about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Moving to Higher Ground を読む 第8回の4 デューク・エリントン/ディジー・ガレスピー

デューク・エリントン 

 

1969年4月29日の夕方、ホワイトハウスにはデューク・エリントンの姿がありました。大統領自由勲章の授与式が行われたのです。この日は、彼の70回目の誕生日でした。翌日の夜、彼の姿はオクラホマシティシビックセンターにありました。バンドを率いてのコンサートへ戻ってきたのです。このコンサートツアーは、彼が半世紀近くも取り組んできたものです。 

 

彼はそういう人だったのです。あらゆる人のために奔走する彼は、自分の全てを懸けて絶え間なく音楽を創り続けた、ジャズの不動の代表選手なのです。 

 

デュークはアメリカ一の多産なミュージシャンであり、その音楽には学ぶべきことが沢山詰まっています。彼が生きるその根っこにあるもの、そして無限に湧いてくるインスピレーションの源、それは、全ての人に対し好奇と愛情の念を持っていた姿なのです。皮肉な話ですが、エレガントな着こなし、そして「いつも自分は本番舞台上」という佇まい、このせいで皆が彼とは少々距離を置くのでした。もっとも彼の自叙伝「Music Is My Mistress」によれば、「俺の人生は宴」のようであった、とのこと。彼が知り合いとなり、そして彼が愛した人々が織り成すカレイドスコープ(万華鏡)を通して、彼の世界が描かれています。 

 

頭に血が上った人同士のやり取りや、人の異常な欠点というものを、彼は好みました。中の悪い2人がバンドに居るとします。彼なら、まず、隣同士に座らせる。絡み合いのあるソロをやらせる。そして様子を見る。彼はミュージシャンが好きなのです。それも単に演奏だけでなく、その人自身を愛してしまうのです。それがあるからこそ、何年間にも亘って、できるだけ多くの人々と共演したい、だとか、同じメンバーと何十年も演奏を共にしたい、とかいう気持ちになれるのです。 

 

愛し合う男女の豊かな心の生き様を表現させたら、彼の右に出るミュージシャンはいませんでした。彼がピアノで一音鳴らしただけで、月明かりがすうっと差し込んできます。かれは女性達を愛し、彼女達も彼を愛したのです。 

 

人生とは先が読めないもの。これも彼が愛したことです。彼はカオス(混沌とした状態)を大事に好んでは、その中に音楽的な作品へと「仕上げてゆく方法を見出しました。かれのバンドはまとまりに欠け、指示が通りにくく、彼以外の人間にはとても御し切れない集団だったのです。まずはテナーサックス奏者のポール・ゴンザルベス。本番中、大半の時間居眠りしていたかと思えば、パッと目を覚まして30コーラス熱気あふれるソロを吹く。ジョニー・ホッジズ。情熱的なバラードを演奏したかと思えば、指をこすり合わせる仕草で「ギャラ上げてよ」と合図する。レイ・ナンスは背が高いので、自分のマウスピースが見つけられない、ましてや楽譜などいうまでもない。この様なバンドですから、誰がリーダーになっても頭がおかしくなってしまったことでしょう。でもデュークは違ったのです。大概の人が混乱を収めるのに型で自分を守ろうとする処を、彼は型で抱きしめてあげようとしたのです。 

 

それまでずっと、甘美な社交ダンスの音楽を主に演奏していた24歳の時に、彼はシドニー・ベシェの音楽を耳にし、初めてニューオーリンズ音楽の力を理解しました。当時大半の人々が新しいホットジャズを、単なる目先の新しいモノ、昔ながらの甘美さのある音楽から見れば敵だ、と見なされていたのです。デュークはジャズが、ホットで尚且つ甘美な音楽となりうることを、見抜きました。彼は既に自分のモノにし始めていた甘美な音楽を手放すことはしませんでした。でも彼は、新しい音楽表現を身に付けていくという難題に取り組むことを決意し、早速ニューオーリンズ音楽の芸術的要素を混ぜ込みはじめました。その土台となるものを、彼は一生懸けて解明し、磨き上げてゆくことになります。 

 

彼はジャズを「音楽による言論の自由」を呼び、メンバー達にはよく「自分のパートに人格を与えること」と言い聞かせていました。ポール・ゴンザルベスがデュークの門をたたいた時には、ベン・ウェブスターの有名なソロの数々を披露したそうです。楽団に採用されたものの、ツアーに参加した時もまだベン・ウェブスターのような演奏をしていた彼を、デュークは傍へ呼び寄せ、こう言ってやりました「ベン・ウェブスターは過去の人間だ。私はポール・ゴンザルベスを採用したんだ」。 

 

彼の音楽が時代遅れになるようなことはありませんでした。なぜなら、彼は自ら進化することを止めなかったからです。アメリカの作曲家達がヨーロッパ音楽に盲従し盲従し、それが未来を切り拓くことになるんだ、と信じ込んでいた時に、デュークは自分のすべきことを続け、ジャズという国境を越える言葉で、自分が生きている時代を表現する新たな方法を編み出します。ダンスミュージックを手掛け、色々な土地に固有の音楽を採り入れ、男女の間のことや、手に手を取り合う人々の様子を素材とし、これらの絵の具が載ったパレットで描いた名作の数々は、映画、バレエ、テレビ、劇場、教会、そしてコンサートホールでのステージで披露されてゆきました。彼のキャリアは、人々にこう語りかけます「私達には私達自身の音楽がある。だから私は、より洗練された音楽を作る上では、何もストラヴィンスキースクリャービンシェーンベルクを本格的に勉強しなくちゃいけない、とは思わない。私の道を最高に極める方法を追求するのみだ。」 

 

おススメの銘盤 

 

ブラントンウェブスターバンド 

 

カーネギーホールコンサート 

 

エリントンインディゴ 

 

極東組曲 

 

 

 

ディジー・ガレスピー 

 

僕がディジーに初めて会ったのは、15歳の頃、ニューオーリンズのチャピトゥーラスストリートにある「ロージーズ」というクラブでのことでした。僕のお父さんが僕を紹介してくれたのです。「これが俺の息子だ。トランペットを吹くんだよ。」 

 

ディジーは更衣室の出入り口の傍に立っていました。僕に自分の楽器を手渡すとこう言いました「ボク、何か吹いてごらん」彼の楽器についているマウスピースは、僕が吹いたこともないような、本当に小さなもので、「プー」と音を絞り出すのがやっとでした。彼は僕のお父さんと呆気にとられて立ち尽くしてしまい、そして「よーくわかった」と、その場のバツの悪さを振り払うように言いました。それから僕にもたれかかって顔を近づけると、「練習しろよ、下手っピー」と言ったのです。 

 

彼を「ディジーおじさん」等と呼んで、温和で柔軟性のある人だと考えている人達もいるようですが、決してそんな人ではありません。彼の演奏は、知性の大切さをよく示しています。彼は技術的な面を、それを上回る知性でカバーしました。名手と呼ばれるミュージシャン達の中では、恐らく彼が最も、ブルースが持つ気取らない感覚が少ない人だと思います。僕はディジー本人の口からそう聞いたことがあります。彼は大きな音で吹く人でもなく、メロディックなプレーヤーかと思えば、その第一人者と言うわけでもない。そんなでしたから、彼の演奏から、人と触れ合う温かみが生まれてこない、と思われてしまう。誰もが人としてのディジーは大好きだったのですけれどね。とは言え、彼のリズム感覚にはズバ抜けた洗練さがあり、ハーモニーの使い方の名人であり、その研究も熱心に行っていました。ロイ・エルドリッジからデューク・エリントンまで、彼は若い頃聞いた音楽は全て自分の中に取り込み、複雑ながらもバランスを知的にキープしたリズムとハーモニーの上に、独自のスタイルを構築し、これを発展させてゆきました。ディジーは頭の回転が速く、とんでもない速さのテンポでアイデアが次々と流れ出てきます。そんな風にトランペットを吹いてみようと考えた人など、それまで居ませんでしたし、ましてや実際にはやってみた人もいませんでした。 

 

ミュージシャンなら誰もが彼をリスペクトしていました。なぜなら、誰よりも吹くのが上手であるのに加えて、彼の知識は豊富で、そしてそれを惜しみなく皆に分け与えていたからです。彼は皆にビーバップの表現方法を教えてあげました。ドラマー、ベーシスト、そしてピアニストに対してもです。彼は、若手が自分独自のサウンドを追求するのを、とことんサポートしました。そしていつも、ハーモニーのことを研究する為にも、ピアノが弾けるようになる大切さを強調したのです。ディジーが僕にそのことを話してくれたのは、彼がメトロノームオールスターズで、ファッツ・ナバロ、マイルス・デイビスとトランペットセクションを共にした際、この二人が全く聞き分けがつかないくらい、ディジーとそっくりな吹き方をしたのを受けてのことでした。だから、彼が僕の演奏で気に入ってくれたのが、誰もやらなかった吹き方ですが、僕がオクターブ上げて、しかも一つの音とそのオクターブ違いの音を同時に吹いて見せたこと、だったそうです。 

 

彼は革命的な人だ、と当然のように呼ばれていますが、僕に言わせれば、それ以上の存在です。彼は、新しい音楽スタイルへ、第二次大戦以前の、我が国の音楽の歴史においては比較的古い頃の、最高の音楽的要素を取り込むことが、価値ある取り組みであるということを理解していた、という点で、現代音楽における天才だった、と僕は考えます。ディジーはそれらを全て、自分の音楽に活かそうとしたのです。ダンス音楽、コメディー音楽、劇場の様な広いキャパの場所からキャバレーのフロアショーの様な限られた空間まで演奏の場として選び、ラテン音楽との関係を密に保ちました。 


世代を越えた演奏交流にも、彼は意欲を示しました。彼がレコーディングを行ったのは、ロイ・エルドリッジやデューク・エリントンといった一世代前のミュージシャン達(大勢いた中でこの二人だけ、ここでは名前を挙げておきます)と、そこへ多くの若手ミュージシャン達を投入したバンド。その中には、ジョン・ルイス、ラロ・ジョフリン、メルバ・リストン、ジョン・コルトレーンダニーロ・ペレス、それからジョバンニ・イタルゴといった顔ぶれがありました。 

 

彼はジャズにおいて、大きな挑戦を志します。キューバップ形式の発展に寄与することです。これは、ジャズとキューバ音楽(ジェリー・ロール・モートン曰く「スペイン風」)との結びつきを確かなものにしようとするものです。彼はラテン音楽の技術的な部分については、完璧に理解していた、というわけではありませんが、人々を結びつける方法の一つとして重要である、との理解を示しました。そういうわけで、彼が最後にビッグバンドを結成したとき、その名は「ユナイテッドネーションズオーケストラ(世界の国々の合同バンド)」。優れたミュージシャン達が、パナマ、ブラジル、プエルトリコ、そしてアルゼンチンから結集したのです。共演者全員、彼を好きになったといいます。 

 

彼はビッグバンドの伝統を守ろうともしました。ジャズ・アット・リンカーンセンターでの、ある公演の後、彼が僕に言ったのが「今日やったビッグバンド、大事にしろよ。アメリカ独自のオーケストラミュージックを手放すことが未来への発展だなんて、とんでもない話だ」。チャーリー・パーカーはディジーよりも、音楽的才能では深い所を極めていたかもしれません。しかしディジーチャーリー・パーカーよりも、我が国の文化における音楽の位置づけについては、深い認識を持っていたのです。 

 

僕は二十歳の頃受けたインタビューで、かなりヒートアップしたことがありました。売れっ子と呼ばれる人達のこと、無知なジャズ評論家達のこと、凡人と呼ばれる人達のくだらなさ(遠回しに「僕は例外」としつつ)、といったことを、品の無い言い方であれこれと言い散らかしたのです。多くの人々の怒りを買いました。数週間後、僕はディジーサラトガジャズフェスティバルの舞台裏で顔を合わせました。彼は僕を手招きすると、やおら自分の楽器ケースを開けて見せました。彼は例のインタビューに同席していたのです。 

 

僕は、その時のお詫びをしようとしてしいたことを、彼に伝えました。 

 

すると彼は「ダメ、ダーメ。自分が本当だと信じることは、口に出して言わないといかん。まぁ、あんな言い方をすれば、無事に逃げられる、とはいかないだろうがな。やり返された時の準備はしておけよな。もしかしたら、この先ずっと続くかもしれないからさ。お前さんも、まだ本当には分かっちゃいないだろう。口をついて出る言葉の重みってやつがな。だがお前さんなら、すぐに理解できるようになるだろう。」 

 

ディジーは本当に知的な人だ、と僕が言った通りです。 

 

おススメの銘盤 

 

ショー・ナフ:ディジー・ガレスピーゼクステット(六人編成のバンド)とオーケストラ 

 

ソニーサイドアップ:ディジー・ガレスピーソニー・スティットソニー・ロリンズ 

 

オン・ザ・フレンチ・リビエラ