート・ブレイキー 

 

アート・ブレイキーという人は、ドラム奏者としても、バンドリーダーとしても、何かにつけて「相反する」考え方や行動をとっていた人のようです。背が低いながらも、実際の背丈より大きく見えたのは、パワフルな人だったからでしょう。一言話すその中で、とても深い真実と、とてもクリエイティブなウソの、両方を織り交ぜてくるのです。ジャズに関しては、あらゆることについて、キチッとして誠実さを示し、節度ある威厳を感じさせる話し方をしました。ところが一方でこれまで受け入れられてきた規範を拒むようなことを、何でもやってきたのです。 

 

ブレイキーは、新しいことや誰も気付かなかったことに思いを寄せる人でした。知的で、貪欲で、何事もとことんやり抜く彼は、アフリカのドラム奏法を学びに、ガーナへ向かいます。アメリカでは、ジャズドラム奏者の実力を測る際に、3つ4つの異なるリズムをいっぺんに弾ける力が、どの位あるか、が物差しになっている、と彼は気付きました。彼がよく言っていた言葉に「自分の右手がしていることを、自分の左手には知らせるな」というのがあります。彼がイスラム教に改宗したのは、アメリカでイスラム教への改宗が盛んになる前のことでした。自分も考え方に基づいて信仰を深めていった彼ですが、この様なことを書くと、奇妙に思う人もいるかもしれません。何しろ彼は、あらゆる女性と関係を持ち、自分に都合が良い時だけ真実を語り、ヘロインを常習したり、ですからね。コニャック、マリファナ、コカインなど、彼には物足りない代物でしかなかったのです(訳注:いずれもイスラム教では禁止事項)。 

 

彼はよくお高く留まっている」と思われていましたが彼と一緒に居て教えられたことは他人を決めつけるようなことをしてはいけないなぜならそんなことは誰にもできないからだということです彼の性格は実に独特なもので、皆、彼の人となり惚れ込んだのです他人を知り尽くすことなどできないよって他人を決めつけることなどできないと、いつもハッキリそう言っていました。アート・ブレイキーのこの考え方は、「氷山の一角」というお馴染の言葉がピタリと当てはまります。目に飛び込んでくるものは、本当の姿のごく小さい一部分でしかない、ということです。 

 

彼の出発点はビッグバンドで、ドラムパートを編成に加える上でのオーケストレーション(大編成アンサンブルの作品を作る方法)をよく心得ていました。彼は楽譜が読めませんでしたが、そう感じさせない位、彼の耳は素晴らしく、1回ないし2回聞いただけで、一曲全体を把握してしまう力を持っていたのです。その上で、それに手を加えて改良しようとしたのです。これはドラム奏者という、立場上楽譜や指示がほとんど与えらえれないミュージシャンにとって、重要なスキルなのです。ドラム奏者の裁量が制限されてしまっては、音楽に柔軟性がなくなってしまいます。曲作りにおいては、全員が一斉にタイミングをそろえて音を鳴らす「ヒット」や、音を強調する「アクセント」を設定する場合がありますが、そんな時でもドラム奏者は、どのシンバルを使うのか、どこでバスドラムを「ドスン」と一発下支えに入れるのか、テンションの上げ方と下げ方をどのようにもってゆくか、について、一人で決めてゆくのです。ドラム奏者が発信するグルーブ感の効いた、ダンスと打楽器の色付けを思い起こさせるアフリカのテイストが、ヨーロッパの演奏会用音楽へ加わるのです。 

 

「ブー」とは、私達の彼に対する呼び名です。彼のイスラム名「アブドラ・イブン・ブハイナ」を「ブー」と短縮したものです。ブーの強靭さは超人的でした。彼が好んで自慢していたことは、「俺と一緒にラリってた奴らは、みんな15年前に逝っちまったよ」。彼はツアーの時は、日を重ねてゆく毎にだんだんタフになってゆくのです。例えば、ヨーロッパツアーを2か月間行うとします。最終日が近付いたころの早朝夜明け前に、彼に声をかけても、彼はきっと素晴らしいパフォーマンスを見せることでしょう。僕が初めて彼のバンドのツアーに参加した時のことです。ニューヨークからヒューストンへ車で移動し、本番をこなして、そのままロサンゼルスへ車で移動し、また本番。彼は70才かそこらでしたが、眠気のまばたき一つしない。一方僕達は彼よりも40・50歳も若いのに、ヘトヘトになっていたのです。 

 

彼の教えには、いつも彼の実感がこもっていました。彼の実行力、能力、信念は強く、傍にいるだけで、演奏とは何なのか、を学ぶことが出来たのです。彼のアプローチは気さくで自然でありつつも、本番に向けての練習中は、度が過ぎるほど他のメンバーに気を配り、そして何より、本番お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかに心を砕いていました。「演奏は音量変化をしっかりつけて、人々は音楽に込められた物語に反応する。練習は完璧に、下手で薄っぺらで準備不足のパフォーマンスを聞くのに金を払う人などいない」。 

 

彼は、物事を理解しようと頑張る人には、とことん味方になってくれました。これは優れたジャズのバンドリーダーというものを考える上で重要な性格(キャラクター)です。バンドリーダーとのやりとり、といえば、「ちゃんと聴けよ」「いや、聴いてもわからないですよ」「だったらやめろ」。聴いても解らない、が延々続けば、「もうお帰り下さい」ということになってしまいます。リハーサル中、ブレイキーは常に、本番と同じテンションで演奏していました。その理由を尋ねると、「俺はこんな風にしかドラムを叩けないからさ」と答えるのです。 

 

ドラムといえば伴奏楽器ですが、彼はソリストに対して、どのように音量変化をつけてゆくかを組み立て行く達人でした。囁くような音量から吠えるような音量まで出せるという、彼の代名詞ともいうべき「プレスロール」(訳注:ドラムのロール奏法の一つ)は、たった2秒で、つま先で撫でるようなp(ピアノ)から足踏みするようなf(フォルテ)まで音量を一気に変化させることが出来たのです。彼は他人に花を持たすことを厭わない人でした。リーダーとしては、心広く、人にインスピレーションを与えるような存在であり、自分が関わったミュージシャン達に対しては、彼らの力をいかんなく発揮できる舞台を与えることで、その力を最大限に引き出すことのできる人でした。 

 

そんな風に接するうちに、ある時彼らにこう言ってやるのです「そろそろ君も自分のバンドを立ち上げて自分の音楽を発信してゆく時だ。もし行き詰って、金でもモノでも困ったら、いつでも戻ってこい。俺達はいつでもここで待っていてやるからな。」彼は自分のバンドを家族のように切り盛りしたので、彼に関わったミュージシャン達は、再び彼の元を訪れるのでした。 

 

僕達がニューヨークの名門ジャズクラブ「マイケルズ」に出演していた頃は、タイコ叩き達は皆、よくここに集まってきたものでした。パパ・ジョー・ジョーンズ、フィリー・ジョー・ジョーンズエルヴィン・ジョーンズ、ルイ・ベンソン、マックス・ローチバディ・リッチといった錚々たる顔ぶれが居並ぶと、そこはまるでドラム奏者達によるジャズクラブの様でした。「他のミュージシャン達は鳴かず飛ばずになっちまったが、俺たちタイコ叩きはバリバリだぜ。」などと、よく言ったものでした。今となっては昔の話ですが、1980年代初頭は、幅広い世代のドラム奏者達が、元気にスウィングを効かせていたのです。皆がブーの元を訪れるようになりました。彼のサウンド、演奏表現、ジャズ・メッセンジャーズの音楽には、彼のジャズ全体に対する愛情が込められていたのです。彼はよく管楽器奏者達にシャウトコーラスを吹かせてやったり、バンド全体ではリフもよくやらせたりしました。これは通常規模の大きなバンドがすることですが、彼は小編成のバンドであっても、これをよくやらせていました。きっと彼は、自分がこよなく愛したビッグバンドの全盛期が懐かしくて仕方なかったのではないか、と僕はそんな気がします。当時僕はビッグバンド用の譜面が書けず、今そのことがとても悔やまれます。出来ることなら、今再び、彼と仕事がしてみたい、と願うばかりです。 

 

まだ若く経験が浅い自分を取りててくれるバンドリーダーに対して、心に抱く敬愛の気持ちを言葉で説明するのは、なかなか大変です。チャンスを与えてくれる人のことは、いつまでも忘れないものです。ジャズミュージシャン達が「彼のおかげで今の自分がある」という言葉の重みは、大変なものです。 

 

もし僕が彼を一言で表現するとしたら、「不滅」、という彼のアルバムタイトルの一つを使うでしょう。彼はまさにそのものでしたから。それだけに、彼の死は、僕達全員にとってショックでした。ハーレムのアビシニアンパプテスト教会での追悼集会でのことは、未だに忘れられません。大変な数の元妻達とその子供達が全員参列していました。会はとても和やかな雰囲気で、彼の思い出を肴に、演奏や談笑の華を咲かせたのです。彼が皆から愛されたのは、彼自身が音楽や僕達皆に心を砕いてくれたからにほかなりません。彼の生き様は、ジャズの神髄を体現したものです。それは「安易に手に入れるようなものは、あっけなく失われてしまう」というものです。彼は人を決めつけるようなことをしませんでした。自分の演奏に厳しく、他人への演奏面での要求は安易に妥協せず、スウィングは常にビシッと決める。しかし彼が決して言わなかった一言は「俺の考え通りにやれ」。何事に対しても誠実であることが、どれ程価値があることか、そしてそういう生き方を選ぶことが、どれ程大きな力になることか、彼はそれを教えてくれました。 

 

おススメの銘盤 

 

モーニン 

 

フリー・フォー・オール 

 

バードランド(訳注:ニューヨークの名門ジャズクラブ)の夜 第1集~第3集 

 

オーネット・コールマン 

(訳注:原書出版時2008年の7年後に逝去) 

 

数年前に偶然にも、オーネット・コールマンに、とあるミュージックストアで出くわした時のこと。ひとしきり話をした後、彼が僕に言った意外な一言「後戻りするなよ」。というのも、彼自身の音楽の原点が、ずっと古い時代にあるからです。彼は音楽の歴史の流れから外れた存在であり、時代の先駆者であり、そしてずっと古い時代、それもジャズが生まれる前の頃にベースがあります。彼の演奏方法は、コード進行に従ってインプロバイズする方法が確立される以前、メロディと装飾音型だけで演奏していた時代のものなのです。メロディのネタが豊富で、ハーモニーのことを知らなくてもできることから、彼の音楽は、幼い子供達がインプロバイゼーションを学ぶ上で大変良い教材になるのです。 

 

元々彼はチャーリー・パーカーのスタイルを基礎にしていました。初期の楽曲「バード・フード」などに、それを垣間見ることが出来ます。しかし彼は、努めて、人が話をする際につける仕草の変化を、演奏に反映しようとしました。また、彼は、むせび泣くような演奏の仕方を特徴としています。彼の、最も物悲しくて頭に残る楽曲「寂しい女」は、同時に彼にしかないサウンドを聞かせてくれます。彼は超一流の、メロディを主とする音楽家であり、ジャズの歴史上No.1ではないかと思われます。彼が音楽を組み立てるスタイルは、知的であり、ハーモニーを変化させることなく、目まぐるしく変わってゆく人の心の様子を、音に描いて見せたのです。 

 

一時彼は、伝統的な形式、主に変化をつけたブルースとリズムに固執していたことがありました。しかし間もなく彼は、フレーズの区切りにこだわらずに、純粋にインプロバイズしてゆくために、その両方ともいっぺんに排除してしまったのです。こうして、ひたすら自由に流れてゆくメロディ、というスタイルが出来上がりました。若い頃、彼は一時期ニューオーリンズに住んでいました。彼のカルテットにいた名ドラム奏者であるエド・ブラックウェルは、1950年代に僕の父と一緒に演奏活動をしていました。ブラックウェルによると、オーネットは彼に対し、4小節/8小節だのといったフレーズの区切り方をするな、とよく言っていたそうです。常に、より自然に湧き上がってくるような、実生活での人間同士の意志のやり取りを演奏の中にも求めていて、偶数単位と決めてフレーズを演奏していなかった彼は、「俺のフレーズを終わらせるな」とよく言っていました。彼には1小節毎が、あくまでも区切りだ、というわけです。 

 

彼のスタイルは何が革新的なのか。それは、メロディを自由に流し続けることで、一般的なコードのパターンにはまってしまい、使い古されたような感じのするメロディが、クドクド繰り返されるのをのを防ぐことが出来るからです。ところがこれは、プレーヤーにとっては足枷なのです。というのも、コードといえば、音楽表現をする上での4本柱の一つだからです(残りの3つは、リズム、メロディ、そしてテクスチャ[質感])。そしてコード進行に乗って新しくメロディを創ってゆくことは、ジャズのインプロバイゼーションにおける最も大きな挑戦だからです。このスキルの重要性に対し、一石を投じたのが、オーネットであるわけです。彼の後進の多くは、彼の様なメロディに対する才能やブルースに関する十分な知識は持ち合わせていませんでした。オーネットが活躍し始めてからというもの、ジャズのインプロバイゼーションとフリーインプロバイゼーションが混同される傾向が強まり、そして「まともな」と思われているライター達の中には、ヨーロッパの方が旧来のブルース形式にとらわれずインプロバイゼーションをするという点で、新のジャズの革新派である、などと本気で信じ込む者が出てくる始末。 

 

数年来、オーネットは同じ演奏スタイルを維持し続けています。時々ヨーロッパのアヴァンギャルド的な手法に手を出すことはありますが、哀愁漂うサウンド、天才的なブルースのメロディ、炎のように熱く、そして自然と体が動き出すスウィングのリズムといったものが、彼を根っからのジャズマンだと説明しています。 

 

彼は、共感的理解の大切さを教えてくれます。彼に話を聞いてもらっている時に感じるのは、こちらの言いたいことが既に理解できていて、そしてこちらの言う事をしっかり把握し、その深い意図に反応してくれている、ということです。本当によく耳を傾けてくれるので、「どうやってこちらの思っていることがわかってくれるのだろう?」と感心してしまいます。オーネットは、こちらが話すそのニュアンスを全て感じ取り、どんな小さな情報も、どんな表情仕草も、すべて把握しようとします。その姿勢からは、表にでない細やかなことまで注意を払う大切さを、教えられます。誰かが思わず眉をひそめる。彼はそれを音にして見せます。目上の人と会話中、時計を見たいけれど、話に興味がないと思わせたら失礼かな、と心が葛藤する。彼はそんな気分をも音にして見せます。オーネット・コールマンとは、他のどのジャズミュージシャンよりも、人とのやり取りの中に生まれるわずかな心の揺らぎをも、完璧に音にできるミュージシャンなのです。 

 

彼は他人の演奏をしっかり聞くことが出来る人です。それは僕が彼の家に行って一緒に演奏した時に知ったことです。どうしても音楽という言葉は、相手が話を分かってもらえず、イライラする代物です。話を振っても、キチンと返ってこない。こちらが小さく吹いても、相手は大きく吹いてくる。こちらがポリリズム(複合リズム)を演奏しているのに、相手はドタバタ突進するだけ。こちらがソリストに「おい、バックを聞いてたのかよ?」と訊けば、相手は「え?なに?」と返すだけ。その点、彼のインプロバイズのやり方は、他の頭デッカチなその他大勢のミュージシャンなんかよりも、よほど勉強になります。オーネットは教えてくれます。才能とは通説を極めることではなく、どこからでも喰い漁って行けばいいんだ、と。 

 

おススメの銘盤 

 

ジャズ 来るべきもの 

 

オーネット! 

 

世紀の転換 

 

 

 

 

次回は、ジョン・コルトレーンついて、ウィントンの語った部分を見てゆきます。 

「Moving to Higher Ground」を読む 第8回の1:序章、ルイ・アームストロング

第6章  名人達から教わったこと 

   

<写真脚注> 

最高の教育の機会 - ジョン・ルイス大先生との共演。本番の舞台上で演奏するというプレッシャーのおかげで、1回のコンサートで2か月間練習室に籠り切って身に付くものと同じものが得られるのです。 

 

黒人霊歌で僕が「いいな」と一番思うのは、歌の中では、モーゼやイエス、エゼキル、そしてアブラハムといった、本来違う時代の人とされる人物達が、あたかも今この場で、声をそろえて「私は彼らと語り合った」と言っているかのように思わせてくれることです。 

 

僕にとっては、過去の出来事と言うのは、全て消えることなく残って積み重なってゆき、それが今という瞬間を作っているように思えます。でも訳あって、この考え方が受け入れてもらえない分野があって、それがジャズの教育や演奏活動、あるいは批評の仕方なのです。「過去の積み重ね」という考え方ではなく、耳にすることが出来るのは、あまりにも単純化された説明の仕方で、ジャズに関する物書きの方々が好んで繰り返し語る「順調に伸び行く音楽の進化」というやつです。極貧の黎明期、ニューオーリンズでの20世紀初頭の前後10年。喧噪の成長期、シカゴやニューヨークでの1920年代の10年。ビッグバンドスウィングの1930年代。ビーバップが誕生した1940年代。その後の乱立する学校や学校以外の教育機関の時代。それぞれが、ブルースという根源からジャズという音楽を、より彼方へと進化させていった、と物書きの方々は言うのです。 

 

でも本当に優れたミュージシャン達は知っています。このジャズという音楽は「学校」とかそういうこととは全然関係が無い、ということを。僕の父も言っていますが「学びの場(ステージ)は唯一つ。『君は演奏できるのか?』という学びの場(ステージ)だ」。その問いかけには、男女問わず、「できるさ」と心から答えられる、それが求められる場(ステージ)なのです。 

 

僕は色々な人の話から、ジャズについて非常に大切なことを多く学びました。その人達の色とりどりの語り口のおかげで、話題に上る音楽の周辺とその中身に、自分も入り込めるのです。ジャズは、人とその行いを表現する音楽です。ミュージシャンの名前を口にするだけで、サウンドに込められているそのミュージシャンの人となりが、呼び起こされてきます。時々ベテランのミュージシャン達は、ぼーっと座って、聞いたこともないようなミュージシャン達の名前を次々と口にしては、何某はどこの出身だとか、この曲の演奏は良かっただの、あの曲の演奏は良かっただのと褒めちぎってゆくのです。「そうさ、ボビー・ムーアってやつは、性格がきつくて、やたらとまくし立てる男だった。ディジーディジー・ガレスピー)に訊いてみな。教えてくれるだろう。ボビーが自分の楽器を持って部屋に入ってくると、皆、自分の楽器を片付けてしまったものさ。」 

 

時には、色々な名手達の行いから、僕は学びました。1980年代後半、僕達はパール・ベイリーとのコンサートを開催しました。彼女はこの時、僕に差し入れをくれたのです。昔はミュージシャン達は、本番を一緒にする時はいつも礼を尽くしたもので、それを伝えたくて、とのこと。今、僕はジャズフェスティバルが開催されても差し入れはしませんが、いずれはそうするべきかな、と思っています。 

 

トニー・ウィリアムズが、マイルス・デイビスのバンドでドラムを叩いていたのは、彼が17、18歳の頃でした。彼はアルバム全曲 - 一人一人のソロも、空で歌うことができたのです。気性が激しく、人とは打ち解けないし人付き合いもしない性格でしたが、音楽とそれを奏でるミュージシャン達に対する観察力の素晴らしさを、随所で発揮していました。ミュージシャン達というものは、最高に調子が良い状態の時は、演奏中に足踏みをしないことに気付いた、と彼は僕に教えてくれたことがあります。というのも、そもそも演奏中に足踏みなんかしてしまうと、出てくるリズムが、ポリリズムと言って、腹をさすりながら頭をポンポンとはたくような、妙チキリンなものになってしまう、というわけです。 

 

ドラムの名人、エルヴィン・ジョーンズは、世界でも指折りのソウルフルな男でした。僕はよく彼の家に夜の11時頃に訪ねてゆくと、奥様のケイコさんが、ロブスターだの寿司だのを用意してくれていて、日本酒なんかも次々と出してくれました。何回かツアーで一緒に彼とは回ったことがあり、僕は彼を父親のように慕っていました。ある時僕達が共演した際、かなり激しい演奏になってしまったため、僕の唇が出血しだしてしまったことがあります。彼の音量があまりにも大きすぎたためなのですが、そんなこと思っていても言いたくなかったので、彼には黙っていました。でもそうもいかず、結局恐る恐る彼に言ってみたのです。彼はしばらく僕をじっと見ると、こう言いました「そういう時は言わなきゃ。誰も解らんだろうが」。 

 

ジャズの作品を合わせ練習する際に必要なのが、これを仕切る人の「外交的手腕」というやつです(大げさに言えば)。仕切る人の音楽性に「ついて行こう」と思わせなければなりません。言いたいことを、しっかり伝えたり、グッと我慢したりと、絶妙な綱渡りをする必要があります。何だかんだ言っても、仕切る人が一人で出来ることなど限られているわけで、他の人達が演奏の大半を作ってゆくわけです。その中でも特にドラム奏者の存在は大変大きなものがあります。彼とは口論になってしまったら大変です。作曲やバンドリーダーもこなした円熟のミュージシャンだったベニー・カーターは、ジャズ界では最もエレガントな人でした。彼の音楽は、洗練され、明快であり、自身の音楽への取り組みは真剣そのものでした。僕は一度彼が、言う事を聞かないドラム奏者にイラついているのを見たことがあります。二人とも互いに譲らず、押し問答が続きました。ベニーは「外交的手腕」を発揮し、「好きにしな、好きにしな」と言って、この大論争を収めたのです。これとは別の方法を取っていたのがフランク・ヴェス。編曲もこなすテナーサックス奏者で、カウント・ベイシー楽団の大黒柱だった人です。彼のやり方はこうです。「お前らバカ共は、なんでそんなバカデカイ音をかき鳴らしてんだ、あ?!」と「質問」をし、音量が下がるのを待ちます。すると音量が下がってゆく、というわけです。 

 

ミュージシャンの中には、人をこき下ろすにしても、ユーモアを交えてくる人達がいます。1987年の夏のこと。僕達のツアーに参加してくれたチャーリー・ラウズは、セロニアス・モンクの楽団の偉大なテナーサックス奏者です。彼の演奏は最高にスウィングの効いた、的確なものでした。彼のお気に入りは、僕達の荒っぽい演奏スタイルである「バーンアウト:焼き尽くし」。テンポを加速し、あらゆる種類のドラムのリズムパターンをピアノと連動させ、その間ベースが喰らい付き、頑張ってビートを重ねてゆくのです。ある夜、セントルイスのクラブでのこと。僕がテンポの速い、スウィングをかけない細かな音符が並ぶ、高音域の狂ったような、メロディックでないれど吹くには楽しいという、延々続くソロを吹いたのですが、僕が汗だくになっているのを見たチャーリー・ラウズが言った言葉は「すごいや、お客さんが喜ぶわけだ」。 

 

じっくりそう考えてみると、小さい頃から、僕の身の回りにはレコードやら生身のミュージシャンやらが沢山存在していたにもかかわらず、僕の音楽面での好みは、自分と同世代のそれと大体同じでした。そしてある程度僕が理解し始めていたのは、こういったミュージシャン達の偉大さは、彼らの五感の鋭さと、そこでつかんだ思いを力強く表現することに在った、ということです。今までに、彼らのほぼ全員に面と向かって会い、そして幸運にも、彼らの多くと演奏を共にしてきています。他は彼らの演奏の録音を通して知っているだけですが…。ではここで、13名の名人達から教わった、より大きな教訓の数々を、おススメのCD数タイトルと共にご紹介します。当然のことながら、ジャズというものは、誰の許可を得ずとも、自分にとってためになることを見つけてゆけば良いのです。演奏に耳を傾けさえすれば良いのです。 

 

ルイ・アームストロング 

 

ルイ・アームストロングに会ったことはありますか?」といつも聞かれます。 

 

僕の答えは「ありません。そして会わなくて良かったと思っています。なぜなら、彼に対する僕の好みがハッキリする前に、彼は1971年に亡くなったからです」。彼はラッパを持つアンクル・トムみたいなものでしかない、と僕は考えていました。こんな大御所を目の前にして、無礼千万な考えや思いを、心に抱いてしまう機会が巡ってこなくて、本当に良かった、と思っています。 

 

ルイ・アームストロングといえば、誰よりも深みのある感情表現と、高いレベルで洗練された音楽性です。彼は飾らない心と思いやりを持ちながらも、心に大きな炎をいつも灯していました。牛のように体格が良く、その気になれば人間を一人ノックダウンさせてしまうこともできた、とのこと。 

 

ルイ・アームストロングは、人は誰にはばかることなく、自分らしくあるべきだ、ということを示した人です。常に彼は自分自身を把握し、そして愛おしみました。彼は自らのアーティストとしての腕前に誇りを持ち、これを大切にしましたが、同時に、例えば「読み書き」といった、自分がしっかり取り組むべき課題と自覚していた事柄についても、キチンと向き合っていたのです。 

 

ポップス(訳注:ルイ・アームストロングの愛称)は、社会階層のドン底にあえぐ者の一人として、貧困の苦しみの中で育ちました。世間の最下層を知る彼にとっては、貧困とは、お金に困っている人々のアイデンティティを定義する要素には、必ずしもなり得ないモノでした。彼を育てた人々は、極限状態にあっても生きることを大切にし、その前向きな姿勢は彼にきちんと受け継がれ、後にそれは彼の奏でるトランペットの音に乗り全世界へと伝わったのです。僕が育ってゆく過程で出会った、最もお金に困っている人達、例えば僕の大叔母や大叔父といった人達というのは、最も輝いていた人達でもありました。一緒に居るのが実に心地よい人達です。美味しいモノを一緒に食べて - と言っても、豆御飯だの、ベーコンサンドだの、ハヤト瓜の詰め物ですが - 「色々なことがあった」幼い頃の思い出話を、いつも実に楽しそうに聞かせてくれたのです。 

 

では皆さんも、ルイ・アームストロングになったつもりで、彼の生い立ちを一緒に見てゆきましょう。幼い頃、彼は子供達だけで編成したカルテット(訳注:バーバー・ショップ・カルテット)で歌っています。誰もが彼の歌声を聞くと「大したもんだ」と言います。そんな折、大晦日の晩のこと。ふざけて銃を発砲してしまったことにより、警察に逮捕されてしまうのです。収監された先は、有色人種の浮浪少年達が専ら集められる「少年の家」。ここでコルネットを習い始めると、みるみる他の子供達を追い越して上達してゆきます。「ルイ君はスゴイな」と皆が口々に言います。ニューオーリンズには当時からコルネットの名手が沢山いて、彼は以前からこういった名手達の演奏を、鋭い感性を持つ耳で聴き漁っていたのでした。その時、彼の耳に入ってきたのは、名手達が奏でる音だけでなく、「奏でようとする」心であったのです。やがて彼は、その両方を自分のモノにしてゆきました。 

 

彼は、様々な機会に自分の才能を世に示し、その度に自分への誇りの気持ちを膨らませてゆきました。彼は同世代の若者達から群を抜いて上手かった - それも桁外れに。誰よりも学ぶ吸収力があり、誰よりもハーモニーを聞く力があり、誰よりも心に残るメロディを生み出す力がありました。「教えてくれよ」と皆が乞うてきたのです。17歳になるまでには、彼はニューオーリンス中の大人達よりも腕を上げていました。 

 

その後彼は、キング・オリバーの楽団に入団します。楽団が本拠地を置くシカゴで、彼に「そうだ、シカゴでも俺は誰よりも上手くなってやる」という思いが降りてきたのです。彼はニューヨークへ向かい、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に入団、ここでも気付けば抜群の腕を見せつけました。やがてヨーロッパにまで進出を果たしました。どこへ行ってもこんな感じで、彼は「皆、自分の才能をちゃんと評価してくれている」と思ったのです。 

 

やがて彼の演奏を聞いた人々は、皆彼に心惹かれるようになりました。しかし中には、彼が、極貧・無学の人々が無邪気に心からの喜びを謳歌するその象徴である、として、彼を見下し嫌う人達もいたのです。彼は気にしませんでした。何故か?そういう人達とは関わらなかったからです。幼い頃などは特にね。「そういう人達」が味わうことのなかった喜びや悲しみを、彼は沢山味わいました。そして、「そういう人達」は、彼の様な人材を世に送り出すこともありませんでした。だからこそ、彼はこう思ったことでしょう「そうとも、あんたらは多くを手にしているかもしれないが、俺に様に吹けるヤツはいないじゃないか」。とね 

 

何度も言いますが、「桁外れに」吹ける、のです。この「桁外れに」がポイントです。「大半の仲間が、程度の差こそあれ自分と同レベルの演奏ができるかどうか微妙だ」ではありません。「自分が23,24歳になると、もう誰も自分の足元にも及ばなくなってしまっている」なのです。これは「桁外れ」な違いですよね。ポピュラー音楽に携わる者全てが、彼のマネをしました。その数は計り知れません。彼が訪れることのできない場所など、この世界にはどこにもなかったでしょうし、人々は彼の真似をしようとしました。彼の方も、それを知っていました。1929年、あるいは1930年頃までには、ポーランド人、フランス人、イギリス人、ロシア人、と、誰もが彼のようになることを目指しました。彼は行く先々で、自分の真似をしようとする人々の演奏を耳にして、そういう人々全てに、彼は喜びと幸福をもたらし続けました。そんなことが出来る人は、きっと自分も最高の気分であることでしょう。 

 

ルイ・アームストロングは、誰かの真似をしようなどとは考えもしませんでした彼の演奏には一つのごまかしもありません。「一点の曇りのない芸とはこのことですアインシュタイン自分の考えだした相対性理論の方程式は十分単純な作りになっているから、間違いなく「正しい」と証明される、と言ったとされています。アームストロングの芸も、それと全く同じく単純:「自分らしくてOKだ」。 

 

ルイ・アームストロングサウンドには、癒しの力があります。彼の演奏には、自らの経験に基づく知恵と、人々を受け入れる寛容さがあります。自分に本当に不幸な出来事が起きた時に訪ねてゆく人の声の中に聞こえるサウンド、というものを、彼は持っています。「訪ねてゆく人」とは、自分のおばあちゃんだったり、おかあさんだったり、そのような人達だったりします。そういう人達は、声や手のぬくもりを通して、「大丈夫だぞ」と教えてくれます。ルイ・アームストロングの音楽全体に見受けられる、その感覚、温もり、親しみ、そして「この人には何を言ってもわかってもらえる」という感覚 - 彼には、聞く人の視点に立って理解しようとする姿勢があった、ということなのです。 

 

ジャズのライター達によって、ジャズに関する誤った認識に基づいた線引きが、成されてしまっています。若い人達が、今までにない演奏方法を創り出すと、それはすなわち、年配の人達に対して当然示すべき敬意を捨てた、という印象を与えてる。そういった時代の流れや音楽の形式を「革新」と表現して、表面的な細分化をしようというものです。例えば、前衛芸術の典型とされる、ジョン・コルトレーンのカルテットは、「自分達はルイ・アームストロングよりも先進的だ」、と思っていたのではないか、と考える人がいるかもしれません。とんでもない話です。メンバーであったドラム奏者のエルヴィン・ジョーンズが、かつて僕に話してくれました。ある時、カルテットがシカゴで公演を行った際、ルイがこれに参加したのですが、メンバー全員、彼の前ではすっかり子供のようにワクワクしてしまった、とのこと。ピアノ奏者のマッコイ・ターナーも、その夜のことについて、「あの人は、やっぱり王様だ。オーラがすごかったよ」。 

 

おススメの銘盤 

 

ホットファイブ全集 / ホットセブン全集 

 

タウンホール・コンサート 

 

サッチモ音楽自叙伝 

 

 

 

次回は、ドラム奏者のレジェンドアート・ブレイキーについて、ウィントンの語った部分を見てゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第7回

第5章  仲良きことは美しき哉 

   

<写真脚注> 

スウィングダンス:誰もが心に抱く願いを、立場を越えて表現する最高の方法 

 

ミズーリ州カンザスシティで公演を行った時のことです。ボブ・ホールデン知事が僕達一行を昼食に招待してくださったのですが、丁度その時刻に、ミズーリ大学のバスケットボールチームが、大一番の試合を控えているところでした。正直、ホテルで観戦したかった、と思いつつ、ジェファーソンシティの知事邸に到着。ところが知事の方も、何となく目が訴えているように僕には見えたので、恐る恐る「ところで知事は、バスケットボールは御覧になったりしますか?」と訊ねてみました。思った通り、彼はすぐ満面の笑顔で「よくぞ言ってくれました!ささ、2階へ。試合が始まりますよ。」 

 

テレビ観戦が終わり、下の階で食事ということになりました。会話の中で、知事が子供の頃仲良くなった黒人の子の話をしてくれました。知事の生まれた小さな町には、黒人の住民が一人もいなかったとのこと。ある時、重病を患い入院した先で、同い年で同じ病気で入院していたその子と同室になったそうです。「ああ、また『私の知り合いの黒人』話か・・・」と思ったのも束の間、知事の次の言葉に、僕はハッとしたのでした。「今更、黒人も白人もなく仲間のはずなのに、こんなような聞くのもウンザリな話題ばかりで、いつも会話が弾む羽目になってしまう。お互い知り合いになっただの、仲間の輪ができただの、こういう話がいつまでたっても『この国全体がそうなった』にならない。皆さん、どうしてなんでしょうね?」 

 

数年後のこと。ルイジアナ州の州都バトンルージュは、同市の二つの大学の快挙に熱狂していました。ルイジアナ州立大学が全米フットボール選手権優勝、サザン大学が南西部黒人インカレ総合優勝を、同時に果たしたのです。大喜び一杯のヴェス・アンダーソンが、僕に電話をくれました。彼が電話をかけてきたところは、一日がかりの祝賀イベントの真っ只中で、その最高潮に達したのが、両校のマーチングバンドによる州議事堂入口階段での国家合同演奏でした。「こりや、今夜のニュースはこれできまりだね」彼は笑ってこう言いました。この後、暴動でも起きない限り、この合同演奏がニュースにならないわけないだろうと、僕達は二人ともそう思いました。なのに結局、ニュースにはならず、後に人々の記憶から消えてしまったのです。 

 

ホールデン知事が望む「国全体が『知り合い、仲間になった』であるとか、バトンルージュの州議事堂階段で肩寄せ合って歌い上げた、二校のマーチングバンドといったものが示すもの、これがジャズの本質的な要素なのです。まるでジャズは、この国における人種差別の偽善や不条理をさらけ出すために創られたようにすら、思えてなりません。 

 

かつて植民地政策を敷いた国々は、征服した人々に対して創り用意した社会環境が、それぞれ異なっています。本国の人々と征服された国の人々について、フランスは混在させ同化させた。スペインは混在させ抹殺した。イギリス人は混在させるも、それがイギリス人によるものではない、と信じ込ませたのです。つまり、理論や法、そして「イエスの御名の下に」というキリスト教の決め台詞でガチガチに固め、「神の救済」と言う名の苛烈な管理体制を敷いたのでした。アフリカから連れてこられた奴隷達は、南北アメリカ大陸のいたる所に居たものの、USAにおいては、奴隷とは、拘束されるべき人間であり、それによって、アメリカの象徴たる「個人の自由」がバランスよく保たれるよう仕向けられました。奴隷は、合衆国憲法において、「一人」とは数えられず、「3/5人」と数えられるよう規定されたのです。彼らを奴隷の状態のままにしておくことによる経済効果は絶大であったため、やがて国家全体として行うことになってゆきます。同時に、アメリカの精神的アイデンティティに暗い影を落とすことになり、それは今なお続いています。 

 

国歌で「自由の大地」と歌い上げられるこの国で、人を「所有物」として扱ったことの名残、そして、奴隷制度廃止の後に始まった人種差別、こういったことによって引き起こされた様々な問題は、多くの犠牲者を出した南北戦争や、その100年後に発生し、今なお決着のつかない公民権運動があったにもかかわらず、未だに解決されないままです。奴隷制度は、その後のアメリカの政治体制、金融体制、倫理観、そして憲法で崇高に謳われる中心的概念「全ての人々に平等な正義」「全ての人々は平等に創られている」云々、こういったものを作る上で影響を残しました。「全ての」:いい言葉ですよね。「一部の」なんかよりも。 

 

ここで僕から問題提起を一つ。ジャズと言えば、アメリカが世界にもたらした最も偉大な芸術です。これを創ったのは、かつて奴隷制度から解放され、社会の「最少数派」とされていた人々です。ところで、これと同じことは、アメリカ以外の社会でも発生していたのです。例えばブラジル。社会学者のジルベルト・フレイレは、著作「大邸宅と奴隷小屋:ブラジルの市民社会発達についての考察」の中で、サンバが持つ国民全体にとっての重要性について着目しています。サンバはブラジル人の精神そのものであり、国民的音楽として絶対視されるべきものだ、と彼は述べています。そしてサンバの原点がアフリカの一地方にあるというなら、ブラジル人である、ということは、一部アフリカ人である、というのです。 

 

フレイレがこの本を書いた1933年、当時アメリカの有識者団体はどこも、黒人をキチンとした形で受け入れようとすることが出来ていませんでした。こんな調子でしたから、アメリカを代表する音楽(ジャズ)は、アメリカ国民が分かち合う伝統文化の中心にあるとは、到底見なされません。 

 

ジャズとは、ある特定の人種の為の音楽ではありません。全ての人が演奏し、そして聴いて楽しむものです。実際人々は、ずっとそうしてきています。しかしジャズのこれまでの歩みを人に伝える上では、どうしても深く掘り下げて語らねばならないことが有ります。それは人種隔離、白人/黒人しか在籍していないバンド、人種差別、性差別、メディアの影響、そして「アメリカ人とはかくあるべきだ」という物の考え方です。未だに、黒人か白人か、と言う物事に対する見方がなくならない傾向にあります。マーチン・ルーサー・キングJrは黒人にとっての指導者、と見なされているようですが、彼が導いたのは黒人にとどまらず、多くの人種・肌の色の人々だったのです。公民権運動は黒人解放運動と思われがちですが、実際この国民全員が関わった運動は、アメリカ人皆の目標である、合衆国憲法と言う紙に書かれたことを実現し実行しようということが、その中心にありました。ジャズも全く同じことです。 

 

ミュージシャン達は、普段の生活の中では差別を受けていましたが、自分達が音楽を学ぶにあたっては、差別など全くありませんでした。白人のテナーサックス奏者、スタン・ゲッツは、自分がこれと思い惚れ込んだプレーヤーの演奏スタイルに影響を受けてゆきます。野心的で才能に恵まれ、頂点を目指した彼にとって、最高のものは黒人プレーヤーによるものだったため、そこに注目してゆきました。マイルス・デイビスが影響を受けたのは、黒人のフレディ・ウェブスターと白人のハリー・ジェームスです。ルイ・アームストロングに影響を与えたのは勿論、彼のメンターであったジョー・「キング」・オリヴァーの演奏スタイルですが、同じ様に白人プレーヤーであったボフミール・カレイルやハーバート・クラークの演奏スタイルからも影響を受けています。これこそが音楽と言うものです。好きなものを耳にしたら、それを自分が演奏してみる。特にテレビなど無かった時代には、プレーヤーの見た目よりサウンドの方が、はるかに大事でしたからね。人種に関する奇妙な思い込みが、歴史に蔓延してしまっているのです。ジャズがもたらしてくれる「共に行こう」という素晴らしい発想は注目されず、いつの時代も「この演奏はどんな人種が行っている」に目が行ってしまうのです。 

 

その思い込みは、今でもアメリカに巣食っていて、人の時間を無駄にし、ジャズの精神を蝕んでいます。 

 

それは歴史上、早くから見受けられました。ジャズの持つ情報量や知的センス、そして人間性の深みといったものは、黒人に対する不合理な扱いというものを、くっきりと人々に示して見せました。そのため、知識層による誹謗中傷の圧力も、すぐに発生したのです。ありとあらゆる手段がとられました。一つは無視すること。ジャズを創ったのは黒人、黒人は無価値、故にジャズも注目する値なし。もう一つは貶めること。映像スクリーンで漫画だのセックスのシーンだのと一緒に流すことで、ジャズは子供向けの番組か、「18禁」ぐらいでしか、まともに使えない、としてしまう。この奇妙な取り合わせは、ビデオが普及するにつれて更に密接になってゆきました。こうなると正規の教育機関で扱われることなど、ありえない、ということになってしまうでしょう。公民権運動が興るまではずっと、学校現場では、練習室でさえもジャズの演奏をしたら退学処分、といったことが、黒人の子弟が通う学校においてさえも、実際に行われていたのです。 

 

その後時代は、ジャズを保護・支援しつつも、積極的には取り上げないという風潮に変わります。音楽史の通説として、20世紀の3大影響力とよく言われるのが、ストラビンスキー、シェーンベルク、そして「ジャズ」。「デューク・エリントン」でも「ルイ・アームストロング」でもない、全体カテゴリーとして、二人のヨーロッパにおける巨人と並べられてしまっているのです。 

 

よくジャズは、ミンストレルショーのBGMと間違われたり、売上数重視のダンスミュージックと一緒くたにされたりします。ニューヨークタイムズ紙でも、未だに「ジャズ/ポップス」とひとくくりにされる始末。ようやく、全米各地の何百もの教育機関でジャズの教育が行われるようになったものの、あくまでもアフリカ系アメリカ人歴史学習は切り離されてしまっています(そういった意味では、自国の歴史学習自体が、疎かになっているとも言えましょう)。 

 

訳注:ミンストレルショー(minstrel show) 

1840~1880年アメリカで人気のあった演芸。顔を黒く塗った白人が、黒人の口調や動作をまねて歌ったり踊ったり、あるいは喜劇的な演技をする。 

 

ジャズに対する強い攻撃も行われています。それも、ハッキリとは言わないけれど、残酷なほどに人を小バカにするようなやり方で。例えばニューオーリンズの音楽を「ディキシーランド」などと呼びますが、これは南北戦争以前の、奴隷制を維持していた南部連邦の軍歌と結びつけようとする意図が現れています。「自由を謳歌するヤツには奴隷の鎖を」。そして現在は、強い攻撃はハッキリと行われています。「いわゆる」と前置きして、褐色の肌をした音楽の類、と称し、ブルースをこき下ろし、ジャズの命たる「スウィング」は、どう演奏されようが、もはや過去の遺物だ、と言い放つのです。こういう物の見方が増長する認識というのが、ジャズは革新を遂げてヨーロッパの芸術としての音楽の一翼を担うようになっただの、あるいは、いい加減に演奏されるラテン、インド、アフリカのゴチャ混ぜ音楽へ「進化した」だのというものです。 

 

ジャズに対する最も狡猾な攻撃の一つを行っているのは、自らを「ジャズの友達」と称する人達です。「進んだ物の見方をする人達」を自負する人達が言うには、ジャズは自然発生的に生まれた、とのこと。アレン・ジンスバーグによれば、ジャズは「誰だって演奏できる。ラッパを持って吹けばいいんだ」。当然、もしそれが本当だというなら、ジャズの発展には系統的なものは何もなく、そして黒人の自由解放以外には何の美学的目的もない、ということになってしまいます。 

 

1950年代のビート派の物の考え方、これの現代版が、現在の新しもの好き達による「全ての音楽を愛する」という発想です。その方針はこうです。「私は音楽は何でも好きだ。だからジャズとは何か、なんて関係ない。これはジャズだとか、これはジャズではないとか、どうでもいいことだ」。耳の肥えた優秀な方々にとっては、ジャズの意味などと言うものは存在しない、ということでしょうか。となると、意味のないものは人には教えられない、ということになります。意味も定義もこの音楽にはない、と言う考え方のおかげで、ジャズの教育における精神面での中核は、木っ端微塵にされてしまい、将来ジャズを演奏し、楽しみ、ジャズで人を育てる道は不要だ、ということになってしまっているのです。 

 

ホメロスは、たった二冊の著作で歴史に名を刻みました。「イリヤド」と「オデッセイ」です。それでも、ギリシャ人の共通認識としては、この二冊に込められた内容は膨大であり、だからこそ彼らは何世紀にもわたって、この二冊の読みこなしを繰り返し、ギリシャ人であるとはどういうことか、ひいては、人間であるとはどういうことか、について、少しでも明確な理解の仕方を求め続けているのです。ジャズも、これと同じく、アメリカ人であるとはどういうことか、についての洞察に、展望を与えてくれます。そこまでではないにしても、アメリカ人に理解するよう促せば、そうなる可能性を秘めています。我が国の伝統において、アメリカ人とは何か、についての核心に関する議論は、もはや殆ど行われていません。そして依然としてアメリカ人は、ジャズの定義と同じ位基本的なことについて、皆が合意できていないように思えます。 

 

今や私達は、ジャズとの関わり合いが非常に貧弱です。ジャズと言う言葉も、これに伴い、この音楽が生まれた頃と比べると、きちんとした定義を持たなくなってきてしまっています。ジャズについて、何かを知ろうとするところから始まって、年月をかけて演奏し議論を重ねるうちに、結論としてこの言葉には、実体のある意味がない、ということになってしまいます。これにより、ジャズは人に教えられないモノ、とされる始末。なにせ、ジャズなんか演奏しない、とうのであれば、ジャズを理解するなど出来るはずがありません。努力した挙句、とことん謎めいて不明確になってしまったなんて、まるでジャズの本当の姿を隠すことによって、私達の生きる道に関する重要な真実に向き合わせない、かのようです。ここにあるものは秘密の代物、それがジャズです。 

 

ロックンロールには意味があります。ヒップホップやサルサ、サンバ、そしてタンゴといったものは全て、それぞれ独自のサウンドを思い起こさせます。しかし今日、ジャズは、こういう音楽の総称なのか、はたまたどれにも当てはまらないのか、良く分からなくなっていて、正しく理解されていません。しかしもしもこの音楽が、アメリカ人にとって何かしら意味があるものなら、そこにある様々な要素は、私達の生活の在り様に見られる様々な側面を反映しているはずです。ここのサウンドは重要ですが、アンサンブル全体としてのサウンドも重要です。ステージ上で大勢の演奏が一つに「なってゆく」その過程は、朝鮮人にしろナイジェリア人にしろ、移民がアメリカ人に「なってゆく」道のりに似ています。「なってゆく」ことを望まなくてはいけないのです。スウィングすることの過程とは、常に変化している物事に対して、常に調子を合わせる過程と同じであり、、自由が保証されている社会における今風の生き方です。と言ってもそれを選択する/しないは、その人次第です。 

 

人種差別が産んだ別の強迫観念によって、いつまでも答えを探そうとする羽目になる、本質的にポイントのずれた問題が、「この音楽は誰のものか」です。答えようものなら、肌の色が何色が一番上手か決めよう、などという無益な取り組みをしなくてはならなくなります。要するに、ルイ・アームストロングが一番で、肌の色が濃い目なら、ジャズは黒っぽい肌をした黒人の縄張りだろう、ということになります。しかし、となると、ルイ・アームストロングと同じレベルの黒人は他に誰だ、と言う話です。そしてその人と肩を並べる有色人種、はたまたビックス・バイダーベックのような白人達はいるのか?有色人種である「クレオール」であるシドニー・ベシェより上手な黒人人種のソプラノサックス奏者は誰か?そんな人はいません。「黒人人種」と認められる血の濃さは?ジャンゴ・レインハルトはどうなる?ちなみに彼は、ベルギー出身のジプシーですがね。 

 

本物のミュージシャンだ、という決め手は何か?肌が黒くて先祖が奴隷であることが必要条件か?となると、ジャック・ティーガーデンやバディ・リッチのような白人ミュージシャンと同じレベルの演奏が出来ていない黒人ジャズミュージシャン達はどうなんでしょうか?「十分黒人とは言えない」ということか?となると、ある特定の分野 - 例えば競泳や管弦楽など - で圧倒的に白人が強いのは、黒人に単に競争力がないからなのか?それとも自分の能力に対して狭い料簡を持つことに甘んじてしまうのは、文化の置かれている状況のせいなのか?「生まれつきなんだから、自分じゃどうしようもない。やっても無理なんだから、やるなよ」アメリカのプロバスケットボールの世界では、同じ白人でも外国人であるヨーロッパの選手の方が活躍しています。肌の白さが足りないからか?アメリカの白人選手は、黒人選手の持って生まれた優れた点に対して、これを受け入れようとする文化的背景を育まずに育ってきたからなのか? 

 

別の見方をすれば、黒人はこういった扱いを受け入れるよう、国全体でお膳立てが成され、長い間に亘って状況が好転することなど望み薄にされ、それが黒人の生きる道となってしまったのです。当初黒人に対する差別と抑圧は、あまりにも完璧で、「自由」などというものは感じ取ることすらありえないことでした。ジャズミュージシャン達にとって、「平等」として「優越感」といったものを初めて実感したのは、白人達と黒人達がオフの時間に、一緒に演奏するようになってからです。舞台上では序列は実力主義。だからこそ、コールマン・ホーキンスやレックス・ステュワートといった人達が、人種に関係なくミュージシャン達からリスペクトされていたのです。 

 

ルイ・アームストロング、、シドニー・ベシェ、そしてデューク・エリントンといったようなジャズ奏者達が向かい始めたヨーロッパというところは、舞台上でなくても彼らが普通の人間として扱いを受ける地です。彼らがかの地で享受した自由は、アフリカ系アメリカ人が本国では決して味わえないモノでした。彼らはどんな女性達とも、交流を持ち、男女の関係を許され、そして勿論ミュージシャンである彼らに対し、どんな女性達も関心を寄せたのです。彼らは凱旋の後、もてはやされ、世の中を闊歩するようになりました。小奇麗に着飾り、好きなように振る舞い、稼ぎも増えて、自分達の演奏したいものを演奏しました。世界では自分達の音楽は、民主主義と自由を意味するようになっていたことを、彼らは理解し始めたのです。 

 

ジャズの中に在るものは、アメリカの開拓者達の活力と不屈の精神、そしてそれは、黒人と白人両方のミュージシャンのものです。でもこの国では、舞台上でも、そしてレコーディングスタジオの中でさえ、依然として分離された状態でした。意識の高い黒人達の間では、愛想笑いと「イェッサー!」の一言では拭い切れない、深い憤りの念が、常にあったのです。意識が高くなるほど、彼らの憤りは増幅されてゆきました。しっかりとした教育を受けるほど、怒りは激しくなっていったのです。このように公正でない状態がいつまでも続くと、生きる喜びが削がれてゆきました。彼らが公共の場で辛酸を舐めさせられた社会構造を、粉砕すべく、こう言った人々は自分達の能力とエネルギーを注ぎ込んだのです。 

 

文筆家達、出版業者、そして音楽ファンはこぞって、ベニー・グッドマンを「スウィングの王様」と称しました。確かに彼の率いたバンドは、とてつもなく良い楽団でしたが、当の本人は、その様な自覚はありませんでした。それは当時同じく活躍中だったデューク・エリントンカウント・ベイシーについても同じでした。グッドマンはそう呼ばれることを受け入れていました - 受け入れない人などいるわけがありまあせん - しかし自分は相応とは感じていなかったのです。もし皆さんが黒人ミュージシャンだとして、自分はスウィングの王様となるに相応しいと思いたいですか?多分そういう思いは皆さんを大いに困惑させるのではないでしょうか?デューク・エリントンはその生涯の中で、1920年代はポール・ホワイトマンが「ジャズの王様」、1930年代はベニー・グッドマンが「スウィンの王様」と、それぞれ称されていたのです。 

 

もし皆さんが映画に出演したい、それもメイドだの召使いだのとしてではなく、出演したいと思ったら、もし皆さんがメトロポリタン歌劇場のステージで歌ってみたいと思ったら、そしてその才能が実際あったとしたら、多分その気持ちは皆さんを押し潰してしまうでしょう。ジャズの演奏家の多くは、そういう人達なのかもしれません。 

 

黒人にとっても白人にとっても、ジャズは全て、人種の隔離や差別は間違えていると訴える術でした。白人のミュージシャン達は、我が国では、最も偏見を持たれない人達の部類に入っていたのです。有名な話を一つ。1926年、マンハッタンのローズランドボールホールで開かれたバンドコンテストは、地元ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソン・オーケストラと、中西部から来た白人で構成されるジョン・ゴールドケット率いる楽団との対決でした。ミュージシャン達の点数が集計されました。蓋を開けて見れば、大半の票が投じられたのはヘンダーソンオーケストラ - コールマン・ホーキンス、レックス・ステュワート、そしてベニー・カーターを擁する - だったものの、ゴールドケットの楽団 - こちらはフランキー・バウアーとビックス・バイダーベックを擁する - が結局勝利します。 

 

「完敗だった」とレックス・ステュワートは当時を振り返ります。「あいつら生真面目な白人のボーヤ達には負けたよ」。しかし双方のリーダー共、相手の演奏にしっかり耳を傾けていて、このコンテストの後、ゴールドケットはヘンダーソンオーケストラの首席アレンジャーであるドン・レッドマンに、ヘンダーソンはゴールドケットの楽団のメンバーで、やはりアレンジャーのビル・シャリスに、それぞれ仕事の依頼をしています。両バンドは再び相見え、その時は引き分けています。 

 

さてこのように、圧倒的不利と目された白人バンドが大勝し、これに黒人ミュージシャン達が潔く兜を脱ぎ、双方のリーダーは相手の人種よりも音楽に注目したという美談ではありますが、もし黒人バンドが連戦連勝となったろどうなるのでしょう?きっと勝ちを認められない、若しくは「元々黒人には勝てっこない」と片付けられるか、でしょうね。 

 

ジャズは、「古き良きアメリカの伝統」となってしまった人種差別が、不当であることをさらけ出して見せたのです。ミュージシャン達は、恐らく、そして愚かなことに、そうとは知らず、そしてそう感じることもなく、憂うこともしなかったのかもしれません。何世代にも亘り、人々が犠牲となっていった根深い傷を残すも手間のかからない仕打ち、それらは、木に吊るされることだったり、白人の子供を「ミスター〇〇」と呼ばされたり、等々。それなのにミュージシャン達は、芸術活動に携わる中で物を見る力を研ぎ澄ませてゆくことで、人種差別がもたらす苦情を更にヒシヒシと感じていたにも拘らず、「これは実にあってはならないことだ、あちこちに発信してゆこうじゃないか」とは言わず、「これは実際に有り得ないことだ、あちこちに発信しないでおこうじゃないか」と収めてしまったのです。 

 

人種差別に対する僕の怒りの大半は、ケナーで育った頃に由来します。時代は公民権運動に最盛期からその後にかけて、といったところ。僕にとって本当に酷い思いがするものであり、僕はそれを演奏で表現しました。しかしこれに対し、僕が縁を持ったジャズの大御所達は全て、アート・ブレイキーからジョン・ルイス、ウォルター・デイビスJrまで、人間は人間でしかない、それ以上も以下もない、と信じていたのです。ある時僕がアルトサックス奏者のフィル・ウッズのことについて、失礼なモノの言いようで語った時に、僕を叱ったアート・ブレイキーの様子を、僕は決して忘れることはないでしょう。彼の言う通り、あらゆる憎悪はどこかで終わらせなければなりません。そしてそれを終わらせる一助となろうとするなら、誰にこびへつらう必要はないのです。本当にモンクやチャーリー・パーカーの域に達しようとするなら、彼らは断じて黒人の白人に対する優越感に言及せず、「私達の音楽は全ての人の為のモノとなることによって、我が国の在り様を台無しにする人種差別を完全に否定するようになる」と言ったことを忘れてはなりません。「ビーバップは国民の統合について表現したものだ」ディジー・ガレスピーは僕に、彼にしろチャーリー・パーカーにしろ、彼らの音楽によって統合「されてゆくこと」が目的なんだと言いました。ディジーが僕にこういったのは1980年頃で、当時僕の頭には統合のことは全くありませんでした。「その時代はいつか来るだろう。でもそんな必要はない」僕はそう考えていました。 

 

「統合」と言うものについては、僕は子供の頃の遺恨がありました。1969年、僕が8歳の頃、母は僕を、ケナーにあるキング牧師記念「統合系」カトリックスクールへ入学させたのです。白人の子供達が大多数を占める中、黒人は僕と友人のグレッグ・キャロルのたった二人だけ。もし皆さんがこの「たった二人」だったら、「統合」されたくないはずです。何しろ生徒も先生もこちっらを日常的にいじめてくる連中で溢れかえっている学校なのですから。いじめられるのが快感、というなら話は別ですけれどね。絶え間なくいじめの集中砲火を受けていると、それまで経験したことのない疲労感に襲われました。父はかつて言っていたのは、自分は大人になるまでの間さほど多く白人と出会う機会が無かったので、蔑みを受けたこともなかったとのこと。勿論、社会全体としての不当な扱いは広く行き渡っており、父もそれに適合するようにはなっていました。しかし父は、完全に黒人しかいない環境で育ってきていましたから、26歳になるまではずっと、路面電車の前の方の席に座ることは許されませんでした。僕にしても、統合系の学校へ通いだす以前は、白人と出会うことはあまりなかったのです。ケナーでは、白人が家の玄関口にやってくると、その界隈の子供達はこぞって、その家の父親がトラブルに巻き込まれるような何かをしでかしたのではないか?と知りたがったものでした。そしていよいよ白人との出会いと言うものが本格化し、事態は良い方向へは進みませんでした。「Bozo(おバカさん)」「Hersley Bar(ハーシーのチョコレートバー)」「Burnt Toast(黒焦げのトースト)」といったニックネームは、「おはよう」「こんにちは」あるいは「ようこそ」といった挨拶程度の物言いだったのです(白人側にとっては)。 

 

重圧が常にのしかかっていました。いつもその重圧により、本当の自分らしさを捨て、他人が決めつけた自分の姿を受け入れる。それにより自分を決めつけた人より下等でいなければならなくなったのです。それが正しい行いだと、先生方は信じていましたし、その生徒達も、そしてその親達もそう信じ、議論に上ることすらありませんでした。9歳とか10歳とか、ある程度の処まで全く違う育てられ方をしてきた人間が、人間としての在り様を守るために、戦わねばならなくなったのです。いつも酷い言われようでした。「君って他の黒人達と違うんだね」「うちの従妹、黒人の何者かに強盗に遭った」「君、なんで学校の宿題なんかやるのさ?僕の家の庭掃除をするのに、学校の勉強なんか関係ないじゃないか?」 

 

取っ組み合いのけんかになると必ず、子供達は輪になって取り囲み、こう口々に囃し立てました「喧嘩だ、喧嘩だ、クロンボVS白人様だ」こう言ったことは、年配の世代が耐え忍んだことよりは、遥かにマシだということは知っていました。といって年配の世代が実際に酷い仕打ちを受けていてからと言って、自分自身が置かれている状況を甘受することには、全くなりません。自分の体感したことしか、人は実感がわかないものです。苦しいことは記憶に残ります。それは実際にあったことを歪めてしまうのです。自分のことを「クロンボ」と呼んだ、自分の持っている本の表紙に、勝手に大きな唇の悪戯描きをした、学校でプレゼントの度に猿のグッズを押し付けてきた、そういう白人は一人残らず記憶に残るでしょうが、自分をかばってくれた大柄なドイツ系の子や、家に自分を招待してくれたユダヤ系の子については、記憶を呼び起こすことが難しくなってしまうものです。 

 

所謂「統合」について言えば、全てが異なっていました。本当に細かなことまで全てが、です。いじめに関わらない方の白人の大半は、貧困層とイタリア系でした。だから学食では、いつでもスパゲティやラザニアなどと言ったイタリア料理の類には、ありつくことができました。イタリア料理はいいのですが、毎回となると困ります。家ではいつもクレオール料理というフランス料理の技法に基づく食事が出されました。ガンボとか赤豆とご飯を炊いたもの等です。それから白人達はよく、僕達の話の仕方について、いつもからかってきました。こういったことに不平を言う僕に対し、細かくは覚えていませんが、お母さんは大体こんなことを言うのでした「いいかい、誰にでも生まれ育った場所と言うものがあるし、誰にでも何かしら逃げられない背負っているものがある。だから学校に通っている間は、自分と言うものを捨ててしまう必要はないんだからよ」。お父さんは食べ物については「文句を言うな、何だかんだ言ってみな食ってるんだろ?」 

 

僕の両親は、僕ら子供達が成長の過程で最大限の準備を施してくれました。僕は幼い頃、フレデリック・ダグラス、ナット・ターナージョージ・ワシントン・カーヴァー、ブッカー・T・ワシントン、ラングストン・ヒューズと言った処は、本を読んでいました。お母さんはハリエット・タブマンのことを話すのが好きでした。彼女は僕達を、昔のカビルドの跡地を見せに連れて行ってくれました。そこはかつて、奴隷売買が行われていた場所です。展示されている鎖やら枷(かせ)やらを見ていて、奴隷制度と言うものの現実をしっかり認識したことを、今でも覚えています。お父さんと仲間のミュージシャン達は、歴史のことや政治のことをいつも話題にしていました。今でも覚えている、ある日の話です。その日は父と床屋にいたのですが、誰かが概ねこんなことを言っていました「エリス(ウィントンの父)と議論しようったって、誰もかないっこないさ。何と言っても世界中を回っているんだからね。全く大したミュージシャンだよ。皆が知っていることさ」。 

 

祖父も、大叔父も、政治の話をよくしました。大叔父とは、僕が6歳から8歳の頃よく一緒に過ごしました。彼の名前はアルフォンスと言いましたが、僕達は皆彼のことを「ポンプ(尊大な人)」と呼んでいました。ニューオーリンズにあった彼の家は、南部特有の、廊下がなくて裏口までつながって見通せるような、小さな「ショットガンハウス」と呼ばれていたもので、仕事は墓石工、彼は多くのことを見聞きしており、気が向けば話が溢れてきます。 

 

「撃ち合いになった経緯が全てなんだ」彼は言いました。1883年生まれですから、1900年に発生した、所謂「ロバート・チャールズ暴動事件」については、記憶があります。二人の警官がロバート・チャールズという名の若い黒人に対し、執拗に同行を強要したため、ロバート・チャールズが警官たちに向けて発砲、その後民家へ逃げ込み、合計、警官7名が死亡、20名が負傷の末、ロバート・チャールズは射殺された、というものです。「事件が起きた当日は、まだ奴は撃たれていなかった」大叔父は言いました。 

 

僕の大叔父は筋金入りの愛国主義者でした。いかなる、誰からの侮辱も甘受しないタイプでしたから、僕には不思議でなりませんでした。彼はアメリカ人=白人とは思っていなかったのです。1960~1970年代という「ブラックナショナリズム」という言葉が、若者の間で、あるいは単に流行を追いかける連中の間で、キーワードだった時代に育った人間にとっては、奇妙な考え方でした。ポンプは兵役にあったこともあり、アメリカ合衆国と言う国を信じる男だったのです。 

 

アメリカは偉大な国だ。」彼はいつもそういっていました。「欠点もあるが、偉大な国なんだ。」彼はモハメド・アリが嫌いでした。「彼は国から金をもらう人だろうけれど、国の為に戦っているわけじゃない。俺に言わせれば、あんなのは英雄なんかじゃない。」彼はブラックムスリム運動を嫌いました。家に帰る時は、「Mjuhammad Speaks」(新聞の名前)は持ってくるな、あるいは、マーカス・ガーベイと彼の持論であるアメリカ回帰運動のことは話し出すな、絶対に、と言うわけです。「アフリカなんかに行ってみろ、また白人の所に売られて帰ってくるだけだ。」と彼はよく言いました。彼は偏見とは立ち向かうべきだ、という信念を持っていたのです。彼のモットーは、「侮辱は面と向かって言わせろ、そうすればおいそれとは行かない。相手の目を離させるな。手出しできなくなる人間の数が増えてくれば、そのうちそれが当たり前になっていくだろうからな。」 

 

3・4年生になる頃には、僕の学校での成績は、他の子供達より頭一つ抜け出ました。既にリコンストラクション(南北戦争によって崩壊した南部諸州と奴隷制度、これらの戦後処理)のことは耳にしたことが有りましたし、プレッシー対ファーガソン裁判や、ブラウン対教区委員会裁判、そしてキング牧師マルコムXのことも、内容を理解し知っていましたし、名前も頭に入っていました。それぞれの相関関係や時系列は、完全には分かっていませんでしたが、黒人の人々は社会の中で闘争中であり、社会の何かが台無しにされている、という自覚は持っていました。そしてハッキリと分かっていたことは、その台無しになれていることによる犠牲者は、僕達黒人なんだ、ということです。そんなわけで、例えば歴史の授業中に教科書を開けて、嬉しげな奴隷達の姿があると、「奴隷の何が嬉しいのか?」と疑問をいつも抱くのでした。 

 

こういう子供達に自分を受け入れさせる方法は、唯一つ、彼らがしていることを自分も彼らに対してすること、そうでないと、増々こちらは無価値な人間と見なされて、ひたすらバカにされる羽目になる、ということにも気付きました。とにかく辛かった。元居た黒人の学校は、成績が良好で生き生きとした性格でいれば、尊重され、女子も男子もいる社会の輪の一部に、自分は入れたのに、そこから飛び込んだ今度の環境は、前向きな姿勢は否定されるわ、自分は社会的交流から完全にのけ者にされるわ、といった具合でしたからね。 

 

僕の大叔父は、僕に、自分らしさを保つ権利は守らねばならない、そしてそれは時として犠牲を伴う、ということを叩きこんでくれました。なので僕は心を決めて、誰かに「nigger」(クロンボ)と呼ばれでもしたら、そいつと戦うようにしていました。勝ったり負けたりしましたが、とにかく覚悟を決めて、バカっぽく振る舞わない、他人にナメられるようなことは一切しない、そのようにしていました。何があっても、道化のように振る舞うことを当然とされた黒人のイメージ、その真逆の振る舞いや行動を心掛けました。 

 

統合校の授業内容には、黒人に関するものは一切出てきません。僕達黒人は、この世に存在しない、と言わんばかりです。意図的にそうしたのではなく、学校側にとっては、至極当たり前の認識だったのです。例えば黒人に関するレポートを作ってこようものなら、教師たちはニッコリ笑って、猫なで声で「これ何のことかな~?うーん、先生わかんなーい。」何にしても、僕はレポートはいつも奴隷制だのと言った題材を選んでいました。自分が興味を持てるものでしたから。 

 

僕達の近所も、騒動が絶えない処かもしれません。黒人の子供達の間には、守るべき掟がありました。自分らしさを保とうと頑張るのは、厳しいかもしれません。しかし他の子達に一目置かせる方法はあるのです。ケンカに勝つ、イジメに毅然とした態度をとる、ダズンズやボール遊びができる、女の子達とおしゃべりができる、といった具合。黒人の仲間の子達を取り込んでゆくには、何とかなりますが、人種差別となると、状況を変えようとしても大して打つ手がないのです。 

 

そうです。人種差別は、今も昔も小さなことではありません。個人で何とかなるような代物ではないのです。今もなお、46歳になっても僕はこれに苦しんでいます。生活のあらゆる場面に存在し、影響は重くのしかかります - 自分の知り合いの上の世代の人達に、自分の家族に、「世の中はこうだ」とテレビが示すそのやり方に、教師たちが自分に働きかけるやり方に、子供たち同士の人間関係の在り方に、ね。白人の住むコミュニティの道路は舗装されているけれど、黒人のはされていない、誰でも知っている基本手なことですが、これと同じ位、誰でも知っていることかもしれませんね。そのレベルから始まって、およそ考えられることは全てに亘っているのでしょう。例えば僕が子供の頃、フットボールの子供達のリーグ戦の話。黒人のチームが3つ、白人のチームが8つか9つありました。白人の方には何だってありました:コーチは2人、両側のサイドラインに飲み水、ホームグラウンドにはハッシュラインが引いてあり、練習用設備も色々整っているし、親達もスタンドに見に来ていました。一方僕達の方は、ユニフォームは10年前くらいから使っているもの、親達はスタンドに姿はなく、コーチは1人、ディフェンスにエキストラバックを当てられない。これで更に、審判達は僕達に不利な判定をするのです。僕はかつて、審判に暴言を吐いて退場になったことがありました。「どうせウチら負けるんだから、判定まで不利にしなくてもいいじゃんか」白人全員が悪いわけではなく、世の中の全体の仕組みにっ腹が立ったのです。 

 

腹を立てると、自分がかえって物笑いの種になってしまうこともあります。僕のモダンジャズ演奏の初仕事は、ニューオーリンズのタイラーズ・ビアガーデンでのステージでした。バンドのリズムセクションは全員白人 - マイク・ペレーラ、リッキー・セバスチャン、そしてアルヴィン・ヤング。アルヴィンがリーダーです。当時僕は15歳。メンバー皆が僕の面倒を見てくれて、力をつける後押しと、励ましをくれたのです。それなのに僕は、最初の頃に受けたインタビューで、白人はロクな演奏が出来ない、といったようなことを言って、彼らの心を傷つけてしまったのです。ありもしないことを、彼らの気持ちを考えず口にした僕は、本当に愚かでした。こういう正しくないことを、恨みがましく言ってしまった経験の記憶と言うものは、世の中が自分に対して思い知らせてくることに対する怒りの気持ちを抱えていると、つい忘れてしまいがちです。プライドや正義感みたいなものが、怒りの気持ちを抑えなくしてしまうのです。根深い人間の性ですし、これが現実なのです。 

 

レイ・ブラウンというベースの大御所に、僕は自分の子供だった頃の話をしたことを、今でも覚えています。彼の反応はというと、「何だい、そんなしょうもない話は、1960年代に終わったと思っていたぜ」。僕の返事は「いえいえ、もっとヒドイ話がありましてね」。 

 

音楽により深く関わるようになり始めた頃に気付いたことなのですが、怒りの気持ちは、確かにある種の力を与えてくれるものです。燃料の様なものですが、リスクは高くつきます。あっという間に燃え広がり、自分の身の回りを全て焼き尽くすものです。年を取るに従い、怒りの気持ちは持たないようにしないと、そのうち自分自身を焼き尽くしてしまうことでしょう。 

 

高校進学に合わせて、僕の一家はニューオーリンズへ引っ越し、兄のブランフォードと僕はいよいよ、ニューオーリンズセンターという芸術学校へ通い始めます。ここは新しくできた芸術系の公立先進校であり、僕の父はここでジャズの教鞭を取っていました。一般教養科目の方は、午前中にベンジャミン・フランクリン・ハイスクールでの受講となります。この2校がニューオーリンズを代表する公立学校でした。 

 

ニューオーリンズセンターは新しい芸術教育を行う実験校としてスタートしたばかりで、僕はその第1期生となったのです。講師陣は稀にみる素晴らしい方々でした。1人1人が芸術を愛し、後進の指導を大切にしようという気概に溢れています。お互い言葉を交わせば、それだけで学びの意欲をかき立てました。僕の音楽に対する情熱と力量の土台は、ここでのクラシック、ジャズ、声楽の授業で培われたものです。今でも、ここでの経験を思い出すと、感無量です。 

 

時は遡って、ケナーに居た頃、僕の目には、あの厄介な偏見に満ちた白人連中というのは、本人達はそうは思っていないでしょうが、どちらかというと僕達黒人の貧困層との共通点が多かったように映っていました(僕達だって、そうは思いたくないのですが)。ただ僕は、フランクリンハイスクールに通い出してから、白人にも色々な人達がいるんだ、ということに気付くようになったのです。それまで「白人」と単に一括りにしていましたが、生活を共にしてわかったことです。 

 

僕が通っていた小学校には、貧困層若しくは中流階層でも下の方のイタリア系アメリカ人家庭の子達が沢山通っていました。彼らは彼ら同士で、そして僕達とも、よくケンカになりました。これに対して新しく通うことになった高校は、ユダヤ系の子達が多く在籍しています。知り合いの黒人の学生は誰一人として、「このユダヤ人め」という言い方はしていなかったと記憶しています。あくまでも「白人」。でも様子を見ていると、小学校の頃のイタリア系の子供達と違い、ユダヤ系の子供達は、彼ら同士でケンカになるような場面には、出くわしませんでした。彼らには、もっとしっかりした知的なしきたりがあったのです。それは僕にとって興味深いことでした。学校で「このクロンボ」などと呼ばれたことは一度もありません。四六時中ケンカする必要もありません。それは実にしっかりとした市民社会としての姿です。クラスメートたちの会話に耳を傾けてみれば、僕の日頃の取り組みや思いに対して、好奇心を持ってくれていることに、何度も気付くことがありました。当時の僕にとっては、実に新鮮な経験でした。フランクリンハイスクールの子供達の方が、たたずまいが知的で、僕は沢山のことを学んだのです。彼らの中には、男女問わず、僕も出演していたタイラーズのジャズセッションをよく見に来ていて、週明けの月曜日にそれを学校の話題にしようと楽しんでいました。音楽系でも何でもない高校生が、ジャズの本番を見に行くなんて、今ではほとんど聞かない話かもしれません。当時ですら、珍しい状況ではありました(当時の僕には、そういう認識はありませんでしたが)。 

 

2年生になると、「ハックリベリー・フィンの冒険」を授業で扱うことになりました。授業担当のキース先生という方は、最初の時間におもむろにこう言い放ったのです。「皆さん、この授業では『このクロンボが』という言葉を口にすることとします」。生徒達は「このクロンボが」と言うと、くすくすと笑いました。これは僕にとっては、あまり愉快なことではありません。さて、このキース先生ですが、節度を持ちつつも奇抜な発想も出来て、そして僕のことを可愛がってくれるのです。僕は1年生の頃から、この先生の授業では上位の成績を収めていました。先生は僕達にこう言ったのです。「僕は君達に不愉快な思いをさせたくないと思っている。しかし、この作品を学ぶ上では、『このクロンボが』という言葉を使いこなせるようにならないといけないんだ。なぜならこれこそが、作者のマーク・トウェインが言おうとしていることを理解する、その中心にあるものだからなんだ」。僕は心の中で「こんなクソな作品イヤだ」と呟いたのです。 

 

授業が終わると、キース先生は僕を傍へ呼んで、こう言ったのです。「まぁ、もし君がこの作品に取り組めなくて、授業にも顔を出したくない、というのなら、それでも進級には影響しないから大丈夫だ。でも私は、あくまで今のやり方で、この作品を授業で扱ってゆきたい。なぜなら、これが現実、今の世の中の姿だからなんだ。白人が人間に向かって「このクロンボが」と、呼ばなないなんてことはウソだ。彼らは実際そういう言い方をする。その現実を、僕は君達に知ってもらいたいんだ。この教材を中途半端に扱うつもりは、僕にはない。そして君僕の授業を受けて欲しいと思っている」。 

 

すんなり納得はできませんでしたが、僕は「わかりました、やってみます。」と答えました。 

 

今となっては、この授業を受けて本当に良かったと思っています。この本、そしてキース先生の教えは、僕にとっては神の啓示のようでしたからね。先生は、この本とそこから学ぶべきことを、しっかりとコントロールしながら授業を行いました。そして今、僕は常々、個の取り組みは全てのアメリカ国民にとって、必要なことだと感じています。人種問題がもたらす苦痛、闘争、愚かさは、一つ残らずアメリカ国民は向き合ってゆくべきです。向き合わないというのなら、それは例えていうなら、ある人がガンに侵されているのに「言ったら傷つくから」といって教えてあげないのと同じです。教えてあげなければいけません。そうすればその人は、取るべき行動を明快に状況を理解した上で選べるからです。僕はそう思っています。 

 

白人と黒人が、お互い相手が何者か、そしてお互い力を合わせるとどんな国作りができるのか、それを知るには、実は白人と黒人は密接につながっているんだ、ということを理解する必要があります。理解しない、というなら、それは例えていうなら、車のキーを手に持っているのに、それを失くした、と思い込んで、手に持っていることを忘れて、そこいらじゅうを探し回っているようなものです。これでは、いつまでたっても車のキーが見つかった、とはならないでしょうね。自分の手を見ろ!持っているじゃないか!探し回るな!というわけです。今の黒人と白人は、これと同じ状況だということです。勿論、我が国には多くの人種・民族がやって来るわけですので、誰もが皆「マイノリティー」になってしまうように見えます。「マイノリティーという存在がもたらす様々な問題」を僕達は話し合って行くわけですが、やはり黒人と言うものは、我が国では、他とは切り離されたマイノリティー集団などではなく、アメリカと言う国がどういう国なのか、を考える上では、僕達は話し合う話題の中心にすべき存在なのです。 

 

自分はアメリカ人としてどうあるべきか、ジャズはそう考えるよう、人々に促します。民主主義、個人の自由、人種・民族に関係なく人間性を受け入れる態度、こういったことがいかに素晴らしいか、を表現する方法を、ジャズは与えてくれます。それは正に、アメリカの民主主義が在るべき姿そのものです。 

 

この章の冒頭で書きましたように、ジャズがアメリカの国民的な芸術であるが故に生まれてしまった、不安定な状況があるのです。アメリカの文化の中で、ジャズがしっかり成熟してきたため、あからさまに、それまでアメリカでは当たり前だと考えられてきたものを否定してかかったのです。一つは、人種隔離が国全体の社会通念になってしまっていること。もう一つは奴隷制度は昔は正当化されていたということ。これらを「そんなことは過去になかった」と否定してかかったのです。さて、どうしたものか・・・肌が濃い色をしている人間は人間以下、身分を低くするのは当然だとして、その後のアメリカ人として受ける仕打ちを決定づけてしまった、300年間にもわたる信念を国民の記憶から消して去ろうというのでしょうか?そこまでしなくても、人々にとっては、ジャズの在り方をあっさりと記憶から消し去ってしまえば事足りる、ということです。そしてジャズを消し去ったことで、それがもたらす全ての洗練されたスタイル、技巧、そして表現するものを伝える力も消し去られるのです。 

 

あっさり記憶から消えたこと」は、他にもありました。1929年に始まった世界大恐慌の際、アメリカ人はこの音楽の持つ奥深い内容を、こぞって味わい、傷ついた心を癒しました。それは政治家が不正を犯して拘束されると、奥さんや宗教に救いを求めるのと同じです。このことは、今やアメリカ人の記憶からは消えてしまっています。良く見落とされがちなのは、1930年代の白人の凄腕ミュージシャン達の世代丸ごとです。ジャズにどっぷりハマってしまっていたためです。安易に受け入れられたものもあります。10代の子達を食いものにした歌謡曲の数々です。折角我が国の価値が持つ全ての概念を黒人が音楽芸術に仕上げたものがあるにも拘らずに、ね。もう一つは海外のバンドやグループの数々。ローリングストーンズなどは、ブラックアメリカンの「真似事」をするイギリスのバンド - イギリスと言えば、かって独立戦争で戦った相手です ー 我が国にだってバンドやグループがあるにも拘らずにね。もっと多くの人々の目に留まったことと言えば、。スウィングという国民的ダンスが人知れず消え去ってみたり、かつて黒人をコケにしたミンストレルショーが、ヒップホップにその内容が復活してみたり、我が国の音楽文化が、世界中に安っぽい姿で輸出されていった、猥雑でお金さえ儲かればいいと言わんばかりのビデオで使われているBGMの数々など、です「。音楽面でのイノベーションを、テクノロジーやCDの売り上げ、病的な庶民感覚といった視点で定義していっ安直さの結果です、全ては。 

 

ところがここで誰も予想し得なかったこと発生しますこういった安っぽいビデオの中で、1970年代まででしたら想像すら出来なかった、黒人の男達と白人の女達が、何やらロマンチックな雰囲気を醸し出す映像が発信され始めます。こういったミンストレルショーのようなラッパー達は、自分達が住む貧民街で心に描いた「いつか郊外に住むぞ」の夢を売りながら、何百万ドルもの大金を稼ぎ出しました。黒人のアスリート達は、信じられない位国民的な人気者になりました。大企業のトップに黒人(男性も女性も)が就任しました。そしてその上、DNAの研究が進むにつれて、人類は全てアフリカに起源があること、そして多くの要素において、DNAの差異と言うものは、異なる人種間で比べるよりも、同じ人種間の中で比べる方が、より大きなものが見出される、ということが判明してきたのです。 

 

人種問題がもたらす、あらゆる偽善、不条理、恥辱:それはジャズが表現する最も深遠な真実です。そして、ルイ・アームストロングが舞台で笑顔を見せ、ニカニカと歯をむき出しにして、「ヨッシャ!」(訳注:yassah : yes, sir)と言ってみたりする中で、彼がトランペットとボーカルの両方で届けた、一つ一つの怒りの音、得意げな音、磨き抜かれた音、血まみれの音に込められているものこそ、この「真実」なのです。デビュー当初のマイルス・デイビスや、ディジー・ガレスピーも同じこと。そして皆さんご存知でょうか、白人ミュージシャン達のサウンドも、同じことなのです。白人ミュージシャン達も、人種問題がもたらす弊害が、アメリカ人の生活の根本を蝕んでいたことを、知っていました。人種問題がもたらす誤った認識が、彼ら白人にとって有利に働き、おかげでお金は稼げるし、「〇〇王」だの「No.1の〇〇」だのと呼ばれるようになり、その一方で黒人は注目してもらえなくなった、ということを、白人ミュージシャン達は認識していたのです。彼らの心は傷つきました。それはそうでしょう。彼らが演奏したいと思った音楽は、アメリカを一つにまとめ上げ、そして彼らは、その「一つになったアメリカ」の一員になりたいんだ、と望んでいたのですから。そうなれば、どんなに素晴らしいだろう、と思っていたのですから。信じ難いですか?でしたらデイブ・ブルーベックに訊いてみてください。 

 

ジミー・マクパートランド、ピー・ウィー・ラッセル、デイブ・タフ、ジーン・クルーパ、バド・フリーマン、アート・ホーディス、ウッディ・ハーマン、ギル・エヴァンスズート・シムズといった、真摯な白人ミュージシャン達が皆、調和を試みたもの、それは、この国の現実の姿と、彼らがジャズを通して知ったこの国の底力。しかしジャズは、誤った呼び方をされてしまったのです。「黒人と言う人種に特有の音楽」「黒人音楽」「アフリカ系アメリカ人の音楽」などといったものは、生理学や文化人類学をきちんと理解していないからこそ、出てきた悪名です。そのせいで彼らは、文化の「天国と地獄の狭間」に立たされました。一部の白人達からはバカにされる。一部の黒人達からは強い敵意のせいで心からは受け入れてもらえない。そんな状況に手を焼きました。ネチネチとした攻撃にも耐えました。それは、黒人の音楽を「横取り」している、というものです。ジャズは空気と同じ、誰のモノでもあるのに、です。ベニー・グッドマンはお金を払って、フレッチャー・ヘンダーソンにアレンジをしてもらったのです。それを「横取り」などと、訳が分かりません。白人ミュージシャン達が、こうして手を焼き耐える中、黒人ミュージシャン達の大御所達も調和を試みたものがありました。それは、ジャズを通して彼らが知った、この国の可能性と、人種差別を維持し正当化する為のウソが作り出してしまったこの国の現実の姿。黒人ミュージシャン達が、更に味わうことを余儀なくされた現実。それは、自分達の社会集団は、ジャズと言う芸術活動に殆ど関心が無かった - そういう意味では芸術活動全般にほどんど関心が無かった - 全く頭痛の種は尽きません。 

 

さて、これこそが、黒人も白人も全てのミュージシャン達が皆さんの心に届けたいと願うこと:嫌悪の対象に堕したこと(国家、思想、人)への愛しさを表現する方法、それは、それが嫌悪の対象から、もう一度愛すべきものへと戻ってゆくくらい、熱い気持ちでそれを愛し抜け、というものです。僕は19歳の時、マイルス・デイビスからこのことを問われました。「何を考えて、そんなクソみてぇな演奏しやがった!」演奏の表面的なことを言っているのではありません。彼は見抜いていたのです。僕がジャズのことを、まるで分っていなかったことを。僕が理解していたジャズと言う音楽は、「クソみてぇな」もの、ウソと欺きの混沌、悪意も善意もいっしょくた。こんなことでは、陣の潜在能力を引き出すこともできない、自分はどういう人間なのかを気付くこともできない、ひいては、自分も皆も、アメリカの芯の偉大さに気付くこともできない、というわけです。でもそれを乗り越えた時、それに真剣に取り組んだ結果克服した時、アメリカがかつて想像すらしたことの無いような、文化と芸術の興隆が実現することでしょう。どこまでも公正な民主主義の世の中を実現しようと、たゆまぬ努力を続けたデューク・エリントンギル・エヴァンス、チャールス・ミンガス、ジョージ・ガーシュウィンといった、多くの、先見の明を持つミュージシャン達の作品の中で、予言されている「仲良きことは美しき哉」が、実現することでしょう。なぜなら、ジャズとは、アンサンブルで演奏される時、それは「共に行こう、共に在ろう、共に居よう」と歌っているモノだからです。 - 少なくとも演奏が始まってから終わるまではね。 

 

そして音楽の世界では、曲が演奏されてる間に起こることは、人生に起こることを表現しているのです。 

 

 

次回は、第6章を見てゆきます。 

「Moving to Higher Ground」を読む 第6回

第4章 何を懸けるか - そしてどう感じるか - :演奏すること 

   

<写真脚注> 

「君の体の大きさで、こんなに大きな音を鳴らす子は、聞いたことがないよ」 

- 青少年のためのジャズコンサートにて(リンカーンセンター ジャズプログラム)。 

 

ジャズは、人の気持ちに思いをはせることを教えてくれます。他の人と共に、人の感情を音にして作り上げ、それを大切に育て上げてゆくのです。同時に、自分がすべきことはちゃんとこなすことも教えてくれます。ジャズには、自分自身を表現する方法が非常に多くあります。万能に当てはまるルールなど、無いと言えるでしょう。 

 

ジャズミュージシャン達というものは、あらゆる種類の、「変わり者」として色々他の場面で「つまはじき」にされてしまう人々が本当に大好きなんだ、ということを、僕は大人になる過程で気付きました。人間誰にでも居場所があり、演奏の腕があれば更にその居場所は広くなる、と言わんばかりに思えます。僕が魅力を感じたのは、様々なタイプの人々が、考え抜いた挙句に自分だけの方法を編み出してインプロバイズしてゆく、そんな様子でした。時には、音程感が完璧だったり、その場に当てはまる音を演奏してゆく方法を直感的に知ることが出来たり、そういう人がいるかと思えば、曲のハーモニーにどの音階を使えばいいかを科学的な方法を使わないと分からない人々もいます。他にも、技術的な器用さは何もないけれど、何かしらの深みのある感情表現が出来て、それをブルースにしたものを自分の演奏にあてはめる人々もいました。彼らは、いわゆる「自分自身のサウンド」を持っていたのです。 

 

あるミュージシャンは、和声を聞く力はそれほど無いものの、メロディを演奏するセンスが良かったりします。別のミュージシャンはリズムのセンスが良いものの、メロディを演奏する力がなく、2・3個の音符にしがみついて、それで何とかその場その場を切り抜けてきた、という具合。いずれにせよ、皆がよく分かっていたこと、それは、誰も完ぺきに能力を全て持ち合わせてなどいないんだ、ということ。だから、自分ができることを大事にして、出来ないことがあるという現実には、きちんと向き合うことが大切なんだ、ということでした。 

 

しかし時には、天性のミュージシャンというものがいて、こういう人は努力しなくても何でも理解し、いつだってキチンと演奏することが出来るのです。そしてジャズでは、「演奏することが出来る」とは、自分だけの何かを持っていて、それを他の人達にも分け与えてゆかねばならない、ということを意味します。この「分け与え」は、子供のうちにはちょっと難しいことです。演奏する能力はあっても、その子が自信をもって「こう思います、いいか悪いかは、自分で決めてください」なんて、まず言えないでしょうからね。 

 

でも、いたのです。言えた子が。ニューオーリンズジャズの、シドニー・ベシェです。ベシェは自分の早熟さを自覚していました。9歳で大人と肩を並べて演奏し、14歳で自分のバンドを結成、楽譜の読み方を習う必要がなかったとのこと(一度耳にした曲は完璧に頭に入れた人ですので、もっともです)。そして彼は、人生の詩的な美しさを理解するアーティストでした。僕がフランスで年配の方々から聞いた話ですが(フランスと言えば、ベシェが晩年を過ごし、スターとしての地位を得た国です)、大変女性達に愛されていたとのこと。でも僕には、写真を見る限り、女性を魅了するような風貌には、特段思えなかったので、理由がわかりませんでした。しかし、彼の自叙伝「Treat It Gentle(優しくして)」を読んで、彼が女性達から愛されていた理由がわかりました。彼は人生の神秘を知る、偉大な語り部だったのです。 

 

彼の自叙伝からの引用です。 

 

「ミュージシャンが演奏するには、マリファナ入りの巻タバコをふかして気分を盛り上げないと、などという話を聞いた人もいるだろう。」 

「女や酒を傍に置いて自分を慰めたり・・・あらゆることに対して自分の気持ちが酔いしれるよう自分を仕向ける・・・色々なものに頼って、気持ちを酔いしれさせる、自分を女としてめかしこむ、あるいは気持ちを高揚させる。それはその人の勝手だ。世の中には、そのように自分を仕向ける「べきだ」と考える人も多い。でもミュージシャンが演奏する本当の理由は、ただ一つ。演奏は、ミュージシャンが否応なしに、成すべき仕事だからなのだ。」 

 

ベシェは続けます。 

 

「もう一つはインスピレーションだ。」 

 

「インスピレーションは誰にでも与えられるべきものだ。それは人が生きる道であり、人はそれを日々の暮らしの中に見出す。インスピレーションは、それを受ける準備が出来ている人に与えられる。でも、ただ与えられるのではない。それはその人の血肉とならねばならない。よって準備が必要だ。あなたの身の上に起こることを通し、それが素材となって「あなたの思い」というものが作られる。その「思い」を、あなたは演奏するのだ。しかしそれだけではない。音楽にも「思い」がある。さぁ、いよいよあなたの「思い」と音楽の「思い」が一つになるあらましだ。あなたの方の「思い」は何でも結構だ・・・ある曲を恋愛の思いから演奏し始めたとしても、終わるまでには、もっと別のものに昇華していなければならない。あなたの恋愛の思いは、音楽の方にある「思い」と出会うことで、音楽は一本立ちできるようになるのだ。」 

 

これは、ある種ミュージシャンにとっては、本質的な話です。二つの重要な考えが語られましたね。まずは、音楽を演奏するには才能がないといけない、ということです。これは自分ではどうしようもないことではあります。物事に取り組む上で、何かしら才能があれば、たとえどんなに小さい才能であったとしても、大きく伸ばすことも可能です。でも才能がないとなると、フラストレーションに苦しむ覚悟が必要です。大学生や求職者が、彼らの才能に対する率直な評価に基づいた就職先しか与えられないのは、このためです。 

 

次にベシェが求めたことは、人は何らかのインスピレーションを与えられる、ということでした。ところで、一卵性双生児で、一緒に育てられた二人でも、全く同じ人生を辿るということは、有り得ません。思いは人それぞれであり、人と音楽の思いを一つにする方法も、その人が自分で見出さなければなりません。そして多くの場合、ミュージシャン自身の思いと、音楽の思い、この二つの「思い」は、全く関連性がなかったりするのです。 

 

言葉を話すことも、これと同じようなことが言えます。皆さんの身の上に起こることを通し、それが素材となって皆さんの思いというものが作られる。それを伝えるために言葉を話そうと思うなら、意図(皆さんがどう思っているか)と発言(皆さんが選ぶ語彙)が一致していなくてはいけません。他人を介さず自分自身で話す時でさえ、自分の意図することを間違えて伝えてしまうことは、ざらにあります。しかしミュージシャンにとっては、この「一致」のためには、大変な時間を要し、そして、のほほんと過ごすことも許されません。あらゆる時を逃さずに、腕を磨かねばなりません。そして、自分の思いを偽りなく公にすることは、場合によっては不快なものです。そうやってステージ上を一変させるのは、力の要ることです。それを経験するためには、全てを犠牲にすることにすら、なりかねません。 

 

芸術とは、あらゆる分野における、あらゆる種類の創造性のことであり、これを育むための栄養の素、すなわち人生の経験というものが必要です。これは演奏する側にも、聴く側にも求められることです。 

 

僕が子供の頃ケナーに住んでいた時、同じ町内にジェラルディーンという名前の知的障害を持つ女性が住んでいました。彼女は年を取っていて、噛む歯が全て無く、深く刻まれたシワの奥に目がある姿でありながら、小さな女の子の様な服を着て、髪を二本お下げにしていたのです。彼女が知的障害を持っていたことは、町内のみんなが知っていました。彼女は何をしでかすが予想がつきません。突然スカートをたくし上げる、人の後をついてきて小枝でひっぱたく。子供だった僕達は、彼女をからかって遊びました。しかし僕のお母さんは、よくこう言うのでした「そんな風に言うもんじゃない。彼女には自分が送ってきた人生があるのよ。」母が言いたかったことは、彼女をただの知的障碍者として見るな、彼女は一人の人間であり、これまで歩んできた人生があり、そこには僕達も関わってきているのだ、ということです。 

 

音楽をする上でも、そして人として生きてゆく上でも、きちんとした聴く力をつけようと思うなら、自分以外の人達の存在をしっかりと意識する必要があります。相手の気持ちに寄り添って話を聴ける人達の方が、大抵いつも、そうでない人達よりも多くの友達に恵まれます。だからこそ、そういう人達の忠告というものは、一目置かれるのです。相手の話を辛抱強く理解しようとする聴き方をする人は、幅広く自分の居場所を得ることが出来ます。一見、どんなに人を惹きつける魅力がありそうでも、相手に耳を貸さず自分は何でも分かっているという姿勢では、自らの居場所を狭めてしまいます。ジャズは人の耳を鍛えてくれます。プレーヤー達の考えていることに、ついてゆきつつ、彼らのサウンドの中から人間の奥深が聞こえてくるよう努力すること、を続けるからです。ジャズクラブのテーブルにいる聴き手でも、逆に吹き手として楽器を手にしても、サウンドに込められている人間性とは、人生の酸いも甘いも噛み分ける処から生まれ出るものなのです。 

 

その「酸い」が、僕のいた町内ひとつとっても、色々あったことを覚えています。女も男も皆、人間関係をキチンと作れない人ばかりでした。ある女性は彼女の夫を復活祭の日に殺し、、別の男性は実の娘を妊娠させてしまい、隣人のジョイス(「喜び」という意味)という女性は夫のアルテミス(女性の守護神)を、はっきりとした理由もなく射殺してしまったり、皆がそれぞれ問題を抱えていました。通りの向かい側に住んでいた僕の友人の兄は、よく人前で自分の奥さんに手を上げていました。僕達が路上でサッカーをして遊んでいると、彼はそこへ出てきては、奥さんを殴り、そしてふざけた振る舞いをするのです。僕達は冗談めかしくこう言ったものでした「ウィリアムも家族の連中も頭がおかしいよ」そうは言っても、心底愉快な話というわけでは全くありません。更には彼の奥さんは、気丈でとても優しい人であったのです。もしもウィリアムに非がないというなら、彼は知り合いの中では最も幸せな人の一人、ということも言えることになります。彼らの奇行を、人々が普通に送る生活の中に置いてみて、その上で理解しようとしても、混乱するだけとしか言えないかもしれません。彼らの奇行が際立ってしまい、どうしてもそちらに目が行ってしまうからです。 

 

ある家族の息子達は、皆とことん乱暴者でした。一人、アールという、僕にバスケットボールを教えてくれた男以外は、全員、殺されて命を落としてしまいます。ところで、その息子達の中で最も狂暴だったのがジャックで、多分僕より4歳年上だったと思いました。12歳で大人を打ち負かしてしまうほどで、それが彼の専門だったのか、外で僕達とサッカーや野球、バスケットボールをして遊ぶことが出来ませんでした。 

 

そんな彼が、ある日突然こう言ったのです「おい、お前のキチガイ弟はどこ行った?」 

 

僕の弟のムボヤは、自閉症でした。 

 

僕は「ムボヤはキチガイなんかじゃない。自閉症っていう病気にかかっているだけだ」と答えます。 

 

するとジャックは「良く分からないけど、だったら外に連れ出してやればいいじゃないか?」 

 

この口が達者なヤクザ者は続けて「俺だったらムボヤを自転車の後ろに乗せて、町中連れ回してやるさ。ケナーはクソクラエな街なんかじゃない。お前だって、ずっとここにいるんだから、連れてってやるところなんて、いくらでも知っているだろう。」 

 

このやり取りがあった以前は、僕のジャックに対するイメージは、バイオレンス映画に出てくるようなことに四六時中関わっている男、というものでした。子供の頃からの付き合いで、彼のことは良く分かっているつもりでした。でも、このやり取りがあって「何てことだ。そういえば近所の誰もムボヤのことに触れたことなかったな」と思ったのです。 

 

ケナーでもこう言った教訓から、僕は教えられたのです。物事は見た目と中身を一緒だと思うな。諺に例えるなら、「本は読んでみなければ中身は分からない」というやつです。人生は決して通り一遍などではありません。なぜなら僕がいた町内の、あらゆる混乱のその中には、実に多くの物語が存在していたのです。必死に家族の面倒を見る人々、仕事を頑張る人々、恋に落ちる人々、失恋に苦しむ人々。全ては、この、ガイドレール付きの線路とアメリカ最大のミシシッピ川に挟まれて、中心都市ニューオーリンズから35分離れたこの町で、1966年から1973年にかけて起きていたことでした。 

 

ここでの生活が教えてくれたこと、それは、世の中を見る時は、自分とその周りで起きていることを、それらの持つ背景やいきさつと一緒に考える、ということでした。物事の皮肉な有様や不条理さ、社会の序列の中での黒人の人々の置かれている地位、全てのことについて、その大切さや表に現れない「含み」といったものを、必ず頭に置いて、目の前で、見聞きし感じている物事を捉える。この時正しいとか間違えているとかいう尺度では、不十分なのです。 

 

ジャズについても同じことが言えます。物事は全体を捉えて見るべきだ、ということであり、正しいとか間違えているとかいう見方ではいけないのです。ブルースがその極意で語るように、ジャズは、物事の有りのままを表現する、ということなのです。 

 

そういった理由から、僕が後進の指導に当たる時、真っ先に問うのが「この子たちは人生に対する幅広い理解が出来ているか?」(こういう「理解」の力は、聴く力を伸ばします)。次の「その『理解』を楽器のサウンドに乗せて表現できるか?」なのです。サウンドは、その「理解」という情報が流れるための水路です。知性、共感、あるいは無知、その他何でもサウンドに乗せて伝えることが出来ます。若い人達にとってサウンドを磨いてゆくことは、殊の外難しいかもしれません。というのも、「サウンドに乗せて伝える」という行為に欠かせないのが、伝える相手、すなわち聴き手です。彼らは伝える内容をちゃんと聴きとってゆきます。ジャズは人間の本音を聴き取ってしまう能力を研ぎ澄ましてくれます。ミュージシャン達が言う処の「ウソ発見器」であり、伝えることが本当かウソかを知ることが出来ます。 

 

ルイ・アームストロングチャーリー・パーカー、あるいはリー・モーガンの様なミュージシャン達の、人目を引くようなサウンドは、一見に派手に思われるかもしれません。しかし彼らのサウンドは、離婚、恐怖、裏切りや死といった、物事の冷たく辛い現実を含むこともあることから、派手さだけではなく奥ゆかしさもあるのです。彼らのサウンドの核心にあるものは、孤独でさみしい「人生なんてそんなもんさ」的な感覚です。それは人間の在り様についての、誰もが逃れられない、基盤となる現実なのです。年配の方達が教会で言う、沢山の神の祝福の言葉に続く、重く、的を射た、まとめの一言「告白します、牧師様、告白します」。優れたミュージシャンの持つ、物事を見通す力というものは、皆さんの魂を高揚させ、心の視野を広げてくれます。丁度それは、すぐれた牧師が、神様の知恵を詩的に言い表すことで人々に希望を与えるやり方と同じです。 

 

音楽で成功するかどうかは、多くの分野でもそうですが、自分の才能の至らないところをキチンと表明する意思があるかどうかにかかっています。あのチャーリー・パーカーでさえ、練習に多くの時間を費やしました。例えば皆さんが、リズム感の全くない人だとしましょう。リズムを演奏するということは、周りとの調和を保てるかどうかに尽きます。なので、時間を見ては自分で体を動かして踊ってみて、リズムを刻み続けるようになることが、一番の練習方法です。聴音がダメ、という人もいるでしょう。「自分は音痴だ」と言う人が沢山いますが、そんな人達でも言葉を話す時には、メロディのようにちゃんと抑揚がついているものです。本当に音痴な人なら、話し方も一本調子になるはずです。他にも、自分は歌や楽器が出来ません、とさけている人というものは、- そういった意味では、歌も楽器も聴かない、という人も同じですが - 心に表現したいものが浮かばないと思い込んでいるようです。理論的には考えられるのでしょうが、本当にそのようなことが有り得るのでしょうか。人は誰でも、他人と分かちあえる、その人ならではの大切なことを何かしら持っているものです。少なくとも僕が出会った人は皆そうです。 

 

ジャズの音楽ライターの人達というものは、彼ら自身の複雑な事情であったり、悪評ネタの方が、より面白おかしくなることもあったりして、昔はよくミュージシャンの生きざまに関して否定的なことばかりを書き続けていたものでした。ミュージシャン達の方も、それに乗せられてしまい、自らを超人的にタフだと思わせたくて仕方がなかったのです。本当にそういう人達もいましたが、大半は弱い存在でした。ライターの人達はとんでもないことをしてくれたもので、様々な型にはめてしまうことで、黒人の本当の生き様を分からなくしてしまったのです。「ジェリー・スプリンガー」のようなテレビのワイドショーのおかげで、ようやく世間一般に明らかになったことは、無知無学だの、狂った行為だの、というものは、何も黒人に限ったことではない、ということでした。ジャズと黒人は病気を表す言葉、として定義され、その実態を描く唯一のものがブルースの歌詞であるかのように思われてしまっています。酷い仕打ちを受けた、治安の悪い街角で育った、アル中、ドラッグ中毒、何かにつけてもろい存在。実際、辛さ苦しさというものは重要です。殊、キチンと取り組む姿勢を示すのなら尚更です。しかし楽器を通して伝える人の世の出来事には、他にももっと沢山価値あるものが存在するのです。例えば、人間なら誰しもが同じであろう、今までの記憶の奥深い所にある、自分にとっての「生きること」の意味だとか、身の回りの人達が愛おしむ音楽やその他芸術活動のことだとか、そういったものがあるのです。 

 

アメリカの音楽やダンスに関する知識がほとんどなくて、苦労している若手ミュージシャンが沢山います。教育体制が良くないことも原因の一部ですが、大半は関心のなさが原因です。音楽に関する知識が無かったり、他の人と一緒に演奏した経験が無かったり、他の人の演奏を耳にしたことが無かったり、あるいは自分の身の回りにいる人達が、誰も演奏を聴くなど考えもしない(自分が演奏するなど論外)ようなところの真っ只中に居たりするわけです。でもそのような環境にいたとしても、録音された音楽ならいつで手に入りますパソコンを使えばいいわけですし、パソコンが無ければ友人や先生など持っている人がいるはずです。自分とその周囲がどんな状態であったとしても、文化や芸術、そして自分自身を知りたいと本当に思うなら、情報の扉へはいつでもアクセスできるのです。 

 

こういう話をしていると、先祖のルーツを探している人達のようですが、アメリカの音楽やダンスと言った誰もが知っているこの芸術の遺産は、探すまでもなく人目の付くところにあるものです。その存在に気付かないだけのことです。自分のことを理解し学ぶことから身を遠ざけたくせに、自国の外に目を向けてしまい、聴いてもほとんどわからないような音楽の中に自分のことを理解し学ぶ鍵を見出そうとするなど、面白おかしいでしょうが、上手く行くやり方ではありません。 

 

アメリカは、様々な民族・宗教・文化が一つになった所ですが、スウィングは「みんなのリズム」であり、ブルースは「みんなの歌」といえます。これらを学ぶことは、すなわち自分のことを理解し学ぶことにつながるのです。 

 

自分のことをキチンと理解していないおかげで、まともな演奏が出来ていないでいるミュージシャンが実に多くいます。自分以外の人や物事のせいで、自分はまともに演奏できないと思い込んでいるのです。当然のことながら、自分が何をやっても出来ない時には、数え切れない程の理由がそこにはあるのが常です。十分な教育を受けてこなかったからかもしれない。白だの茶色だの肌の色のせいかもしれない。信仰している宗教のせいかもしれない。職場の同僚からのプレッシャーのせいかもしれない。親のせいかもしれない。演奏し始めたときに誰かに笑われたからかもしれない。 

 

人間誰しもが戦うべき相手がいます。根も葉もない噂と、押し付けられたイメージです。例えばの話、自分が家族の中で成長してゆくにつれて、誰かがその人の叔父のロバートのことを思い出すなどと、自分に言出だし始めたとします。つまり「このガキ、俺の叔父さんのロバートに本当によく似ているよ。遅刻ばっかりするし、成績はヒドイし。」自分が生まれるずっと前に、ロバートがやらかしたことを論ってゆくわけです。実際は自分とロバートは別個の人間なのに、似ている人だと信じ始めてしまうのです。他にも、自分の顔立ちや能力のことを悪く言ってくる人がいます。あるいは、お前は立派な人間にならなくてはいけないんだ、と言って、自分がどんなに成果を挙げても更に要求を上乗せしてくる人がいます。自分に向かって腹を立てている人がいるから理由を聞いてみたら、自分の父親のことをその人は嫌っていて、顔を見ると思い出すから、などと言う人がいます。その人の言っていることは、自分とは全く関係がないのに、だんだんそれを気にして生きていかなければならないと思い始めてしまうのです。勇気をもって自分を見つめ直しましょう。「ちょっと待てよ。自分はそのクソのロバートとは何の関係もないだろうが!」とね。 

 

学校では、いじめに遭っていると、ひたすら蔑まれて苦しい思いをすることになります。逆にチヤホヤされていると、周りからのプレッシャーから、本来なら控え目な性格なのに目立たないといけなくなってしまう。こうなると役者さんのようになってきます。上手く演じ切っていると、そのうち本当の自分の姿を忘れていってしまうわけですが、やがては悲惨な、あるいは極端な状況が起きた時に、本当の自分の姿と向き合わねばならなくなるのです。ありのままの自分を好きでいいんだ、ということを、ジャズは教えてくれます。自分らしさを保って上手くやってゆく方法を、ジャズは沢山教えてくれます。皆素晴らしく、そしてそれぞれスタイルの異なるピアノ奏者達をここに紹介しましょう。これをっ見て頂ければ、音楽には全ての人々のために何かしら用意されている、ということがお分かりいただけると思います。デューク・エリントン(ロマンチック)、カウント・ベイシー(スリム)、アート・テイタム(完璧)、ファッツ・ウォーラー(楽しい)、テロニアス・モンク(異次元)、ホレイス・シルバー(ソウルフル)、ビル・エヴァンス(内向き)、ビル・チャーラップ(明快)、サイラス・チェスナット(喜び満載)。自分を結び付けるものがあるスタイルの音楽との出会いは、友人が出来たような気分になれるのです。家族がなくなったしまったり、あるいは辛い別れがあったりすると、年配の人達などはよくこう言ったものです「彼らの傍にいてやるんだ」それは、言葉は要らない、寄り添うのみ、という意味です。皆さんもテロニアス・モンクに寄り添ってみてください。 

 

演奏は、人の本当の姿をさらけ出すものです。辛抱の効かない人は音にそれが出ます。待つことが出来ないのです。のんびりしていてテキパキと考えを巡らせない人の音は、誰もが聞いてそれと分かります。シャイで自分を表現するのが苦手だという人は、折角の良い考えが音になって出てこなかったり、それを埋め合わせようと力んだ演奏になってしまったりします。自己中心的な人は、他の人と息を合わせて演奏はできません。皆に合わせてもらうか、皆にねじ伏せられてしまうか、どちらかです。確かにそうやって演奏活動を続けてゆくこともできるでしょうが、そんな人と演奏するのは楽しくない - 特にドラム奏者がそのような人では - ものです。 

 

ジャズでは、プレーヤーの弱点を逆手にとって新たにモノを創り出したりします。ドラム奏者のトニー・ウィリアムスは、スウィングが浮ついてしまうのを補おうと、いくつかのテクニックを掘り起こしてゆきました。サクソフォン奏者のジョー・ヘンダーソンは、音量が出ない分、サウンドのテンションを高めてゆきました。ベース奏者のチャールス・ミンガスは、合奏用の編曲法を知らなかったこともあり、バンド全体で一斉に行うインプロバイゼーションを前面に押し出す方法を編み出してゆきました。 

 

勿論、優れたミュージシャンと呼ばれる人達の中には、このように問題対処をしない人達もいます。でも対処する人達は、聴き手のインスピレーションをかき立て、自らの欠点が固定化してしまうのを克服するクリエイティブな方法を、次々と生み出すことが出来ているのです。「必要は発明の母」とは、ジャズのことです。ジャズは、瞬間対応力を求めてきます。気のゆるみは禁物です。ジョン・コルトレーンの「レゾルーション」の録音を聴いてみましょう。演奏の冒頭、リズムセクションがつまずいてしまい、バンド全体が空中分解しそうになります。でも演奏を止めずアンサンブルを立て直し、録音を続けた結果、ジャズの歴史上最もスウィングの効いた作品の一つとなったのです。物事はくじけずやり通せ、と教えてくれる一枚です。 

 

ジャズミュージシャンにとって最優先の課題は、自分自身のサウンドを創り。自分のモノにすること。しかし人間の自然な性は、既に知られているモノや流行のモノを真似することに在ります。誰にも似ていない、として非難された最初の人は、レスター・ヤングではないかと思われます。彼がキャリアをスタートしたのが1920年代の終わり頃。当時テナーサックスを吹く人が皆こぞってモノにしようとした、音量も態度もデカい音の持ち主はコールマン・ホーキンスでした。レスターが自分の音を手にする、ということではなかったのです。我が道を行くレスターは、コテコテの、それでいて羽のように軽やかなスウィングを効かせ、その後の非難を切り抜けてゆきました。事実、自分らしさを表現することは彼のもっとも大切にしている所です。「自分だけの歌を歌えるようになってからアンサンブルに加わろう」です。 

 

レスターと同じ頃、ロイ・エルドリッジが頭角を現してきます。当時トランペットを吹く人は、皆こぞってサッチモの吹き方をモノにしようとしていました。そこでエルドリッジが作り上げた演奏スタイルに採り入れられたのが、サクソフォンのようにメロディックな旋律、熱のこもった唸るような音、そして熱く激しくとてつもない高い音域の音、これらによって「ロイ・エルドリッジは、ずっとこれで行きます」と宣言したのです。トニー・ウィリアムスから僕が聞いた話によれば、彼は自分自身のドラムスのスタイルを創り上げるために、他のドラム奏者達の特徴的なフレーズや奏法テクニックを身につけていったそうです。そうすることによって、それらを自分の演奏スタイルに、「採り入れないで済む」ようにした、とのこと。 

 

僕達は仕事でもプライベートでも、自分の関わっていることについて、常に何らかの競争だの比較だのを、実際に存在する人や仮想の相手と繰り広げています。意識している場合もあれば、自分では気付かないでいる場合もあります。ジャズの世界では、基準となるものが非常に高いので、多くの人が過去の演奏のことは頭から外してしまうことが、どちらかというと見受けられます。テイタム、バード、プレス、ポップス・・・「コラ!私の名前が無いぞ!」なんて、天から声がしてきそうですが・・・ 

 

楽器を演奏する上での技術的な克服課題を列挙する、和声と和声進行を聴く力をつける、他のプレーヤーの演奏に支障なく反応できるようになる、シンコペーションリズムを身に付けるある程度の量のメロディを覚える、そして音楽という言葉で会話をどんどん広げてゆく、つまり、インプロバイゼーションが出来るようになる - こういったことは全て多くの時間を費やすものです。そしてひとたびこれらを身に付けたら、成功への次のステップとして、これらの自分だけのスタイルを手に入れなければいけません。そして、まさにこれこそ、長い道のりとなるものです。それは時間がかかるというだけではなく、良く深く考える、といったことも同時に自覚すべきです。 

 

そして、この「ちょっとばっかり」長い道のりを終えたら、強い気持ちを自分の心の中に見出し、その気持ちで打ち込むことにより、皆が理解できるとはいかないかもしれない「音の言葉」を発信する、自分だけの方法を創り続けるのです。自分の我慢と本気が試されます。これは子育てと似ているところがあります。うんと楽しくしようと思えば、小学生になったら、パソコンの前に座らせておく、高校生になったら、友達と外で夜遅くまで遊ばせておく、そして大学生になったら、子供達の都合に合わせて時々顔を合わせる、これで済んでしまいますよね。でも、子育てをもっと楽しくしようと変化をつけようとするなら、時間を割いて彼らに新しいモノを紹介する。彼らの成長に合わせて継続的かつ変化のある会話を持つ。必要な時は目の上のたん瘤になる。「お前たちの為なんだよ」的な、しかし本当は自分こそに必要な矯正を加える。こういった辛いことも楽しいことも全て、長く素晴らしい経験の一部になるのです。ジャズとの旅も、演奏するにせよ聴くにせよ、多くの場面へと皆さんを誘ってくれます。もとより音楽の持つ「伝える力」は、誰とでも、どんな事でも、発信する手助けになるものです。「誰とでも」 - そこには皆さんの子供達も含まれます。 

 

今日、ジャズミュージシャンには、これまでなかった問題が発生しています。厳しいことに、今の時代は、ジャズに詳しい、ジャズにこだわりを持つ、あるいはミュージシャンへのチェックが厳しい、そういう人が多数派ではなくなってしまったのです。それには理由があって、クラシック以外で耳にする機会がある音楽の大半を演奏しているのは、アマチュアであったり、あるいは、それこそミュージシャンでは全くない人達 - 人間的なカリスマ性はあるかもしれないけれど演奏はほとんどできない人達なのです。本物のジャズミュージシャンなら、14,15歳で十分力をつけて、最も売れっ子の、音楽をかじった役者達がやれることはこなしてしまうでしょう。僕は文句を言っているのではなく、現象を説明しているだけですからね。今の時代大半の人が、音楽の聴き方というものを教わってきていません。そして、僕達が日々耳にする音楽に押し付けられた役割と言えば、壁紙となって、その前には「ステキ」と思わせる位のことしかしないような、売れっ子歌手や人気タレントや、「超」がつくほどの美男美女を立たせる、というものです。つまり、ミュージシャンと聴衆との関係は、変わってしまったのです。ミュージシャンが求めるのは、聴く耳を欹ててくれることで、目の前で繰り広げられる演奏の中に、心と技を感じ取ってくれる聴衆です。深い感情を表現するフレーズが、ブルースをしっかりと効かせて、人間の根っこの部分を心の中に描き出し、それが聴き手の「そうそう!」「そこまで言うか!」あるいは「もっとやれやれ!」と出会う時、それは聴衆とミュージシャンの両方にとって心が晴れる瞬間なのです。音楽の聴き手のレベルが落ちて、聴衆の頭に残るのが、短く簡単な歌詞だの、「ちょっと懐かしいな」くらいのメロディなどしかなくなってしまう時、聴衆とミュージシャンとの間のコミュニケーションに本来備わっている活発なやり取りもなくなってしまうのです。ジャズミュージシャン達は新しいモノを創り出すのが仕事であり、自分達が創り出したものによって聴き手がどう感化されたかを見て、また更に新しいモノを創り出してゆくことを望んでいます。「聴き手の感化」がない、となると、良い循環は望めません。「皆さんが演奏についてこない、となると、演奏するこちらも皆さんのことがわからない」というわけです。 

 

若手のミュージシャンの中には、コード進行に合わせて音を並べることが出来るようになることがジャズなんだ、と思い込んでいるのが、最近あまりに多いのです。彼らを教えている人達が、物事の名前を覚えれば、それを経験したのと同じだ、、と言って聞かせているのです。遥か昔のアメリカ独立戦争の時代まで遡り、そこから始まり公民権運動からベトナム戦争、そしてデジタル革命まで次々と経験し歩んできた我が国(アメリカ)の音楽が持つ意味や形式といったものは、今日の破壊されてしまったジャズや芸術の教育活動、音楽に対する批評の在り方、「ワールドミュージック」なるものを良く考えずに大事にしようとする態度、こういった風潮に対して何一つ響いておらず、そして結局のところ、世界中の演奏の場においても、影をひそめてしまっているのです。実に恥ずべきことです。なぜならアメリカ人というものは、自分達にとって最も大切な音楽を、耳にするよう促されれば、それを愛することができる国民だからです。これまでも世界中の人々が、その同じ音楽を好きになってくれて、我が国(アメリカ)の最新流行を追いかけ続けてくれているのです。例えそれが異常な物であったとしてもね。 

 

今日のジャズミュージシャンは、自分自身に対し、どこまでも誠実さを求めてゆかなければなりません。なぜなら、プロ意識や音楽家魂、洗練さや感受性といったものは、多くが求められることは決してなく、「少なくていい」とされてしまっているからです。あるいは、売れるものや何かしらウケるものが求められています。聴き手に伝わりにくい演奏表現は、演奏する側は楽しいかもしれませんが、聴き手との意思疎通を損ねてしまうものです。自分が読んでいる本の中に、訳の分からない文が長々と出てきたときの気持ちに、少し似ています。ジャズでは、最も洗練されたミュージシャンであると自負するならば、聴き手が初心者である場合、彼等のとコミュニケーションは大いに腕が試されることだと自覚すべきなのです。 

 

「頭のいい人にはついてゆけない」と思われてしまっては、何にもなりません。自分の演奏する音楽に慣れ親しんでいない聴衆と心を通わせようと思わないなら、芸術性を磨く上で不可欠な「謙虚さ」から遠ざかってゆくことになるでしょう。 

 

音楽は目に見えないものを扱う芸術ですから、何が人の心を動かすのかを知ろうとしても、それは不可能というものです。人はお互いの外見を確認し合うことは容易にできます。しかし人生の大半は、人の内面こそが重要です。それは目に見えないものであり、だからこそ、他人がどのように人生の経験を受けとめてきかたは、分かる人などいないのです。あまりに根深く、あまりに多岐に亘るものです。こういった人それぞれの、常に変化し続ける生き様を表現することは、文字や言葉では不可能です。音楽ならば、人の意識の奥深くて見えない所も、そして人の意識を超越したところも、遥かに明快に表現できます。音楽は人の内面に在るものを表に出す、つまり、、皆さんの心の中が現れてくるのです。 

 

男女がいて、それを見ている皆さんが「あの娘、あの男をどう思っている?」と理解に苦しむことがありますよね。確かに理解に苦しみますし、一生解らないでしょう。その2人の間に芽生え通じ合う思いなど、知る由もありませんからね。 

 

人の心はとてつもなく奥深いものです。ディジー・ガレスピーが僕にかつて言った言葉です「あのな、チャーリー・パーカーってのはな、時々深い音を吹く。深ーい音をな。」僕にはディジーの言いたいことが理解できました。「深い」というのは、生きている人間の性質に対して、チャーリー・パーカーが知っていることや気付いていることに対するものです。彼が吹き鳴らすのは単なる音符ではない、とディジーは続けます。「録音じゃ聞こえないよ。そこに居合わせなとな。チャーリーが音を吹き鳴らして、それが君の体の中を駆け抜けるのさ。」 

 

こういった音は、人の心と共鳴するものです。その音が運ぶ、人に対して共感的なバイブレーション(振動)が、聴く人をこう言わせるのです「あぁ、私もそんな気分だ」「そうか?そうだよな・・・」これこそが、僕達大人が子供達に対し、ジャズにしろ何にしろ彼らが努力する上で教えなければならないことであり、僕達自身も取り組むべきことなのです。 

 

こういった人の心と共鳴する音というものは、滅多に「聞ける」ものではありません。故に、「聴く」価値があるのです。僕はベティ・カーターのこういった歌声をある晩耳にしたことが有ります。素晴らしかったですよ。まだ他にもあります。偉大なアルトサック奏者のヴェス・アンダーソン、通称「優しいお父さん」は、こういった演奏で世界中のクラブで聴衆から狂喜の歓声を受けているのです。マーカス・ロバーツがピアノで一発音を鳴らせば、「キターっ」となりますし、オーネット・コールマンもそうです。僕がある晩彼の家に立ち寄ると、皆で朝の4時までずっとセッションをし続けました。彼の弾いていた音は、それ自体が云々というよりも、その音によって運ばれる彼の感じていることや理解していることそのものであり、聴く人にも同じ感覚や理解を心に抱かせてしまうのです。 

 

ジャズミュージシャン達の演奏で、皆んさんの人生に変化が起こることもあるでしょう。彼らの織り成す音の数々は、自分自身や他人を理解し受け入れる後押しとなるでしょう。また好き勝手に叫んだり、悲鳴を上げたり、泣いたりもします。そしてこれが楽しいのです。小さい子供達が可愛らしく見えるのに、何となく共通するものがあります。彼らはギャーギャーわめいたり泣いたりして、こちらも頭がおかしくなりそうになりますが、あまりにも気ままに、そして大抵は芝居っ気など全くなく、本気で感情をむき出しにしてくる分、かえって可愛らしく思えてしまうものです。演奏は、セックスよりも楽しいかもしれませんよ、真面目な話。上手な人とセッションすると、いつまでも続けたくなります。長くて下手なソロがやたらと多いのは、このためです。スッキリ吐き出した、と言わんばかりの行為です。率直で本能の赴くままのコミュニケーションであり、自分も相手も、やりたいようにやり、言いたいように言うことができるのです。 

 

この時、あらゆるものが一気に押し寄せてくることがあります。ジャズとは、列車の様なもので、この列車は常に自分に向かって遠い未来から走り寄ってきます。遠くから何か聞こえたな、と思った次の瞬間、だんだんと近づいてきて、こちらも準備を整えます。列車が到着すると、今度は自分が、その遠くで聞こえていたものを受けて演奏するのです。自分が演奏し始めると、その機をちゃんと見て取った共演者が傍にいてくれたなら、それはもう・・・最高ですよ。 

 

皆さんが話をしている時、一つの考えに向かってキチンと進んでいくにはどうしたらいいか、ということを考えたことはありますか?音楽の場合、時間の区切りが明確に幾つも引かれていますから、その中で一つの考えに向かってキチンと進んでゆくことが強いられます。スポーツで記録を達成する過程とよく似ています。目標に辿りつこうとして、目の前のあらゆる障害がある中で、圏内に入っていなければならないので、時間内に辿りつこうと、あの手この手でパフォーマンスを見事に決めるのです。「もう間に合わないぞ」がいつも続いているという、時間はプレッシャーとなる存在です。 

 

更に、リズムに従いハーモニーの壁を乗り越えて、時には狙った時間ピッタリに、時には決められた時間内に、演奏をやり切って行くという、音楽面での競技能力に加えて、表現する考えやサウンドについては、心の根底と表面に出てくる感情の両方に於いて、包括的な成熟さが必要です。そしてその境地に辿りついた時こそ「やったぜ、これだ!」という被服の時間なのです。そうなったら後は、手にした音やフレーズを然るべき方法で存分に使いまくって行くという、他では味わえない幸福感に浸ってください。そのうち誰かが自分と一緒にそれを耳にすると、その人が更にその表現を発展させて、居合わせた人全員がそれを耳にしてシンクロしてゆきます。結果、せかせかと演奏するのがもったいなくなって、ひたすらそこで繰り広げられる、織りなされた音とそれが響かすサウンド、そこに表現される思い、その瞬間・・・それがひたすら膨らみ、そして歓喜に至るのです。 

 

聴く人達も歓喜の笑顔に包まれてゆきます。僕はこれまでこう言った光景を、何度も繰り返し、国内(アメリカ)で、そして世界中で見てきました。 

 

深夜2時15分、街頭に人々が並んでいます。終日小雨が降った日があったため、何とか曇り空で踏みとどまったこの夜に、本番が開催されることになったのです。3回目の公演開始が遅れています。並んでいる人達は夜露で服が湿っぽくなり、少し苛立っていますが、まだ我慢できています。もうすぐ大好きなジャズグループのサウンドに浸って、待ちに待った心の満足が得られる、と思えばこそです。 

 

彼らが開場を待ち並んでいるのは、地元のクラブ。アメリカ全土にある数多くの小さな音楽のメッカの一つです。近所の常連客と一緒に混じって並んでいるのは、近くの大学に通う学生達。彼らは友達にカッコいい所を見せて、ドヤ顔できるチャンスを、今夜やっと得たのです。ジャズを楽しもうと企画された日本人ツアーの客の一団もいます。英語でドリンクをオーダーするのは大変ですが、開演時刻はちゃんと心得ています。 

 

このクラブは出来て25年が経ちます。オーナーは筋金入りのジャズ愛好家で、奥さんの熱意に賛同し、私財をつぎ込み、酒の販売許可に際しての様々な面倒に耐え、音楽がうるさいだのドラムはもっとうるさいだのと近所の苦情に対応し、ホームレスが関係者を装って店の外でせっせと客からお金をめぐんでもらうのに悩まされてきました。 

 

ようやく開場となり、人々は中へと吸い込まれてゆきます。中は明るく、座席は大体135人収容位、壁に飾られている肖像は名プレーヤー達、それも様々なキャリアステージのもの(駆け出しの頃、全盛期のもの、晩年の姿など)、もう亡くなっている人達もいれば、多くは随分昔に流行った髪型のモノばかり。今晩聞けるであろう演奏よりは、多分はるかに上手な演奏のテープが、これでもかという音量でかかっています。 

 

常連客達の何人かは、後方のカウンターへと向かい、リキュールの量が極端に薄く作ってあるカクテルを注文し、出来るだけ長時間かけてチビチビやろうという処。残りの客達は込み入ったテーブルをかき分けて、なるべくステージに近い席を取ろうとしています。テーブル同士の距離は、お互い殆どくっつきそうなくらいで、座ってみると、知らない人同士で夕食の卓を囲んでいるようです - それも間近で。日本人観光客達は、どうやら壁際の長椅子を陣取ったようです。演奏開始が遅れているうちに、時差ボケで眠くなりそうになったら、寄りかかってくつろごうというのでしょう。 

 

出演メンバーがやきもきしながら待機しています。彼らのお気に入りのこのクラブは、確実に本番を組んでくれるので、メンバー全員昼間の堅気の仕事をしなくて済んでいるのです。彼らはこの小さな空間の距離の近さが大好きで、店のスタッフさん達全員と、そして常連客達の多くと、仲良く親しくしています。ところで今夜は、まだ演奏開始とはいかないのです。ベース奏者の姿が見えません。彼はこの直前のステージが終わると、電話をかけに行ってしまい、いまだ戻ってきていませんでした(おかしなことに、ベース奏者かドラム奏者のどちらかが、決まっていつも遅れるのです。演奏中はタイム(テンポ)キープの最高責任者の二人も、一旦演奏から離れると「タイムキープ」とはいかないようです)。 

 

メンバー達はクラブのスタッフとタニマチ連中へのサプライズにと、新作を練ってきていたのです。ミュージシャンにとって最高の褒め言葉、それは普段から演奏を聞いてくれている人にこう言われることです「皆今夜はノリノリだったね!あの新曲が良かった。どこから持ってきたの、あの曲?皆かなり入れ込んでいるようだったけど?」。メンバー達は、これを聞いた店のバーテンさんやスタッフさん達が、店の外で演奏のことを宣伝して欲しいな、と思っているのです「ねえ、うちのクラブに来てあいつらの演奏聴いてごらんよ」とね。 

 

宣伝する相手が、若い女子大生達で、フラッとジャズクラブだと知らずにやって来たりなんかすると、スタッフ達も一層熱が入ります。 

 

それはそうでしょう、メンバー達にとっても演奏の気合いの入り方が違います。 

 

ベース奏者がノロノロと戻ってきたようです。メンバー全員の登場です。スピーカーの音楽は止み、照明が落されます。 

 

他にも色々手頃な娯楽がある中で、人々はなぜここへやって来るのでしょうか? 

 

彼らは知っているのです。一旦バンドの演奏が幕を開ければ、そこからの1時間15分は、一人残らず皆が、ミュージシャン達もウェイトレス達も、これに染まってハマった連中が一つになり、そう、最も可能な限りピュアな言い方をすれば「仲間」となって、「私」ではなく「私達」になることを選んだことになるのです。ここからは、演奏する側と聴く側との両方に、難しい課題が待ち受けています。会話をしていて話題に対するお互いの興味がかみ合わないことが有りますが、それと同じレベルで、自分の視点とは全くかみ合わないものが演奏に込められています。そんな時は、頭を柔らかくして対応し、お互いイーブンなギブアンドテイクを心掛けることです。スウィングはこれを人々に求めてきます。だからこそジャズは素晴らしく、それだけに、素晴らしいジャズほど理解するのが難しいのです。 

 

今日は1年で最後の、学校での大きなダンスパーティーの日です。皆ここまで何週間も前から、自分の彼氏/彼女と予定を調整してきています。卒業生も在校生も、チケットの応募があまりにすごくて、これを収容すべくキャンパス内に大きな臨時のテントが建てられました。この日は、若い世代の経験に、と、新企画が用意されています。いつもと違い、大音量過ぎて音楽がわけわからんだの、真っ暗すぎて連れの顔が見えないだの、酔っ払い過ぎて覚えていない(思い出せない)だの、といった学生の土曜の晩のイベントとはならないようです。ビッグバンドが来ていて、今夜が初お披露目みたいな顔をしてスウィング 

の定番曲を次々と演奏することになっています。おじいさん・おばあさんは、今夜は思い出辿るぞ!と準備万端。お父さん・お母さんは、今日は面倒くさくなくて良い!とご機嫌。そしてジョニーとジェーンは、今アメリカ全土の高校で大流行のレトロイベントに備えて、スウィングダンスの特訓を続けてきました。ベテラン組は「粋」を心得ていますので、今更、かつて自分達の時代に流行ったズートスーツだの幅広ネクタイ(スキー板並の!)だので決めていこうなんて考えはしません。今宵は自分達がノスタルジアもどきに浸る日ではないのです。最高のアメリカの音楽に乗って、ダンスをする素晴らしい機会であり、若い連中にとっては、その大切な初体験の日なのです。 

 

さて、バンドがミディアムテンポの曲、次々とスウィングを効かせて演奏し始めました。優雅でロマンチックな二人の連係プレーは、スウィングの神髄、成熟した大人のテリトリーであり、若い世代にはかなり見慣れない世界です。若い世代にとってお馴染みなのは、クラブで行われている自己陶酔するようなエアロビクスみたいなダンススタイルだったり、かつてダンスフロアで主役だったちーくみたいなものに取って代わってしまった、エロく下半身をくねらすダンススタイル(ジュビナイルの「Back That Ass Up」のような)だったりするのです。 

 

ここでガラッと、バンドが優しいバラードを演奏し始めました。丁度その時を示し合わせたかのように、若い子達は脇によけて、代わりに円を描いて囲んだのが、おじいさん・おばあさん達。彼らが頑固に守り抜くロマンスの表現は、どこまでもエレガントでソウルフルで愛に満ち溢れていて、若い子達の心を釘付けにしてしまいます。年寄が若者に、男/女の扱い方を教えるなんて、アメリカのどこにも見られないでしょう。またしても、ジャズの力が見せつけられたのです。昔から受け継がれる、導く力がこの音楽にはあって、それがあらゆる世代の人々をジャズが表現する感情の世界へと誘うのです。ジャズには「対象者」などなく、「高齢者限定」なんてレーベルもありません。現在地球上で最も年齢差別が激しい国において、ジャズは、誰もが年齢に関係なくスウィングを楽しめることを示しています。その神秘的な力によって、自分の過去・現在・そしてなりたい未来の姿を思い描かせてくれます。今の時代、この音楽のサクセスストーリーが埋もれて日の目を見ない、となると、今のアメリカの日常生活は、何とも貧弱な姿になってしまいます。 

 

僕が高校を卒業する年のプロムの夜(ダンスパーティー)の話です。その夜はニューオーリンズにある、フェアモントホテルのブルールームで、ライオネルハンプトンオーケストラと一緒に演奏しました。後から分かったのですが、その時トランペットセクションの中で僕の隣の席に座っていたのが、ジミー・マックスウェルだったのです。1932年、彼が高校の卒業年次生だった時に、彼はカリフォルニア州ストックトンでギル・エバンスが最初に結成したバンドで吹き、その後ベニー・グッドマン」の楽団でリードトランペットを務めています。僕が彼と一緒に吹かせてもらったその夜、彼は僕に楽器スタンドをくれて、様々な助言や励まし、そして幸運を祈るとの言葉までもらったのです。彼が、あのジミー・マックスウェルとも知らずにね。 

 

ここで少し、ジャズを通して繋がってゆく、アメリカ人が大事にすべきだと僕が考える、世代間の結びつきについて、踏み込んで話をしようと思います。僕はニューオーリンズセンターという芸術学校でジャズとクラシックの両方を学びました。当時、ミルト・ヒントンという偉大なベース奏者が、僕達の学校で授業を持っていました。彼は10代の頃、シカゴの北側にあるハルハウスコミュニティーセンターで、バイオリンの授業を受けていたのです。当時ベニー・グッドマンが同じ学校絵クラリネットのレッスンを受けていたのが、シカゴ交響楽団の首席奏者。その人は肌の色に関係なく弟子に取ることで有名で、丁度同じく僕のトランペットの先生であるジョージ・ジャンセンも、ニューオーリンズで唯一、1950年代や60年代というあの時代に、黒人も白人も分け隔てなく弟子に取ることで有名でした。さて、こうしてベニー・グッドマンも僕も同じような修行の道を辿り、二人ともクラシックとジャズの両方を演奏するわけですが、1980年代初頭、モートン・グールドの記念式典で僕が彼と会った時、僕は人種や世代について何もわかっていなかったことが原因で、彼が何者なのか、そして彼の与えた現代の音楽への足跡について、全く理解していなかったのです。 

 

今日は春らしい素晴らしい天気です。もっとも日差しが強くて、春というよりは夏の陽気になっています。ピクニック広場には何千人もの人々が、帽子をかぶってサングラスをかけ、クーラーボックスには飲み物が満載、もっともアルコールがその内どの位かは、それぞれあるようです。子供達は、そこかしこで走り回ったりボールを蹴ってみたり、彼らはとにかく外へお出かけの度に、どうでもいいことでテンションを上げてくるものです。フライドチキンやハムサンド、ただこの場に花柄付きで短めのコットンドレスなんか着ているのを見ると、ちょっとイラッとします。ここに広まっている雑多な騒音は、これからここで演奏することになっているミュージシャン達とは、ほとんど関係がないように見えます。これは「ジャズフェスティバル」と銘打ってあるのですが、大半のバンドが演奏するのはジャズではありません。ファンク、サルサ、延々即興演奏をするインドのタブラドラムのグループ、でも彼らの中に、かつてこのフェスティバルが主役にと意図した、ジャズを演奏する団体もいるはずです。 

 

このフェスティバルを支えているのは、複雑な活動組織となっている複数の企業によるスポンサー達です。彼らはジャズには関心が無いのかもしれません。そういった意味では、どんな芸術活動にも関心がないのかもしれません。彼らが関心を寄せているのは、どれだけ多くの人々がやってきて、ステージの上に大きく掲げてある横帯幕に書かれた会社のロゴをみてくれるだろう、ということでした。このフェスティバルのディレクターは、本当のジャズ愛好家ですが、まずは集まった人達を楽しませるのが仕事です。過去30年間このフェスティバルをプロデュースしてきた彼は、今日ジャズに対しての人々の好みが減退してしまったり、ジャズにはスタート呼ぶべき人達が足りない、ということを悲哀を帯びて語ったかと思えば、今度は熱を帯びて語るのが、フェスティバルが財政面では右肩上がりだ、それも自分が大好きな音楽を外してから(ジャズ)、というものでした。 

 

こんなことでは、お客さん達がスウィングの効いた音楽で盛り上がると想像し難い、と思いました。何せ、ラジオが一日中広告塔のように流すのは、バックビート系の音楽、テレビを独占してしまっているのは、グロテスクで、目が回る早口で、今風のミンストレル(コントショー)を行う、ラップのグループや、女の子達のグループ(美人で歌はやらないけれどヘソ出しは完璧)ですからね。自称「専門家」達が、ジャズ雑誌で次々記事にするのは、今は亡くなった「本物」のジャズの細かな描写、それからカン高くキーキーいうようなテナーサクソフォンや、ベースによる無限のオスティナート(リフ)、1920年代のヨーロッパアバンギャルドを他の追随を許さないとか言うインプロバイズを加えたインチキまがいのモノなのです。 

 

ところがです。5時になると、あるバンドがブルースを演奏し始め、お客さん達はジワジワとスウィングの力によって盛り上がり始めたののです。皆が熱狂し、歓声を上げ、手拍子をし、それがソリスト達のインスピレーションを更に高いレベルにまで掻き立てます。残念ながらこの出来事は、翌日の新聞・ラジオ・テレビどこにも扱っていません。しかし僕達は、目の当たりにしたのです。あの場に居合わせた人達は、この夕べのことをきっと思い出すことでしょう。そしてこれは、また起きるでしょう。僕はそう確信しています。 

 

8月、ニューオーリンズ。現職の市長さんが亡くなりました。生前彼は、ジャズ葬を望んでいました。といっても「昔ながらのやり方にこだわって」ではなく、「普通に月並みにやってくれればいい」というものでした。ミュージシャン達が集まります。彼らの年齢は15歳から70歳。中心部の雑踏から離れた閑静な地区。まずは、ゆっくりとした葬送音楽と聖歌。そして普段通り様々な追悼曲が演奏されてゆきます。人々が街頭に並びます。彼らはそこに流れる聖歌を知っていますし、演奏しているミュージシャン達の何人かとも面識があります。そして誰もが市長のことを知っています。 

 

演奏するミュージシャン達の意識としては、いつも通り事が運んでいる、というところです。気温は高くて暑く、音楽はゆったりと流れます。時折彼らの中から、誰に対してというわけでもなく、「ニューヨークじゃ、こんなのやらないよ」。この「ニューヨーク」が、声が上がる度に別の都市になります。例えば「サンフランシスコじゃ、こんなのやらないよ」みたいにね。 

 

市長のお別れのミサが行われる大聖堂では、独創トランペットによる、昔から伝わる聖歌「追憶」が流れます。すすり泣く人達もいれば、そこに居るだけ、という人達もいます。色々な理由で出席しなくてはいけない、という人達もそこには居ます。ミサが終わりました。ここまで演奏に携わってきたミュージシャン達が、同じ通りへと集まってくると、天高く弾むドラムやテューバの海から飛び出してきた数々の管楽器群が歌い上げる、果てなきシンコペーション、そして亡き人の御霊に捧げるボリフォニー、これらによって路上はさらにヒートアップします。 

 

人々が通りに繰り出します。そして踊り、歌うのは、彼らが生まれた時から耳にしている曲のメロディーの数々「あぁ奴は極貧者」「川辺で君と」「彼方の栄光の地に」、ジョー・エイヴリーの「セカンドライン」。皆の汗がほとばしります。皆が居る通りそのものも、汗をほとばしらせているように見えます。ミュージシャン達にとって、閉鎖された空間で聴衆を沸かせることは、たとえ天井の高い講堂のような場所でも難しいことではありません。ところが難しいのは、天井や壁のない屋外です。音は返ってこない。折角創ったエネルギーもすぐ散ってしまう。しかしこのニューオーリンズの儀式は違います。皆が、生まれた時から身に付いているお馴染のグルーヴ感を織り成して、バンドの周りで踊り、颯爽と歩き、スキップし、歌うのです。蒸し暑い空気それ自体がこういったエネルギー全てを散らさず、ずっと抱えて、圧縮し、そして沸かしてゆくことを、ひたすら続けることで屋外に居るということで更にエネルギーは熱のこもったものになってゆくのです。 

 

こういったパレードを見に、世界中から人々がニューオーリンズにやってきます。となると、こんな憶測が出たりします。市がパレードの補助をしている。こういう儀式が人々の生活の中心となると様々な学会の専門家達の特別な注目を受けている。学校で教育活動に取り入れられている、子供達が参加するバンドのコンクールが地元で開催される。アマチュアバンドが何十団体もあって、トリニダード・トバコで盛んに行われているスチールドラムバンドやブラジルのサンバを教える教育機関のように、企業や地域社会と密接な連携を取っている。ところが違うのです。扱う音楽がジャズなだけに、わずか一握りのミュージシャン達がこの音楽を維持している、それも、教育体制も行政の支援も何もない状態で、なのです。ミュージシャン達でさえ、中には、ニューオーリンズらしさであるとか、そこに息づく街の人々の幸福といったものについて、このジャズという音楽が真に洗練された姿とその重要性を、分かっていない方もいるのです。 

 

それでもなお、ジャズには頑強な部分もあり、あらゆる撲滅の試みを失敗に追いやっています。だからこそ、この土曜日の午後、市の長老達や意識の低い学校がいくつか関心を示さなかったにも拘らず、多くの若手ミュージシャン達の中で、この儀式に対する知識の無さがあったにも拘らず、葬儀はいつも通り終日行われました。そしてこの最高潮に達した盛り上がりは、人々の暮らしを潤し、死の辛さを和らげ続けるのです。 

 

僕が思うに、これこそが、この音楽を愛する人々によって受け継がれてきている最も深い秘密なのかもしれません。この音楽を演奏し苦難の月日をもがき続け、依然としてこれに人生を懸けるジャズミュージシャンである親達を見てきた彼らの子供達全員、ジャズクラブのオーナー達、ジャズのレコードコレクター達、そしてジャズを教える教師達全員、お色気たっぷりなサックスのまろやかなサウンドや、明るく澄んだトランペットの華々しい声高なサウンド、ズシズシと響くベースのサウンド、打楽器のドンガラチャカチキといったサウンド、こういったものに何らかの理由で心を囚われた若者達全員、生徒達が6時に朝練に集まってきたかと思えば夜遅くまで地元のクラブでミュージシャン達の演奏を聴いて勉強しているというバンド指導者達全員、こういった人達こそ、今も、そしてこれからもずっと、この音楽に精気を与え続けるのです。 

 

次回は、第5章を見てゆきます。 

「Moving to Higher Ground」を読む 第5回

第3章 みんなの音楽:ブルース
  
<写真脚注>
ブルースは世界のどこへ行っても耳にすることが出来ます。写真はジョー・テンパレーと言って、スコットランドが生んだ、バグパイプの次にソウルフルなサックス奏者です。彼の演奏は、ファンの郷愁を誘います(オランダでのステージの様子)。

僕はこれまで、あらゆるタイプのミュージシャン達と共演する機会を得てきています。それもあらゆる場所で:ボストンのプーズパブ、ニューオーリンズのシティパーク、ローマの古代円形闘技場シドニーのオペラハウス、共演させていただいた方達も、B.B.キング、イツァーク・パールマンソニー・ロリンズ、ウィリー・ネルソン、スティービー・ワンダー、それからフラメンコギターの大御所のパコ・デ・ルシア。共演、と言っても、事前準備なしのパフォーマンス、つまり、リハーサル時間もとらなければ、予め用意しておいた曲もなし、というものです。こういった状況の元、多彩なミュージシャン達と共演できる曲なんてあるのでしょうか?皆に共通する音楽なんてあるのでしょうか?

実はあるのです。それがブルースなのです。まるで、ブルースが生まれたのは、彼らと共演し理解し合うキッカケ作りのため、だと思いたくなります。迷ったらブルースがあります。という感じですね。

トルコで公演を行った時のことです。ある人がやってきて舞台上に上がってきました。てには何かトルコの楽器の様なものを持っていましたが、メンバーの誰も知らない楽器でした。その人は僕達に何か一曲一緒にやりませんか、と言ってきたのです。楽器を見た感じで、僕達は最初「無理」と答えました。するとその人は何曲かその楽器で演奏して見せてくれたのです。これを聞いた僕達は「ではブルースか何かやってみましょうか」と言ったのです。その人は満面の笑顔で「いいですね」と答えました。その人との共演は上手く行き、聴衆も喜んでくれました。彼らにとって昔からおなじみの音楽と僕達の音楽が上手い形でまとまって耳に届くことが出来た、というわけです。ついこの間、僕はニュージャージー州の、とある刑務所で、服役中の方達と一緒に演奏してきました。何を演奏したと思いますか?主にブルースを、ちゃんとスウィングも決まっていましたよ。

ブルースは多くのことを伝える音楽表現です。歌詞それ自体が伝える意味と、それが歌い手によって発せられる方法によって伝えられる意味というものがそれぞれあるわけです。音楽というものは常に、言外のニュアンスを伝えてくれます。ブルースの歌詞全体が悲しみを表現したものであったとしても、音楽は常にグルーブ感を帯びています。グルーブ感を帯びている、ということは、ダンスができるということであり、ダンスはいつも人々に喜びをもたらすものです。ディジー・ガレスピーがこのことを見事に言い表しています「ダンスは誰の涙も流させはしない。」これこそがブルースを理解する鍵となるものです。ブルースは喜びと悲しみを同時に心に伝えてくれるのです。

ブルースは優れた伝道者の様なものです。伝道者と言えば、物事の根底にある本質について説く人のことです。熱弁をふるい、訴えかけるように話し、丁寧に説明し、あらゆる手を尽くして皆さんに並々ならぬ決意をもって、思いを届けようとします。ブルースを演奏するミュージシャンは、楽器を使ってこれを行うのです。泣く、うめく、叫ぶ、囁く、等々、あらゆる方法で皆さんに癒しをもたらす、というわけです「。

ブルースはワクチンの様なものです。「体に悪いもの」を正しい方法で体内に注入することで、これから猛威を振るうであろうことに対処する準備をするわけです。同じことをしたのが、奴隷制度がまだ残っていた時代の黒人の親達でした。酷い仕打ちを子供達に対して、敢えて行うことにより、やがて世間で降りかかってくるであろうことに、太刀打ちできるようにしてやっているのです。

あるいは軍隊において、新兵達に対して手荒い仕打ちをすることで、実戦での過酷な環境に耐えられるようにするわけです。

スウィーツ・エジソンと話をしていた時、彼はブルースのことを、自分が耳にしたことのある音楽の中では最も悲しい音がする、と言っていました。ジョー・ウィリアムスも同じことを言っていました。ホレス・シルヴァーは、最も嬉しい音がすると言い、同じくクラーク・テリーもそう言います。ブルースは、人の思いをどんな時でも形にして見せる完璧な仕組みを持っているのです。

技術的な話をしましょう。ブルース形式は、12小節が一つのくくりで、これが一つの曲の間中何度も繰り返されます。丁度アナログ時計の二本の針が、一日中回り続けるのと同じなのです。この形式は三つの和声があることを特徴としています。三つの和声は、序盤、中盤、終盤といった具合です。更には、3回の歌唱と3回の楽器演奏による合いの手と、まるでキリスト教の聖三位一体のようですが、それがブルースです。

伝統的なブルースの歌詞を例に見てみましょう(”Crazy Blues” by Leon Redobone[1977])
丘を下り、線路に頭を横たえた
丘を下り、線路に頭を横たえた
汽車が走ってくると、クズな頭をさっと引き戻してしまった
次の図は、典型的な12小節のブルース形式をレイアウトしたものです。

 


この図、複雑そうに見えますが、基本的なコンセプトを2,3理解すると、読み取りやすくなります。カレンダーの「月」は、「日」で数えてゆきます。一か月というのは、大体30日あります。「小節」は「拍」で数えてゆきます。ブルースの典型的な一小節は4拍です。「月」が経つのと共に、地球の公転に際し季節は四つ過ぎてゆきます。四つの季節は、それぞれに三つの「月」があり、これは一年間に12か月あることと一致します。これと同じように、小節が進むとともに、ブルース形式では、和声が次々と現れてきます。三つの和声があり、それらが色々な組み合わせで三つのセクションの中に配置されます。最初のセクションでは一つ、二番目のセクションでは二つ、三番目のセクションでは三つとも、それぞれ和声が現れます。三つのセクションは、それぞれ四小節あり、これは一つのブルースのコードに12小節あることと一致します。

僕の息子のジャズパーが生まれた時、泣きながら、そして苦しそうに息をしながら、母親のお腹から出てきたわけです。看護師さん達が息子を取り上げると、体をきれいに拭いて、鼻の穴をチューブできれいに吸い取り、採血のために足に注射針を刺し、そして体のあちこち、触られたくない所を突っついたりするのです。はいよろしい、やれやれ、というわけで、息子にとってはうっとおしかったであろう一通りのことが終わり、僕の妻、つまりママの所へ戻されます。彼女は息子を思いっきり抱きしめてあげます。それがあるのが、まさにブルースなのです。

ブルースは、皆さんが悲しみに涙を流す、もっと言えば泣き叫んでいる、そして同時に
そこから自分を取り戻すことを歌い上げます。だからこそ、ブルースは人生にとって素晴らしいサウンドであるのです。ブルースは、皆さんが日々の生活で経験する極限状態を全て網羅していますが、皆さん自身が気をもんだり、自分自身を哀れに思う必要はなく、そしてより良い時が必ず来ることを約束してくれます。この究極の、前向きな物事に対する見方は、ジャズの中で息づいてきたブルースの歴史全体に一貫しています。W.C.ハンディーの「セントルイス・ブルース」、ジェリー・ロール・モートンの「デッドマンズ・ブルース」、チャーリー・パーカーの「ナウズ・ザ・タイム」、オーネット・コールマンの「ランブリング」、そしてデューク・エリントンの「ブルース・イン・オービット」

レオン・ヴィーゼルティアーが僕に言った言葉です「ブルースはアメリカの国歌であるべきだ。なぜなら、アメリカを代表する曲の実に多くが、ブルースが基になっているからだ。」僕はこの意見には賛成はします。でも、ブルースは、国境と称するものは何一つ認識にないのです。日本にはブルースと称する音楽ジャンルがあって、いくつもの曲が存在します。中国の京劇には、ブルースのような音楽素材が沢山あります。例を挙げればキリがありません。というのも、ブルースは、、世界の音楽の大半において見出すことが出来るからです。

うめき、叫び、、ユーモア溢れる脇台詞、イラッとくるような暴言など、言葉の違いに関係なく、人間の表現活動に性格を持たせるもの、それがブルースです。

東洋音楽の5音階、そして所謂「Ⅰ・Ⅳ・Ⅴ」と称される西洋音楽の三つの基本和音、これもブルースです。

「1年は12か月」のように12を一つの単位とするもの、あるいは星占いでおなじみの黄道十二宮、これもブルースです。

古代ギリシャの音階(ギリシャ旋法)で出てくる明るい音(メジャー)と暗い音(マイナー)が、同時に演奏されたり、対比をつけるために交互に演奏されたりするのも、ブルースです。

教会で賛美歌を歌う時、しめの「アーメン」と歌うときのコード進行も、ブルースです。

インドの音楽と中近東の音楽に見られる、くねるような音型のフレーズや、一つの音節にいくつもの音をあてがう「メリスマ的旋律」、アフリカ音楽の一部にみられる突き刺すような音色やイントネーション、スペインのカンテ・ホンドに見られる本場のジプシーフラメンコでの、叫ぶような歌声、教会の讃美歌、場末の売春宿での歌、農場や海岸・河岸で働く男たちの歌、ブロードウェイのショーに出てくる歌、ダリウス・ミヨーアーロン・コープランド、イーゴル・ストラビンスキーのような、自分の作品に何かしら「よりアメリカ的な」ものを加えたがったクラシック音楽の作曲家達の作品、それから「スパイダーマン」のようなアニメソングだって、どうです?これらもブルースなのです。

ブルースのルーツはアフリカにある、という人達がいます。多分そうだと思いますが、しかし、所謂「ブルース」は、やはりアメリカで誕生したものです。音楽面での技術的な要素は、全て我が国(アメリカ)で揃ったものですし、個人の自由という点で世界をリードする我が国ですから、日々の生活のこと、恋愛のこと、セックスのこと、愛情のこと、苦しみや喜びに対して感じることを、人々は気軽にストレートに表現できたのです。思い返してみてください。ブルースの基礎を築いた人々は、その多くが世界をリードする我が国の様々な自由を全ては満喫してはいなかった、ということを。だからこそ、彼らの曲に乗せて届けられる「自由」という部分は、いつだって、心からの喜びという形を取っています。この世に存在することすら否定された者達が、触れてはいけないとされているものに関わることが出来たという、心からの喜びとして、常に歌い上げられるのです。ブルースの基礎を築いた人々が、その場を去る、つまり逃げるということを好んで口にしたのは、そういった背景があったからなのです。

W.C.ハンディは、伝道師の息子でしたが、教会のしがらみから逃れようとしていました。ミシシッピ州のブルースミュージシャン達は、自由へと向かって走る北部行きの列車に押し寄せ、奴隷制の遺した因習、そして差別から逃れようとしていました。ブルースの女性アーティスト達の先駆者達が、女性達が背負わされた受身的な役割というものと決別しようとして、高らかに歌い上げたのが、自分が望まぬ形の恋愛からの解放、というやつでした。(アイダ・コックスは「ワイルド・ウーマン・ドント・ハブ・ブルース」でこれを謳歌しています)

ブルースに溢れているものは、生活、色恋、苦痛、死、愚かな振る舞い、気取った振る舞い、そういったものは悲しみと喜びが混在しているというのが現実です。だからこそ、ブルースは聴く人の心の内を根こそぎ鷲掴みにするのです。現実、とは、「ありのまま」ということです。「ありのまま」には悪魔達と天使達が同居しています。サン・ハウスは歌います「彼女が土深く永遠の眠りについてしまって、初めて、彼女を心から愛していた自分の気持ちに気付いた」。これまつまり、「彼女を失ったことにより、自分の心の深さを自覚した」ということです。W.C.ハンディの「ハガルおばさんのブルース」は、ブルースなしでは生きてゆけない敬虔な女性協会員についての歌です。ハガルおばさんは歌います「悪魔がブルースをもたらしたですって?それを言うなら、イエスが、それも迷わず私に、でしょ」。これはつまり「ブルースは邪悪なものに見えるかもしれないが、イエスは知っている、下界の私達がこれを必要としている、ということを」。全くその通りです。

ブルースは、現実の荒波という人生のハードルに備えるべく、僕達を鍛え上げてくれます。ジョン・フィリップ・スーザの音楽は確かにすばらしい。彼の作品は我が国の至宝というべきでしょう。しかしスーザが作品の中で語るのは、その視点は観念論の上に立つアメリカの偉大さとは何か、というところに置かれていることが前提となっています。僕達は国の隅々にまでわたり生い茂る雑草が如き庶民です。ブルースは言います「根っからの善人も、根っからの悪人も、人はあるがままでしかない。」人はブルースを抱きこの世に生を受け、ブルースと共にこの世を去ってゆきます。ブルースが常に傍らにあるように思えるのは、このためです。ある研究者がかつて、ニューオーリンズジャズのクラリネット奏者で、「ビッグアイ」こと、ルイス・ネルソンに、ブルースの起源はいつか?と訊ねたことがありました。これに対しネルソンは「起源なんかないさ。ずっと在る物なんだからさ。」と答えています。それからブルースと言えば、大抵、男女関係やそこでともに楽しみたいことを歌ったものが大半を占めていますが、採り上げられる題材は何でもアリ、なのです。例えは、洪水のこと(ベシー・スミスの「バック・ウォーター・ブルース」)、一文無しの悲哀(同じく「プアマンズ・ブルース」)、あるいは意地悪な上司のこと(アルバム「ウィー・インシスト!」~マックス・ローチの「フリーダム・ナウ組曲」より「ドライヴァマン」でマックス・ローチアビー・リンカーンが歌うストーリー)など。男女問わずブルースミュージシャン達は、自分の身の上話をインプロバイズしてゆきます。悲しいことや愉快なこと、現実のことや妄想のこと、下卑なことやお高くとまったこと、あるいは涙を誘うようなことでさえも、ブルースが僕達に改めて認識されてくれるのは、人生それ自体が予測不能で逃げ場のないモノの塊なんだ、ということです。今は悪い状況かもしれないけれど、必ず良くなる、あるいは本当ならもっと悪い状況になっていたかも知れない処を、この位で済んでいる。そして回復しない悪い状況などない、ということです。とにかく、レイ・チャールズの「レット・ザ・グッドタイム・ロール」(楽しい時間の始まりだ)を聴いてみてください。なぜブルースが常に傍らにあるのか、きっとお分かりいただけます。

この不滅の楽観主義(悪く言えば天下無敵の能天気)は、ブルースが非常にアメリカ的なの物である原因の一つとなっています。完全勝利はアメリカ人の大好物。ワーグナーの楽劇「神々の黄昏」のような、最悪の結末などというものは、アメリカのアートにはありえません。映画の結末と言えば、男子は女子と結ばれる、死んだと思われた登場人物達は奇跡の生還を果たす、僕達はハッピーエンディングの方が好きですよね。ブルースは約束してくれます「明日の朝になれば全て大丈夫だ」。多分、ある意味、こういう世の中に対する向き合い方は、世間知らずだと思われてしまうかもしれません。でも、ブルースには、世間知らずだとか浅薄だとかいったようなことは、一切ありません。むしろブルースは、どんな曲の内容と結論であっても、苦痛が出発点なのです。

 

 

僕はこれまでいつも、何かしらブルース形式の曲を演奏に取り入れてきています。これはニューオーリンズの住人にとっては宿命みたいなものです。僕が8歳の時初めて覚えた曲の一つが、ジョー・エイブリーの「セカンドライン」というブルースでした。高校時代ファンク系のバンドで吹いていた時も、大きなアフロヘアに厚底シューズ、みたいな、バックビートの曲で一晩盛り上がった後でさえ、「セカンドライン」を演奏したほどです。持って生まれた性の成す業であり、クレセントシティ(ニューオーリンズ)の伝統、というやつでした。でもブルースを演奏するにあたり、実際の表現の深みと言うものについては、僕達はあまり深く考えずにいました。そして、そう考えさせるような演奏を聞く機会も、あまりありませんでした。仮に考えようとしても、普段演奏したり踊ったり聞いたりしている歌謡曲のせいで、音楽に対する嗜好が出来上がってしまっていましたので、ブルースの表現の深みなど認識できるはずもなかったのです。音楽は聴き込むものではなく、上っ面を聞き流すものでした。歌詞の裏側にある意味なんて、何一つ眼中に入らないくらいですから、僕達のブルースの演奏は、大方薄っぺらな内容であり、そしてそれを聴いてくれている人達も誰一人として、折角曲自体は素晴らしい内容があっても、それが分かる人は誰一人として、いるはずがなかったのです。ブルースやジャズミュージシャンというものは、音楽の「食物連鎖」の最底辺がその居場所でした。レコードはヒットチャートに全然載らない、新鮮味も全然ない、女の子達にも全然見向きもされない代物、というわけです。

ニューオーリンズを訪れる観光客の多くのお目当てが、「昔懐かしい」演奏を聞くことであり、そして多くの年配のミュージシャン達も、時代の流れに抗って、そういった演奏に固執していたこともあり、ニューオーリンズは世界一ブルースが溢れる街となったのです。とはいえ、僕達はやはりアメリカ人です。御多分に漏れず、物事の価値を測るのは、やはりお金。14歳の時にファンク系のバンドで吹いていた時は、ダンスイベントで一晩本番をこなせば、ブルースを演奏するよりも、そしてジャズミュージシャン達がクラブで本番をこなす時よりも、僕の方が稼ぎが良かったのです。こうなると、ブルースの美的価値など考えるはずもなく、そういった意味では、他の金にならない音楽についても、同じ扱いをしていました。

僕達の仲間内でも、ジョン・コルトレーンのようなジャズミュージシャン達をリスペクトしている人達は何人かはいました(何だかんだ言っても、僕達は好きで音楽をやっていたわけですからね)。とは言え、コルトレーンの演奏を聴いても、その中にあるブルースの要素について、いかに重要であるかっは、理解していたわけではありません。サウンドに込められた精神性の深さは耳に届いても、それとブルースが結びつかないのです。彼独特のコード進行の中で繰り広げられる演奏スタイルこそ、実際インパクトがあり、スピード感や激しさ、そして音量と言った、1970年代に重要視されていた要素です。この頃の演奏スタイルと言えば、一人一人のプレーヤーが大音量で吹いてくるので、相当な技術がないと自分の音を聞き手に認知してもらえないような代物でした。本番を成功させる上では、ちゃんと音楽的なインプロバイゼーションを作り出してゆくよりも、多彩な照明やダンスステップ、それからバックコーラスと言ったものの方が、はるかに重要視されます。ソロパートは場を盛り上げることが役目であり、メッセージを伝えることではない。まるでサーカスですが、女の子達には受けが良かったのです。彼女達は、「それが本番のあるべき姿だ」と思わせてきましたし、実際その通りにしていれば、何の問題もなかったのです。

ブルースには追求すべき美学というものがあって、僕の音楽経験の一部にそれは既に組み込まれていました。そのことに初めて気付いたのは、17歳の時にニューオーリンズを離れてニューヨークへ移った後のことです。何とも皮肉な話です。そう気付かせてくれた恩人が二人います。

一人目は、音楽評論家であり優れたドラム奏者でもあるスタンリー・クラウチ。僕が彼と出会ったのは、ニューヨークでの最初の冬でした。場所は自宅近くのスウィングの殿堂ともいうべきジャズクラブ。西97番街コロンブスアベニューにある、その名も「マイケルズ」です。彼は僕に「はじめまして」と当然挨拶してきたわけですが、実は僕の方は、彼のことを既に知っていたのです。というのも、僕の父がかつて、雑誌「ビレッジボイス」で繰り広げられていた、スタンリー・クラウチアミリ・バラカとの間の大論争(警察機構に絡む何かについて)に注目して読んでいたのを知っていたからです。記事を読み続けてきた父が結論付けたのは、クラウチの論法は倫理的にまっとうであり、一方バラカは頭に血が上ってしまっていて、プロ意識がベースになっていない、というものでした。父がバラカをリスペクトしていたのを知っていた僕にとっては、父の結論は印象的でした。クラウチと僕の対談は、ののしり合いから始まったのです。まず彼は、僕が吹けないヤツだと言い、僕は彼の頭を揶揄中傷しました(ニューオーリンズアフリカ系アメリカ人がよくやる言葉遊びに「ダズンズ」というのがあります。韻を踏みながら相手の家族について、頭や唇の大きさ等悪口を言ってゆくのです。クラウチとのこの時の対談では、彼のお母さんのことについては触れませんでした。目新しいやり方でしょう?ぼくはこのダズンズという言葉遊びが大好きですが、大人同士で相手に「お前の母ちゃん〇〇〇」なんてやってしまったら、間違いなく本当のケンカになってしまいますからね)。

クラウチが招待してくれて、僕はマンハッタンのヴィレッジ地区にある彼の家を訪ね、音楽について語り合うことになりました。その頃僕は、まだニューヨークには、さほど多くの知り合いがいたわけではなかったので、彼の招待は僕にとっては大きな社交イベントでした。クラウチのガールフレンドのサリー・ヘルゲッセンが、素晴らしい食事を用意してくれて、僕は実家に戻ってくつろいだ気分になれました。家のそこかしこに本やレコードが積んでありました。彼が語り始めます。デューク・エリントンオーネット・コールマン、それから僕があまりじっくりとは聴いたことがなかった(と言っても色々と感想は言える)ありとあらゆるミュージシャンのこと。それはもう半端ないといいましょうか、山の様な文献や音源に囲まれたこの部屋で、このクラウチという人物は、ダズンズをして見せたかと思えば、日頃はこの山積みを深く考察し、執筆活動を繰り広げ、対象となる物事の意義や内面に大いに関心をもって臨んでいるのです。本当に驚くべきことでした。僕は物事を考えたりそれを言葉にすることに、嫌悪感は抱きません。両親共に子供に対して、ものを教えたり本を読ませたり、会話の場を持つことが好きだったことが影響しています。それにしてもクラウチは情熱的であり、ジャズを含め実に多くの話題に精通しているものですから、僕にとって彼と親交を深めてゆくことは、行くのが待ちきれない学校へ通うような気分でした。彼とは今でも親しい関係を保っており、時には意見の相違もありますが、彼に対する敬愛の念はこれからも深遠であり続けることでしょう。

クラウチは僕に、文筆家で文化評論家でもある、アルバート・マリーに、是非会ってみるよう強く薦めてきました。これまた僕にとっては、神の啓示というべき出来事でした。時代は1970年代の終わりから80年代の初頭。マルコムXの亡霊が時流を支配し、ブラックナショナリズムが黒人の若い世代で政治や社会問題に関心を持っていれば、皆その思想の柱となっていた頃です。僕もまた、怒りと若い情熱の炎で溢れていました。僕が育ってきたルイジアナ州の小さな町は、どこも、何世紀にもわたってガッチリと作り上げられてしまっている偏見差別に、ドップリと浸されていましたからね。僕達の世代は、社会情勢は違った方向へと変わってゆく、と教えられてきてはいました。事実、多くの部分において、その通りにはなっていたものの、一方で多くの場面において、「黒人は我慢するのが当然」という悪しき空気感は残っていました。

公民権運動のほとぼりが冷めて、さほど時間が経っていなかったにもかかわらず、僕達の世代にとっては1950年代とか60年代というのは、既に大昔の事でした。年配の世代は黒人差別というものが自分達にどんな影響を与えてきているかについて、多くを語りませんでした。そして我が国(アメリカ)の、あまりに多くの生活の場面が、依然として差別的であったのです。ブラックナショナリズムが使うような言葉の表現をしない年配の黒人は、僕達の世代から見れば、アンクル・トムだの、ヘアスタイルをキープするハンカチの頬かむりだの、といった、プライドを捨てて媚び諂う連中、と映ったのでした。

勿論、自国(アメリカ)の歴史に関する僕達の知識は非常に限られており、アフリカ系アメリカ人に関する近現代史のそれに至っては、その悪影響の下で生活を送っていたにもかかわらず、ほとんど理解されていませんでした。我が国(アメリカ)の歴史の流れのどこに、自分達は身を置いているのか、あるいは現実社会のどこに居場所があるのか、今も昔も迷子の状態なのです。僕達の世代から見れば、年配の黒人は、逃げ場を奪われた犠牲者であり、彼らが耐え抜いているあらゆる仕打ちに、僕達は絶対に耐えられない - バスに乗る時は後方の席(その必要がなくなってからも生得の習慣で依然としてそうしてしまう)、白人の皆様方の素晴らしいお考えに、いつまでもひれ伏させて頂き、ゴマすり、諂いに徹する態度 - そんな思いでした。僕達にとってはブルースはその一部分でした。僕達が抜け出そうとしていたものの象徴であり、白人達にアゴでこき使われているという現実から目を背けようとして、自分の彼女や奥さんに八つ当たりする黒人みたいなものだ、というわけです。

僕達はかつて、楽曲について話をする時に「こんなのただのブルース」という言い方をしていました。このアフリカ系アメリカ人の育んだ伝統の持つ偉大な価値も、そしてこれが現代の僕達が抱える様々な苦闘を乗り切る大きな助けとなることも、まるで分っていなかったのです。更には、ブルースは方法を飲み込めば、使いやすいツールであることも、気付いていませんでした。ブルースは僕達に、誇りと帰属意識をもたらすことさえできる、ということも、想像し得ませんでした。原因は、僕達を板挟みにした二つのことにあります。一つは、教育システムが不十分であったこと。もう一つは、ビジネスの宣伝活動が、所謂「世代のギャップ」を上手く利用し先細りを招くも大成功を収めたこと。こういうことをすると、人は「知らぬが仏」の状態になります。僕達は当時そのことについて考えもしませんでした。それが当たり前と思わせた、そして未だにそのままであるわけです。そして、そのことによる犠牲者は今や何百万人といて、高齢化し、僕達が一人残らず教え込まれてしまった、嘘と誤報に基づく生活を、何も考えず送ることによって発生することに、影響を与え続けているのです。

アフリカ系アメリカ人でない僕の友人達の多くが知りたがっていることがあります。それは「どうしてアメリカの黒人達は、ブルースにしろジャズにしろ、自分達自身の文化に由来するクオリティを持つことを、大事にしないのか?」ということです。好まない、というわけではない、むしろ大好き、単にその自分の気持ちに気付いていないだけなのです。公民権運動の後に僕達がたどり着いた、黒人皆の、それも意識的に出したわけではない結論でした。でもこのことで、大切なものを一緒に失ってしまい、ブルースは絶滅の運命を辿らされることになってしまうのです。本当は、ブルースについて言えば、日の当たる場所と当らない場所があるわけではなく、ブルースそれ自体が、日の当たる場所だったのです。

今日、アフリカ系アメリカ人達が築き上げてきた芸術には、後世に受け継ぐべきものが豊富にある、ということについて、当の本人たちの間では、一般的に言って、そういった認識もそれに対する理解もなければ、まだまだ知っておくべきことがあるんだということも、あまり知られていません。良く知られている情報のせいで、すぐ思い浮かんでしまうのが、100年以上前のミンストレルショーで、それを伝えるのは、ラップミュージシャンや、いかがわしい腰つきでイエスキリストを賛美する退廃した教会音楽であったりします。このことは、黒人にとってだけでなく、アメリカ全体にとっても、とても悲しむべきことです。なぜなら黒人は、アメリカ国民にとってのアイデンティティの中心的位置にいるからです。

クラウチと私が足を踏み入れた、ニューヨークの132番街にあるマリー氏のアパート。そこは映画のワンシーンを見るようでした。ありとあらゆる本とレコードがあり、もっともこちらは、クラウチのアパートと違って、全てキチンと整理整頓されていました。壁には、ロメール・ベアデンとノーマン・ルイスの絵がかけてあります。小さなスペースに多くのものが、小奇麗に詰め込まれている、といった感じです。マリー氏が話の中にちりばめてくる多くの知識は、彼との出会いがなければ、僕は触れる機会すらなかったものばかりで、はじめは彼の話していることが良く理解できませんでした。でも会話を進めてゆくうちに、彼の話題の多様さと、それらが全てお互いに関連性があることなんだ、と知り、感銘を受けたのです。

それまで僕が経験したことがあった黒人問題についてのお堅い話といえば、その論点は「黒人と白人」つまり両者の「対立」にありました。しかしマリー氏は違っていて、両者を好み、熱く、深く語るのです。僕のように典型的な青二才の黒人革命家予備軍にとっては、あまり馴染みのない、ルイ・アームストロングデューク・エリントンの音楽について、好んで語ったかと思えば、同じ情熱と洞察力で、フォークナー、イェーツ、トーマス・マンの文学について語るのです。彼の仕分けにおいて基準となるのは、人種の違いではなく、思想のクオリティ(質)でした。

これには僕の知識が持つバックグラウンドは、何の役にも立ちません。それまで僕が知っていたジャズミュージシャン達は、一人残らず大変な知識人とは言え、世間からは浮いた存在でした。学校教育の現場では、黒人達がその知性により作り上げてきたものは、ひとくくりにして排除されていた時代です。僕の目の前にいるこの人物は、兵役に服し、大学を卒業し、僕よりも2・3世代上で、そして誰もが見たことがあるであろう、媚び諂う黒人とは、かけ離れた存在でした。そんな彼が今、薄明りのハーレムのアパートの一室で、凛とした佇まいで、50年の年月をかけて収集した、人類の知性の粋を記した本やレコードに囲まれて、僕の目の前に座っているのです。彼は僕に向かって、あれやこれやと本を取ってこさせ、どこの章の何ページ、と言ってはそこを開かせると、丁度そこに彼が話していた内容が書いてある - それもプラトンからジョン・フォードフレデリック・ダグラス、更には熱原子力学からジェームス・ブラウンまで、多岐に亘っています。奥様のモゼルさんは、皆さんの家族にいる最高の、そして最愛の人を思い起こさせるような方です。彼は、こちらが向学心を示すと大いに喜びます。ブルースは人間の真実だというと、それについての彼の著書を渡してくれました。家に持ち帰って読んでみると、これまでの人生経験で「重要だ」とも「特別だ」とも考えたことすらなかったことが沢山書いてあるのです。ところが読んでみると、誰もが関係することだからこそ、それは「特別」なのであり、ブルースの美学を人種問題へと堕してしまうことが、いかに貧弱な発想であるか、が良く分かります。さてこれで、彼とこの話題について話す前に、彼と思いを共有することになりましたから、こうなってくると、彼の話は、オーケストラの指揮者が出す合図のようになります。弾き始めがいつなのか、分かっているのに、その合図をだしてくれるわけですから、大いに安心感がわいてきます。いずれにせよ行き先を示してくれるわけですが、自分独りぼっちではないので、時間も短縮できますし、物事に向き合うにせよ、一人でいるのとは全く違う感じ方が出来ます。助けが、それも大きな助けが、与えられているのです。
マリー氏の「Stomping the Blues」(ブルースを踏みならす)は、僕が普段から何気なく接している音楽や、過ごしている生活を取り巻く美的な着眼点について扱っている本で、僕はこういう本は、後にも先にも読んだことがありません。

とは言え、そこに書かれている考察がどれほど刺激的であったとしても、本のタイトルにある「ブルース」は、本で読むのと実際に演奏するのとでは違うのです。紙の上でどれだけ頭をひねって考えようと、音楽や人の行動についてどれだけ知識を詰め込もうと、肝心の演奏ができる力がなければ、何の助けにもならないのです。スポーツ選手になりたいという大きな夢を叶えられなかった人は、誰もがある時点で、頑張るだけでは十分とは言えないという現実と向き合わなければならなかったはずです。そういった点からいうと、結局、演奏できるようになるには何が必要か、スポーツ選手がプレー出来るようになるには何が必要か、他にも才能を身に付けるには何が必要か、誰にも分らないということです。しかしブルースを聴くこととなると、他の芸術分野についてもそうですが、知識があれば、ひたすら聴く力は伸びてゆきますし、逆にそれがないと、身に付かないものです。

演奏することと聴くことの違いは、ここにあるのです。聴く力は、努力すれば身に付きます。良い演奏を楽しめるようになるには、その演奏形式について「良い演奏」の条件というものを、しっかり時間をかけて理解するだけで、誰でもOKです。僕は高校時代、比喩表現をたくさん含む詩を読むことが大嫌いでした。「言いたい事があるならハッキリ言えよ!」とね。しかし、一旦こういった比喩表現が詩を豊かにして、少ない語数で多くを伝えることが出来る、ということを理解した途端に、比喩表現の巧みな使い方を楽しめるようになったのです。

ブルースには、歌詞と音楽の両方に隠喩が沢山詰まっています。アルベルタ・ハンターの「キッチンマン」を聴いて頂けると、僕の言いたいことが信じて頂けると思います。前もって知識を得てから聴くと、音楽は楽しくなります。

このことは、読書と大変良く似ています。話の筋を追う、分からない語句の意味を調べる、何事についても良く学ぶ、こういったことを好まない方は、文学には向かないでしょうし、好む方には、未知の世界が広がり、生涯尽きることのない発見と楽しみが待ち受けているのです。ブルースとジャズについて言えば、わずかな投資の見返りが、膨大な人間感情、あらゆる種類の精神の豊かさ、そして、とにかくひたすら楽しい時間、こういったものとの出会いをもたらすのです。

僕はかつて、ジャズの巨匠ジョン・ルイスに、彼が定義するジャズとはどういうものか、訊ねたことがあります。彼はこう答えました「ジャズは、スウィングしなくてはいけない。若しくはスウィングしているように見えなければならない。ジャズはサプライズの要素を含んでいなければならないし、飽くなきブルースの追及が演奏という形にならなければならない。」

もっともブルースは、わざわざ探さなくとも見つけることはできます。カントリーウェスタンにはブルースの形式を持つものがありますし、ブルーグラスやファンクにもあります。文字通りブルースですし、ロックンロールもそうです。

ブルースを演奏するからには、何かしら、誰にとっても明らかな、社会の抱える病的な問題に苦しんでいるかどうかを、そこに絡ませるべきだ、と考える人たちがいます。それは確かに、人は誰でも相応の苦労はしているものです。ブルースについて言えば、問うべきことは - そういった苦労は自分をどう苦しめてきたか?それに対して自分はどうしたいのか?それを他人にどうやって感じ取らせたいのか?そしてそれを他人に伝える勇気と能力はあるか? - ということです。苦労を乗り越えたかったら、そして他人に対してもその手助けをしたかったら、ブルースを演奏することこそ、最良の方法だと、僕は思っています。

ブルースの演奏の仕方には、不思議とその人らしさが何かしら現れるものです。他人の演奏を真似ることは不可能とされています。音符の飾りつけや即興的に演奏する一節をコピーしたとしても、サウンドまでは同じようには響かない、十人十色ということです。ジョン・コルトレーンの真似ができる人も、ブルース、特にテンポがゆっくりの曲は、真似し切れません。ブルースは、テンポがゆっくりになるほど、真似できる要素は減ってゆき、逆に、益々多く、自分なりの叫び方、むせび方、そして自分自身の表現したいものを見出さざるを得なくなってきます。ブルースを演奏するミュージシャン一人一人を見分けるのが楽なのは、こういった事情があるからなのです。聴き手は、ブルースの演奏の仕方の違いが、アーティストによってある、ということが、聞くと分かるものです。

僕が初めてニューヨークへ来た頃、年上のミュージシャン達は、僕の演奏することを全く評価してくれませんでした。小手先の器用さはあっても、内容が無かったのです。ある夜の本番に、レイ・ブラウンミルト・ジャクソンが僕を出演させてくれた時の事でした。当時18歳かそこらであった僕は、何が何でも速いテンポで吹きまくっていたのです。その夜、彼らが僕にさせたこと、何だかわかりますか?それはそれはテンポがゆっくりなブルースでした。どうしようもなく、僕はとてつもなく速い指回しで音符の飾りつけをし、高い音域の音を連発して、同じ一つのことを繰り返し、鼻から息を吸いながら同時に口から吐き続ける「循環呼吸」で吹き続けるなど、当時の僕の世代にウケがよかったことを全て出し尽くしたのです。会場のクラブにいた聴衆の大半は、本物のジャズを知る人達でしたから、普段僕が接している聴衆とは全く違いました。それでもなお、僕は、自分の演奏がヒドイと分かっていつつも、それがその夜のお客さん達に伝わらないことを願いました。その願いを打ち砕いたのが、ミルトの僕への問いかけです。「お前さん、気付いたかい?お前さんが来る前とくる後での音の違いがさ?」
僕は言いました。「はい、それはもう・・・。」
「で?その違いは何だか分かるかい?」
「教えてください。」
「お前さんの姿が、そこに在ったか、無かったか、それだけさ。音の違いなんて、ありゃしないよ。」

彼の言ったことは、正しく、手厳しいモノでしたが、公平な意見でした。僕の演奏の仕方は、僕の個性や感情を表現することが、まだまだ分かっていない代物だったのです。ようやく、ブルースというものが、自分の情熱と知性を注ぎ込むのに、どれ程力を貸してくあれるかが、解り始めた頃でした。僕はまだまだ「こんなのタダのブルース」的発想から、抜け出せていませんでした。この経験をきっかけとして、僕は自分の演奏を見直し、華やかさや感傷的な吹き方といったものよりも、演奏の中身や正直な表現といったものを強調するように、方向転換をしたのです。

またある夜の本番では、スウィーツ・エジソンから同じような洗礼を受けました。彼はテンポがゆっくりなブルースを採り上げたのです。僕が演奏を終えると、スウィーツはこう言いました「おい、君がしたことは、私がプロになってから吹いた音符の数より多く音符を垂れ流しただけだな。」つまり言おうとしたことは、「結局何も伝わらなかったね。」

「皆さんが弾きこなすこの難しい曲の数々、僕も皆さんと一緒に演奏するということを、しっかり自覚して、しっかり学びます。」僕はそう心に唱えました。

当時はそうやって、僕より先輩の方々の洗礼を受けていたのでした。「何だそれ?フラッシュ(ひけらかし)君」「ここでは、ちゃんとしたブルースを演奏するんですよ、フライバイナイト(夜逃げ人)さん。あの、ちゃんと一緒に吹こうとなさってはどうです?」僕はようやく分かってきました。「勿論ちゃんとやってるさ。この人達、悔しいけど演奏上手過ぎだ。見てろよ。ジェネレーションギャップに負けるもんか。必ずこの人達の持っているモノを、僕のモノにして見せる。」

僕は学んだのです。ジャズミュージシャンの最悪の過ちは、ブルースから逃げることだと。僕のセプテット(7人編成のバンド)をビシッと引き締める、自戒の合言葉は「逃げるな、立ち向かえ」です。そしてブルースは、どこにでも存在しています。ジョン・ルイスが「飽くなきブルースの追及」と言ったのは、このことなのです。それはブルースを大切にする理由であり、ブルースを大切にする時、人種・民族・思想が何であれ、その人は「人類」として、自分自身の財産を手にしていることになるのです。

次回は、第4章を見てゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第4回

第2章 ジャズの言葉を話す 

   

<写真脚注> 

カサンドラ・ウィルソンとマーク・オコーナーのコールアンドレスポンス:この写真の時が初めての競演だったかどうか、僕にはわかりませんが、この時の演奏では、彼のバイオリンが伴奏の出だしのフレーズを弾いた(コール)途端、彼女はインスピレーションを刺激され、あっと驚く素晴らしいレスポンスで応じたのです。 

 

「ダメだ、この案内!道に迷ったんじゃないか、おい。もうそれ、あてにしないで、さっきの人が教えてくれた通りに行ってみようぜ。」 

 

道案内の曖昧さに苦労した経験は、皆さんお持ちだと思います。 

 

「ブッシュストリートって言ってたっけ?それともブッシュネルアベニューだっけ?左に曲がるのは。」 

 

「ガソリンスタンドは、エクソンだっけ?テキサコだったかな?」 

 

元々方向音痴だから道に迷う、ということもあるでしょうが、そうでない場合、「地元の人達なら誰でも知っている」という目標物が、実際にそこに行って見ないと分からない時に、こういったことが発生します。いずれにせよ、今自分がどこにいて、どこへ向かっているのか分からないと、あてにしてきた情報にケチをつけたくなるのは、仕方のないことです。でも途中で諦めなければ、必ず「あぁ、分かった!」と思う瞬間は訪れます。「よっしゃ!ウェブスターストリートだ!」 

 

これで大丈夫。目標物の名前 - ウェブスター - のおかげで、現在位置が正確に分かります。 

 

これと同じことが、ジャズにも当てはまります。音楽用語は音楽そのもの - ストレートで、難しい言葉は使いません。今何が起きているのか、すぐに分かります。「ブレイク」「リフ」「コールアンドレスポンス」といった重要用語を、いくつか意味を把握しておくと、音楽鑑賞はもっと楽しくなります。 

 

ジャズミュージシャンは、聴きながら伝える、伝えながら聴く、これができなくてはいけません。演奏中は他のプレーヤー達が何をインプロバイズしてくるか分かりませんから、自ずと聴くことを強いられます。そしてソリストは、伴奏を弾いているプレーヤー達もインプロバイズしてくるわけですから、彼/彼女のソロのフレーズがどういう筋書きとなってゆくかをできるだけ迅速に、そして完璧に伝えることが求められます。ステージ上の全員が、発信される音楽にしっかりとついてゆく、その時一人一人が同じテンションで、聴くテンションも伝えるテンションも同じくすることが必要です。そういった理由もあってか、ジャズの用語と、人間の言語コミュニケーションの用語は、よく似通っているのです。 

 

ソロ(独奏) 

 

ソロ、とは、伴奏をバックにして一人で演奏することを言います。「私は何某だ」と一人で言い放つようなものです。初期のジャズ、つまり1920年ころまでは、ミュージシャン達はソロというものをせず、メロディにちょっとした飾りつけをしてインプロバイズする程度でした。それがだんだん、時代と共にその「飾りつけ」が発展してゆくのです。これは、子供が言葉を覚えてゆくのに似ています。初めは「ママ」や「パパ」、「いや」だったのが「おフロいや」といったフレーズになり、やがて言葉の使い方も洗練され、様々な思惑を組み合わせ、皆さんを言いくるめた挙句、本当なら認められない買い物もOKさせられてしまう程になってゆくわけです。「このおもちゃ買って!友達みんな持っているんだよ」とね。 

 

ジャズではこれが、インプロバイゼーションをかけるための短いフレーズが、長めのメロディの流れへと発展し、最後には自在にあふれ出るインプロバイゼーションとして完成し、次々とコーラスが飛び出してくるのです。例えば、ということでお勧めのソロが、キング・オリバーの「デッパーマウス・ブルース」その後のルイ・アームストロングの「ウェストエンド・ブルース」、チャーリー・パーカーの「ファンキー・ブルース」、ジョン・コルトレーンの「ベシーのブルース」です。アーティストごとに、そして時代ごとに、ソロ演奏というものが変わってゆくのがよくお分かりいただけます。 

 

だからと言って、「コルトレーンのソロの方が、ルイ・アームストロングのソロより優れているし、発展した形である」などと言うわけではありません。そのようなことは全くないからです。しかし確かに、トレーンのソロは、長さも長く、先達であるジョー・オリバーやアームストロング、チャーリー・パーカーといったプレーヤー達の手法を取り込んだ表現のスタイルが、そこには映し出されています。アームストロングはオリバーの演奏に接しています。パーカーはアームストロングの演奏に接しています。コルトレーンが演奏活動を始めたのは、パーカーがあってのことです。このように、それぞれが先輩プレーヤー達に接し、それを受け継いだ音楽作りをする過程で、自分のオリジナリティをそこへ付け加えてゆきました。 

 

こういった名人達は、よく自分達が演奏するものの中に、耳慣れたメロディを部分的に盛り込んで、聴く人にとっかかりを作ってあげる、と言ったことをしたものです。そうすることによって、長いソロを見失わないようにする。皆さんが大体理解できる外国語を聴き取るのと似たような状況を作ってくれるわけです。知らない単語が次々と出てくる一方で、知っているフレーズも3つ4つとある。結局は、聴き始めにいい感じでついてゆけると思った気持ちが、多少くじけてしまうけれど、その外国語を話す人達は、言いたいことを明確に伝えているわけなので、皆さんも何とか最後までついてゆける、というわけです。音楽の場合「言いたいこと」は単語や熟語の様な具体的な形にはなっていません。考え・感情・願い事といったものは、それでも先程の外国語を聴き取る時の例に劣らず、明確に伝わってきますし、理解しようとする価値もあります。音楽を聴く時、最後までついてゆこうとすれば、「言いたいこと」は明らかになってゆくものです。 

 

ジャズのソロは、多くのミュージシャン達が、音楽の歴史に自分の足跡を残すチャンスを与えてくれた、と言えます。ジャズでは、プレーヤーは作曲家でもあるわけで、楽譜ではなく、プレーヤーの演奏を録音したものが、最終的に記録として残ってゆくのです。 

 

クラシック音楽世界では、作曲ができないからという理由で「新しくモノを創る能力は総じて無い」とされてしまった名演奏家というものは、沢山いるのではないでしょうか。優れた作曲家の設定通りに演奏することと、自分で作ったものを頭の中で鳴らしてみて、その通りにちゃんと演奏することは、全く別物です。ジャズは音楽史上、それまでになかった存在でした。インプロバイズをしたいなら、そして自分独自の奏法を編み出したいなら(必ずしも楽なことではありません)、コード進行を幾つか身につけて、よく知られたメロディを幾つか頭に入れて、そしてブルース形式をモノにする(ブルース形式は、後述の通り、アメリカ音楽の生命線です)。これだけで「新しいモノを創る能力が要る」とされるジャズミュージシャンになれますし、自分の思いを曲の隅々まで込めて、聴いてくれる人々に一人残らず伝えることができるようになるのです。 

 

コールアンドレスポンス 

 

先程の「ソロ」の項目では、「先輩プレーヤー達の演奏を受け継ぐ」といったことをお話ししましたが、次にここでは、意思の疎通の基本中の基本である、呼びかけと反応:コールアンドレスポンスについて見てゆきます。誰かが皆さんの名前を呼んだとします。お行儀が良ければ「はい」、そうでなければ「なに?」と反応するかと思います。ジャズミュージシャン達は、あらゆる種類のコールアンドレスポンス:呼びかけと反応を駆使するのが好きなのです。「ウエストエンド・ブルース」でルイ・アームストロングが、トランペットで曲の出だしに奏でるコール(呼びかけ)、カウント・ベイシー楽団でジミー・ラッシングがブルースを歌った時にバンドが返したレスポンス(反応)。「マドマゼル・マブリ」でのマイルス・・デイビスのレスポンス、そしてジミー・ヘンドリックスの「風の中のマリー」。ベシー・スミスやマミー・スミスといった歌手達が、ブルースの初期に行った録音では、ボーカルの「コール」に対して、インストゥルメンタル(楽器)による「レスポンス」という手法が使われています。ベシー・スミスの「ヤング・ウーマンズ・ブルース」はその定番とも言うべき例です。管楽器、この場合ですとコルネット奏者のジョー・スミスが腕を振るい、ボーカルに負けない表現力で歌い上げ、更に同時にそこへリズム感と音楽的な洗練さを上乗せしています。 

 

スキャット 

 

コールアンドレスポンスは楽器演奏をするミュージシャン達の想像性をかきたてました。彼らはそれまでの型にはまらない、人間の声のニュアンスを演奏に取り入れるようになったのです。レイ・ナンスがデューク・エリントン楽団でトランペットのソロを吹く時は、いつもそうでした(ナンスは「A列車で行こう」の有名なソロを吹いています)。こうした楽器を演奏するミュージシャン達の取り組みは、歌手、つまりボーカリスト達にとって刺激となり、レベルが向上し、そして「スキャットシンギング」が生まれました。これは、歌詞をつけずに、代わりに「バダバディドゥ~」などと歌って、管楽器奏者達のお株を奪うインプロバイゼーションをするという、やってみるとなかなか面白い手法なのです。ルイ・アームストロング(「ビービーシービー」)とエラ・フィッツジェラルド(「レディ・ビー・グッド」)は、スキャットの名人でした。「ビーバップ」という言葉があります。第二次世界大戦後にディジー・ガレスピーチャーリー・パーカーによって発展した音楽スタイルで、楽器によるインプロバイゼーションをスキャットで行う時の「バダバディ」といった音に、その名前は由来しています。ディジー・ガレスピーの「ウップ・ポップ・シュバム」は、その代表作です。 

 

ヴォーカリーズ 

 

スキャットは、やがてヴォーカリーズを発展させてゆきます。ヴォーカリーズとは、既に知られている楽器演奏によるメロディに、歌詞をつけることです。こうすることで、ジャズシンガー達は、より多くの内容を歌詞に盛り込むことができるようになりました。マイルス・デイビスのアルバム「カインド・オブ・ブルー」に収録されている「フレディ・フリーローダー」の、ジョン・ヘンドリックスによるボーカルバージョンは、ジャズの歴史上最も人々に愛されたレコーディングの一つとして挙げるべき秀作です。ボビー・マクファーリンアル・ジャロウジョン・ヘンドリックス、そしてギター奏者のジョージ・ベッソンをフィーチャーし、ウィントン・ケリー、マイルス、コルトレーン、ジュリアン・キャノンボール・アダレイが、脇を固めます。 

 

一方で、楽器を演奏するミュージシャン達は、音符をすくってみたり、曲げてみたりして、人が話をしたり、笑ったり、泣いたりするような音を鳴らす方法を発達させてゆきます。デューク・エリントンの「コンチェルト・フォー・クーティー」で、クーティー・ウィリアムスがプランジャーミュート(トイレの詰まりを解消する吸引棒の先端部分をミュート(弱音器)にします)で聞かせるサウンド、「ココ」でのジョー・トリッキー・ナントンのトロンボーンベン・ウェブスターがテナーサックスで、無骨な優しさをじっくり聞かせるバラード、一度聴いたら耳から離れない、叫び声の様なトランペットのサウンドを持つロイ・エルドリッジは「レット・ミー・オフ・アップタウン」のような熱い曲を、ジーン・クルーパーとその楽団と共にレコーディングを残しています。ミュージシャン達は、あらゆる種類のボーカルサウンドを管楽器で編み出し、それを「コール」すれば、他のミュージシャン達や、聴衆からも、「レスポンス」が返ってくるのでした。 

 

ジャズは、人間同士の日常のやり取りを元に、音楽的な表現を描いてゆきます。ですので、それまでの西洋音楽が持つ技法とは、異なるものを必要とします。ジャズでは、サーカスの曲芸のように、人を「あっ」と言わせるような小手先の技は、大して評価されません。それよりも、まっすぐ、正直に、人の感情を伝え、人間として生きることの尊厳と不条理を映し出す、そんな技術が必要なのです。 

 

金管セクション(トランペットとトロンボーン)と、木管(リード楽器)セクション(サックス)との間に繰り広げられるコールアンドレスポンスは、アメリカのジャズオーケストラの「お家芸」です。カウント・ベイシーの定番曲「ワン・オクロック・ジャンプ」、「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」、「タクシー・ウォー・ダンス」、「スウィンギング・アット・ザ・デイジーチェイン」、どれもコールアンドレスポンスをたっぷりと聞かせてくれます。他にも枚挙にいとまがありません。何しろこの金管とサックスとのやり取りは、ベイシー楽団のメンバー達の、特別お気に入りの手法でしたからね。 

 

シャウトコーラス 

 

ビックバンド編成の曲では、金管セクションが終盤で、同じフレーズを何度も繰り返して、あたかも叫ぶような演奏をし始めることが時々あります。するとそこへ、サックスも入ってきて、自分達のフレーズを、金管と同じように何度も繰り返して、これに応えるのです。楽曲のこういった部分を、シャウトコーラスと言います。この「繰り返し」によって、「もうこれ以上はカンベン」の寸前までボルテージを上げてゆくことができるのです。ベニー・モーテンの「ブルー・ルーム」で使われているシャウトコーラスの表現するエクスタシー感は、他の追随を許しません。「これでは不十分」という方は、カサ・ロマ楽団の「カサ・ロマ・ストンプ」をお勧めします。シャウトコーラスが「そろそろフィナーレだぞ」とメッセージを発信すれば、ダンサー達や聴衆を熱狂させるのです。 

 

第二次世界大戦後の経済状態により、ビックバンドが音楽市場から撤退を余儀なくされてくると、金管セクションと木管セクションによるこのようなやり取りは、影をひそめるようになってしまいました。そこで、レスター・ヤングのようなソロプレーヤー達は、「一人コールアンドレスポンス」を編み出します。主題のモチーフを幾つか用意して、出だしの「コール」を演奏したら、次のフレーズで別のモチーフを使って「レスポンス」を演奏する、といったことを実践してゆきました。ジャズのソロを組み立てる方法の一つとなったものです。とはいえ、たった一人で最後まで演奏し切れるものではありません。そこで他の楽器奏者達が穴を埋めにかかるようになります。「セグメント」でチャーリー・パーカーのサックスソロに対してレスポンスをしたのは、マックス・ローチのドラムスです。「マイ・ファニー・バレンタイン」では、マイルス・デイビスのトランペットに、ハービー・ハンコックがピアノで応えます。ついにはベース奏者のチャールズ・ミンガスが、「「モーニン」といった様な曲で、バンドのメンバー一人一人にコールアンドレスポンスをさせたりもしました。ビル・エバンストリオの曲は、ほぼ全て、曲全体が一つの大きなコールアンドレスポンスになっています。 

 

優れたジャズのグループの演奏を聴くと、コールアンドレスポンスに際しては、お互いのインプロバイゼーションに対して、配慮が行き届き、上品で優雅な返し方をしていることが、しっかりと伝わってきます。声をかけ、聴き、応えるという、意思疎通の基本はこういう流れであるべきだ、と教えてくれているようです。しかし、この二番目の「聴く」があるため、日常生活ではなかなか実現が難しいバランスのとり方だ、というわけです。 

 

「私の言っていることが理解できないだろう」と言われて、開き直って「そうだよ」と返してしまう。このようなやり取りを、耳にしたり自分がしたりという経験は、誰にでも、幾度となくあると思います。こういった日常生活におけるコールアンドレスポンスの失敗と同じようなことが、音楽でも、それも「多発している」というのが、実際の処なのです。生演奏のコンサートでは、本当に厄介な思いをすることになります。でもこの本で僕が紹介してゆくレコーディングの例では、ミュージシャン達がお互いちゃんと聴き合えば、平静な状態は達成できる、ということをしっかりと伝えてくれるはずです。 

 

リフ 

 

他の人々と調和する糸口を、どうしたら見つけられるか、そしてそれをキープし、更には発展させてゆくにはどうしたらいいか、ジャズはそんなことを教えてくれます。カウント・ベイシー楽団の最古参であり、最もソウルフルなトランペット奏者のスウィーツ・エジソンは、かつて僕にこんな話をしてくれました。「本当に良いブルースなら、ジャズの本場カンザスシティー中のバンドが、そのフレーズを何度だって繰り返し30分でも40分でも止めずに演奏するよ」とね。ミュージシャンにしろダンサーにしろ、こぞって誰が一番グルーブをバッチリ決めるか、そして一旦そこにはまったら、誰が一番長くそれを保てるか、見極めようとしました。このように繰り返されるフレーズのことを、リフと言います。 

 

当初、その場の思いつきで作ったインプロバイズされたメロディなら、何でも「リフ」でした。スウィーツ・エジソンの「アップ・ア・レイジー・リバー」のソロを聴いた直後、ルイ・アームストロングは、その素晴らしさに、こんなコメントを口にしています「すげぇな兄ちゃんよぉ、俺も今夜やってみようかなぁ」 

 

後に、繰り返される断片的なメロディのことを、「リフ」と言うようになったのでした。お子さんをお持ちの方でしたら、この「リフ」の正しい使い方をご存じのはずです。 

 

 

「ほら、車の中では、すわって、すわって、すわって!」 

 

あるいは「ほーら!ごはん食べなさい、食べなさい、食べなさい!」 

 

あるいは「お姉ちゃんを、叩いちゃダメ!叩いちゃダメ!」 

 

このように、日常会話では、同じことを繰り返し重ねて言いくるめてゆくことで、話のポイントを的確なものにしてゆきます。音楽で同じことをするのが、リフです。良いリフは、常に、コンパクトで、内容がしっかりしており、バランスがよく、そして耳に心地よく残りやすいものです。良いリフは教えてくれます。日常会話の中で、簡潔に話し、要点を捉え、そしてそこからブレない方法を。 

 

リフの技法はやがて、管楽器のプレーヤー達によって、もう一つ別の使用目的を担うようになりました。ソロのプレーヤーに対して、ソロの終わりを合図するものです。チャーリー・パーカーはかつて、これに大変気分を害されたことがありました。「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」のツアー中の出来事です。チャーリー・パーカーの創造性豊かな非凡さは、他のプレーヤー達を不安にさせる脅威となってしまいました。彼のソロの部分に差し掛かり、一つ二つと火を噴くような演奏をし終えると、他のプレーヤー達は「これ以上我々を不快な気分にさせないぞ」と言わんばかりに、彼のソロを終わらせるようなリフを、弾き鳴らし始めたものでした(もっとも、これはあまり効果がなく、いつも彼は次に同じことをお構いなしにやってのけたのです)。 

 

音楽について語り合う時、大抵は一番「良い」ものについての話になります。ところがステージの上での「音楽についての語り合い」は、大抵は「どうでもヨイもの」についての話、そして他人を妬む話になります。そんなやり取りは大抵、ジャズにせよ日常生活の会話にせよ、より深くお互いを分かり合う上で、邪魔にしかなりません。それでも、ジャズについて言えば、上手に聞かせる力があれば、自分のベストな状態を堅持し、そこから更に、演奏内容に磨きをかけてゆくことも、可能ではあります。それを常にやってのけたのが、チャーリー・パーカーでした。 

 

ブレイク 

 

ジャズが発生したばかりの頃、曲の構成手段としてのソロが未だ存在しなかった段階では、バンド全体が2ないし4小節間、演奏をストップし、その間(ま)を、一人のプレーヤーがインプロバイズをしたフレーズで埋める、といったことが時々行われていました。これをブレイクといいます。その「一人のプレーヤー」にとっては、プレッシャーの塊のような瞬間です。その瞬間は、バンド全体で作ってきた演奏の流れを、自分一人の力でキープしなければならないからです。「私達のタイム」が「私のタイム」になる瞬間 - 演奏のテンポもリズム感も、自分一人のものになります。台無しにしてしまおうものなら、バンド全員から袋叩きに遭うことでしょう。なぜなら、演奏開始からそこまで、バンドのメンバー一人一人が流れを作ろうと慎重にやってきているのですからね。タッチダウンを決めるパスを受け損ねて落としてしまうようなものです。 

 

若い頃のルイ・アームストロングが実際によくやっていたのは、キング・オリバーがブレイクでソロを吹く時に、他のメンバーを出し抜くかのように、インプロバイズしたハモリを添えることでした。後にポップス(家族の長としての「親父」)と呼ばれるようになった彼は、当時師匠であったキングの演奏スタイルを完全に熟知していたので、キングが、自分がこれから演奏する内容を合図するだけで、これを聞いたルイ・アームストロングは、その場でハモリを創ってしまうことが出来たのです。「スネーク・ラブ」のレコーディングを聴いてみると、彼の卓越した和声法と、電光石火の反射能力を感じ取ることが出来ます。その才能は、1920年代、当時のジャズの中心であったシカゴのミュージシャン達を震撼させました。 

 

大抵ブレイクは、1ないし2小節感です。しかし、ディジー・ガレスピーの「チュニジアの夜」では、何と4小節間ものブレイクを聞くことができます。一人のプレーヤーが間を持たせるには、かなり長めと言えます。ノリノリ気分で演奏していても、きちんとリズムや音楽のテンポ感を維持できるか、その伴奏が全くない空間は、プレーヤーに自問自答するよう迫ります。わずかな迷いは、リズムを粉々にしてしまいかねないのです。ブレイクの中では、ほんの少しでも自分を見失うようなことがあれば、それは即ち、スウィングに対する犯罪行為だ、というわけです。 

 

ブレイクを素晴らしく演奏できる、ということは、プレッシャーの元でも一点の曇りもない優雅さを保てる、ということを表します。人生の一瞬一瞬をしっかりと制御できる、というわけです。それは、グループの中で色々なやり取りが成される時に発生する、あらゆることに対して、しっかりとした注意を払うことの大切さを教えてくれます。ブレイクでは、グループ全体として曲をどのように演奏したいと思っているかを、その一人のプレーヤーが意見を集約して、更に前進させるもよし、あるいは逆に、その瞬間、それまでの流れに対して新鮮な方向性を示すもよし、と言えます。 

 

ヘッドアレンジ(大雑把なメモ(ヘッド)を元に曲を作りながら演奏する方法) 

 

ステージ上のミュージシャンの一人が、自分の頭を指さすと、突然メンバー全員がメロディを演奏し始める、という光景を、時々見かけたことがあると思います。何だかおまじないのように見えますが、僕達ミュージシャンがメロディのことをヘッド(頭)と呼ぶ、と申し上げれば、納得していただけると思います。ヘッドアレンジとは、その場で曲を創り上げてゆく手法です。この時、予め書かれたパート譜は無く、ひたすら、リフやコールアンドレスポンスをインプロバイズしてハーモニーをつけて、そしてメロディを作ってゆきます(ヘッドアレンジは、楽譜に起こされて、きちんとした作品へと作り上げられてゆくこともあります。カウント・ベイシーの代表作品の一部は、この方法で生み出されました)。もし下手なソロを演奏しようものなら、仲間のミュージシャン達から「ちゃんとヘッドをやれよ、頼むぜ」と言われてしまうでしょう。これ以上苦痛を味あわせるな!といわんばかりに、です。 

 

これはステージ上のエチケットの事とも関わる話です。自分がソロを演奏している最中に、一人の奏者がヘッドを演奏し始めるとします。これは「やかましい、黙れ」と言うのと同じ位、行儀の悪いことです。この、一人の奏者の判断が、まだ早い、あるいは、嫉妬や恨みからくるものだ、と他のプレーヤー達が判断すれば、それを振り払い、「いいからソロを続けなさい」とメッセージを演奏で送り続けます。この場合、ソロは続けてもいい、というより、続けなければなりません。しかし他の全員がヘッドを演奏しに加わってきたなら、その時は本当にソロを終えます。中には、マナーの悪い人間が、時々、ソロを演奏し続けたりもしますが、大抵はミュージシャンたるもの、ライブ演奏を支配する監視体制「チェックアンドバランス」は受け入れるべきものです。昔の英語に「dap-off」とう言い方がありました。会話は終わりだ、と言う時に、一人の人が相手と、意味ありげに握手をします。これは「私はもう行くよ」の合図とされています。しかし時には、相手の人が「dap-off」されているにも関わらず、手を離さず話し続けることがあります。これは行儀の良いことではありません。次は「dap-off」される、つまり、絶交です。 

 

リズムセクション 

 

ジャズは個人の自由の究極的な表現方法だ、とよく言われます。実際、有名どころのミュージシャン達はソリストとして通っている人ばかりです。マイルス・デイビスルイ・アームストロングアート・テイタムは、皆ソリストです。でも本当は、ジャズバンドの心臓部と言えば、リズムセクションです。ピアノ、ベース、ドラムス、時々ここにギターが加わります。リズムセクションは、ソリスト達のサポートを通じて、自由を得ています。家族で言うと親のようなものです。子供達がひたすら楽しんでいる間、働いている。リズムセクションがきちんとしていないと、皆が憂き目にあいます。 

 

僕が昔持っていたチェスのセットは、ルークがベーシスト、そしてナイトがドラマーでした。当時、上の子達は9歳か10歳くらいで、既にリズムセクションの重要性を理解していたからでしょう、ルーク(ベーシスト)やナイト(ドラマー)を取られると「あぁ!リズムセクションは取っちゃダメ!」と泣きを入れたものでして、僕はそれを聞くのが、いつも楽しくて仕方ありませんでした。 

 

リズムセクションは、生粋のジャズの産物です。三つ(時に四つ)の楽器群は、ひたすら音楽を聴き心地良くすることを、その任務としています。 

 

リズムセクションの担当者には、卓越した反射神経が欠かせません。なぜなら、彼らがインプロバイズし創り上げる伴奏に乗ってくるソリストは、その場の思い付きで、次々と音楽を生み出してゆくからです。相手が何を言おうとしているか予測する。そして相手が言い出したら、その間に適切な反応を決めてしまう、そんなことが、リズムセクションには求められているかのようです。 

 

管楽器奏者達にとっては、良きリズムセクションを手に入れることは、良きパートナーを手に入れることよりも嬉しいことかもしれません。彼らを手放さないためなら、何でもすることでしょう。ところがリズムセクションの方はというと、束縛されたがらないのです。されたとしても、大方、5年間が限度といったところ。リズムセクションは優秀になると、歴史に名を残し、そしてレジェンドとなってゆきます。カウント・ベイシー楽団のオール・アメリカン・リズム・セクションはその代表例で、パパ・ジョー・ジョーンズ、ウォルター・ページ、フレディ・グリーン、そしてリーダーのカウント・ベイシー自身の、4人から成ります。 

 

リズムセクションのメンバーには、それぞれある種特有の性格 - 実際は典型とも言えますが - がある、と僕は思っています。ベース奏者達は大抵、大柄で愛想がよい、ドラム奏者達は、小柄で気が短い、そしてピアノ奏者達は「何でも知っているぞ」の風体であり、3時間の本番を一人でやり切れて、しかも気分よくいられる唯一のミュージシャン、こんな感じです。 

 

ピアノは長い栄光の歴史を誇り、それ自体が何役もこなす一つの楽団みたいなものです。多くのヨーロッパの大作曲家達がピアノを弾きました。ベートーベンはその一人です(この方一人で「大作曲家達が」の証明に十分なりますよね)。そして膨大な数の曲がピアノのために今日まで作られています。自分の子供に弾けるようにさせるなら何にするか、といえば、大抵はピアノと答えるでしょう。ピアノ奏者達は、昔はよく「大先生」などと呼ばれたものです。というのも、彼らは他の楽器プレーヤー達よりも音楽のメカニズムについて、大概よく理解しているからです。彼らにはいつも、僕達は的確なコード進行を弾いてもらっています。そのせいもあり、彼らをどうしても今一つ、好きになれないのですがね。 

 

ピアノ奏者達は腕ひとつで世間を渡り歩くことが出来ます。ホテルでもレストランでも、あらゆる所に演奏の場があるのです。ジャズはニューオーリンズの売春宿であちこち演奏されて生まれた、などと時折言われます。トランペット奏者達には、運悪くそんな仕事のお鉢は廻ってきませんでしたが、ピアノ奏者達にはそれが廻ってきたのでした。彼らは西部開拓時代の、酒場や、中産階級の家庭の居間なども演奏活動の場としていました。他方、ヨーロッパでは宮殿やコンサートホールを本拠地として構えていました。 

 

そして、これはアメリカ独自の、社会的地位が逆転する典型ですが、楽器の王様であるピアノは、伴奏の役割を宛がわれたのです。それも単に有名歌手や一流バイオリン奏者ばかりでなく、サックスでもクラリネットでもコルネットでもトロンボーンだって、どこのどの様な奏者の伴奏も宛がわれました。こういった運命の変化は、リズムセクションの一員となる上で必要な心がけとして、物事に相対する態度は適切に変えてゆかねばならない、ということを示しています。これはアメリカ民主主義のプロセスが、過去に身分が高かったとか、権力の座にあったとかいう人々に対して課しているとして知られている、ある種の適応性というものです。つまり、昔は王様かもしれないが、ここではタダの「ジョン」だよ、というわけです。 

 

ジャズのドラムセットは、実に調和のとれた楽器の組み合わせ方をしています。太鼓は様々なサイズのものがあり、シンバルも必要なサイズは、ほぼ一式揃っています。ヨーロッパ音楽では伝統的に、太鼓とトランペットは同じ音符の役割を担い、派手に鳴らしていることで知られています(スコットランドでは例外的に、バグパイプと同じ役割になります)。モーツアルトやベートーベン、そしてハイドンといったドイツのクラシック音楽における交響曲では、ティンパニーとトランペットの組み合わせとなります。アフロ・キューバン音楽では、太鼓とトランペットが主役です。 

 

どんなジャズのビッグバンドでも、ドラム奏者のためのパート譜がない時は、トランペットのファーストのパート譜を渡します。というの、ドラム奏者がバンドをリードしてゆく上で、演奏しなくてはならないアクセントの付いた音符を、トランペットのファーストが吹いているからです。ドラム奏者は、ジャズバンドの事実上の指揮者です。彼らはバンド全体のダイナミクス(音量を大小)、テンポ感、そして曲想をコントロールします(これについては、右に出るものが誰もいないと言われたのが、名手パパ・ジョー・ジョーンズですが、アート・ブレイキーもまた凄腕と呼ぶべき人物です。前者は頭脳派、後者は剛腕派と言えます)。 

 

ジャズではドラム奏者は、根っこの部分において他のメンバーに対して優位に立つためにも、上っ面で偉そうにすることは、控えなければなりません。演奏全体の均衡をとるために、自分自身の音量を抑え、演奏全体のバランスを知的に整えるために、他のプレーヤー達に対して、感情的な批判で圧力をかけることを手控える、そんなことが求められます。優れたドラム奏者達というのは、いかなる人間集団(家族でさえも)に対しても、どのようにこれの舵取りをすべきかの、立派な例となる仕事をやってのけます。正に、本物のリーダーとは、こうあるべきだ、ということです。セオドア・ルーズベルトの名言「穏やかな声量で話せ、そして大きなバチ(罰)を使え」そのものです。 

 

ライディングとウォーキング 

 

普通の感覚では「ありえへん」かもしれませんが、ジャズとは、一番音の大きなドラムスと、一番音の小さなベースが、一緒に全ての拍を刻んでゆきます。僕達はこれを「二つの右手」と呼んでいます。ドラム奏者の右手は、バチをもって、シンバルを「スイスイ走らせ(ライディング)」て全ての拍を刻み、一方でベース奏者の右手は、弦をはじいて、ベースを「颯爽と歩かせ(ウォーキング)」て、同じく全ての拍を刻むのです。これは、世の中の子供達が、二人の親の間で見て取る関係によく似ています。一方は厳しく、もう一方は甘く、という役割分担ですね。ドラム奏者達は、長い年月をかけて、丁度物価が上がってゆくように、自分達の音量をだんだん上げてゆきました。こうなってくると、ドラムスとバンドとの基本的な関係の在り方に変化が生じ、それまで封じ込められていたバンドの中での秩序に欠ける演奏行為について、封印が解かれてしまうことになります。 

 

ベース奏者達は、アンプを使い始めました。大音量のドラム奏者から身を守るためです。こうして、ジャズにおいて最も根底にあるチェックアンドバランスの機能が、変化してしまったのです。それまで一番音の小さかった楽器は、一番音の大きな楽器の仲間入り ― 「一番大き」くはないにせよ - をしてしまい、その気になれば破壊的行為も可能となり、実際それが起きてしまっています。ドラムスとベースの味付けを誤って料理してしまったがために、ジャズという家庭生活に、ある種の最悪の事態を引き起こしてしまっているのです。この様なことを防ぐ必要性から、ルイス・ナッシュのようなドラム奏者が、常に欠かせません。ベース奏者が無理をしなくても全体に音が聞き取れるように、自分自身は鋭敏さと抑制の効いた演奏をして、ベース奏者が演奏に加われるようにするのです。 

 

ベースはドラムスにとって、リズムを共に担当するパートナーです。またベースは、ピアノにとってハーモニーを共に担当するパートナーでもあります。演奏中、一連のコード進行において、ベースが根音を弾いてゆくのです。更にベースは、ソリストに呼応する形でメロディを担当することもできます。対旋律を弾いたり、ベース自体がソリストにだってなれるのです。 

 

ジャズはベースに対して、もっと旋律を任せるべきかもしれません。ヨーロッパ音楽(クラシック音楽)では、その優れた成果の一つに、ベースにも旋律に関わる自由度が与えられていることがあります。古くは通奏低音部などと言って、機械的で、多くは旋律らしさなど全くないモノでしたが、そこからロマン派の交響曲でベースがオーケストラの他の楽器群とやり取りをするようになるなど、高音域の楽器と低音域の楽器との贅沢な音のかけ合いが、手法として開花し発展して、旋律面で、より多彩な音楽を生み出してゆきました。 

 

ヴァンプ(即興伴奏) 

 

ジャズでは、ベースは様々な板挟みにあいます。所謂「ヴァンプ」といって、シンプルな音数で繰り返し伴奏を弾き続けるのか、それとも四分音符によるスウィングの伴奏を弾くのか、あるいはメロディとやり取りするのか、はたまた三つとも全部するのか?ベースとドラムスが、お互いに連結しているリズムパターンから離れ離れになってしまっては、バンドの演奏において、スウィング感やグルーヴ感といったものは、あまり期待できなくなるでしょう。でもその代わりに、入り組んだ感じや、人間同士が会話するような雰囲気は、増してくるものです。いずれも好みの問題です。 

 

今時の歌謡曲の大半は、ヴァンプが基盤になっています。ベースとドラムスは同じ2~4小節間のフレーズを、曲の間中ずっと繰り返し演奏します。この繰り返しによって、グルーヴ感を作ろうとすることで、曲に合わせて踊ろうとする人達に対して、演奏の意図が伝わりやすくなり、踊りやすくなります。 

 

一方ジャズは、ベースが同じことの繰り返しと、同時にブルーヴ感もしっかり出してゆくことで、ドラムスとのスウィング感に満ちたやり取りが生まれ、曲に合わせて踊ろうとする人々をリードし、一緒に踊る人達同士の横の連携が、そして彼らと音楽との結びつきが、躍動感にあふれたっモノになってゆきます。アメリカ人はスウィングを国民的ダンスとして自分達のモノにしよう!とはいかなかったせいか、若い人達は、よりシンプルで、同じことを深く考えずに繰り返し、腰を振るようなグルーヴ感を好むようになり、今日に至っています。ツイストが世に出てきてからというのも、スウィング感あふれるロマンティックなやり取りで踊るリンディーポップを経験する人達が、だんだん少なくなってきました。 

 

ギター 

 

リズムセクションを語る上で、ギターのことを欠かすわけにはいきません。今では、ほとんどギターが入った演奏にお目にかかることはないでしょう(大作曲家でピアノの名人であるジョン・ルイスは、いつも僕にこう言っていました。君のバンドにもギターを入れたまえ。スウィングにリズムの明快さがでるからと)。 

 

時代の流れと共に、ドラム奏者達は音量を抑えて叩くことに飽きてしまい、一方ベース奏者達は、自分の音が聴衆の耳に届いてないことにウンザリして、アンプの力で音量を上げるようになりました。ところで前の方のページで書きましたように、ギターは、かつてリズムセクションにおいて、最も「他者に尽くす」楽器でした。ベースよりも音量が小さく、一小節の中にある四つの拍の頭全てにおいて、ベースやドラムスと共にリズムを刻み、ピアノと共にハーモニーに動きをつけてゆく中で、ギターの音は実際には聴衆の耳に届かず、「ギターが入っている感じがする」程度だったのです。ところがロックンロールの台頭によって、ギターは最前列の中央に躍り出て、音量を上げてきたのです。こうなってくると、聴衆もギターをもてはやすようになります。一旦こうなったら、ギター奏者達は誰も「入っている感じがする」に、好き好んで甘んじようとは、思わなくなるというものです。 

 

ジャズの発展と共に、リズムセクションはだんだんアグレッシブになってゆきました。今ではリズムセクションは、バンドの後方には居るものの、そこから勢いよく出入りして、ソリスト達との立ち位置も、より柔軟なものとなりました。そしてお互いの感性をストレートにぶつけ合うようになりました。ジョン・コルトレーンチャールズ・ミンガスマイルス・デイビスオーネット・コールマン、テロニアス・モンク、アート・ブレイキー、そしてモダンジャズカルテットといった面々と演奏を共にした1960年代の優れたリズムセクションの数々は、こういった矢継ぎ早のコールアンドレスポンスを、演奏の定石としてゆきます。それぞれのリズムセクションが、ソロの伴奏付けやスウィングの仕方について、特有のスタイルとアプローチの仕方を持っています。でも今日、この二つの土台となる役割をダメにしてしまっているのが、最近の楽曲にほぼ全て見受けられるドラムとベースのソロなのです。近頃では多くの場合、ベース奏者達はスウィングに集中することを疎かにして、ソロの出番待ちに気を取られるありさまです。 

 

トレーディング 

 

昔のジャズでは、ベースが長目(5分間くらい)ソロをとっていた時代がありました。と言ってもソロを弾くのは大御所達のみで、その折はドラム奏者達は時折曲が一番盛り上がるところで、ソロだのブレイクだのを少し演奏していました。その後1950年代に入り、ソロの順序が進化し始めます。大抵の場合、まずバンドリーダー、例えばサックス奏者のチャーリー・パーカーがソロを吹き、続いて2番奏者のサックス、他の管楽器群と続き、そしてピアノ、そしてもし事情が許せば、力一杯鳴らすドラムスの代わりに、そこまでソロを取ったプレーヤー達がドラム奏者とソロの交換を行います。これをトレーディングと言います。 

 

そのような経緯から、ベースがピアノの後でソロを弾くようになりました。程なく、楽曲というものは、守るべき体裁も通すべき筋も失い、バンドメンバー全員が気の済むまでソロを演奏する場となってしまったのです。これでは、聴衆が飽きてしまうのも、無理がありません。 

 

この、ソロがオンパレードとなる形式の失敗により、全員が全部の曲で見せ場を作るということは、しない方がよい、という教訓を得ることとなりました。何にせよ、ドラム奏者とのこういった交換のことを、トレーディング4,8,2、あるいは1などと言います(小節数を数えたり感じ取ったりしやすくするために、概ね常時偶数の小節数で交替します。こうすることで、他のプレーヤーの一枚上を行こうとするチャンスが発生し、それは後に、よく耳にするところの「誰が誰より優っているか」という論評へと繋がってゆきます。 

ステージ上で「4」とか「8」とか言えば、それはドラム奏者とトレーディングを希望する、という合図になります。管楽器奏者としては、注意を怠らないことです。なぜなら、ドラム奏者は、ハーモニーやメロディについては何も演奏面で責任を負う立場にはないものの、管楽器奏者達のためにずっとリズムを刻み続けているうちに、だんだん態度が横柄になってくるからです。 

 

ジャムセッション 

 

想像してみてください。深夜の12:30とか1:00、とある夜通し朝までスウィングできる場所に着きました。そこは、バンドが演奏するステージがあり、壁には歴代のジャズミュージシャン達の写真が飾られています。そこはお客さんが満員になる日もあれば、そうでない日もあります。掃除や片付けが行き届かない日もあれば、小奇麗にしている日もあります。ステージの方へと進んでゆき、そこに居合わせた人皆と握手を交わします。皆で、そうですね、「ミス・ジョーンズに会ったかい?」と曲名を口にします。そして、さぁ始まりです。皆が笑顔になり、我先にと口を開き、リクエスト曲が叫ばれます。これを聞いたバンドのメンバー達は、嬉しい者もいれば、そうでない者もいます。バーテンダーがドリンクを用意します。これがジャムセッションの風景です。バンドのメンバー達が楽器を持って、どこからともなく登場です。リズムセクションがちゃんとしていれば、日の出の時刻までずっと、スウィングに浸りつつ、プレーヤーは演奏を、お客さんはそれを聴くことを、続けることでしょう。 

 

カッティングセッション 

 

時々、悪意を持った人がステージ上で席を同じくしていると、気付けば音楽面でのせめぎあいになってしまっていることがあります。この様な場合、勝った方が負けた方を「切り捨てた」と言います。これが「カッティング(切り捨てる)セッション」と呼ばれる理由です。切り捨てられた方は、ステージが終わって帰る頃には傷ついた気分になります。その人は演奏する資格がなかった、ということではありません。大方その人は、こんなことをずっと言い散らかしているように、ステージ上の他のメンバーには聞こえてしまっていたのでしょう「お前ら下手くそ!俺が証明してやるよ!」とね。こういう人は、むやみに大きな音で、速いパッセージばかり、甲高い音域で吹きまくっています。まぁ、技術的なことをアピールし過ぎると、確かに、他のメンバーにインパクトを与えますが、肝心な聴衆の方は、というと、始まってしばらくすれば、ポカンとしてしまうだけです。聴衆に自分を印象付けたいなら、単に大きく・速く・甲高い、ではなく、何か一味違うものが必要です。甘く漂い、優しく語り、ほのかに囁く演奏をするべきです。速いパッセージばかりが続くと、だんだんリズムに目新しさがなくなってきます。この悪意をもってステージで席を同じくしている輩の足元をすくってやるには、予測不可能でありながらスウィングはしっかり効いているリズムをキープすることです。ステージが終わって帰る頃に、幸せな気分になるのは、皆さんの方です。 

 

スウィング 

 

ジャズとインプロバイゼーションが切っても切れない関係にある、ということは、良く聞く話です。確かに、全てのジャズミュージシャン達にとって、インプロバイゼーションはジャズの真骨頂であり、集団でのインプロバイゼーションが上手く行った時の達成感は、ひとしおです。しかしインプロバイゼーションをきっちり決めてこようとするのは、他の多くの音楽ジャンルでも行っていることなのです。ではジャズのインプロバイゼーションは何が違うのか?最もはっきりと分かるのがリズムです。ジャズはスウィングします。少なくとも、そうしようとしてる、と考えられています。人の営みで「素晴らしい」と称されること全てに言えることですが、スウィングする上で欠かせないのが、心のバランス、他人とのバランス感覚、そして時機・手段・加減の心得です。スウィングという美酒の蒸留方法ですが、ヨーロッパの行進曲とワルツ、そしてアフリカの6/8拍子の音楽を素材とし、これらを合わせて4拍子のダンスリズムへと仕上げてゆきます。風味はどこまでも上品で、角が取れ、思いやりにあふれているのです(アフリカの6/8拍子の音楽って何だ?とお思いの方、音楽自体はお聞きになったことがあると思います。通常、カウベルを使っていて、6拍子1区切りのリズムが特徴です)。 

 

スウィングに対するリスペクトが、今色あせています。これは今、アメリカの民主主義の状態を説明する上で、良い例えになると思います。民主主義とは繊細なものです。物事を繊細な状態に保つには、バランス感覚が欠かせません。そして民主主義とは、一人の力を他人と合わせて、皆でそれを分かち合うということがどういうことなのかを、鋭敏に理解している状態のことを言うのです。これが分からなくなった時、誰が一番強いのか、誰が一番大声か、誰が一番注目されるのか、の争奪戦が民主主義なんだ、ということになってしまうのです。弱肉強食の横行だ、というやつです。 

 

これがスウィングの歴史で起きてしまったことなのです。ドラム奏者達は嬉々として、ベース奏者達の音を掻き消し始める。ベース奏者達はアンプを持ち出して応戦する。ピアノ奏者達は短くて刻みつけるようなリズムを弾きはじめ、これによってスネアドラムに戦いを挑む。リズムギター奏者達はお手上げだと言って席を立つ。管楽器奏者達は一つの曲で一晩中狂ったようにソロを吹きまくる。結果生じたのは、完璧な不均衡、皆の気持ちを無視した表現の自由。多くの人々が、こういった「スウィングしない」アプローチを受け入れてしまっています。しかし、いつの日か必ず、ミュージシャン達はこの惨状を吟味し、世界中でスウィングへの回帰がみられることでしょう。 

 

技術的な話をしますと、スウィングとは、四拍子に乗って演奏される3連符にアクセントをつけて(部分的に)生じる雰囲気のこと、とお考えください。皆さんご存知かと思います「ミッキーマウス・クラブ・マーチ」は、スウィングの素晴らしいサンプルです。この曲はシャッフルリズムという、スウィングの基盤となるリズムの上に作られています。 

 

まずベースとして、1、2、3、4、と拍子をとります。そして各拍を三等分し、各々三つめの音にアクセントをつけると、シャッフルリズムの出来上がりです。アクセントの付いた各拍3つ目の音は、コントロールするのが厄介です。しかしこれが、ミュージシャンにリズムをとる上での、大きな柔軟性をもたらしてくれるのです。 

 

下の図を読み解いてゆきましょう。まずは基本となる拍とメロディ。メロディは歌詞を書き記してありますので、ご確認ください。その上で、アクセントの付いた音節を見てみましょう。三連符とピッタリ合っているのが、お分かりいただけると思います。 

 

音楽では、リズムは大抵いつも、ダンスと結びつきがあります。そしてダンスと言えば、国や地域の文化における儀式や、人々の生活の中での冠婚葬祭においては、その中心にあるものです。スウィングは、ダンスとしても音楽としても、アメリカ社会の柔軟性を物語るものです。ジャズでは、ベースは各拍で音符をさっそうと歩かせます。ドラム奏者も同じように、各拍でシンバルをスイスイと走らせたり、時にはブラシの形をしたバチでこれを表現したりもします。ミュージシャン達は、一拍一拍全て、お互いの連携が取れているかチェックしなくてはいけません。これがスウィングの難点です。常に他人の気持ちを分かっていることが強いられます。スウィングの技術を手短に話せば、「共存しろ」となります。そしてこれは、なかなか難しいことです。ベース奏者とドラム奏者が、四六時中、言い争いが絶えないのは、このためです。他人との関係の浮き沈みを、自由にコントロールできる人など、この世にはいないのですから。 

 

三つのことがスウィングには必要です。一つは完璧な協調性。スウィングというダンスは、他の人々と一緒に踊るものであり、皆が気の赴くままにステップを踏んでいるからです。二つ目は知的な意思決定力。自分にとって、その時最良と思われる判断が、グループ全体にとって、あるいは判断したその瞬間において、必ずしも最良とは限らないからです。三つめは善意。互いを信頼し合えることが必要です。皆が同じく良い音楽を作りたいと思っている、と信じること。エゴや、悪口のデマに振り回されないと信じること。この信頼が不可欠だからです。 

 

それからスウィングは、じっくり考えて行うものではありません。即座の判断が求められます。パッと思いついたことを再確認する時間はありません。自分が正しいと思ったことを、すぐ実行しなくてはいけません。スウィングをするということは、ミュージシャンの本心にあるものが試される、ということを意味します。自分が何者なのかを自問自答する、自分の心の、より深いところまで自覚する、自由自在に反応する、と言った具合に。スウィングとは、、音楽という言語での会話です。自分の思いを正確に伝えることで、会話に参加している仲間がそれを理解し受入れ、返答としてその仲間が持っている情報と感情を口にする気にさせる、というわけです。 

 

スウィングは、人の本心にあるものをさらけ出せる、という点で、ある意味「聞き出すのが上手」と言えます。金品を借りる時の保証人、あるいは教会の神父、牧師のように寄り添い、本音で語りなさい、と導くのです。そして、ここがスウィングの醍醐味 - この恩恵にあずかるのは、演奏する人、ダンサー、そして聴衆全ての人々なのです。 

 

そんなスウィングが色あせてしまっている今のアメリカ人にとって、ダンスを楽しむうえでも大変残念なことが起きています。異性と共に踊るダンスから、疎遠になってしまったことです。全く誰もしなくたった、とは言いません。しかしスウィングがあったからこそ、一緒に踊る相手との触れ合いから伝わるものを感じ取りたい、という思いが募る、というものです。今では、クラブで、たまにスローな曲がかかった時だけ、それだって、いつもというわけではないようです。 

 

スウィングは復活しなければなりませえん。それは、大勘違いな回顧主義的な考え方からではありません。スウィングは時代遅れなリズムなどでは到底なく、近年ますます垣根がなくなってゆくこの世界にとっては、まさに最適な存在なのです。ドラムマシーンを掻き鳴らそうが、顔を突き合わせずネットか何かでレコーディングをいくらしようが、そんなものが及ぶものではありません。「パート譜をメールで送ってください。こちらで録音して送り返しますから。編集よろしく」 

 

バンドがバッチリ決まったスウィングをしている時、演奏する方も聴く方も、そして時には音楽評論家達さえ、足や頭でリズムをとったり、ハマった挙句に腰なんか振って踊り出すことさえあります。それから、主に演奏する側の領域になりますが、ジャズの作曲においては、技術面でくどくど説明する、というものは、あまり聞かれません。というのも、かのデューク・エリントンのお行儀の悪い言い方をすれば「そういう会話は、臭くて周りの迷惑だ」というわけです。とは言え、ジャズを語る上では、多少は形式について触れないわけにはいきません。 

 

形式と和声 

 

僕がいつも聞かれる質問「ああいうのは、チャチャっと作ってしまうんでしょう?」僕の答えは「そうですね。でもちゃんと形式があって、そこにハマるようにはしますけどね。繰り返しのある形式にですね。」特に使うのが、32小節形式です。 

 

勿論、ジャズの作品は、全部が全部繰り返しのある形式に基づいて作られている、というわけではありません。それでも、この形式は、多くの作品に採り入れられています。この形式を理解するには、まずは小節数を勘定するところから始めます。例えば、「ハニーサックル・ローズ」「ホワット・イズ・ディス・シング・コールド・ラブ」「恋の味を知らないあなたに」そしてA列車で行こう」、これらは全て、32小節形式に基づいています。もう一度言いますが、これらの曲の小節は、1234/2234/3234/4234/と数えることが出来、そしてこの32小節は、8小節ごとの4つのセクションに分けられます。A[8] A[8] B[8] A[8] 

 

御覧の通り、4つの内3つが、同じメロディの素材を含んでいます。3番目が異なっていて、これは「ブリッジ」と呼ばれています。 

 

32小節形式を学ぶ上で、うってつけな曲が「オー・レディ・ビー・グッド」です。最初のA(8小節あります)が2度繰り返されると、ブリッジBへとさしかかります。小節数を数えきること自体は、やろうと思えば難しくはありません。聴き取れるようになるのに時間をかけなくてはいけないのは、メロディの変化、そしてもう一つ変化するもの - それが和声です。 

 

和声というものは、頭で考えようとしすぎると、ややこしいと思えてきてしまいます。似たような話で言えば、音楽に合わせて踊るのが難しい、と思った時、リズムに乗って体を動かそうとせず、頭で考え始めてしまい、足の動き、どの拍で何をするか、腰の動き、首の振り方など、曲は流れ続けているのに、結局混乱して、壁際に立ち尽くしてしまう、なんてこと、ありますよね。それよりも、その場で出来ることから実際にやってみる方が、ずっとたやすいことです。それで何とかなってしまうことは、多くの方が経験しているかと思います。踊ることについて言えば、実際に体を動かしてみる方が、説明のやり取りよりも、はるかに簡単、というわけです。和声も同じで、説明で理解しようなど、ほぼ不可能であり、聴いたり感じたりして理解しようとする方が楽です。 

 

僕の父は、人前でピアノを弾くようになり始めた頃、楽曲には、途中でキーが変わる場所がある、ということに、自分で気付いたそうです。更に父は、それが一定の間隔で発生することも突き止めたのです。彼は後に、その場所は「ブリッジ」と呼ばれるところだ、ということを人から教わり、彼が言うには、一旦そこで「発見」したブリッジというものを、他の曲にも当てはめてみると、大抵のスタンダードナンバーに見られるAABA形式に基づいて、楽曲演奏が出来るようになったそうです。 

 

マイルス・デイビスの名曲「ソー・ホワット」は、ブリッジについて学ぶのにうってつけです。この曲に使われている和声は、たった2つ。Aの部分でDm(ニ短調)、そして、ブリッジでEbm変ホ短調)。D(b)からEb(ミのb)へ半音上がるこの和声のコントラストは、聞きやすく作られているのです。 

 

レナード・バーンスタインがかつて言っていたことですが、歌も楽器もやらない人に説明するのに、一番難しいのが、和声と和声進行の概念だそうです。ジャズミュージシャン達は、和声進行のことを「チェインジ」と呼びます。コードの変化のことですね。僕が小さい頃、父とその友人達が挨拶を交わすと、いつも決まって聞くのが「君の奥さん元気かい?」すると大抵答えは「あぁ、チェインジされられているよ」つまり、「手を焼いている」という意味です。 

 

ジャズでは、和声が変化するたびごとに、音楽の他の要素も変わってくるわけですので、プレーヤーはこれに振り回される形になります。それぞれの和声には、それ用の音がセットになって用意されていて、プレーヤー―はこれらを組み立てて、インプロバイズされたメロディを作ってゆくのです。この音のセットを音階といいます。和声が変化すれば、使う音階も変化します。これにきちんと対応するためにも、各々の和声が、互いにどのように関連付いているかを聞き取れるようなること。そしてメロディに適切な表情をつけること。そうすることで、和声が変化しても、その関連性をしっかりと捉えてハンドルさばきが出来る、というものです。 

 

僕が19歳かそこらだった頃、ウェイン・ショーターが僕にこんなことを言いました「音符は人間だと思い給え。そして自分の方から近寄って行って、一人一人にちゃんと挨拶し給え」。当時は「この人頭おかしいんじゃないの?」と思っていましたが、今は彼の言っていたことの意味がわかります。音符や音階やコードは人間だと思って「彼らと人間関係を作って」おくこと。親しい関係である程、より豊かな音楽を生み出せる、というわけです。人間の数だけ和声に対するアプローチの仕方も存在します。例え話を少ししますと:二人の人が近しい関係にあるとします。そこへ三人目を連れてきますと、二人の関係に変化が生じます。さらに四人目が加わると、雰囲気を折角作ったのに、それを台無しにしかねないし、更に増えれば、もっと悪い方向へと向かって行きかねません。和声はこれに似たところがあります。6つかそこらなら、きちんとしたものになるかもしれませんが、7つとなるとソロを台無しにしてしまいます。和声に関しては、しっかりとした技術を身に付け、音階を重視すること。そうでなければ、和声の壁を突き抜けてもなお、耳に心地よく聞こえるような強烈なフレーズのメロディを探してくることです。話をテニスに例えましょう。芝のコートでは素晴らしいプレーができる人でも、クレーコートでは散々だったり、アスファルトコートではパッとしなかったりするかも知れません。テニスコートと言うものは、様々な状態があると考えられるわけです。それらを一つ一つ対応してゆくこと。音楽に話を戻せば、一つ一つ異なるっハーモニーに対して演奏するなんて、時代遅れで古臭い、そう思い込むことにやっきになっているのが、1950年代に始まり今尚自分達を最先端だと疑わない、アバンギャルド(前衛主義運動)と称する流れです。彼らの発想の根拠がご理解いただけるかと思います。 

 

少し前のことですが、テナーサックス奏者のフランク・フォスターが、ハーレムのジャズモバイルが主催したストリートコンサートで演奏した時のことです。ある若手のテナーサックス奏者が、最初のコーラスから「調子外れ」なことを吹き始めたのです。出てくる音は、和声進行もリズムの設定も無視したものでした。 

 

フォスターは、この若手奏者を制止します。「何してるんだ?」「心のままに吹いているだけです」「だったら、その「心」は、Bbにしろ、このバカヤロメ!」 

 

ジャズミュージシャン達がインプロバイズする、ということは、小節という何度でも繰り返される区切りのある構造の中に、新しメロディを生み出す、ということを意味します。この区切りは、大抵の場合、32小節であるということは、ここまで申し上げた通りです。もっとも、この形式における小節の数については様々で、8小節(例・コルトレーンの「レゾリューション」:アルバム「至上の愛」より)、12小節(例・チャーリー・パーカー 

の「ナウズ・ザ・タイム」)、はたまた16小節(例・モンクの「ライト・ブルー」)だったりします。小節数はどうあれ、一つのサイクルをコーラスと呼びます。3分間の演奏なら10コーラス位になるでしょうか。いくつもあるコーラスの中で、何が起きているか、オフィス空間にあるキュービクルの飾りつけに例えてみましょう。一人一人のキュービクルは同じ広さ/一つ一つのコーラスは同じ小節数。社員の様々な個性や目的に基づく飾りつけやセッティング/演奏者の様々な考えや色合いや趣に基づくメロディ作りや伴奏付け。もっともこちらは、ソリストのネタが底をついてしまったり、逆にダラダラ際限なく演奏したり、はたまたベースがほんのわずかでもソロを取らねばならない、といった事態が起きてしまってはいけません(テナーサックス奏者が時々、ソロで出しゃばりたがるベース奏者のように振る舞って、憂さ晴らしをする事もあります)。 

 

さてここまで、沢山の用語を見てきました。ジャズの世界へ入ってゆく道を見つける手助けとなることと思います。一つだけ、触れずにおいたものが、実はあります。それはブルースです。ブルースはジャズの核心そのものです。次の章は丸ごと、ブルースの事だけを見てゆくことにしましょう。 

 

次回は、第3章を見てゆきます。

ウィントン・マルサリス「Moving to Higher Ground」を読む 第3回

第1章 スウィングの喜びを見出す 

   

<写真脚注> 

観客との距離が狭まるほど、喜んでいただけます。コンサートのエンディングで、プレーヤー達が観客に囲まれて、手拍子・足踏み・歓声を受けていると、このスウィングたっぷりのひと時が、いつまでも続くように、との観客の皆さんの思いを感じ取れます。 

 

 

幼い頃、僕の実家では、子供達は奥の部屋に居なければならない、というルールがありました。しかしある時、僕はフラフラっとリビングへと入ってしまったのです。ルイジアナ州リトルファームズ、木造の小さな家のそのリビングは、中が暗く、赤だか青だかの柔らかな明かり一つが灯っているだけでした。当時4歳か5歳だった僕は、その部屋で大勢の大人達が、男の人も女の人も、R&Bの曲を、バックビートでフィンガーティップしてグルーブしているところに出くわしたのです。歌詞をつけて歌っている人もいましたが、その大人達は皆、いい汗かいて踊っていたのです。当時の僕には、何事か知る由もなく、でも少なくとも、これは大人達にとっては楽しいことなだけに、子供である僕はリビングをうろついてはいけないんだな、ということは感じ取れました。 

 

でも、そこにあった音楽は、僕だって実際楽しんでいるものでした。R&Bはラジオの定番でしたからね。「ナントカだぜベイビー」とか「カントカだぜベイビー」「ヘイ、彼女ぉ、君が欲しいぜ」「どうして私を捨てようとするの?戻ってきて」そういった曲は、人の生き様を描くものでした。皆に知られ、愛好された楽曲の数々です。「悲しいうわさ」「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」「僕を頼って」「パパのニューバッグ」 

 

さて、ジャズは、というと、こういった曲とは異なっていました。それは父が演奏した「モダン・ジャズ」です。これに合わせて踊る、などということはありません。リズムと関係があったのです。R&Bのバックビートと言えば、一定で、変化はありません。これに対し、僕のお父さんと友人達が演奏していた曲のリズムは、常に変化し、それと同時に、演奏にほとばしる多くの工夫が、とても心地よかったのです。そのリズムが「スウィング」だ、ということを、僕は後に知ることとなります。兄のブランフォードと一緒に行った記憶がある、人生最初のジャズの本番は、ソロリサイタルのような感じでした。観客は、年配の方達がチラホラいただけ。その中には、僕達に🍬キャンディーを振る舞って下さる人達もいました。本番中、ウロウロしていてもOK。僕は気付いていたのです。黒人の人達でこの種の音楽を好む人なんて、ほとんどいなかったということを。実際、あまりにも理解されていないので、僕は疑問に思ったほどです。どうして父も、その友人達も、わざわざジャズを演奏するのだろうか、と。 

 

その後、8歳か9歳になった頃、僕はある妙なことに気付き始めたのです。町の人達の大半が、ジャズのコンサート(その他、およそ「芸術的」なもののイベントは何でも)なんて足を運ぶことなど、ないにもかかわらず、ましてや、「音楽を演奏するのはちゃんとした仕事だ」、と思う人もいなかったにもかかわらず、父は町の人達の多くから、ある種尊敬の念を持たれていたことを、僕なりに理由を考えました。きっと、ジャズという音楽が何かしら関係があるのだろう、なぜなら、父は経済的に成功などしていないし、それを示すモノも何も持っていなかったからです。 

 

それから僕は、今までより更に観察力を上げて、家に来る、あるいは父と一緒にニューオーリンズ中のクラブで演奏するジャズメン達を見るようになりました。彼らは興味深い集団でした。もっともそう感じるには、彼らが他の人達とはどう違うのか、が理解できることが必要でしたけれど。それは、まず第一に、彼らは隠語を持っていました。お互いのことは「cats」(ガクタイ:楽隊)、仕事は「gig」(ホンバン:本番)、楽器は「axes」(ラッパ)、会話のスパイスに、色々な派手で痛烈な言葉や、いけしゃあしゃあとした決まり文句をちりばめていたのです。 

 

例え相手が子供であっても、きちんと向かい合って話しかけ、相手の言いたいことにも、しっかりと耳を傾けてくれました。 

 

男女のことや、政治・人種問題や、スポーツのことは勿論ですが、とりわけ彼らが好んで話題にしたのが、ジャズ音楽、それも、今のことも昔のことも一緒くたに話すのでした。「コルトレーンとバンドの演奏聴いたけど、あまりにすごくて身動きできなくなったよ。みんながその週の間ずっと言っていたのが、奴ら全部出し切っていた、って話だ。いやぁ、俺なんかドアの処で固まっちゃったからね。」 

 

彼らは、様々なミュージシャン達が、演奏したこと、しでかしたこと、言ったことについて、話が尽きることはありませんでした。「フロッグ」(蛙)、「ラビット」(兎)、「スゥィーツ」(菓子)といった、煌びやかな名前の付いた、偉大なミュージシャン達と彼らは、知り合いか、少なくとも何かしらの関係があったのか、僕にはそんな風に思えました。その熱心で気取らない会話から、彼らのお互いに対する独特の優しさを見出すことができました。いつだって挨拶するときはハグ - それは大御所と言われる人達でさえも - 時にはチーク・キスも。常軌を逸しかけている人達に対しても、自然な気楽さで接しているのです。ドラッグ中毒者かもしれない人達に対しても、穏やかに諌めて、でも疎外はしません。いつも心に抱く思いは、僕達の国も、文化も、そして精神も、きっと良くなっていくだろう、そして何よりも、この謎めいた音楽(=ジャズ)が、いつの日か人々にとって、世の中の様々なことがしっかりと調和する方法を見出すのに役に立つだろう ― 隔離と統合、男と女、政治の在り様、株価の上げ下げだって - そんな思いでした。 

 

彼らの自信と前向きさは、ここにその理由があったのです。お金がない、真価を評価されない、時に人格に問題を抱え、時に精神障害を起こす薬物にどっぷりはまり、プロとしての技も表現も無用だとする音楽文化や、それを含めた文化全般に足を引っ張られ、そんな状況にあっても、彼らは自分達が演奏するジャズの価値を信じ、自分達の仕事は音楽創りとその意義の確認を仲間とすることだ、と思っていたのです。 

 

彼らはインプロバイズしました。 

<訳注> 

“Improvisation means spontaneous musical invention. It's like when we talk.(中略)Then - and this is an important part of New Orleans jazz - the jazz musicians want to converse with each other in the language of music. This means the musicians have to learn, interact, and play at the same time. 

(from “Marsalis on Music:1995) 

 

ところで、インプロバイズできる、ということは窮屈な場所から自分を解放させてくれるものを作ることができる、ということです。たまたまタイミングよくネタが浮かんでくるだけのことではありますが、ジャズプレーヤーなら誰でも出来なくてはいけません。僕はこのインプロバイズされた音楽(=ジャズ)には、きっと何か秘密がある、と当時考えました。それを、より深く知らなくてはいけない、と思ったのです。そして、当時9歳から10歳の子供だった僕にとっては、父やその仲間達のような、ジャズミュージシャン達とつるんでいたことで多くを学べたのです。なぜなら、彼らは貴重な話を聞かせてくれただけでなく、子供の僕に耳を傾けることも心得ていたからです。語っては聴いて、聴いては語る。それが彼らのやり方。父は、何時間でも話ができましたし、今でもそうです。しかし彼は同時に、人の話を集中して聴くこともして、そして決して、大人がよくやるところの、子供達を怒らせるような、あのいい加減な反応の仕方をしませんでした。僕はよく覚えています。フットボールやバスケットボールの試合での出来事を、ちょっと話を盛って父に言う。父はそこにじっと居て、話の一つ一つ細かなところまでじっくり聞き、「うん、そうか」と相槌を打つ。ところで彼は、他のミュージシャン達とレコードだのラジオだのを聴いている時は、僕なんかが気付かないようなことまで、すべて聞き取ることができていました。テナーサックスの最初の3つの音を聴いただけで誰だかすぐに分かってしまう。「これはジーン・アモスだ。」「そうだね、ジャグだ。」あるいは「わかった、テロニアス・モンクだ」僕には理解できない、魔法のような能力。それを目の当たりにして分かってしまったのです。多分父は、僕が話を盛っていたことにも気づいていたんだろうな、と。 

 

父も仲間達も、演奏内容の一つ一つを全て把握しているように見えました。ここで思い出してください。僕達が聴いていたのは、片面3分間のシングル盤レコードで、曲は全て歌詞付き、それも覚えてしまうのは30秒1区切りで繰り返されるバックミュージックと同じ位に簡単。でも父やその仲間達が聴いていたのは、7・8分間は続く代物で、例えばソニー・ロリンズの「アルフィーのテーマ」、サックスか何かが、最 

低音から最高音まで音域全てを使って演奏し、そのあと、アポロ神殿の神官が「申せ、云々」と言っているような演奏が続いてゆく。この曲にはいくつかポイントがあって、そこで「ふーん」と淡々としていたものが、「おぉ!」とどよめいたり、「うわー!」と驚いたりするのです。神官の話を聞いている礼拝中の僕達を圧倒するような、熱狂的な爆発的表現です。父と仲間達は、まるでソニー・ロリンズが目の前で吹いているかのような反応をするわけです。僕にしてみれば、その7・8分間の演奏中、「歌詞が一つも出てこない・・・」という思いです。そしてじっと座って、父やその仲間達が話し合っている、僕にはほとんど外国語のような内容を、何とか理解しようとしつつ、僕も聞けるようになりたい、と思うのでした。 

 

12歳になると、僕はジョン・コルトレーンクリフォード・ブラウンマイルス・デイビス、そしてフレディ・ハバートを聴き始めました。来る日も来る日もこういったミュージシャン達の演奏に精神を研ぎ澄ませて聴いているうちに、僕が気付くようになったのは、どのミュージシャンも彼らの命のど真ん中の部屋を開いて、それを自分だけのサウンドで表現して見せている、ということでした。達人のサウンドというものは、人の声と同じように、人格を持ち、それが明瞭に感じ取れます。そんな基本的なことに気付いてから、僕は、次に、彼らが音楽を通して何を伝えようとしてるのか、聴き取ってみようとしました。そこにあったものは、純粋な真実。その伝え方は、親しい友達が、自分達のことについて秘密にしておいた繊細なことを、細かく打ち明けてくれているようでした。人間にとって、自分の思いを他人にも共有してもらうことは、勇気が要ることです。多くの場合、心を打ち明ければ、人は自分に寄り添って来てくれるものです。人を知ろうと思うなら、世の中のことと自分自身のことを知ること、そして、そこで知ったことを適切に扱うことができるなら、人とうんと親しくなれる、というものです。 

 

父の周りで、いつも喧々諤々しているジャズメン達が、どうしてあんな風に自信に満ち溢れていたのか、その理由が僕には分かってきました。彼等は自分達が何者かを、人に知られることを厭いませんでした。コルトレーンを例にとってみます。勿論僕も、まず感銘を受けるのは、彼の名人芸、つまり、音域を上から下まで駆け巡るあのテクニックです。彼の演奏を聞く人は、皆そうだと思います。でも僕が気付いたのは、最も意味のあるフレーズは、ほとんどの場合、技術的にスゴイというものは、ほとんどないということです。むしろシンプルで、心に満ち溢れるようなものです。それは例えて言うと、シェイクスピアの劇に出てくる重要な名セリフが、観衆の心を駆け抜け、同時に永く心に残るような感じです。「ハムレット」に出てくる例のセリフ、皆さんも覚えているかと思います。「生きるべきか、死ぬべきか」あるいは「眠ればまた、夢を見るというもの」こういう類の言葉の数々は、世界中の人々に共通する真実というものを明らかにしてくれます。 

 

この話を、二人の人間の間に発生する感情、というものを例にして比べてみましょう。言葉や仕草が発信される前に、まず感情が芽生えます。そしてその「熱さ」や「純粋さ」は、言葉や仕草に置き換えられるときに失われるものです。ある人がキスして「愛しているよ」と言う時、その行為と発言によって感情は萎んでしまう。でも、もしその感情を大きなまま伝える方法がわかったなら、つまり、魂を見せつける瞬間を熟知したなら、その人は、まっすぐな気持ちと誠意と愛を心に抱いてじっと見つめてくる。目だけで人は全身熱くなるものです。僕達は、よくこの一点の曇りのない感情というものを、子供達から感じ取ることがあります。しかし大人達にだって、それはあります。ジャズミュージシャン達というものは、時間の流れを止められないという制約の下にインプロバイズするわけですから、心の内側にあるものは、ありのままに出てきます。これは、ウソでごまかす余裕を与えられず、質問に答えるようせかされる時に似ています。パッと頭に浮かぶことは、大抵ごまかしのないことですからね。 

 

この、感情の純粋さというものを、僕はコルトレーンサウンドの中で耳にしたのです。彼のサウンドは、彼の感情そのものでした。同様に、トミー・フラナガンがインプロバイズで聴かせるピアノ、ポール・チェンバースのベース、そして、アート・テイラーのドラムス。一つのパフォーマンスは、まさにインプロバイズによる交響曲で、それを組み上げるものは、時間の水圧によって曇りなく洗い流された、人の感情なのです。 

 

ジャズミュージシャン達が伝える、人の心の様子。。これに名前を付けるのは、たやすいことではありません。例えば、子供の頃、寝室のカーテンに透けて光っていた明かりから感じ取った気持ちに、名前など付けられないでしょう。あるいは、クラスメートのからかいによって、心がどう傷ついたか、父親と深夜ドライブしたときの静けさを感じた時の気持ち、奥さんにちょっかい出した時に彼女から返ってきた笑顔を見た時の気持ちに、名前はつかないでしょう。でも、それらの気持ちというものは、実在するものですし、字面で表現できないからこそ、その存在が確かなものになってゆくのです。ジャズはミュージシャンに、己の経験を感じたままに伝えさせてくれます。そして、その曇りのなさに、聴き手は心を揺さぶられ、思いを共にするのです。 

 

謡曲の中には、郷愁を誘うものがあります。皆さんの心の記憶は、そういった数々の曲に意味を満たしてくれます。「ほら、この曲覚えているだろう。僕が昔、おんボロのオールズモビルに君を乗せて、高校3年生の時のプロムに行った時、ダンスでかかっていた曲さ」しかしジャズは、今この瞬間の持つ、心を動かす力を奏でてゆくのです。前もって用意された台本などありません。その場の言葉のやり取りなのです。ミュージシャン達は、その場の空気を読んで瞬時にそれを満たし、皆さんに人の心の様子を伝えるのです。理屈は複雑かもしれませんが、音楽はストレートで無駄がありません。コルトレーンは物事に対する鋭い感性を持っていたため、彼のサウンドは、いつまでも力強く色あせないのです。コルトレーンルイ・アームストロング、テロニアス・モンクといったレジェンド達は皆、皆さんに彼らのありのままを感じさせてくれるのです。そして他の多くのミュージシャン達についても、皆さんが自分の心の内の、ほんの片隅でもいいので、彼らのサウンドを流し込むことで、彼らのありのままを共にできるのです。 

 

自分の感情を素材として、それを伝える手段を作り出す。その「手段」は自分らしさがくっきりとしていて、だからこそ、自分が世の中をどう感じているかを、ストレートに伝えるのに使える。ジャズはそれを可能にしてくれるのです。録音したものは、ミュージシャン達のサウンドを冷凍保存します。皆さんはそれを手元で解凍することで、いつでも彼らの世界へと入ってゆく喜びが味わえるのです。ちなみに僕はレスター・ヤングの世界には、何度でも出はいりしてみたいと思っています。 

 

当時の僕にとって最高のジャズは、レコードではなく、いつもライブ演奏でした。父やジェームス・ブラック、クラーク・テリーソニー・スティットといった面々が、ライブ会場を熱くさせるのを聴くのが、僕は大好きでした。ライブ、それは皆さんの目の前で音楽が繰り広げられ、皆さんを覆い尽くすのです。 

 

レコードに話を戻せば、当初僕は「あ、これはコルトレーンサウンドだ。」と聞けば分かったものの、演奏の中身については、必ずしも理解はできていませんでした。ついてゆくのがまず大変。一つのソロに込められている音楽の内容は、当時僕がラジオで馴染んでいた歌謡曲の、40曲分くらいのものでしたからね。それでも僕は、ひたすら聞いてついてゆこうと頑張りました。これって、子供が大人の会話を聞き取ってやろうとするときのテンションと同じようなものです。 

 

そして、ある日のこと。僕は実際に理解できるようになったのです。といっても、頭で理解したのではなく、心で理解したのです。それは突然の事でした。彼の演奏が、完璧に意味を成しているように聞こえ出したのです。実際は、人智を超えたものでしたけれどね。こういったミュージシャン達は、物語を語っていて、その甘くほろ苦い内容は、予測不能な方法で、繰り広げられてゆくのです。彼らは、自分が発信した演奏に自分で驚くこともしばしばですが、そこは、ロデオの騎手のように乗りこなしてゆきます。先程「伝える手段」と書きましたが、それは「演奏」という「言語」であり、言語としての楽曲を理解できるようになれば、音声や文字をそろえる必要は、もはやありません。楽曲それ自体が言語である、ということを、当時僕は理解できるようになったのです。 

 

ジャズについて学び始めた頃、僕はいかなる芸術分野にも関心が持てませんでした。実用的な目的など持ち得るのか、疑問を抱いていたからです。それが30年以上たった今となっては、芸術の持つ力、とりわけ、ジャズが皆さんの人生をより良い方向へ、向かわせ、そして向上させ続ける力を持っている、ということを、僕は証明して見せようと言うわけです。 

 

今となって分かったことですが、父とそのミュージシャンの仲間達の、自信に満ち溢れたあの生き様は、芸術とのかかわりを持っていたからこそ、なのです。勿論、日々の生活の中には、苦しさばかりでした - 人種差別、あらゆるチマチマとした不正、波乱万丈の不遇、人との争い ― それでも自分達の在り様を楽しんだのです。 

 

僕の認識としては、宗教とは、人によっては現実逃避の手段となってしまったと考えています。「死ねばよくなる」、死ぬほど働きづめだった僕のおばあさんの世代の人々は、良くこういっていました。それから中にはこんなことを言って、自分が我慢した虐待に対抗できない辱めを、気にするなと言わんばかりの人もいます。「神はあなたに、自分の敵を許し、そして愛しなさい、と言っている。」自分だけ良ければいい、という人達は、「私達は生き残るが、あなた方は皆死ぬ。なぜなら、あなた方は神との関係ができていないからだ - 神は私達と共にあるからだ。」と、信じることに安心感を見出したようです。しかし芸術は、世の中の人を懐へと引き込んでゆきます。「世の中」とは、単に近しい人ではなく、広い範囲で。「広い」とは、単に我が国だけでなくそれを超えた外国の街 - 東京だの、シドニーだの、ヨハネスブルクだの、とうのではなく、もっと大きな意味で。具体的に思い描くものの相違を越えて、それと抽象的な概念の相違を越えて、更に、歴史に対する見方や人間性に対する見方の相違を越えて、全ての人を一つの懐に引き込んでしまうのが、芸術というものなのです。 

 

ジャズは、誰に対しても、それに少しでも関わってみたいと思いさえすれば、力となってくれる。僕はそんなことを学びました。世の中には、音楽は歌詞があって初めて伝わるものがある、と考える人達がいます。そんな訳で、歌謡曲は大概歌詞がついているのです。しかし芸術全般をご覧いただければ分かるように、演劇でも、詩でも、絵画でも、素晴らしい作品を見れば、作者達は見る人を一つの懐へと引き込んでしまうのです。彼らが泣き、胸躍らせるところで、見る人も泣き、胸躍らせるのです。そしてジャズ音楽は、大概歌詞がない故に、より深く、より多彩で、常に変化し続けるという、人間の生きざまというものを表現する力を、ミュージシャン達に与えてくれます。この発見の連続の道が導く先にあるものは、円熟した人間性、責任感、世界中の文化に対する深い敬意の念、それから、人を元気づける茶目っ気、変化に心躍らせる気持ち、予測不能なことでもしっかり受け止める心、こういったものなのです。ジャズは、歴史を踏まえた総合的な物の見方、自分と敵対しなければならないものでも心で受け入れる態度、ブルースから生まれた楽観主義という物の考え方のベース、そして人の言葉・話・心に耳を傾け続ける姿勢、そんなものを与えてくれます。 

 

僕は10代の頃、あらゆるジャンルの音楽を吹きこなしてきましたが、心底惚れ込むようになったのは、ジャズでした。僕はジャズと共に成長し、ジャズを吹きこなせるようになることを目標にしてきました。時は1970年代。当時ジャズ音楽だと思われていたものの多くは、実は、管楽器がメロディを演奏するファンクか何かでした。しかし僕は、小さい頃から本物のジャズミュージシャン達に囲まれて育ったおかげで、当時僕達が好きで演奏した歌謡曲とは異なる機能が、このジャズという音楽にはあることに気づくことができたのです。当時さんざん流行していた歌謡曲は、上っ面のごまかしや感傷的な言葉や演出でウケ狙いをし、中身の音楽はというと、ウケ狙いの一つにすぎませんでした。これに対しジャズミュージシャン達は、「中身」である音楽で勝負してきます。自らのインプロバイゼーションで、聴き手を、自らのウソのない心と自らの世界へと、奥深くいざなおうとするのです。 

 

僕が10代の頃と、かのレジェンドプレーヤーであるビックス・バイダーベックとは、恐れ多くも皮肉なことに、同じような状況にあったのです。アイオワ州ダベンポート出身の彼は、1917年、まだ10代の頃、初めてジャズを耳にしました。彼の周囲にいた人々の大半が持っていた、ジャズに対する認識と言えば、駄作、ウケ狙いの一時的流行、しかも彼らが「役立たず」とさげすんだ黒人が創ったということが、更に不当な評価を与えていたのです。それでもビックスは、ジャズを徹底的に聴きまくったことにより、周囲の人々の無知と人種差別には耳を貸さず、黒人のグループ、白人のインチキグループ、そして同じ白人のグループでも「ニューオーリンズ・リズムキングス」のような正統派のグループ、そういった中から「違いの分かる耳」を鍛え上げてゆきました。同時に、自分がそれを演奏する上で成すべきことを自力で発見し、そしてプレーヤーとなるべく行動を起こしたのです。でもその結果、自分が育った厳格な白人社会から遠ざかってゆくこととなりました。 

 

バイダーベックと同じように、僕も、本物のジャズと、ジャズと「呼ばれているもの」とを区別するものは何なのか、を解明したかったのです。 

 

ジャズは、本当の処、何を言おうとしているのか? 

 

それがわかったとして、ちゃんと価値のあるものであってくれるのか? 

 

そんなことも理解できたところです。 

 

ジャズの真価は、一人一人が自分だけのサウンドを持つことにあります。ジャズはプレーヤーの手を取り、サウンドというトンネルを通って、そのプレーヤーの心の核心へといざない、そこへたどり着くと、プレーヤーに向かってこう言うのです。「さあ、ここにあるものを表現してみろ」と。ジャズを通じて、僕達は、人間は全員同じ方向を向いているなどということは、ありえない、ということを学ぶのです。ミュージシャンはそれぞれ、得手不得手を抱えています。彼らが自分に与えられた譜面や役割と格闘するのを聞くのも、ジャズの楽しみの一つです。そこから一歩進んで、もし僕達が、周りの人達、そして自分自身の長所も短所も受け入れてあげることができるようになるなら、人生は今より肩の張らないものになることでしょう。人の世は、白黒はっきりつける考え方ばかりでは、苦しいですからね。 

 

例えばマイルス・デイビスは、ルイ・アームストロングのように大きく響くサウンドを持っていませんでした。しかし彼は、独自のやり方で、サッチモより小ぢんまりとした響きで、独自の強烈なテンションを表現する方法を編み出したのです。彼がリリースしたレコードの中には、演奏上のミスをそのままにしているものもありますが、それでもなお、素晴らしい演奏です。その不完全さ故に、音楽により深い味わいと、マイルスらしさが感じられる、ということなのです。今の時代、若い人達は、広告業界やテレビ業界の類がまき散らす、薄っぺらでありながら傷一つないものにつられているようですが、「今自分が持っているもので」という発想の方が、彼らにとっては役に立つと思います。 

 

ジャズはまた、他の人達と物事に取り組むということは、困難ではあるけれどやれることなんだ、ということを教えてくれます。皆で一つのことを創り上げる時には、多くの葛藤がつきまとうものです。他人の決定を受け入れる寛容さを、皆さんに求めてきます。ある時は人をリードし、ある時は人に従う。しかし何があっても、途中で投げ出してはいけない。それを可能にするのは、変化に際してのスマートな対応力、というやつです。演奏とは、いついかなる時も、その場その場で発生することを素材にして、一つのものを作ってゆく、そのためには、皆が共に一体となることが欠かせません。 

 

「自分独自のホンネを表現する大切さ」と「共同作業に対する前向きな気持ち」。当時この二つの発見は、僕にとって願った以上の収穫となり、その後普通の10代の人間には耐え難い、益々複雑化する人間関係に対応できるようになったのです。まず、ジャズのおかげで、自分をもっと大事にしようという気になれました。何か意味のあるものをインプロバイズしようと思うなら、他人とシェアする価値のあるものを、何でもいいから自分の内面から見つけ出して表現しなくてはなりません。しかし同時にそれは、他人というものに対する新たな意識の持ち方を教えてくれたのです。というのも、僕の表現の自由は、同じステージ上にいる他のプレーヤー達のそれと、直接リンクしているからです。僕に言いたいことがあるように、彼らにも言い分がある。彼らが自由になるほど、僕の自由度が増すし、その逆も然り。自分の音を他のプレーヤー達に聞いてほしいと思うなら、お互いしっかり聴き合わなくてはいけない。そして、良い演奏をしたいなら、お互い信頼し合うことが必要だ。そんなことを学んだのです。 

 

ここまで書いてきたことは、勿論、ジャズを演奏する側のことを特に取り上げたものですが、同じことが、ジャズを聴く側にも言えるのです。ジャズの素晴らしさは、聴き手にとっても、弾き手にとっても、同じこと。なぜなら、この音楽は、人々の様々な感情、個性、皆で行うインプロバイゼーション、これらが結びつくことによって、人生の根幹にある様々な問題の解決策を僕達に与えてくれるからです。より深いレベルでジャズを聴くことにより、より多くのものがもたらされます。人同士の会話にも見受けられることですが、ミュージシャンは、聴衆がちゃんと耳を傾けてくれているかどうかを、把握しています。そして、より良い聴き方が、良い演奏を生み出すのです。 

 

ジャズの音楽のことを知ることにより、今まで自分が持っていなかった歴史に対する見方が身に付きます。僕は1929年の世界大恐慌のことについては、本で読んだことがありましたし、その時代を生き抜いた人々と演奏を共にしたこともあります。しかし、ミルドレッド・ベーリー、ビリー・ホリデー、ベニー・グッドマン楽団、あるいはエラ・フィッツジェラルドとチック・ウェブ楽団の演奏を聴くと、彼らの時代を垣間見ることができるのです。彼らが読み書き話した言葉、民族間の違いを橋渡しするために使ったユーモアや様々な概念、彼らが心躍らせた、お互いのやり取りの中から生まれたグルーブ感によく表れている、男女が愛し合うということの概念(それは甘美で心を熱くするものです)、更には、同じ時代に、やはり人を甘美で熱い世界へと導くラテン音楽も台頭してきたのでした。辛い時代にもかかわらず、というよりも、辛い時代だからこそ、生きてゆくことを、まずは祝福し、そしてその意義をはっきりさせる。そんなことを楽しくやる方法を見出そうとしている様子が、聴いて取れるのです。それも、単に楽しげなメロディを使うのではなく、そこに活気があって、ストレートな奏法であるスウィングをかけてゆくわけです。スウィングと言えば、楽しげで、プレーヤー同士のやり取りの中で生まれてくるリズムです。ジャズミュージシャン達は、このリズムを、あらゆる種類のメロディに - 例えそれが悲しい気持ちや何かを失ったことへの思いを歌った曲でも - 駆使してきます。 

 

ジャズ音楽に込められているのは、アメリカの歴史、そして秘めたる力。それらは積み重ねられ、神聖なものとなり、ジャズを聴いて感じて理解できるようになれば、誰もが触れることができます。ジャズは、過去の自分に、そしてより良い未来の自分に、今の自分を結び付けてくれます。人間が発達してゆく時の流れの、どこに自分を当てはめるか、ジャズはそんなことを僕達に気づかせてくれます。これはまさに、芸術の持つ究極の真価なのです。 

 

どんな分野でも、一流のアーティストというものは、時代を越えて、人間の普遍的なテーマについて僕達に語りかけてきます - 死、愛、嫉妬、復讐、欲望、若さ、老い - いつの時代も実際には大して変わらない、人生の中で経験してゆく基本的なことです。まったく、アート/アーティストというものは、僕達を「人類皆兄弟」にしてしまう、本当に大したものです。そして、一流のジャズミュージシャン達は、聴き手にそれを体感させてくれるのです。ジャズの世界へと入ってゆくことによって、素晴らしい創造性に富んだ人達と、心を通わせる機会を持つことができます - マックス・ローチ、ジル・エバンス、パパ・ジョー・ジョーンズ、マリー・ルー・ウィリアムス、等々、枚挙にいとまがありません - そして、多くの様々な発想が生み出した作品を通して、インプロバイズする、すなわち、僕達に共通する問題について考え抜き対処してゆく上で、やれることは無数にあるんだ、ということを、ジャズは教えてくれます。コールマン・ホーキンスのようなミュージシャン達は、物事を分解し、再び一つ一つ組み立てなおしてゆきます。アルトサックス奏者のポール・デズモンドのような人達は、分かりやすくてさりげないウィットを用いて演奏します。「ウィット?ミュージシャンが?」と思うかもしれません。ウィットのある人というのは、誰もが知っているものの言い方を、鋭くユーモアのあるやり方で、ひねりを加えてきます。ミュージシャンはこれをメロディで行うわけです。「次はこういくかな?」と思うところを、良いオチの持つ、間と魅力で、思わぬ方向へと持ってゆくのです。 

 

ジャズには、プレーヤーの数だけアプローチの方法が存在します。ビックス・バイダーベックマイルス・デイビスブッカー・リトルといったミュージシャン達は、深みがあって、悲哀に満ち、傷心に沈むサウンドを創り上げることに、知性と感性をつぎ込んでゆきます。チャーリー・パーカーは、すさまじい速さのテンポで、頭の回転の速さと物事を組み立てる上手さを駆使して、僕達が持つ者の感じ方というものの概念を広げてくれます。 

 

ルイ・アームストロングが編み出した、ブルースによるリアリズム手法は、他のミュージシャンと比べても傑出していて、それまで感傷的で薄っぺらで洗練されていなかったアメリカの歌謡曲を、骨太なものに変えた苦心作です。彼はそのために、アフリカ系アメリカ人が得意としたリズムを取り入れ、芸術的完成度の向上を図ったのです。これらはインプロバイゼーションの技法により可能となりました。こうしてジャズは、きっちり作りこまれたメロディと、洗練されたハーモニーを得たのです。 

 

ヨーロッパの、クラシック音楽を中心とする作曲家達が、素材として頻繁に使ったのが、民謡の主題です。民謡は、彼らの時代の歌謡曲でした。これがきっかけとなり、ファンタジア形式や、それまでの音楽形式にとらわれない自由なスタイルの作曲形式が生まれ、フーガから12音音楽まで、あらゆる種類の複雑な作曲技法が取り入れられるようになったのです。 

 

一方、ジャズミュージシャンは、インプロバイズをする時は、メロディのリズムとハーモニーの構造は、大体いつも変化させません。アメリカ音楽におけるインプロバイズの大半は、変奏曲、つまり一つの主題を元に様々なバリエーションを展開する形式です。伝統的なバイオリン弾き達が奏でたリール、そして教会音楽といったものから、ブルース、そして19世紀のコルネット吹き達が腕前で魅せた「ヴェニスの謝肉祭」のような有名処の主題を元にした変奏曲まで、皆そうです。 

 

これらの伝統を全て受け継いだのが、ルイ・アームストロングです。彼がインプロバイズしたのは、歌謡曲の、メロディやハーモニーだけではありません。失恋であったり、「好き」が行き過ぎて相手を困らせてやろうという気分だったり、恋愛感情に対しては人間は実に様々な反応を示しますが、そういった自然と湧き上がる色々な思いへと案内するかのように、「色々な思い」をインプロバイズして見せたりもしたのです。「世界一のデュエットは、愛し合う男女」と、デューク・エリントンは言いましたが、人類にとって普遍的なこのテーマをインプロバイズする方法を、世界中のジャズミュージシャン達に教えたのが、ルイ・アームストロングだったのです。 

 

1920年代、30年代、そして40年代の人気歌謡曲の数々は、アメリカのスタンダードミュージックとなり、ジャズミュージシャンは、これらを枠組みとして音楽を作りこんでゆきました。この豊富な音楽素材の数々は、若者の揺れる思いから、中年男女の体にガタが来た切なさまで、およそあらゆることを網羅しています。これらはジャズミュージシャン達にとってリスペクトすべき曲の数々であり、テナーサックスの名手ベン・ウェブスターなどは、かつて「歌詞を忘れてしまっては吹き続けるわけにはいかない」と言って、楽器でインプロバイズをしている最中に吹くのをストップしたほどです。 

 

ジャズは、人の感情表現については、多くの解釈を良しとする、懐の深さを持っています。ジャズミュージシャン達が、それまでのあらゆるミュージシャン達よりも、リアルな恋愛感情を色々と表現してゆくことにおいてリードしているのは、いくつかの理由があるのです。ジャズは、楽器の弾き方と、ハーモニーを幾つかマスターすればいい、ビブラートや効果音は独自の流儀を作ってもいい、形式だの前例だのよりも、寄り添う気持ちや、偽りのない心の方が役に立つ、時間の流れを止めずに演奏することを通して、無意識に発信し続けることができるようになる、作曲法も管弦楽法オーケストレーション)もいらない、そして、ジャズには徹底したリアリズムと、辛い歴史を乗り越えて人が手に入れたブルースの喜びがあるから、なのです。ジョニー・ホッジズの卓越した官能的表現、マイルス・デイビスの「超」がつくほどの繊細な表現をする秘技、デューク・エリントンの異端でありながらも卓越した優雅さ、スタン・ゲッツの凛とした優しさ、ハリー・スゥイーツ・エジソンのお茶目な色っぽさ、ビリー・ホリデーの失恋の嘆き。まだまだありますが、彼ら一人一人が、皆さんを心地よい恋の浮き沈みの旅へと誘ってくれるのです。すると皆さんは、自信を持って、自分の本当の気持ちに踏み込み、愛する人の心がいかに大切かに気づいて、それを解き放ち、心穏やかな時を楽しみ、言葉がなくともそれがまた一層、二人の時間を穏やかにすることに気づくのです。 

 

ジャズはタイミングがカギとなる芸術です。皆さんは「いつ?」という感覚を磨いてゆくことになります。いつ始めるか、いつ待つか、いつ加速するのか、いつ一息つくか、これらは人を幸せにする上で欠かせないツールなのです。 

 

ジャズにとって欠くことのできないもの、それは time です。と言っても、時計が示す「時刻 time 」でもなければ、楽譜に書いてある「拍子記号 time signature」でもありません。スウィングのリズム「 time 」のことです。低い音のベースと高い音のシンバルによって演奏される四分音符(♩)が、シャッフルリズムを奏でてゆく、あのリズム感覚のことです(フランス民謡「朝の鐘を鳴らしなさい」が良い例です。この曲は四分音符を中心に作曲されていますが、「しずかな かねの声」という歌詞を「ボンボンボンボン ボンボンボンボン」と言い換えてみてください。これがスウィングでベースが奏でているものです)。3連符をベースにしたシャッフルリズムに、ピアノや管楽器が奏でる全ての音型が収まってゆきます(3連符とは、アイルランドのジグというダンス音楽を思い出していただけれると、すぐにお分かりになると思います)。様々な楽器が舞い、それらをベースとドラムスが一つにまとめ上げるのです。ベースとドラムスは、家庭における男性と女性の様なもので、音の高い/低い、大きい/小さい、について、この2つの楽器が、最高/最低、最大/最小、を決めます。そして、個のベースとドラムスの協力体制が、リズムの出来のカギとなるのです。仲良くやれればスムーズにリズムは流れてゆきます。うまくいかないとどうなるか、については、面白い話がたくさんあります。 

 

僕の父と、その仲間のミュージシャン達は、新しいミュージシャンとの出会いがあると、二つだけ、そのミュージシャンについて見極めようとしました。それは「この人は弾ける/吹ける人か?」(良い音楽性と独自のサウンドを持ち合わせているか)と、「タイムはどうか?」(良いテンポ感のグルーブを生み出せるリズム感を持ち合わせているか)でした。ジャズは「 time 」との付き合い方を教えてくれます。バンドと共にステージ上で演奏に臨む時、3つの「 time 」が常に付きまといます。一つは、日常生活における「時間」(time:機械的に過ぎてゆく時間)、もう一つは自分の「テンポ感」(time: 

「時間」(time)をどう感じるか)、3つ目はスウィングのの「リズム」(time:メンバー全員が自分の「テンポ感」(time)を修正・調整して、決められた「時間」(time)の流れ方を元に「バンド全員の」リズム(time)を作り出す方法)です。 

 

日常生活における「時間」(time)は、一定で変化のないものです。自分の「テンポ感」(time)は、自分なりの解釈や感じ方のことです。スウィングの「リズム」(time)は、集団行動、ということになります。ジャズミュージシャン一人一人が日々創り出そうとするのは、日常生活における「時間」(time)のかわりとなる、もっと順応性のあるものです。ベースとドラムスはスウィングの「リズム」(tiime)の土台となり、そしてバンドの他の奏者達は、彼らに与えられた役割から見て、土台のリズムを読み解いてゆきます。突込み気味に演奏する者もいれば、ゆっくり遅れ気味に演奏する者もいますし、拍にピッタリと合わせてくる者もあるのです。それでも全員が調整し、そして合わせ所を見出してそれをキープしてゆきます。「テンポが合っている」ということは、自分の演奏が他のプレーヤー達の耳と意識にしっかり届いて、かつ柔軟性も十分あることで、「究極の一定不変」である「スウィング」の中へ、スルリと入ってゆくことができている、ということなのです。 

 

「テンポが合っている」ということは、ジャズ以外の実生活で大いに役に立つものです。スウィングとは、要はマナーの問題なのです。周囲と「テンポが合っている」人というのは、自分の言いたいことを抑えるタイミング、逆に押し通すタイミング、これらを心得ていますし、周囲に対する反応の仕方についても、空気を読んだものだったり、あるいは、とんでもなく創造性のあるものだったり、といったことを、機を見て発揮する方法を知っているのです。頭の回転が速いコメディアン達は、これをステージ上でやれているわけです。それからアスリート達。時計が刻むプレッシャーのせいで、独りよがりな、そして大抵は失敗するようなプレーに走るリスクを乗り越えて、チームワークを要する知的な判断を次々と行ってゆくのです。いずれにしてもそのためには、チームあるいは相方との一体感を保つために(ジャズで言うところのグルーブ)、最大限巧妙な適応力と相方に対する譲り合いができなければなりません。そして皆さんのチームメイトや相方も、逆に皆さんに対して同じことができなくてはいけないのです。大抵のバンドでは、このことでいつも激しい言い争いになるのです。 

 

「おい君、テンポが引きずり気味だぞ」 

「君が突込み気味なんだろ、ラスプーチン 

「どんなテンポ感で演奏しているんだよ?頼むから合わせられるテンポ感でやってくれたらいいんだよ」 

「そういうことはスウィングができるようになってからいえよ」 

「君ねぇ、周りが聞こえてないのか!たのむから引きずってないで合わせろよ」 

 

ベース奏者達VSドラム奏者達の、リズムやテンポについてのせめぎ合いは、絶えることがありません。多くの場合、ベースは走り気味で、ドラムは遅れ気味。なので、いつも水面下で争いが発生するのです。かつてはリズムギター奏者が間に立ち、審判の役割を果たしていたのですが、残念ながらビッグバンドというものがビジネス上成功しなくなるにつれて、リズムセクションから消えてしまったのでした。とは言え、そういったリズムギター奏者は、ミュージシャンの中でも最もすすんで自己犠牲をするタイプなのです。音量は桁外れに最も小さく、しかし同時に彼は、バンドの中心的存在なのです。全ての拍に音を入れてリズムを刻むその様子は、まるで「ほらみんな、ここへ集まっておいで」と言っているかのよう。演奏がうまくいっている時というのは、リズムセクションがトランポリンの様な機能を果たしている状態なのです。気の抜けない状態ではあるけれど、軽快さが保たれているので、バンドのメンバーは存分に演奏し切れる。これが気が張りすぎても、逆にぬけすぎても、ロクなことになりません。 

 

科学者達は、この世の中で変化しないことは唯一つ、それは「物事は常に変化し続ける」という事実だけだ、とよく言います。スウィングができるようになると、こうした変化に向き合う方法を変えてゆくことにつながります。ここまで見てきましたミュージシャンの「time」との関わり合い方というものは、皆さんにとっては次の5つのことについて、大いに参考にしていただけると思います。 

 

1.平静さを失うことなく、変化に適応すること 

2.危機に際しても、明確な思考を働かせること 

3.自分をゴリ押ししようとせずに、一瞬一瞬を生き、現実を受け入れること 

4.自分の考えと異なっていても、チームとしての目標に集中すること 

5.自分自身の力を注ぎ込む方法とタイミングを知ること 

 

周りとペースが合ってくると、逆に思い切った行動を取る自信が、同時に持てるようになります。ミュージシャンは周りと息が合ってくると、自信に満ちた演奏がしっかりとできるようになり、素晴らしいリズムを次々と発信し始めます。そういうミュージシャンとして、僕が真っ先に思い浮かべるのが、ソニー・ロリンズです。素材としてのビートに徹底的に手を入れて、素晴らしい作品に仕上げると、一流のジャグラーやアクロバット、あるいは勇敢な冒険家のような思い切りの良さを発揮します。「これ、何かあるよ。見てみよう」「これとあれを組み合わせてみたら、きっと上手く行くんじゃないかな」彼は、いつもこう言っては、本当に言うとおりに実現させる、ということがよくありました。彼の奏でる、とびっきりのリズムのひねりや工夫は、まさに奇想天外。テロニアス・モンクもそうです。この二人の、それぞれの演奏を聴いていると、「time」から抜け出してみることで、逆にしっかりと深く根を張った「time」を表現したり、姿が見えなくなったかと思った途端、ポンッと再び現れる。といったことをしているかのようです。 

 

「変化が降りかかってきたら、こうやって切り抜けたらいい。でもそれだけじゃなくて、逆に自分から変化を起こし、皆にも勧めて、そして楽しんだらいい。その方法はこれだよ」彼らはそう教えてくれます。よく、時の流れには逆らえない、などと言われます。「光陰矢の如しっていう諺を知らないの?!」「時間を無駄にするな!」「若いうちにやらないと!」とね。今時の、若者中心の文化にあっては、年を取ることが、あたかも犯罪行為のように扱われてしまっています。年配者は若い頃の写真を他人に見せて、当時の自分を自慢する。若者達は、両親の時代の価値観は「昔のもの」として、振り回されたくない。ましてや祖父母の時代なんて、「大昔のもの」だから論外だ、と拒否する。 

 

ところがジャズの演奏は、15歳かそこらのプレーヤーが、80歳だかのプレーヤーの隣に座ってもいいのです。70代の頃のスウィーツ・エジソン、60代の頃のローランド・ハンナ、20代の頃のレジナルド・ヴィール、彼らは年齢は違っても、僕が見た限り、全く同じ情熱と気迫で、スウィングの高みを追い求めていました。そして多くの場合、年配者が若手を導いていたのは、間違いありません。 

 

ジャズの世界では、時の流れには、逆らうものでも従うものでもありません。時の流れは僕達の味方です。自分自身のスウィングを身に付ける、あるいは音楽以外のことでも、周りとペースを合わせることができるようになる頃には、「光陰矢」の如く時は流れて行ってしまうものです。でもその結果に対しては、「あぁ、やってよかった!」と、きっと思えるはずです。そしてその時、そこに至る過程こそが大切なんだ、と気付くでしょう。それこそが、スウィングのもたらす喜びなのです。

 

 次回は、第2章を見てゆきます。