about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Moving to Higher Ground を読む 第8回の3 ジョン・コルトレーン/マイルス・デイビス

ジョン・コルトレーン 

 

トレーンは我慢の人です。彼が腕を上げていったのは、彼の大変な努力と我慢強い粘りの賜物であることは、誰もが認めるところです。とは言え、同時に彼の人生を見てみると、物事は作ってはぶち壊してゆかねばならない、という強迫観念がもつ「両刃の剣」のようなものだった、ということが、ハッキリと分かってきます。 

 

僕は、彼が18歳か19歳の頃の演奏をテープで聴いたことがあります。ビックリするほど下手くそです。彼ほどの素晴らしいサウンドの持ち主が、こんなにサマになっていないのを、他に聞いた記憶がありません。本当に彼が吹いているのか?と思いたくなります。何もかもが課題だらけ:耳を鍛える、技術を磨く、サウンドを良くする、音楽のとらえ方を勉強する、どれもが猛特訓を要するレベルだったのです。彼はそれらを克服すべく、自分独自の方法で、それこそ取り憑かれたように練習してゆきました。そして彼の仕事に対する心構えが功を奏し、まずはしっかりとした腕前をモノにし、それからディジー・ガレスピーマイルス・デイビスの両方のバンドに参加してゆくことになってゆくのです。 

 

コルトレーンの素晴らしい才能を誰よりも早く見出したのが、マイルス・デイビスです。マイルスが彼のサウンドに感じ取ったのは、志の高さと、田舎の牧師のような真面目さでした。音楽評論家達の多くが彼の問題点として指摘したのは、高度なコード進行になる程、変化に富んだメロディを展開できなくなることです。マイルスは、そのことをよく理解していました。というのも、マイルス自身も駆け出しの頃、チャーリー・パーカーと一緒に吹いていた時に、和声法には苦労したからです。マイルスは、バード(チャーリー・パーカー)直伝の、アート・テイタムから受け継いだハーモニーの扱い方を、コルトレーンに叩き込みました。バードは代理コードを多く駆使する人です。これにより変化にとんだコードが隙間なく詰め込まれ、楽曲が一層エキサイティングになる、というわけです。演奏する側にとっては、元々難しい曲の進行である処に、更に負荷がかかってくるようなものなので、演奏時間は同じでも新たに加わった「障害物」の数々があるおかげで、普通にしていたらゴールにたどり着くのが、より困難になってしまうのです。トレーンはこれにどう取り組むべきかに気付くことが出来ました。あとは時間をかけてしっかり問題を解消してゆきました。こうして彼は、ジャズの歴史上、和声にかけては最も洗練されたミュージシャンの一人となったのです。やせっぽちの弱虫男が、マッチョな筋肉ヒーローに生まれ変わったようでした。 

 

折角マイルスがコルトレーンの演奏の腕を買ってくれて、そのことをコルトレーンも分かっていたのに、トレーンは薬物の常習から抜け出せていなかったのです。ヘロインは、チャーリー・パーカーが残してしまった負の遺産であり、トレーンも他のバードの弟子達が数多くそうであったように、ジャンキーになってしまったのです。マイルスの処へ来る前に、ディジー・ガレスピーのバンドを麻薬が原因でクビになっていたのに、今度はマイルスの処でも同じ理由でクビにされてしまいました。さすがに、これにはコルトレーンも懲りたようで、ようやく麻薬をやめるか、人間やめるか、選ぶ決心をつけたのでした。 

 

その後彼を受け入れたのが、テロニアス・モンクです。モンクの音楽と言えば、神聖な雰囲気が漂い、熱気あふれるものです。単にモンクの傍に居るだけで、トレーンは自らが向上してゆくのを実感し、モンクの音楽を演奏することで、コルトレーンは、自分のやる気と能力をもっと大事にしてゆこうという気になってゆきました。この間、彼は同時に心の健全さも取り戻し始めます。精神面での回復により、学習意欲をかき立てた彼は、東洋の宗教、東洋や中東の音楽、そして勿論、その和声についても研究を深めてゆきました。彼は以前にも増して、彼独自のスタイルを作り込んでゆくことに、やっきになってゆきます。彼は急激に腕前を上げました。毎日朝から晩まで練習に明け暮れました。おそらく以前からずっとそうだったとは思うのですが、今度は彼は以前と違い、自分の演奏の核心となるコンセプト作りにも取り掛かり、そしてそれを意識して自分の演奏に反映させようとしました。 

 

彼は、エルヴィン・ジョーンズ、マッコイ・ターナー、そしてジミー・ガリソンと共に、最高のジャズアンサンブルの一つを結成します。彼らの演奏に込められた情熱は、後にも先にも他の追随を許さないものでした。彼らの音楽に対するアプローチの深さと真剣味は、それまでジャズの根本とされていたものに、力強く新しい方法で新風を吹き込んだのです。この「クラシックカルテット」(伝統的な4人編成バンド)により、トレーンは、いかなるテンポの楽曲でもブルース形式こそがその中心である、ということを訴えてゆきました。彼が掘り起こしにやっきになったのは、ジャズと黒人霊歌、そしてアフリカ系アメリカ人の教会音楽との結びつきの強化で、その作品のひとつ「アラバマ」は、1963年にバーミンガム州の教会で4人の黒人の少女達が犠牲になった爆弾テロに対する、彼自身の熱いメッセージが込められているのです。彼は「トゥンジ」や「アフリカ」といった作品で1960年代のパン・アフリカ主義運動に関わりましたが、依然、アメリカのポピュラー音楽や伝統的なジャズとも結びつきを保ち、デューク・エリントンや歌手のジョニー・ハートマンとの共演をアルバムとして残しています。何しろスウィングがしっかり効いているのです。 

 

このカルテットを代表するアルバム「至上の愛」の「パート4:賛美」は、祈りを書き綴ったものです。トレーンが演奏するインプロバイズされたメロディは、まるで彼が祈りの言葉を歌い上げているようです。それを支えるバックは、ピアノの低い音によるトレモロ。これはよくアメリカでは、アフリカ系の教会の礼拝でよく耳にするサウンドです。トレーンの遺した言葉の一つに「神はとても優しく、そしてしかも隅々まで、私達に息吹を送り込んでくれる」。これは、僕から言わせてもらえるなら、まさしくコルトレーンのすべてを物語っている、と思います。彼は熱く語りかける牧師のようでした。自分の奏でるサックスを通して、聞く人の心に変化を起こそうとするのです。炎の様な情熱家ではありませんが、キレず、アセらず、いつもマッタリと、そしてシッカリ自分の信念を持っていました。彼のサウンドに秘められたものが私達の心の琴線に、思いの深さ、寄り添う気持ち、しかもそれらは、どこまでも美しい高貴さで、そっと触れてくるのです。誰もが心を奪われます。彼の真心に人は涙せずにはいられません。 

 

コルトレーンは皆から愛される人なのです。 

 

ところが後に、彼の良さである使命感が、アダとなり始めます。強い使命感というものは、完璧さをもたらすこともありますが、同人に破綻をもたらしかねません。運動トレーニングをやらなきゃ、と思いすぎると、止められなくなり、やがて逆効果が現れるのと同じです。コルトレーンの場合、彼に「もたらされた破綻」「現れた逆効果」は、カルテットの崩壊だったのです。 

 

トレーンが皆を愛し大切にする様は、まるで聖人の様でした。グループに参加したいというミュージシャンが現れると、彼はこれを拒むことを嫌いました。ある本番では、ホーンセクションが50名ほどに膨れ上がり、ドラムのエルヴィンに合わせてスウィングしてゆきました。プログラムは、各曲の演奏時間が決まっておらず、一つの曲に1時間15分かかることもあります。それから彼は練習に際しても、いつでもどこでもさらっていました。例えば本番で彼がソロを吹くとします。彼のソロの後、ピアノのマッコイがソロを弾くわけですが、この時コルトレーンは、自分が吹く番まで舞台裏で練習しているという始末。彼は自らの方向性というものにおいては、何事についても妥協を許さない人でした。それは聴衆に対しても、自分自身に対しても、そして自身のバンドに対しても、です。音楽は流れに任せ、どこまでも響き行くままにこれをただ見届ける、といった具合。 

 

そうするにあたって、彼の根底にあったのは、当時音楽評論家や学者の間で主流となっていた間違ったヨーロッパアートの発想でした。当時、これに感化されたミュージシャンやアーティストは多く、現代の芸術活動を進歩させる唯一の方法は、抽象主義しかない、と言う信奉です。考え方としては、古臭い発想です。音楽分野では、歴史学で言う処の「偉人理論」が用いられます。ハイドンに取って代わったベートーベン、それと取って代わったワーグナー、それにドビュッシー、ストラビンスキー、シェーンベルクと替わり続ける。それぞれが「これが今風」と称される位、十分に「抽象的」と評価されたら、「交代完了」というわけです。 

 

ヨーロッパの人達が自由を享受した1900年代初頭から約60年の時を経て、アルバム「アセンション」により、コルトレーンは伝統の手錠を打ち壊した「今風の人」となったのです。 

 

自身が身に付けた芸術の基礎をかなぐり捨てて、重要かつ強靭な時代の先端を行くアイデンティティを手に入れようとする気持ちと戦ってゆくことは、ほぼ不可能です。この、富んだ思い違いに自らを懸ける学者達は昔から存在し、一向になくなりません。彼らに教わって台無しにされた学生達も、その数はあまりに多いのです。抽象主義の曖昧さを克服する頃までには、「自分は結局何をしていたの?」と分からなくなるのです。そして一旦自分が「何をしていたの?」と、自分を見失ってしまうと、今度は、自分がしてきたことは大して重要ではなかった!と思い込み、しかも、その理由は何なのか?が分からなくなってしまうのです。未だにアヴァンギャルド(前衛)と呼ばれる代物ですが、ドイツでは20世紀初頭に掘り下げられ、その50年後にその波はジャズに押し寄せました。それから更に50年後の現代ですが、依然として、1920年代にキング・オリヴァー楽団が演奏していた音楽よりも新鮮味がない、というわけです。 

 

僕が思うに、ずっと後になってからコルトレーンは、この「何をしていたの?」の一人に陥ってゆきます。わずか2・3年のうちに、彼はクソ真面目な田舎の少年から、革新的な天才ジャズミュージシャンへ、そして音楽ひとつで心の奥深い所にある思いを伝える伝道師へと駆け上がりました。当然のことながら、「音楽ひとつで」の「音楽」とは、混沌とした状態を織り成したような代物でなければならない、なぜなら、それこそが20世紀においては先進的な芸術のあるべき姿だと、皆が思っていたからです。だからこそ彼は、スウィングのような、ある種ジャズの基本的な事柄から、嬉々として自分を遠ざけて行ったのでした。 

 

トレーンは、世の中とは大きくかけ離れた存在になってしまいました。彼が精進してゆく中で次々と見出していったものは、彼独自の世界観が強く表れています。彼が生み出す音楽は抽象的な性格を強めてゆきました。初めは彼を信奉してついてきた人達も、その多くは抽象的な表現が音楽の中で幅を利かせるにつれて、先へ行けなくなり、途方に暮れてしまい、元々の立ち位置が分からなくなってゆきます。もっともコールマン自身は今でも、名サックス奏者として、他の様々な音楽文化を採り入れた天才として、ハーモニーにかけてはズバ抜けた洗練さを誇るブルースの達人として、その真摯な求道者として、人々の記憶に残っています。彼はこれら全てであり、そしてこれ以上の傑物です。 

 

彼がミュージシャンとして辿った道のりを考えてみると、ヨーロッパ芸術というものは総じて、一体どこに向かっているのか?という疑問が湧いてきます。アヴァンギャルドの頂点に君臨するピカソは、抽象主義の世界に身を投じたものの、やがて彼は気付きます。抽象主義は自分にとっては、色パレットに出した「色」の一つであり、他の「色」である芸術スタイルと「優劣」の差は無い、ということを。ピカソが辿り着いたこの境地に、なぜほとんどのジャズミュージシャン達は辿り着かないのでしょう?瞬間芸術のスタイルしかないんだ、と言わんばかり。何と残念なことでしょう。コルトレーンなら、どんなスタイルでも演奏する上でも、これまでになかった価値ある何かを見出せたはずだった、と僕は思います。そうすれば、ジミー、マッコイ、そしてエルヴィンも、もう少し長く彼のバンドに留まってくれたのではないでしょうか。 

 

おススメの銘盤 

 

ジャイアントステップ 

 

ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン 

 

至上の愛 

 

マイルス・デイビス 

 

マイルス・デイビスからは二つのことを教えられます。一つは音楽のことで、もう一つは生きる上でやってはいけないこと、です。彼のミュージシャンとしてのキャリアは2部構成。第1部は、彼がセントルイスからニューヨークへ出てきた1945年から1960年代中盤までの、ひたむきに芸を極める求道一直線の時代。第2部は、1960年代後半から1991年逝去までの、ひたすらに媚びを売る愚道一直線の時代。 

 

当初彼は、なかなか芽が出ず、伸び悩んでいました。まだ駆け出しだった10代の頃、彼はチャーリー・パーカーのレコーディングに参加していました。彼にとっては、良くもあり悪くもある状況です。良いのは、バード(チャーリー・パーカー)目当てのお客さん達に自分の演奏を聞いてもらえること。悪いのは、バードの後でどうしても比べられてしまうこと。巨匠チャーリー・パーカーは史上最高の管楽器奏者であるのに対し、若輩マイルスは、腕ではまだまだ一人前とは言えません。彼は音程感覚に課題がありました。当時の録音を聴くと、彼がコードの変化について行けていなかったり、何とか楽器を上手く吹きこなそうと必死になっている様子が伝わってきます。それでも彼は20代の10年間、自分だけにしかないサウンドや演奏スタイルを生み出そうと、ガムシャラに努力し続けました。彼は一夜にして腕を上げた、とはいかなかったものの、ひたすらに知恵をつけ努力を積み重ねてきたことが、その音からうかがえるのです。 

 

ビーバップに挑もうとする他のトランペット奏者達と同様、彼もディジーのような疾風怒濤の演奏スタイルに憧れを抱きました。当初は、とても話にならない状態だったものの、2・3年のうちに、ディジーの良さを受け継いだ演奏スタイルを身につけてゆきます。これには感心した人々もいましたが、当のディジーは違いました。ディジーがマイルスに対し、磨きをかけるよう諭したのは、自分自身の良さを生かした、自分自身のスタイルというものでした。 

 

マイルスの音色は彼独特のものであり、情感豊かでした。だからこそ彼は意図して音を眺めに吹き、フレーズとフレーズの間には、間(ま)をとって歌い上げました。彼が研究し始めたのは、レスター・ヤングやビリー・ホリデーといった、「間」を大切にしフレーズに表情をつけて歌い上げる人達です。彼は徹底的にジャズの歴史をひもとき、どうやったら自分がそこに一石を投じることが出来るかを探ろうとしました。そうして彼のサウンドは、だんだんと自分らしさを帯びてきたのです。それは、痛々しく、飾り気がなく、内向的で、感情的な激しさを持っていました。彼は気付いていたのです。彼には自分のサウンドで人々の魂に触れる力がある、ということを。天から授かったこの強力な武器があれば、人は優れたミュージシャンとなって、速くて複雑なフレーズもお手のもの。賞賛も、仲間の敬愛も欲しいまま。でも一般の人々はどうか?そう甘くはありません。一皮むけるには、人の魂に手が届かなければなりません。そしてマイルスは、依然としてその一皮がむけていない。バードにつられてしまった多くの同世代の音楽仲間達同様、彼にもドラッグの間の手が忍び寄ります。音楽活動を本格化させる前にやめちまえよ!と迫ります。しかし彼の「天から授かった強力な武器」が、ドラッグをはね返せ!と後押しし、彼はそれをやってのけたのです。 

 

小手先の技術を上回る、音楽面での表現手段が持つ価値というものを、彼が身に付けた腕前は示しています。マイルスは知的好奇心の塊のような人でした。彼の音楽がきちんと機能するには何が必要かを知りたくて、新鮮なアイデアを次々と好んで試してゆきました。どのような合奏体としてのサウンドを望んでいるのか、自分の求めるものを常に把握しているのがよく伝わってきたとのこと。彼は20代になったばかりの頃、ギル・エヴァンスジェリー・マリガンジョン・ルイス、その他若手アレンジャー達で新しい表現方法を探っている人達にのめり込んでゆきます。長続きはしませんでしたが、彼が率いた9人編成のバンドがレコーディングした12曲に、後に名付けられたのが「クールの誕生」です。 

 

これから彼は、イノベーターとしての名声をほしいままにしてゆくのですが、実は彼が腕を振るったのは、コーディネーターとしてでした。様々な人達のアイデアを、置き換え、アレンジし、一つにまとめ直してゆくのですが、そのやり方で出来上がったものは、間違いなく彼自身のモノと分かる。素材を合わせて整えてゆき、味付けは、1900年代初頭の頃の曲の奏法を使い、元ウタを土台として仕上げてゆくものです(ビーバップのミュージシャン達が書いた複雑な新しいメロディは、往時のティンパンアレーの曲にありがちなハーモニーに乗っていました)。彼の第1期クインテットは素晴らしく、レッド・ガーランドポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズ、そしてジョン・コルトレーンらが、ピアニストのアーマッド・シャマルのコンセプトによって、ニューオーリンズジャズのグル―ヴ、ヴァンプ、そして音のない間(ま)をふんだんに取り入れたソフトで抒情的な4拍子のスウィングを発信してゆきました。 

 

彼はいつも、その洞察力を生かして才能ある人を発掘してきました。それというのも、彼自身、演奏家として苦労人でしたから、他人が必死で音に乗せて伝えようとすることを、ちゃんと聴き取る方法を知っていたのです。自分がそうであるが故に、他のミュージシャン達が内に秘めている、知性とソウルが組み上がってゆくのを、彼は理解できる人でした。だからこそ、他の誰も見抜けなかったジョン・コルトレーンの才能を、彼は見抜けたのです。優秀なリズムセクションの活かし方を良く心得ていた彼は、良く整理されつつもしっかりスウィングの効いた演奏スタイルを採り入れることにより、その優秀なリズムセクションが、単なる「縁の下の力持ち」以上に活躍できる余地を得ることができました。彼の天才的に素晴らしいメロディ、理にかなった展開をしてゆくソロ、そして音楽的なストーリー展開のセンスの良さによって、彼の作品は高揚感と深みがあり、高い志を持つミュージシャンなら誰もがハマってゆきました。彼は次々と優れたアルバムを世に送り出しました。その中には、ギル・エヴァンスがマイルス独特のサウンドを生かそうとして、完璧な合奏譜を提供した3作品「マイルスアヘッド」「ポーギーとベス」「スケッチ・オブ・スペイン」が含まれています。 

 

彼の代表作であるアルバム「カインド・オブ・ブルー」は、モード手法に基づいて作られています。ビーバップの心臓部である複雑なコード進行を備えつつも、彼と彼のメンバー達がインプロバイズを繰り広げるのは、ベーシックな音階である、というこのモード手法は、彼が最初に取り入れたとされることがあります。実際には彼以前にも、デューク・エリントンチャールズ・ミンガスディジー・ガレスピーギル・エヴァンス、それから編曲家のジョージ・ラッセルといった面々が、モード手法を実験的に取り入れていたのですが、マイルスのモード手法の使い方は、ジョン・コルトレーンキャノンボール・アダレイ、ジミー・コッブ、ポール・チェンバース、そしてビル・エヴァンスウィントン・ケリーがピアノとしてこれに臨み、まさに極めつき。ぜい肉が落され、メロディックで、スウィングの効いた、これぞマイルス・デイビス、といった感じです。 

 

彼は外に向けた顔も、また独特でした。自分は綺麗に着飾る。とりまきはハイソサエティな、きらびやかで、冷ややかで人を寄せ付けないような面々。黒人が受難の時代にあっても、自分は他人のいいようには絶対にさせない。彼は人種・民族の分断を良しとしませんでした。あらゆる人種の人達と共演したのは、そのためです。もっとも彼は、誰と、何時共演するか、については、かなりこだわりのある人でしたが、それは常に音楽的な理由や事情に基づくものでした。気分が乗って、一定の条件が揃った時にだけ仕事をする、と言う有様。彼の態度には、相反する二面性がありました。それは、下卑た振る舞いの下に覆われている、大いなる優しさ、というやつです。聴衆には背を向ける、他人に対して自分の機嫌を取るよう強要する。そうかと思えば、聴衆の方へ向き直り、一発の熱いサウンドで聴き手のハートをメロメロにする。それは「理由なき反抗」という、1960年代の中・後半にはピッタリのやり方でした。彼の声はガリガリ、ギシギシするようなダミ声で、皮肉交じりのユーモアセンスの持ち主で、「クール」(格好いい)を極めた人です。 

 

「自分を崇拝しろ」と言わんばかりのマイルスでしたが、演奏はともかくピカイチでした。1960年代中頃、彼が結成した新しいバンドに参加したハービー・ハンコックロン・カータートニー・ウィリアムス、そしてウェイン・ショーターといった、いずれも若い黒人ミュージシャン達は、皆彼の音楽に惚れ込んだ面々。それも、彼の人との交わり方の成すところが大きいのです。彼の存在感は大きく、彼のリーダーシップの下、メンバー達は新しいジャズの演奏方法を開花してゆきます。そういった動きを、彼は懐広く受け入れるのです。それは彼が、様々なコンセプトを機能させてゆく能力があったからにほかなりません。マイルスの人材起用術、彼らを自由に演奏させる操縦手腕、そして万全の環境を整え好機を逃さず録音に踏み切る機知、これらにより、このバンドは1960年代を代表するジャズのレコードのいくつかを残してゆきました。 

 

マイルスはこのバンドで演奏するにあたっては、かなり勇気をもって臨んでいました。彼と同世代のジャズミュージシャン達の多くが、ビーバップの時代から抜け出すことが出来ずにいた中、彼は自分より15~20歳若いメンバー達と演奏し、彼らを受け入れ、自分をそこに適応させようと努力したのです。本当の処、彼はウェイン・ショーターの「オービッツ」や「ピノキオ」といった曲については、ついて行けていませんでした。コード進行は難しすぎるし、和声もチャーリー・パーカーの下で駆け出しの頃経験したものとは、全く異質のものでした。それでもなお、彼は一つ一つの音に魂を込め、深く掘り下げ、よく考え抜いて演奏をし続けます。しかしやがて、彼のアプローチには、「きちんとした態度」というものに陰りが出始めるのです。20年間、ビーバップをモノにしようと打ち込んでいた時とは異なり、彼は新しい素材を自分の血肉にしようというところまで、入れ込むことはしませんでした。だんだんと、ただ音を鳴らして表情記号通り吹いているだけ、肝心の曲の形式は、ハービー、ウェイン、ロン、そしてトニーに丸投げ。自分とバンドのメンバーぐらいしかほとんど気付かないような、元歌の形式なので、大したことがないように思われてしまうかもしれません。でもこのことは、彼らの新しいスタイルにとって最も大切な要素の一つに、しっかりと向き合えていないことの表れであり、やがて彼の音楽作りを支配してゆくようになる「だらしなさ」を予感させるものでした。 

 

この時点では、彼の音楽界における信頼性は、依然として健在でした。かつてバードと共演し、優れたレコード作品を次々と世に送り出し、バンドの芸術性に深く関わり、多くのミュージシャン達や聴衆に対し、人として、そしてミュージシャンとしての誠実さを示してきた男。彼の初期の音源は、どれをとっても、手を抜いたものなど見当たりません。才能、知性、そして彼が表現したいものが、全てを出し切って音になっているのです。 

 

ここで彼が直面してしまったのが、「中年の危機」であり、あらゆる芸術分野のあらゆるアーティストにとって最悪の「逆運」のひとつです。1960年代後半、アメリカ全土で若者達による社会運動が激化しました。音楽では、R&Bが黒人層、ロックンロールが白人層、そしてジャズの居場所は、もうないのか?という状態でした。R&Bにしろロックンロールにしろ、これを演奏していたのは、主にカリスマ性のある若手のアマチュアミュージシャン達でした。よりシンプルな音楽と歌詞、そしてバックビートを駆使して、聴く人の人生をも変えてしまうようなパワーと、絶大な人気により、プロのミュージシャン達を圧倒してゆきます。こうなると、40歳の男がスーツを着て、ベース、ドラム、ピアノ、サックスと一緒にトランペットでクロマティック(半音階)なんか吹いているようでは、これ以上の時代遅れは有り得ない、というわけです。 

 

マイルスといえば、トレンドリーダーとしてかつては名を馳せていたのに、今や時代を後追いする側へと後退してしまったのです。彼はこれまで自分が取り組んできた音楽をかなぐり捨て、自分の理解できる範囲を超えてしまっている音楽「サイケデリックロック」の形式による演奏に、手を出してゆきました。そもそもミュージシャンというものは、自分が本気でやりがいを感じている素材を使ってベストを尽くした場合にのみ、素晴らしいパフォーマンスができるのが常です。思いあがったジャズミュージシャンは「歌謡曲なんて楽勝さ。何しろコードはたった二つ。ビートは一つしかないんだから」、などと「思い込む」こともあるかも知れません。でも実際はそう簡単にはいきません。ビートルズは常にベストを尽くした演奏をします。素直な音がするのは、彼ら自身がそういう心持ちで演奏に臨んでいるからです。素直さに欠けるミュージシャンが同じことをしても、ウソッパチな音がするだけです。 

 

大方の年配のミュージシャン達と同様に、マイルスもロックンロール、ファンク、あるいはバックビートの音楽というものを良く分かっていません。マイルスは「白人のロックギターリストを連れてきてワーワーペダルで弾かせれば全てOKだろ」と考えます。ところがOKではなかったのです。そうやって彼が作ったものは、味も素気もないブランドのエレキロック。これでは若い音楽ファンは見向きもしません。彼はこれを、ある種斬新な取り組みだという印象を与えようと、アヴァンギャルド的なノイズ音楽と結び付けたりもしたのです。今や昔の話ですので、安心して言いますが、ロックンロール台頭以前に活躍していたジャズ奏者の中で、レッド・ツェッペリンパーラメントファンカデリックブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリートバンド、コモドアーズ、U2、あるいはこれらに並ぶ域に達するポップバンドをキチンと作り上げたのは、誰一人いません。 

 

興味深いのは、マイルスはこのような背信行為をしてもなお、ブラックファンクへの鞍替えはしなかったことです。彼はスティービー・ワンダーマーヴィン・ゲイと張り合う気はありませんでした。彼はロックへ鞍替えし、それがもたらしてくれる大金と大観衆が目当てだったのです。 

 

ステージ上で楽しみたい、飛んだり跳ねたりしたい、何でも好き放題やりたい、そう思うことは、別に悪いことではありません。ただ、彼の師であるチャーリー・パーカーとその同世代の人々は、黒人ミュージシャン達の為に、黒人を茶化すミンストレルショーのしきたりにメスを入れるべく、立ち上がったのです。彼らはベラ・バルトークやストラビンスキーといったヨーロッパの巨匠達の、音楽に対する真摯な取り組みに注目し、自分達の芸術活動への取り組みにおける精神的支柱として取り入れようと力を尽くしました。そうすることで、アフリカ系アメリカ人がたどった歴史の深さを表現しようとしたのです。マイルスもかつては、これに取り組んだ一人であったのに、今や彼が達した結論は、「そんなの大して真摯にやることじゃない、金も名誉も得られるか、わかったもんじゃない」というものでした。 

 

「自分は常に時代の最先端にいて、以前の実績とは無関係に、新しい音楽を次々と思いつくことができる」彼は自分をそう思い込むようになってしまっていたのです。こうなると人間は、ハムスターの回し車に乗ったように、いくら走っても、どこへも行けなくなります。自分は何としても「格好いい」存在でなければならない、そして「格好いい」かどうかを決めるのは、若い人達であり、そして自分が「渦中の人」となること、という幻想を抱き始めます。ある若い女の子が、ジミ・ヘンドリックスのファンだとします。そうしたら、彼女が好きそうな曲を吹かなきゃ、と思う。それからファッションも気にし出す。何にせよ、後手に回らないようにしようとする。 

 

結局、彼は黒人ミュージシャンの第一人者だとか、ジャズの第一人者だとかいう評判をひっさげて、挙句、ダメなロックミュージシャンとしてのキャリアを歩むことになったのです。それでもなお「ロックミュージシャン」として生きながらえたのは。ロックの批評家達や音楽業界関係者達の、情けをかけた言葉「まぁ、超一流のジャズミュージシャンが、ロックに鞍替えするなら、ロックだってスゴイんだってことを、ちゃんと考えた方がいいってことだね」のおかげなのです。 

 

鞍替えすると、何かしら本人がダメージを受けるものです。マイルスは1975年に一旦現役を引退しますが、この時彼はほとんど再起不能の状態でした。彼ほどの知性と、飽くなき誠実さを兼ね備えた人なら、理解していたこと:それは、彼はもはや檻に入れられて、愛玩動物に堕した、年寄りのライオンのように、今でもアフリカの大地にその身はある、かのように扱われつつも、実際は檻の前を通り過ぎてゆく人間達が、じっと見つめたかと思えば、百獣の王が喰らうはずもないポテトチップスか何かを、餌として放り投げてゆく、そんな状態だということです。自分が今どんな場所に居させられているのか、自分がどんなに酷い状況にあるのか、マイルスというライオンには分かっているのです。 

 

1981年、マイルスは現役に復帰します。僕達は皆、大いに期待しました。「さぁ、何を聞かせてくれるだろうか?」なんと彼は、しょうもないブラックポップスを演奏してきたのです。こんなのを持ち出してくるなんて、この数年間何を心に思い描いてきたのか?と言う感じでした。こんなバカげた結末になってしまったことは、本人も辛かったでしょうが、彼の復帰に付き合った共演者達も、さぞ辛かったことでしょう。皆それは分かっています。 

 

それでも色々なことが起きた年月が、全て過ぎ去った今、現在彼は「カインド・オブ・ブルー」といった銘盤のミュージシャンとして、再び名を馳せています。芸術とはこういうものです。人の記憶に残るのは、アーティストが成し遂げたことの内の、最高のものであり、成し遂げなかったことではありません。そして、その素晴らしさが本物なら、後世に残ってゆくことでしょう。ジャズがこの世にある限り、マイルスが成し遂げたことの内の、最高のものもまた、残ってゆくことでしょう。 

 

彼のことは、研究する価値があります。特に、名誉や金、男/女、人気、のために演奏をするか、それとも音楽それ自体のために演奏するか、どちらを選ぼうか決めようとしている若い人達におすすめです。彼を研究することで、厳しい努力、飽くなき好奇心、深遠な精神、といったものの価値が見えてきます。より深く研究することで、人はどのようなタイミングで、たとえキャリアが絶好調であっても、誠実さの欠如に足を取られるか、これが分かってきます。彼は、あの諺を地で行ったのです。 

 

最高とされるものは、一度壊れると、最悪なものとされてしまう。 

 

おススメの銘盤 

 

クロニクル:珠玉のレコーディング 完全版 

 

カインド・オブ・ブルー 

 

マイルス・アヘッド 

 

キリマンジャロの娘