about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.114-118

1996年春、ジャレットは彼のトリオと共に、10回のコンサートを日本で開催し、その後モントリオールでのジャズ・フェスティバルと、ヨーロッパでの夏のフェスティバルにいくつか参加した。その中でも特に、フランスのアンティーブは、彼らトリオがこれ以前定期的に公演を行っていたところだった。10月になると、4回のソロコンサートがイタリアで行われた。開催都市は、モデナ、フェラーラトリノ、そしてジェノヴァである。いずれも大変顕著な成果を上げるが、その価値が初めて明らかになったのが、2017年にリリースされたライブソロ録音「ア・マルティテュード・オブ・エンゼルス」である。ジャレットがコンサートを2部構成にし、それぞれの部はぶっ通しで演奏を行うというスタイルを取る最後の公演である。これより以降の録音すべて、すなわち「レイディアンス」(2002年)から「ブダペスト・コンサート」(2020年リリース)までは、それぞれの部の中で、曲間の間が取られている。 

 

4枚組CD「ア・マルティテュード・オブ・エンゼルス」では、初期に作られた数々のライブ音源のように、これまた信じられないほどに複雑な音楽が、聴く者の耳元に提示される。ジェノヴァでのコンサートでは、冒頭で、熟しきった果物のようなサウンドの房が、「バルトークの木」から落ちてくる。更には、濃厚濃縮なビ・バップ風のリズムフレーズの原型が、ムクムクと膨れ上がり巨大なサウンドに成長する。その様は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」という有名な木版画を彷彿とさせる。いつドバっと崩れ落ちて、何も知らない聴き手に降り掛かってきてもおかしくない状態だ。フェラーラでのコンサートは、第1部で、次々と発生するハーモニーは、どれもすぐには協和音へと解決せず、隙間ごとに、アラベスク模様のような珠玉の音形が、演奏されるというか、飾りつけられている。聴き手の期待がますます膨らむ音楽の始まりである。キースの両手は見事なパ・ド・ドゥを踊り、これに寄り添い続けるのは、足踏みと切り裂くような声だ。面白い4声の対位旋律が現れる。洗練されたポリフォニーを得意としたバロック時代の、超一流の作曲家でも思いつかなかったであろう程の出来映えである。締め括りは、超現実的で、悲しい気分が漂う。ジェノヴァの第2部冒頭と似てないこともないような雰囲気だ。ロバート・シューマンぐらいしか思いつく作曲家は他にいないであろうこの部分は、ケンタッキー州の蒼き草原を歩く気分である。 

 

更に、こういった魅力的なサウンドの数々とともに、あらゆる音楽形式を隔つ壁を全て取り払った上での、自由なインプロヴァイゼーションが、どれほど意欲的な取り組みであるかを、聴き手が、とりわけ特にまざまざと思い知らされるのが、トリノでのコンサートのパート1(演奏時間40分)である。様々な音楽形式を幅広く見てこなしてゆくジャレットの見事な手法とは、音と音の間を広く取り、コード進行を組み立てる上で幅広く和声を用い、モチーフやリズムのパターンを色々なところから採用するところにある。その様は、理想の音楽を求めて宛もなくそこかしこの袋小路に当たりながら彷徨っているようで、ジャレットのみならず彼の演奏を聴く方も、もがき苦しみ、強い気持ちを持ってこそ、その袋小路の数々から道を切り開くことができる。そしてこの点こそが、唯一困難を伴った箇所として。このアルバムに収録されている4つの重要なコンサートを通してジャレットが築き上げた、高々とそびえ立つ音楽の摩天楼の中に存在している。だがそれは、息つく間を取らない「ピアノの降霊術の会」ならではの、心身をすり減らす取り組みであり、キース・ジャレットほどのアーティストでも、いつも思いのままとは行かない代物なのである。「ア・マルティテュード・オブ・エンゼルス」が2017年にリリースされた時、このアルバムが何を明らかにするか、そしてこの後に何が続くか、それは、公演時の1996年時点では、誰も想像すらできないことであった。イタリアでの公演後、約3年もの間、人々はキース・ジャレットから何も耳にすることができなくってしまったのである。 

 

キース・ジャレットの沈黙の日々が始まった。そしてその原因が、やれ、創作活動における若干のスランプであるとか、あるいは何らかの経済的な支障であるとか、そんなことではなかったと判明したのは、1999年。トリオで米国内と、その後、あまり乗り気ではなかったが、ヨーロッパで公演を行った後のことだった。ジャレットは「慢性疲労症候群」(筋痛性脳脊髄炎)にかかってしまい、このため彼は、全ての公演活動を取りやめることになる。だがそれだけでは済まなかった。この病気のせいで、彼は完全にふさぎ込むようになってしまったのだ。実はそれ以前から、彼はしばしば極度の疲労に悩まされていた、と、ローズ・アン(2番目の妻)は述懐する。1983年の8ヶ月半におよぶツアー中のこと、経済的破綻を回復すべく無数の本番をこなす羽目になった彼は、ノイローゼ寸前の状態であった。彼は腰痛が収まらず苦しんでいて、完全なる働きすぎであり、自分のための時間も全く取れず、ひたすら自分で体を壊し続けるのみであった。(1983年から)2年後、ついにノイローゼ状態に陥る。朝から晩まで自宅の前に座り込み、ボンヤリと虚空を眺めるのみとなった。彼を救ったのは、いわば音楽による自己治癒力によるものだった。引きこもった先は彼のスタジオ。そこで1ヶ月間、最低限の食料のみを持ち込み、睡眠もそこで取る中で、名作「スピリッツ」を同時に作り上げた。 

 

1996年末時点で、キース・ジャレットニュージャージー州オックスフォードの自宅内に引きこもり状態であり、慢性疲労症候群に苦しんでいることを知っていたのは、ほんの一握りであった。依然としてこの影響により、気力体力は奪われ、ピアノを弾くのは勿論のこと、日々のなんでも無い所作までもが、殆ど不可能になっていた。もう一つの病気の名は「進行性核上性麻痺」。命に関わる病気ではないが、かかってしまうと、揺り椅子にすわって空の鳥を眺めるくらいしかできなくなってしまうというものだ。だがジャレットは、この重荷を逆手に取って、仕事上の利益を生み出してやろうとしたのである。彼はまんまとそれをやってのけた。なぜなら、巧みな引きこもり方により、自身の精神鑑定を試み、常識に則った治療を施し、回復の道を探る自己意識を働かせた。程なく、「慢性疲労症候群」の原因が、活動過多に対する心身の反発からくるものと判明する。 

 

 

 

 

物事に全身全霊をかけるあまり、時に首すじを痛め、泥棒が警察から逃れるように日々の当たり前のことから身を遠ざけていると、ある時点で身体の組織全体が、無理に張り詰めて義務をこなしてゆくことを拒みだすのである。演奏家の歴史を紐解けば、人智の及ばぬ理由で身動きの取れなくなったアーティストは、ロバート・シューマンからレオン・フライシャーまで、枚挙にいとまがない。キース・ジャレットは自分の病気を逆手に取り、普段と真逆に音楽表現を考察したのだ。あらゆる技巧、考えうる対位旋律、音の集め方、モチーフの展開方法、こういったものを使いこなせない心身の状態にあって、代わりにその起源を見出すことになる。純粋に必要に迫られて、彼はメロディとそのサウンド自体についてのインスピレーションと向き合った。このアルバムは1999年にリリースされた。発症3年後であり、計り知れない努力と忍耐の賜である。「ザ・メロディー・アット・ナイト・ウィズ・ユー」は、キース・ジャレットにとっての「ハイリゲンシュタットの遺書」と同じ。気取らぬバラードの数々は、アメリカで長く歌い継がれる歌の数々から元が採られている。飾らぬ方法で音の追求がなされていて、大げさで節操のないサウンド作りとは無縁である。そしてこれこそが、彼の演奏技術の面から言って、まだまだ伸びしろが残っている音楽の世界観なのである。アルバムを聴くと、ニュージャージー州の山々の麓にある彼の家で開かれた、昼の会に身をおいた気分になる。ジャレット自身によるこの音楽の説明を読めば、このムダのない平易な音符の裏に、その身を潜める自信満々のベテラン楽士が、ヒョッコリ顔を出して、最近の自らの実験の数々を利用し、素材の持つ美しいサウンドと、おなじみの彼の腕前とを併せて、自分のファンに新たな音楽の世界観を創り届けようという願いを育んでいたことがわかる。「元気モリモリな人は多くのことをやってのける。自分はたった一つのことをこなす力しか残っていない。その力は、禅の公案のようである。質素で、気品があり、ムダがない。この録音は、洗練された状態でなくともメロディを演奏する方法を示すものだ。ある意味、自らをジャズのハーモニーという頭でっかちで心が伴わないものから足を洗ったと言えよう。」 

 

彼の願いは、間もなく満たされることとなる。キース・ジャレットはついにステージに帰ってきた。まず、自殺行為とも言うべき、ソロインプロヴァイゼーションを伴うコンサートはご法度となった。代わりに、古くからの友人たちであるゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットらとのアンサンブル活動のみとして。だが、1999年秋、彼はソロのピアノ奏者としての活動を時々行うようになる。2001年6月の、カーネギーホールでのトリオのコンサートが、正式な復帰とされている。この長い休止の後、音楽活動の最初の試みがいかに受け入れられたかについては、1998年末にかけて収録されたニュージャージー州ニューアークでのトリオの公演を通して見ると、知ることができる。「ア・マルティテュード・オブ・エンゼルス」と同じように、このCD(2枚組、アルバムタイトルは「アフター・ザ・フォール」)がリリースされたのは、何と2018年。公演に遅れること20年も後になってのことだった。曲ごとに、あるいはソロのたびに、ジャレットが、始めはためらいながらも、やがて遊び心満載で、ピアノ奏者としての最高の腕前を、改めて披露した様子が、耳に飛び込んでくる。このアーティストがかつて売りにしていたものは、基本的に概ね復活した。それが顕著に感じられるのが、CD1枚目の3曲目に収録されている「枯葉」。ジョゼフ・コズマ作曲のロマンチックなヒット作である。驚愕のピアノの技術、みなぎる創造性、次々飛び出すジャンルを超えたハーモニーやメロディの数々、耳を捉えて離さないリズムの試み、これらが満載である。 

 

それより何より、このCDを聴くと、気合の入った音楽づくりが、さり気なく、自信満々に、矢継ぎ早に行われていて、キース・ジャレットがあたかも底なしの、もしかしたら神がかった力の持ち主かと思ってしまう。素っ気なくも真っ直ぐに耳に飛び込むレコーディングのサウンドは、ここでは功を奏している。キース・ジャレットは「枯葉」をしばしば録音しているが、こんな風に情熱的に、明快に、そして華奢なまでに繊細な演奏の仕方をしているものは、このCDだけである。彼の良き相棒たちである、ジャック・ディジョネットゲイリー・ピーコックも、このジャズの歴史に輝く宝石を、一緒になって磨き上げている。一卵性の三つ子かと思ってしまうような彼らの、感性のバランスが絶妙なやり取りを見せる演奏は、インプロヴァイゼーションによる音楽の歴史上、これと肩を並べるものを探すのは難しい。3人はこの曲を、音符を使い、命の脈打つリズムを与え、この世のものとは思えない形に仕上げ、曲にさりげなく色を当ててゆく。他にも、チャーリー・パーカーの「スクラップル・フロム・ジ・アップル」(題意:ニューヨークのクズ野郎)や、ジョン・コルトレーンの「モーメンツ・ノーティス」のような多くの曲に、彼らの凄さを垣間見ることができる。「アフター・ザ・フォール」は驚愕の作品であり、同時にそれ以上のものでもある。ジャレットが世界の檜舞台に復帰できたことは、実際のところ奇跡と言って過言はない。「基本的にもう一度イチからピアノを練習しなければならない状態だった。それまであった、いわゆる「自分の演奏」は跡形もなく消えていた。そんな練習の仕方は、仕上げに完璧さを求められるような機会を除いては、やったことがなかったのだ。そしてインプロヴァイゼーションによるコンサートの前には、時には2週間ピアノを全く見ないようにして、今までの積み重ねから完全に自分を解放ことさえしていた。回復しだすにつれて気づいたことだが、今までシャカリキになって弾いていなかったということだ。目の前にあるものに集中するのみ。10本の指もそれまでの記憶を取り戻す必要があった。過去の収録曲をいくつか聞いていて思ったことは、自分の演奏を好きになっていなかったということだ。例えば左手で弾く方の話。今はもう、左手に向かって「やめろよ、そんなのやだよ」と言う必要はなくなった。左手は、自分が望む演奏をするようになったのだ。3年間まったく弾いていなかったので、新たな発見をしている気分だった。過去の積み重ねが消えて無くなった分、今や自由に弾けるようになっている。 

 

キース・ジャレットが復活後、大きな変化が一つあった。レコーディングスタジオを使用しなくなったことだ。チャーリー・ヘイデンとのデュオのセッションと、バイオリンとピアノのためのバッハのソナタ集を除き、彼のレコーディングは、以後、全て公演の実況録音となった。1964年、32歳にしてライブ・パフォーマンスを一切やらなくなり、1982年に亡くなるまでスタジオ収録のみに勤しんだグレン・グールドとは、正反対の方向に舵を切ったのである。復帰後にジャレットがリリースした8枚のソロアルバムは次の通り:「レイディアンス」「カーネギーホールコンサート」「ラ・フェニーチェ」「パリ/ロンドン」「リオ」「クリエイション」「ミュンヘン2016」そして「ブダペスト・コンサート」。45分間ぶっ通しのサイコスピリチュアルの実践のような本番は無くなった。その代わりに、演奏時間は5~10分。ごく稀に長短はあった。にもかかわらず、依然として自由なインプロヴァイゼーションによる演奏であり、そして、仮にジャレット自身が違うと言っても、今までと同じ演奏技術が散りばめられている(更に熟成されているかも)。そして確かに、決められた割合で区分けされた中に、特定の構造を作り上げてゆくことに、更に注力がなされている。 

 

 

レイディアンス」他、前記8つのアルバムは3年間隔でリリースされたものだ。自由なハーモニーの展開の仕方、ドラマチックな曲の盛り上げ方、そして中心となるモチーフを殆ど決めないという方針を含め、もどかしいほどに掴みどころのない演奏方法に、まずは出くわすことに成る。ヘルマン・ヘッセの「ガラス玉遊戯」の主人公のごとく、様々な展開を経て高みへ向かうこの演奏は、数分間の後に終わり、ジャレットの演奏の多くにお馴染みの、音の世界の扉が開きだす。全体の仕上がりはコンパクトにまとまっていて、演奏に隙がない。そして現代のピアノの技法をすべて詰め込んだものとして、彼の初期の作品よりも更に多様性を感じさせる。ドビュッシースクリャービンが生きていたら曲を作らせて聴いてみたいと思ったら、セシル・テイラーが連発する短く切った音にはメロディっぽい核となる部分がほしいと思ったら、ビル・エヴァンスもいないしレニー・トリスターノは「ターキッシュ・マンボ」とチャーリー・パーカーへのトリビュートである「レイクエム」しか遺していないしと悲しみに暮れるなら、プロコフィエフの力強いピアノの奏法は実はもっと圧を高くやれるのではないかと思うなら、そもそもピアノはどんなことを表現できる楽器なのか知りたいと思うなら、ミニマリストのミュージシャンがよくやるような衰え知らずの音のバリエーションをひたすら繰り返し弾き続けるのをウットリ聴いていたいと思うなら、それとも、これら全部を、あるいはそれ以上をお望みなら、「レイディアンス」を聴けば良い。これこそ、「キース・ジャレット百科事典」ともいうべき作品だ。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp110-114

ジャレットがこの楽器を選んだのは、その特別な音色がお目当てだった。彼はモルデントやターンといった古楽の奏法に精通し、ジョン・ダウランドのような作曲家の和声の使い方をしっかり理解し、あるいはポリフォニーの曲作りの中での装飾音符の奏法に対しても造詣が深かった。聴き手は、この楽器から紡ぎ出されるバロック奏法の繊細さや巧妙さを耳にしつつ、現代音楽の和声や奏法も実際に音で聴けるのに、姿形は大昔のままのボディのままなのだ。現代のシンセサイザーでも真似できない優れものだ。曲目によっては複数のクラヴィコード(2台用意され、時に同時に演奏された)が「プリペアド(用意)され」た。その異質ともいえるサウンドは、マウリシオ・カーゲルやジョン・ケージといったアヴァンギャルドの急先鋒の作曲家達でさえ、色々混ざった音やひねりの加わった音程がどこから出てくるのか当てられないのではないか、と思われるほどだった。アリン・シプトンは著書「一握の鍵盤(題意:ほんの数名のジャズピアノ奏者達)」の中で、キース・ジャレットクラヴィコードについての見解を次のように記している「この楽器の魅力は、鍵盤を押して弦にかける圧力の加減によって、音程がしょっちゅう変化することである。」このアルバムの収録曲の中には、ルネサンス時代の舞曲を彷彿とさせる作品がある。人々がウィグをつけたり髪を束ねたりして、それが踊るたびに躍動する、中世のダンスだ。16・17世紀の音楽に対する深い知識が求められるばかりでなく、大昔のことをよく理解した上でのアヴァンギャルド文化のもつ底力を、いつでも使いこなす必要があり、忌々しいほどに挑戦的な作品である。だが、最大の魅力は、これほどの楽曲を生み出したのが、たった一人のミュージシャンであることだ。名俳優のごとく、どんな役もこなし、常に新鮮な音楽的特徴を楽しませてくれる力を、まざまざと見せつけてくれる。 

 

「ブック・オブ・ウェイズ」は、ジャレットにとって、とことん実験的なソロ録音に取り組んだ最後の作品である。1986年以降に続いたソロアルバムは、全てライブパフォーマンスである。例外は「メロディ・アット・ザ・ナイト・ウィズ・ユー」で、彼がスランプから脱出しようとしていた時期に、自宅のスタジオで制作されたものである。同時にこれら後期の録音の数々は25年以上もの間に行われており、聴き方・楽しみ方の物差しは、一本ではとても足りない。「ダーク・インターヴァル」が録音されたのは1987年、東京のサントリーホールでのソロリサイタルのライブ音源である。後のパリやロンドン、リオでのインプロヴァイゼーションの音源よりも、「スピリッツ」や「賛歌」(音の実験という点で)と通じるものが多い。特筆すべきは「オープニング」。ロマン派の作曲家がよく使う倍音の夢見心地なサウンドに、ジャレットは揺蕩い、ペダルで長く響かせた音の流れの中で、漂い、肩を寄せ合おうよ、そんな風にいざなうようである。だが、光が乱反射するような音の絵巻の中にあっても、彼が力強く、短めに音を切ってアクセントを効かせるパッセージは、幾度も明るく響きつつ、緊張感を保ちながら潔く消え去ってゆく。その様は、まさに一幅の水彩画である。こういったサウンドの織り成しをジャレットの耳がこよなく愛したことは、容易に伝わってくる。これは更に発展し、一つの音から和音になり、そこへ更に分散和音や直線的なパッセージが加わってくる。ペダルで音を響かせつつ、やがてこれらの音の線は、一つに編まれて膨らみ、そして曇り始め、様々な音色の織り成しは、つやなしの黒色へと姿を変えてゆく。その様は、波が段々とうねりを大きくしつつ、聴き手に向かってくるかのようである 

 

ところでこのコンサートは確かにその自由度」は影をひそめている。彼の初期の頃の、何の束縛も感じさせず、明確な音楽的コンセプトなど何もなにし演奏された音源と比べても、それは明らかであろう。ここが注目がより集まるところである。突発的なインスピレーションだの、予想外に次々浮かぶアイデアだの、それらが更に予想外に発展・展開してゆくだの、そういうもの駆使されているが、それだけが全てを物語るわけではない。「ダーク・インターヴァル」のいずれの収録曲も、特定の音に対する考え方や、音楽形式による作り方が見受けられる。「賛歌」 ではかなり低い低音域と、かなり高い低音域を駆使し、あちこちの教会から鐘の音が聞こえてくるようである。「アメリカーナ」は、アメリカの人々によって歌い継がれる、たくましさと強靭な生命力を持つ彼らの愛唱歌を彷彿とさせる。「パラレルズ」を聴くと思わず想像してしまうのが、ジャレットが躍起になってプロコフィエフから、彼の持つ新古典主義的な要素を削ぎ落としてなお、この鉄工所のような作曲家・プロコフィエフの才能の凄さをアピールしている様子である。「リチュアル・プレイヤー(題意:祭礼の祈り)」の、複数の和声が響きわたる様は、人々の祈りさながらである。一つのコードが響くと、次に続くコードが「アーメン」となって、それが「~でありますように」と締めくくるようである。「ファイア・ダンス」だけが、左手で複雑なリズムを聞かせるキース・ジャレットの真骨頂。ゴスペルの曲調を前面に出し、燃え上がるような様は「我ここにあり、他に道なし」と言わんばかりである。 

 

彼はソロ演奏家として精力的に1980年から84年にかけて活動を展開した。その力の入れようは、1973年から78年にかけての頃に匹敵する。そのお陰で、1980年代の終わりまでには財政上の困難を乗り越えるとができた。更には、1985年から、彼にとっては2つ目のトリオでの活動が始まった。後にこれは、彼にとって最長期間の取り組みとなる。ゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットとのトリオは、全てにおいて、ジャレット自身のソロ活動やクラシック音楽への取り組みにとっても、良きバランスをとる要素となった。このトリオでは、純粋にトラディショナルなジャズに打ち込み、次々と思いもよらぬ方法でそれを音にして聞かせた。ジャレットはジャズについてクリエイティブな心と 、自らと志を同じくするミュージシャンが欲しかったとされており、このトリオもそういった背景から結成されたと考えられる。永久に活動を維持するわけでもなく、また公演やツアーのないときのみ集まるということから、このバンドに束縛される理由もまったくなかった。メンバー3人共、自分の音楽活動を維持した上での取り組みだったこともあり、2014年までという長期間に亘るものとなった。 

 

 

ジャレットは依然としてソロ活動をメインとして、その名を馳せていた。彼の評判の土台はソロ活動にあり、冒険心・非日常というオーラを放つものである。当然、ソロ活動が縮小しても、こういったコンサートへの興味関心が完全に失せることは無い。1985年から1988年にかけてはジャレットはソロコンサートをほとんど開催しなかったものの、常に満員御礼を期待できるほどであった。後に、彼のソロ活動は殆ど行われなくなってしまい、ファンの中には「キリストの復活」宜しく期待する者もいた。1992年、それまで公演活動を控えていたドイツで、コンサートを開催した。その15年後の2007年3月、フランクフルトの旧オペラ座は、同年10月21日のリサイタルのPRを開始する。2400枚用意された大ホールのチケットは、発売3日で完売した。当日の客席には、チラと見ただけでも錚々たる顔ぶれがあった。その中の一人が、著名なドイツ文学評論家のマルセル・ライヒ=ライニツキである。ジャズの演奏会など足を運んだことのなかった彼だが、キース・ジャレットの人気ぶりが気になって仕方なくなり、齢87歳にして一念発起し、その人気ぶりとやらをコッソリ確かめに来たのだ。 

 

 

 

 

1988年以降ひとしきりの実験的というか少なくとも「ありきたり」とは言わない収録を終えた後、ジャレットは普通よりのピアノ奏者としての活動路線に戻り、2020年までの間に「パリ・コンサート」や12のコンサートアルバムをリリースした。だがいつもの通り、この内の2作品である「ア・マルティテュード・オブ・エンゼルス」(1996年)と「ラ・フェニーチェ」(2006年)は、収録後何年も経ってからのリリースとなった。 

 

デヴィッド・アイクは、その知的なタッチの随筆「神秘のピアノ奏者」(2002年出版「ジャズカルチャーズ」より)で、キース・ジャレットの演奏スタイルを構築するものとして挙げたのが、ロマン派ばりの感情表現、普通の全音階、愛唱歌の風情を持つパッセージ、自由度の高い対位法、クッキリとした無調性、特殊技法(ピアノの弦を弾いたり共鳴箱を叩いたりするなど)、そして長めのオスティナートである。アイクは更に続けて、これらは実はキース・ジャレットの音楽の本質ではない、という。本質は、これらを併せた上で、全く新しい音楽を生み出すことにある、というのだ。これがよく分かるのが、「パリ・コンサート」や「ブダペスト・コンサート」といった2020年リリースのソロアルバムの数々である。だがこれだけでは、彼の音楽と、それが醸し出す魅力について語り尽くすことは不可能である。更に3つ。ジャレットの演奏にかける集中力、誰もが知っている創作活動に際しての大胆さ、そして最後に、 創作の過程をジャレットの傍らで見届けて、同時に出来上がったものに熱狂できるという聴く側の醍醐味、である。ジャレットのコンサートは、物作りの作業場であり、子供が生まれる分娩室であり、あるいは、「音楽版」開胸手術の実況中継であったりする。その作業中、道具の使用がままならなかったり、道具の取替が必要だったりと、そういうのを見届けることができるのが、聴衆にとって印象深いというわけだ。だが何よりも、彼の演奏を聴いて、見て、そこに居合わせる魅力は、そこから「優れた成果」が次々と旅立ってゆくことである。 

 

 

 

 

その好例が「パリ・コンサート」である。核となる部分の演奏時間が40分。開催日「1988年10月17日」の記載はタイトルとしての機能のみ。出だしは注意深く奏でられる、ボンヤリとしたフレーズの数々、それがバッハの「インヴェンション」を彷彿とさせる対位法の絡み合いと、バロック音楽特有の装飾音符の数々が加わり、やがて熱のこもった曲の形へと変化してゆく。虚ろ気味な低音の音形が、耳につくようになり、後に1回、2回、3回と姿を表したかと思えば、リズムパターンが出来上がり、それが繰り返され、曲全体に統一感を生む。これぞジャレットの、船で言えば錨、建物で言えば土台、もっと大袈裟な言い方をすれば、「運命に関わるモチーフ」である。「ダ、ダ、ダ、ダァー」といえば、ベートーヴェン交響曲第5番を連想させる。だが最後の「ダァー」で、和声の第3音に行かず、最初の音にとどまったままである。 前後の流れを考えなければ、このモチーフはシンプルなもので、ジャレットにしてみれば、思いついた音形を自由に何でもそこに作り上げることができるし、ジャズの名人技を要するフレーズにするもよし、自由な形式のバラードもよし、愛唱歌にありがちな和声をつけても、やりすぎ感のあるほどにトリルをつけても、ショボいメロディになってしまっても、何度も転調をしようとも、構わない、ということだ。 

 

【113ページ脚注】 

フランクフルト新聞では、後にも先にもただ一度だけ、ジャズミュージシャンが一面の写真に掲載されたのが、2007年10月23日。フランクフルトの旧オペラ座で開催された、ドイツでの15年ぶりの一度きりのソロコンサートの2日後である(撮影:アンナ・ミューアー、写真提供:フランクフルト新聞有限責任会社) 

 

 

だが主音が繰り返されているからと言って、単に2つの同じ音の高低差から成り立っているわけではない。大昔の礼拝における、詩篇詠唱法やそれに対する返答としての応唱といったものと全く同じで、礼拝では、きちんと行わねばならないとされる表現方法である。それは1460年出版のブクスハイムオルガン曲集にも「叙唱法」や「返唱法」という章立ての中にも見ることができる。バロック音楽の技法では、主音とは、「死」あるいは「敬虔な気持ちを心に抱いた沈黙」を象徴する演奏効果がある、とされている。勿論、ジャレットの自由なインプロヴァイゼーションでは、敬虔な気持ちからくる服従の気持ちを示すという、昔ながらのやり方と照らし合わせると、主音を繰り返しすぎることがあるという危険性をはらんでいる。だがそのインプロヴァイゼーションにしても、半分くらいは意識的に行ったとしても、あるいは全く無意識に行ったとしても、ジャレットの場合、礼拝のための音楽については、しっかり学習し、感性も鋭敏で、よく慣れ親しんでいることもあり、その仕組を完璧に自覚できているのだ。 

 

それから3年後の1991年7月、ジャレットはウィーン国立歌劇場にてコンサートを開催、この模様は「ウィーン・コンサート」としてリリースされた。40分間の「パート1」の出だしは、シンプルでありふれたリズムが、ふらつき変化して、左手が「パリ・コンサート」を彷彿とさせるような繰り返しの音型を弾き始める。偶然の一致でしかないのだが、それでもジャレットは前回と同じ演奏をするまいと、心を強く持つ。突如彼は基本のテンポを変化させ、怒り狂ったように両手を使い鍵盤の端から端を使って弾き出す。その様はまるで、新しいサウンドを響かせる中、以前の収録で1回でも弾いたものは、根こそぎ排除しようという気持ちが伝わる。コンサートの一番終わりでは、どちらかというとバラードっぽい部分なのだが、先に繰り返された音形が再び聞こえてくる。ところが今回は、モールス信号のように、無意識という何もないところから、後世の人々に対し、人生の最後に昔を懐かしみつつ送るメッセージのような、フレーズの形になっている。 

 

デヴィッド・アイクによると、キース・ジャレットがソロインプロヴァイゼーションで形作る音の連続には、彼の演奏上のスタイルを示すものが繰り返し聞こえたり、彼自身の創造性あふれるアイデアとピアノの演奏技法がしっかりと一体化したものが、耳に飛び込んでたりするという。勿論当たり前だが、ジャレットはキャリアを重ねる過程で、音楽的にもピアノの技術的にも、これまで進化をし続けている。例えば、肩に力が入らんばかりに強い決意で制作に臨んだ初期の収録作品と比べると、後年の、1980年代および90年代の音源が聴き手に与える印象は、作品の構造が、明確に示されていることだ。所々、とてつもなく巨大な音の積み重なったものが吐き出されるものの、リズムの複雑さ、暴力的とも言える発音の仕方、鍵盤を縦横無尽に駆け巡る両手、こうした高度な名人芸は、「ラ・スカラ」(1995年)のパート2にも見られるものだ。まるでジャレットが、インプロヴァイズをかけながら、その場で楽曲を仕上げているようではないか。初期の録音をよく聴いてみると、ジャレットが自分のイメージするものを再現するのに手の技術が追いつかず、突然空中分解してしまったり、さんざん音を積み重ねた山をいくつも作ったはいいけれど、どうやっても相互に結びつかない、といったことが起きていることに気づく。後年の作品を色々聴いてみると、音符の動きはかなり難易度の高い技術を要するものげあるにもかかわらず、ジャレットが強い気持ちを持って、演奏内容がバラバラにならないよう心がけているのを感じ取れる。それは、彼が曲の構造というものを大事にしている現れである。

<再掲・邦訳付>:バレンボイム、イスラエルとパレスチナを音楽の力で

現在来日中の、ダニエル・バレンボイムが、2004年5月9日ウルフ賞受賞に際しておこなったコメントからの一節です式日本語訳がなさそうですので、拙訳つけま。これを「夢物語」と片付けず、両「国」のトップには頑張っていただきたいと思います。 

Despite the fact that as an art, music cannot compromise its principles, and politics, on the other hand, is the art of compromise, when politics transcends the limits of the present existence and ascents to the higher sphere of the possible, it can be joined there by music. Music is the art of the imaginary par excellence, an art free of all limits imposed by words, an art that touches the depth of human existence, and art of sounds that crosses all borders. As such, music can take the feelings and imagination of Israelis and Palestinians to new unimaginable spheres. 

芸術活動の一つとしてみると、音楽は原理原則を変に曲げることは出来ません。これに対し政治というものは、原理原則をいかに曲げるかが、腕の見せ所です。とまあ、現実はそうなんですが、もし政治が現実の限界を乗り越え、できるだけ可能性を高いところに設定して何事にも取り組む時、そこで初めて音楽の出番が訪れるのです。音楽とは、人が心に抱く想像を音にするというスグレモノの芸術活動であり、どんな言葉で制約を受けようがそれに縛られない芸術活動であり、人がこの世に存在する意味の深いところを突いてくる芸術活動であり、どんな壁や境界線があろうがそれを飛び越えてしまう芸術活動であります。そんな音楽だからこそ、もし政治が先程のような状態であれば、イスラエルの人々とパレスチナの人々の思いを、全く新しい、これまで誰も想像し得なかったところへと、導くことができるはずです。 

Keith Jarrett伝記(英語版)7章pp.106-110

7.栄華と危機 

 

キース・ジャレットにとって1980年代は初っ端から、演奏活動の面で忙しかった。1970年代にリリースした数々のソロアルバムが、ことごとく大成功を収め、彼はピアノ奏者として、ずば抜けた存在となっていた。同時に、彼の心に火がついて取り組み始めたのが、クラシック音楽の研究だ。レパートリーはバロック時代からウィーン古典派、更には欧米の現代音楽の作曲家にまで広がった。1979年に始まった彼のコラボレーションは、ミネソタ州セントポール室内管弦楽団(指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス)との共演で、作曲家達も、アメリカとカナダからは、コリン・マクフィー、ルー・ハリソン、オーストラリアからはペギー・グランヴィル・ヒックスらが参加した。これらの作曲家達の作品を、彼は1981年5月と6月にパリ市立劇場にて、アンサンブル・アンテルコンタンポランという、現代音楽に特化した管弦楽団と共に演奏している。これらの作品は、1982年3月にドイツのシュトゥットガルトでも上演された。同年8月には、カリフォルニア州のカブリオ現代音楽祭に参加し、ストラヴィンスキーのピアノ協奏曲、ジョン・ケージの「ダンス・4・オーケストラ」そして、ペギー・グランヴィル・ヒックスの「エトルスカン協奏曲」を演奏した。 

 

 

 

1980年の年末から1981年の年始にかけて、ジャレットは長年の夢であった、長期間を裂いての公開講座の実施に向けて、準備に取り掛かった。「想像つかない」とお思いになるかもしれない。教育というものに否定的であり、「先生」と名のつく役目を「人を育てることを拒む奴ら」とさえ、言ってはばからない、というのが彼のイメージだろう。この期間全体を通して、彼は既存のものよりも、より包括的な内容を頭に描いていた。彼がマイク・ゼリンという、ジャーナリストであり自らもジャズ・ミュージシャンと話をした時、構想中の公開講座について、音楽のみならず、「人間の感性全般を目覚めさせる」機会としたい、と語っていた。 

 

ジャレットが新しい段階を迎えていたのは、演奏活動だけではなかった。最初の妻と離婚し、家族と別れた後、彼の生活は大きく変わっていた。ローズ・アン・コラヴィートは、キース・ジャレットの創造性を掻き立てる新たな存在として、と言っても、常に彼に寄り添っているだけで、ツアーにも同行した。彼がこれまで積み上げ継ぎ合わせてきた音楽観を広げたのは、彼女が画家として作ってきた作品である。この新たな人間関係が生み出したと、明らかにそう言える目に見える変化は、他にも沢山あった。ジャレットはツアー中、今まで以上にプライベートの活動に取り組むようになる。スポーツはテニス、ジョギング、あるいはスキーなんかもやるようになった(これで親指を怪我して、1981年の公演をいくつかキャンセルする羽目になったほどである)。彼はまた、時間を裂いて自宅の改良に乗り出し、建築家を一人雇って、新しいスタジオと更なる建て増しの構想設計を依頼した。これに先立つ1970年代中盤には、敏腕マネージャーのジョージ・アヴァキアンとの契約を終了し、音楽活動はプロのサポート無しの状態が、後にブライアン・カーを新しいエージェントとして迎えるまで、ずっと続いていた。 

 

 

この何かと騒がしい時期に、上手くいくことばかりが起きていたわけではなかった。大きな所では、1979年の暮れから80年初頭にかけて、金融関係企業への投資に乗ってしまったことがある。4年にわたる投資の結果、不本意にも40万ドル(4千万円)の損失を出し、財政難に陥ってしまった。このため、税務署への巨額の返済に追われることとなり、これまで以上に公演活動を、日程に入れてゆかねばならなくなった。これにより、ローズ・アン・コラヴィートを側につれて、彼は1983年は8ヶ月半ツアーを実施することとなる。ローズ・アン・コラヴィートがイアン・カーに語った当時の苦しさについて「当然のことながら、やたら体の故障が続いていたはずで、腰・背中の状態は、非常に悪かった。文字通り満身創痍といったところ。本来あんなに演奏活動をするべきではなかったけれど、損失補填のためには仕方がなかった」。当然の結果だが、ジャレットは公開講座の構想を断念し、この計画のためにと、自宅近辺に借り上げた建物もキャンセルしなくてはならなくなった。(彼の屋台骨の傾きは1987年まで続き、そこでようやくある程度の返済の目処が立つことになる)。 

 

 

 

更に追い打ちをかけたのが、彼のソロコンサートに対する関心が薄れ始めてきたことがある。彼のソロコンサートを見たという人の数は、既に数が多く、その上彼の音楽はますます複雑難解になってきていて、「ケルン・コンサート」の頃のとっつきやすさは、影を潜める手の込みようであった。ジャレットが3年間ソロコンサートを実施せず、その間、クラシック音楽の研鑽や、ゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットらとのトリオにシフトしていったのは、当然のことである。この「2つ目の」トリオが、ニューヨークのライブハウスであるヴィレッジヴァンガードに再びその姿を表したのが、1983年の6回公演実施のときだった。1977年以来の復活で、以降、2014年11月まで毎回出演をするようになる。 

 

ところが、である。実はジャレットは、1985年と1986年に2つのソロアルバムを収録している。彼が個人で大事にしている、自宅のスタジオでの制作だ。これら2枚のアルバムは、彼の音楽活動の転換点であり、新しい可能性の開花であった。それもこれも、40歳の誕生日の前後に訪れた、創作活動上の危機を乗り越えた賜物なのである。その危機が起きたのは、1985年前半のこと、当時彼は子供の頃以来クラシック音楽に、というよりも、クラシック音楽演奏家達と関わり、彼らが「演奏家」という役割に不満を覚えているのでは、という印象をしばしば受けた。更に彼が実感したのが、インプロヴァイゼーション抜きの演奏に対する違和感の強さだ。ニューヨーク、リンカーンセンターのエイヴリー・フィッシャー・ホールでのリサイタルでは、ショスタコーヴィチベートーヴェンスカルラッティ、そしてバッハの作品を演奏し、ニューヨーク・タイムズ紙に絶賛の記事が載るも、彼は強い虚無感と無力感を覚えたと吐露している。彼は、自分がクラシック音楽の世界では「蚊帳の外」ではないかと、疑念を強めてゆく。当時彼は、財政面での問題が片付いておらず、また前妻との間に、2人の息子達に関する問題もくすぶっていた。 

 

後に妻のローズ・アン・コラヴィート語ったところによるとこの逆風の最中、ジャレットといえば、家の戸口の踏み段に座って、ボーッと遠くを見つめてばかりいたという。そんなある日、彼は突如雷に打たれたように、クラシック音楽との関わりを終えて、キャリアの原点「誰にも邪魔されないインプロヴァイゼーション」への回帰へと、活動を始めたのである。この瞬間のことを、ジャレットはイアン・カーに語っている「ある日、スタジオへ行き、フルートがあったので、手にとって吹いてみた(スタジオ内は無音響)。でもそのフルートをただチャラチャラ吹いていただけなのに、なんだか、自分のエンジン機関が、自分の車体全体が、高級車に変身したようになって、パイプの中にはゴミだの雫だのが多少こびりついていたけれど、オクタン価94の最高の状態に、突然変わったような気がした。あの変化は、それっきりだった。そしてその気持の状態は、1ヶ月位だろうか、ずっと続くことになる。その間、僕はひたすら、朝起きて、食事をし、スタジオに走っていった。この時頭の中にはリズムや2つ3つと音が鳴っていたり、時には短いフレーズが聞こえることもある。スタジオに入ると、録音機のスイッチを入れる。何の変哲もないカセットプレーヤーだ。僕は無事に録音されていてくれよ、と願うんだ。」 

 

 

こうして生まれた1985年のスピリッツ」は、生まれ変わったキース・ジャレットお披露目となった一人のミュージシャンが卓越した技巧を全てかなぐり捨て、音楽の源へと回帰した姿である。その男は、純粋に音そのもの以外には目もくれず、最小限の手段を用いて(録音方法も)、純真ながらも、感性と創造力に満ちあふれていた。こうして生まれたものは、彼の演奏キャリアの中で、最高の音楽表現を、誰も疑うことない形で音にしてみせた。当人にとっては、自らの解放以外の何物でもなかったはずである。 

 

全体的にアルバムスピリッツ」が聴く人に与える印象はジャレットが探し求めているのは有史以前の音楽とはなにかということ。この音の風景には、国境もなければ音楽形式のカケラもなく、東洋も西洋も存在しなければ、ただひたすらに、音、リズム、雰囲気、楽器の操作、そしてそこに込める感情、それだけが展開されている。意図してフルートと打楽器が演奏の主役に抜擢されている。これらは人の有り様と中身、息遣いと鼓動に近い。ここに収められている「スピリッツ(魂)」の大部分には、どこまでが人為的でどこまでが自然発生的かが、ハッキリ線引されていない。それはまるで、ジャレットが、鳥の歌声や風の音を手本にして、彼の創作をパターン化したように感じられる。同時にここに感じ取れるのは、強い信仰儀礼的な性格である。ネイティブアメリカン達が、太陽や、春が到来したばかりの頃を崇め奉る音楽のようである。フルートの低音域の音は、蜂の羽音を彷彿とさせ、太鼓の恐ろしげな音は、シャーマンの祈祷を思い起こさせる。 

 

大昔の生物に詳しい学者が、人類の音楽の歴史を再構築するのに奮闘した結果、現代人の知らない、遠い世界の、あるいは大昔の歌の数々を、今の時代に聴くに相応しいレベルまで紡ぎ出したことについての、「やったぞ!」と喜ぶ勝利の歌、というべき作品だ。ペンタトニックを用いたメロディが描く情景は、極東アジアの文化であったり、他では中世ヨーロッパの「儀礼」、もしくは荘厳な貴人達の行列、といった趣だ。次はアーチ状の天井が高い礼拝堂の中にいる気分。僧侶達が集まり、聖娼を唱える。言葉の音節は無視して、メロディに音を次々当てはめる。自由な感じで、天国的な装飾音符を奏でるのは、ソプラノサックスである。流れの最後にピアノが入ってくるが、全体を支配する気配は全く無く、単にサックスやフルートの伴奏であり、あるいは一つだけ、作品全体を通して聞かせるトレモロが現れるのみである。 

 

スピリッツ」はファンに衝撃を与えたそれまでリリースされたアルバムの、どれとも全く異なるものだったからだ。この1年後に収録が行われたものは(こちらも様々な楽器を駆使して自宅のスタジオで録られた)その後27年ほどお蔵入りとなる。もし27年もしまい込んでいなかったなら、こちらのリリースも、更に衝撃的だったことだろう。そのアルバムの名は「ノー・エンド」という。1986年収録だが、リリースされたのは27年後の2013年だ。ジャレットの全く知られていなかった側面があらわになっている。ロックミュージシャンとしての一面だ。ギターやフェンダーベースを駆使して、その筋の名人達にも匹敵しうるパフォーマンスを聞かせている。このアルバムは、たとえ日の目を見なかったとしても、ジャレットが40歳の誕生日の前後に訪れた、創作活動上の危機を乗り越える上での、彼にとっての癒やしの過程となったのである。最初の「スピリッツ」が、天界と向かい合っての作品なら、次の「ノー・エンド」は大地の道に根を下ろした作品、と言えよう。「ノー・エンド」に収録されている楽曲の大半は、ジャレットが何でも楽器をこなせる力を持っているということだけでなく、普段聞き慣れない音楽形式の持つ鼓動を用いて曲にメリハリをつける才能と、面倒なグルーヴのやり方をマスターしていることを示している。ここまでエレキギターを弾きこなせるようになるには、ダイアー・ストレイツのギタ―奏者マーク・ノップラーに相当期間弟子入りし、エリック・クラプトンジャムセッションを何度も行い、そうやってロックミュージシャン達全体と、クラブだのコンサートホールだのでしのぎを削る苦難を免除される、そのくらいやらないとダメだ。 

 

肩の力を抜いて聞ける音楽であり、リズムは人の心を捉えて話さない魅力がある。そしてジャレットはギターとベース、ドラムの3役をこなし、サザン・ロックへの真っ直ぐな思いを表現している。彼がつま弾くフェンダーベースは、昔のロックで、路上で数年勝負してきたベテランの趣を裏に感じさせる。サウンド全体が、やりすぎ感のある音の密度を出そうという傾向と不釣り合いであり、ベースが鳴りすぎて他のパートをしばしば消し去ってしまっているが、実際は大した問題ではない。リズムを聴いて感じる傾向、これを聴くことができる他のレコードといえば、フル・ティルト・ブギー・バンドや、天下無双のジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスといったバンドだ。ジャレットの演奏するリズムを聞いていると、本当にジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスを引き合わせるようなことをしたらどうなるだろう、と思わず考えてしまう。だが2013年にリリースされた「ノー・エンド」が世に驚きを持って迎えられたとしても、キース・ジャレットが1960年代のフォーク・ロックバンドを一人3役で楽器を弾きこなして重ね録りした、その成果がもたらした当然の結果である。この作品と、例えばボブ・ディランのレコード作品の数々、そして「凡庸とはまるで無縁」と称すべき「レストレーション・ルーイン」は、大変失礼と思われるかも知れないが、比べて引けを取らないと考える。 

 

ノー・エンド」は、録音当時のジャレットが、音楽的にどの発展段階あったのかについて、光を当てて知ることができる注目すべきは2年間に3つの対象的なアルバムをリリースしたことだロック音楽のアルバム「ノー・エンド」の後、ジャレットはまたまた世間をアッと言わせる方向転換を見せる。今度は微細が売り物のルネッサンス音楽と、繊細な表現力を誇るクラヴィコードである。「ブック・オブ・ウェイズ」、このレコードを作れたのは、この世でキース・ジャレットだけだ。まずエレキギターでリフを弾き、長年の活躍を見せるロックミュージシャン達の心に畏敬の念を植え付け、次にクラヴィコードのような華奢な楽器を使ってのレコーディングをこなすべく、バロック時代やルネッサンス時代に日常的に行われていた、今は使われない演奏方法に属する余計な飾り付けをすべて排除して演奏する。こんなことができるキース・ジャレットというミュージシャンを目のあたりにできるなんて、音楽の歴史上、これが当たり前だった時代など、いまだかつて無いのだ。

<再掲>「偉大な霊よ」(インディアン酋長の詩):キース・ジャレットの台所メモ

キース・ジャレットの自宅の台所には、インディアン「スー族」の酋長・イエローラーク(黄色いヒバリ)の有名な「偉大な霊(たましい)よ」の英語訳が貼ってあります。自然豊かな環境から、彼は「Spirits」など、様々な逸品を仕上げるインスピレーションをうけたと考えられます。 

 

“O Great Spirit,” ― translated into English long ago by the chief of the Sioux Yellow Lark ― on a pinboard in Keith Jarrett's kitchen 

 

O Great Spirit, 

whose voice I hear in the winds  

and whose breath gives life to all the world, 

hear me! I am small and weak, I need your 

strength and wisdom. 

Let me walk in beauty, and make my eyes 

ever behold the red and purple sunset. 

Make my hands respect the things you have 

made and my ears sharp to hear your voice. 

Make me wise so that I may understand the 

things you have taught to my people. 

Let me learn the lessons you have hidden 

in every leaf and rock. 

I seek strength, not to be greater than my 

brother, but to fight my greatest 

enemy - myself. 

Make me always ready to come to you with 

clean hands and straight eyes. 

So when life fades, as the fading sunset, 

my spirit may come to you 

without shame. 

 

偉大な霊(たましい)よ 

あなたの声は、吹く風の中に聞こえる 

あなたの吐息は、この世の全てに命を与える 

さあ今度は、私の言葉を聞いてほしい、私は、ちっぽけで心許ないから 

あなたの、力と賢さが必要なのだ。 

調和の取れた美しい世界を、ずっと歩いて行けますように 

そんな世界ゆえの紫紅の夕焼けを、ずっと見つめていられますように。 

あなたの創ってくれたものの有り難みを、私の両手が理解し、 

あなたの声を一つ残らず、私の両耳が聞き取れますように。 

あなたが我ら人類に教えてきたことを、 

私の頭が理解できるよう、賢くなれますように。 

あなたが、草葉の陰や石ころの隙間へ、そっと忍ばせた大切な教えに 

私が気づいて、それを自分のモノにできますように。 

「力が必要」と言ったが、それは他人に勝ちたいからではない、 

「自分自身」という、最悪の敵に勝ちたいからだ。 

あなたに、何時、何処で出会うことがあっても良いように、 

私の手は両方とも、常に汚れなく 

私の瞳は両方とも、常に迷いなく、在れますように。 

そうすれば、いつの日か 

夕日が地平線から消えゆくように、私がこの世から消えゆく時、 

私の霊(たましい)は、堂々胸を張って、あなたの傍らに行ける。 

【訳注:「紫紅の夕焼け」は、アメリカ西部の美麗の象徴】

 

英日とも、是非声に出してお読みください。

Keith Jarrett 伝記(英語版)6章pp102-end(105)

4年後、グルジェフの作品を収録した「祈り:グルジェフの世界」は、新たな方向へと舵を切る作品となった。その要素は2つある。一つには、この作品では、ジャレットはインプロヴァイゼーションを、ほぼ完全に封印し、自分以外の人間が作った曲を演奏したことがある。それだけでなく、もう一つは、収録曲はいずれも内容が比較的希薄であったことと同時に、作曲者が何かと世間を騒がせるギリシャアルメニア人の神秘論者であったことだ。このゲオルギイ・グルジェフ(1866―1949)というの、難解な思想とそれに基づく全ての理論に、ジャレットは既に1960年代には、興味を示していたのだ。グルジェフの著書の数々を読み込み、グルジェフの思想の重要な部分である彼の音楽についても、ジャレットは研究した。グルジェフは、音楽に関しては素人だった。彼の作品(あるいは曲の体裁にまではなっていないメロディ)は、彼の弟子であったピアノ奏者トーマス・ド・ハルトマンによって、譜面に書き起こされ、楽曲としての形を作り、ハーモニーがつけられた。これらの作品群に対し、ジャレットが夢中になって興味を示したことは、彼のファンの多くに驚きを巻き起こしている。だが実は驚くことではない。アーティストである彼は、子供の頃、精神論的な雰囲気の両親のもとで過ごしているのだ(クリスチャン・サイエンスのメンバーであった母と、そして祖母から強く吹き込まれている)。音楽の万能選手であるジャレットの、これまでの創作活動には、様々な段階(フェーズ)があるが、そのいずれにも、背景となる精神世界が存在することは、実際感じ取れるところと言えよう。とは言え、彼が様々な精神状態になったり、宗教的な考え方に首を突っ込んだり、実際に何かを実践したとしても、彼は無宗派を貫いている。 

 

ブレーメンローザンヌ」をリリースした頃には、ジャレットは自身のことを、自分より高い能力を持つものの代弁者であり、自分自身が一から創造しているわけではない、と言っている。人間である一個人の役割を抑え込むという、宗教的な原則を自分の拠り所にしたい、という気持ちが現れている、また彼は、ピアノ奏者のトーマス・ド・ハルトマンが収録したグルジェフの音楽という、非常に稀な音源を熟知していた。常人にはわかり難いと言われるこれらの作品を、ジャレット自身がしっかりと作り込んで演奏したことによって、多くの人々の耳に届くこととなった。 

 

当時の時流にのり、神秘的で難解な思想に興味を示しつつ、ジャレットにグルジェフを紹介したのは、あのチャールズ・ロイドだったのだ。ジャレットを惹きつけたのは、グルジェフの哲学だけではない。超自然的な発想全般、特に、東洋文化の持つ、人々の知恵や、その信念心情の背景や仕組みといったものに、彼は触発されてゆく。その流れに普通にのって、2年後、サンフランシスコ戦争記念歌劇場でのソロコンサートでのことである。彼は曲間に挟んだ詩の一節は、13世紀のペルシャの詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミー(トルコの伝統舞踊「メフィルヴィー・デルヴィーシュ・ダンス」というイスラム神秘主義によるパフォーマンスの創始者)のものだ。彼のキャリア全体を見渡して、その発言や作品に(殊、グルジェフのレコードは鮮明だが)、超自然的な思想に基づく考え方が込められていることは、多かれ少なかれ感じ取れる。所謂「アメリカンカルテット」の1973年2月の作品「フォート・ヤウー」。曲名のアルファベットをバラして並べ替えれば、元々は、グルジェフの教義「第四の道」だったことがわかる(訳注:Fort Yawuh → Fouth Way)。日々の生活の中で、自己形成をすすめる4番目に通る道という意味である。自分の思考・感情・行動を、発展・調和させるということで、この前には勿論、3つの道を通ることになる。 

 

「祈り:グルジェフの世界」の収録曲について、音楽美学の観点から論じてゆくことは難しい。だがこれも、ある程度ではあるが、いずれの作品も、宗教的儀礼のような、あるいは精神論的な音楽についてよく言われることではある。ジャレットはグルジェフの音楽へは、大変な敬意を払いつつ取り組んでいる。その扱いは「禁欲主義」というべきもので、「謙虚謙遜」というよりは、どちらかというと「外見のキンキラを浄化する」という感じだ。この精神的背景に則り、メロディもハーモニーのコンセプトも、シンプルさが保たれていて、音符の繰り返しは、次々と前の音を追いかけていくようで、その様子は、お祈り用の数珠が、神様のものしかおくことが許されないという、音楽の「聖なる卓」に落ちてゆかぬよう、祈るように感じる(決して失礼な意味ではない、悪しからず)。同様にこの曲のシンプルさが音になっているのが、哀愁を帯びた雰囲気を聞かせるメロディの盛り上がりや力強く響く短調のコードで、運命の審判を下す木鎚のように響き渡る。 

 

こうした東洋思想教義に対しジャレット本人がどう思っているかについてはその記録は殆どないだがその中で公式伝記執筆者のイアン・カーとの対談で彼はグルジェフの伝記を読み作品を研究しそして他の哲学者と比べた結果イスラム神秘主義全般に興味を持つようになった、という発言が残っている。「イスラム神秘主義への興味関心については、何年か研究してみたあとで、僕の中ではもう落ちてしまった。僕は自分の作品に思いや考えを込めるのに、何かしら思想家の書いたもので刺激を受けないとできない、なんてことはないからね。」興味関心が落ちてしまった、というこのコメント。背景にあるのは、流行りに乗ってくる「にわか宗教論者」が、グルジェフの作品をよく引き合いに出してくることに反応している。彼はそういう連中とはずっと距離を置いてきたのだ。 

 

音楽活動の面から見ればジャレットがグルジェフから学んだことは、「無駄の無さの実践」であることは明らかだ。「祈り」の収録後間もなく、彼はソロコンサートのツアーを再開する。アメリカ、日本、そしてヨーロッパをまわり、オーストリアブレゲンツと、ミュンヘン・ヘアクレスザールでの収録は、彼の代表作の一つとなった。このツアー中を耳にしたファンの中には、ジャレットが「祈り」の制作を通して、恍惚状態とも言うべき力を、彼は得た、と結論づける者もいることだろう。いずれにせよ、ブレゲンツとミュンヘンでの公演については、これをひとまとめにすると、たしかにデルヴィーニュダンスの音楽のようになる。時折、楽曲の素材に手を入れすぎて、ピアノがうめき声や唸り声をあげたり、ジャレット自身の気の済むような形にしてしまったり、挙句の果てには、曲自体が彼に対して「まだここに手を付けていないぞ」と言ってくるのでは?と思うほどであった。ピアノの胴体は木で作るのだが、これが本来の役割を超え、て打楽器のように使用され、更にはこれに彼の声が加わって、奇妙な対位法を描いている。当然彼自身も、何やら自らを圧倒するものを感じたという。「しっかりと、本来の意味でのインプロヴァイゼーションをしようというなら、自分が恍惚状態になることに、手慣れていないといけない。でないと、音楽から自分が離れてしまう。恍惚状態というのは、五線紙にペンを走らせる場合は、いつだって、ただ待っていればやって来る。書いているその日は来ないかも知れない。でもインプロヴァイゼーションをするとき、例えば今夜8時にそれが行われるなら、自分でその状態を作り出せるくらい手慣れていないといけない。 

 

ブレゲンツでのコンサートは、民謡風のモチーフからスタートした。これを聴くと聴衆は「今夜は終わる時間を決めて、恍惚状態になろうというのだな」とわかる。まず、「主題と変奏」の手法で、モチーフを発展させる。だがその後、彼は方向を変え、男女が悦に浸るラウンドダンスのリズムパターン(彼の「宗教儀礼」のようなパフォーマンスにはよくある)へとのめり込む。この間、ずっとうめき声が聞こえるが、遠下区芸術にかかるセオリーなど全部否定して、無いものを創り出す行為なら何でも(ウソを創り出す行為はのぞく)許されるんだ、と宣言しているようである。ジャレットが口にしてはばからなかったことがある。それは、自分は常に力技で、例えば「黒いダイヤ」の鉱夫がツルハシでガツガツ「掘り出す」ように、ピアノという「黒い台」からガツガツ音を「放り出す」という。とはいえ、途中頻繁に、ゆっくり目を閉じれるような休憩地のような場所や、極端に遅いテンポが入ってきたりする。ここで彼は10本の指、全身に活力を送り続ける心臓、それを司令する脳を休める。それが済めば、今度はちょっとしたインターバルやメロディの断片が提示されて、休憩は終わり、次のデルヴィーシュダンスが展開されてゆく。ここに、巨大なピアノの音の塊が現れる。ムソルグスキーの「展覧会の絵」の、卵の殻をかぶったひな鳥が鍵盤の上を駆け回り、プロコフィエフの「鋼鉄のあゆみ」さながらの金属的な音が響き渡り、整然とした雰囲気などカケラもないマーチが、祈るようなうめき声だの装飾音符だの足踏みのような音だのから生まれ、やがてそれは、あたかもピアノと格闘しているようなサウンドになり、ついには彼の10本の指が(折れることなく)安らぎにいたり、ヨハン・セバスティアン・バッハばりのポリフォニックなフレーズが登場する。嵐のような拍手、そしてやまないアンコール、ジャレットはというと、巨大な様態の束縛から開放され、自らのささやかな恍惚状態を喜び、いわゆる「お土産」用の曲を、聴衆へ贈る。 

 

ブレゲンツ」アルバムの3つ目は、モチベーション高く、気持ちもノッているジャレットが、素材と成るメロディやリズム、ハーモニーを自在に操り、堂々たる音楽表現を聞かせている。これに対して、ミュンヘン・ヘアクレスザールでの2つの部分の収録の方は、例えて言うなら、安全ネットも何もなしで綱渡りをして落ちてしまうのではないかという、危険性をあらわにしている演奏だ。と同時に、この録音は、「これぞキース・ジャレット」という演奏をあらわにしている。この公演でキース・ジャレットが見せた顔は、まずはハングリーな求道者、次に楽器の可能性の探求者、そしてポップアーティストとしてのジャズ・ミュージシャンが手塩にかけた音楽を低きに置こうと企み、最後には狂人となって、ピアノを撥弦打楽器へと変貌させてしまう。 

 

 

キース・ジャレットのソロのコンサート言えば、大抵の場合、演奏が始まって最初のうちは、どこへ向かってゆくのかが見えてこない。時にはこんな始まり方をすることもある:出だしは感動的なほどシンプルな8小節のフォークソングもどきのフレーズで、最後がフリージャズの混沌で終わる。だがここでは、誰かのためのオマージュのようなものもなければ、バロック音楽に特有のポリフォニーもなく、オープンオスティナートも聞こえてこない。ロックを演奏させたときの、ジャズ・ミュージシャンの優秀さを証明しているかのようである。それがコンサートの冒頭から聞こえたなら、無調性音楽の不協和音に辟易している方々には、ガッカリすることは決して無いだろう。ときには肩透かしもあるが、少なくともこれまでの実績と、音楽にかける真剣さを鑑み、ミュンヘン・ヘアクレスザールでの収録のリリースは、賢明であった。「フリージャズ」のもつ明暗両側面は、全体を通してもハッキリとは顔を出さない。そして一度限りのコンサートで、ジャレットの音楽性がこれほどしっかりと示されるものは、他を見ても見当たらない。 

 

冒頭、後期ロマン派の音が聞こえてくるのは、高度な形式に基づく相互作用の基礎を築く骨組みを提示するため、そんな風に思える。だがすぐさま様子が変わり、ジャレットが道を踏み外し、ハーモニーもリズムも、全く誰も踏み入ったことのない世界へと迷い込み、イライラをつのらせつつ出口を探しているが、見つからないといった風情。何度も繰り返して策を講じハーモニーの表現をするものの、いずれも曖昧に終わり、結局同じところをグルグル回っているようにしか見えない。なんとかハマってしまった型を壊すべく、個々の音のつながりを断ち切って、単純で短いフレーズにするのだが、結局は童謡みたいになってしまっている。下手をすれば、1970年代にあったローザンヌでの公演みたいになっていただろう。あの時ジャレットは、ピアノの席を立つと、舞台前方のかぶりつきまで歩いて行き、客席に向かって、自分は演奏を途中でやめるから、残りを弾いて終わらせてくれる人は誰かいないか、と真顔で登壇を促したという。 

 

このレコードの第1部2番めのセクションでは、風景が変わる。といっても、メロディやリズムやハーモニーの本質に大きな違いが発生するわけではない。ジャレットの探究心の矛先は、とある力を秘めたハーモニーに向けられる。聴衆は、正真正銘の宗教的儀礼が始まる予感を覚える。彼の狙いは、単なる曖昧さのせいで自滅することでもなければ、音楽的にくだらないものに甘んじことでもない。そして、夢か現か、ジャレットはどんなメロディの変奏も無条件に意のままにしてしまうという、主軸となる音を見つけてしまうのである。このに音は何度も手を加えられ、展開部はその翼を目一杯広げ、眼を見張るような装飾が付け加えれられてゆく。同時に、ジャレットの、自分の思いを自由に解き放つあまり発しているうめき声と足踏みが、そのテンションを高めてゆく。今や主軸の音は、振り子のように、左手の低音部から、右手が奏でて展開中である東洋風の装飾音形との間を行き来する。振り子のような運動は、ギリシャ伝統舞踊「シリタキ」のリズムへと変貌し、恍惚状態へと熱を帯びテンションが高まり、より瞑想的な段階を経て、もつれた絡まる対位法的表現が、ドタバタ・グルグル狂ったように迷走する。両手の「ドタバタ・グルグル」は荒々しさと凶暴さを増し、うめき声と足踏みもさらに強くなる。こうなると誰が見ても、ジャレットはピアノを弾いているのではなく、ピアノと格闘している状態になっている。かくして、この「名演」は、嵐のような拍手喝采とともに終わるのである。 

 

休憩後ジャレットは再び狂喜の歓声に迎えられる。そして、彼が奏でる演奏には、音の格闘は全て消え去ってしまっている。心地よく揺れるカリブのリズムが、まるで南の島全体をお陽様色に染め上げるように、ひたすら楽しい雰囲気がほとばしり、ジャレットは幸せいっぱいの民族色豊かなメロディで、軽快かつ美しい響きを醸し出すべく、ノリノリの演奏を聞かせる。すると一転、新たな展開を告げるような暗雲が立ち込める。ジャレットは椅子から立ち上がると、ピアノの弦を直接指で爪弾き、プリペアードピアノよろしく音にミュートをかける。ガラガラ、ゴロゴロ、ケタケタ、ピチュピチュと音が鳴り始め、時々、ジャレットの声帯から聞こえてくる、「あぁ」だの、「おぉ」だのといった、空気音が重なってくる。この恍惚状態を、客席にいる聴衆は、まるで両手に「触感」として感じ取ることができている。ピアノが打楽器に変身したことが、それほど鮮やかに、それほどしっかりと伝わっているということである。すべてを出し切った末に、演奏は拍手に包まれてゆく。 

 

 

これほど高いボルテージのあとで、その日のコンサートがどんな始まり方だったか、覚えていられる人はいないだろう。コンサート開始に際し、ジャレットは自分の持ちネタをいかに駆使するか、その組み合わせによって間違いなく出せる「化学反応」は何か、まるで研修室の科学者のように、入念にセットアップを試みる。その理由を理解できない人はいないだろう。ミュンヘン・ヘアクレスザールでの公演は、文字通り、人間が引き起こした自然現象であり、その人間の持てる音楽のネタを、すべて放出しきったのである。放出しきったのなら、次は何も無いのでは?と当日コンサートを目の当たりにした聴衆は思ったかも知れない。今も増殖中の、ジャレットファンの岩盤層は、「次も何かやってくれる」と確信していた。

フォート・ヤウー:「アナグラム」は思いを込める手段

一つの単語の文字を並べ替えて、全く違う意味の単語を作る遊び、「アナグラム」は、どこの国にもあります(特に、文字が「音」を表す国では)。

 

(猫)cat → c  /  a  /  t  → act(演じる)

 

キース・ジャレットの作品では

Fort Yawuh → f / o /  r / t /  y / a / w / u / h  →  fourth way

彼が影響を受けた思想家ゲオルギイ・グルジェフの、「第4の道」(人間が、今より更に高い次元の自己を実現する段階)のもじりであることは、有名です。