Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)2章pp33-38

もちろん、キース・ジャレットはチャールズ・ロイド・バンドのメンバーのうちの1人、という世間の見方ではあるものの、彼の優れたインプロヴァイゼーションにより、個人としても優れたジャズミュージシャンであると世間は見るようになった。そしてどこのバンドに行こうとも、その名声に頼らずとも、将来を期待されるまでになったのだ。仮にジャレット自身の名前のバンドなぞ結成しようものなら、尚更だったであろう。だが更に言うなら、何かしら自由裁量があったとしても、残念ながらそれを控えることが、可能であったというべきか、義務だったというべきか・・・目一杯発揮されることはなく、他と関わるには人脈の拡大が必要だった。なので既に、ジャレットはチャーリー・ヘイデン、そしてポール・モチアンらといつも演奏活動をしており、注目すべきアルバムを幾つか残している。ピアノ、ドラム、ベースというトリオ編成は、ジャレットがミュージシャンとしてのキャリアを通してあらゆるステージの機会を通してこだわりを持って取り組んできており、彼が「これは」と思ったミュージシャンを得たなら、かなり長期間活動を維持した。彼が高く評価していたベース奏者のチャーリー・ヘイデンとは、1966年からの付き合いで、亡くなる2014年まで続いた。チャールズ・ロイド・バンドの元メンバーでは、ジャック・デジョネットとの関係が特に重要で、後にベース奏者のゲイリー・ピーコックと2つめのトリオ(通称「スタンダーズトリオ」)を結成。このメンバーは後に、ジャズ史上最も長く続くトリオの一つとなる。 

 

チャーリー・ヘイデンポール・モチアンらと1967年に結成したジャレットにとって最初のトリオは、出だしから好調で、チャールズ・ロイド・カルテットとのツアーの「合間つなぎ」以上の成果を上げた。キースは常に忙しくしていた。例えば、問題作「レストレーション・ルーイン」では、マルチプレイヤーとしての本領を発揮し、管楽器、鍵盤楽器、打楽器、更には歌も含め、12の楽器を弾きこなした。1968年から69年にかけて35回の公演をこなした、長期に亘る全米ツアーのライブ音源は、彼が流行歌のスタイルに対する興味を膨らませていたことを物語っている。例えば、ボブ・ディランの楽曲で、「マイ・バック・ページズ」が、彼らのレパートリーとして収録された。イアン・カーによると、ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンとの共演プランも取り沙汰されていたほどだった。もっとも2人が1970年の秋に急逝してしまい、お流れになってしまっている。この頃、珍しい収録がいくつか行われた。場所はブロードウェイの「アトランティックスタジオ」。ここでキース・ジャレットは伴奏者に徹する。これに乗ったのが、ソウル・ジャズのアーティスト達やフォークシンガー達で、その中には、バーバラ・マッセイ(ジミ・ヘンドリックスやキャット・スティーヴンのバックコーラスにも参加)や「Standing Here Wondering Which Way To Go」というゴスペルを手掛けたマリオン・ウィリアムスもいた。その後のLPでは、アトランティックは4人の気鋭のジャズピアニスト達を招集した。ハンク・ジョーンズ、ジョー・ザワニー、レイ・ブライアント、そしてキース・ジャレットである。続いてドナル・リースというシンガー・ソングライター。時は1960年代、マーチン・ルーサー・キング牧師を擁する公民権運動が各地で起きていた。これら収録の数々が、キース・ジャレット個人の音楽面での目標には大して役に立たなかったとはいえ、良い刺激となったのも、アトランティック・レコードのおかげであろう。 

 

 

そんなわけで、チャールズ・ロイド・カルテット解散後、ジャレットは手ぶらで放り出されたわけではなかった。解散後数年間、ジャレットのマネージメントは、引き続きジョージ・アヴァキアンが引き受けてくれた。この敏腕マネージャーの名前は、音楽の世界でハグレモノにならないための保険に等しかった。いかに少しは名前の知れたミュージシャンといえども、1969年にこのトリオのヨーロッパツアーを敢行しようなど、業界に顔が広く影響力のあるアヴァキアンほどの大物でも、難しい挑戦であった事を考えれば、当時どれほどヤバい状況だったか、ハッキリおわかり頂けるだろう。でも敢行したのだ。ところが予算が乏しく、ヘイデンとモチアンは渡欧できずに留守番キース・ジャレット現地のプレーヤー探す羽目になったこういう緊縮予算イベントにはありがち)。元チャールズ・ロイド・カルテット出身のミュージシャンであるチャーリー・ヘイデンオーネット・コールマンの元、伝説のアヴァンギャルドグループでならしたベース奏者)とポール・モチアンビル・エヴァンス・トリオ最盛期のドラム奏者)を擁するジャズのトリオ編成をもってしても、時代は、この編成でレコード制作をするには、風向きが良くなかった。ビル・エヴァンスはジャズのトリオ編成の発展に貢献したキーパーソンだ。その貢献度は、ヨーゼフ・ハイドン弦楽四重奏というアンサンブルを確立したことと肩を並べると言っていいだろう。「ソロと伴奏」という縛りを取り払い、ピアノとベースとドラムの3つともに音楽的表現を発揮する機会を確立したという点で、ビル・エヴァンスの役割は重要である。 

 

 

このヨーロッパツアーは、困難な状況下で敢行されたものの、思わぬ 

幸運により別の素晴らしい公演と鉢合わせになるジャレットトリオはイタリア人ドラム奏者のアルド・ロマーノとフランス人ベース奏者のジャン・フランソワ・ジェニー・クラークから成る。彼らのパリ公演中、丁度マイルス・デイヴィスが公演に来ていたのだ。マイルスはそれまで、キース・ジャレットのことを機会あるごとに知るようになり、数年かけて彼を口説いてきていた。その気持を改めて示すかのように、マイルスはジャレットが公演を行ったパリのクラブに、自分も公演をぶつけてきた。脇を固めるのは、デイヴ・ホランドウェイン・ショータートニー・ウィリアムスという錚々たる一団である。 

 

キース・ジャレット自分自身と、その周りの音楽面での状況を、常に的確に見極め、そしてタイミングよく「是」と「非」を判断できる。これは彼独特の能力である。以前、ボストンにいた頃、そしてニューヨークへ移ったばかりの頃、彼は、「史上最高のジャズミュージシャンとご一緒するには、まだまだ青い」と自己判断したことだろう。今回、マイルス・デイヴィスのオファーを断らなかった決定的要因は、ジャック・デジョネットが先行してコラボを受け入れたこと以上のものであったと推測される。いずれにせよ、1970年春、ジャレットはマイルスと折を見てレコーディングを行うようになる。だがデジョネットが加入後は、共演回数を更に増やしていった。デイヴィスは当時常時活動する編成のバンドを持っていなかった。だが彼に賛同し、いつでも共演するミュージシャンが沢山いて、公演に、レコーディングにと、機会に応じて様々な組み合わせが招集された。ジャズの世界で揶揄された彼らの集団の名は「マイルス一座の音楽隊」。 

 

 

この音楽隊にキース・ジャレット入隊した頃既に2人のピアノ奏者がいた。チック・コリアハービー・ハンコックである。スタジオ収録ともなると、マイルスは臨時に3人、時に4人もピアノ奏者を手配したこともあった。ハービー・ハンコックジョー・ザヴィヌルチック・コリア、そしてエルメート・パスコアールだ。同様にベース奏者を2人招集することもあった。ロン・カーターデイヴ・ホランドだ。勿論、マイルス・デイヴィスとの音楽活動の意義は、キース・ジャレットも自覚していた。この世界で、デイヴィスの役割は、ロイドなどとは比較にならない。たとえデイヴィスのエレキロック・ジャズという新ジャンルで、素晴らしい収録作品ができたとしても、ジャズ評論家の中で純粋主義者がこれにイラつく連中が、ロイドなどより多いとしてもだ。 

 

電子ピアノ電子オルガンといった担当楽器耐えかねても他のメンバーを尊敬できなくても(無論、ジャック・デジョネットを除く)、ジャレットは1年半この音楽隊にとどまった。音楽面では何を言いたいのか分かりにくいとされたマイルス・デイヴィスだったが、そんな神がかった彼に、キース・ジャレットは理解を示した数少ない1人である。そして勿論このことは、デイヴィスと共にいたときも、ジャレットが自信を持って独自の思考・行動を維持した所以を物語っている。彼はご多分に漏れず、同世代のミュージシャン達と同様に、親の世代の言うことよりも自分の心の声を信じた。かつてマイルスは1944年に、ニューヨークで、彼のメンターとなる伝説のチャーリー・パーカーに弟子入りを求め、2年間共にした。キース・ジャレットマイルス・デイヴィスとの関係は、この時のようには行かなかった。ジャレットの考えたことは、多くを学べるであろうマイルスの演奏、彼のグループのエネルギー、バンドのあり方、フリーアレンジ、舞台上の有り様はともかく、彼との「師弟関係」は、自由人たる彼の選択肢ではない、ということだ。既にジャズの歴史作りに貢献したマイルス・デイヴィスと、気鋭の若手ピアニストのキース・ジャレットは、お互い一人前のアーティストしての出会いとなった。 

 

 

 

 

【36ページ写真脚注】 

1971年11月18日(左から)ゲイリー・バーツマイルス・デイヴィスキース・ジャレット、マイケル・ヘンダーソン、レオン・ンドゥグ・チャンクラー、ドン・アライアス、ジェームス・フォアマン(写真提供:ジャン・ピエール・ロッシュ) 

 

 

マイルス・デイヴィスのバンドは沢山編成されたが、どう機能したのか?」多くの人にとっての謎だ。彼は寡黙で横柄だとされ、常に無名の新人達を世に送り出すべく、バンドを編成した。だがデイヴィスは鋭い目利きでもって、楽譜のみならずミュージシャンも見極めた。彼の下へきた新人がどれほどのものか、世間がわからなくてもマイルスは見抜いている、などということは、しょっちゅうあった。 

 

 

また彼は、キース・ジャレットの招聘に際し、その適性を吟味するのにさほど時間はかからなかった。これに先立ちマイルスは、1968年ニューヨークのクラブ「ヴィレッジゲート」でキースをじっくり見る機会を得ている。彼のクインテットとチャールズ・ロイド・カルテットの共演イベントだった。彼の耳にハッキリと飛び込んできた「スウィング」こそ、後に彼のバンドで再会するジャック・デジョネットキース・ジャレットである。マイルスが、この電子楽器を嫌う若手ピアノ奏者(この辺は「音のエンジニア」ハービー・ハンコックとは異なる)に電子ピアノやハモンドオルガンを弾かせたのは、べつに嫌がらせでも何でもなく、純粋に経験値を増やしてやりたいとの思いからだった。それどころか、マイルス・デイヴィスの考え方は、ありきたりのことを避け、ミュージシャン達から新たな可能性を引き出すことにある。「五感で感じ取れないものを音にせよ」とは、彼の意味が通じないと思われる教えだ。キース・ジャレットはこの考えに共鳴して、好き嫌いを控え、慣れない楽器にも挑戦するようになった。 

 

 

キース・ジャレットマイルス・デイヴィスとの1年半(18ヶ月間)という短い期間を終えた後、自分のメンツをかなぐり捨てて電子ピアノを弾くようなことはしなかった。だがそうであっても、マイルスの音楽的才能を見抜く力は、いまだ称賛に値する。チック・コリアもそうだったが、キース・ジャレットが電子ピアノから学んだことは計り知れない。これをマイルスの下衆な言い方をすれば「野郎ども良い事学んだじゃねぇか」。実際マイルスは、人を褒める時は手放しだった。この辺、チャールズ・ロイドとは異なる。彼は常に自分が一番で、他のメンバーが彼より見事に演奏していても、あくまで注目は自分に集めさせようとした。マイルス・デイヴィスは、チャールズ・ロイドの「ドリームコンビ」を引き継いだという自覚があった。彼はハッキリ次のように述べている「キース・ジャレットジャック・デジョネットが居るバンドでは、サウンドの持ってゆき方、演奏する内容、そしてリズムをどうするかを、キースとジャックが決める。彼らは音楽に一部手入れをし、すると音楽自体が独り歩きを始め、姿を変えてゆく。キースとジャックがいなければ不可能なことである。」これこそ、マイルスの才能であり、成功の秘訣である。ミュージシャン達を探して引っ張ってくると、一緒にして化学反応を起こさせ、その後は干渉を入れずに自由に泳がせる、というやり方だ。 

 

 

キースとジャックが在籍中のマイルス・デイヴィスのバンドの音源は、あまり多くない。そしてその内容も、ジャレットは勿論、他のミュージシャン達のサウンドに対する考え方を反映したものとは言えない。彼が不満に思った例を一つ。マイルスのレーベルを出していたCBSレコードだが、エンジニアがライブ音源の雑音を除去しようとして、実際には電子ピアノの重要な要素である「引っ掻くような感じ」までぶち壊しにしてしまったという。「電子ピアノの音の魅力を出せば出すほど、エンジニアがクリーニングをかけてしまう。信じられない話だ。音符が感じ取れなければ、サウンドも感じ取れないではないか。」中には音源が残っていないアンサンブルもある。例えば、1970年秋のチック・コリア脱退後に編成された、キース・ジャレットの電子ピアノ/オルガン、マイルス・デイヴィスゲイリー・バーツのアルトサックス、マイケル・ヘンダーソンエレキベース、そしてジャック・デジョネットのドラムスの、ジャレット曰く「マイルス一座最高のバンド」である。 

 

だが、一部かなり作り込んだ作品が、キース・ジャレットマイルス・デイヴィスによって音源が残っている。チャールズ・ロイド・カルテットのよりも音楽の作り方が多層的で素晴らしい出来である。目まぐるしい変化や、通常大きめの編成で演奏していることが要因の一つだが、もう一つ、マイルス・デイヴィスの下に集まった優秀なアーティスト達が、その才能をお互い刺激しあって生まれた賜物だ。ダブルアルバム「マイルス・アット・ザ・フィルモア」「ライヴ・イヴル」は1970年の制作。同年8月末には、ワイト島での音楽祭を記録したものがある。このヨーロッパ版ウッドストックにはるばるやってきた6万人もの観衆を前にして、ロックンロールやフォークの出演者達(ジミ・ヘンドリックステン・イヤーズ・アフタージョニ・ミッチェルジョーン・バエズ、そしてリッチー・ヘブンズなど)の中で、唯一ジャズを代表してやってきたマイルスは、自分だけよそ者ではないかと感じたはずである。演奏後、舞台裏に戻った彼の表情には、わずかではあるが感情の高ぶりが見受けられた。地平線の向こうまで埋め尽くすヒッピー達の波をじっと見つめ、そして驚いた様子だった。本番の演奏自体は熱狂的であり、ジャズのレコード史に燦然と輝く出来だった。ルイ・アームストロングのホット・ファイブ/ホット・セブン(1920年代)、ベニー・グッドマンカーネギーホール公演(1938年)、マイルス・デイヴィス自身の「カインド・オブ・ブルー」、ジョン・コルトレーンの「アセンション」、オーネット・コールマンの「フリー・ジャズ」、あるいはキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」と肩を並べる出来である。 

 

 

 

【38ページ写真脚注】 

1970年のワイト島フェスティバル(左から)キース・ジャレットゲイリー・バーツジャック・デジョネットデイヴ・ホランドアイアート・モレイラマイルス・デイヴィスチック・コリア(写真提供:ローレンス・ヴァン・ホーテン) 

 

ワイト島では、マイルス・デイヴィスのバンドは、38分間ノンストップの演奏をした。これについて、ある取材記者が曲名を訊ねたところ、マイルスは、きつい口調のしわがれ声で「好きに呼んでくれよ」と答えた。後にこの演奏はLPおよびビデオに収録され、その名も「コールイットエニシング」とされた。このタイトルは、同時に、マイルスが曲名をなかなか付けられない作品に対する気持ちをよく表している。バンドのメンバー達がステージに上る時は、オープンフォーム(奏者の裁量が大きい演奏形式)で、とりあえず、主題の素材を2,3と、テンポ変化、主軸とする音、曲の雰囲気、そして常に、フレーズの息継ぎを阻害するようなことはぜったいやらかさないこと、という約束をする。ジャック・デジョネットによると、このパフォーマンスは、一種のジャムセッションのようなものだが、そいういう演奏に耐えうる力の持ち主が予め選抜されるという点で、ジャムセッションとは一線を画しているという。この日は、マイルス以外では、デジョネット、エレキベースデイヴ・ホランド、パーカッションのアイアート・モレイラ、ソプラノサックス/アルトサックスのゲイリー・バーツ、そして2台のキーボード、電子オルガンがキース・ジャレット、電子ピアノがチック・コリア。キーボードの二人はお互い見えるように向かい合って座ったが、本番中その利を活かすことはなかった。