about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第5回

第3章 みんなの音楽:ブルース
  
<写真脚注>
ブルースは世界のどこへ行っても耳にすることが出来ます。写真はジョー・テンパレーと言って、スコットランドが生んだ、バグパイプの次にソウルフルなサックス奏者です。彼の演奏は、ファンの郷愁を誘います(オランダでのステージの様子)。

僕はこれまで、あらゆるタイプのミュージシャン達と共演する機会を得てきています。それもあらゆる場所で:ボストンのプーズパブ、ニューオーリンズのシティパーク、ローマの古代円形闘技場シドニーのオペラハウス、共演させていただいた方達も、B.B.キング、イツァーク・パールマンソニー・ロリンズ、ウィリー・ネルソン、スティービー・ワンダー、それからフラメンコギターの大御所のパコ・デ・ルシア。共演、と言っても、事前準備なしのパフォーマンス、つまり、リハーサル時間もとらなければ、予め用意しておいた曲もなし、というものです。こういった状況の元、多彩なミュージシャン達と共演できる曲なんてあるのでしょうか?皆に共通する音楽なんてあるのでしょうか?

実はあるのです。それがブルースなのです。まるで、ブルースが生まれたのは、彼らと共演し理解し合うキッカケ作りのため、だと思いたくなります。迷ったらブルースがあります。という感じですね。

トルコで公演を行った時のことです。ある人がやってきて舞台上に上がってきました。てには何かトルコの楽器の様なものを持っていましたが、メンバーの誰も知らない楽器でした。その人は僕達に何か一曲一緒にやりませんか、と言ってきたのです。楽器を見た感じで、僕達は最初「無理」と答えました。するとその人は何曲かその楽器で演奏して見せてくれたのです。これを聞いた僕達は「ではブルースか何かやってみましょうか」と言ったのです。その人は満面の笑顔で「いいですね」と答えました。その人との共演は上手く行き、聴衆も喜んでくれました。彼らにとって昔からおなじみの音楽と僕達の音楽が上手い形でまとまって耳に届くことが出来た、というわけです。ついこの間、僕はニュージャージー州の、とある刑務所で、服役中の方達と一緒に演奏してきました。何を演奏したと思いますか?主にブルースを、ちゃんとスウィングも決まっていましたよ。

ブルースは多くのことを伝える音楽表現です。歌詞それ自体が伝える意味と、それが歌い手によって発せられる方法によって伝えられる意味というものがそれぞれあるわけです。音楽というものは常に、言外のニュアンスを伝えてくれます。ブルースの歌詞全体が悲しみを表現したものであったとしても、音楽は常にグルーブ感を帯びています。グルーブ感を帯びている、ということは、ダンスができるということであり、ダンスはいつも人々に喜びをもたらすものです。ディジー・ガレスピーがこのことを見事に言い表しています「ダンスは誰の涙も流させはしない。」これこそがブルースを理解する鍵となるものです。ブルースは喜びと悲しみを同時に心に伝えてくれるのです。

ブルースは優れた伝道者の様なものです。伝道者と言えば、物事の根底にある本質について説く人のことです。熱弁をふるい、訴えかけるように話し、丁寧に説明し、あらゆる手を尽くして皆さんに並々ならぬ決意をもって、思いを届けようとします。ブルースを演奏するミュージシャンは、楽器を使ってこれを行うのです。泣く、うめく、叫ぶ、囁く、等々、あらゆる方法で皆さんに癒しをもたらす、というわけです「。

ブルースはワクチンの様なものです。「体に悪いもの」を正しい方法で体内に注入することで、これから猛威を振るうであろうことに対処する準備をするわけです。同じことをしたのが、奴隷制度がまだ残っていた時代の黒人の親達でした。酷い仕打ちを子供達に対して、敢えて行うことにより、やがて世間で降りかかってくるであろうことに、太刀打ちできるようにしてやっているのです。

あるいは軍隊において、新兵達に対して手荒い仕打ちをすることで、実戦での過酷な環境に耐えられるようにするわけです。

スウィーツ・エジソンと話をしていた時、彼はブルースのことを、自分が耳にしたことのある音楽の中では最も悲しい音がする、と言っていました。ジョー・ウィリアムスも同じことを言っていました。ホレス・シルヴァーは、最も嬉しい音がすると言い、同じくクラーク・テリーもそう言います。ブルースは、人の思いをどんな時でも形にして見せる完璧な仕組みを持っているのです。

技術的な話をしましょう。ブルース形式は、12小節が一つのくくりで、これが一つの曲の間中何度も繰り返されます。丁度アナログ時計の二本の針が、一日中回り続けるのと同じなのです。この形式は三つの和声があることを特徴としています。三つの和声は、序盤、中盤、終盤といった具合です。更には、3回の歌唱と3回の楽器演奏による合いの手と、まるでキリスト教の聖三位一体のようですが、それがブルースです。

伝統的なブルースの歌詞を例に見てみましょう(”Crazy Blues” by Leon Redobone[1977])
丘を下り、線路に頭を横たえた
丘を下り、線路に頭を横たえた
汽車が走ってくると、クズな頭をさっと引き戻してしまった
次の図は、典型的な12小節のブルース形式をレイアウトしたものです。

 


この図、複雑そうに見えますが、基本的なコンセプトを2,3理解すると、読み取りやすくなります。カレンダーの「月」は、「日」で数えてゆきます。一か月というのは、大体30日あります。「小節」は「拍」で数えてゆきます。ブルースの典型的な一小節は4拍です。「月」が経つのと共に、地球の公転に際し季節は四つ過ぎてゆきます。四つの季節は、それぞれに三つの「月」があり、これは一年間に12か月あることと一致します。これと同じように、小節が進むとともに、ブルース形式では、和声が次々と現れてきます。三つの和声があり、それらが色々な組み合わせで三つのセクションの中に配置されます。最初のセクションでは一つ、二番目のセクションでは二つ、三番目のセクションでは三つとも、それぞれ和声が現れます。三つのセクションは、それぞれ四小節あり、これは一つのブルースのコードに12小節あることと一致します。

僕の息子のジャズパーが生まれた時、泣きながら、そして苦しそうに息をしながら、母親のお腹から出てきたわけです。看護師さん達が息子を取り上げると、体をきれいに拭いて、鼻の穴をチューブできれいに吸い取り、採血のために足に注射針を刺し、そして体のあちこち、触られたくない所を突っついたりするのです。はいよろしい、やれやれ、というわけで、息子にとってはうっとおしかったであろう一通りのことが終わり、僕の妻、つまりママの所へ戻されます。彼女は息子を思いっきり抱きしめてあげます。それがあるのが、まさにブルースなのです。

ブルースは、皆さんが悲しみに涙を流す、もっと言えば泣き叫んでいる、そして同時に
そこから自分を取り戻すことを歌い上げます。だからこそ、ブルースは人生にとって素晴らしいサウンドであるのです。ブルースは、皆さんが日々の生活で経験する極限状態を全て網羅していますが、皆さん自身が気をもんだり、自分自身を哀れに思う必要はなく、そしてより良い時が必ず来ることを約束してくれます。この究極の、前向きな物事に対する見方は、ジャズの中で息づいてきたブルースの歴史全体に一貫しています。W.C.ハンディーの「セントルイス・ブルース」、ジェリー・ロール・モートンの「デッドマンズ・ブルース」、チャーリー・パーカーの「ナウズ・ザ・タイム」、オーネット・コールマンの「ランブリング」、そしてデューク・エリントンの「ブルース・イン・オービット」

レオン・ヴィーゼルティアーが僕に言った言葉です「ブルースはアメリカの国歌であるべきだ。なぜなら、アメリカを代表する曲の実に多くが、ブルースが基になっているからだ。」僕はこの意見には賛成はします。でも、ブルースは、国境と称するものは何一つ認識にないのです。日本にはブルースと称する音楽ジャンルがあって、いくつもの曲が存在します。中国の京劇には、ブルースのような音楽素材が沢山あります。例を挙げればキリがありません。というのも、ブルースは、、世界の音楽の大半において見出すことが出来るからです。

うめき、叫び、、ユーモア溢れる脇台詞、イラッとくるような暴言など、言葉の違いに関係なく、人間の表現活動に性格を持たせるもの、それがブルースです。

東洋音楽の5音階、そして所謂「Ⅰ・Ⅳ・Ⅴ」と称される西洋音楽の三つの基本和音、これもブルースです。

「1年は12か月」のように12を一つの単位とするもの、あるいは星占いでおなじみの黄道十二宮、これもブルースです。

古代ギリシャの音階(ギリシャ旋法)で出てくる明るい音(メジャー)と暗い音(マイナー)が、同時に演奏されたり、対比をつけるために交互に演奏されたりするのも、ブルースです。

教会で賛美歌を歌う時、しめの「アーメン」と歌うときのコード進行も、ブルースです。

インドの音楽と中近東の音楽に見られる、くねるような音型のフレーズや、一つの音節にいくつもの音をあてがう「メリスマ的旋律」、アフリカ音楽の一部にみられる突き刺すような音色やイントネーション、スペインのカンテ・ホンドに見られる本場のジプシーフラメンコでの、叫ぶような歌声、教会の讃美歌、場末の売春宿での歌、農場や海岸・河岸で働く男たちの歌、ブロードウェイのショーに出てくる歌、ダリウス・ミヨーアーロン・コープランド、イーゴル・ストラビンスキーのような、自分の作品に何かしら「よりアメリカ的な」ものを加えたがったクラシック音楽の作曲家達の作品、それから「スパイダーマン」のようなアニメソングだって、どうです?これらもブルースなのです。

ブルースのルーツはアフリカにある、という人達がいます。多分そうだと思いますが、しかし、所謂「ブルース」は、やはりアメリカで誕生したものです。音楽面での技術的な要素は、全て我が国(アメリカ)で揃ったものですし、個人の自由という点で世界をリードする我が国ですから、日々の生活のこと、恋愛のこと、セックスのこと、愛情のこと、苦しみや喜びに対して感じることを、人々は気軽にストレートに表現できたのです。思い返してみてください。ブルースの基礎を築いた人々は、その多くが世界をリードする我が国の様々な自由を全ては満喫してはいなかった、ということを。だからこそ、彼らの曲に乗せて届けられる「自由」という部分は、いつだって、心からの喜びという形を取っています。この世に存在することすら否定された者達が、触れてはいけないとされているものに関わることが出来たという、心からの喜びとして、常に歌い上げられるのです。ブルースの基礎を築いた人々が、その場を去る、つまり逃げるということを好んで口にしたのは、そういった背景があったからなのです。

W.C.ハンディは、伝道師の息子でしたが、教会のしがらみから逃れようとしていました。ミシシッピ州のブルースミュージシャン達は、自由へと向かって走る北部行きの列車に押し寄せ、奴隷制の遺した因習、そして差別から逃れようとしていました。ブルースの女性アーティスト達の先駆者達が、女性達が背負わされた受身的な役割というものと決別しようとして、高らかに歌い上げたのが、自分が望まぬ形の恋愛からの解放、というやつでした。(アイダ・コックスは「ワイルド・ウーマン・ドント・ハブ・ブルース」でこれを謳歌しています)

ブルースに溢れているものは、生活、色恋、苦痛、死、愚かな振る舞い、気取った振る舞い、そういったものは悲しみと喜びが混在しているというのが現実です。だからこそ、ブルースは聴く人の心の内を根こそぎ鷲掴みにするのです。現実、とは、「ありのまま」ということです。「ありのまま」には悪魔達と天使達が同居しています。サン・ハウスは歌います「彼女が土深く永遠の眠りについてしまって、初めて、彼女を心から愛していた自分の気持ちに気付いた」。これまつまり、「彼女を失ったことにより、自分の心の深さを自覚した」ということです。W.C.ハンディの「ハガルおばさんのブルース」は、ブルースなしでは生きてゆけない敬虔な女性協会員についての歌です。ハガルおばさんは歌います「悪魔がブルースをもたらしたですって?それを言うなら、イエスが、それも迷わず私に、でしょ」。これはつまり「ブルースは邪悪なものに見えるかもしれないが、イエスは知っている、下界の私達がこれを必要としている、ということを」。全くその通りです。

ブルースは、現実の荒波という人生のハードルに備えるべく、僕達を鍛え上げてくれます。ジョン・フィリップ・スーザの音楽は確かにすばらしい。彼の作品は我が国の至宝というべきでしょう。しかしスーザが作品の中で語るのは、その視点は観念論の上に立つアメリカの偉大さとは何か、というところに置かれていることが前提となっています。僕達は国の隅々にまでわたり生い茂る雑草が如き庶民です。ブルースは言います「根っからの善人も、根っからの悪人も、人はあるがままでしかない。」人はブルースを抱きこの世に生を受け、ブルースと共にこの世を去ってゆきます。ブルースが常に傍らにあるように思えるのは、このためです。ある研究者がかつて、ニューオーリンズジャズのクラリネット奏者で、「ビッグアイ」こと、ルイス・ネルソンに、ブルースの起源はいつか?と訊ねたことがありました。これに対しネルソンは「起源なんかないさ。ずっと在る物なんだからさ。」と答えています。それからブルースと言えば、大抵、男女関係やそこでともに楽しみたいことを歌ったものが大半を占めていますが、採り上げられる題材は何でもアリ、なのです。例えは、洪水のこと(ベシー・スミスの「バック・ウォーター・ブルース」)、一文無しの悲哀(同じく「プアマンズ・ブルース」)、あるいは意地悪な上司のこと(アルバム「ウィー・インシスト!」~マックス・ローチの「フリーダム・ナウ組曲」より「ドライヴァマン」でマックス・ローチアビー・リンカーンが歌うストーリー)など。男女問わずブルースミュージシャン達は、自分の身の上話をインプロバイズしてゆきます。悲しいことや愉快なこと、現実のことや妄想のこと、下卑なことやお高くとまったこと、あるいは涙を誘うようなことでさえも、ブルースが僕達に改めて認識されてくれるのは、人生それ自体が予測不能で逃げ場のないモノの塊なんだ、ということです。今は悪い状況かもしれないけれど、必ず良くなる、あるいは本当ならもっと悪い状況になっていたかも知れない処を、この位で済んでいる。そして回復しない悪い状況などない、ということです。とにかく、レイ・チャールズの「レット・ザ・グッドタイム・ロール」(楽しい時間の始まりだ)を聴いてみてください。なぜブルースが常に傍らにあるのか、きっとお分かりいただけます。

この不滅の楽観主義(悪く言えば天下無敵の能天気)は、ブルースが非常にアメリカ的なの物である原因の一つとなっています。完全勝利はアメリカ人の大好物。ワーグナーの楽劇「神々の黄昏」のような、最悪の結末などというものは、アメリカのアートにはありえません。映画の結末と言えば、男子は女子と結ばれる、死んだと思われた登場人物達は奇跡の生還を果たす、僕達はハッピーエンディングの方が好きですよね。ブルースは約束してくれます「明日の朝になれば全て大丈夫だ」。多分、ある意味、こういう世の中に対する向き合い方は、世間知らずだと思われてしまうかもしれません。でも、ブルースには、世間知らずだとか浅薄だとかいったようなことは、一切ありません。むしろブルースは、どんな曲の内容と結論であっても、苦痛が出発点なのです。

 

 

僕はこれまでいつも、何かしらブルース形式の曲を演奏に取り入れてきています。これはニューオーリンズの住人にとっては宿命みたいなものです。僕が8歳の時初めて覚えた曲の一つが、ジョー・エイブリーの「セカンドライン」というブルースでした。高校時代ファンク系のバンドで吹いていた時も、大きなアフロヘアに厚底シューズ、みたいな、バックビートの曲で一晩盛り上がった後でさえ、「セカンドライン」を演奏したほどです。持って生まれた性の成す業であり、クレセントシティ(ニューオーリンズ)の伝統、というやつでした。でもブルースを演奏するにあたり、実際の表現の深みと言うものについては、僕達はあまり深く考えずにいました。そして、そう考えさせるような演奏を聞く機会も、あまりありませんでした。仮に考えようとしても、普段演奏したり踊ったり聞いたりしている歌謡曲のせいで、音楽に対する嗜好が出来上がってしまっていましたので、ブルースの表現の深みなど認識できるはずもなかったのです。音楽は聴き込むものではなく、上っ面を聞き流すものでした。歌詞の裏側にある意味なんて、何一つ眼中に入らないくらいですから、僕達のブルースの演奏は、大方薄っぺらな内容であり、そしてそれを聴いてくれている人達も誰一人として、折角曲自体は素晴らしい内容があっても、それが分かる人は誰一人として、いるはずがなかったのです。ブルースやジャズミュージシャンというものは、音楽の「食物連鎖」の最底辺がその居場所でした。レコードはヒットチャートに全然載らない、新鮮味も全然ない、女の子達にも全然見向きもされない代物、というわけです。

ニューオーリンズを訪れる観光客の多くのお目当てが、「昔懐かしい」演奏を聞くことであり、そして多くの年配のミュージシャン達も、時代の流れに抗って、そういった演奏に固執していたこともあり、ニューオーリンズは世界一ブルースが溢れる街となったのです。とはいえ、僕達はやはりアメリカ人です。御多分に漏れず、物事の価値を測るのは、やはりお金。14歳の時にファンク系のバンドで吹いていた時は、ダンスイベントで一晩本番をこなせば、ブルースを演奏するよりも、そしてジャズミュージシャン達がクラブで本番をこなす時よりも、僕の方が稼ぎが良かったのです。こうなると、ブルースの美的価値など考えるはずもなく、そういった意味では、他の金にならない音楽についても、同じ扱いをしていました。

僕達の仲間内でも、ジョン・コルトレーンのようなジャズミュージシャン達をリスペクトしている人達は何人かはいました(何だかんだ言っても、僕達は好きで音楽をやっていたわけですからね)。とは言え、コルトレーンの演奏を聴いても、その中にあるブルースの要素について、いかに重要であるかっは、理解していたわけではありません。サウンドに込められた精神性の深さは耳に届いても、それとブルースが結びつかないのです。彼独特のコード進行の中で繰り広げられる演奏スタイルこそ、実際インパクトがあり、スピード感や激しさ、そして音量と言った、1970年代に重要視されていた要素です。この頃の演奏スタイルと言えば、一人一人のプレーヤーが大音量で吹いてくるので、相当な技術がないと自分の音を聞き手に認知してもらえないような代物でした。本番を成功させる上では、ちゃんと音楽的なインプロバイゼーションを作り出してゆくよりも、多彩な照明やダンスステップ、それからバックコーラスと言ったものの方が、はるかに重要視されます。ソロパートは場を盛り上げることが役目であり、メッセージを伝えることではない。まるでサーカスですが、女の子達には受けが良かったのです。彼女達は、「それが本番のあるべき姿だ」と思わせてきましたし、実際その通りにしていれば、何の問題もなかったのです。

ブルースには追求すべき美学というものがあって、僕の音楽経験の一部にそれは既に組み込まれていました。そのことに初めて気付いたのは、17歳の時にニューオーリンズを離れてニューヨークへ移った後のことです。何とも皮肉な話です。そう気付かせてくれた恩人が二人います。

一人目は、音楽評論家であり優れたドラム奏者でもあるスタンリー・クラウチ。僕が彼と出会ったのは、ニューヨークでの最初の冬でした。場所は自宅近くのスウィングの殿堂ともいうべきジャズクラブ。西97番街コロンブスアベニューにある、その名も「マイケルズ」です。彼は僕に「はじめまして」と当然挨拶してきたわけですが、実は僕の方は、彼のことを既に知っていたのです。というのも、僕の父がかつて、雑誌「ビレッジボイス」で繰り広げられていた、スタンリー・クラウチアミリ・バラカとの間の大論争(警察機構に絡む何かについて)に注目して読んでいたのを知っていたからです。記事を読み続けてきた父が結論付けたのは、クラウチの論法は倫理的にまっとうであり、一方バラカは頭に血が上ってしまっていて、プロ意識がベースになっていない、というものでした。父がバラカをリスペクトしていたのを知っていた僕にとっては、父の結論は印象的でした。クラウチと僕の対談は、ののしり合いから始まったのです。まず彼は、僕が吹けないヤツだと言い、僕は彼の頭を揶揄中傷しました(ニューオーリンズアフリカ系アメリカ人がよくやる言葉遊びに「ダズンズ」というのがあります。韻を踏みながら相手の家族について、頭や唇の大きさ等悪口を言ってゆくのです。クラウチとのこの時の対談では、彼のお母さんのことについては触れませんでした。目新しいやり方でしょう?ぼくはこのダズンズという言葉遊びが大好きですが、大人同士で相手に「お前の母ちゃん〇〇〇」なんてやってしまったら、間違いなく本当のケンカになってしまいますからね)。

クラウチが招待してくれて、僕はマンハッタンのヴィレッジ地区にある彼の家を訪ね、音楽について語り合うことになりました。その頃僕は、まだニューヨークには、さほど多くの知り合いがいたわけではなかったので、彼の招待は僕にとっては大きな社交イベントでした。クラウチのガールフレンドのサリー・ヘルゲッセンが、素晴らしい食事を用意してくれて、僕は実家に戻ってくつろいだ気分になれました。家のそこかしこに本やレコードが積んでありました。彼が語り始めます。デューク・エリントンオーネット・コールマン、それから僕があまりじっくりとは聴いたことがなかった(と言っても色々と感想は言える)ありとあらゆるミュージシャンのこと。それはもう半端ないといいましょうか、山の様な文献や音源に囲まれたこの部屋で、このクラウチという人物は、ダズンズをして見せたかと思えば、日頃はこの山積みを深く考察し、執筆活動を繰り広げ、対象となる物事の意義や内面に大いに関心をもって臨んでいるのです。本当に驚くべきことでした。僕は物事を考えたりそれを言葉にすることに、嫌悪感は抱きません。両親共に子供に対して、ものを教えたり本を読ませたり、会話の場を持つことが好きだったことが影響しています。それにしてもクラウチは情熱的であり、ジャズを含め実に多くの話題に精通しているものですから、僕にとって彼と親交を深めてゆくことは、行くのが待ちきれない学校へ通うような気分でした。彼とは今でも親しい関係を保っており、時には意見の相違もありますが、彼に対する敬愛の念はこれからも深遠であり続けることでしょう。

クラウチは僕に、文筆家で文化評論家でもある、アルバート・マリーに、是非会ってみるよう強く薦めてきました。これまた僕にとっては、神の啓示というべき出来事でした。時代は1970年代の終わりから80年代の初頭。マルコムXの亡霊が時流を支配し、ブラックナショナリズムが黒人の若い世代で政治や社会問題に関心を持っていれば、皆その思想の柱となっていた頃です。僕もまた、怒りと若い情熱の炎で溢れていました。僕が育ってきたルイジアナ州の小さな町は、どこも、何世紀にもわたってガッチリと作り上げられてしまっている偏見差別に、ドップリと浸されていましたからね。僕達の世代は、社会情勢は違った方向へと変わってゆく、と教えられてきてはいました。事実、多くの部分において、その通りにはなっていたものの、一方で多くの場面において、「黒人は我慢するのが当然」という悪しき空気感は残っていました。

公民権運動のほとぼりが冷めて、さほど時間が経っていなかったにもかかわらず、僕達の世代にとっては1950年代とか60年代というのは、既に大昔の事でした。年配の世代は黒人差別というものが自分達にどんな影響を与えてきているかについて、多くを語りませんでした。そして我が国(アメリカ)の、あまりに多くの生活の場面が、依然として差別的であったのです。ブラックナショナリズムが使うような言葉の表現をしない年配の黒人は、僕達の世代から見れば、アンクル・トムだの、ヘアスタイルをキープするハンカチの頬かむりだの、といった、プライドを捨てて媚び諂う連中、と映ったのでした。

勿論、自国(アメリカ)の歴史に関する僕達の知識は非常に限られており、アフリカ系アメリカ人に関する近現代史のそれに至っては、その悪影響の下で生活を送っていたにもかかわらず、ほとんど理解されていませんでした。我が国(アメリカ)の歴史の流れのどこに、自分達は身を置いているのか、あるいは現実社会のどこに居場所があるのか、今も昔も迷子の状態なのです。僕達の世代から見れば、年配の黒人は、逃げ場を奪われた犠牲者であり、彼らが耐え抜いているあらゆる仕打ちに、僕達は絶対に耐えられない - バスに乗る時は後方の席(その必要がなくなってからも生得の習慣で依然としてそうしてしまう)、白人の皆様方の素晴らしいお考えに、いつまでもひれ伏させて頂き、ゴマすり、諂いに徹する態度 - そんな思いでした。僕達にとってはブルースはその一部分でした。僕達が抜け出そうとしていたものの象徴であり、白人達にアゴでこき使われているという現実から目を背けようとして、自分の彼女や奥さんに八つ当たりする黒人みたいなものだ、というわけです。

僕達はかつて、楽曲について話をする時に「こんなのただのブルース」という言い方をしていました。このアフリカ系アメリカ人の育んだ伝統の持つ偉大な価値も、そしてこれが現代の僕達が抱える様々な苦闘を乗り切る大きな助けとなることも、まるで分っていなかったのです。更には、ブルースは方法を飲み込めば、使いやすいツールであることも、気付いていませんでした。ブルースは僕達に、誇りと帰属意識をもたらすことさえできる、ということも、想像し得ませんでした。原因は、僕達を板挟みにした二つのことにあります。一つは、教育システムが不十分であったこと。もう一つは、ビジネスの宣伝活動が、所謂「世代のギャップ」を上手く利用し先細りを招くも大成功を収めたこと。こういうことをすると、人は「知らぬが仏」の状態になります。僕達は当時そのことについて考えもしませんでした。それが当たり前と思わせた、そして未だにそのままであるわけです。そして、そのことによる犠牲者は今や何百万人といて、高齢化し、僕達が一人残らず教え込まれてしまった、嘘と誤報に基づく生活を、何も考えず送ることによって発生することに、影響を与え続けているのです。

アフリカ系アメリカ人でない僕の友人達の多くが知りたがっていることがあります。それは「どうしてアメリカの黒人達は、ブルースにしろジャズにしろ、自分達自身の文化に由来するクオリティを持つことを、大事にしないのか?」ということです。好まない、というわけではない、むしろ大好き、単にその自分の気持ちに気付いていないだけなのです。公民権運動の後に僕達がたどり着いた、黒人皆の、それも意識的に出したわけではない結論でした。でもこのことで、大切なものを一緒に失ってしまい、ブルースは絶滅の運命を辿らされることになってしまうのです。本当は、ブルースについて言えば、日の当たる場所と当らない場所があるわけではなく、ブルースそれ自体が、日の当たる場所だったのです。

今日、アフリカ系アメリカ人達が築き上げてきた芸術には、後世に受け継ぐべきものが豊富にある、ということについて、当の本人たちの間では、一般的に言って、そういった認識もそれに対する理解もなければ、まだまだ知っておくべきことがあるんだということも、あまり知られていません。良く知られている情報のせいで、すぐ思い浮かんでしまうのが、100年以上前のミンストレルショーで、それを伝えるのは、ラップミュージシャンや、いかがわしい腰つきでイエスキリストを賛美する退廃した教会音楽であったりします。このことは、黒人にとってだけでなく、アメリカ全体にとっても、とても悲しむべきことです。なぜなら黒人は、アメリカ国民にとってのアイデンティティの中心的位置にいるからです。

クラウチと私が足を踏み入れた、ニューヨークの132番街にあるマリー氏のアパート。そこは映画のワンシーンを見るようでした。ありとあらゆる本とレコードがあり、もっともこちらは、クラウチのアパートと違って、全てキチンと整理整頓されていました。壁には、ロメール・ベアデンとノーマン・ルイスの絵がかけてあります。小さなスペースに多くのものが、小奇麗に詰め込まれている、といった感じです。マリー氏が話の中にちりばめてくる多くの知識は、彼との出会いがなければ、僕は触れる機会すらなかったものばかりで、はじめは彼の話していることが良く理解できませんでした。でも会話を進めてゆくうちに、彼の話題の多様さと、それらが全てお互いに関連性があることなんだ、と知り、感銘を受けたのです。

それまで僕が経験したことがあった黒人問題についてのお堅い話といえば、その論点は「黒人と白人」つまり両者の「対立」にありました。しかしマリー氏は違っていて、両者を好み、熱く、深く語るのです。僕のように典型的な青二才の黒人革命家予備軍にとっては、あまり馴染みのない、ルイ・アームストロングデューク・エリントンの音楽について、好んで語ったかと思えば、同じ情熱と洞察力で、フォークナー、イェーツ、トーマス・マンの文学について語るのです。彼の仕分けにおいて基準となるのは、人種の違いではなく、思想のクオリティ(質)でした。

これには僕の知識が持つバックグラウンドは、何の役にも立ちません。それまで僕が知っていたジャズミュージシャン達は、一人残らず大変な知識人とは言え、世間からは浮いた存在でした。学校教育の現場では、黒人達がその知性により作り上げてきたものは、ひとくくりにして排除されていた時代です。僕の目の前にいるこの人物は、兵役に服し、大学を卒業し、僕よりも2・3世代上で、そして誰もが見たことがあるであろう、媚び諂う黒人とは、かけ離れた存在でした。そんな彼が今、薄明りのハーレムのアパートの一室で、凛とした佇まいで、50年の年月をかけて収集した、人類の知性の粋を記した本やレコードに囲まれて、僕の目の前に座っているのです。彼は僕に向かって、あれやこれやと本を取ってこさせ、どこの章の何ページ、と言ってはそこを開かせると、丁度そこに彼が話していた内容が書いてある - それもプラトンからジョン・フォードフレデリック・ダグラス、更には熱原子力学からジェームス・ブラウンまで、多岐に亘っています。奥様のモゼルさんは、皆さんの家族にいる最高の、そして最愛の人を思い起こさせるような方です。彼は、こちらが向学心を示すと大いに喜びます。ブルースは人間の真実だというと、それについての彼の著書を渡してくれました。家に持ち帰って読んでみると、これまでの人生経験で「重要だ」とも「特別だ」とも考えたことすらなかったことが沢山書いてあるのです。ところが読んでみると、誰もが関係することだからこそ、それは「特別」なのであり、ブルースの美学を人種問題へと堕してしまうことが、いかに貧弱な発想であるか、が良く分かります。さてこれで、彼とこの話題について話す前に、彼と思いを共有することになりましたから、こうなってくると、彼の話は、オーケストラの指揮者が出す合図のようになります。弾き始めがいつなのか、分かっているのに、その合図をだしてくれるわけですから、大いに安心感がわいてきます。いずれにせよ行き先を示してくれるわけですが、自分独りぼっちではないので、時間も短縮できますし、物事に向き合うにせよ、一人でいるのとは全く違う感じ方が出来ます。助けが、それも大きな助けが、与えられているのです。
マリー氏の「Stomping the Blues」(ブルースを踏みならす)は、僕が普段から何気なく接している音楽や、過ごしている生活を取り巻く美的な着眼点について扱っている本で、僕はこういう本は、後にも先にも読んだことがありません。

とは言え、そこに書かれている考察がどれほど刺激的であったとしても、本のタイトルにある「ブルース」は、本で読むのと実際に演奏するのとでは違うのです。紙の上でどれだけ頭をひねって考えようと、音楽や人の行動についてどれだけ知識を詰め込もうと、肝心の演奏ができる力がなければ、何の助けにもならないのです。スポーツ選手になりたいという大きな夢を叶えられなかった人は、誰もがある時点で、頑張るだけでは十分とは言えないという現実と向き合わなければならなかったはずです。そういった点からいうと、結局、演奏できるようになるには何が必要か、スポーツ選手がプレー出来るようになるには何が必要か、他にも才能を身に付けるには何が必要か、誰にも分らないということです。しかしブルースを聴くこととなると、他の芸術分野についてもそうですが、知識があれば、ひたすら聴く力は伸びてゆきますし、逆にそれがないと、身に付かないものです。

演奏することと聴くことの違いは、ここにあるのです。聴く力は、努力すれば身に付きます。良い演奏を楽しめるようになるには、その演奏形式について「良い演奏」の条件というものを、しっかり時間をかけて理解するだけで、誰でもOKです。僕は高校時代、比喩表現をたくさん含む詩を読むことが大嫌いでした。「言いたい事があるならハッキリ言えよ!」とね。しかし、一旦こういった比喩表現が詩を豊かにして、少ない語数で多くを伝えることが出来る、ということを理解した途端に、比喩表現の巧みな使い方を楽しめるようになったのです。

ブルースには、歌詞と音楽の両方に隠喩が沢山詰まっています。アルベルタ・ハンターの「キッチンマン」を聴いて頂けると、僕の言いたいことが信じて頂けると思います。前もって知識を得てから聴くと、音楽は楽しくなります。

このことは、読書と大変良く似ています。話の筋を追う、分からない語句の意味を調べる、何事についても良く学ぶ、こういったことを好まない方は、文学には向かないでしょうし、好む方には、未知の世界が広がり、生涯尽きることのない発見と楽しみが待ち受けているのです。ブルースとジャズについて言えば、わずかな投資の見返りが、膨大な人間感情、あらゆる種類の精神の豊かさ、そして、とにかくひたすら楽しい時間、こういったものとの出会いをもたらすのです。

僕はかつて、ジャズの巨匠ジョン・ルイスに、彼が定義するジャズとはどういうものか、訊ねたことがあります。彼はこう答えました「ジャズは、スウィングしなくてはいけない。若しくはスウィングしているように見えなければならない。ジャズはサプライズの要素を含んでいなければならないし、飽くなきブルースの追及が演奏という形にならなければならない。」

もっともブルースは、わざわざ探さなくとも見つけることはできます。カントリーウェスタンにはブルースの形式を持つものがありますし、ブルーグラスやファンクにもあります。文字通りブルースですし、ロックンロールもそうです。

ブルースを演奏するからには、何かしら、誰にとっても明らかな、社会の抱える病的な問題に苦しんでいるかどうかを、そこに絡ませるべきだ、と考える人たちがいます。それは確かに、人は誰でも相応の苦労はしているものです。ブルースについて言えば、問うべきことは - そういった苦労は自分をどう苦しめてきたか?それに対して自分はどうしたいのか?それを他人にどうやって感じ取らせたいのか?そしてそれを他人に伝える勇気と能力はあるか? - ということです。苦労を乗り越えたかったら、そして他人に対してもその手助けをしたかったら、ブルースを演奏することこそ、最良の方法だと、僕は思っています。

ブルースの演奏の仕方には、不思議とその人らしさが何かしら現れるものです。他人の演奏を真似ることは不可能とされています。音符の飾りつけや即興的に演奏する一節をコピーしたとしても、サウンドまでは同じようには響かない、十人十色ということです。ジョン・コルトレーンの真似ができる人も、ブルース、特にテンポがゆっくりの曲は、真似し切れません。ブルースは、テンポがゆっくりになるほど、真似できる要素は減ってゆき、逆に、益々多く、自分なりの叫び方、むせび方、そして自分自身の表現したいものを見出さざるを得なくなってきます。ブルースを演奏するミュージシャン一人一人を見分けるのが楽なのは、こういった事情があるからなのです。聴き手は、ブルースの演奏の仕方の違いが、アーティストによってある、ということが、聞くと分かるものです。

僕が初めてニューヨークへ来た頃、年上のミュージシャン達は、僕の演奏することを全く評価してくれませんでした。小手先の器用さはあっても、内容が無かったのです。ある夜の本番に、レイ・ブラウンミルト・ジャクソンが僕を出演させてくれた時の事でした。当時18歳かそこらであった僕は、何が何でも速いテンポで吹きまくっていたのです。その夜、彼らが僕にさせたこと、何だかわかりますか?それはそれはテンポがゆっくりなブルースでした。どうしようもなく、僕はとてつもなく速い指回しで音符の飾りつけをし、高い音域の音を連発して、同じ一つのことを繰り返し、鼻から息を吸いながら同時に口から吐き続ける「循環呼吸」で吹き続けるなど、当時の僕の世代にウケがよかったことを全て出し尽くしたのです。会場のクラブにいた聴衆の大半は、本物のジャズを知る人達でしたから、普段僕が接している聴衆とは全く違いました。それでもなお、僕は、自分の演奏がヒドイと分かっていつつも、それがその夜のお客さん達に伝わらないことを願いました。その願いを打ち砕いたのが、ミルトの僕への問いかけです。「お前さん、気付いたかい?お前さんが来る前とくる後での音の違いがさ?」
僕は言いました。「はい、それはもう・・・。」
「で?その違いは何だか分かるかい?」
「教えてください。」
「お前さんの姿が、そこに在ったか、無かったか、それだけさ。音の違いなんて、ありゃしないよ。」

彼の言ったことは、正しく、手厳しいモノでしたが、公平な意見でした。僕の演奏の仕方は、僕の個性や感情を表現することが、まだまだ分かっていない代物だったのです。ようやく、ブルースというものが、自分の情熱と知性を注ぎ込むのに、どれ程力を貸してくあれるかが、解り始めた頃でした。僕はまだまだ「こんなのタダのブルース」的発想から、抜け出せていませんでした。この経験をきっかけとして、僕は自分の演奏を見直し、華やかさや感傷的な吹き方といったものよりも、演奏の中身や正直な表現といったものを強調するように、方向転換をしたのです。

またある夜の本番では、スウィーツ・エジソンから同じような洗礼を受けました。彼はテンポがゆっくりなブルースを採り上げたのです。僕が演奏を終えると、スウィーツはこう言いました「おい、君がしたことは、私がプロになってから吹いた音符の数より多く音符を垂れ流しただけだな。」つまり言おうとしたことは、「結局何も伝わらなかったね。」

「皆さんが弾きこなすこの難しい曲の数々、僕も皆さんと一緒に演奏するということを、しっかり自覚して、しっかり学びます。」僕はそう心に唱えました。

当時はそうやって、僕より先輩の方々の洗礼を受けていたのでした。「何だそれ?フラッシュ(ひけらかし)君」「ここでは、ちゃんとしたブルースを演奏するんですよ、フライバイナイト(夜逃げ人)さん。あの、ちゃんと一緒に吹こうとなさってはどうです?」僕はようやく分かってきました。「勿論ちゃんとやってるさ。この人達、悔しいけど演奏上手過ぎだ。見てろよ。ジェネレーションギャップに負けるもんか。必ずこの人達の持っているモノを、僕のモノにして見せる。」

僕は学んだのです。ジャズミュージシャンの最悪の過ちは、ブルースから逃げることだと。僕のセプテット(7人編成のバンド)をビシッと引き締める、自戒の合言葉は「逃げるな、立ち向かえ」です。そしてブルースは、どこにでも存在しています。ジョン・ルイスが「飽くなきブルースの追及」と言ったのは、このことなのです。それはブルースを大切にする理由であり、ブルースを大切にする時、人種・民族・思想が何であれ、その人は「人類」として、自分自身の財産を手にしていることになるのです。

次回は、第4章を見てゆきます。