about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第8回の2:アート・ブレイキー/オーネット・コールマン

アート・ブレイキー 

 

アート・ブレイキーという人は、ドラム奏者としても、バンドリーダーとしても、何かにつけて「相反する」考え方や行動をとっていた人のようです。背が低いながらも、実際の背丈より大きく見えたのは、パワフルな人だったからでしょう。一言話すその中で、とても深い真実と、とてもクリエイティブなウソの、両方を織り交ぜてくるのです。ジャズに関しては、あらゆることについて、キチッとして誠実さを示し、節度ある威厳を感じさせる話し方をしました。ところが一方でこれまで受け入れられてきた規範を拒むようなことを、何でもやってきたのです。 

 

ブレイキーは、新しいことや誰も気付かなかったことに思いを寄せる人でした。知的で、貪欲で、何事もとことんやり抜く彼は、アフリカのドラム奏法を学びに、ガーナへ向かいます。アメリカでは、ジャズドラム奏者の実力を測る際に、3つ4つの異なるリズムをいっぺんに弾ける力が、どの位あるか、が物差しになっている、と彼は気付きました。彼がよく言っていた言葉に「自分の右手がしていることを、自分の左手には知らせるな」というのがあります。彼がイスラム教に改宗したのは、アメリカでイスラム教への改宗が盛んになる前のことでした。自分も考え方に基づいて信仰を深めていった彼ですが、この様なことを書くと、奇妙に思う人もいるかもしれません。何しろ彼は、あらゆる女性と関係を持ち、自分に都合が良い時だけ真実を語り、ヘロインを常習したり、ですからね。コニャック、マリファナ、コカインなど、彼には物足りない代物でしかなかったのです(訳注:いずれもイスラム教では禁止事項)。 

 

彼はよくお高く留まっている」と思われていましたが彼と一緒に居て教えられたことは他人を決めつけるようなことをしてはいけないなぜならそんなことは誰にもできないからだということです彼の性格は実に独特なもので、皆、彼の人となり惚れ込んだのです他人を知り尽くすことなどできないよって他人を決めつけることなどできないと、いつもハッキリそう言っていました。アート・ブレイキーのこの考え方は、「氷山の一角」というお馴染の言葉がピタリと当てはまります。目に飛び込んでくるものは、本当の姿のごく小さい一部分でしかない、ということです。 

 

彼の出発点はビッグバンドで、ドラムパートを編成に加える上でのオーケストレーション(大編成アンサンブルの作品を作る方法)をよく心得ていました。彼は楽譜が読めませんでしたが、そう感じさせない位、彼の耳は素晴らしく、1回ないし2回聞いただけで、一曲全体を把握してしまう力を持っていたのです。その上で、それに手を加えて改良しようとしたのです。これはドラム奏者という、立場上楽譜や指示がほとんど与えらえれないミュージシャンにとって、重要なスキルなのです。ドラム奏者の裁量が制限されてしまっては、音楽に柔軟性がなくなってしまいます。曲作りにおいては、全員が一斉にタイミングをそろえて音を鳴らす「ヒット」や、音を強調する「アクセント」を設定する場合がありますが、そんな時でもドラム奏者は、どのシンバルを使うのか、どこでバスドラムを「ドスン」と一発下支えに入れるのか、テンションの上げ方と下げ方をどのようにもってゆくか、について、一人で決めてゆくのです。ドラム奏者が発信するグルーブ感の効いた、ダンスと打楽器の色付けを思い起こさせるアフリカのテイストが、ヨーロッパの演奏会用音楽へ加わるのです。 

 

「ブー」とは、私達の彼に対する呼び名です。彼のイスラム名「アブドラ・イブン・ブハイナ」を「ブー」と短縮したものです。ブーの強靭さは超人的でした。彼が好んで自慢していたことは、「俺と一緒にラリってた奴らは、みんな15年前に逝っちまったよ」。彼はツアーの時は、日を重ねてゆく毎にだんだんタフになってゆくのです。例えば、ヨーロッパツアーを2か月間行うとします。最終日が近付いたころの早朝夜明け前に、彼に声をかけても、彼はきっと素晴らしいパフォーマンスを見せることでしょう。僕が初めて彼のバンドのツアーに参加した時のことです。ニューヨークからヒューストンへ車で移動し、本番をこなして、そのままロサンゼルスへ車で移動し、また本番。彼は70才かそこらでしたが、眠気のまばたき一つしない。一方僕達は彼よりも40・50歳も若いのに、ヘトヘトになっていたのです。 

 

彼の教えには、いつも彼の実感がこもっていました。彼の実行力、能力、信念は強く、傍にいるだけで、演奏とは何なのか、を学ぶことが出来たのです。彼のアプローチは気さくで自然でありつつも、本番に向けての練習中は、度が過ぎるほど他のメンバーに気を配り、そして何より、本番お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかに心を砕いていました。「演奏は音量変化をしっかりつけて、人々は音楽に込められた物語に反応する。練習は完璧に、下手で薄っぺらで準備不足のパフォーマンスを聞くのに金を払う人などいない」。 

 

彼は、物事を理解しようと頑張る人には、とことん味方になってくれました。これは優れたジャズのバンドリーダーというものを考える上で重要な性格(キャラクター)です。バンドリーダーとのやりとり、といえば、「ちゃんと聴けよ」「いや、聴いてもわからないですよ」「だったらやめろ」。聴いても解らない、が延々続けば、「もうお帰り下さい」ということになってしまいます。リハーサル中、ブレイキーは常に、本番と同じテンションで演奏していました。その理由を尋ねると、「俺はこんな風にしかドラムを叩けないからさ」と答えるのです。 

 

ドラムといえば伴奏楽器ですが、彼はソリストに対して、どのように音量変化をつけてゆくかを組み立て行く達人でした。囁くような音量から吠えるような音量まで出せるという、彼の代名詞ともいうべき「プレスロール」(訳注:ドラムのロール奏法の一つ)は、たった2秒で、つま先で撫でるようなp(ピアノ)から足踏みするようなf(フォルテ)まで音量を一気に変化させることが出来たのです。彼は他人に花を持たすことを厭わない人でした。リーダーとしては、心広く、人にインスピレーションを与えるような存在であり、自分が関わったミュージシャン達に対しては、彼らの力をいかんなく発揮できる舞台を与えることで、その力を最大限に引き出すことのできる人でした。 

 

そんな風に接するうちに、ある時彼らにこう言ってやるのです「そろそろ君も自分のバンドを立ち上げて自分の音楽を発信してゆく時だ。もし行き詰って、金でもモノでも困ったら、いつでも戻ってこい。俺達はいつでもここで待っていてやるからな。」彼は自分のバンドを家族のように切り盛りしたので、彼に関わったミュージシャン達は、再び彼の元を訪れるのでした。 

 

僕達がニューヨークの名門ジャズクラブ「マイケルズ」に出演していた頃は、タイコ叩き達は皆、よくここに集まってきたものでした。パパ・ジョー・ジョーンズ、フィリー・ジョー・ジョーンズエルヴィン・ジョーンズ、ルイ・ベンソン、マックス・ローチバディ・リッチといった錚々たる顔ぶれが居並ぶと、そこはまるでドラム奏者達によるジャズクラブの様でした。「他のミュージシャン達は鳴かず飛ばずになっちまったが、俺たちタイコ叩きはバリバリだぜ。」などと、よく言ったものでした。今となっては昔の話ですが、1980年代初頭は、幅広い世代のドラム奏者達が、元気にスウィングを効かせていたのです。皆がブーの元を訪れるようになりました。彼のサウンド、演奏表現、ジャズ・メッセンジャーズの音楽には、彼のジャズ全体に対する愛情が込められていたのです。彼はよく管楽器奏者達にシャウトコーラスを吹かせてやったり、バンド全体ではリフもよくやらせたりしました。これは通常規模の大きなバンドがすることですが、彼は小編成のバンドであっても、これをよくやらせていました。きっと彼は、自分がこよなく愛したビッグバンドの全盛期が懐かしくて仕方なかったのではないか、と僕はそんな気がします。当時僕はビッグバンド用の譜面が書けず、今そのことがとても悔やまれます。出来ることなら、今再び、彼と仕事がしてみたい、と願うばかりです。 

 

まだ若く経験が浅い自分を取りててくれるバンドリーダーに対して、心に抱く敬愛の気持ちを言葉で説明するのは、なかなか大変です。チャンスを与えてくれる人のことは、いつまでも忘れないものです。ジャズミュージシャン達が「彼のおかげで今の自分がある」という言葉の重みは、大変なものです。 

 

もし僕が彼を一言で表現するとしたら、「不滅」、という彼のアルバムタイトルの一つを使うでしょう。彼はまさにそのものでしたから。それだけに、彼の死は、僕達全員にとってショックでした。ハーレムのアビシニアンパプテスト教会での追悼集会でのことは、未だに忘れられません。大変な数の元妻達とその子供達が全員参列していました。会はとても和やかな雰囲気で、彼の思い出を肴に、演奏や談笑の華を咲かせたのです。彼が皆から愛されたのは、彼自身が音楽や僕達皆に心を砕いてくれたからにほかなりません。彼の生き様は、ジャズの神髄を体現したものです。それは「安易に手に入れるようなものは、あっけなく失われてしまう」というものです。彼は人を決めつけるようなことをしませんでした。自分の演奏に厳しく、他人への演奏面での要求は安易に妥協せず、スウィングは常にビシッと決める。しかし彼が決して言わなかった一言は「俺の考え通りにやれ」。何事に対しても誠実であることが、どれ程価値があることか、そしてそういう生き方を選ぶことが、どれ程大きな力になることか、彼はそれを教えてくれました。 

 

おススメの銘盤 

 

モーニン 

 

フリー・フォー・オール 

 

バードランド(訳注:ニューヨークの名門ジャズクラブ)の夜 第1集~第3集 

 

オーネット・コールマン 

(訳注:原書出版時2008年の7年後に逝去) 

 

数年前に偶然にも、オーネット・コールマンに、とあるミュージックストアで出くわした時のこと。ひとしきり話をした後、彼が僕に言った意外な一言「後戻りするなよ」。というのも、彼自身の音楽の原点が、ずっと古い時代にあるからです。彼は音楽の歴史の流れから外れた存在であり、時代の先駆者であり、そしてずっと古い時代、それもジャズが生まれる前の頃にベースがあります。彼の演奏方法は、コード進行に従ってインプロバイズする方法が確立される以前、メロディと装飾音型だけで演奏していた時代のものなのです。メロディのネタが豊富で、ハーモニーのことを知らなくてもできることから、彼の音楽は、幼い子供達がインプロバイゼーションを学ぶ上で大変良い教材になるのです。 

 

元々彼はチャーリー・パーカーのスタイルを基礎にしていました。初期の楽曲「バード・フード」などに、それを垣間見ることが出来ます。しかし彼は、努めて、人が話をする際につける仕草の変化を、演奏に反映しようとしました。また、彼は、むせび泣くような演奏の仕方を特徴としています。彼の、最も物悲しくて頭に残る楽曲「寂しい女」は、同時に彼にしかないサウンドを聞かせてくれます。彼は超一流の、メロディを主とする音楽家であり、ジャズの歴史上No.1ではないかと思われます。彼が音楽を組み立てるスタイルは、知的であり、ハーモニーを変化させることなく、目まぐるしく変わってゆく人の心の様子を、音に描いて見せたのです。 

 

一時彼は、伝統的な形式、主に変化をつけたブルースとリズムに固執していたことがありました。しかし間もなく彼は、フレーズの区切りにこだわらずに、純粋にインプロバイズしてゆくために、その両方ともいっぺんに排除してしまったのです。こうして、ひたすら自由に流れてゆくメロディ、というスタイルが出来上がりました。若い頃、彼は一時期ニューオーリンズに住んでいました。彼のカルテットにいた名ドラム奏者であるエド・ブラックウェルは、1950年代に僕の父と一緒に演奏活動をしていました。ブラックウェルによると、オーネットは彼に対し、4小節/8小節だのといったフレーズの区切り方をするな、とよく言っていたそうです。常に、より自然に湧き上がってくるような、実生活での人間同士の意志のやり取りを演奏の中にも求めていて、偶数単位と決めてフレーズを演奏していなかった彼は、「俺のフレーズを終わらせるな」とよく言っていました。彼には1小節毎が、あくまでも区切りだ、というわけです。 

 

彼のスタイルは何が革新的なのか。それは、メロディを自由に流し続けることで、一般的なコードのパターンにはまってしまい、使い古されたような感じのするメロディが、クドクド繰り返されるのをのを防ぐことが出来るからです。ところがこれは、プレーヤーにとっては足枷なのです。というのも、コードといえば、音楽表現をする上での4本柱の一つだからです(残りの3つは、リズム、メロディ、そしてテクスチャ[質感])。そしてコード進行に乗って新しくメロディを創ってゆくことは、ジャズのインプロバイゼーションにおける最も大きな挑戦だからです。このスキルの重要性に対し、一石を投じたのが、オーネットであるわけです。彼の後進の多くは、彼の様なメロディに対する才能やブルースに関する十分な知識は持ち合わせていませんでした。オーネットが活躍し始めてからというもの、ジャズのインプロバイゼーションとフリーインプロバイゼーションが混同される傾向が強まり、そして「まともな」と思われているライター達の中には、ヨーロッパの方が旧来のブルース形式にとらわれずインプロバイゼーションをするという点で、新のジャズの革新派である、などと本気で信じ込む者が出てくる始末。 

 

数年来、オーネットは同じ演奏スタイルを維持し続けています。時々ヨーロッパのアヴァンギャルド的な手法に手を出すことはありますが、哀愁漂うサウンド、天才的なブルースのメロディ、炎のように熱く、そして自然と体が動き出すスウィングのリズムといったものが、彼を根っからのジャズマンだと説明しています。 

 

彼は、共感的理解の大切さを教えてくれます。彼に話を聞いてもらっている時に感じるのは、こちらの言いたいことが既に理解できていて、そしてこちらの言う事をしっかり把握し、その深い意図に反応してくれている、ということです。本当によく耳を傾けてくれるので、「どうやってこちらの思っていることがわかってくれるのだろう?」と感心してしまいます。オーネットは、こちらが話すそのニュアンスを全て感じ取り、どんな小さな情報も、どんな表情仕草も、すべて把握しようとします。その姿勢からは、表にでない細やかなことまで注意を払う大切さを、教えられます。誰かが思わず眉をひそめる。彼はそれを音にして見せます。目上の人と会話中、時計を見たいけれど、話に興味がないと思わせたら失礼かな、と心が葛藤する。彼はそんな気分をも音にして見せます。オーネット・コールマンとは、他のどのジャズミュージシャンよりも、人とのやり取りの中に生まれるわずかな心の揺らぎをも、完璧に音にできるミュージシャンなのです。 

 

彼は他人の演奏をしっかり聞くことが出来る人です。それは僕が彼の家に行って一緒に演奏した時に知ったことです。どうしても音楽という言葉は、相手が話を分かってもらえず、イライラする代物です。話を振っても、キチンと返ってこない。こちらが小さく吹いても、相手は大きく吹いてくる。こちらがポリリズム(複合リズム)を演奏しているのに、相手はドタバタ突進するだけ。こちらがソリストに「おい、バックを聞いてたのかよ?」と訊けば、相手は「え?なに?」と返すだけ。その点、彼のインプロバイズのやり方は、他の頭デッカチなその他大勢のミュージシャンなんかよりも、よほど勉強になります。オーネットは教えてくれます。才能とは通説を極めることではなく、どこからでも喰い漁って行けばいいんだ、と。 

 

おススメの銘盤 

 

ジャズ 来るべきもの 

 

オーネット! 

 

世紀の転換 

 

 

 

 

次回は、ジョン・コルトレーンついて、ウィントンの語った部分を見てゆきます。