Moving to Higher Ground - How Jazz can Change your Life を読む

Random House Trade Paperback "Moving to Higher Ground" を読んでゆきます(語句・文法解説付き)

「Moving to Higher Ground」を読む 第7回

第5章  仲良きことは美しき哉 

   

<写真脚注> 

スウィングダンス:誰もが心に抱く願いを、立場を越えて表現する最高の方法 

 

ミズーリ州カンザスシティで公演を行った時のことです。ボブ・ホールデン知事が僕達一行を昼食に招待してくださったのですが、丁度その時刻に、ミズーリ大学のバスケットボールチームが、大一番の試合を控えているところでした。正直、ホテルで観戦したかった、と思いつつ、ジェファーソンシティの知事邸に到着。ところが知事の方も、何となく目が訴えているように僕には見えたので、恐る恐る「ところで知事は、バスケットボールは御覧になったりしますか?」と訊ねてみました。思った通り、彼はすぐ満面の笑顔で「よくぞ言ってくれました!ささ、2階へ。試合が始まりますよ。」 

 

テレビ観戦が終わり、下の階で食事ということになりました。会話の中で、知事が子供の頃仲良くなった黒人の子の話をしてくれました。知事の生まれた小さな町には、黒人の住民が一人もいなかったとのこと。ある時、重病を患い入院した先で、同い年で同じ病気で入院していたその子と同室になったそうです。「ああ、また『私の知り合いの黒人』話か・・・」と思ったのも束の間、知事の次の言葉に、僕はハッとしたのでした。「今更、黒人も白人もなく仲間のはずなのに、こんなような聞くのもウンザリな話題ばかりで、いつも会話が弾む羽目になってしまう。お互い知り合いになっただの、仲間の輪ができただの、こういう話がいつまでたっても『この国全体がそうなった』にならない。皆さん、どうしてなんでしょうね?」 

 

数年後のこと。ルイジアナ州の州都バトンルージュは、同市の二つの大学の快挙に熱狂していました。ルイジアナ州立大学が全米フットボール選手権優勝、サザン大学が南西部黒人インカレ総合優勝を、同時に果たしたのです。大喜び一杯のヴェス・アンダーソンが、僕に電話をくれました。彼が電話をかけてきたところは、一日がかりの祝賀イベントの真っ只中で、その最高潮に達したのが、両校のマーチングバンドによる州議事堂入口階段での国家合同演奏でした。「こりや、今夜のニュースはこれできまりだね」彼は笑ってこう言いました。この後、暴動でも起きない限り、この合同演奏がニュースにならないわけないだろうと、僕達は二人ともそう思いました。なのに結局、ニュースにはならず、後に人々の記憶から消えてしまったのです。 

 

ホールデン知事が望む「国全体が『知り合い、仲間になった』であるとか、バトンルージュの州議事堂階段で肩寄せ合って歌い上げた、二校のマーチングバンドといったものが示すもの、これがジャズの本質的な要素なのです。まるでジャズは、この国における人種差別の偽善や不条理をさらけ出すために創られたようにすら、思えてなりません。 

 

かつて植民地政策を敷いた国々は、征服した人々に対して創り用意した社会環境が、それぞれ異なっています。本国の人々と征服された国の人々について、フランスは混在させ同化させた。スペインは混在させ抹殺した。イギリス人は混在させるも、それがイギリス人によるものではない、と信じ込ませたのです。つまり、理論や法、そして「イエスの御名の下に」というキリスト教の決め台詞でガチガチに固め、「神の救済」と言う名の苛烈な管理体制を敷いたのでした。アフリカから連れてこられた奴隷達は、南北アメリカ大陸のいたる所に居たものの、USAにおいては、奴隷とは、拘束されるべき人間であり、それによって、アメリカの象徴たる「個人の自由」がバランスよく保たれるよう仕向けられました。奴隷は、合衆国憲法において、「一人」とは数えられず、「3/5人」と数えられるよう規定されたのです。彼らを奴隷の状態のままにしておくことによる経済効果は絶大であったため、やがて国家全体として行うことになってゆきます。同時に、アメリカの精神的アイデンティティに暗い影を落とすことになり、それは今なお続いています。 

 

国歌で「自由の大地」と歌い上げられるこの国で、人を「所有物」として扱ったことの名残、そして、奴隷制度廃止の後に始まった人種差別、こういったことによって引き起こされた様々な問題は、多くの犠牲者を出した南北戦争や、その100年後に発生し、今なお決着のつかない公民権運動があったにもかかわらず、未だに解決されないままです。奴隷制度は、その後のアメリカの政治体制、金融体制、倫理観、そして憲法で崇高に謳われる中心的概念「全ての人々に平等な正義」「全ての人々は平等に創られている」云々、こういったものを作る上で影響を残しました。「全ての」:いい言葉ですよね。「一部の」なんかよりも。 

 

ここで僕から問題提起を一つ。ジャズと言えば、アメリカが世界にもたらした最も偉大な芸術です。これを創ったのは、かつて奴隷制度から解放され、社会の「最少数派」とされていた人々です。ところで、これと同じことは、アメリカ以外の社会でも発生していたのです。例えばブラジル。社会学者のジルベルト・フレイレは、著作「大邸宅と奴隷小屋:ブラジルの市民社会発達についての考察」の中で、サンバが持つ国民全体にとっての重要性について着目しています。サンバはブラジル人の精神そのものであり、国民的音楽として絶対視されるべきものだ、と彼は述べています。そしてサンバの原点がアフリカの一地方にあるというなら、ブラジル人である、ということは、一部アフリカ人である、というのです。 

 

フレイレがこの本を書いた1933年、当時アメリカの有識者団体はどこも、黒人をキチンとした形で受け入れようとすることが出来ていませんでした。こんな調子でしたから、アメリカを代表する音楽(ジャズ)は、アメリカ国民が分かち合う伝統文化の中心にあるとは、到底見なされません。 

 

ジャズとは、ある特定の人種の為の音楽ではありません。全ての人が演奏し、そして聴いて楽しむものです。実際人々は、ずっとそうしてきています。しかしジャズのこれまでの歩みを人に伝える上では、どうしても深く掘り下げて語らねばならないことが有ります。それは人種隔離、白人/黒人しか在籍していないバンド、人種差別、性差別、メディアの影響、そして「アメリカ人とはかくあるべきだ」という物の考え方です。未だに、黒人か白人か、と言う物事に対する見方がなくならない傾向にあります。マーチン・ルーサー・キングJrは黒人にとっての指導者、と見なされているようですが、彼が導いたのは黒人にとどまらず、多くの人種・肌の色の人々だったのです。公民権運動は黒人解放運動と思われがちですが、実際この国民全員が関わった運動は、アメリカ人皆の目標である、合衆国憲法と言う紙に書かれたことを実現し実行しようということが、その中心にありました。ジャズも全く同じことです。 

 

ミュージシャン達は、普段の生活の中では差別を受けていましたが、自分達が音楽を学ぶにあたっては、差別など全くありませんでした。白人のテナーサックス奏者、スタン・ゲッツは、自分がこれと思い惚れ込んだプレーヤーの演奏スタイルに影響を受けてゆきます。野心的で才能に恵まれ、頂点を目指した彼にとって、最高のものは黒人プレーヤーによるものだったため、そこに注目してゆきました。マイルス・デイビスが影響を受けたのは、黒人のフレディ・ウェブスターと白人のハリー・ジェームスです。ルイ・アームストロングに影響を与えたのは勿論、彼のメンターであったジョー・「キング」・オリヴァーの演奏スタイルですが、同じ様に白人プレーヤーであったボフミール・カレイルやハーバート・クラークの演奏スタイルからも影響を受けています。これこそが音楽と言うものです。好きなものを耳にしたら、それを自分が演奏してみる。特にテレビなど無かった時代には、プレーヤーの見た目よりサウンドの方が、はるかに大事でしたからね。人種に関する奇妙な思い込みが、歴史に蔓延してしまっているのです。ジャズがもたらしてくれる「共に行こう」という素晴らしい発想は注目されず、いつの時代も「この演奏はどんな人種が行っている」に目が行ってしまうのです。 

 

その思い込みは、今でもアメリカに巣食っていて、人の時間を無駄にし、ジャズの精神を蝕んでいます。 

 

それは歴史上、早くから見受けられました。ジャズの持つ情報量や知的センス、そして人間性の深みといったものは、黒人に対する不合理な扱いというものを、くっきりと人々に示して見せました。そのため、知識層による誹謗中傷の圧力も、すぐに発生したのです。ありとあらゆる手段がとられました。一つは無視すること。ジャズを創ったのは黒人、黒人は無価値、故にジャズも注目する値なし。もう一つは貶めること。映像スクリーンで漫画だのセックスのシーンだのと一緒に流すことで、ジャズは子供向けの番組か、「18禁」ぐらいでしか、まともに使えない、としてしまう。この奇妙な取り合わせは、ビデオが普及するにつれて更に密接になってゆきました。こうなると正規の教育機関で扱われることなど、ありえない、ということになってしまうでしょう。公民権運動が興るまではずっと、学校現場では、練習室でさえもジャズの演奏をしたら退学処分、といったことが、黒人の子弟が通う学校においてさえも、実際に行われていたのです。 

 

その後時代は、ジャズを保護・支援しつつも、積極的には取り上げないという風潮に変わります。音楽史の通説として、20世紀の3大影響力とよく言われるのが、ストラビンスキー、シェーンベルク、そして「ジャズ」。「デューク・エリントン」でも「ルイ・アームストロング」でもない、全体カテゴリーとして、二人のヨーロッパにおける巨人と並べられてしまっているのです。 

 

よくジャズは、ミンストレルショーのBGMと間違われたり、売上数重視のダンスミュージックと一緒くたにされたりします。ニューヨークタイムズ紙でも、未だに「ジャズ/ポップス」とひとくくりにされる始末。ようやく、全米各地の何百もの教育機関でジャズの教育が行われるようになったものの、あくまでもアフリカ系アメリカ人歴史学習は切り離されてしまっています(そういった意味では、自国の歴史学習自体が、疎かになっているとも言えましょう)。 

 

訳注:ミンストレルショー(minstrel show) 

1840~1880年アメリカで人気のあった演芸。顔を黒く塗った白人が、黒人の口調や動作をまねて歌ったり踊ったり、あるいは喜劇的な演技をする。 

 

ジャズに対する強い攻撃も行われています。それも、ハッキリとは言わないけれど、残酷なほどに人を小バカにするようなやり方で。例えばニューオーリンズの音楽を「ディキシーランド」などと呼びますが、これは南北戦争以前の、奴隷制を維持していた南部連邦の軍歌と結びつけようとする意図が現れています。「自由を謳歌するヤツには奴隷の鎖を」。そして現在は、強い攻撃はハッキリと行われています。「いわゆる」と前置きして、褐色の肌をした音楽の類、と称し、ブルースをこき下ろし、ジャズの命たる「スウィング」は、どう演奏されようが、もはや過去の遺物だ、と言い放つのです。こういう物の見方が増長する認識というのが、ジャズは革新を遂げてヨーロッパの芸術としての音楽の一翼を担うようになっただの、あるいは、いい加減に演奏されるラテン、インド、アフリカのゴチャ混ぜ音楽へ「進化した」だのというものです。 

 

ジャズに対する最も狡猾な攻撃の一つを行っているのは、自らを「ジャズの友達」と称する人達です。「進んだ物の見方をする人達」を自負する人達が言うには、ジャズは自然発生的に生まれた、とのこと。アレン・ジンスバーグによれば、ジャズは「誰だって演奏できる。ラッパを持って吹けばいいんだ」。当然、もしそれが本当だというなら、ジャズの発展には系統的なものは何もなく、そして黒人の自由解放以外には何の美学的目的もない、ということになってしまいます。 

 

1950年代のビート派の物の考え方、これの現代版が、現在の新しもの好き達による「全ての音楽を愛する」という発想です。その方針はこうです。「私は音楽は何でも好きだ。だからジャズとは何か、なんて関係ない。これはジャズだとか、これはジャズではないとか、どうでもいいことだ」。耳の肥えた優秀な方々にとっては、ジャズの意味などと言うものは存在しない、ということでしょうか。となると、意味のないものは人には教えられない、ということになります。意味も定義もこの音楽にはない、と言う考え方のおかげで、ジャズの教育における精神面での中核は、木っ端微塵にされてしまい、将来ジャズを演奏し、楽しみ、ジャズで人を育てる道は不要だ、ということになってしまっているのです。 

 

ホメロスは、たった二冊の著作で歴史に名を刻みました。「イリヤド」と「オデッセイ」です。それでも、ギリシャ人の共通認識としては、この二冊に込められた内容は膨大であり、だからこそ彼らは何世紀にもわたって、この二冊の読みこなしを繰り返し、ギリシャ人であるとはどういうことか、ひいては、人間であるとはどういうことか、について、少しでも明確な理解の仕方を求め続けているのです。ジャズも、これと同じく、アメリカ人であるとはどういうことか、についての洞察に、展望を与えてくれます。そこまでではないにしても、アメリカ人に理解するよう促せば、そうなる可能性を秘めています。我が国の伝統において、アメリカ人とは何か、についての核心に関する議論は、もはや殆ど行われていません。そして依然としてアメリカ人は、ジャズの定義と同じ位基本的なことについて、皆が合意できていないように思えます。 

 

今や私達は、ジャズとの関わり合いが非常に貧弱です。ジャズと言う言葉も、これに伴い、この音楽が生まれた頃と比べると、きちんとした定義を持たなくなってきてしまっています。ジャズについて、何かを知ろうとするところから始まって、年月をかけて演奏し議論を重ねるうちに、結論としてこの言葉には、実体のある意味がない、ということになってしまいます。これにより、ジャズは人に教えられないモノ、とされる始末。なにせ、ジャズなんか演奏しない、とうのであれば、ジャズを理解するなど出来るはずがありません。努力した挙句、とことん謎めいて不明確になってしまったなんて、まるでジャズの本当の姿を隠すことによって、私達の生きる道に関する重要な真実に向き合わせない、かのようです。ここにあるものは秘密の代物、それがジャズです。 

 

ロックンロールには意味があります。ヒップホップやサルサ、サンバ、そしてタンゴといったものは全て、それぞれ独自のサウンドを思い起こさせます。しかし今日、ジャズは、こういう音楽の総称なのか、はたまたどれにも当てはまらないのか、良く分からなくなっていて、正しく理解されていません。しかしもしもこの音楽が、アメリカ人にとって何かしら意味があるものなら、そこにある様々な要素は、私達の生活の在り様に見られる様々な側面を反映しているはずです。ここのサウンドは重要ですが、アンサンブル全体としてのサウンドも重要です。ステージ上で大勢の演奏が一つに「なってゆく」その過程は、朝鮮人にしろナイジェリア人にしろ、移民がアメリカ人に「なってゆく」道のりに似ています。「なってゆく」ことを望まなくてはいけないのです。スウィングすることの過程とは、常に変化している物事に対して、常に調子を合わせる過程と同じであり、、自由が保証されている社会における今風の生き方です。と言ってもそれを選択する/しないは、その人次第です。 

 

人種差別が産んだ別の強迫観念によって、いつまでも答えを探そうとする羽目になる、本質的にポイントのずれた問題が、「この音楽は誰のものか」です。答えようものなら、肌の色が何色が一番上手か決めよう、などという無益な取り組みをしなくてはならなくなります。要するに、ルイ・アームストロングが一番で、肌の色が濃い目なら、ジャズは黒っぽい肌をした黒人の縄張りだろう、ということになります。しかし、となると、ルイ・アームストロングと同じレベルの黒人は他に誰だ、と言う話です。そしてその人と肩を並べる有色人種、はたまたビックス・バイダーベックのような白人達はいるのか?有色人種である「クレオール」であるシドニー・ベシェより上手な黒人人種のソプラノサックス奏者は誰か?そんな人はいません。「黒人人種」と認められる血の濃さは?ジャンゴ・レインハルトはどうなる?ちなみに彼は、ベルギー出身のジプシーですがね。 

 

本物のミュージシャンだ、という決め手は何か?肌が黒くて先祖が奴隷であることが必要条件か?となると、ジャック・ティーガーデンやバディ・リッチのような白人ミュージシャンと同じレベルの演奏が出来ていない黒人ジャズミュージシャン達はどうなんでしょうか?「十分黒人とは言えない」ということか?となると、ある特定の分野 - 例えば競泳や管弦楽など - で圧倒的に白人が強いのは、黒人に単に競争力がないからなのか?それとも自分の能力に対して狭い料簡を持つことに甘んじてしまうのは、文化の置かれている状況のせいなのか?「生まれつきなんだから、自分じゃどうしようもない。やっても無理なんだから、やるなよ」アメリカのプロバスケットボールの世界では、同じ白人でも外国人であるヨーロッパの選手の方が活躍しています。肌の白さが足りないからか?アメリカの白人選手は、黒人選手の持って生まれた優れた点に対して、これを受け入れようとする文化的背景を育まずに育ってきたからなのか? 

 

別の見方をすれば、黒人はこういった扱いを受け入れるよう、国全体でお膳立てが成され、長い間に亘って状況が好転することなど望み薄にされ、それが黒人の生きる道となってしまったのです。当初黒人に対する差別と抑圧は、あまりにも完璧で、「自由」などというものは感じ取ることすらありえないことでした。ジャズミュージシャン達にとって、「平等」として「優越感」といったものを初めて実感したのは、白人達と黒人達がオフの時間に、一緒に演奏するようになってからです。舞台上では序列は実力主義。だからこそ、コールマン・ホーキンスやレックス・ステュワートといった人達が、人種に関係なくミュージシャン達からリスペクトされていたのです。 

 

ルイ・アームストロング、、シドニー・ベシェ、そしてデューク・エリントンといったようなジャズ奏者達が向かい始めたヨーロッパというところは、舞台上でなくても彼らが普通の人間として扱いを受ける地です。彼らがかの地で享受した自由は、アフリカ系アメリカ人が本国では決して味わえないモノでした。彼らはどんな女性達とも、交流を持ち、男女の関係を許され、そして勿論ミュージシャンである彼らに対し、どんな女性達も関心を寄せたのです。彼らは凱旋の後、もてはやされ、世の中を闊歩するようになりました。小奇麗に着飾り、好きなように振る舞い、稼ぎも増えて、自分達の演奏したいものを演奏しました。世界では自分達の音楽は、民主主義と自由を意味するようになっていたことを、彼らは理解し始めたのです。 

 

ジャズの中に在るものは、アメリカの開拓者達の活力と不屈の精神、そしてそれは、黒人と白人両方のミュージシャンのものです。でもこの国では、舞台上でも、そしてレコーディングスタジオの中でさえ、依然として分離された状態でした。意識の高い黒人達の間では、愛想笑いと「イェッサー!」の一言では拭い切れない、深い憤りの念が、常にあったのです。意識が高くなるほど、彼らの憤りは増幅されてゆきました。しっかりとした教育を受けるほど、怒りは激しくなっていったのです。このように公正でない状態がいつまでも続くと、生きる喜びが削がれてゆきました。彼らが公共の場で辛酸を舐めさせられた社会構造を、粉砕すべく、こう言った人々は自分達の能力とエネルギーを注ぎ込んだのです。 

 

文筆家達、出版業者、そして音楽ファンはこぞって、ベニー・グッドマンを「スウィングの王様」と称しました。確かに彼の率いたバンドは、とてつもなく良い楽団でしたが、当の本人は、その様な自覚はありませんでした。それは当時同じく活躍中だったデューク・エリントンカウント・ベイシーについても同じでした。グッドマンはそう呼ばれることを受け入れていました - 受け入れない人などいるわけがありまあせん - しかし自分は相応とは感じていなかったのです。もし皆さんが黒人ミュージシャンだとして、自分はスウィングの王様となるに相応しいと思いたいですか?多分そういう思いは皆さんを大いに困惑させるのではないでしょうか?デューク・エリントンはその生涯の中で、1920年代はポール・ホワイトマンが「ジャズの王様」、1930年代はベニー・グッドマンが「スウィンの王様」と、それぞれ称されていたのです。 

 

もし皆さんが映画に出演したい、それもメイドだの召使いだのとしてではなく、出演したいと思ったら、もし皆さんがメトロポリタン歌劇場のステージで歌ってみたいと思ったら、そしてその才能が実際あったとしたら、多分その気持ちは皆さんを押し潰してしまうでしょう。ジャズの演奏家の多くは、そういう人達なのかもしれません。 

 

黒人にとっても白人にとっても、ジャズは全て、人種の隔離や差別は間違えていると訴える術でした。白人のミュージシャン達は、我が国では、最も偏見を持たれない人達の部類に入っていたのです。有名な話を一つ。1926年、マンハッタンのローズランドボールホールで開かれたバンドコンテストは、地元ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソン・オーケストラと、中西部から来た白人で構成されるジョン・ゴールドケット率いる楽団との対決でした。ミュージシャン達の点数が集計されました。蓋を開けて見れば、大半の票が投じられたのはヘンダーソンオーケストラ - コールマン・ホーキンス、レックス・ステュワート、そしてベニー・カーターを擁する - だったものの、ゴールドケットの楽団 - こちらはフランキー・バウアーとビックス・バイダーベックを擁する - が結局勝利します。 

 

「完敗だった」とレックス・ステュワートは当時を振り返ります。「あいつら生真面目な白人のボーヤ達には負けたよ」。しかし双方のリーダー共、相手の演奏にしっかり耳を傾けていて、このコンテストの後、ゴールドケットはヘンダーソンオーケストラの首席アレンジャーであるドン・レッドマンに、ヘンダーソンはゴールドケットの楽団のメンバーで、やはりアレンジャーのビル・シャリスに、それぞれ仕事の依頼をしています。両バンドは再び相見え、その時は引き分けています。 

 

さてこのように、圧倒的不利と目された白人バンドが大勝し、これに黒人ミュージシャン達が潔く兜を脱ぎ、双方のリーダーは相手の人種よりも音楽に注目したという美談ではありますが、もし黒人バンドが連戦連勝となったろどうなるのでしょう?きっと勝ちを認められない、若しくは「元々黒人には勝てっこない」と片付けられるか、でしょうね。 

 

ジャズは、「古き良きアメリカの伝統」となってしまった人種差別が、不当であることをさらけ出して見せたのです。ミュージシャン達は、恐らく、そして愚かなことに、そうとは知らず、そしてそう感じることもなく、憂うこともしなかったのかもしれません。何世代にも亘り、人々が犠牲となっていった根深い傷を残すも手間のかからない仕打ち、それらは、木に吊るされることだったり、白人の子供を「ミスター〇〇」と呼ばされたり、等々。それなのにミュージシャン達は、芸術活動に携わる中で物を見る力を研ぎ澄ませてゆくことで、人種差別がもたらす苦情を更にヒシヒシと感じていたにも拘らず、「これは実にあってはならないことだ、あちこちに発信してゆこうじゃないか」とは言わず、「これは実際に有り得ないことだ、あちこちに発信しないでおこうじゃないか」と収めてしまったのです。 

 

人種差別に対する僕の怒りの大半は、ケナーで育った頃に由来します。時代は公民権運動に最盛期からその後にかけて、といったところ。僕にとって本当に酷い思いがするものであり、僕はそれを演奏で表現しました。しかしこれに対し、僕が縁を持ったジャズの大御所達は全て、アート・ブレイキーからジョン・ルイス、ウォルター・デイビスJrまで、人間は人間でしかない、それ以上も以下もない、と信じていたのです。ある時僕がアルトサックス奏者のフィル・ウッズのことについて、失礼なモノの言いようで語った時に、僕を叱ったアート・ブレイキーの様子を、僕は決して忘れることはないでしょう。彼の言う通り、あらゆる憎悪はどこかで終わらせなければなりません。そしてそれを終わらせる一助となろうとするなら、誰にこびへつらう必要はないのです。本当にモンクやチャーリー・パーカーの域に達しようとするなら、彼らは断じて黒人の白人に対する優越感に言及せず、「私達の音楽は全ての人の為のモノとなることによって、我が国の在り様を台無しにする人種差別を完全に否定するようになる」と言ったことを忘れてはなりません。「ビーバップは国民の統合について表現したものだ」ディジー・ガレスピーは僕に、彼にしろチャーリー・パーカーにしろ、彼らの音楽によって統合「されてゆくこと」が目的なんだと言いました。ディジーが僕にこういったのは1980年頃で、当時僕の頭には統合のことは全くありませんでした。「その時代はいつか来るだろう。でもそんな必要はない」僕はそう考えていました。 

 

「統合」と言うものについては、僕は子供の頃の遺恨がありました。1969年、僕が8歳の頃、母は僕を、ケナーにあるキング牧師記念「統合系」カトリックスクールへ入学させたのです。白人の子供達が大多数を占める中、黒人は僕と友人のグレッグ・キャロルのたった二人だけ。もし皆さんがこの「たった二人」だったら、「統合」されたくないはずです。何しろ生徒も先生もこちっらを日常的にいじめてくる連中で溢れかえっている学校なのですから。いじめられるのが快感、というなら話は別ですけれどね。絶え間なくいじめの集中砲火を受けていると、それまで経験したことのない疲労感に襲われました。父はかつて言っていたのは、自分は大人になるまでの間さほど多く白人と出会う機会が無かったので、蔑みを受けたこともなかったとのこと。勿論、社会全体としての不当な扱いは広く行き渡っており、父もそれに適合するようにはなっていました。しかし父は、完全に黒人しかいない環境で育ってきていましたから、26歳になるまではずっと、路面電車の前の方の席に座ることは許されませんでした。僕にしても、統合系の学校へ通いだす以前は、白人と出会うことはあまりなかったのです。ケナーでは、白人が家の玄関口にやってくると、その界隈の子供達はこぞって、その家の父親がトラブルに巻き込まれるような何かをしでかしたのではないか?と知りたがったものでした。そしていよいよ白人との出会いと言うものが本格化し、事態は良い方向へは進みませんでした。「Bozo(おバカさん)」「Hersley Bar(ハーシーのチョコレートバー)」「Burnt Toast(黒焦げのトースト)」といったニックネームは、「おはよう」「こんにちは」あるいは「ようこそ」といった挨拶程度の物言いだったのです(白人側にとっては)。 

 

重圧が常にのしかかっていました。いつもその重圧により、本当の自分らしさを捨て、他人が決めつけた自分の姿を受け入れる。それにより自分を決めつけた人より下等でいなければならなくなったのです。それが正しい行いだと、先生方は信じていましたし、その生徒達も、そしてその親達もそう信じ、議論に上ることすらありませんでした。9歳とか10歳とか、ある程度の処まで全く違う育てられ方をしてきた人間が、人間としての在り様を守るために、戦わねばならなくなったのです。いつも酷い言われようでした。「君って他の黒人達と違うんだね」「うちの従妹、黒人の何者かに強盗に遭った」「君、なんで学校の宿題なんかやるのさ?僕の家の庭掃除をするのに、学校の勉強なんか関係ないじゃないか?」 

 

取っ組み合いのけんかになると必ず、子供達は輪になって取り囲み、こう口々に囃し立てました「喧嘩だ、喧嘩だ、クロンボVS白人様だ」こう言ったことは、年配の世代が耐え忍んだことよりは、遥かにマシだということは知っていました。といって年配の世代が実際に酷い仕打ちを受けていてからと言って、自分自身が置かれている状況を甘受することには、全くなりません。自分の体感したことしか、人は実感がわかないものです。苦しいことは記憶に残ります。それは実際にあったことを歪めてしまうのです。自分のことを「クロンボ」と呼んだ、自分の持っている本の表紙に、勝手に大きな唇の悪戯描きをした、学校でプレゼントの度に猿のグッズを押し付けてきた、そういう白人は一人残らず記憶に残るでしょうが、自分をかばってくれた大柄なドイツ系の子や、家に自分を招待してくれたユダヤ系の子については、記憶を呼び起こすことが難しくなってしまうものです。 

 

所謂「統合」について言えば、全てが異なっていました。本当に細かなことまで全てが、です。いじめに関わらない方の白人の大半は、貧困層とイタリア系でした。だから学食では、いつでもスパゲティやラザニアなどと言ったイタリア料理の類には、ありつくことができました。イタリア料理はいいのですが、毎回となると困ります。家ではいつもクレオール料理というフランス料理の技法に基づく食事が出されました。ガンボとか赤豆とご飯を炊いたもの等です。それから白人達はよく、僕達の話の仕方について、いつもからかってきました。こういったことに不平を言う僕に対し、細かくは覚えていませんが、お母さんは大体こんなことを言うのでした「いいかい、誰にでも生まれ育った場所と言うものがあるし、誰にでも何かしら逃げられない背負っているものがある。だから学校に通っている間は、自分と言うものを捨ててしまう必要はないんだからよ」。お父さんは食べ物については「文句を言うな、何だかんだ言ってみな食ってるんだろ?」 

 

僕の両親は、僕ら子供達が成長の過程で最大限の準備を施してくれました。僕は幼い頃、フレデリック・ダグラス、ナット・ターナージョージ・ワシントン・カーヴァー、ブッカー・T・ワシントン、ラングストン・ヒューズと言った処は、本を読んでいました。お母さんはハリエット・タブマンのことを話すのが好きでした。彼女は僕達を、昔のカビルドの跡地を見せに連れて行ってくれました。そこはかつて、奴隷売買が行われていた場所です。展示されている鎖やら枷(かせ)やらを見ていて、奴隷制度と言うものの現実をしっかり認識したことを、今でも覚えています。お父さんと仲間のミュージシャン達は、歴史のことや政治のことをいつも話題にしていました。今でも覚えている、ある日の話です。その日は父と床屋にいたのですが、誰かが概ねこんなことを言っていました「エリス(ウィントンの父)と議論しようったって、誰もかないっこないさ。何と言っても世界中を回っているんだからね。全く大したミュージシャンだよ。皆が知っていることさ」。 

 

祖父も、大叔父も、政治の話をよくしました。大叔父とは、僕が6歳から8歳の頃よく一緒に過ごしました。彼の名前はアルフォンスと言いましたが、僕達は皆彼のことを「ポンプ(尊大な人)」と呼んでいました。ニューオーリンズにあった彼の家は、南部特有の、廊下がなくて裏口までつながって見通せるような、小さな「ショットガンハウス」と呼ばれていたもので、仕事は墓石工、彼は多くのことを見聞きしており、気が向けば話が溢れてきます。 

 

「撃ち合いになった経緯が全てなんだ」彼は言いました。1883年生まれですから、1900年に発生した、所謂「ロバート・チャールズ暴動事件」については、記憶があります。二人の警官がロバート・チャールズという名の若い黒人に対し、執拗に同行を強要したため、ロバート・チャールズが警官たちに向けて発砲、その後民家へ逃げ込み、合計、警官7名が死亡、20名が負傷の末、ロバート・チャールズは射殺された、というものです。「事件が起きた当日は、まだ奴は撃たれていなかった」大叔父は言いました。 

 

僕の大叔父は筋金入りの愛国主義者でした。いかなる、誰からの侮辱も甘受しないタイプでしたから、僕には不思議でなりませんでした。彼はアメリカ人=白人とは思っていなかったのです。1960~1970年代という「ブラックナショナリズム」という言葉が、若者の間で、あるいは単に流行を追いかける連中の間で、キーワードだった時代に育った人間にとっては、奇妙な考え方でした。ポンプは兵役にあったこともあり、アメリカ合衆国と言う国を信じる男だったのです。 

 

アメリカは偉大な国だ。」彼はいつもそういっていました。「欠点もあるが、偉大な国なんだ。」彼はモハメド・アリが嫌いでした。「彼は国から金をもらう人だろうけれど、国の為に戦っているわけじゃない。俺に言わせれば、あんなのは英雄なんかじゃない。」彼はブラックムスリム運動を嫌いました。家に帰る時は、「Mjuhammad Speaks」(新聞の名前)は持ってくるな、あるいは、マーカス・ガーベイと彼の持論であるアメリカ回帰運動のことは話し出すな、絶対に、と言うわけです。「アフリカなんかに行ってみろ、また白人の所に売られて帰ってくるだけだ。」と彼はよく言いました。彼は偏見とは立ち向かうべきだ、という信念を持っていたのです。彼のモットーは、「侮辱は面と向かって言わせろ、そうすればおいそれとは行かない。相手の目を離させるな。手出しできなくなる人間の数が増えてくれば、そのうちそれが当たり前になっていくだろうからな。」 

 

3・4年生になる頃には、僕の学校での成績は、他の子供達より頭一つ抜け出ました。既にリコンストラクション(南北戦争によって崩壊した南部諸州と奴隷制度、これらの戦後処理)のことは耳にしたことが有りましたし、プレッシー対ファーガソン裁判や、ブラウン対教区委員会裁判、そしてキング牧師マルコムXのことも、内容を理解し知っていましたし、名前も頭に入っていました。それぞれの相関関係や時系列は、完全には分かっていませんでしたが、黒人の人々は社会の中で闘争中であり、社会の何かが台無しにされている、という自覚は持っていました。そしてハッキリと分かっていたことは、その台無しになれていることによる犠牲者は、僕達黒人なんだ、ということです。そんなわけで、例えば歴史の授業中に教科書を開けて、嬉しげな奴隷達の姿があると、「奴隷の何が嬉しいのか?」と疑問をいつも抱くのでした。 

 

こういう子供達に自分を受け入れさせる方法は、唯一つ、彼らがしていることを自分も彼らに対してすること、そうでないと、増々こちらは無価値な人間と見なされて、ひたすらバカにされる羽目になる、ということにも気付きました。とにかく辛かった。元居た黒人の学校は、成績が良好で生き生きとした性格でいれば、尊重され、女子も男子もいる社会の輪の一部に、自分は入れたのに、そこから飛び込んだ今度の環境は、前向きな姿勢は否定されるわ、自分は社会的交流から完全にのけ者にされるわ、といった具合でしたからね。 

 

僕の大叔父は、僕に、自分らしさを保つ権利は守らねばならない、そしてそれは時として犠牲を伴う、ということを叩きこんでくれました。なので僕は心を決めて、誰かに「nigger」(クロンボ)と呼ばれでもしたら、そいつと戦うようにしていました。勝ったり負けたりしましたが、とにかく覚悟を決めて、バカっぽく振る舞わない、他人にナメられるようなことは一切しない、そのようにしていました。何があっても、道化のように振る舞うことを当然とされた黒人のイメージ、その真逆の振る舞いや行動を心掛けました。 

 

統合校の授業内容には、黒人に関するものは一切出てきません。僕達黒人は、この世に存在しない、と言わんばかりです。意図的にそうしたのではなく、学校側にとっては、至極当たり前の認識だったのです。例えば黒人に関するレポートを作ってこようものなら、教師たちはニッコリ笑って、猫なで声で「これ何のことかな~?うーん、先生わかんなーい。」何にしても、僕はレポートはいつも奴隷制だのと言った題材を選んでいました。自分が興味を持てるものでしたから。 

 

僕達の近所も、騒動が絶えない処かもしれません。黒人の子供達の間には、守るべき掟がありました。自分らしさを保とうと頑張るのは、厳しいかもしれません。しかし他の子達に一目置かせる方法はあるのです。ケンカに勝つ、イジメに毅然とした態度をとる、ダズンズやボール遊びができる、女の子達とおしゃべりができる、といった具合。黒人の仲間の子達を取り込んでゆくには、何とかなりますが、人種差別となると、状況を変えようとしても大して打つ手がないのです。 

 

そうです。人種差別は、今も昔も小さなことではありません。個人で何とかなるような代物ではないのです。今もなお、46歳になっても僕はこれに苦しんでいます。生活のあらゆる場面に存在し、影響は重くのしかかります - 自分の知り合いの上の世代の人達に、自分の家族に、「世の中はこうだ」とテレビが示すそのやり方に、教師たちが自分に働きかけるやり方に、子供たち同士の人間関係の在り方に、ね。白人の住むコミュニティの道路は舗装されているけれど、黒人のはされていない、誰でも知っている基本手なことですが、これと同じ位、誰でも知っていることかもしれませんね。そのレベルから始まって、およそ考えられることは全てに亘っているのでしょう。例えば僕が子供の頃、フットボールの子供達のリーグ戦の話。黒人のチームが3つ、白人のチームが8つか9つありました。白人の方には何だってありました:コーチは2人、両側のサイドラインに飲み水、ホームグラウンドにはハッシュラインが引いてあり、練習用設備も色々整っているし、親達もスタンドに見に来ていました。一方僕達の方は、ユニフォームは10年前くらいから使っているもの、親達はスタンドに姿はなく、コーチは1人、ディフェンスにエキストラバックを当てられない。これで更に、審判達は僕達に不利な判定をするのです。僕はかつて、審判に暴言を吐いて退場になったことがありました。「どうせウチら負けるんだから、判定まで不利にしなくてもいいじゃんか」白人全員が悪いわけではなく、世の中の全体の仕組みにっ腹が立ったのです。 

 

腹を立てると、自分がかえって物笑いの種になってしまうこともあります。僕のモダンジャズ演奏の初仕事は、ニューオーリンズのタイラーズ・ビアガーデンでのステージでした。バンドのリズムセクションは全員白人 - マイク・ペレーラ、リッキー・セバスチャン、そしてアルヴィン・ヤング。アルヴィンがリーダーです。当時僕は15歳。メンバー皆が僕の面倒を見てくれて、力をつける後押しと、励ましをくれたのです。それなのに僕は、最初の頃に受けたインタビューで、白人はロクな演奏が出来ない、といったようなことを言って、彼らの心を傷つけてしまったのです。ありもしないことを、彼らの気持ちを考えず口にした僕は、本当に愚かでした。こういう正しくないことを、恨みがましく言ってしまった経験の記憶と言うものは、世の中が自分に対して思い知らせてくることに対する怒りの気持ちを抱えていると、つい忘れてしまいがちです。プライドや正義感みたいなものが、怒りの気持ちを抑えなくしてしまうのです。根深い人間の性ですし、これが現実なのです。 

 

レイ・ブラウンというベースの大御所に、僕は自分の子供だった頃の話をしたことを、今でも覚えています。彼の反応はというと、「何だい、そんなしょうもない話は、1960年代に終わったと思っていたぜ」。僕の返事は「いえいえ、もっとヒドイ話がありましてね」。 

 

音楽により深く関わるようになり始めた頃に気付いたことなのですが、怒りの気持ちは、確かにある種の力を与えてくれるものです。燃料の様なものですが、リスクは高くつきます。あっという間に燃え広がり、自分の身の回りを全て焼き尽くすものです。年を取るに従い、怒りの気持ちは持たないようにしないと、そのうち自分自身を焼き尽くしてしまうことでしょう。 

 

高校進学に合わせて、僕の一家はニューオーリンズへ引っ越し、兄のブランフォードと僕はいよいよ、ニューオーリンズセンターという芸術学校へ通い始めます。ここは新しくできた芸術系の公立先進校であり、僕の父はここでジャズの教鞭を取っていました。一般教養科目の方は、午前中にベンジャミン・フランクリン・ハイスクールでの受講となります。この2校がニューオーリンズを代表する公立学校でした。 

 

ニューオーリンズセンターは新しい芸術教育を行う実験校としてスタートしたばかりで、僕はその第1期生となったのです。講師陣は稀にみる素晴らしい方々でした。1人1人が芸術を愛し、後進の指導を大切にしようという気概に溢れています。お互い言葉を交わせば、それだけで学びの意欲をかき立てました。僕の音楽に対する情熱と力量の土台は、ここでのクラシック、ジャズ、声楽の授業で培われたものです。今でも、ここでの経験を思い出すと、感無量です。 

 

時は遡って、ケナーに居た頃、僕の目には、あの厄介な偏見に満ちた白人連中というのは、本人達はそうは思っていないでしょうが、どちらかというと僕達黒人の貧困層との共通点が多かったように映っていました(僕達だって、そうは思いたくないのですが)。ただ僕は、フランクリンハイスクールに通い出してから、白人にも色々な人達がいるんだ、ということに気付くようになったのです。それまで「白人」と単に一括りにしていましたが、生活を共にしてわかったことです。 

 

僕が通っていた小学校には、貧困層若しくは中流階層でも下の方のイタリア系アメリカ人家庭の子達が沢山通っていました。彼らは彼ら同士で、そして僕達とも、よくケンカになりました。これに対して新しく通うことになった高校は、ユダヤ系の子達が多く在籍しています。知り合いの黒人の学生は誰一人として、「このユダヤ人め」という言い方はしていなかったと記憶しています。あくまでも「白人」。でも様子を見ていると、小学校の頃のイタリア系の子供達と違い、ユダヤ系の子供達は、彼ら同士でケンカになるような場面には、出くわしませんでした。彼らには、もっとしっかりした知的なしきたりがあったのです。それは僕にとって興味深いことでした。学校で「このクロンボ」などと呼ばれたことは一度もありません。四六時中ケンカする必要もありません。それは実にしっかりとした市民社会としての姿です。クラスメートたちの会話に耳を傾けてみれば、僕の日頃の取り組みや思いに対して、好奇心を持ってくれていることに、何度も気付くことがありました。当時の僕にとっては、実に新鮮な経験でした。フランクリンハイスクールの子供達の方が、たたずまいが知的で、僕は沢山のことを学んだのです。彼らの中には、男女問わず、僕も出演していたタイラーズのジャズセッションをよく見に来ていて、週明けの月曜日にそれを学校の話題にしようと楽しんでいました。音楽系でも何でもない高校生が、ジャズの本番を見に行くなんて、今ではほとんど聞かない話かもしれません。当時ですら、珍しい状況ではありました(当時の僕には、そういう認識はありませんでしたが)。 

 

2年生になると、「ハックリベリー・フィンの冒険」を授業で扱うことになりました。授業担当のキース先生という方は、最初の時間におもむろにこう言い放ったのです。「皆さん、この授業では『このクロンボが』という言葉を口にすることとします」。生徒達は「このクロンボが」と言うと、くすくすと笑いました。これは僕にとっては、あまり愉快なことではありません。さて、このキース先生ですが、節度を持ちつつも奇抜な発想も出来て、そして僕のことを可愛がってくれるのです。僕は1年生の頃から、この先生の授業では上位の成績を収めていました。先生は僕達にこう言ったのです。「僕は君達に不愉快な思いをさせたくないと思っている。しかし、この作品を学ぶ上では、『このクロンボが』という言葉を使いこなせるようにならないといけないんだ。なぜならこれこそが、作者のマーク・トウェインが言おうとしていることを理解する、その中心にあるものだからなんだ」。僕は心の中で「こんなクソな作品イヤだ」と呟いたのです。 

 

授業が終わると、キース先生は僕を傍へ呼んで、こう言ったのです。「まぁ、もし君がこの作品に取り組めなくて、授業にも顔を出したくない、というのなら、それでも進級には影響しないから大丈夫だ。でも私は、あくまで今のやり方で、この作品を授業で扱ってゆきたい。なぜなら、これが現実、今の世の中の姿だからなんだ。白人が人間に向かって「このクロンボが」と、呼ばなないなんてことはウソだ。彼らは実際そういう言い方をする。その現実を、僕は君達に知ってもらいたいんだ。この教材を中途半端に扱うつもりは、僕にはない。そして君僕の授業を受けて欲しいと思っている」。 

 

すんなり納得はできませんでしたが、僕は「わかりました、やってみます。」と答えました。 

 

今となっては、この授業を受けて本当に良かったと思っています。この本、そしてキース先生の教えは、僕にとっては神の啓示のようでしたからね。先生は、この本とそこから学ぶべきことを、しっかりとコントロールしながら授業を行いました。そして今、僕は常々、個の取り組みは全てのアメリカ国民にとって、必要なことだと感じています。人種問題がもたらす苦痛、闘争、愚かさは、一つ残らずアメリカ国民は向き合ってゆくべきです。向き合わないというのなら、それは例えていうなら、ある人がガンに侵されているのに「言ったら傷つくから」といって教えてあげないのと同じです。教えてあげなければいけません。そうすればその人は、取るべき行動を明快に状況を理解した上で選べるからです。僕はそう思っています。 

 

白人と黒人が、お互い相手が何者か、そしてお互い力を合わせるとどんな国作りができるのか、それを知るには、実は白人と黒人は密接につながっているんだ、ということを理解する必要があります。理解しない、というなら、それは例えていうなら、車のキーを手に持っているのに、それを失くした、と思い込んで、手に持っていることを忘れて、そこいらじゅうを探し回っているようなものです。これでは、いつまでたっても車のキーが見つかった、とはならないでしょうね。自分の手を見ろ!持っているじゃないか!探し回るな!というわけです。今の黒人と白人は、これと同じ状況だということです。勿論、我が国には多くの人種・民族がやって来るわけですので、誰もが皆「マイノリティー」になってしまうように見えます。「マイノリティーという存在がもたらす様々な問題」を僕達は話し合って行くわけですが、やはり黒人と言うものは、我が国では、他とは切り離されたマイノリティー集団などではなく、アメリカと言う国がどういう国なのか、を考える上では、僕達は話し合う話題の中心にすべき存在なのです。 

 

自分はアメリカ人としてどうあるべきか、ジャズはそう考えるよう、人々に促します。民主主義、個人の自由、人種・民族に関係なく人間性を受け入れる態度、こういったことがいかに素晴らしいか、を表現する方法を、ジャズは与えてくれます。それは正に、アメリカの民主主義が在るべき姿そのものです。 

 

この章の冒頭で書きましたように、ジャズがアメリカの国民的な芸術であるが故に生まれてしまった、不安定な状況があるのです。アメリカの文化の中で、ジャズがしっかり成熟してきたため、あからさまに、それまでアメリカでは当たり前だと考えられてきたものを否定してかかったのです。一つは、人種隔離が国全体の社会通念になってしまっていること。もう一つは奴隷制度は昔は正当化されていたということ。これらを「そんなことは過去になかった」と否定してかかったのです。さて、どうしたものか・・・肌が濃い色をしている人間は人間以下、身分を低くするのは当然だとして、その後のアメリカ人として受ける仕打ちを決定づけてしまった、300年間にもわたる信念を国民の記憶から消して去ろうというのでしょうか?そこまでしなくても、人々にとっては、ジャズの在り方をあっさりと記憶から消し去ってしまえば事足りる、ということです。そしてジャズを消し去ったことで、それがもたらす全ての洗練されたスタイル、技巧、そして表現するものを伝える力も消し去られるのです。 

 

あっさり記憶から消えたこと」は、他にもありました。1929年に始まった世界大恐慌の際、アメリカ人はこの音楽の持つ奥深い内容を、こぞって味わい、傷ついた心を癒しました。それは政治家が不正を犯して拘束されると、奥さんや宗教に救いを求めるのと同じです。このことは、今やアメリカ人の記憶からは消えてしまっています。良く見落とされがちなのは、1930年代の白人の凄腕ミュージシャン達の世代丸ごとです。ジャズにどっぷりハマってしまっていたためです。安易に受け入れられたものもあります。10代の子達を食いものにした歌謡曲の数々です。折角我が国の価値が持つ全ての概念を黒人が音楽芸術に仕上げたものがあるにも拘らずに、ね。もう一つは海外のバンドやグループの数々。ローリングストーンズなどは、ブラックアメリカンの「真似事」をするイギリスのバンド - イギリスと言えば、かって独立戦争で戦った相手です ー 我が国にだってバンドやグループがあるにも拘らずにね。もっと多くの人々の目に留まったことと言えば、。スウィングという国民的ダンスが人知れず消え去ってみたり、かつて黒人をコケにしたミンストレルショーが、ヒップホップにその内容が復活してみたり、我が国の音楽文化が、世界中に安っぽい姿で輸出されていった、猥雑でお金さえ儲かればいいと言わんばかりのビデオで使われているBGMの数々など、です「。音楽面でのイノベーションを、テクノロジーやCDの売り上げ、病的な庶民感覚といった視点で定義していっ安直さの結果です、全ては。 

 

ところがここで誰も予想し得なかったこと発生しますこういった安っぽいビデオの中で、1970年代まででしたら想像すら出来なかった、黒人の男達と白人の女達が、何やらロマンチックな雰囲気を醸し出す映像が発信され始めます。こういったミンストレルショーのようなラッパー達は、自分達が住む貧民街で心に描いた「いつか郊外に住むぞ」の夢を売りながら、何百万ドルもの大金を稼ぎ出しました。黒人のアスリート達は、信じられない位国民的な人気者になりました。大企業のトップに黒人(男性も女性も)が就任しました。そしてその上、DNAの研究が進むにつれて、人類は全てアフリカに起源があること、そして多くの要素において、DNAの差異と言うものは、異なる人種間で比べるよりも、同じ人種間の中で比べる方が、より大きなものが見出される、ということが判明してきたのです。 

 

人種問題がもたらす、あらゆる偽善、不条理、恥辱:それはジャズが表現する最も深遠な真実です。そして、ルイ・アームストロングが舞台で笑顔を見せ、ニカニカと歯をむき出しにして、「ヨッシャ!」(訳注:yassah : yes, sir)と言ってみたりする中で、彼がトランペットとボーカルの両方で届けた、一つ一つの怒りの音、得意げな音、磨き抜かれた音、血まみれの音に込められているものこそ、この「真実」なのです。デビュー当初のマイルス・デイビスや、ディジー・ガレスピーも同じこと。そして皆さんご存知でょうか、白人ミュージシャン達のサウンドも、同じことなのです。白人ミュージシャン達も、人種問題がもたらす弊害が、アメリカ人の生活の根本を蝕んでいたことを、知っていました。人種問題がもたらす誤った認識が、彼ら白人にとって有利に働き、おかげでお金は稼げるし、「〇〇王」だの「No.1の〇〇」だのと呼ばれるようになり、その一方で黒人は注目してもらえなくなった、ということを、白人ミュージシャン達は認識していたのです。彼らの心は傷つきました。それはそうでしょう。彼らが演奏したいと思った音楽は、アメリカを一つにまとめ上げ、そして彼らは、その「一つになったアメリカ」の一員になりたいんだ、と望んでいたのですから。そうなれば、どんなに素晴らしいだろう、と思っていたのですから。信じ難いですか?でしたらデイブ・ブルーベックに訊いてみてください。 

 

ジミー・マクパートランド、ピー・ウィー・ラッセル、デイブ・タフ、ジーン・クルーパ、バド・フリーマン、アート・ホーディス、ウッディ・ハーマン、ギル・エヴァンスズート・シムズといった、真摯な白人ミュージシャン達が皆、調和を試みたもの、それは、この国の現実の姿と、彼らがジャズを通して知ったこの国の底力。しかしジャズは、誤った呼び方をされてしまったのです。「黒人と言う人種に特有の音楽」「黒人音楽」「アフリカ系アメリカ人の音楽」などといったものは、生理学や文化人類学をきちんと理解していないからこそ、出てきた悪名です。そのせいで彼らは、文化の「天国と地獄の狭間」に立たされました。一部の白人達からはバカにされる。一部の黒人達からは強い敵意のせいで心からは受け入れてもらえない。そんな状況に手を焼きました。ネチネチとした攻撃にも耐えました。それは、黒人の音楽を「横取り」している、というものです。ジャズは空気と同じ、誰のモノでもあるのに、です。ベニー・グッドマンはお金を払って、フレッチャー・ヘンダーソンにアレンジをしてもらったのです。それを「横取り」などと、訳が分かりません。白人ミュージシャン達が、こうして手を焼き耐える中、黒人ミュージシャン達の大御所達も調和を試みたものがありました。それは、ジャズを通して彼らが知った、この国の可能性と、人種差別を維持し正当化する為のウソが作り出してしまったこの国の現実の姿。黒人ミュージシャン達が、更に味わうことを余儀なくされた現実。それは、自分達の社会集団は、ジャズと言う芸術活動に殆ど関心が無かった - そういう意味では芸術活動全般にほどんど関心が無かった - 全く頭痛の種は尽きません。 

 

さて、これこそが、黒人も白人も全てのミュージシャン達が皆さんの心に届けたいと願うこと:嫌悪の対象に堕したこと(国家、思想、人)への愛しさを表現する方法、それは、それが嫌悪の対象から、もう一度愛すべきものへと戻ってゆくくらい、熱い気持ちでそれを愛し抜け、というものです。僕は19歳の時、マイルス・デイビスからこのことを問われました。「何を考えて、そんなクソみてぇな演奏しやがった!」演奏の表面的なことを言っているのではありません。彼は見抜いていたのです。僕がジャズのことを、まるで分っていなかったことを。僕が理解していたジャズと言う音楽は、「クソみてぇな」もの、ウソと欺きの混沌、悪意も善意もいっしょくた。こんなことでは、陣の潜在能力を引き出すこともできない、自分はどういう人間なのかを気付くこともできない、ひいては、自分も皆も、アメリカの芯の偉大さに気付くこともできない、というわけです。でもそれを乗り越えた時、それに真剣に取り組んだ結果克服した時、アメリカがかつて想像すらしたことの無いような、文化と芸術の興隆が実現することでしょう。どこまでも公正な民主主義の世の中を実現しようと、たゆまぬ努力を続けたデューク・エリントンギル・エヴァンス、チャールス・ミンガス、ジョージ・ガーシュウィンといった、多くの、先見の明を持つミュージシャン達の作品の中で、予言されている「仲良きことは美しき哉」が、実現することでしょう。なぜなら、ジャズとは、アンサンブルで演奏される時、それは「共に行こう、共に在ろう、共に居よう」と歌っているモノだからです。 - 少なくとも演奏が始まってから終わるまではね。 

 

そして音楽の世界では、曲が演奏されてる間に起こることは、人生に起こることを表現しているのです。 

 

 

次回は、第6章を見てゆきます。