Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

<連載最終>Keith Jarrett伝記(英語版)エピローグ、筆者紹介

エピローグ 

 

彼は小型のシルバーグレーのBMWを運転して、私を迎えに来てくれた。運転席から声をかけられると、私は車に乗り込む。私達は彼の自宅へと向かう。鬱蒼とした森に囲まれている、なだらかな丘の上にたたずむ家だ。どこまでが敷地内の芝生で、どこからが敷地外の野原なのか、ぱっと見たところ分からない。アメリカではこういったエリアには、各家を仕切るフェンスは見当たらないのだ。夜の帳が下りる頃になると、敷地内の建物向こう側に広がる、下草を刈り込んだところには、鹿達を見ることが出来る。毛がフサフサとしたリス達がいる。大きさはイタチくらい(ヨーロッパケナガイタチ)だろうか、玄関テラスの周りを跳ね回っている。キース・ジャレットが私に話しかける。時々はフクロネズミがやってきては、ちょこっと餌がないか、探し回っているという。ここは正に、未開と開拓が接している場所なのだ。 

 

木造の開拓時代からの家に入ると、迎えてくれたのがローズ・アンだ。その姿は見るからに、丁度食事の用意をしてくれた、といった感じ。本当に静かな場所だ。絵に描いたような、静寂な場所だ。開拓時代からのこの家は、静穏そのもの、というたたずまいである。食事の間中、キース・ジャレットは穏やかな口調で話してくれる。気さくな物言いで、丁度サンフランシスコでのコンサートから戻ったばかりだ、とのこと。サンフランシスコは生気を失いかけていないか、尋ねてみた(この時、1987年秋は、北米を襲ったエイズの猛威がピークに達していた)。「とんでもない」彼はそう答えるのだ。「それどころか、ハツラツとした感じですよ。」もしかしてその、ハツラツとした感じとは、やがてくる急転直下の兆しかもしれませんよ、と私は返す。キース・ジャレットは顔を上げると、少し間をおいて、私に向かって、アメリカ人というのはそういう風には考えない、それはヨーロッパの人間の考えにすぎない、と言う。 

 

食事が済んだ後、ジャレットは私に、家の中を案内してくれる。今まで居たリビングルームは、天井が低く、年季が入っているせいか少し歪んでいるように見える。リビングルームをでると、暖かい一室へ通される。物がいっぱいだ。見た目は小綺麗に片付いている(本当は無造作に置かれているだけかもしれないのだが)。窓辺にはどデカい年代物のテーブル、彫刻が数点、座り心地が良さそうな布張りの椅子が2,3脚、壁際には太鼓が1つ、そして見るからに読み込んだと思われるような本の数々。そして上り下りのための、木で作った狭い階段。これらにまつわる思い出話をしていたジャレットが、言葉を止める。そしてじっと目を向けたその先を見ると、絵が1枚。ローズ・アンが描いたものだ。白亜色を背景として、筆をスッと走らせた1本の線が、黒い曲線を描いている。何かの文字の一部か、あるいは日本の書道の手法による断片的なものか、といったところ。この絵が放つ調和の取れた雰囲気や、このムダのない装飾品の自然なたたずまいは、キース・ジャレットの音楽面でのアプローチ全体を表すものと言えよう。 

 

だがこれを見て、ビル・エヴァンスや、彼がかつて、自身も要所でレコーディングに参加したマイルス・デイヴィスの伝説的アルバム「カインド・オブ・ブルー」のカバーに書き記したことを思い出す方もいることだろう。彼はこの録音のインプロヴァイゼーションの数々と、水墨画とを比べてみせた。水墨画とは、中国発祥の、墨を用いた白黒の画法で、仏教徒が14世紀に日本に持ち込んだものである。禅宗が網羅する芸術のひとつと見なされており、描く者が自発的に描いてゆくことが必須とされていた。専用の特殊な筆と、それから黒の墨汁を用いて、非常に薄い羊皮紙か、ライスペーパーといってこれまた非常に薄い上質紙に、線を描く。そうすることで、描き手の意図的な筆使いや筆の「止め」によって、作品を台無しにしてしまったり作業が途中で中断されることが無いようにするし、紙が破れて穴が空くようなこともなくなる。一旦筆を走らせたら、取り消しも変更もできない。水墨画を描く者達は、外からの「雑音」に心乱されることなく、自らの両手との本能による結びつきを通した表現、という発想を可能にするような掟の中で、その腕前が鍛え上げられてゆく。彼の芸術面での心情がここに具現化しているかのようである。 

 

今度はスタジオに案内される。ここでは重要な作品の数々が収録された。その中の一つ「スピリッツ」は、付近のアパラチアの山々にいる鳥たちが、自由に歌うが如きインプロヴァイゼーションを擁する。彼が「価値ある作品」としているのはこういうものであり、高度で恣意的な要素を音楽に持ち込むことには、あまり価値を見出していない。常に優先されるのは、ランダムにおこなうこと、決めてかからないこと、「これで完成した」と決して思わぬことだった。それは真の意味での、「限りなきこと」というやつだ。自主自由を基とし、自らの意思で行動するアーティうとは、ルール作りに時間を無駄にしない。そして勿論、それに従うはずもない。芸術作品とはルールに支配されることはない。芸術作品にとっては、ルールは除くべきものなのだ。 

 

ジャレットは丁度バッハのある曲を録音し終えたところだ。バッハは、ジャレットの生涯ずっとつきまとう作曲家となっている。自然現象を模すことが主流の時代だった。絵画など視覚に訴える芸術は、のちのベートーヴェンのように「心の内を表現する」ものではなかった。 

 

この夜は多くのことを語り合うことになる。音楽、インプロヴァイゼーション、ピアノ、それから細々と、例えば、たった一つの音が大きな効果を発揮する力を秘めている、などといったことが、話題にのぼる。リビングルームで、ジャレットは自分専用のラウンジチェアにゆったりと座り、穏やかなトーンで話をする。感情を表に出さぬような声の大きさで話さなければ、と思っていたのだろう。彼の中で言葉が生まれ、声帯をすり抜けて口から発せられる、その際にこれを吟味するべく、そういう心の内の声に、耳を傾けている、そんな様子である。全てがとても穏やかで、だが同時に、完璧に閉ざされた空気感である。こういうことは、非常に多くの偉人達にありがちな話である。そんな彼の様子を見ていると、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの言葉が心に浮かんでくる「全ての偉大な芸術の中には、野に息づく動物が宿っていて、それはおっとりとしている。」 

 

翌日、ニュージャージー州オックスフォードの彼の住まいを後にする。秋が深まっていて、しかし外は寒いということはない。木々の葉は、ほとんどが大地に散ってしまっている。その木々の茶色い樹皮、そして葉が散りばめられた湿り気のある土、それはさながら、ゲオルグ・トラークルの詩に描かれた風情である。これは自然の営みか?これとてもジャレットの芸術の為せる技なのか?あるいは全く逆なのか?かつてトルストイが、ルツェルンの街について描いたもののように、こうした姿は、ハッキリとしたものではないこのトルストイの文章を引用しているのは、フェルッチョ・ブゾーニだ。彼は著書Entwurf einer neuen Asthetik der Tonkunst」(題意:音楽の新たな美的感覚を描く)でこれを、音楽がいかにして真の本質的な価値改めて見いだし、そうした上で、知識を振りかざし、声を荒げ、美学にふけるような教条主義的思想からの解放を実現するのだ。「湖の水面でもなく山あいの中でもなく空の上でもないところにある、1本のまっすぐな線、濁りのない色、あるいは適切な間を取るポイント ― ひたすらに動き続け、お決まりのパターンにはまらず、移い気で、多様性があり、終わることのない流れが、闇の中かららやってくる。そして静穏で、優しくて、調和を持って、そして美しさを求める気持ち。」 

 

トルストイが心に描いた夢と同じ夢を芸に長けた者達それも、誰もが思いつくであろう、あらゆる人間集団古今あらゆる時代あらゆる分野で活躍する者達も、ずっと抱いている。ベートーヴェンジョン・ケージラヴィ・シャンカールカーラ・ブレイマース・カニングハムボッティチェリオーギュスト・ロダンイングマール・ベルイマンジミ・ヘンドリックスや尹伊桑、トム・ウェイツにシャンドール・ペティフ、ヴェノザ公であったカルロ・ジェスアルドやプッチーニ。そして、キース・ジャレット 

 

 

 

ディスコグラフィー 

 

ディスコグラフィーの時系列は、演奏が実施された年月日によります(音源リリースの年月日ではありません)。演奏実施から音源リリースまでが、2年以上間があいている場合のみ、リリースした年月日を記載しています。ジャレットの作品の大半が、ECMレーベルからのリリースである関係上、ECMレーベルのものから先に記載し、これより以前の他のレーベルの作品は、その後に記載しています。なお、試供品、アンソロジー、再版は、記載していません。 

 

 

【ブックカバーより】 

 

著者ヴォルフガング・サンドナー 

1942年生まれ音楽学現代史イタリア語学ぶフランクフルト総合新聞社にて音楽部門の編集担当を30年にわたりつとめ、現在に至る。ドイツ連邦共和国マールブルク大学教授。これまでにマイルス・デイヴィスやハイナー・ゲッペルスアルヴォ・ペルトなど、様々なアーティストに関する文筆を手掛ける。 

 

英語版訳者:クリス・ジャレット 

1956年、米国ペンシルバニア州アレンタウン生まれ。キース・ジャレットの末弟である彼は、自身も世界的に活躍するピアノ奏者、オルガン奏者、作曲家である。現在、ドイツ連邦共和国ヨハネス・グーテンベルク大学マインツにて教鞭をとる傍ら、ピアノやオルガンのリサイタルツアーも精力的に行っている。

<前半部改訂版>Keith Jarrett伝記(英語版)pp164-171

12.抗うこと/立ちはだかるもの ~最後の涙~

 

キース・ジャレットとは何者か。我々が目撃する最もクリエイティブなミュージシャンの一人、ソフトな口調で話す男(そもそも人前で話をすれば、のことだが)、高度な理解力に支えられた聴く耳を持つ人、大胆なピアノ奏者、時代の最先端を生きる用心深い人、市民社会に在って世情を把握している人、優れた伴奏をする器楽奏者、脇役に在っても主役に回ってもひときわ輝く演奏家、バッハからジョン・ケージ以降の音楽にまで全て詳しい人、ライナー・マリア・リルケとロバート・ブライをこよなく愛する人ニューヨーク・タイムズ紙の編集部へ堂々と投稿する人、アメリカの良心を信じる米国民、世界市民としての意識を持つ男、複雑さを十分含んだ上で旧世界たるヨーロッパに惹かれる人、不戦論者、女を愛し危ない橋を渡ることを厭わぬ男、人見知りで遠慮がちな人、見聞き・感知したことは決して忘れない人、急進論者、伝統を重んじる人、ロマン主義芸術支持者、声を荒らげぬ政治思想家、絶対/相対音感ともに完璧な男、地震波計のように将来の波を感知する人、旋律の職人、パーカッション奏者であり世界各地の打楽器に詳しくもある民俗学者のような人、夢遊病者、友情に厚い人(一旦ハマれば)、厳しい状況であるほど能力を発揮するジャズ・ミュージシャン、ぶっつけ本番の効くインプロヴァイザー、詩的霊感を常に求め自己解決能力に長けた天才、熟慮の上革新を図る人、その時々の時代感覚を持てる人(右派でも左派でも上澄みでもどん底でもなく)、インフルエンサー、歌をうたう人、自分を大事に守る人、無宗派ではあるが宗教的信心を持つ人、求道者、軽業師、「間」を好んで音の風景を創る人、自由な思想ができる人、スキーのできる人、日本通、父、兄弟、祖父、夫、所謂「専門家」と称する連中との舌戦にモーツァルトの援軍を願う音楽論者、リサーチをとことんし尽くす人、「お住いは?」と聞かれれば「北米東海岸と南仏です」と答える男、バッハの信奉者であり同時にバド・パウエルの精通者、万物に神が宿ると考える男、恍惚の男、官能主義者、作詞をする人、ワーカホリック、高潔な男、未知の世界を切り拓く人、現在故障中のアスリート、時代を先駆ける人、市民社会でキチンと教育を受けた人、考古学者、引きこもりのガクシャ(学者)、熱狂的信奉の対象となっている人、中肉中背、悪気はないのに人を傷つけてばかりいる紳士的な人、向学心を切らさない器用人、等々。 

 

だが生涯を通じ、キース・ジャレットのこうしたよく知られている側面の数々は、彼の習慣というか、むしろ強迫観念にかられてというべきか、基本的に物事を受け入れようとしない姿勢によるものだ。ジャレットと言えば、懐疑の権化である。それ故に、彼と共通点を持つ別の大芸術家を挙げよう。「否」が口癖で、自叙伝の書名にまでした男だ。ドイツの社会風刺画家ジョージ・グロスが、自身のこれまでを描く基本理念は、キース・ジャレットがもし自叙伝を書けば、ぴったりハマるだろう。それは「小さな『是』」、大きな『否』」、という。勿論こんなことをジャレットが聞けば、即座に反論し、こう説明するだろう。自分の場合は、「小さな『否』、大きな『是』」、が正確なところだと。キース・ジャレットに対するインタビューを読み解いてゆくと、どんな話題であっても、何を振られても、彼のリアクションには、その場を和やかに進めようなどと思っていないことが(明言しようがしまいが)、容易に感じ取れる。ジャレットの音楽家としての実績も含めて、彼の性格を一言でビシッと決めるなら、「文句垂れ」だろう。彼はいつも、自分の立ち位置を、相手と対峙する所に置く。彼は常に異論を唱え、心持ちは懐疑的で、他者の発言や行為、あるいは主義主張に対しては、全てに疑問を呈する。彼は「拒否権」が服を着て歩いているようなものだ。当然、客観的に見れば彼は間違ってはいない。だが実際賢明で、故に「正しい」としても、仮に本格的な論争の場か何かであっても、そんなに四六時中喧嘩を売るような態度を取るとなると、それは全然別の話になってくる。 

 

だがもしキース・ジャレットイエスマンになってしまったら、彼の音楽はガラリと変わり、今ほどの魅力もなくなることだろう。自身の演奏が些細なことで邪魔されると、「自分が未熟なんだかしょうがない」など、これっぽっちも思わないのが常であることは、誰もがすぐにわかるだろう。だが仮に「自分が未熟なんだから…」と、明らかに我慢しているように見えるこの態度(理屈の上では違うのだが)の裏にあるのは、誰もがその存在を思うであろう「否」だ。「否」の矛先は、独善的なアヴァンギャルドの者達が、美・哀愁・そしてロマンティックでセンチメンタルな音楽表現を全面的に軽視するその態度に、向けられている。 

 

ジャレットが、音楽活動上初めて「否」と言ったのは、1961年のスタン・ケントンによるサマーキャンプ(夏の音楽講習会)でのことと考えられる。彼は、自身の作品「カーボン・デポジット」を売ってくれという申し出を断ったのだ。もし売っておけば資金が入ったわけだし、若干16歳の作品が腕利きのバンドディレクターの手にかかれば、何かしらの注目を集めただろうし、場合によってはジャレットのキャリアに拍車がかかったはずだった。明らかに、ジャレットの音楽人生においては、金銭的な話は重要ではない、ということだ。 

 

もっと言えば、前記の例にもあるように、彼の場合、他人に認められたいと思う気持ちよりも、厳しい自己評価をクリアしたいという気持ちのほうが、常に強かったのだ。この後すぐ、奨学金をしっかりと得てバークリー音楽大学(現)へ進学するも、創造性を全開発揮して広く物事を吸収しようとする学生ジャレットと、ビックリするほど狭く物事を排除しようとする方針を掲げる学校側とが、正面衝突することになる。 

 

彼が嫌悪感をためらわず口にするも、それでも即座に言うことはしなかった「否」が、一つある。それは彼がマイルス・デイヴィスのバンドに参加していたときのことだ。当時デイヴィスは、もう以前には引き返さない方針で、電子音楽の道をひた走っていた。彼は新入りのピアノ奏者ジャレットに、電子オルガンと電子ピアノの席を担当させたのである。ジャレットは1年半でこの席を立った。その原因の大半は、ジャレットが電子鍵盤楽器に対して、拒否反応が日に日に増していったからである。事実、彼はこれ以降こういった楽器に全く興味を示さず、自らの音楽活動にこれらを取り入れることもなかった。 

 

 

次の事例は、1つ目より深刻な問題である。というのも、その矛先が、他人ではなく、自分自身に向けられたものだからだ。彼は、その頃までの自身のインプロヴァイゼーション全体に関する概念を、目の前の素材を自発的に変奏してゆくとか、あるいは、「ヘッドアレンジメント」(譜面を起こさず口頭で編曲する方法)である、と定義していたが、これに矛先を向けたのである。ブレーメンローザンヌでの公演を収めた「ソロ・コンサーツ」により、「フリー演奏」が世に示されていた。ここでのインプロヴァイゼーションは、楽器は用意するが、素材は用意せず、大枠も用意せずに、自由なソロのピアノ演奏により、本番中その場のインスピレーションから、音楽を次々と展開してゆくという方法だった。 

 

インプロヴァイゼーションにおける革命的なことではあったが、これには様々な問題が伴っており、それはジャズ・ミュージシャンとみなされているソロ演奏家が、既に抱えていた数々の困難試練を、更に深刻化させることになった。それをジャレットが初めてハッキリと思い知ったのは1975年とされている。ケルン歌劇場での公演で、彼にあてがわれたピアノ。もしこれがクラシックの演奏家だったら、アルフレート・ブレンデルのような大御所からランランのような小僧っ子まで全員、即座に本番中止である。企画担当側の、プロ意識の欠如が原因、とされるだろう。事実、合唱練習用のオンボロ小型グランドピアノが、こともあろうに舞台上に、本番演奏用として持ち込まれたのだ。これは当時クラシック音楽界に蔓延していた、ジャズ・ミュージシャン達に対する一種の偏見を露呈している。普通にまともな仕事をする舞台係なら、もしこんなピアノが、例えばグリゴリー・ソコロフやマルタ・アルゲリッチのような大物のステージに持ち込まれるなんて情報が耳に入ったら、頭の中で警報機が鳴り響くことだろう。こういった惨状が好転するのは、ジャレットがクラシックの優れた演奏家であるとの評判が、徐々に世に広まってからである。 

 

ジャレットはソロインプロヴァイズの活動において、新たな問題を色々と抱えるようになり、再び文句垂れに忙しくなる。ソロでのフリー演奏という、予測不能で予防不能な公演を行うには、数々の困難が伴うだけに、高いレベルの集中力が必要だ。これと正面衝突するのが、聴衆の振る舞いである。彼らは通常ジャズのコンサートでは、もっとカジュアルな雰囲気を常としているのである。こういう聴衆が興味を示すのは、超有名ピアノ奏者としての佇まいを目の当たりにすることであり、しっかりと本番をこなすピアノ奏者としての、演奏の中身ではないのだ。本番中は完全な静寂を求めるというジャレットの思いは、歌姫がヒステリーを起こしているようなものだと、即断された。更には、1990年代に入ると、若い世代が人を苛立たせる行為として、何かといえば携帯電話を取り出して、目の前にあるものを片っ端から写真に撮っていくことが始まる。この間ジャレットは、必死になって、今までにない示唆に富んだ公演を経験してもらおうと、ステージでの演奏を展開していた。両者の思いの枝分かれにより、お互い相容れないという拒否反応の発生へと、事態は硬化してゆく。キース・ジャレットが演奏へ集中してほしいと求めるほど、聴衆はかえって拒否するようになり、舞台の縁を堺にして、双方がお互いに対して拒否反応を強大化してゆく。ジャレットの方は、演奏できないという意思表示として、小さく咳払いをする。聴衆の方は、時に察しつつ、絶対譲らない示威行為にウンザリしていた。舞台芸術というものは、それ自体に説得力がれば、いちいち演者が強く要求しなくても、聴衆は集中して楽しむものだ、という一般論が、ここでは物を言う。以下2つの例をご覧いただくと、演奏者と聴衆との対峙が、独り歩きしていった様子がうかがえる。 

 

まずは2006年11月3日、パリ・サル・プレイエルでの、キース・ジャレットのソロコンサートでの一幕。黒系の衣装で登場したそのミュージシャンは、万雷の拍手と、客席中からのカメラフラッシュで迎えられる。彼はピアノの席につくと、一呼吸置いて、演奏を始める。だが客席のフラッシュが止まらない。ジャレットは、この状況では演奏に集中できないとして、撮影を止めるよう、聴衆に丁寧にお願いをする。彼は演奏を再開する。ところがすぐにフラッシュが次々と光り始める。再度彼は演奏を中断し、立ち上がると、舞台かぶりつきまででて、「では、今撮影をどうぞ。その代わり、これで終わりにしてくださいね」と言う。携帯での撮影音が止む。ジャレットはピアノの方に戻ると、演奏を再開する。ところが一発目の音を鳴らした途端に、フラッシュがまた始まる。これには、彼は舞台袖へ姿を消す。聴衆のほうは、叫び声、手拍子、足踏みと、5分ほど続き、誰も落とし所がわからなくなる。キース・ジャレットがちゃんと戻ってくる。割れんばかりの拍手、そして公演を最初からやり直す。フラッシュが続くも、次第に光の数が減り、ついには完全に止む。場内は穏やかになり、ジャレットの演奏により公演は素晴らしものになる。様々な音のアイデアがほとばしる、ピアノと聴衆が一緒になって興奮に打ち震える、そんなコンサートは、ジャレットの演奏を明らかに喜び、何度もかかるアンコールの最後の1曲まで、楽しみ尽くされる。ジャレットは公演後、最高に上機嫌。この日の聴衆について質問されると、彼はただ肩をすくめて、こんなの良くある話ですよ、というのみ。 

 

 

 

 

場面は変わって、2007年10月21日、フランクフルト旧オペラ座キース・ジャレットにとっては15年ぶりの、ドイツでのソロコンサートである。3月に公演告知があり、それからわずか3日で2400席のチケットは完売。キース・ジャレットが登場。万雷の拍手、そしてひとしき終わると、完全な静寂。ここの聴衆は、演奏者が何を求めているか、理解しているのだ。誰も咳払いなどしようとしないばかりか、吐息の音さえ気まずい雰囲気。皆携帯電話をしまっている。お年寄りが一人、左のバルコニー席にいて、目眩が止まらないものの、介添人がなんとか助けて席にやっと着く。と思ったら、別の場所で誰かが咳を一つ、そして二つ目が続く。キース・ジャレットは困惑しているのが見て取れるほどで、聴衆に向かって語り始める。こんな状況で集中するのがいかに困難であるか、自分だって咳をしないようにしている、自重するのがそんなに大変なのか、などと話を続けた。彼は公演を中断すると、舞台裏へ引っ込み、再度登場、演奏するキッカケを探ると、オスティナートを弾き始めて、自ら安定走行へと持ち込む。休憩後、ジャレットは集中を高め、もはや自分の音風景には何者も邪魔を入れない、という決意満々。かくして、凡百の公演同様に、この素晴らしいが最高ではない公演は、無事収録された。これリリースするの?多分タイトルは「フランクフルト・コンサート」だよな?しっかり評判取れるのか?マンフレート・アイヒャーは迷う。彼はそれを見切らねばならない立場だ。例のパリの聴衆達が絡んだあの一件のほうが、CDにする甲斐があるようにも思える。 

 

 

 

 

この手の事例は枚挙にいとまがない。だがこの2つを見れば、彼と聴衆の双方の思いにずれが生じた際に、どういう事態になるかを、しっかりと示している。同時に、この2つの事例は、ジャレットが当時どのようなジレンマに陥っていたかを理解する手助けになる。パリっ子達の無神経な振る舞いに対して、ジャレットがとった「否」のリアクション、そしてフランクフルトでとった、学校の先生のような傲慢な態度、どちらも、彼の思いを理解したり、彼を弁護したりするのは、容易いことではない。とんでもなく間違ったことが、明らかにここでは起きている。穿った見方もある。ジャレットは実は、その日のアイデアが思いつかず、あるいは少なくとも、一度演奏し出したら上手く行かなかったので、聴衆が何か気まぐれでやらかさないか、些細なことでも噛み付いてやろうと、時間を稼いでいたのではないか、というものだ。 

 

演奏家がこのようにオーバーリアクションをするのは、心の深いところにあるものに突き動かされてのことである。その中には、社会的に、あるいは文化的に差別を受けている境遇を通して膨らんだものもある。コンサートを開くようなピアノ奏者なら、咳の一つや二つでガタガタ言うのはいかがかと思うが、これが演奏中シャッターを切られる、となるなら、我慢などする必要はない。ベートーヴェンピアノソナタの演奏中なら論外、とされているのは、今更いうまでもないだろう。これがジャズ・ミュージシャンとなると、演奏中写真を取られたといって、食って掛かろうものなら、ジャズの高尚さを触れ回っているとか、ジャズは俺の文化の一部だ、クラシックと同じように敬え、と思っているとか、そんな風に仕分けられてしまう。長年に亘りジャズ・ミュージシャン達が明確化してきたことは、自分たちの音楽は独立した芸術活動であり、独自の様々なルールに従って人々の耳に届くものだ、ということだ。そんな風に見ゆけば、ジャズはもっと聴衆の自発的な参加型のものになるだろう。例えば、インプロヴァイゼーションが終われば、その場で拍手するし、ベートーヴェンソナタの時のように、曲の終わりで、それも決まったマナーに則り拍手するなんてこともあり得ないだろう。そうなると、自分たちが演奏する音楽のことを「国境や民族を超えた人々のための音楽」だの、「地に足をつけた人々が踊る音楽」などと、辛うじて銘打つことも出来るだろうし、その「人々」が本番中踊りだしたとしても、そうそうは驚くこともないだろう、ということになってしまう。 

 

だが仮に、時々聴衆に向かって文句垂れをしているうちに、聴衆の方も期待しだしたり、ひどいのになると挑発したりするようになったとしても、演奏自体には何の影響もない些細なこと、のままである。もっと重要なのは、ジャレットが生涯通して戦い続けたもの:様々な音楽の「トレンド」とされるもの、その場限りの流行り、自らを学者ぶっている連中。ウィントン・マルサリスが好例。「音楽の伝導師様」であり、ジャズ・アット・リンカーンセンターを牛耳る芸術監督にして、長年に亘り自らを「貞節の象徴」と称さんばかりに、1960年代終わり頃からのジャズに対するあらゆる「外的影響」に、非難の言葉を浴びせ続けた人物だ。ウィントン・マルサリスの活動に見え隠れするこうした傾向に気づいていたのが、マイルス・デイヴィスであった。彼が自身の思いを呈した所によると、マルサリスは21歳の若さにして、既に伝統の持つ罠に足を取られてしまっており、もう二度とそこから自らを解き放てないだろう、とのことである(このことは随分あとになってから、キース・ジャレットも言い続けていた)。「本当のジャズ」といえば、スウィング、機能和声法、オフ・ビート、転調を伴うインプロヴァイゼーションがあってこそ、との彼の主義主張は、実際のジャズには、彼が言うような在り方をしてはいないのである。ずっと昔、1899年(デューク・エリントンが生まれた年)ユービー・ブレイクは12歳にしてラグタイムの作品を書き始めた。彼はショパンの楽曲をパラフレーズしたり、行進曲にシンコペーションをかけたりと、様々な音楽を取り入れた。時代は下がってマイルス・デイヴィスは、ジミ・ヘンドリックスカールハインツ・シュトックハウゼン、そしてジャコモ・プッチーニらの影響を受けた。そしてハービー・ハンコックも、ブルースの和声よりは電子音楽サウンドに興味を持っていた。たった100年のジャズの歴史は、程度の差はあるがジャズの要素と定義されるものと、定義不能なほどに数限りないサウンドの概念との間で、演奏がやり取りされてきた事例で満ち溢れているのだ。「純粋なジャズ」など、独断的な物言いをする連中が言い散らかした。ありえない話でしかないのだ。そしてそのことを、誰よりもよく理解していたのが、他でもないキース・ジャレットその人なのである。 

 

だが、ともすると「へそ曲がり」と揶揄されてしまうキース・ジャレットのキャラクターを生んでいるのは、ピアノの弾き方の伝統的なルールを、一つ一つ疑ってみるという、彼の演奏スタイルに他ならない。彼の音楽を聴くと、ピアノは「相方」という感じはあまりしない。するのは、ピアノは「立ち向かうべきもの」という感じである。この楽器は、手懐ける上で、自分が楽器を乗っ取るように一体化した上で、知略を絞り、トリックを仕掛け、傍から見れば踊っているかのような変わった手足の動かし方で、時には、というより頻繁に、力でねじ伏せるようにする。人呼んで「魔法の瞬間」と称する、彼の音楽の真骨頂は、全ての障壁が姿を消して、鍵盤と10本の指が一体となり、贅肉の取れたコンパクトな形の音楽が生まれてくる瞬間にある。彼の音楽を魅力的にし、同時に影響を与えているのは、サウンドにどっぷり浸かり、漆黒のピアノの中へとその身を潜り込ませ、そして忘れてはいけない、ピアノと対位法的に自らも声を張り上げることにより、体の動き全体で音楽を表現し、それが実際の音にも反映されていることによる。この「振り付け」とも言える有り様から、殆どの場合ありえないと目される演奏が、導き出されている。ジャレットのインプロヴァイゼーションを聞いていると、ピアノの鍵盤を叩いているのに、ビブラートがかかっているようなサウンドを、時々確認できる。四角四面のピアノのサウンドを打破しようとして、ペダル効果やレガート奏法を使うのは、ピアノ奏者達の常套手段だ。だがキース・ジャレットの場合、ストラディバリのバイオリンでも弾くかのように、鍵盤を指で震わせているのである。そして見ての通り、震える指により、無機質な音符は、解体し、色付けがなされ、体温を得て、すっかり生まれ変わるのである。 

 

ジャレットは世界のどこで舞台に立っても、無二の存在と評されるミュージシャンだ。彼が与える影響は、周りの同業者達へは勿論のこと、ジャズの世界全体に及んでいる。「ケルン・コンサート」を聴いた作家のヘンリー・ミラーは、いたく感動し、ジャレットにそれを伝えようと、今ではほとんど忘れ去られた「手紙」などというものを、しっかり言葉を選びぬいて書きしたためたほどだった。1981年6月2日のソロコンサートの際、指揮者のセルジュ・チェリビダッケは、この「魔法の瞬間」に魅了され、しばらく席を立てなかったほどだ。ジャレットのソロコンサートを満喫した聴衆達が全員、夏の夜のミュンヘンの街へと帰っていった後も、しばらく誰もいなくなったヘラクレスザールの客席に、一人残っていたという。ドイツ文学評論界のご意見番(であり音楽愛好家)のマルセル・ライヒラニツキ(好きな音楽はシューベルトのリート[歌と詩の融合]とワーグナーの楽劇)は、仲間の音楽評論家達から、キース・ジャレット「が演じるピアノによる一人芝居」について、あまりに生き生きとした話を聞かされていたものだから、2007年10月のフランクフルト旧オペラ座での公演を、わざわざ時間を作って見に行ったほどだ。総じて、ライヒラニツキは、ドビュッシーや、もしかしたらスクリャービンを彷彿とさせるパッセージの数々に熱狂したとはいえ、演奏会自体が、後々彼にとって、価値ある経験となった。 

 

 

ジャレットは演奏会の開催回数や曲数については、常にとやかく言わない態度をとっている。おかげで聞きに来る観客の方も、更に興味をかきたてられている。ところが近年、公開演奏は散発的になり、CDリリースも不定期なものになりつつある。2014年以降のリリース作品は、いずれも秀作ばかりである。彼の手掛ける、あらゆる形態とジャンルの演奏が、列挙されるがごとく見受けられる。「ハンブルク'72」(チャーリー・ヘイデンポール・モチアンとのトリオ)、「アフター・ザ・フォール」(スタンダーズトリオ)、「ラスト・ダンス」(チャーリー・ヘイデンとのデュオ)、ピアノ協奏曲集(ベラ・バルトークサミュエル・バーバー)、「平均律クラヴィーア曲集」(バッハ:ライブ音源)、「クリエイション」「ラ・フェニーチェ」「ミュンヘン2016」「ブダペスト・コンサート」(いずれもソロ)。実はこれらの多くは、収録がうんと以前のものなのだ。3つは既に、ECM社の倉庫棚で、ずっと日の目を見るのを、待ちに待っていたものだ。 

 

印象として、キース・ジャレットは以前にも増して、周囲とのバランスを多少犠牲にしてでも、ニュージャージー州の自宅にこもって、外界との接触を避けたがるようになってきた。青天の霹靂、2011年暮にポール・モチアン、そして2014年7月にチャーリー・ヘイデンが、相次いでこの世を去った。2人ともジャレットにとって、本当に長きに亘る仕事仲間であり、そして良き友人であったのに。ジャック・ディジョネットは自身のグループでのツアー活動に力をシフトし、ゲイリー・ピーコックは聴覚を患う。キース・ジャレットが、雑誌「ジャズワイズ」で活動終了を宣言したのがスタンダーズトリオである。素晴らしい成果を上げ、ジャズの歴史上最も長きに亘り、演奏を共にした3人組の一つであった。だが彼のものの言い方のせいで、キース・ジャレットが読者を驚かそうとして、バンドの活動終了の話を持ち出したかのような印象を与えてしまったのである。トリオの最後のコンサートが行われた。2014年11月30日、会場はニューアークにあるニュージャージー・パフォーミングアーツセンター。ほど近いところには、ジャレットが50年近く住まうオックスフォードの自宅がある。活動終了にまつわる状況から、将来トリオを再始動を期待させる空気感を残した。だがその期待は潰えた。ゲイリー・ピーコックが、2020年4月、ニューヨーク市のおィーヴィブリッジの自宅で、この世を去ってしまったのである。 

 

2015年、キース・ジャレットはヨーロッパと、本国ニューヨーク市で、7回のソロ公演を行った。そして次の年、更に8回の公演を行うツアーを敢行。その最後の公演が、あらゆる意味で後世にその名を残すこととなる、ミュンヘンで行われた。2016年7月16日のことである。2017年2月15日には別のソロコンサートが、カーネギーホールで行われ、この模様は「ダウンビート」誌で詳細が掲載されている。常に政治に関心を持っていたキース・ジャレットは、わかり易い「言葉」で、直近に行われたアメリカ大統領選挙について、自身の思いを表したと推測される。記事を書いたブライアン・ツィマーマンによると、キース・ジャレットは深く掘り下げた表現を展開したとし、次のように述べた「彼は幸せ者だ。聴衆に対し、自らの情熱をしっかりと、狙いすまして届けることができた。それは、時に明敏に、時に完全に卓越した、ピアノでのインプロヴァイゼーションだった。」 

 

公演の本編と2曲のアンコールが終わったところで、聴衆の一人が立ち上がると、こう叫んだ「We love you, dude!」(意:いいぞ兄弟!みんなあんたの大ファンだ!)これを聞いたジャレットは、マイクの方へ歩み寄ると「I love you, too」(意:僕もです、みなさん)と応え、ピアノの席につくと、ツィマーマン曰く「胸を刺すような読み聞かせ」で、「オータム・ノクターン」を演奏してコンサートを締めくくる。場内割れんばかりの熱狂的な拍手喝采が沸き起こった。感動していることが見るからにわかるジャレットは、再びマイクを手に取ると、こう言った「お客さんに感動して泣くなんて、初めてです」。何だか、会場の誰も知らなくて、彼だけが知っていることがあるような言い方である。つまり、これが彼にとって最後のライブ公演となることを(訳注2021年現在)。 

 

2018年の上半期は、キース・ジャレットに注目してきた者達にとっては、依然として、キャリアを展開してゆく上で「ノッてる」と言ってよかった。9月のビエンナーレ・ムジカ(ヴェニス)での金獅子賞授与の話が持ち上がった。ピエール・ブーレーズルチアーノ・ベリオ、ヴォルフガング・リーム、スティーヴ・ライヒといった錚々たる作曲家達が近年受賞している、この重要な音楽賞を、キース・ジャレットが受賞となれば、初のジャズ・ミュージシャンからの選出となる。しかも、まるでインプロヴァイゼーションを看板とするアーティストの研ぎ澄まされた直感を発揮したかのように、受賞者キース・ジャレットとレコード会社は、授賞式開催地ヴェニスのオペラハウスの名を冠したソロアルバム「ラ・フェニーチェ」をリリースしたのである。だが、授賞の辞「これまでの貴殿の人生をかけた業績に対し」に暗闇をかぶせるように、この授賞式に青天の霹靂がおこる。キース・ジャレットは金獅子賞授賞式に出席できなくなってしまったのである。他にも、同年3月の予定全てと、それ以降の同年の予定を全て、キャンセルしなくてはならなくなった。キース・ジャレットとその周辺は、ほぼ完全に静けさを保った状態に陥る。そして、この何もかもをぶち壊してしまった静けさの原因を知る者は、ごく親しい友人達と、家族だけだった。彼の前に壁が立ちはだかったわけだが、これ以前の、彼の生き様や芸術活動を形成し、場合によっては彼を守ることにさえなったこともあった、いかなる壁よりも深刻であった。今回の授賞式出席を辞退したのは、彼が意識的に発言した記録や、彼の意思、彼の精神のなかを探しても、その鍵となる言葉は見つからない。なぜなら、それは彼自身の体がそうさせたからである。それも完膚なきまでに。2018年、こういった事案に関しての適切な判断を元にして、彼の健康状態に関する憶測が、既に飛び交っていた。今回立ちはだかったこの壁は、ニュージャージーの片田舎から出現した才能の持ち主キース・ジャレットを、完全停止状態にしてしまった。絶対的信頼のおける才能の持ち主を、完全停止状態にしてしまったのだ。これからどうなってしまうのか、誰もわからない。だが、こんなにも長期間の「静けさ」が、未来への一筋の光では、到底ありえない。 

Keith Jarrett伝記(英語版)pp164-167

10.文句垂れ 

 

キース・ジャレットとは何者か。我々が目撃する最もクリエイティブなミュージシャンの一人、ソフトな口調で話す男(そもそも人前で話をすれば、のことだが)、高度な理解力に支えられた聴く耳を持つ人、大胆なピアノ奏者、時代の最先端を生きる用心深い人、市民社会に在って世情を把握している人、優れた伴奏をする器楽奏者、脇役に在っても主役に回ってもひときわ輝く演奏家、バッハからジョン・ケージ以降の音楽にまで全て詳しい人、ライナー・マリア・リルケとロバート・ブライをこよなく愛する人ニューヨーク・タイムズ紙の編集部へ堂々と投稿する人、アメリカの良心を信じる米国民、世界市民としての意識を持つ男、複雑さを十分含んだ上で旧世界たるヨーロッパに惹かれる人、不戦論者、女を愛し危ない橋を渡ることを厭わぬ男、人見知りで遠慮がちな人、見聞き・感知したことは決して忘れない人、急進論者、伝統を重んじる人、ロマン主義芸術支持者、声を荒らげぬ政治思想家、絶対/相対音感ともに完璧な男、地震波計のように将来の波を感知する人、旋律の職人、パーカッション奏者であり世界各地の打楽器に詳しくもある民俗学者のような人、夢遊病者、友情に厚い人(一旦ハマれば)、厳しい状況であるほど能力を発揮するジャズ・ミュージシャン、ぶっつけ本番の効くインプロヴァイザー、詩的霊感を常に求め自己解決能力に長けた天才、熟慮の上革新を図る人、その時々の時代感覚を持てる人(右派でも左派でも上澄みでもどん底でもなく)、インフルエンサー、歌をうたう人、自分を大事に守る人、無宗派ではあるが宗教的信心を持つ人、求道者、軽業師、「間」を好んで音の風景を創る人、自由な思想ができる人、スキーのできる人、日本通、父、兄弟、祖父、夫、所謂「専門家」と称する連中との舌戦にモーツァルトの援軍を願う音楽論者、リサーチをとことんし尽くす人、「お住いは?」と聞かれれば「北米東海岸と南仏です」と答える男、バッハの信奉者であり同時にバド・パウエルの精通者、万物に神が宿ると考える男、恍惚の男、官能主義者、作詞をする人、ワーカホリック、高潔な男、未知の世界を切り拓く人、現在故障中のアスリート、時代を先駆ける人、市民社会でキチンと教育を受けた人、考古学者、引きこもりのガクシャ(学者)、熱狂的信奉の対象となっている人、中肉中背、悪気はないのに人を傷つけてばかりいる紳士的な人、向学心を切らさない器用人、等々。 

 

だが生涯を通じ、キース・ジャレットのこうしたよく知られている側面の数々は、彼の習慣というか、むしろ強迫観念にかられてというべきか、基本的に物事を受け入れようとしない姿勢によるものだ。ジャレットと言えば、懐疑の権化である。それ故に、彼と共通点を持つ別の大芸術家を挙げよう。「否」が口癖で、自叙伝の書名にまでした男だ。ドイツの社会風刺画家ジョージ・グロスが、自身のこれまでを描く基本理念は、キース・ジャレットがもし自叙伝を書けば、ぴったりハマるだろう。それは「小さな『是』」、大きな『否』」、という。勿論こんなことをジャレットが聞けば、即座に反論し、こう説明するだろう。自分の場合は、「小さな『否』、大きな『是』」、が正確なところだと。キース・ジャレットに対するインタビューを読み解いてゆくと、どんな話題であっても、何を振られても、彼のリアクションには、その場を和やかに進めようなどと思っていないことが(明言しようがしまいが)、容易に感じ取れる。ジャレットの音楽家としての実績も含めて、彼の性格を一言でビシッと決めるなら、「文句垂れ」だろう。彼はいつも、自分の立ち位置を、相手と対峙する所に置く。彼は常に異論を唱え、心持ちは懐疑的で、他者の発言や行為、あるいは主義主張に対しては、全てに疑問を呈する。彼は「拒否権」が服を着て歩いているようなものだ。当然、客観的に見れば彼は間違ってはいない。だが実際賢明で、故に「正しい」としても、仮に本格的な論争の場か何かであっても、そんなに四六時中喧嘩を売るような態度を取るとなると、それは全然別の話になってくる。 

 

だがもしキース・ジャレットイエスマンになってしまったら、彼の音楽はガラリと変わり、今ほどの魅力もなくなることだろう。自身の演奏が些細なことで邪魔されると、「自分が未熟なんだかしょうがない」など、これっぽっちも思わないのが常であることは、誰もがすぐにわかるだろう。だが仮に「自分が未熟なんだから…」と、明らかに我慢しているように見えるこの態度(理屈の上では違うのだが)の裏にあるのは、誰もがその存在を思うであろう「否」だ。「否」の矛先は、独善的なアヴァンギャルドの者達が、美・哀愁・そしてロマンティックでセンチメンタルな音楽表現を全面的に軽視するその態度に、向けられている。 

 

ジャレットが、音楽活動上初めて「否」と言ったのは、1961年のスタン・ケントンによるサマーキャンプ(夏の音楽講習会)でのことと考えられる。彼は、自身の作品「カーボン・デポジット」を売ってくれという申し出を断ったのだ。もし売っておけば資金が入ったわけだし、若干16歳の作品が腕利きのバンドディレクターの手にかかれば、何かしらの注目を集めただろうし、場合によってはジャレットのキャリアに拍車がかかったはずだった。明らかに、ジャレットの音楽人生においては、金銭的な話は重要ではない、ということだ。 

 

もっと言えば、前記の例にもあるように、彼の場合、他人に認められたいと思う気持ちよりも、厳しい自己評価をクリアしたいという気持ちのほうが、常に強かったのだ。この後すぐ、奨学金をしっかりと得てバークリー音楽大学(現)へ進学するも、創造性を全開発揮して広く物事を吸収しようとする学生ジャレットと、ビックリするほど狭く物事を排除しようとする方針を掲げる学校側とが、正面衝突することになる。 

 

彼が嫌悪感をためらわず口にするも、それでも即座に言うことはしなかった「否」が、一つある。それは彼がマイルス・デイヴィスのバンドに参加していたときのことだ。当時デイヴィスは、もう以前には引き返さない方針で、電子音楽の道をひた走っていた。彼は新入りのピアノ奏者ジャレットに、電子オルガンと電子ピアノの席を担当させたのである。ジャレットは1年半でこの席を立った。その原因の大半は、ジャレットが電子鍵盤楽器に対して、拒否反応が日に日に増していったからである。事実、彼はこれ以降こういった楽器に全く興味を示さず、自らの音楽活動にこれらを取り入れることもなかった。 

 

 

次の事例は、1つ目より深刻な問題である。というのも、その矛先が、他人ではなく、自分自身に向けられたものだからだ。彼は、その頃までの自身のインプロヴァイゼーション全体に関する概念を、目の前の素材を自発的に変奏してゆくとか、あるいは、「ヘッドアレンジメント」(譜面を起こさず口頭で編曲する方法)である、と定義していたが、これに矛先を向けたのである。ブレーメンローザンヌでの公演を収めた「ソロ・コンサーツ」により、「フリー演奏」が世に示されていた。ここでのインプロヴァイゼーションは、楽器は用意するが、素材は用意せず、大枠も用意せずに、自由なソロのピアノ演奏により、本番中その場のインスピレーションから、音楽を次々と展開してゆくという方法だった。 

 

インプロヴァイゼーションにおける革命的なことではあったが、これには様々な問題が伴っており、それはジャズ・ミュージシャンとみなされているソロ演奏家が、既に抱えていた数々の困難試練を、更に深刻化させることになった。それをジャレットが初めてハッキリと思い知ったのは1975年とされている。ケルン歌劇場での公演で、彼にあてがわれたピアノ。もしこれがクラシックの演奏家だったら、アルフレート・ブレンデルのような大御所からランランのような小僧っ子まで全員、即座に本番中止である。企画担当側の、プロ意識の欠如が原因、とされるだろう。事実、合唱練習用のオンボロ小型グランドピアノが、こともあろうに舞台上に、本番演奏用として持ち込まれたのだ。これは当時クラシック音楽界に蔓延していた、ジャズ・ミュージシャン達に対する一種の偏見を露呈している。普通にまともな仕事をする舞台係なら、もしこんなピアノが、例えばグリゴリー・ソコロフやマルタ・アルゲリッチのような大物のステージに持ち込まれるなんて情報が耳に入ったら、頭の中で警報機が鳴り響くことだろう。こういった惨状が好転するのは、ジャレットがクラシックの優れた演奏家であるとの評判が、徐々に世に広まってからである。 

 

ジャレットはソロインプロヴァイズの活動において、新たな問題を色々と抱えるようになり、再び文句垂れに忙しくなる。ソロでのフリー演奏という、予測不能で予防不能な公演を行うには、数々の困難が伴うだけに、高いレベルの集中力が必要だ。これと正面衝突するのが、聴衆の振る舞いである。彼らは通常ジャズのコンサートでは、もっとカジュアルな雰囲気を常としているのである。こういう聴衆が興味を示すのは、超有名ピアノ奏者としての佇まいを目の当たりにすることであり、しっかりと本番をこなすピアノ奏者としての、演奏の中身ではないのだ。本番中は完全な静寂を求めるというジャレットの思いは、歌姫がヒステリーを起こしているようなものだと、即断された。更には、1990年代に入ると、若い世代が人を苛立たせる行為として、何かといえば携帯電話を取り出して、目の前にあるものを片っ端から写真に撮っていくことが始まる。この間ジャレットは、必死になって、今までにない示唆に富んだ公演を経験してもらおうと、ステージでの演奏を展開していた。両者の思いの枝分かれにより、お互い相容れないという拒否反応の発生へと、事態は硬化してゆく。キース・ジャレットが演奏へ集中してほしいと求めるほど、聴衆はかえって拒否するようになり、舞台の縁を堺にして、双方がお互いに対して拒否反応を強大化してゆく。ジャレットの方は、演奏できないという意思表示として、小さく咳払いをする。聴衆の方は、時に察しつつ、絶対譲らない示威行為にウンザリしていた。舞台芸術というものは、それ自体に説得力がれば、いちいち演者が強く要求しなくても、聴衆は集中して楽しむものだ、という一般論が、ここでは物を言う。以下2つの例をご覧いただくと、演奏者と聴衆との対峙が、独り歩きしていった様子がうかがえる。 

 

まずは2006年11月3日、パリ・サル・プレイエルでの、キース・ジャレットのソロコンサートでの一幕。黒系の衣装で登場したそのミュージシャンは、万雷の拍手と、客席中からのカメラフラッシュで迎えられる。彼はピアノの席につくと、一呼吸置いて、演奏を始める。だが客席のフラッシュが止まらない。ジャレットは、この状況では演奏に集中できないとして、撮影を止めるよう、聴衆に丁寧にお願いをする。彼は演奏を再開する。ところがすぐにフラッシュが次々と光り始める。再度彼は演奏を中断し、立ち上がると、舞台かぶりつきまででて、「では、今撮影をどうぞ。その代わり、これで終わりにしてくださいね」と言う。携帯での撮影音が止む。ジャレットはピアノの方に戻ると、演奏を再開する。ところが一発目の音を鳴らした途端に、フラッシュがまた始まる。これには、彼は舞台袖へ姿を消す。聴衆のほうは、叫び声、手拍子、足踏みと、5分ほど続き、誰も落とし所がわからなくなる。キース・ジャレットがちゃんと戻ってくる。割れんばかりの拍手、そして公演を最初からやり直す。フラッシュが続くも、次第に光の数が減り、ついには完全に止む。場内は穏やかになり、ジャレットの演奏により公演は素晴らしものになる。様々な音のアイデアがほとばしる、ピアノと聴衆が一緒になって興奮に打ち震える、そんなコンサートは、ジャレットの演奏を明らかに喜び、何度もかかるアンコールの最後の1曲まで、楽しみ尽くされる。ジャレットは公演後、最高に上機嫌。この日の聴衆について質問されると、彼はただ肩をすくめて、こんなの良くある話ですよ、というのみ。 

 

 

 

 

場面は変わって、2007年10月21日、フランクフルト旧オペラ座キース・ジャレットにとっては15年ぶりの、ドイツでのソロコンサートである。3月に公演告知があり、それからわずか3日で2400席のチケットは完売。キース・ジャレットが登場。万雷の拍手、そしてひとしき終わると、完全な静寂。ここの聴衆は、演奏者が何を求めているか、理解しているのだ。誰も咳払いなどしようとしないばかりか、吐息の音さえ気まずい雰囲気。皆携帯電話をしまっている。お年寄りが一人、左のバルコニー席にいて、目眩が止まらないものの、介添人がなんとか助けて席にやっと着く。と思ったら、別の場所で誰かが咳を一つ、そして二つ目が続く。キース・ジャレットは困惑しているのが見て取れるほどで、聴衆に向かって語り始める。こんな状況で集中するのがいかに困難であるか、自分だって咳をしないようにしている、自重するのがそんなに大変なのか、などと話を続けた。彼は公演を中断すると、舞台裏へ引っ込み、再度登場、演奏するキッカケを探ると、オスティナートを弾き始めて、自ら安定走行へと持ち込む。休憩後、ジャレットは集中を高め、もはや自分の音風景には何者も邪魔を入れない、という決意満々。かくして、凡百の公演同様に、この素晴らしいが最高ではない公演は、無事収録された。これリリースするの?多分タイトルは「フランクフルト・コンサート」だよな?しっかり評判取れるのか?マンフレート・アイヒャーは迷う。彼はそれを見切らねばならない立場だ。例のパリの聴衆達が絡んだあの一件のほうが、CDにする甲斐があるようにも思える。 

 

 

 

 

この手の事例は枚挙にいとまがない。だがこの2つを見れば、彼と聴衆の双方の思いにずれが生じた際に、どういう事態になるかを、しっかりと示している。同時に、この2つの事例は、ジャレットが当時どのようなジレンマに陥っていたかを理解する手助けになる。パリっ子達の無神経な振る舞いに対して、ジャレットがとった「否」のリアクション、そしてフランクフルトでとった、学校の先生のような傲慢な態度、どちらも、彼の思いを理解したり、彼を弁護したりするのは、容易いことではない。とんでもなく間違ったことが、明らかにここでは起きている。穿った見方もある。ジャレットは実は、その日のアイデアが思いつかず、あるいは少なくとも、一度演奏し出したら上手く行かなかったので、聴衆が何か気まぐれでやらかさないか、些細なことでも噛み付いてやろうと、時間を稼いでいたのではないか、というものだ。 

Keith Jarrett伝記(英語版)pp159-163(最後)

彼の作品に対しては、様々意見は分かれていたものの、4年間という短い間に、キース・ジャレットはジャズ以外の分野でも、創作力のあるところで名前を上げていた。誰も疑う余地のないことだが、ジャズの分野での評判が、ジャレットのクラシック分野での活動に注目を集める後押しをしていた。彼の作品群は、非常に多彩な顔ぶれであるものの、クラシック音楽の全てを一気に駆け抜けて網羅するような、魔法の靴をはいているという印象は。まるで受けない。彼はずっと、様々な数多くの種類のソロ楽器に高度な技術を要求する「協奏曲」、そしてジャズもクラシックも両方の演奏者を想定した「室内楽」、これらの作曲に絞っていた。手つかずの分野も見受けられる。声楽曲、舞台用音楽、勿論電子音楽から、様々な民族音楽を、複数コラボさせるような企画が、それだ。ジャレットの作曲したものは、ジャズを演奏する中で関わったことと、300年にもわたるヨーロッパの音楽やその影響を受けたアメリカ音楽に関する知識から生まれでている。ジャレットは決して、新奇さを装わない、流行を追いかけない、そして「最先端である」ことをしなかった。全ては、彼の性格の持つ側面であり、自我が健全であることの結果である。いかなる時でも、キース・ジャレットキース・ジャレットを保っているのだ。 

 

 

おそらくこうした理由から、ピアノのための「Ritual」(ジャレットのリクエストにより、指揮者でピアノ奏者のデニス・ラッセル・デイヴィスが録音時には演奏)は、彼の作品では最も奇怪な印象を与えるのだろう。この作品は、基本的には、譜面に起こしたインプロヴァイゼーションそのものである。そこには、ジャレットが一人で演奏する時の特徴に見られる傾向:タワーコード、異常なまでにずば抜けた技が鍵盤の隅々まで駆け巡り、心を奪うような繰り返しのフレーズ、一点集中した瞑想的な演奏、モチーフを展開するための変奏の技術、急激なハーモニーの変化、そして幅の広い音量変化、これらが全て見られる。デニス・ラッセル・デイヴィスは、彼の音楽を存分に表現し、楽譜にも忠実なのだが、それでもなお、何かがしっくりこない。録音が不完全に思えるのだ。もし能力申し分なしのピアノ奏者が、「ケルン・コンサート」での演奏を、譜面に書き起こしたものだけを頼りにやろうとするなら、きっとこんな感じになるのでは?という演奏なのかもしれない。ジャレットを知る者ならこの音楽の中に彼というものが聞こえてくるだろうし、この曲を書けたのはジャレットだけだろう、とのデニス・ラッセル・デイヴィスの発言は、正鵠を射ている。しかし、正にだからこそ、この作品は、ジャレット以外のピアノ奏者が弾くと「受け売り」に聞こえてしまうのだ。公式伝記筆者のイアン・カーは「ジャレット本人が不在ゆえ、アルバム「Ritual」は、彼が副業的に作った作品に堕してしまっている」、このように手短にコメントする。 

 

1970年代中盤になると、キース・ジャレットの、譜面に書いた作品も、インプロヴァイゼーションも、ともにクラシック音楽の分野では非常に高い評価を得るようになった(それもアメリカ本土とヨーロッパという、大西洋の両側で)。1976年に、ドイツ・グラモフォンの委嘱により、ボストン交響楽団と首席指揮者・小澤征爾と、3者のコラボレーションによる、ピアノ協奏曲を作曲することになるのだが、「非常に高い評価を得た」現れか。はたまた、「ケルン・コンサート」で神がかった存在となったジャレットを釣る餌として、アメリカ最高峰のオケと、名門レコードレーベルが使われたのか?この委嘱以前に、ジャレットが、所謂「クラシック音楽」で書いた比較的規模の大きな作品と言えば、「ルミニッセンス」と「ブルーモーメント」(アーバー・ゼナ)だけ。しかも後者は委嘱当時は、ほとんど世に知られていなかった。一連の公演活動でも、バッハからショスタコーヴィチ、そしてサミュエル・バーバーからアラン・ホヴァネスといったピアノ作品の演奏が始まったのは、ずっと後の1983年からである。推測はこのくらいにするが、いずれにせよ、ジャレットが演奏時間40分にも及ぶ大作「セレスチャル・ホーク」(題意:天空の鷹)を書き終えた後、ピアノパートが完全にヨーロッパの伝統的手法により記譜されたものであり、インプロヴァイゼーション的なパッセージは全く無いことが判明すると、小澤とオケは、出資から手を引いてしまった。天才インプロヴァイザーによる、期待度満点で、ビジネスの面でも成功間違いなしと目論まれた公開イベントなのに、きっちり楽譜に書かれたものを忠実に演奏しても、しょうがない、というわけだ。 

 

これが後に、文字通り「元が取れた」のは、マンフレート・アイヒャーとの良好な関係のおかげである。この企画はアイヒャーが自分のレーベルで引き受けることとなり、ジャレットのマネージメント側も、この作品のアメリカ国内公演を幾つか企画し、レコーディングについては、1980年3月のニューヨーク・カーネギーホールで行われた公演:クリストファー・キーン指揮のシラキュース交響楽団との共演が収録され、ほどなくECMからリリースされた。全ての公演と、LPレコード「セレスチャル・ホーク」のリリースの後、評価は好意的なものから酷評まで、多岐にわたった。その多くが突いてきたのが、マーラーバルトークの影響があまりに見え隠れしすぎる、というパッセージの数々に対してである。この作品は、形式の面で見れば、交響曲とピアノ協奏曲の間を行ったり来たりするような曲であり、ジャレットにとっては最初の本格的な、まとまった規模の管弦楽作品である。そして、そういった点からも、立派な曲であるとの印象を受ける。中でも、形式面での見事な出来栄え、各楽器の役割分担、音階の熟達した使いこなしは、特筆に値する。もし別の作曲家の影響云々をほじくり返すというなら、ブラームスだって、バッパの対位法を悪用したと批判すべきだろうし、フーゴ・ヴォルフあたりの「新ドイツ楽派」だって、既にやらかしていることである。 

 

この3楽章からなる大作には、ジャレットの作品によく見受けられる、示唆に富んだ部分が数多くある。例えば、最初の部分では、演奏開始数分後、ピアノがオスティナートを始める。そこへ管楽器群が別のモチーフをふんだんに吹きはじめ、更に弦楽器群が加わる。これを聞くと思い浮かぶのが、だんだん数が増えてゆく人間の行列である。管・弦楽器により盛り上がるパッセージに打楽器が加わり、騒然とした喧騒の全合奏によるクライマックスを迎える。別の場面では、戦いの行進と、のどかの田園風景とを行ったり来たりする。第3楽章では、各楽器群が全方向から躍り出て、金管楽器群の巨大なサウンドが、独奏ピアノを伴奏へと追いやってしまう。これはチャールズ・アイヴズのおちゃらけだと、すぐに分かる。アイヴスの音楽といえば、故郷ニュー・イングランドの小さな町同士で、そこの朴訥とした市民達のマーチングバンドが、お互い自分の演奏を誇示しようとガンガン吹きまくった、往時の様子を偲ばせる。アイヴスという作曲家は、アヴァンギャルドのポリトーナル(複数の調性を同時に使用する手法)のやり方に、特段固執したわけではない。単に、「朴訥とした市民達のマーチングバンド」が、衝突しあって、自分達の持ち歌を、それぞれの調性で演奏するのだから、ポリトーナルになるのは、当然のことだ。 

 

キース・ジャレットは、たった一度だけ、自身のクラシック作品についてライナーノーツにコメントを記している。「イン・ザ・ライト」のレコードカバーである。自分の作品は心を開いて聴いてほしい、その時、ジャレット自身の作品を含め、他の作品との比較は、曲を聴く間は脇においてほしい、としている。今読むと、甘い考えのように見えるが、当時はそうでもなかった。これらリスナーへのメッセージは、懸命な洞察力の産物である。だがこのメッセージを以てして、ジャレットのクラシック音楽に対する熱い思いへの痛烈な審判を、食い止めることはできなかった。同じような論評が幾つか見られた(例えばウルリッヒ・オルスハウゼンの「ブルーモーメント」(アーバー・ゼナ)に関するもの)「どう見ても、この曲は他のジャレットの作品と比べると、独自性がない。シンフォニックな響きを淡白な色で彩り、しかもそれはマーラーやアイヴスや初期のシェーンベルクの影響に板挟みにあっているし、弦楽器群の使いみちは、和声とトレモロによる飾り付けで、曲の展開にはほとんど関わっていない有様だ。おかげでせっかくの弦楽器群は、音が出るお飾りのままで、ふんぞり返ったサウンドがする。現代音楽っぽくしようと不協和音をいくつか使っているが、役に立たたないばかりか、かえって、これまで音楽市場に出回った、洗練されていないカネの匂いだけがする駄作の数々と、どこか結びつくものを感じてしまう。ところが、チャーリー・ヘイデン(ベース)、ヤン・ガルバレク(サックス)そしてジャレットが、インプロヴァイゼーションを展開する中での素材の扱い方は、やはり素晴らしい輝きを放っている。」 

 

似たような論評が、ダウン・ビート誌に寄稿したあるジャーナリストによって書かれている。この曲は単調で同じことの繰り返しだとして「新鮮味や、快活さといったものを、「レミニセンス」から見出すとすると、もはや悪い方向に自己風刺的である」。アメリカの批評家達は、この曲を徹底的に分析し、その単調さやらメロディの独自性の無さについて、彼の作曲手法を攻撃する傾向にあった。一方、ヨーロッパのジャーナリスト達は、作品全体のサウンドの持ってゆき方について、数多くの疑問を呈した。ジャレットの曲作りを「不正確」だと批判したのは、使用された素材や形式は、ヨレヨレの陳腐なものだからだ、というのである。こういった判断が同じ様に下された作品が「ブリッジ・オブ・ライト」である。1980年代に書かれた室内楽作品の数々を収めたものだ。ここではジャレットの作曲のペンは、バイオリン、ビオラオーボエの実用的な演奏技術に対する、驚くべき熟知を披露するも、楽曲のスタイルとなると、20世紀以前の大昔のままだと、評価がガタ落ちになる。バイオリンと管弦楽のためのエレジー(哀歌)を例に取ると、ブラームスの作ったハンガリー風のメロディが原曲になっていて、それをアレンジしたものだ、と間違えそうになるというのだ。痛烈なものの言い方だが、人によっては、こんな曲は、音大生の卒業作品以外の何物でもない、と肘鉄を食らわすかもしれない。 

 

これらの作品に批判的なコメントを寄せるのは簡単だ。なにしろ同じくらい、これらの作品をきちんと判断するのは難しいからだ。ジャレットのクラシック作品の構造を吟味した結果として、八方美人の怪物だの、起承転結がないだの、駄目だと分かっている「ジャズの第3の流れ」をわざわざ復活させているだの、とっくの昔に滅んだ素材を引っ張り出すような世間知らずな曲だの、仮にそれが本当だとしても、ジャレットの作品群には、自身の芸術活動に対する気概が光っている。流行に遅れていると言われても気にしない、大昔の人間と揶揄されても気にしない、他人が作った物の考え方や一時の流行には左右されない、何処に答があるか分からないとしても、色々試してみたり、知識を得ようと調べ物をしたり、経験を積んでは音楽の真実とは何かを追求したりする。そういった努力の果に、ジャレットの作品は、一つのモチーフから次のモチーフへと繋がりがりよく進み、たった一つの音の風景がまとまった時間の演奏に耐えることができ、そういうものが全体として机上の理論によらない形式を持つ一つのまとまりになる。これは元をたどれば、「その場の思いつき」や「自動作曲」(意識せず勝手に動くペンで記譜する)の産物であり、これがクラシック音楽の分野に持ち込まれたというわけである。誰かのマネをするのではなく、彼は人知を超えた能力を求め、そして音楽に「無の境地」を敢えて持ち込む。キース・ジャレットの見事なまでにひらめきに基づく作品は、例えて言うなら、税関職員で画家でもあったアンリ・ルソーを彷彿とさせる。譜面ヅラは簡単だが、しっかり読み切って音にするのは難しい。 

 

だがジャズの作曲家としてはどうであろうか。独学でクラシック音楽の作曲家となった彼と比べると、別の顔を持っているだろうか?分けて考えるのは難しいだろう。それは、彼のヨーロッパでの活動とアメリカでの活動を分けて考えるのが難しいのと、同じである。自身の作った曲は変奏曲形式や、別の曲の姿を変える手法をとり、本番のたびに曲の頭から異なる方法で演奏されることが常であることから、「インプロヴァイザー」と「作曲家」の線引すら難しい。そう考えると、ジャズの作曲家としてのジャレットは、ネタが満載だ。多芸で先入観がないところは、クラシック音楽を扱うときと同じである。音楽ファンや業界全体が、ジャレットのインプロヴァイゼーションと楽譜に起こした作品を、1つの音楽として見ていることが、彼のインプロヴァイゼーションの一部分を(例えば「ケルン・コンサート」の「パート2」の抜粋等)自分のレパートリーにしている様々なミュージシャンがいることからも、見て取れる。例えばジャズギター奏者のウルフ・ワキニウスがその一人。更にはキューバのギター奏者マヌエル・バルエコなどは、普段はクラシック音楽や現代音楽を手掛けている演奏家だ。別の例として挙げられるのが、シンプルさが魅力のバラード「マイ・ソング」だ。穏やかな繰り返しの音形は、変化のある和声によって彩られている。この作品に触発されたのが、作曲家のスティーヴ・ライヒ。同じくクラリネット奏者のリチャード・ストルツマンは、この曲を実に人間味あふれるデュエットにアレンジし、歌手のジュディ・コリンズと演奏している。 

 

 

キース・ジャレットは、自身が演奏家として計り知れない腕の持ち主であるにも関わらず、自らが作曲をするときには、そのことを抑制していた。これも彼の優れた能力の一つである。そうやって、「My Wild Irish Rose」「Lucky Southern」「マイ・ソング」といった数々の作品は、彼の考え、思い、魂、そして腹から、指先へと流れ出て、一般大衆の愛唱歌のように仕上がったのである。ジャレットはメロディの一貫性を大切にした。そのセンスは不動のものであり、ジャズの世界では、その美的感覚には率直さが求められることから、モチーフや楽曲全体に無駄がないことは、軽んじられることは滅多にない。ジャズ・ミュージシャンなら誰でも心得ていることだが、大事なのは、楽曲そのものではなく、それをどう扱うかである。 

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.154-159

11.音楽のすべてを兼ね備えたアーティスト 

 

いつの時代も「作曲」(予め楽譜を用意すること)と、「インプロヴァイゼーション」(前後の流れを鑑みその場で作り発する)とは、ジャズの世界では微妙なバランス関係にある。それが特に顕著になったのが、1960年代のフリージャズ以降だ。音楽の構造や作曲上の展開について、従来のキチンとしたルールの多くを、排除してしまったのである。時同じくして、1960年代から見受けられるようになったのは、これまでより多くの演奏家が、演奏素材として、今までのようにジャズの各時代から定番ネタとされていたものを引っ張り出すよりも、自分で作ったものを使うようになってきた。だがキース・ジャレットの場合、これとは状況が若干異なることがよくあった。自作を出すのが流行りの時代に、彼はまず、「グレートアメリカンソングブック」への新たな興味関心をハッキリと打ち出した。次に、彼の「フリープレイ」という、予め作らず、他をアレンジせず、どんな時も予めあつらえた素材など無用な取り組みの、極端な側面を強調した。2人の日本人ミュージシャン達が、相当にのめり込んで、「ケルン・コンサート」という自由にインプロヴァイされた演奏を、譜面を起こしてこれを出版した。キース・ジャレット本人にしてみれば、ベートーヴェンピアノソナタをほぐし切って、インプロヴァイゼーションにするのと同じくらい馬鹿げている、と思っただろう。そういう理由もあって、彼は、同譜の初版ト書きに、本作はインプロヴァイゼーションの複製品として印刷されているにすぎない、それは絵画を雑誌や新聞に掲載するのに印刷するのと同じだ、と記したのだ。スコアには、演奏の表面的なことは見て取れるようにしてあるものの、その深い部分は、明らかにならないままである。だが勿論、「グレートアメリカンソングブック」のネタをインプロヴァイズする者であると同時に、クラシック音楽のピアノ奏者としても活躍し、そして自由奔放なソロのピアノ奏者としての側面も持つジャレットとしては、曲作りをやってのける者としては3つの顔を持つ。まずジャズの作品を書くこと。次に「クラシック音楽」を書くこと。最後にジャズの歌い方もクラシックの骨組みも一緒くたの、イメージ上だけの楽譜を描いてみせること。この3つだ。 

 

クラシック音楽」の作曲家としてのジャレットは、彼自身も認めているが、1970年代初頭という、彼のクラシック作品の大半が生まれた頃の、ツキに恵まれた条件の数々が揃った時期がなければ、作品はすべて、楽譜棚の肥やしになって終わっていただろう。一つには、マンフレート・アイヒャーが、商売っ気なしに、ジャレットの作るものは何でも世に送り出す体制を作っていたこと。もう一つは、ジャレットの本国でのレーベルが先の見通しの甘さのせいで、危機にされされていたことである。本国側の担当者達は、クラシック音楽に取り組む彼の意見を述べる場を提供しなければ、彼らが本命とした、恍惚のジャスミュージシャンとしての彼を引き止めることは不可能なんだということを、全く分かっていなかった。キース・ジャレットは理想的な出版者としてのマンフレート・アイヒャーを見つけた。そしてここに及んで、耳で聞こえる形でも、目で見て見える形でも、彼が自分の音楽的才能として公にしていた、最後の、そしてここまで見過ごされてきたものが加わり、「音楽のすべてを兼ね備えた人間」という、自ら選んだ自分のアイデンティティを、世に立証してみせたのである。 

 

キース・ジャレットの「クラシック音楽の」作曲家としてのキャリアが始まったのは「イン・ザ・ライト」。1973年リリースのアルバムだが、その前6年分の楽曲も収録されている。初期の着想は、キース・ジャレットがチャールス・ロイド時代の頃に遡ると思われる。ここでジャレットが披露する幅広い楽曲の華やかさは、驚嘆すべきものがある。まずは「メタモルフォーゼス」(変容)。独奏フルートと弦楽合奏のための作品で、時々聞こえるサウンドは、まるで彼が新たに編み出したフリーインプロヴァイズの手法を、作曲に活かそうとしているかのようである。ここではジャズの歌い方は影を潜めているが、曲の構造に関するコンパクトなセンス、メロディラインの描き方、ずっと展開し続けるモチーフが、終わる気配もなく、しかもキチンと連想的に結びついた並べ方をしているところなどは、作曲者が誰なのか、すぐに分かる「彼の痕跡」だ。彼はこの書き方を「オートマティスム」(自動書記)という言葉で言い表した。シュールレアリスムの手法から取り入れられたもので、彼の作曲スタイルを説明するものだ。一種の夢遊病者が楽曲を作るような体験みたいなもので、よもや、題材を意識してそこから離れない、などということは一切しない。これがキチンとできれば、ジャレットのインプロヴァイゼーションのやり方にとって重要な特徴となるのだろうが、当然のことながら、これを大人数の合奏体のための曲を作る時に持ち出すとなると、目的を達成するのは、難しくなる。そうなると、作曲の際に意識が半分しか働いていないだとか、素人が自力でやるような楽譜の書き方といったものは、フルート奏者のウィリー・フライフォーゲルやシュトゥットガルトの南ドイツ放送管弦楽団(現・シュトゥットガルト放送管弦楽団)の弦楽セクション(指揮:ムラデン・グテシャ)の演奏に実際に見て取ることができることが、ひときわハッキリしてくる。 

 

異教徒の賛歌」では、ジャレット自身も演奏に加わり、彼流の、「作曲」と「インプロヴァイゼーション」との橋渡しのやり方を示す、よい例となっている。ここでは彼が一人でインプロヴァイゼーションする時の演奏と似ている点が、数多く見受けられる。何処かを切り取って、彼の「フリーインプロヴァイズ」の演奏録音に入れ込んだら、きっとわからないくらいだろう。同じことが言えるのが、「イン・ザ・ケイヴ、イン・ザ・ライト」。ピアノ、打楽器(以上両方ともキース・ジャレットが演奏)、弦楽合奏のための作品だ。だかここで少し違うのが、この作品に出てくる長いパッセージの数々である。一人のジャズミュージシャンが、クラッシック音楽の弦楽合奏エスコートされて、そのインプロヴァイゼーションが次々と溢れ出てくるようである。ジャレットは、音色の混ぜ方とオーケストレーションにおいて、見事な手腕で調和の妙を見せつけた。4本のチェロと2本のトロンボーンを用いて、トロンボーンのスライドを使う音の効果を生かした、彫りの深いメランコリックなサウンドを生み出している。はたまた「金管五重奏曲」では、旋律的な各声部についてはクッキリと独立するよう書いている。そうなれば自ずと、ドラマチックな圧の強さになってくる。そして曲の締めくくりは、芸術的な作り込みが素晴らしいホモフォニックな響きで、ホッとさせてくれる。 

 

【画像脚注】 

キース・ジャレット作曲 「フルートと弦楽合奏のためのメタモルフォーゼス(変容)」 作曲者による直筆譜。左ページ:冒頭部分  右ページ:練習番号289~304(画像提供:ECMレコード) 

 

だがこのアルバムでもっとも驚くべき作品は、「弦楽四重奏曲」である。ここではジャレットは、抑え気味の曲の展開、そして主題の組み立て方という部分において、熟練の手腕を聴かせてくれる。彼がハイドンの極めつけである、通称「ロシア四重奏曲」を、しっかりと研究し尽くした成果である。幼い頃、ジャレットはピアノだけでなく、バイオリンのレッスンを受けていた時期が数年あった。後に自分の作品に、適切な弦楽部を書くことができるようになったのは、このためでもあると考えられる。グッゲンハイム財団による助成金を得て作曲された、この「イン・ザ・ライト」を、ジャレットは「ユニバーサル・フォーク・ミュージック 

(民族・国境を越えて庶民に根付く音楽)」と呼んでいる。このことは、「ジャズ」という曖昧な形式のお題目に対して、その汚名や限界といったものに対する、人々の一般的な嫌悪感があることを、世に明らかにしている。だがこの新しい用語「ユニバーサルフォークソング」も、仮に「ジャズ」という言葉が、この音楽の持つ形式面での多様性を反映しきれないとしても、では「イン・ザ・ライト」の音楽の特徴を的確に説明し切るのか、というと 

、これまた相当に難しい。 

 

イン・ザ・ライト」の企画立ち上がった時ほとんどの人は実現可能とは思わなかった何しろ言い出しっぺはアヴァンギャルド畑のジャズ・ミュージシャンで、チャールズ・ロイドやマイルス・デイヴィスと共演したり、その名を知らしめたきっかけは、一人で行うインプロヴァイゼーションだったから、というのがその理由だ。だが丁度1年後、彼がリリースしたアルバムは、何だかんだ言って、「可能」をこえて「驚き」の作品となった。3楽章からなる「ルミニッセンス」は、弦楽合奏とインプロヴァイズを駆使するサックスのための作品。彼がこの曲を生み出すことで、証明したことがある。誤った思い込みで、「ジャズの第三の流れ」と称する、本来のジャズでもなければクラシックでもない、どちらとも与しないやり方では、「受粉しても実がならない」を繰り返すだけ、などと考えてはいけない、ということだ。と同時に、この作品は独自色が非常に強く、物議を醸す「ジャズの第三の流れ」でもないようだ。 

 

彼と、南西ドイツ放送管弦楽団の弦楽器奏者達とのやり取りの中で、普段クラシック音楽に馴れている者達には、本質的な部分で、「よその世界の話」であった、リズムのセンス、あるいはタイミングのとり方のセンス、こういったものを彼は信念を持って伝えた。そして、当然ながら、手練のインプロヴァイザーたるジャレットは、ヤン・ガルバレクを燃え上がらせ、そのメランコリックなサックスで、ジャズの宇宙へと旅立たせるには、一体どんな音楽的背景が必要かを、よく心得ていた。弦楽部のメロディラインと、ガルバレクのフレージングに際してのセンスやテンポ感や息の長く速度変化の自由な歌い方、両者は完璧にハマっている。弦楽部がゆっくりとした展開を描いて見せる。これに対しガルバレクは、極めてかすかな変化の付け方で応じる。そして力強く息の入ったモチーフを使い、弦楽部のハーモニクスの中に、自らの演奏を当てはめてしまうことが、しっかりとできている。全体として、リゲティの音楽を彷彿とさせるこの作品の、一つ一つのディテールを聴いているうちに、思わず疑問に思うこと:ジャレットは、ガルバレクの演奏スタイルに合うような曲の作り方をさりげなく使うことを念頭に、これまでのガルバレクの録音を聴いて、そのスタイルを分析したのではないか?、ということである。例えば、第1楽章「Numinor」では、中間部でチェロとコントラバスの両セクションが、度肝を抜くような、オーケストラとしてのオスティナートが聞こえてくる。このクネクネとしたモチーフは、まるで、ジャレットのソロインプロヴァイゼーションで、「ヴァンプ」という、短いコードを繰り返す伴奏の部分を引っ張り出してきたようである。とてつもない力で繰り返されると、水上の浮橋にでも立っている気分になる。 

 

第2楽章「Windsong」(風がうたう歌)、そして第3楽章「ルミニッセンス」の長いパッセージの数々では、ジャレットは連続する轟音を弦楽器で聞かせる。そのハーモニクスの中に、ガルバレクのテナーサックスあるいはソプラノサックスが絡んでくる。そしてここから、時々離脱しては、ホモフォニックのアカペラコーラスによくあるような、輝くばかりの高音部を高らかに聞かせる。この時折聞こえるサックスは、管楽器というよりは、チェロが特殊な奏法で演奏しているような趣である。ガルバレクを擁するオーケストラというものが、万が一にもそんな仕事を引き受けるか?と疑問なら、実際そうしているのが、この演奏だ。 

 

この信じられないほどに密度の濃い演奏によるサウンド、これに関連するような音楽が他にあるか、と考える時、一つの例として、オーネット・コールマンの「アメリカの空」にそういったパッセージが散見される。こちらも負けず劣らず意欲的な作品だ。「ルミニッセンス」の2年前に書かれ、ロンドン交響楽団との収録である。音楽面の意義においても、この作品はアメリカ全土で、その文化史上、あっという間に人気を博す。そして勿論、そこには様々な民族の音楽文化に起源を持ち、そしてそこに照らした要素が含まれている。古臭いだけの因習を打ち壊し続けるオーネット・コールマンは、常に伝統にとらわれないイノベーターであり、常に進化する人物であったことが、この音源から伺える。 

 

シュトゥットガルトでのルミニッセンスレコーディング終了するとすぐにジャレットはガルバレクとのアメリカツアー開始する。同作品の演奏が目的だ。1年後、ミネアポリスでの、ジャレットの作品を特集したフェスにて、「ルミニッセンス」が、ガルバレクとともに再度プログラムに採り上げられる。このツアーと様々な演奏の数々は、多くの観客を呼んだ。ところが「作曲家」としてのジャレットに対する評価は、音楽評論家達の間では、大きく異なる様々な意見が上がった。タイム誌は、ツアーの数年後にジャレットの特集記事を組み、そこでは、彼は閉所恐怖症だとか、作品は醜悪だとか、散々であった。ニューヨーク・タイムズ紙は、「ルミニッセンス」にはガブリエル・フォーレとアレクサンドル・スクリャービンの影響が見られる、とし、更には、キース・ジャレットは、いずれ将来、楽界が長年待ち望んだジャズのイノベーターとなり、そして「次世代の偉大なる音楽人」となるだろうと、ぶち上げた。 

 

同時に、ジャレットが常に進化を遂げていることを証明するもう一つの作品がある。「ルミニッセンス」と結び付きが強いもので、2年後に世に出た。「ブルーモーメント」(アーバー・ゼナ)である。「ルミニッセンス」の続編のように思われるが、手法は異なっている。「ルミニッセンス」のまとまったサウンドと比べると、足りないとはいえ、完全には失われていないもの:リズムの鼓動、明瞭なソロのパッセージの輪郭、より色濃いジャズの要素、こういったものは、「ブルーモーメント」(アーバー・ゼナ)の各要素の輪郭をしっかりと形成する。そこでは3人のインプロヴァイザー(ジャレット、ガルバレク、そしてチャーリー・ヘイデン)が、本作品には欠かせないシュトゥットガルト放送管弦楽団サウンドをバックに、顔を揃えている。同時に、ジャズとクラシックのせめぎあいが、ここでは強めである。特にチャーリー・ヘイデンの、どデカいベースのサウンドのせいだ。これはメロディのネタが現れるたびに、重要な役割を果たす。それがサックスやピアノを後方へ追いやってしまうのだ。パブロ・カザルスに献呈された第2楽章にみられるラテンアメリカ音楽の数々のリズムの中にあって、彼ら3人は、スタジオ内に陣取るオーケストラのことをすっかり忘れ、なにか魔法のようなもので、ずっとひたすら3人の間だけでジャムセッションのようなアンサンブルをしている。これはこれで素晴らしい。というのも、オーケストラの方はジャズの演奏というものについて、当時のヨーロッパでは事実上一番良く理解していたからである。 

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.149-153(最後)

こんなにも極端に正反対の判断が下るのには、ジャレットが予見していたとんでもない誤解の数々が、その根底にあるのではないか、と思われる。「バッハの録音は、ドンピシャのタイミングでやれた気がするよ。」ニュージャージー州オックスフォードの彼の自宅で、1987年の暮頃に、彼と長時間話し込む機会があった際、彼が語ったことだ。彼は更に続けて「今回の『平均律クラヴィーア曲集』の録音は、みんな何かしら驚くだろうね。それは僕も勿論わかっているよ。でも本当のことを言えばね、みんなが騒ぐのなら、その分僕は余計に、「そうじゃないんだ」と演奏で示さなきゃ、と思うんだよね。必要以上なことはしない、そしてひたすら音楽に尽くすのみ。実際僕は、自分がしたこと以上のことは、全部断ってきたからね。」 

 

キース・ジャレットと比べること自体不可能なのだ。グレン・グールドといえば、ピアノの求道者であり、自分自身が結構目先の利く分析をするのに、それを信じることに飽き足らず、とくかく「行間を読む」ならぬ、「音符の裏を読」みたがり、演奏上のルールを勝手に緩め、音楽的には二次的な内容を高めようとし、挙げ句極端なテンポ設定をしてバッハの屋台骨を揺さぶっているのだ。結果、バッハの前奏曲やフーガの、とてつもない強靭さが証明された。対するキース・ジャレットは、節操をわきまえた範囲内に身を置く。なぜなら、彼はその身にかかる外からの要求を怖れたからだ。「なにかエキセントリックなことをやれよ」という要求だ。だが同時に、彼の音楽のキャリアのお陰で、自らの自由意志により、バッハに「普通に接する」よう気持ちを持っていったとも言える。ジャレットは、グールドがバッハの音楽を再現していった結果に対しては、一部高く評価している。だがジャレットと言えば、音楽面では所謂「行動主義者」である。心理学で言う「条件付」をよしとしない。グールドの姿勢は、芸術活動に取り組む上での、欲求不満の現れであると、ジャレットは見ていた。「グールドは純粋な演奏家だ。日頃の音楽活動のせいか、演奏家としては表現の幅が限られている。それに対して僕の土俵は、インプロヴァイゼーションだ。欲求不満になんか、ならないよ。フレーズの歌い方にせよ、人が書いた元々の楽譜に、他の音楽家が何かしら付け加えることによって生まれてくる演奏内容というのは、その音楽家の欲求不満から出てくるものさ。でもね、この2曲(平均律クラヴィーア曲集)は何も足す必要はないよ。この音楽は補修も補強もいらないよ。」 

 

誤解のないように言っておくが、彼の発言は、バッハの曲は運指が大変なので、音楽的なニュアンスをつけることなど全くできない、と白状しているわけでは全くない。ジャレットの眼目は(そしてこれに則り演奏している)、作品に内在するルールをしっかりと守り、間違っても奏者が力づくに楽曲の彫りを深くすることで、作品の持つ力を世に問う、などということはしない、ということなのだ。これは芸術の世界に存在する綱渡りのロープで、演奏家なら誰もが渡りきらねばならない。ジャレットは演奏家の間に代々伝わるものをきちんと自覚しているので、節度を守った上で、音量変化を構築し、アゴーギクによるテンポの変動を設定し、間違っても、やたらと色々なタッチをしてみたり、サスティンペダルで音を伸ばしてみたりして、ゴテゴテと色付けをしないのである。ジャレットは音楽史に明るい演奏家である。彼はハープシコードに興味を示し、それを「平均律クラヴィーア曲集」の第2集や、「ヴィオラ・ダ・ガンバチェンバロのためのソナタ」(飛び抜けた繊細な演奏をするキム・カシュカシャンとの共演)、「フランス組曲」や「ゴルトベルク変奏曲」の録音に使用している。ジャレットは何ら特定の奏法や、模範とする演奏といったものに絶対のめり込まなかった。そんな彼が音楽的なコンセプトに対するガイドラインとしたのは、作曲家が書いた譜面の研究成果と、それがこれまでどの様に演奏されてきたかの歴史をひもといて得られた知識なのだ。その結果としての演奏は、非常に客観的な形であり、「再現した」としか言いようがないこともある。彼の演奏は、安定感があって、平和で、穏やかなものを聴かせてくれる。ハッハとヘンデルの全ての録音にこれらを全て見出すことになる。バッハの「バイオリンとピアノのための6つのソナタ(BWV1014-1019)」では、ほとんどヴィヴラートをかけていないミシェル・マカルスキーのバイオリンの伴奏に際し、ポリフォニーの技法を解りやすく紐解いている。「平均律クラヴィーア曲集」第2集では、厳格なハープシコードアーティキュレーション(音符の処理の仕方)を、実に良い形で聴かせている。「フランス組曲」では、ゆっくり大股で歩くような感じで、そして絶えず筋道がハッキリわかるフレーズの歌い方をしている。ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル組曲集では、現代のピアノを駆使しつつデリケートに散りばめられたフレーズの歌い方が特筆に値する。そして、バッハの「ヴィオラダガンバとチェンバロのための3つのソナタ(BWV1027 - 1029)」では、ジャレットはエレガントに抑制の効いた演奏をしている。そして、名手キム・カシュカシャンがガット弦のビオラで、自然な力強さをもち、かつ官能的なパフォーマンスをするのに対し、これをしっかりと支えつつ際立たせている。同じことが顕著に現れているのが、リコーダー奏者のミカラ・ペトリの、音楽的に美しい表現の数々の伴奏を、ジャレットが聞かせるヘンデルソナタの録音である。 

 

バッハと同時代を生きたヨハン・アドルフ・シャイベが「ライプツィヒ聖トーマス教会の音楽指導者による音楽の面汚し」とみなしたもの、すなわち、「全てを現実に即した音符で表現しきった」、そして、「音楽の喜びを表す余地をほとんど残していない」、そんな音楽について、キース・ジャレットの解釈に基づくアプローチにより、その良さを再発見することとなった。ジャレットは脚色しない、余計な付け足しをしない、ロマンチックな音楽に勝手にしない、美しさをことさら強調しない、どうしようもない硬直性をもつ対位法を取り除くようなこともしない。彼は「現実に即した音符」、という原則に、あくまでもこだわった。これによって、彼は「バッハの音楽は普通このように演奏する」という姿に、より近づいていると考えられる。バッハの死後、魅力的な演奏時の振る舞いをした数々の演奏家達が、自分自身の美的感覚を全面に押し出すような時代の風潮を反映した演奏をしていたことには、近寄ろうとしなかったのである。 

 

平均律クラヴィーア曲集」の収録後、キース・ジャレットは、ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ集」作品87という、バッハの作品群に深くつながる楽曲に、東奔西走の取り組みを始める。これについては、「楽界のお偉方」と称される面々は、驚くようなこともなかったと思われる。ジャレットは、まず「平均律クラヴィーア曲集」の原典版に没頭し、その次に、どちらかというと彼の性分に合っている曲の研究へと進んだ。音楽を歴史の流れに沿って取り組むことを自覚している演奏家にとては、たとえそれが時には重荷を負わされるようなことになったとしても、ピタリとハマった筋の通った取り組み方と言える。ジャレットはバッハの「平均律クラヴィーア曲集」に関連して作曲された2つの曲:ヒンデミットの「ルードゥス・トナリス」と、ラ・モンテ・ヤングの「よく調律されたピアノ(独奏ピアノのための)」に取り組むことを検討していた。これとても、驚くようなことはないだろう。ショスタコーヴィチの「前奏曲とフーガ集」も、複雑な音の響きや、複雑な曲の形式面での構造を備えた曲集だ。そして演奏家が、困難な状況の下、現代のポリフォニーの仕組みの範囲内で、各声部を巧みにギチギチに詰め込んであるものを、解明してやろうという目論見を持つことに、大きく立ちはだかるのである。ショスタコーヴィチの音楽は、フーガの偉大な作曲家として、バッハと並び称される力を持っていることを証明する。そしてキース・ジャレットは、原曲の演奏、そして原曲と寸分違わぬリメイクの演奏の、両方に求められる力を発揮した。 

 

とりわけ、ジャズミュージシャン達といえば、リズムを巧みに駆使する種族だ。このことは、ジャズミュージシャン達が、バッハやバルトークプロコフィエフ、それにショスタコーヴィチのような作曲家達の作品を演奏しようとして、そういった音楽との相性の良さをしっかりと育んできていることを、ある程度は物語る。このことが背景となっていると思われる、映画監督のペーター・ツァデクのコメントを紹介しよう。1980年代中頃のものだ。シュトゥットガルトでマンフレート・アイヒャーに語ったこの一言は、キース・ジャレットバルトークの協奏曲を演奏した後のもので 

前置きとして彼は、ジャズ・ミュージシャンなら誰もがバルトークを好むだろう、とした上でなのだが、「私はキース・ジャレットについては、(バルトークではなく)モーツアルトを弾くのを聞きたいな」と言ったとのこと。 

 

モーツァルトは試金石か、はたまた試験場だとでもいうのだろうか。この発想は、特にピアノソナタとなると、多くのクラシック音楽演奏家達が、諸手を挙げて賛成するだろう。アフルレート・ブレンデルがかつて言っていたが、モーツアルトの楽曲と向き合うと、まずは寂しそうな音符達と対峙する。すると彼らは、どうやってその音符に生き生きとした命を吹き込むことができるのか、それこそ必至で自問自答する羽目に陥るという。これがピアノ協奏曲となると、ピアノ奏者達はオーケストラや有能な指揮者からサポートが得られる分、「必至」の度合いもほどほどになる。デニス・ラッセル・デイヴィス指揮のシュトゥットガルト室内管弦楽団とのピアノ協奏曲集の録音については、キース・ジャレットは依頼を受ける決定をするのに、かなりの時間二の足を踏んだ状態だった。バッハの作品や現代音楽作品と比べると、クラシック音楽を観客が見ている舞台で演奏することは滅多になかったのである。モーツアルトの楽曲を採り上げようとする演奏家達の、多くの者達にとっては、この「二の足を踏む」というのは、これまでもずっとつきまとう話である。モーツアルトの作品を素晴らしい演奏で聞かせたルドルフ・ゼルキンと、ザルツブルクの天才(モーツアルト)との関係は、生涯、常に近くまで迫る状態が続いている、と描かれるにふさわしい。「これから10年、年齢を重ねたら、モーツアルトの音楽は更に私には理解不能になってしまうことは、間違いない。形式とか曲想とかを理解することについては、今でも昔より進化し続けているが、それでもなお(10年後の「理解不能」は間違いないだろう)、という話だ。モーツアルトとは、いわば幻影のようなもので、どんなに努力をしたとしても、結局は無駄になる。」 

 

そんな事を言うと、「もうやめた」と言っているように聞こえるかもしれないが、実際はそうではない。背景にある思いは、あらゆる可能性に対する挑戦の気持ちであり、それはキース・ジャレットの演奏音源にも、「特徴」として感じ取ることのできるものだ。モーツアルトのピアノ協奏曲集を収録したこの2つのCDボックスに、明瞭に際立っているのが、良い意味での世俗的な感覚である。憂鬱さのカケラもない、アダージョのフレーズを片っ端からメロドラマ風に堕してしまうような中途半端な思慮もない。ひたすらに、基本的な表現による、新鮮かつ生き生きとした音楽作りには、己の判断に対する自信を感じさせつつも、一切のひけらかしは存在しない。KV271、通称「ジェノームコンチェルト」(ピアノ協奏曲第9番)にでてくる、短調の色合いのアンダンティーノに通常見受けられる、痛々しいともいえるような落ち着きの無さは排除され、ピアノ(キース・ジャレット)はごく自然体の演奏に対する姿勢で、伴奏であるオーケストラについてゆく。そこには陰鬱さなど出る幕もない。モーツアルトのピアノ協奏曲の中には、熱情的なパッセージを含むものもあるが、これとても、センチメンタルな形まで大風呂敷を敷くことはない。これらの演奏は、彫刻作品を彷彿とさせる。それも、アリスティド・マイヨールやアルベルト・ジャコメッティといった作家のではなく、ロダンの作品のように、見た目若干、仕上げが甘く、「ゲイジュツ感」も薄いという感じ。この特徴は、ジャレットがピアノをオーケストラにとって欠くことの出来ない楽器という意識で演奏に臨むことで、さらに強調されている。ジャレットによるモーツアルトの演奏を称賛した批評家はごく僅かだった。だがその評価をまとめた言葉は「控え目」である。誰一人、ジャレットの演奏を、深刻なほどに不十分な解釈だ、などと評価するものはいない。 

 

一方で、20世紀の音楽作品の演奏となると、ジャレットはほとんど批判に直面していないのである。逆に、ジャズとクラシックと両方のミュージシャン達はぐるりと方向転換をし、そして偉大なインプロヴァイゼーションの音楽家であるキース・ジャレットは、不毛の時代の音楽に力強いリズムの推進力を与える者としての評価を、頻繁に得るようになる。理由の一つとなっている現実として、アメリカ人作曲家達による20世紀の音楽の多くは、アフリカ系アメリカ人が伝統的に演奏する、フレーズ同士のつなぎが小規模で、複合リズムの仕組みを持ち、サウンドが交互に飛び出してくる作りをしている関係上(ミニマル音楽によくあるパターン)、キチンと演奏できるのは、ジャズの経験に基づくミュージシャンしかいないと思われるフシがある。そして勿論、ジャレットは自身の作品と似ている点を、ペギー・グランヴィル・ヒックスの「エルトリア協奏曲」に見出すことができたと思われる。この曲は、ごく普通の叙情性の持つ瞑想にふけるような静けさが、乱痴気騒ぎのように突如打ち破られたりする。彼は間違いなく、自身の音楽活動に対する考え方に必要不可欠な要素を、D.H.ローレンスの著書「エルトリアの遺跡」に見出した。「エルトリア協奏曲」作曲のインスピレーションとなった本で、「釈迦やイエスが説教した以前に、もうウグイスはその歌声を世に響かせていた」の一節がある。こういう心構えは、キース・ジャレットのアルバム「スピリッツ」にも見受けられる。彼には、自身が身につけた音楽の組み立て方に疑問をぶつけ、苦労を重ねて、「理屈ができる以前のサウンド作り」を再発見した経緯がある。 

 

怪物的な音楽作品、例えば、アラン・ホヴァネスのピアノ協奏曲第1番(トリルや音の繰り返しの「雨あられ」)、それから、ベーラ・バルトークピアノ協奏曲第2番なぞはワイルドな響きのする和声にトーン・クラスター(音数の多い不協和音)、猛烈なスピードで強打される音(ジャレットはこの作品を、独自のニュアンスを持つ弾き方で内容を膨らませている)、こういった曲は、指・掌・腕が発揮する技術という面から見れば、キース・ジャレットという半端なく何でもできるジャズのインプロヴァイザーにしてみれば、さほどの大事ではない、というわけだ。ジャレットは「ミクロコスモス」でピアノを学んだ。ということは、バルトークは彼の守備範囲ということになる。バルトークのピアノ協奏曲第3番は長年ジャレットの持ちネタであり、ドイツのザールブリュッケンでの公演も収録された。この音源を、マンフレート・アイヒャーは、サミュエル・バーバーのピアノ協奏曲作品38と合わせてリリースした。キース・ジャレットへのギフトとして、2015年5月8日、それは彼の70回目の誕生日である。 

 

広範囲で多面的なインプロヴァイゼーションの「知恵と心」、そして表情豊かなジャズのリズムの数々、これらを備えたジャレットにとっては、ルー・ハリソンがジャレットのために特にあつらえたピアノ協奏曲が持つ音楽観へと踏み込んでゆくことは、容易いことであった。雰囲気に富む変化の数々、二の腕で発するトーン・クラスター、狂ったように殺到するような天井知らずの猛スピード、様々な音の世界に対して心を開く態度、「民族の違いを超えた」曲のキャラ、こういったものは、ジャレット自身の「良い音楽とはなにか」という哲学に完全に一致するものだ。1980年代、ハリソンとジャレットの両者の音楽観がドンピシャであることを物語る、ちょっとしたエピソードをご紹介しよう。キース・ジャレットが、ルー・ハリソンの「バイオリン、ピアノ、小管弦楽のための組曲」を、パリで公演するべく現地の出演者達と準備をすすめていた。この曲はジャレットが、ドイツでの初演を、1984年にザールブリュッケンで既に行っていた。演奏会終演後、ハリソンはジャレットに言った「君のために書いた作品だと言わんばかりの演奏だ」。ジャレットはサラリと応えた「僕のためでしょ?」。 

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.145-149

10.クラシック音楽を弾きこなすジャズマン 

 

キース・ジャレットがリリースした、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」は、大きな話題を呼んだ。選曲が理由ではない。所謂「芸術音楽」とされるヨーロッパ伝統のクラシック音楽について、バロックから現代音楽までをきっちり学んだジャズミュージシャンは、ジャズの歴史上そこかしこに見受けられる。1940年、ニューヨークでeのこと、ベニー・グッドマンが初演を行った、ベーラ・バルトークの「コントラスツ」は、バイオリンにヨゼフ・シゲティ、ピアノに作曲者バルトーク自身という顔ぶれ。グッドマンは更に1956年には、モーツアルトクラリネット協奏曲の収録を、管弦楽ボストン交響楽団シャルル・ミュンシュの指揮で行っている。1983年ウィントン・マルサリスが注目を集めたのが、極上のトランペット協奏曲集のレコーディングだ。ヨーゼフ・ハイドンヨハン・ネポムク・フンメルレオポルド・モーツァルトの作品集である。ジャズミュージシャンがクラシックもキッチリやっていたいという動きは、ラグタイムの時代から今の今まで見受けられることである。これについては、評論家のみならずミュージシャン自身からも、そんなことをしたら、音楽芸術に携わるものとして、シマリのない行為だとか、他所様の縄張りを荒らす不真面目な行為だとか、仮にそう思われても、何時でも何処でも、やる者はやるのである。 

 

1988年のこと、良い音楽ならばジャンルを気にせず取り組むことを実践してきたキース・ジャレットが手掛けたバッハの記念碑的とも言うべきこの作品は、かのハンス・フォン・ビューローをして、ヨーロッパのクラッシック音楽のバイブルであると言わしめた逸品だ。世界のどのミュージシャンと比べても、厳しさで名の通るピアノ奏者であるジャレット。彼は自らの「店の暖簾」に、かねてから「インプロヴァイゼーションで酔わせてみせます」と縫い込んである。その彼が、音楽史で言うなら、感情丸出し、そして自分自身を表現する、そういった時代の音楽以前の作品に、自分のすべてを懸けて臨んだのである。時代遅れの音楽教育を受けたせいで、自分の多芸さを狭められた、と、だんだん信じ込み始めていたアーティストが、控えめながらも身を乗り出したのが、演奏者ではなく作曲家が主導権を握る「対位法」という、厳格なルールブックの世界である。彼を取り巻く音楽界は、聞き耳をそばだて、イライラをつのらせ、だが認識が甘かったと言えよう。一般的に「注目を集めた」とされるものは、たまたまでもない、突然の思いつきでもない、一時的な気まぐれでもない、音楽面での180度方向転換でもない。音楽の世界について、長時間をかけて、断固たる思いで、一つ残らず学んでやるというキース・ジャレットの気概が生んだ結果なのだ。 

 

ジャレットのピアノ人生は、バッハからプロコフィエフまで、クラシック音楽を弾きこなす「神童」としてスタートした。このことは世界的にもジャズのピアノ奏者としての高い名声を勝ち取ってゆくその過程でも、見失われることはなかった。実際彼は、1973年には、この分野で自身が書いた作品をファンに届けている。そのわずか1年後、彼はニューヨークへ招かれ、カーラ・ブレイの「3/4」の演奏を行った(曲自体がジャズの範疇を超えてゆくものだった)。指揮はデニス・ラッセル・デイヴィス。この組み合わせで、同じ年にアメリカの他の各都市でも繰り返し公演を行った。1979年には、ジャレット、セントポール室内管弦楽団そして指揮者のデニス・ラッセル・デイヴィスは、コリー・マクフィルー・ハリソンといった、「音楽では他に染まらない」として、当時もアメリカ国内でコンサートを開いても、なかなかレパートリーに組み込まれない作曲家の作品を採り上げている。1982年には、ジャレットはカブリリョ・カレッジという、カリフォルニア州アプトス(ルー・ハリソン居を構えていた)にある大学での、現代音楽祭に出演し、ストラヴィンスキーのピアノ協奏曲やジョン・ケージの「ダンス4オーケストラ」、更にはその4年後にはハリソンのピアノ協奏曲を再演する。これらの演奏の数々を、アメリカの音楽評論家達は注意深く見ていた。 

 

ヨーロッパでも、ジャレットは、所謂「クラシック音楽」の公演を行っている。パリでは、ピエール・ブーレーズが主催した、かの有名なアンサンブル・アンテルコンタンポランとの共演(本拠地:パリ市立劇場)。ドイツでは、1982年春にクラシックでのデビューを飾る。まずはシュトゥットガルトヴュルテンベルク州立劇場で行われた、アメリカ文化に触れるという祭典。この時ジャレットは、ペギー・グランヴィル・ヒックスの大作「エトルスカン(エトルリア)協奏曲」を演奏。その2年後には、ザールブリュッケンで開催された20世紀音楽祭で、サミュエル・バーバーのピアノ協奏曲作品38を演奏。このときのプログラムには、ジャレットがアメリカとパリですでに何度か手掛けたことのある、コリン・マクフィーとルー・ハリソンの作品もいくつか採り上げている。1984年7月1日と3日にザールブリュッケンで行われた現代音楽のコンサートは大勢の聴衆が詰めかけた。ジャズのピアノ奏者であるキース・ジャレットの登場とあって、ハルバーグにあったラジオ局のホールでは客席数が足りなかった。聴衆の多くが席につけず、廊下のドアから漏れ聞こえる本番を聴いたのだった。 

 

 

 

1984年と1985年には、世界の音楽界は、キース・ジャレットが、クラシック音楽の古典と現代音楽の両方に取り組むことを、目の当たりにした。アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、そして日本で「目の当たりにした」人々にとっては、あまりに突然の出来事と映ったであろう。キース・ジャレットといえば、ジャズのピアノ奏者として十分名前が知られていたわけだが、その彼が、実はクラシック音楽も満載であったことを、堰を切ったように見せつけたのだ。彼が公に演奏したのは、スカルラッティカール・フィリップエマヌエル・バッハ、そしてヘンデルソナタヨハン・セバスティアン・バッハの6つの「フランス組曲」、モーツアルトのピアノ協奏曲集、ベートーヴェンの「悲愴」、ショスタコーヴィチ24の前奏曲とフーガ、バルトークピアノ協奏曲第2番と第3番、更には自身の「クラシック音楽」作品としてバイオリンソナタ(ピアノ伴奏)、オーボエ弦楽合奏のためのアダージョ、バイオリンと管弦楽の為のエレジーなどを披露した。1986年1月の東京でのコンサートでは、ルー・ハリソンのピアノ協奏曲がプログラムに組まれたが、この時キース・ジャレットならではのハプニングが起きる。 

 

ハリソンの協奏曲が終わったあと、熱狂的なアンコールの拍手に応えて、ジャレットはステージに再び上る。彼がいつも通り演奏し始めたのは、「グレート・アメリカン・ソングブック」からのスタンダートだ。ところが、である。最初のタッチでコードが異様な響きをした瞬間、彼は思い出してしまったのだ。その日はピアノをハリソンの協奏曲用に特別に調律してあったことを。オーソドックスな平均律による調律は失われ、白鍵は純正律、黒鍵は部分的に厳密な振動比が施されているのが、ごちゃまぜの状態である。西洋音楽の調性に慣れている聴衆にとっては、ジャレットのこのときの演奏は、骨が喉に引っかかったようなもどかしさを禁じ得ず、結果、ピアノがいささか調子外れに聞こえる羽目になった。だがジャレットは一瞬にして修正する。即座にこの鍵盤に自分の演奏を合わせてしまい、結果、難なくアンコールを終わらせてのけたのだ。どうやって彼が切り抜けたのかについては、今後も明らかになることはないだろう。だが当日演奏を聴いた人達は、彼が自分の基準をピアノに合わせ直し、まるでピアノがまともに調律されているかのように弾いてみせた、と思っていることだろう。 

 

これらの公開演奏以外では、ジャレットは自身初の現代作曲家の作品のレコーディングを、1983年10月にスイスのバーゼルで行っている。曲は「フラトレス」。旧ソ連支配下だった頃のエストニア出身の作曲家、アルヴォ・ペルト手掛けたものだこの録音は1年後に「タブラ・ラサとともに、アルヴォ・ペルトの最初のレコードとしてリリースされることになる。レコード自体も完成度話題性ともに優れた作品であるアルヴォ・ペルトこの曲は様々な編成用に作られているが、ジャレットが演奏したのはギドン・クレーメルをバイオリン奏者とするピアノとの二重奏版である。ギドン・クレーメルはこの収録のあと、ジャレットに公開演奏を一緒にやろうと、説得を試みた。ジャレットはこれを断った。そもそもジャレットがこの収録に参加したのは、マンフレート・アイヒャーへの義理からで、アイヒャーがクレメールとの演奏を提案したからである。それからおそらくもう一つの理由は、ジャレット自身の興味から、このAとE(ラとミ)の5度の音だけで構成される和音がペダル音(最低音の持続音)に乗っているだけという、何とも簡素な音の響きのする作品をやってみたいと思ったからであろう。だがこの作品以降、ジャレットはアルヴォ・ペルトの楽曲には、大して興味を示すことはなかった。彼の楽曲は頻繁に、おそらく時にはそうでもないのに、ミニマル音楽として見なされていた。 

 

バロック音楽からアヴァンギャルドまで、様々な楽曲をとりあげたこの一連のコンサート活動がどういう流れであったのかを鑑みても、キース・ジャレットの「平均律クラヴィーア曲集」の演奏は今なお絶品だ。これはジャレットのクラシック音楽に対する造詣の深さを、よく知っている者達も、今なお評価は同じである。インプロヴァイゼーションのジャズがメインのピアノ奏者にとっては、たとえ実力ナンバーワンであっても、対位法という奏者が絶対服従の掟に則って演奏する力を身につけるには、相当な年月が必要である。 

 

ジャレットが繰り返し述べていることだが彼はインプロヴァイゼーションの「練習」はしないその代わり、クラシック音楽の作品について、日頃から練習と分析を継続している。彼はクラシック音楽の演奏に際しては、豊かすぎるほどの多彩な感情表現を、縦横無尽に繰り広げる。彼の演奏は、聴き手には非常にわかりやすいのである。ジャレットは「ガーディアン」誌の取材を受けた際に、自らの取り組みのメソッドについてしっかりと説明している。「インプロヴァイゼーションというのは、練習してどうにかなるものではないし、そのネタを習慣として体に染みつけるという行為は、僕は良い考えだとは思わない。なので、インプロヴァイゼーションにかかる仕事がないときは、できるだけ長く遠ざかるようにしているし、そうすることで、いざその仕事にかかった時に、演奏の質が更に向上すると思っている。」バッハの楽曲分析に関して言えば、自分が満足行く目標を達成する上での、やるべきことと、受け入れないことははっきりしている。「人はいつかは死ぬものだ。だから僕は決めたのだ。演奏に際しては、まず僕が日頃大切にしているものを選ぶことから着手して、それから選んだものを吟味して、これは果たして本当に初出しのものかどうかを確認するようにしている。言ってみれば、僕がバッハを演奏する時は、グレン・グールドのモノマネにならないようにしている、というわけだ。ただ、世の中にはごくわずかだけれども、自分が演奏する作品から、本当に何でもひねり出してしまう演奏家もいるから、モノマネになってしまう余地は確かにあるんだろうな、と思い始めてしまう。それでも僕は100%きちんとやり切ることを心に誓うからには、モノマネにならないようにする、というのはしっかり意識している。ジャズの演奏家にしてはOKなんじゃない?では済ませたくないんだ。」 

 

ジャズとは真逆で、クラシック音楽を演奏する時は、両腕、両手、そして全身の筋肉や関節の一連の動きを、フルに活用することになる。彼はそのことをよく自覚していた。彼のインプロヴァイゼーションに際しての、クセやスタイルを鑑みた時、これは特に重要なことだった。ジャレットは自身のバッハの演奏が、世にどう受け入れられるかについて、あらぬ期待などカケラも持っていなかった。クラシック音楽の演奏に際しては、他の演奏家よりもしっかり仕上げてこなくてはいけない理由を、彼は自覚していた。それによって失うものの方が、得るものよりも多いのだ。「ダウン・ビート」誌のアート・ラングとのインタビューに際して、彼が簡潔に述べているのが、彼は自分の行いは全て客観的に見つめているし、こういうと思い上がった言い方に聞こえるかもしれないが、でも事実、完全に現実に則した自己評価として、キチンと成立すると考えている。一般に、若手のクラシック音楽演奏家カーネギーホールで初めて演奏しようという時は、たとえ演奏自体がそうでなくても、多少大目にみてもらえるものだ。ところがジャレットは、大目には見てもらえないのだ。もし標準以下の演奏をやらかそうものなら、世界中にそれが広まることになる。万が一の話だが、彼のバッハやモーツアルトの演奏に対して批判的な反応が、世界中から示されるとするなら、それは彼が標準以下の演奏をしでかした場合のことである。 

 

曲の性格上、「平均律クラヴィーア曲集」を演奏すれば専門家達は黙って見過ごすようなことはしないジャレットの演奏に対しては大きく分けて2つの疑問が頻繁に呈された1つ目彼のようなジャズミュージシャンは、「平均律~」のような一連の作品に潜む落とし穴を、乗り越えることができるのか?2つ目、どうしてもジャズの奇抜さが、演奏に出てしまうのではないか?更に言うと、ジャレットの熱烈なファンというのは、大きく2つに分類される。1つ目、キースといえばジャズ、としか考えられないために、彼がバッハを演奏するなど、どう理解したら良いか困ってしまうグループ。2つ目、キースというピアノの大名人の凄さを、この「平均律クラヴィーア曲集」の演奏がしっかりと証明してくれるだろうと期待するグループ。 

 

 

後者グループの中にはジャレットの演奏に対するコンセプトが、常識の範囲内であることに、とてもガッカリした人もいるかも知れない。「平均律クラヴィーア曲集」の第1集の演奏では、現在のピアノが使用されている。そして演奏に対するレビューは全体的には控えめだが、中には不平もあり、ジャレットが自分を押さえつけすぎるあまり、彼自身のバッハの音楽に対する解釈が聞き取りにくい、というものだ。勿論、別の意見も幾つか見受けられる。「タイム」誌の記事がその例だ。第2集の演奏(鍵盤2段付きのハープシコードで、415ヘルツにしっかりと調律したものを演奏に使用)に対するレビューである。記事のまとめとしては、この楽曲のこんなに心を揺さぶられるような演奏解釈は、伝説にもなっているグレン・グールドのレコーディング以来だ、とのこと。