about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Moving to Higher Ground を読む 第8回の4 デューク・エリントン/ディジー・ガレスピー

デューク・エリントン 

 

1969年4月29日の夕方、ホワイトハウスにはデューク・エリントンの姿がありました。大統領自由勲章の授与式が行われたのです。この日は、彼の70回目の誕生日でした。翌日の夜、彼の姿はオクラホマシティシビックセンターにありました。バンドを率いてのコンサートへ戻ってきたのです。このコンサートツアーは、彼が半世紀近くも取り組んできたものです。 

 

彼はそういう人だったのです。あらゆる人のために奔走する彼は、自分の全てを懸けて絶え間なく音楽を創り続けた、ジャズの不動の代表選手なのです。 

 

デュークはアメリカ一の多産なミュージシャンであり、その音楽には学ぶべきことが沢山詰まっています。彼が生きるその根っこにあるもの、そして無限に湧いてくるインスピレーションの源、それは、全ての人に対し好奇と愛情の念を持っていた姿なのです。皮肉な話ですが、エレガントな着こなし、そして「いつも自分は本番舞台上」という佇まい、このせいで皆が彼とは少々距離を置くのでした。もっとも彼の自叙伝「Music Is My Mistress」によれば、「俺の人生は宴」のようであった、とのこと。彼が知り合いとなり、そして彼が愛した人々が織り成すカレイドスコープ(万華鏡)を通して、彼の世界が描かれています。 

 

頭に血が上った人同士のやり取りや、人の異常な欠点というものを、彼は好みました。中の悪い2人がバンドに居るとします。彼なら、まず、隣同士に座らせる。絡み合いのあるソロをやらせる。そして様子を見る。彼はミュージシャンが好きなのです。それも単に演奏だけでなく、その人自身を愛してしまうのです。それがあるからこそ、何年間にも亘って、できるだけ多くの人々と共演したい、だとか、同じメンバーと何十年も演奏を共にしたい、とかいう気持ちになれるのです。 

 

愛し合う男女の豊かな心の生き様を表現させたら、彼の右に出るミュージシャンはいませんでした。彼がピアノで一音鳴らしただけで、月明かりがすうっと差し込んできます。かれは女性達を愛し、彼女達も彼を愛したのです。 

 

人生とは先が読めないもの。これも彼が愛したことです。彼はカオス(混沌とした状態)を大事に好んでは、その中に音楽的な作品へと「仕上げてゆく方法を見出しました。かれのバンドはまとまりに欠け、指示が通りにくく、彼以外の人間にはとても御し切れない集団だったのです。まずはテナーサックス奏者のポール・ゴンザルベス。本番中、大半の時間居眠りしていたかと思えば、パッと目を覚まして30コーラス熱気あふれるソロを吹く。ジョニー・ホッジズ。情熱的なバラードを演奏したかと思えば、指をこすり合わせる仕草で「ギャラ上げてよ」と合図する。レイ・ナンスは背が高いので、自分のマウスピースが見つけられない、ましてや楽譜などいうまでもない。この様なバンドですから、誰がリーダーになっても頭がおかしくなってしまったことでしょう。でもデュークは違ったのです。大概の人が混乱を収めるのに型で自分を守ろうとする処を、彼は型で抱きしめてあげようとしたのです。 

 

それまでずっと、甘美な社交ダンスの音楽を主に演奏していた24歳の時に、彼はシドニー・ベシェの音楽を耳にし、初めてニューオーリンズ音楽の力を理解しました。当時大半の人々が新しいホットジャズを、単なる目先の新しいモノ、昔ながらの甘美さのある音楽から見れば敵だ、と見なされていたのです。デュークはジャズが、ホットで尚且つ甘美な音楽となりうることを、見抜きました。彼は既に自分のモノにし始めていた甘美な音楽を手放すことはしませんでした。でも彼は、新しい音楽表現を身に付けていくという難題に取り組むことを決意し、早速ニューオーリンズ音楽の芸術的要素を混ぜ込みはじめました。その土台となるものを、彼は一生懸けて解明し、磨き上げてゆくことになります。 

 

彼はジャズを「音楽による言論の自由」を呼び、メンバー達にはよく「自分のパートに人格を与えること」と言い聞かせていました。ポール・ゴンザルベスがデュークの門をたたいた時には、ベン・ウェブスターの有名なソロの数々を披露したそうです。楽団に採用されたものの、ツアーに参加した時もまだベン・ウェブスターのような演奏をしていた彼を、デュークは傍へ呼び寄せ、こう言ってやりました「ベン・ウェブスターは過去の人間だ。私はポール・ゴンザルベスを採用したんだ」。 

 

彼の音楽が時代遅れになるようなことはありませんでした。なぜなら、彼は自ら進化することを止めなかったからです。アメリカの作曲家達がヨーロッパ音楽に盲従し盲従し、それが未来を切り拓くことになるんだ、と信じ込んでいた時に、デュークは自分のすべきことを続け、ジャズという国境を越える言葉で、自分が生きている時代を表現する新たな方法を編み出します。ダンスミュージックを手掛け、色々な土地に固有の音楽を採り入れ、男女の間のことや、手に手を取り合う人々の様子を素材とし、これらの絵の具が載ったパレットで描いた名作の数々は、映画、バレエ、テレビ、劇場、教会、そしてコンサートホールでのステージで披露されてゆきました。彼のキャリアは、人々にこう語りかけます「私達には私達自身の音楽がある。だから私は、より洗練された音楽を作る上では、何もストラヴィンスキースクリャービンシェーンベルクを本格的に勉強しなくちゃいけない、とは思わない。私の道を最高に極める方法を追求するのみだ。」 

 

おススメの銘盤 

 

ブラントンウェブスターバンド 

 

カーネギーホールコンサート 

 

エリントンインディゴ 

 

極東組曲 

 

 

 

ディジー・ガレスピー 

 

僕がディジーに初めて会ったのは、15歳の頃、ニューオーリンズのチャピトゥーラスストリートにある「ロージーズ」というクラブでのことでした。僕のお父さんが僕を紹介してくれたのです。「これが俺の息子だ。トランペットを吹くんだよ。」 

 

ディジーは更衣室の出入り口の傍に立っていました。僕に自分の楽器を手渡すとこう言いました「ボク、何か吹いてごらん」彼の楽器についているマウスピースは、僕が吹いたこともないような、本当に小さなもので、「プー」と音を絞り出すのがやっとでした。彼は僕のお父さんと呆気にとられて立ち尽くしてしまい、そして「よーくわかった」と、その場のバツの悪さを振り払うように言いました。それから僕にもたれかかって顔を近づけると、「練習しろよ、下手っピー」と言ったのです。 

 

彼を「ディジーおじさん」等と呼んで、温和で柔軟性のある人だと考えている人達もいるようですが、決してそんな人ではありません。彼の演奏は、知性の大切さをよく示しています。彼は技術的な面を、それを上回る知性でカバーしました。名手と呼ばれるミュージシャン達の中では、恐らく彼が最も、ブルースが持つ気取らない感覚が少ない人だと思います。僕はディジー本人の口からそう聞いたことがあります。彼は大きな音で吹く人でもなく、メロディックなプレーヤーかと思えば、その第一人者と言うわけでもない。そんなでしたから、彼の演奏から、人と触れ合う温かみが生まれてこない、と思われてしまう。誰もが人としてのディジーは大好きだったのですけれどね。とは言え、彼のリズム感覚にはズバ抜けた洗練さがあり、ハーモニーの使い方の名人であり、その研究も熱心に行っていました。ロイ・エルドリッジからデューク・エリントンまで、彼は若い頃聞いた音楽は全て自分の中に取り込み、複雑ながらもバランスを知的にキープしたリズムとハーモニーの上に、独自のスタイルを構築し、これを発展させてゆきました。ディジーは頭の回転が速く、とんでもない速さのテンポでアイデアが次々と流れ出てきます。そんな風にトランペットを吹いてみようと考えた人など、それまで居ませんでしたし、ましてや実際にはやってみた人もいませんでした。 

 

ミュージシャンなら誰もが彼をリスペクトしていました。なぜなら、誰よりも吹くのが上手であるのに加えて、彼の知識は豊富で、そしてそれを惜しみなく皆に分け与えていたからです。彼は皆にビーバップの表現方法を教えてあげました。ドラマー、ベーシスト、そしてピアニストに対してもです。彼は、若手が自分独自のサウンドを追求するのを、とことんサポートしました。そしていつも、ハーモニーのことを研究する為にも、ピアノが弾けるようになる大切さを強調したのです。ディジーが僕にそのことを話してくれたのは、彼がメトロノームオールスターズで、ファッツ・ナバロ、マイルス・デイビスとトランペットセクションを共にした際、この二人が全く聞き分けがつかないくらい、ディジーとそっくりな吹き方をしたのを受けてのことでした。だから、彼が僕の演奏で気に入ってくれたのが、誰もやらなかった吹き方ですが、僕がオクターブ上げて、しかも一つの音とそのオクターブ違いの音を同時に吹いて見せたこと、だったそうです。 

 

彼は革命的な人だ、と当然のように呼ばれていますが、僕に言わせれば、それ以上の存在です。彼は、新しい音楽スタイルへ、第二次大戦以前の、我が国の音楽の歴史においては比較的古い頃の、最高の音楽的要素を取り込むことが、価値ある取り組みであるということを理解していた、という点で、現代音楽における天才だった、と僕は考えます。ディジーはそれらを全て、自分の音楽に活かそうとしたのです。ダンス音楽、コメディー音楽、劇場の様な広いキャパの場所からキャバレーのフロアショーの様な限られた空間まで演奏の場として選び、ラテン音楽との関係を密に保ちました。 


世代を越えた演奏交流にも、彼は意欲を示しました。彼がレコーディングを行ったのは、ロイ・エルドリッジやデューク・エリントンといった一世代前のミュージシャン達(大勢いた中でこの二人だけ、ここでは名前を挙げておきます)と、そこへ多くの若手ミュージシャン達を投入したバンド。その中には、ジョン・ルイス、ラロ・ジョフリン、メルバ・リストン、ジョン・コルトレーンダニーロ・ペレス、それからジョバンニ・イタルゴといった顔ぶれがありました。 

 

彼はジャズにおいて、大きな挑戦を志します。キューバップ形式の発展に寄与することです。これは、ジャズとキューバ音楽(ジェリー・ロール・モートン曰く「スペイン風」)との結びつきを確かなものにしようとするものです。彼はラテン音楽の技術的な部分については、完璧に理解していた、というわけではありませんが、人々を結びつける方法の一つとして重要である、との理解を示しました。そういうわけで、彼が最後にビッグバンドを結成したとき、その名は「ユナイテッドネーションズオーケストラ(世界の国々の合同バンド)」。優れたミュージシャン達が、パナマ、ブラジル、プエルトリコ、そしてアルゼンチンから結集したのです。共演者全員、彼を好きになったといいます。 

 

彼はビッグバンドの伝統を守ろうともしました。ジャズ・アット・リンカーンセンターでの、ある公演の後、彼が僕に言ったのが「今日やったビッグバンド、大事にしろよ。アメリカ独自のオーケストラミュージックを手放すことが未来への発展だなんて、とんでもない話だ」。チャーリー・パーカーはディジーよりも、音楽的才能では深い所を極めていたかもしれません。しかしディジーチャーリー・パーカーよりも、我が国の文化における音楽の位置づけについては、深い認識を持っていたのです。 

 

僕は二十歳の頃受けたインタビューで、かなりヒートアップしたことがありました。売れっ子と呼ばれる人達のこと、無知なジャズ評論家達のこと、凡人と呼ばれる人達のくだらなさ(遠回しに「僕は例外」としつつ)、といったことを、品の無い言い方であれこれと言い散らかしたのです。多くの人々の怒りを買いました。数週間後、僕はディジーサラトガジャズフェスティバルの舞台裏で顔を合わせました。彼は僕を手招きすると、やおら自分の楽器ケースを開けて見せました。彼は例のインタビューに同席していたのです。 

 

僕は、その時のお詫びをしようとしてしいたことを、彼に伝えました。 

 

すると彼は「ダメ、ダーメ。自分が本当だと信じることは、口に出して言わないといかん。まぁ、あんな言い方をすれば、無事に逃げられる、とはいかないだろうがな。やり返された時の準備はしておけよな。もしかしたら、この先ずっと続くかもしれないからさ。お前さんも、まだ本当には分かっちゃいないだろう。口をついて出る言葉の重みってやつがな。だがお前さんなら、すぐに理解できるようになるだろう。」 

 

ディジーは本当に知的な人だ、と僕が言った通りです。 

 

おススメの銘盤 

 

ショー・ナフ:ディジー・ガレスピーゼクステット(六人編成のバンド)とオーケストラ 

 

ソニーサイドアップ:ディジー・ガレスピーソニー・スティットソニー・ロリンズ 

 

オン・ザ・フレンチ・リビエラ 

Moving to Higher Ground を読む 第8回の3 ジョン・コルトレーン/マイルス・デイビス

ジョン・コルトレーン 

 

トレーンは我慢の人です。彼が腕を上げていったのは、彼の大変な努力と我慢強い粘りの賜物であることは、誰もが認めるところです。とは言え、同時に彼の人生を見てみると、物事は作ってはぶち壊してゆかねばならない、という強迫観念がもつ「両刃の剣」のようなものだった、ということが、ハッキリと分かってきます。 

 

僕は、彼が18歳か19歳の頃の演奏をテープで聴いたことがあります。ビックリするほど下手くそです。彼ほどの素晴らしいサウンドの持ち主が、こんなにサマになっていないのを、他に聞いた記憶がありません。本当に彼が吹いているのか?と思いたくなります。何もかもが課題だらけ:耳を鍛える、技術を磨く、サウンドを良くする、音楽のとらえ方を勉強する、どれもが猛特訓を要するレベルだったのです。彼はそれらを克服すべく、自分独自の方法で、それこそ取り憑かれたように練習してゆきました。そして彼の仕事に対する心構えが功を奏し、まずはしっかりとした腕前をモノにし、それからディジー・ガレスピーマイルス・デイビスの両方のバンドに参加してゆくことになってゆくのです。 

 

コルトレーンの素晴らしい才能を誰よりも早く見出したのが、マイルス・デイビスです。マイルスが彼のサウンドに感じ取ったのは、志の高さと、田舎の牧師のような真面目さでした。音楽評論家達の多くが彼の問題点として指摘したのは、高度なコード進行になる程、変化に富んだメロディを展開できなくなることです。マイルスは、そのことをよく理解していました。というのも、マイルス自身も駆け出しの頃、チャーリー・パーカーと一緒に吹いていた時に、和声法には苦労したからです。マイルスは、バード(チャーリー・パーカー)直伝の、アート・テイタムから受け継いだハーモニーの扱い方を、コルトレーンに叩き込みました。バードは代理コードを多く駆使する人です。これにより変化にとんだコードが隙間なく詰め込まれ、楽曲が一層エキサイティングになる、というわけです。演奏する側にとっては、元々難しい曲の進行である処に、更に負荷がかかってくるようなものなので、演奏時間は同じでも新たに加わった「障害物」の数々があるおかげで、普通にしていたらゴールにたどり着くのが、より困難になってしまうのです。トレーンはこれにどう取り組むべきかに気付くことが出来ました。あとは時間をかけてしっかり問題を解消してゆきました。こうして彼は、ジャズの歴史上、和声にかけては最も洗練されたミュージシャンの一人となったのです。やせっぽちの弱虫男が、マッチョな筋肉ヒーローに生まれ変わったようでした。 

 

折角マイルスがコルトレーンの演奏の腕を買ってくれて、そのことをコルトレーンも分かっていたのに、トレーンは薬物の常習から抜け出せていなかったのです。ヘロインは、チャーリー・パーカーが残してしまった負の遺産であり、トレーンも他のバードの弟子達が数多くそうであったように、ジャンキーになってしまったのです。マイルスの処へ来る前に、ディジー・ガレスピーのバンドを麻薬が原因でクビになっていたのに、今度はマイルスの処でも同じ理由でクビにされてしまいました。さすがに、これにはコルトレーンも懲りたようで、ようやく麻薬をやめるか、人間やめるか、選ぶ決心をつけたのでした。 

 

その後彼を受け入れたのが、テロニアス・モンクです。モンクの音楽と言えば、神聖な雰囲気が漂い、熱気あふれるものです。単にモンクの傍に居るだけで、トレーンは自らが向上してゆくのを実感し、モンクの音楽を演奏することで、コルトレーンは、自分のやる気と能力をもっと大事にしてゆこうという気になってゆきました。この間、彼は同時に心の健全さも取り戻し始めます。精神面での回復により、学習意欲をかき立てた彼は、東洋の宗教、東洋や中東の音楽、そして勿論、その和声についても研究を深めてゆきました。彼は以前にも増して、彼独自のスタイルを作り込んでゆくことに、やっきになってゆきます。彼は急激に腕前を上げました。毎日朝から晩まで練習に明け暮れました。おそらく以前からずっとそうだったとは思うのですが、今度は彼は以前と違い、自分の演奏の核心となるコンセプト作りにも取り掛かり、そしてそれを意識して自分の演奏に反映させようとしました。 

 

彼は、エルヴィン・ジョーンズ、マッコイ・ターナー、そしてジミー・ガリソンと共に、最高のジャズアンサンブルの一つを結成します。彼らの演奏に込められた情熱は、後にも先にも他の追随を許さないものでした。彼らの音楽に対するアプローチの深さと真剣味は、それまでジャズの根本とされていたものに、力強く新しい方法で新風を吹き込んだのです。この「クラシックカルテット」(伝統的な4人編成バンド)により、トレーンは、いかなるテンポの楽曲でもブルース形式こそがその中心である、ということを訴えてゆきました。彼が掘り起こしにやっきになったのは、ジャズと黒人霊歌、そしてアフリカ系アメリカ人の教会音楽との結びつきの強化で、その作品のひとつ「アラバマ」は、1963年にバーミンガム州の教会で4人の黒人の少女達が犠牲になった爆弾テロに対する、彼自身の熱いメッセージが込められているのです。彼は「トゥンジ」や「アフリカ」といった作品で1960年代のパン・アフリカ主義運動に関わりましたが、依然、アメリカのポピュラー音楽や伝統的なジャズとも結びつきを保ち、デューク・エリントンや歌手のジョニー・ハートマンとの共演をアルバムとして残しています。何しろスウィングがしっかり効いているのです。 

 

このカルテットを代表するアルバム「至上の愛」の「パート4:賛美」は、祈りを書き綴ったものです。トレーンが演奏するインプロバイズされたメロディは、まるで彼が祈りの言葉を歌い上げているようです。それを支えるバックは、ピアノの低い音によるトレモロ。これはよくアメリカでは、アフリカ系の教会の礼拝でよく耳にするサウンドです。トレーンの遺した言葉の一つに「神はとても優しく、そしてしかも隅々まで、私達に息吹を送り込んでくれる」。これは、僕から言わせてもらえるなら、まさしくコルトレーンのすべてを物語っている、と思います。彼は熱く語りかける牧師のようでした。自分の奏でるサックスを通して、聞く人の心に変化を起こそうとするのです。炎の様な情熱家ではありませんが、キレず、アセらず、いつもマッタリと、そしてシッカリ自分の信念を持っていました。彼のサウンドに秘められたものが私達の心の琴線に、思いの深さ、寄り添う気持ち、しかもそれらは、どこまでも美しい高貴さで、そっと触れてくるのです。誰もが心を奪われます。彼の真心に人は涙せずにはいられません。 

 

コルトレーンは皆から愛される人なのです。 

 

ところが後に、彼の良さである使命感が、アダとなり始めます。強い使命感というものは、完璧さをもたらすこともありますが、同人に破綻をもたらしかねません。運動トレーニングをやらなきゃ、と思いすぎると、止められなくなり、やがて逆効果が現れるのと同じです。コルトレーンの場合、彼に「もたらされた破綻」「現れた逆効果」は、カルテットの崩壊だったのです。 

 

トレーンが皆を愛し大切にする様は、まるで聖人の様でした。グループに参加したいというミュージシャンが現れると、彼はこれを拒むことを嫌いました。ある本番では、ホーンセクションが50名ほどに膨れ上がり、ドラムのエルヴィンに合わせてスウィングしてゆきました。プログラムは、各曲の演奏時間が決まっておらず、一つの曲に1時間15分かかることもあります。それから彼は練習に際しても、いつでもどこでもさらっていました。例えば本番で彼がソロを吹くとします。彼のソロの後、ピアノのマッコイがソロを弾くわけですが、この時コルトレーンは、自分が吹く番まで舞台裏で練習しているという始末。彼は自らの方向性というものにおいては、何事についても妥協を許さない人でした。それは聴衆に対しても、自分自身に対しても、そして自身のバンドに対しても、です。音楽は流れに任せ、どこまでも響き行くままにこれをただ見届ける、といった具合。 

 

そうするにあたって、彼の根底にあったのは、当時音楽評論家や学者の間で主流となっていた間違ったヨーロッパアートの発想でした。当時、これに感化されたミュージシャンやアーティストは多く、現代の芸術活動を進歩させる唯一の方法は、抽象主義しかない、と言う信奉です。考え方としては、古臭い発想です。音楽分野では、歴史学で言う処の「偉人理論」が用いられます。ハイドンに取って代わったベートーベン、それと取って代わったワーグナー、それにドビュッシー、ストラビンスキー、シェーンベルクと替わり続ける。それぞれが「これが今風」と称される位、十分に「抽象的」と評価されたら、「交代完了」というわけです。 

 

ヨーロッパの人達が自由を享受した1900年代初頭から約60年の時を経て、アルバム「アセンション」により、コルトレーンは伝統の手錠を打ち壊した「今風の人」となったのです。 

 

自身が身に付けた芸術の基礎をかなぐり捨てて、重要かつ強靭な時代の先端を行くアイデンティティを手に入れようとする気持ちと戦ってゆくことは、ほぼ不可能です。この、富んだ思い違いに自らを懸ける学者達は昔から存在し、一向になくなりません。彼らに教わって台無しにされた学生達も、その数はあまりに多いのです。抽象主義の曖昧さを克服する頃までには、「自分は結局何をしていたの?」と分からなくなるのです。そして一旦自分が「何をしていたの?」と、自分を見失ってしまうと、今度は、自分がしてきたことは大して重要ではなかった!と思い込み、しかも、その理由は何なのか?が分からなくなってしまうのです。未だにアヴァンギャルド(前衛)と呼ばれる代物ですが、ドイツでは20世紀初頭に掘り下げられ、その50年後にその波はジャズに押し寄せました。それから更に50年後の現代ですが、依然として、1920年代にキング・オリヴァー楽団が演奏していた音楽よりも新鮮味がない、というわけです。 

 

僕が思うに、ずっと後になってからコルトレーンは、この「何をしていたの?」の一人に陥ってゆきます。わずか2・3年のうちに、彼はクソ真面目な田舎の少年から、革新的な天才ジャズミュージシャンへ、そして音楽ひとつで心の奥深い所にある思いを伝える伝道師へと駆け上がりました。当然のことながら、「音楽ひとつで」の「音楽」とは、混沌とした状態を織り成したような代物でなければならない、なぜなら、それこそが20世紀においては先進的な芸術のあるべき姿だと、皆が思っていたからです。だからこそ彼は、スウィングのような、ある種ジャズの基本的な事柄から、嬉々として自分を遠ざけて行ったのでした。 

 

トレーンは、世の中とは大きくかけ離れた存在になってしまいました。彼が精進してゆく中で次々と見出していったものは、彼独自の世界観が強く表れています。彼が生み出す音楽は抽象的な性格を強めてゆきました。初めは彼を信奉してついてきた人達も、その多くは抽象的な表現が音楽の中で幅を利かせるにつれて、先へ行けなくなり、途方に暮れてしまい、元々の立ち位置が分からなくなってゆきます。もっともコールマン自身は今でも、名サックス奏者として、他の様々な音楽文化を採り入れた天才として、ハーモニーにかけてはズバ抜けた洗練さを誇るブルースの達人として、その真摯な求道者として、人々の記憶に残っています。彼はこれら全てであり、そしてこれ以上の傑物です。 

 

彼がミュージシャンとして辿った道のりを考えてみると、ヨーロッパ芸術というものは総じて、一体どこに向かっているのか?という疑問が湧いてきます。アヴァンギャルドの頂点に君臨するピカソは、抽象主義の世界に身を投じたものの、やがて彼は気付きます。抽象主義は自分にとっては、色パレットに出した「色」の一つであり、他の「色」である芸術スタイルと「優劣」の差は無い、ということを。ピカソが辿り着いたこの境地に、なぜほとんどのジャズミュージシャン達は辿り着かないのでしょう?瞬間芸術のスタイルしかないんだ、と言わんばかり。何と残念なことでしょう。コルトレーンなら、どんなスタイルでも演奏する上でも、これまでになかった価値ある何かを見出せたはずだった、と僕は思います。そうすれば、ジミー、マッコイ、そしてエルヴィンも、もう少し長く彼のバンドに留まってくれたのではないでしょうか。 

 

おススメの銘盤 

 

ジャイアントステップ 

 

ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン 

 

至上の愛 

 

マイルス・デイビス 

 

マイルス・デイビスからは二つのことを教えられます。一つは音楽のことで、もう一つは生きる上でやってはいけないこと、です。彼のミュージシャンとしてのキャリアは2部構成。第1部は、彼がセントルイスからニューヨークへ出てきた1945年から1960年代中盤までの、ひたむきに芸を極める求道一直線の時代。第2部は、1960年代後半から1991年逝去までの、ひたすらに媚びを売る愚道一直線の時代。 

 

当初彼は、なかなか芽が出ず、伸び悩んでいました。まだ駆け出しだった10代の頃、彼はチャーリー・パーカーのレコーディングに参加していました。彼にとっては、良くもあり悪くもある状況です。良いのは、バード(チャーリー・パーカー)目当てのお客さん達に自分の演奏を聞いてもらえること。悪いのは、バードの後でどうしても比べられてしまうこと。巨匠チャーリー・パーカーは史上最高の管楽器奏者であるのに対し、若輩マイルスは、腕ではまだまだ一人前とは言えません。彼は音程感覚に課題がありました。当時の録音を聴くと、彼がコードの変化について行けていなかったり、何とか楽器を上手く吹きこなそうと必死になっている様子が伝わってきます。それでも彼は20代の10年間、自分だけにしかないサウンドや演奏スタイルを生み出そうと、ガムシャラに努力し続けました。彼は一夜にして腕を上げた、とはいかなかったものの、ひたすらに知恵をつけ努力を積み重ねてきたことが、その音からうかがえるのです。 

 

ビーバップに挑もうとする他のトランペット奏者達と同様、彼もディジーのような疾風怒濤の演奏スタイルに憧れを抱きました。当初は、とても話にならない状態だったものの、2・3年のうちに、ディジーの良さを受け継いだ演奏スタイルを身につけてゆきます。これには感心した人々もいましたが、当のディジーは違いました。ディジーがマイルスに対し、磨きをかけるよう諭したのは、自分自身の良さを生かした、自分自身のスタイルというものでした。 

 

マイルスの音色は彼独特のものであり、情感豊かでした。だからこそ彼は意図して音を眺めに吹き、フレーズとフレーズの間には、間(ま)をとって歌い上げました。彼が研究し始めたのは、レスター・ヤングやビリー・ホリデーといった、「間」を大切にしフレーズに表情をつけて歌い上げる人達です。彼は徹底的にジャズの歴史をひもとき、どうやったら自分がそこに一石を投じることが出来るかを探ろうとしました。そうして彼のサウンドは、だんだんと自分らしさを帯びてきたのです。それは、痛々しく、飾り気がなく、内向的で、感情的な激しさを持っていました。彼は気付いていたのです。彼には自分のサウンドで人々の魂に触れる力がある、ということを。天から授かったこの強力な武器があれば、人は優れたミュージシャンとなって、速くて複雑なフレーズもお手のもの。賞賛も、仲間の敬愛も欲しいまま。でも一般の人々はどうか?そう甘くはありません。一皮むけるには、人の魂に手が届かなければなりません。そしてマイルスは、依然としてその一皮がむけていない。バードにつられてしまった多くの同世代の音楽仲間達同様、彼にもドラッグの間の手が忍び寄ります。音楽活動を本格化させる前にやめちまえよ!と迫ります。しかし彼の「天から授かった強力な武器」が、ドラッグをはね返せ!と後押しし、彼はそれをやってのけたのです。 

 

小手先の技術を上回る、音楽面での表現手段が持つ価値というものを、彼が身に付けた腕前は示しています。マイルスは知的好奇心の塊のような人でした。彼の音楽がきちんと機能するには何が必要かを知りたくて、新鮮なアイデアを次々と好んで試してゆきました。どのような合奏体としてのサウンドを望んでいるのか、自分の求めるものを常に把握しているのがよく伝わってきたとのこと。彼は20代になったばかりの頃、ギル・エヴァンスジェリー・マリガンジョン・ルイス、その他若手アレンジャー達で新しい表現方法を探っている人達にのめり込んでゆきます。長続きはしませんでしたが、彼が率いた9人編成のバンドがレコーディングした12曲に、後に名付けられたのが「クールの誕生」です。 

 

これから彼は、イノベーターとしての名声をほしいままにしてゆくのですが、実は彼が腕を振るったのは、コーディネーターとしてでした。様々な人達のアイデアを、置き換え、アレンジし、一つにまとめ直してゆくのですが、そのやり方で出来上がったものは、間違いなく彼自身のモノと分かる。素材を合わせて整えてゆき、味付けは、1900年代初頭の頃の曲の奏法を使い、元ウタを土台として仕上げてゆくものです(ビーバップのミュージシャン達が書いた複雑な新しいメロディは、往時のティンパンアレーの曲にありがちなハーモニーに乗っていました)。彼の第1期クインテットは素晴らしく、レッド・ガーランドポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズ、そしてジョン・コルトレーンらが、ピアニストのアーマッド・シャマルのコンセプトによって、ニューオーリンズジャズのグル―ヴ、ヴァンプ、そして音のない間(ま)をふんだんに取り入れたソフトで抒情的な4拍子のスウィングを発信してゆきました。 

 

彼はいつも、その洞察力を生かして才能ある人を発掘してきました。それというのも、彼自身、演奏家として苦労人でしたから、他人が必死で音に乗せて伝えようとすることを、ちゃんと聴き取る方法を知っていたのです。自分がそうであるが故に、他のミュージシャン達が内に秘めている、知性とソウルが組み上がってゆくのを、彼は理解できる人でした。だからこそ、他の誰も見抜けなかったジョン・コルトレーンの才能を、彼は見抜けたのです。優秀なリズムセクションの活かし方を良く心得ていた彼は、良く整理されつつもしっかりスウィングの効いた演奏スタイルを採り入れることにより、その優秀なリズムセクションが、単なる「縁の下の力持ち」以上に活躍できる余地を得ることができました。彼の天才的に素晴らしいメロディ、理にかなった展開をしてゆくソロ、そして音楽的なストーリー展開のセンスの良さによって、彼の作品は高揚感と深みがあり、高い志を持つミュージシャンなら誰もがハマってゆきました。彼は次々と優れたアルバムを世に送り出しました。その中には、ギル・エヴァンスがマイルス独特のサウンドを生かそうとして、完璧な合奏譜を提供した3作品「マイルスアヘッド」「ポーギーとベス」「スケッチ・オブ・スペイン」が含まれています。 

 

彼の代表作であるアルバム「カインド・オブ・ブルー」は、モード手法に基づいて作られています。ビーバップの心臓部である複雑なコード進行を備えつつも、彼と彼のメンバー達がインプロバイズを繰り広げるのは、ベーシックな音階である、というこのモード手法は、彼が最初に取り入れたとされることがあります。実際には彼以前にも、デューク・エリントンチャールズ・ミンガスディジー・ガレスピーギル・エヴァンス、それから編曲家のジョージ・ラッセルといった面々が、モード手法を実験的に取り入れていたのですが、マイルスのモード手法の使い方は、ジョン・コルトレーンキャノンボール・アダレイ、ジミー・コッブ、ポール・チェンバース、そしてビル・エヴァンスウィントン・ケリーがピアノとしてこれに臨み、まさに極めつき。ぜい肉が落され、メロディックで、スウィングの効いた、これぞマイルス・デイビス、といった感じです。 

 

彼は外に向けた顔も、また独特でした。自分は綺麗に着飾る。とりまきはハイソサエティな、きらびやかで、冷ややかで人を寄せ付けないような面々。黒人が受難の時代にあっても、自分は他人のいいようには絶対にさせない。彼は人種・民族の分断を良しとしませんでした。あらゆる人種の人達と共演したのは、そのためです。もっとも彼は、誰と、何時共演するか、については、かなりこだわりのある人でしたが、それは常に音楽的な理由や事情に基づくものでした。気分が乗って、一定の条件が揃った時にだけ仕事をする、と言う有様。彼の態度には、相反する二面性がありました。それは、下卑た振る舞いの下に覆われている、大いなる優しさ、というやつです。聴衆には背を向ける、他人に対して自分の機嫌を取るよう強要する。そうかと思えば、聴衆の方へ向き直り、一発の熱いサウンドで聴き手のハートをメロメロにする。それは「理由なき反抗」という、1960年代の中・後半にはピッタリのやり方でした。彼の声はガリガリ、ギシギシするようなダミ声で、皮肉交じりのユーモアセンスの持ち主で、「クール」(格好いい)を極めた人です。 

 

「自分を崇拝しろ」と言わんばかりのマイルスでしたが、演奏はともかくピカイチでした。1960年代中頃、彼が結成した新しいバンドに参加したハービー・ハンコックロン・カータートニー・ウィリアムス、そしてウェイン・ショーターといった、いずれも若い黒人ミュージシャン達は、皆彼の音楽に惚れ込んだ面々。それも、彼の人との交わり方の成すところが大きいのです。彼の存在感は大きく、彼のリーダーシップの下、メンバー達は新しいジャズの演奏方法を開花してゆきます。そういった動きを、彼は懐広く受け入れるのです。それは彼が、様々なコンセプトを機能させてゆく能力があったからにほかなりません。マイルスの人材起用術、彼らを自由に演奏させる操縦手腕、そして万全の環境を整え好機を逃さず録音に踏み切る機知、これらにより、このバンドは1960年代を代表するジャズのレコードのいくつかを残してゆきました。 

 

マイルスはこのバンドで演奏するにあたっては、かなり勇気をもって臨んでいました。彼と同世代のジャズミュージシャン達の多くが、ビーバップの時代から抜け出すことが出来ずにいた中、彼は自分より15~20歳若いメンバー達と演奏し、彼らを受け入れ、自分をそこに適応させようと努力したのです。本当の処、彼はウェイン・ショーターの「オービッツ」や「ピノキオ」といった曲については、ついて行けていませんでした。コード進行は難しすぎるし、和声もチャーリー・パーカーの下で駆け出しの頃経験したものとは、全く異質のものでした。それでもなお、彼は一つ一つの音に魂を込め、深く掘り下げ、よく考え抜いて演奏をし続けます。しかしやがて、彼のアプローチには、「きちんとした態度」というものに陰りが出始めるのです。20年間、ビーバップをモノにしようと打ち込んでいた時とは異なり、彼は新しい素材を自分の血肉にしようというところまで、入れ込むことはしませんでした。だんだんと、ただ音を鳴らして表情記号通り吹いているだけ、肝心の曲の形式は、ハービー、ウェイン、ロン、そしてトニーに丸投げ。自分とバンドのメンバーぐらいしかほとんど気付かないような、元歌の形式なので、大したことがないように思われてしまうかもしれません。でもこのことは、彼らの新しいスタイルにとって最も大切な要素の一つに、しっかりと向き合えていないことの表れであり、やがて彼の音楽作りを支配してゆくようになる「だらしなさ」を予感させるものでした。 

 

この時点では、彼の音楽界における信頼性は、依然として健在でした。かつてバードと共演し、優れたレコード作品を次々と世に送り出し、バンドの芸術性に深く関わり、多くのミュージシャン達や聴衆に対し、人として、そしてミュージシャンとしての誠実さを示してきた男。彼の初期の音源は、どれをとっても、手を抜いたものなど見当たりません。才能、知性、そして彼が表現したいものが、全てを出し切って音になっているのです。 

 

ここで彼が直面してしまったのが、「中年の危機」であり、あらゆる芸術分野のあらゆるアーティストにとって最悪の「逆運」のひとつです。1960年代後半、アメリカ全土で若者達による社会運動が激化しました。音楽では、R&Bが黒人層、ロックンロールが白人層、そしてジャズの居場所は、もうないのか?という状態でした。R&Bにしろロックンロールにしろ、これを演奏していたのは、主にカリスマ性のある若手のアマチュアミュージシャン達でした。よりシンプルな音楽と歌詞、そしてバックビートを駆使して、聴く人の人生をも変えてしまうようなパワーと、絶大な人気により、プロのミュージシャン達を圧倒してゆきます。こうなると、40歳の男がスーツを着て、ベース、ドラム、ピアノ、サックスと一緒にトランペットでクロマティック(半音階)なんか吹いているようでは、これ以上の時代遅れは有り得ない、というわけです。 

 

マイルスといえば、トレンドリーダーとしてかつては名を馳せていたのに、今や時代を後追いする側へと後退してしまったのです。彼はこれまで自分が取り組んできた音楽をかなぐり捨て、自分の理解できる範囲を超えてしまっている音楽「サイケデリックロック」の形式による演奏に、手を出してゆきました。そもそもミュージシャンというものは、自分が本気でやりがいを感じている素材を使ってベストを尽くした場合にのみ、素晴らしいパフォーマンスができるのが常です。思いあがったジャズミュージシャンは「歌謡曲なんて楽勝さ。何しろコードはたった二つ。ビートは一つしかないんだから」、などと「思い込む」こともあるかも知れません。でも実際はそう簡単にはいきません。ビートルズは常にベストを尽くした演奏をします。素直な音がするのは、彼ら自身がそういう心持ちで演奏に臨んでいるからです。素直さに欠けるミュージシャンが同じことをしても、ウソッパチな音がするだけです。 

 

大方の年配のミュージシャン達と同様に、マイルスもロックンロール、ファンク、あるいはバックビートの音楽というものを良く分かっていません。マイルスは「白人のロックギターリストを連れてきてワーワーペダルで弾かせれば全てOKだろ」と考えます。ところがOKではなかったのです。そうやって彼が作ったものは、味も素気もないブランドのエレキロック。これでは若い音楽ファンは見向きもしません。彼はこれを、ある種斬新な取り組みだという印象を与えようと、アヴァンギャルド的なノイズ音楽と結び付けたりもしたのです。今や昔の話ですので、安心して言いますが、ロックンロール台頭以前に活躍していたジャズ奏者の中で、レッド・ツェッペリンパーラメントファンカデリックブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリートバンド、コモドアーズ、U2、あるいはこれらに並ぶ域に達するポップバンドをキチンと作り上げたのは、誰一人いません。 

 

興味深いのは、マイルスはこのような背信行為をしてもなお、ブラックファンクへの鞍替えはしなかったことです。彼はスティービー・ワンダーマーヴィン・ゲイと張り合う気はありませんでした。彼はロックへ鞍替えし、それがもたらしてくれる大金と大観衆が目当てだったのです。 

 

ステージ上で楽しみたい、飛んだり跳ねたりしたい、何でも好き放題やりたい、そう思うことは、別に悪いことではありません。ただ、彼の師であるチャーリー・パーカーとその同世代の人々は、黒人ミュージシャン達の為に、黒人を茶化すミンストレルショーのしきたりにメスを入れるべく、立ち上がったのです。彼らはベラ・バルトークやストラビンスキーといったヨーロッパの巨匠達の、音楽に対する真摯な取り組みに注目し、自分達の芸術活動への取り組みにおける精神的支柱として取り入れようと力を尽くしました。そうすることで、アフリカ系アメリカ人がたどった歴史の深さを表現しようとしたのです。マイルスもかつては、これに取り組んだ一人であったのに、今や彼が達した結論は、「そんなの大して真摯にやることじゃない、金も名誉も得られるか、わかったもんじゃない」というものでした。 

 

「自分は常に時代の最先端にいて、以前の実績とは無関係に、新しい音楽を次々と思いつくことができる」彼は自分をそう思い込むようになってしまっていたのです。こうなると人間は、ハムスターの回し車に乗ったように、いくら走っても、どこへも行けなくなります。自分は何としても「格好いい」存在でなければならない、そして「格好いい」かどうかを決めるのは、若い人達であり、そして自分が「渦中の人」となること、という幻想を抱き始めます。ある若い女の子が、ジミ・ヘンドリックスのファンだとします。そうしたら、彼女が好きそうな曲を吹かなきゃ、と思う。それからファッションも気にし出す。何にせよ、後手に回らないようにしようとする。 

 

結局、彼は黒人ミュージシャンの第一人者だとか、ジャズの第一人者だとかいう評判をひっさげて、挙句、ダメなロックミュージシャンとしてのキャリアを歩むことになったのです。それでもなお「ロックミュージシャン」として生きながらえたのは。ロックの批評家達や音楽業界関係者達の、情けをかけた言葉「まぁ、超一流のジャズミュージシャンが、ロックに鞍替えするなら、ロックだってスゴイんだってことを、ちゃんと考えた方がいいってことだね」のおかげなのです。 

 

鞍替えすると、何かしら本人がダメージを受けるものです。マイルスは1975年に一旦現役を引退しますが、この時彼はほとんど再起不能の状態でした。彼ほどの知性と、飽くなき誠実さを兼ね備えた人なら、理解していたこと:それは、彼はもはや檻に入れられて、愛玩動物に堕した、年寄りのライオンのように、今でもアフリカの大地にその身はある、かのように扱われつつも、実際は檻の前を通り過ぎてゆく人間達が、じっと見つめたかと思えば、百獣の王が喰らうはずもないポテトチップスか何かを、餌として放り投げてゆく、そんな状態だということです。自分が今どんな場所に居させられているのか、自分がどんなに酷い状況にあるのか、マイルスというライオンには分かっているのです。 

 

1981年、マイルスは現役に復帰します。僕達は皆、大いに期待しました。「さぁ、何を聞かせてくれるだろうか?」なんと彼は、しょうもないブラックポップスを演奏してきたのです。こんなのを持ち出してくるなんて、この数年間何を心に思い描いてきたのか?と言う感じでした。こんなバカげた結末になってしまったことは、本人も辛かったでしょうが、彼の復帰に付き合った共演者達も、さぞ辛かったことでしょう。皆それは分かっています。 

 

それでも色々なことが起きた年月が、全て過ぎ去った今、現在彼は「カインド・オブ・ブルー」といった銘盤のミュージシャンとして、再び名を馳せています。芸術とはこういうものです。人の記憶に残るのは、アーティストが成し遂げたことの内の、最高のものであり、成し遂げなかったことではありません。そして、その素晴らしさが本物なら、後世に残ってゆくことでしょう。ジャズがこの世にある限り、マイルスが成し遂げたことの内の、最高のものもまた、残ってゆくことでしょう。 

 

彼のことは、研究する価値があります。特に、名誉や金、男/女、人気、のために演奏をするか、それとも音楽それ自体のために演奏するか、どちらを選ぼうか決めようとしている若い人達におすすめです。彼を研究することで、厳しい努力、飽くなき好奇心、深遠な精神、といったものの価値が見えてきます。より深く研究することで、人はどのようなタイミングで、たとえキャリアが絶好調であっても、誠実さの欠如に足を取られるか、これが分かってきます。彼は、あの諺を地で行ったのです。 

 

最高とされるものは、一度壊れると、最悪なものとされてしまう。 

 

おススメの銘盤 

 

クロニクル:珠玉のレコーディング 完全版 

 

カインド・オブ・ブルー 

 

マイルス・アヘッド 

 

キリマンジャロの娘 

「Moving to Higher Ground」を読む 第8回の2:アート・ブレイキー/オーネット・コールマン

アート・ブレイキー 

 

アート・ブレイキーという人は、ドラム奏者としても、バンドリーダーとしても、何かにつけて「相反する」考え方や行動をとっていた人のようです。背が低いながらも、実際の背丈より大きく見えたのは、パワフルな人だったからでしょう。一言話すその中で、とても深い真実と、とてもクリエイティブなウソの、両方を織り交ぜてくるのです。ジャズに関しては、あらゆることについて、キチッとして誠実さを示し、節度ある威厳を感じさせる話し方をしました。ところが一方でこれまで受け入れられてきた規範を拒むようなことを、何でもやってきたのです。 

 

ブレイキーは、新しいことや誰も気付かなかったことに思いを寄せる人でした。知的で、貪欲で、何事もとことんやり抜く彼は、アフリカのドラム奏法を学びに、ガーナへ向かいます。アメリカでは、ジャズドラム奏者の実力を測る際に、3つ4つの異なるリズムをいっぺんに弾ける力が、どの位あるか、が物差しになっている、と彼は気付きました。彼がよく言っていた言葉に「自分の右手がしていることを、自分の左手には知らせるな」というのがあります。彼がイスラム教に改宗したのは、アメリカでイスラム教への改宗が盛んになる前のことでした。自分も考え方に基づいて信仰を深めていった彼ですが、この様なことを書くと、奇妙に思う人もいるかもしれません。何しろ彼は、あらゆる女性と関係を持ち、自分に都合が良い時だけ真実を語り、ヘロインを常習したり、ですからね。コニャック、マリファナ、コカインなど、彼には物足りない代物でしかなかったのです(訳注:いずれもイスラム教では禁止事項)。 

 

彼はよくお高く留まっている」と思われていましたが彼と一緒に居て教えられたことは他人を決めつけるようなことをしてはいけないなぜならそんなことは誰にもできないからだということです彼の性格は実に独特なもので、皆、彼の人となり惚れ込んだのです他人を知り尽くすことなどできないよって他人を決めつけることなどできないと、いつもハッキリそう言っていました。アート・ブレイキーのこの考え方は、「氷山の一角」というお馴染の言葉がピタリと当てはまります。目に飛び込んでくるものは、本当の姿のごく小さい一部分でしかない、ということです。 

 

彼の出発点はビッグバンドで、ドラムパートを編成に加える上でのオーケストレーション(大編成アンサンブルの作品を作る方法)をよく心得ていました。彼は楽譜が読めませんでしたが、そう感じさせない位、彼の耳は素晴らしく、1回ないし2回聞いただけで、一曲全体を把握してしまう力を持っていたのです。その上で、それに手を加えて改良しようとしたのです。これはドラム奏者という、立場上楽譜や指示がほとんど与えらえれないミュージシャンにとって、重要なスキルなのです。ドラム奏者の裁量が制限されてしまっては、音楽に柔軟性がなくなってしまいます。曲作りにおいては、全員が一斉にタイミングをそろえて音を鳴らす「ヒット」や、音を強調する「アクセント」を設定する場合がありますが、そんな時でもドラム奏者は、どのシンバルを使うのか、どこでバスドラムを「ドスン」と一発下支えに入れるのか、テンションの上げ方と下げ方をどのようにもってゆくか、について、一人で決めてゆくのです。ドラム奏者が発信するグルーブ感の効いた、ダンスと打楽器の色付けを思い起こさせるアフリカのテイストが、ヨーロッパの演奏会用音楽へ加わるのです。 

 

「ブー」とは、私達の彼に対する呼び名です。彼のイスラム名「アブドラ・イブン・ブハイナ」を「ブー」と短縮したものです。ブーの強靭さは超人的でした。彼が好んで自慢していたことは、「俺と一緒にラリってた奴らは、みんな15年前に逝っちまったよ」。彼はツアーの時は、日を重ねてゆく毎にだんだんタフになってゆくのです。例えば、ヨーロッパツアーを2か月間行うとします。最終日が近付いたころの早朝夜明け前に、彼に声をかけても、彼はきっと素晴らしいパフォーマンスを見せることでしょう。僕が初めて彼のバンドのツアーに参加した時のことです。ニューヨークからヒューストンへ車で移動し、本番をこなして、そのままロサンゼルスへ車で移動し、また本番。彼は70才かそこらでしたが、眠気のまばたき一つしない。一方僕達は彼よりも40・50歳も若いのに、ヘトヘトになっていたのです。 

 

彼の教えには、いつも彼の実感がこもっていました。彼の実行力、能力、信念は強く、傍にいるだけで、演奏とは何なのか、を学ぶことが出来たのです。彼のアプローチは気さくで自然でありつつも、本番に向けての練習中は、度が過ぎるほど他のメンバーに気を配り、そして何より、本番お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかに心を砕いていました。「演奏は音量変化をしっかりつけて、人々は音楽に込められた物語に反応する。練習は完璧に、下手で薄っぺらで準備不足のパフォーマンスを聞くのに金を払う人などいない」。 

 

彼は、物事を理解しようと頑張る人には、とことん味方になってくれました。これは優れたジャズのバンドリーダーというものを考える上で重要な性格(キャラクター)です。バンドリーダーとのやりとり、といえば、「ちゃんと聴けよ」「いや、聴いてもわからないですよ」「だったらやめろ」。聴いても解らない、が延々続けば、「もうお帰り下さい」ということになってしまいます。リハーサル中、ブレイキーは常に、本番と同じテンションで演奏していました。その理由を尋ねると、「俺はこんな風にしかドラムを叩けないからさ」と答えるのです。 

 

ドラムといえば伴奏楽器ですが、彼はソリストに対して、どのように音量変化をつけてゆくかを組み立て行く達人でした。囁くような音量から吠えるような音量まで出せるという、彼の代名詞ともいうべき「プレスロール」(訳注:ドラムのロール奏法の一つ)は、たった2秒で、つま先で撫でるようなp(ピアノ)から足踏みするようなf(フォルテ)まで音量を一気に変化させることが出来たのです。彼は他人に花を持たすことを厭わない人でした。リーダーとしては、心広く、人にインスピレーションを与えるような存在であり、自分が関わったミュージシャン達に対しては、彼らの力をいかんなく発揮できる舞台を与えることで、その力を最大限に引き出すことのできる人でした。 

 

そんな風に接するうちに、ある時彼らにこう言ってやるのです「そろそろ君も自分のバンドを立ち上げて自分の音楽を発信してゆく時だ。もし行き詰って、金でもモノでも困ったら、いつでも戻ってこい。俺達はいつでもここで待っていてやるからな。」彼は自分のバンドを家族のように切り盛りしたので、彼に関わったミュージシャン達は、再び彼の元を訪れるのでした。 

 

僕達がニューヨークの名門ジャズクラブ「マイケルズ」に出演していた頃は、タイコ叩き達は皆、よくここに集まってきたものでした。パパ・ジョー・ジョーンズ、フィリー・ジョー・ジョーンズエルヴィン・ジョーンズ、ルイ・ベンソン、マックス・ローチバディ・リッチといった錚々たる顔ぶれが居並ぶと、そこはまるでドラム奏者達によるジャズクラブの様でした。「他のミュージシャン達は鳴かず飛ばずになっちまったが、俺たちタイコ叩きはバリバリだぜ。」などと、よく言ったものでした。今となっては昔の話ですが、1980年代初頭は、幅広い世代のドラム奏者達が、元気にスウィングを効かせていたのです。皆がブーの元を訪れるようになりました。彼のサウンド、演奏表現、ジャズ・メッセンジャーズの音楽には、彼のジャズ全体に対する愛情が込められていたのです。彼はよく管楽器奏者達にシャウトコーラスを吹かせてやったり、バンド全体ではリフもよくやらせたりしました。これは通常規模の大きなバンドがすることですが、彼は小編成のバンドであっても、これをよくやらせていました。きっと彼は、自分がこよなく愛したビッグバンドの全盛期が懐かしくて仕方なかったのではないか、と僕はそんな気がします。当時僕はビッグバンド用の譜面が書けず、今そのことがとても悔やまれます。出来ることなら、今再び、彼と仕事がしてみたい、と願うばかりです。 

 

まだ若く経験が浅い自分を取りててくれるバンドリーダーに対して、心に抱く敬愛の気持ちを言葉で説明するのは、なかなか大変です。チャンスを与えてくれる人のことは、いつまでも忘れないものです。ジャズミュージシャン達が「彼のおかげで今の自分がある」という言葉の重みは、大変なものです。 

 

もし僕が彼を一言で表現するとしたら、「不滅」、という彼のアルバムタイトルの一つを使うでしょう。彼はまさにそのものでしたから。それだけに、彼の死は、僕達全員にとってショックでした。ハーレムのアビシニアンパプテスト教会での追悼集会でのことは、未だに忘れられません。大変な数の元妻達とその子供達が全員参列していました。会はとても和やかな雰囲気で、彼の思い出を肴に、演奏や談笑の華を咲かせたのです。彼が皆から愛されたのは、彼自身が音楽や僕達皆に心を砕いてくれたからにほかなりません。彼の生き様は、ジャズの神髄を体現したものです。それは「安易に手に入れるようなものは、あっけなく失われてしまう」というものです。彼は人を決めつけるようなことをしませんでした。自分の演奏に厳しく、他人への演奏面での要求は安易に妥協せず、スウィングは常にビシッと決める。しかし彼が決して言わなかった一言は「俺の考え通りにやれ」。何事に対しても誠実であることが、どれ程価値があることか、そしてそういう生き方を選ぶことが、どれ程大きな力になることか、彼はそれを教えてくれました。 

 

おススメの銘盤 

 

モーニン 

 

フリー・フォー・オール 

 

バードランド(訳注:ニューヨークの名門ジャズクラブ)の夜 第1集~第3集 

 

オーネット・コールマン 

(訳注:原書出版時2008年の7年後に逝去) 

 

数年前に偶然にも、オーネット・コールマンに、とあるミュージックストアで出くわした時のこと。ひとしきり話をした後、彼が僕に言った意外な一言「後戻りするなよ」。というのも、彼自身の音楽の原点が、ずっと古い時代にあるからです。彼は音楽の歴史の流れから外れた存在であり、時代の先駆者であり、そしてずっと古い時代、それもジャズが生まれる前の頃にベースがあります。彼の演奏方法は、コード進行に従ってインプロバイズする方法が確立される以前、メロディと装飾音型だけで演奏していた時代のものなのです。メロディのネタが豊富で、ハーモニーのことを知らなくてもできることから、彼の音楽は、幼い子供達がインプロバイゼーションを学ぶ上で大変良い教材になるのです。 

 

元々彼はチャーリー・パーカーのスタイルを基礎にしていました。初期の楽曲「バード・フード」などに、それを垣間見ることが出来ます。しかし彼は、努めて、人が話をする際につける仕草の変化を、演奏に反映しようとしました。また、彼は、むせび泣くような演奏の仕方を特徴としています。彼の、最も物悲しくて頭に残る楽曲「寂しい女」は、同時に彼にしかないサウンドを聞かせてくれます。彼は超一流の、メロディを主とする音楽家であり、ジャズの歴史上No.1ではないかと思われます。彼が音楽を組み立てるスタイルは、知的であり、ハーモニーを変化させることなく、目まぐるしく変わってゆく人の心の様子を、音に描いて見せたのです。 

 

一時彼は、伝統的な形式、主に変化をつけたブルースとリズムに固執していたことがありました。しかし間もなく彼は、フレーズの区切りにこだわらずに、純粋にインプロバイズしてゆくために、その両方ともいっぺんに排除してしまったのです。こうして、ひたすら自由に流れてゆくメロディ、というスタイルが出来上がりました。若い頃、彼は一時期ニューオーリンズに住んでいました。彼のカルテットにいた名ドラム奏者であるエド・ブラックウェルは、1950年代に僕の父と一緒に演奏活動をしていました。ブラックウェルによると、オーネットは彼に対し、4小節/8小節だのといったフレーズの区切り方をするな、とよく言っていたそうです。常に、より自然に湧き上がってくるような、実生活での人間同士の意志のやり取りを演奏の中にも求めていて、偶数単位と決めてフレーズを演奏していなかった彼は、「俺のフレーズを終わらせるな」とよく言っていました。彼には1小節毎が、あくまでも区切りだ、というわけです。 

 

彼のスタイルは何が革新的なのか。それは、メロディを自由に流し続けることで、一般的なコードのパターンにはまってしまい、使い古されたような感じのするメロディが、クドクド繰り返されるのをのを防ぐことが出来るからです。ところがこれは、プレーヤーにとっては足枷なのです。というのも、コードといえば、音楽表現をする上での4本柱の一つだからです(残りの3つは、リズム、メロディ、そしてテクスチャ[質感])。そしてコード進行に乗って新しくメロディを創ってゆくことは、ジャズのインプロバイゼーションにおける最も大きな挑戦だからです。このスキルの重要性に対し、一石を投じたのが、オーネットであるわけです。彼の後進の多くは、彼の様なメロディに対する才能やブルースに関する十分な知識は持ち合わせていませんでした。オーネットが活躍し始めてからというもの、ジャズのインプロバイゼーションとフリーインプロバイゼーションが混同される傾向が強まり、そして「まともな」と思われているライター達の中には、ヨーロッパの方が旧来のブルース形式にとらわれずインプロバイゼーションをするという点で、新のジャズの革新派である、などと本気で信じ込む者が出てくる始末。 

 

数年来、オーネットは同じ演奏スタイルを維持し続けています。時々ヨーロッパのアヴァンギャルド的な手法に手を出すことはありますが、哀愁漂うサウンド、天才的なブルースのメロディ、炎のように熱く、そして自然と体が動き出すスウィングのリズムといったものが、彼を根っからのジャズマンだと説明しています。 

 

彼は、共感的理解の大切さを教えてくれます。彼に話を聞いてもらっている時に感じるのは、こちらの言いたいことが既に理解できていて、そしてこちらの言う事をしっかり把握し、その深い意図に反応してくれている、ということです。本当によく耳を傾けてくれるので、「どうやってこちらの思っていることがわかってくれるのだろう?」と感心してしまいます。オーネットは、こちらが話すそのニュアンスを全て感じ取り、どんな小さな情報も、どんな表情仕草も、すべて把握しようとします。その姿勢からは、表にでない細やかなことまで注意を払う大切さを、教えられます。誰かが思わず眉をひそめる。彼はそれを音にして見せます。目上の人と会話中、時計を見たいけれど、話に興味がないと思わせたら失礼かな、と心が葛藤する。彼はそんな気分をも音にして見せます。オーネット・コールマンとは、他のどのジャズミュージシャンよりも、人とのやり取りの中に生まれるわずかな心の揺らぎをも、完璧に音にできるミュージシャンなのです。 

 

彼は他人の演奏をしっかり聞くことが出来る人です。それは僕が彼の家に行って一緒に演奏した時に知ったことです。どうしても音楽という言葉は、相手が話を分かってもらえず、イライラする代物です。話を振っても、キチンと返ってこない。こちらが小さく吹いても、相手は大きく吹いてくる。こちらがポリリズム(複合リズム)を演奏しているのに、相手はドタバタ突進するだけ。こちらがソリストに「おい、バックを聞いてたのかよ?」と訊けば、相手は「え?なに?」と返すだけ。その点、彼のインプロバイズのやり方は、他の頭デッカチなその他大勢のミュージシャンなんかよりも、よほど勉強になります。オーネットは教えてくれます。才能とは通説を極めることではなく、どこからでも喰い漁って行けばいいんだ、と。 

 

おススメの銘盤 

 

ジャズ 来るべきもの 

 

オーネット! 

 

世紀の転換 

 

 

 

 

次回は、ジョン・コルトレーンついて、ウィントンの語った部分を見てゆきます。 

「Moving to Higher Ground」を読む 第8回の1:序章、ルイ・アームストロング

第6章  名人達から教わったこと 

   

<写真脚注> 

最高の教育の機会 - ジョン・ルイス大先生との共演。本番の舞台上で演奏するというプレッシャーのおかげで、1回のコンサートで2か月間練習室に籠り切って身に付くものと同じものが得られるのです。 

 

黒人霊歌で僕が「いいな」と一番思うのは、歌の中では、モーゼやイエス、エゼキル、そしてアブラハムといった、本来違う時代の人とされる人物達が、あたかも今この場で、声をそろえて「私は彼らと語り合った」と言っているかのように思わせてくれることです。 

 

僕にとっては、過去の出来事と言うのは、全て消えることなく残って積み重なってゆき、それが今という瞬間を作っているように思えます。でも訳あって、この考え方が受け入れてもらえない分野があって、それがジャズの教育や演奏活動、あるいは批評の仕方なのです。「過去の積み重ね」という考え方ではなく、耳にすることが出来るのは、あまりにも単純化された説明の仕方で、ジャズに関する物書きの方々が好んで繰り返し語る「順調に伸び行く音楽の進化」というやつです。極貧の黎明期、ニューオーリンズでの20世紀初頭の前後10年。喧噪の成長期、シカゴやニューヨークでの1920年代の10年。ビッグバンドスウィングの1930年代。ビーバップが誕生した1940年代。その後の乱立する学校や学校以外の教育機関の時代。それぞれが、ブルースという根源からジャズという音楽を、より彼方へと進化させていった、と物書きの方々は言うのです。 

 

でも本当に優れたミュージシャン達は知っています。このジャズという音楽は「学校」とかそういうこととは全然関係が無い、ということを。僕の父も言っていますが「学びの場(ステージ)は唯一つ。『君は演奏できるのか?』という学びの場(ステージ)だ」。その問いかけには、男女問わず、「できるさ」と心から答えられる、それが求められる場(ステージ)なのです。 

 

僕は色々な人の話から、ジャズについて非常に大切なことを多く学びました。その人達の色とりどりの語り口のおかげで、話題に上る音楽の周辺とその中身に、自分も入り込めるのです。ジャズは、人とその行いを表現する音楽です。ミュージシャンの名前を口にするだけで、サウンドに込められているそのミュージシャンの人となりが、呼び起こされてきます。時々ベテランのミュージシャン達は、ぼーっと座って、聞いたこともないようなミュージシャン達の名前を次々と口にしては、何某はどこの出身だとか、この曲の演奏は良かっただの、あの曲の演奏は良かっただのと褒めちぎってゆくのです。「そうさ、ボビー・ムーアってやつは、性格がきつくて、やたらとまくし立てる男だった。ディジーディジー・ガレスピー)に訊いてみな。教えてくれるだろう。ボビーが自分の楽器を持って部屋に入ってくると、皆、自分の楽器を片付けてしまったものさ。」 

 

時には、色々な名手達の行いから、僕は学びました。1980年代後半、僕達はパール・ベイリーとのコンサートを開催しました。彼女はこの時、僕に差し入れをくれたのです。昔はミュージシャン達は、本番を一緒にする時はいつも礼を尽くしたもので、それを伝えたくて、とのこと。今、僕はジャズフェスティバルが開催されても差し入れはしませんが、いずれはそうするべきかな、と思っています。 

 

トニー・ウィリアムズが、マイルス・デイビスのバンドでドラムを叩いていたのは、彼が17、18歳の頃でした。彼はアルバム全曲 - 一人一人のソロも、空で歌うことができたのです。気性が激しく、人とは打ち解けないし人付き合いもしない性格でしたが、音楽とそれを奏でるミュージシャン達に対する観察力の素晴らしさを、随所で発揮していました。ミュージシャン達というものは、最高に調子が良い状態の時は、演奏中に足踏みをしないことに気付いた、と彼は僕に教えてくれたことがあります。というのも、そもそも演奏中に足踏みなんかしてしまうと、出てくるリズムが、ポリリズムと言って、腹をさすりながら頭をポンポンとはたくような、妙チキリンなものになってしまう、というわけです。 

 

ドラムの名人、エルヴィン・ジョーンズは、世界でも指折りのソウルフルな男でした。僕はよく彼の家に夜の11時頃に訪ねてゆくと、奥様のケイコさんが、ロブスターだの寿司だのを用意してくれていて、日本酒なんかも次々と出してくれました。何回かツアーで一緒に彼とは回ったことがあり、僕は彼を父親のように慕っていました。ある時僕達が共演した際、かなり激しい演奏になってしまったため、僕の唇が出血しだしてしまったことがあります。彼の音量があまりにも大きすぎたためなのですが、そんなこと思っていても言いたくなかったので、彼には黙っていました。でもそうもいかず、結局恐る恐る彼に言ってみたのです。彼はしばらく僕をじっと見ると、こう言いました「そういう時は言わなきゃ。誰も解らんだろうが」。 

 

ジャズの作品を合わせ練習する際に必要なのが、これを仕切る人の「外交的手腕」というやつです(大げさに言えば)。仕切る人の音楽性に「ついて行こう」と思わせなければなりません。言いたいことを、しっかり伝えたり、グッと我慢したりと、絶妙な綱渡りをする必要があります。何だかんだ言っても、仕切る人が一人で出来ることなど限られているわけで、他の人達が演奏の大半を作ってゆくわけです。その中でも特にドラム奏者の存在は大変大きなものがあります。彼とは口論になってしまったら大変です。作曲やバンドリーダーもこなした円熟のミュージシャンだったベニー・カーターは、ジャズ界では最もエレガントな人でした。彼の音楽は、洗練され、明快であり、自身の音楽への取り組みは真剣そのものでした。僕は一度彼が、言う事を聞かないドラム奏者にイラついているのを見たことがあります。二人とも互いに譲らず、押し問答が続きました。ベニーは「外交的手腕」を発揮し、「好きにしな、好きにしな」と言って、この大論争を収めたのです。これとは別の方法を取っていたのがフランク・ヴェス。編曲もこなすテナーサックス奏者で、カウント・ベイシー楽団の大黒柱だった人です。彼のやり方はこうです。「お前らバカ共は、なんでそんなバカデカイ音をかき鳴らしてんだ、あ?!」と「質問」をし、音量が下がるのを待ちます。すると音量が下がってゆく、というわけです。 

 

ミュージシャンの中には、人をこき下ろすにしても、ユーモアを交えてくる人達がいます。1987年の夏のこと。僕達のツアーに参加してくれたチャーリー・ラウズは、セロニアス・モンクの楽団の偉大なテナーサックス奏者です。彼の演奏は最高にスウィングの効いた、的確なものでした。彼のお気に入りは、僕達の荒っぽい演奏スタイルである「バーンアウト:焼き尽くし」。テンポを加速し、あらゆる種類のドラムのリズムパターンをピアノと連動させ、その間ベースが喰らい付き、頑張ってビートを重ねてゆくのです。ある夜、セントルイスのクラブでのこと。僕がテンポの速い、スウィングをかけない細かな音符が並ぶ、高音域の狂ったような、メロディックでないれど吹くには楽しいという、延々続くソロを吹いたのですが、僕が汗だくになっているのを見たチャーリー・ラウズが言った言葉は「すごいや、お客さんが喜ぶわけだ」。 

 

じっくりそう考えてみると、小さい頃から、僕の身の回りにはレコードやら生身のミュージシャンやらが沢山存在していたにもかかわらず、僕の音楽面での好みは、自分と同世代のそれと大体同じでした。そしてある程度僕が理解し始めていたのは、こういったミュージシャン達の偉大さは、彼らの五感の鋭さと、そこでつかんだ思いを力強く表現することに在った、ということです。今までに、彼らのほぼ全員に面と向かって会い、そして幸運にも、彼らの多くと演奏を共にしてきています。他は彼らの演奏の録音を通して知っているだけですが…。ではここで、13名の名人達から教わった、より大きな教訓の数々を、おススメのCD数タイトルと共にご紹介します。当然のことながら、ジャズというものは、誰の許可を得ずとも、自分にとってためになることを見つけてゆけば良いのです。演奏に耳を傾けさえすれば良いのです。 

 

ルイ・アームストロング 

 

ルイ・アームストロングに会ったことはありますか?」といつも聞かれます。 

 

僕の答えは「ありません。そして会わなくて良かったと思っています。なぜなら、彼に対する僕の好みがハッキリする前に、彼は1971年に亡くなったからです」。彼はラッパを持つアンクル・トムみたいなものでしかない、と僕は考えていました。こんな大御所を目の前にして、無礼千万な考えや思いを、心に抱いてしまう機会が巡ってこなくて、本当に良かった、と思っています。 

 

ルイ・アームストロングといえば、誰よりも深みのある感情表現と、高いレベルで洗練された音楽性です。彼は飾らない心と思いやりを持ちながらも、心に大きな炎をいつも灯していました。牛のように体格が良く、その気になれば人間を一人ノックダウンさせてしまうこともできた、とのこと。 

 

ルイ・アームストロングは、人は誰にはばかることなく、自分らしくあるべきだ、ということを示した人です。常に彼は自分自身を把握し、そして愛おしみました。彼は自らのアーティストとしての腕前に誇りを持ち、これを大切にしましたが、同時に、例えば「読み書き」といった、自分がしっかり取り組むべき課題と自覚していた事柄についても、キチンと向き合っていたのです。 

 

ポップス(訳注:ルイ・アームストロングの愛称)は、社会階層のドン底にあえぐ者の一人として、貧困の苦しみの中で育ちました。世間の最下層を知る彼にとっては、貧困とは、お金に困っている人々のアイデンティティを定義する要素には、必ずしもなり得ないモノでした。彼を育てた人々は、極限状態にあっても生きることを大切にし、その前向きな姿勢は彼にきちんと受け継がれ、後にそれは彼の奏でるトランペットの音に乗り全世界へと伝わったのです。僕が育ってゆく過程で出会った、最もお金に困っている人達、例えば僕の大叔母や大叔父といった人達というのは、最も輝いていた人達でもありました。一緒に居るのが実に心地よい人達です。美味しいモノを一緒に食べて - と言っても、豆御飯だの、ベーコンサンドだの、ハヤト瓜の詰め物ですが - 「色々なことがあった」幼い頃の思い出話を、いつも実に楽しそうに聞かせてくれたのです。 

 

では皆さんも、ルイ・アームストロングになったつもりで、彼の生い立ちを一緒に見てゆきましょう。幼い頃、彼は子供達だけで編成したカルテット(訳注:バーバー・ショップ・カルテット)で歌っています。誰もが彼の歌声を聞くと「大したもんだ」と言います。そんな折、大晦日の晩のこと。ふざけて銃を発砲してしまったことにより、警察に逮捕されてしまうのです。収監された先は、有色人種の浮浪少年達が専ら集められる「少年の家」。ここでコルネットを習い始めると、みるみる他の子供達を追い越して上達してゆきます。「ルイ君はスゴイな」と皆が口々に言います。ニューオーリンズには当時からコルネットの名手が沢山いて、彼は以前からこういった名手達の演奏を、鋭い感性を持つ耳で聴き漁っていたのでした。その時、彼の耳に入ってきたのは、名手達が奏でる音だけでなく、「奏でようとする」心であったのです。やがて彼は、その両方を自分のモノにしてゆきました。 

 

彼は、様々な機会に自分の才能を世に示し、その度に自分への誇りの気持ちを膨らませてゆきました。彼は同世代の若者達から群を抜いて上手かった - それも桁外れに。誰よりも学ぶ吸収力があり、誰よりもハーモニーを聞く力があり、誰よりも心に残るメロディを生み出す力がありました。「教えてくれよ」と皆が乞うてきたのです。17歳になるまでには、彼はニューオーリンス中の大人達よりも腕を上げていました。 

 

その後彼は、キング・オリバーの楽団に入団します。楽団が本拠地を置くシカゴで、彼に「そうだ、シカゴでも俺は誰よりも上手くなってやる」という思いが降りてきたのです。彼はニューヨークへ向かい、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に入団、ここでも気付けば抜群の腕を見せつけました。やがてヨーロッパにまで進出を果たしました。どこへ行ってもこんな感じで、彼は「皆、自分の才能をちゃんと評価してくれている」と思ったのです。 

 

やがて彼の演奏を聞いた人々は、皆彼に心惹かれるようになりました。しかし中には、彼が、極貧・無学の人々が無邪気に心からの喜びを謳歌するその象徴である、として、彼を見下し嫌う人達もいたのです。彼は気にしませんでした。何故か?そういう人達とは関わらなかったからです。幼い頃などは特にね。「そういう人達」が味わうことのなかった喜びや悲しみを、彼は沢山味わいました。そして、「そういう人達」は、彼の様な人材を世に送り出すこともありませんでした。だからこそ、彼はこう思ったことでしょう「そうとも、あんたらは多くを手にしているかもしれないが、俺に様に吹けるヤツはいないじゃないか」。とね 

 

何度も言いますが、「桁外れに」吹ける、のです。この「桁外れに」がポイントです。「大半の仲間が、程度の差こそあれ自分と同レベルの演奏ができるかどうか微妙だ」ではありません。「自分が23,24歳になると、もう誰も自分の足元にも及ばなくなってしまっている」なのです。これは「桁外れ」な違いですよね。ポピュラー音楽に携わる者全てが、彼のマネをしました。その数は計り知れません。彼が訪れることのできない場所など、この世界にはどこにもなかったでしょうし、人々は彼の真似をしようとしました。彼の方も、それを知っていました。1929年、あるいは1930年頃までには、ポーランド人、フランス人、イギリス人、ロシア人、と、誰もが彼のようになることを目指しました。彼は行く先々で、自分の真似をしようとする人々の演奏を耳にして、そういう人々全てに、彼は喜びと幸福をもたらし続けました。そんなことが出来る人は、きっと自分も最高の気分であることでしょう。 

 

ルイ・アームストロングは、誰かの真似をしようなどとは考えもしませんでした彼の演奏には一つのごまかしもありません。「一点の曇りのない芸とはこのことですアインシュタイン自分の考えだした相対性理論の方程式は十分単純な作りになっているから、間違いなく「正しい」と証明される、と言ったとされています。アームストロングの芸も、それと全く同じく単純:「自分らしくてOKだ」。 

 

ルイ・アームストロングサウンドには、癒しの力があります。彼の演奏には、自らの経験に基づく知恵と、人々を受け入れる寛容さがあります。自分に本当に不幸な出来事が起きた時に訪ねてゆく人の声の中に聞こえるサウンド、というものを、彼は持っています。「訪ねてゆく人」とは、自分のおばあちゃんだったり、おかあさんだったり、そのような人達だったりします。そういう人達は、声や手のぬくもりを通して、「大丈夫だぞ」と教えてくれます。ルイ・アームストロングの音楽全体に見受けられる、その感覚、温もり、親しみ、そして「この人には何を言ってもわかってもらえる」という感覚 - 彼には、聞く人の視点に立って理解しようとする姿勢があった、ということなのです。 

 

ジャズのライター達によって、ジャズに関する誤った認識に基づいた線引きが、成されてしまっています。若い人達が、今までにない演奏方法を創り出すと、それはすなわち、年配の人達に対して当然示すべき敬意を捨てた、という印象を与えてる。そういった時代の流れや音楽の形式を「革新」と表現して、表面的な細分化をしようというものです。例えば、前衛芸術の典型とされる、ジョン・コルトレーンのカルテットは、「自分達はルイ・アームストロングよりも先進的だ」、と思っていたのではないか、と考える人がいるかもしれません。とんでもない話です。メンバーであったドラム奏者のエルヴィン・ジョーンズが、かつて僕に話してくれました。ある時、カルテットがシカゴで公演を行った際、ルイがこれに参加したのですが、メンバー全員、彼の前ではすっかり子供のようにワクワクしてしまった、とのこと。ピアノ奏者のマッコイ・ターナーも、その夜のことについて、「あの人は、やっぱり王様だ。オーラがすごかったよ」。 

 

おススメの銘盤 

 

ホットファイブ全集 / ホットセブン全集 

 

タウンホール・コンサート 

 

サッチモ音楽自叙伝 

 

 

 

次回は、ドラム奏者のレジェンドアート・ブレイキーについて、ウィントンの語った部分を見てゆきます。

「Moving to Higher Ground」を読む 第7回

第5章  仲良きことは美しき哉 

   

<写真脚注> 

スウィングダンス:誰もが心に抱く願いを、立場を越えて表現する最高の方法 

 

ミズーリ州カンザスシティで公演を行った時のことです。ボブ・ホールデン知事が僕達一行を昼食に招待してくださったのですが、丁度その時刻に、ミズーリ大学のバスケットボールチームが、大一番の試合を控えているところでした。正直、ホテルで観戦したかった、と思いつつ、ジェファーソンシティの知事邸に到着。ところが知事の方も、何となく目が訴えているように僕には見えたので、恐る恐る「ところで知事は、バスケットボールは御覧になったりしますか?」と訊ねてみました。思った通り、彼はすぐ満面の笑顔で「よくぞ言ってくれました!ささ、2階へ。試合が始まりますよ。」 

 

テレビ観戦が終わり、下の階で食事ということになりました。会話の中で、知事が子供の頃仲良くなった黒人の子の話をしてくれました。知事の生まれた小さな町には、黒人の住民が一人もいなかったとのこと。ある時、重病を患い入院した先で、同い年で同じ病気で入院していたその子と同室になったそうです。「ああ、また『私の知り合いの黒人』話か・・・」と思ったのも束の間、知事の次の言葉に、僕はハッとしたのでした。「今更、黒人も白人もなく仲間のはずなのに、こんなような聞くのもウンザリな話題ばかりで、いつも会話が弾む羽目になってしまう。お互い知り合いになっただの、仲間の輪ができただの、こういう話がいつまでたっても『この国全体がそうなった』にならない。皆さん、どうしてなんでしょうね?」 

 

数年後のこと。ルイジアナ州の州都バトンルージュは、同市の二つの大学の快挙に熱狂していました。ルイジアナ州立大学が全米フットボール選手権優勝、サザン大学が南西部黒人インカレ総合優勝を、同時に果たしたのです。大喜び一杯のヴェス・アンダーソンが、僕に電話をくれました。彼が電話をかけてきたところは、一日がかりの祝賀イベントの真っ只中で、その最高潮に達したのが、両校のマーチングバンドによる州議事堂入口階段での国家合同演奏でした。「こりや、今夜のニュースはこれできまりだね」彼は笑ってこう言いました。この後、暴動でも起きない限り、この合同演奏がニュースにならないわけないだろうと、僕達は二人ともそう思いました。なのに結局、ニュースにはならず、後に人々の記憶から消えてしまったのです。 

 

ホールデン知事が望む「国全体が『知り合い、仲間になった』であるとか、バトンルージュの州議事堂階段で肩寄せ合って歌い上げた、二校のマーチングバンドといったものが示すもの、これがジャズの本質的な要素なのです。まるでジャズは、この国における人種差別の偽善や不条理をさらけ出すために創られたようにすら、思えてなりません。 

 

かつて植民地政策を敷いた国々は、征服した人々に対して創り用意した社会環境が、それぞれ異なっています。本国の人々と征服された国の人々について、フランスは混在させ同化させた。スペインは混在させ抹殺した。イギリス人は混在させるも、それがイギリス人によるものではない、と信じ込ませたのです。つまり、理論や法、そして「イエスの御名の下に」というキリスト教の決め台詞でガチガチに固め、「神の救済」と言う名の苛烈な管理体制を敷いたのでした。アフリカから連れてこられた奴隷達は、南北アメリカ大陸のいたる所に居たものの、USAにおいては、奴隷とは、拘束されるべき人間であり、それによって、アメリカの象徴たる「個人の自由」がバランスよく保たれるよう仕向けられました。奴隷は、合衆国憲法において、「一人」とは数えられず、「3/5人」と数えられるよう規定されたのです。彼らを奴隷の状態のままにしておくことによる経済効果は絶大であったため、やがて国家全体として行うことになってゆきます。同時に、アメリカの精神的アイデンティティに暗い影を落とすことになり、それは今なお続いています。 

 

国歌で「自由の大地」と歌い上げられるこの国で、人を「所有物」として扱ったことの名残、そして、奴隷制度廃止の後に始まった人種差別、こういったことによって引き起こされた様々な問題は、多くの犠牲者を出した南北戦争や、その100年後に発生し、今なお決着のつかない公民権運動があったにもかかわらず、未だに解決されないままです。奴隷制度は、その後のアメリカの政治体制、金融体制、倫理観、そして憲法で崇高に謳われる中心的概念「全ての人々に平等な正義」「全ての人々は平等に創られている」云々、こういったものを作る上で影響を残しました。「全ての」:いい言葉ですよね。「一部の」なんかよりも。 

 

ここで僕から問題提起を一つ。ジャズと言えば、アメリカが世界にもたらした最も偉大な芸術です。これを創ったのは、かつて奴隷制度から解放され、社会の「最少数派」とされていた人々です。ところで、これと同じことは、アメリカ以外の社会でも発生していたのです。例えばブラジル。社会学者のジルベルト・フレイレは、著作「大邸宅と奴隷小屋:ブラジルの市民社会発達についての考察」の中で、サンバが持つ国民全体にとっての重要性について着目しています。サンバはブラジル人の精神そのものであり、国民的音楽として絶対視されるべきものだ、と彼は述べています。そしてサンバの原点がアフリカの一地方にあるというなら、ブラジル人である、ということは、一部アフリカ人である、というのです。 

 

フレイレがこの本を書いた1933年、当時アメリカの有識者団体はどこも、黒人をキチンとした形で受け入れようとすることが出来ていませんでした。こんな調子でしたから、アメリカを代表する音楽(ジャズ)は、アメリカ国民が分かち合う伝統文化の中心にあるとは、到底見なされません。 

 

ジャズとは、ある特定の人種の為の音楽ではありません。全ての人が演奏し、そして聴いて楽しむものです。実際人々は、ずっとそうしてきています。しかしジャズのこれまでの歩みを人に伝える上では、どうしても深く掘り下げて語らねばならないことが有ります。それは人種隔離、白人/黒人しか在籍していないバンド、人種差別、性差別、メディアの影響、そして「アメリカ人とはかくあるべきだ」という物の考え方です。未だに、黒人か白人か、と言う物事に対する見方がなくならない傾向にあります。マーチン・ルーサー・キングJrは黒人にとっての指導者、と見なされているようですが、彼が導いたのは黒人にとどまらず、多くの人種・肌の色の人々だったのです。公民権運動は黒人解放運動と思われがちですが、実際この国民全員が関わった運動は、アメリカ人皆の目標である、合衆国憲法と言う紙に書かれたことを実現し実行しようということが、その中心にありました。ジャズも全く同じことです。 

 

ミュージシャン達は、普段の生活の中では差別を受けていましたが、自分達が音楽を学ぶにあたっては、差別など全くありませんでした。白人のテナーサックス奏者、スタン・ゲッツは、自分がこれと思い惚れ込んだプレーヤーの演奏スタイルに影響を受けてゆきます。野心的で才能に恵まれ、頂点を目指した彼にとって、最高のものは黒人プレーヤーによるものだったため、そこに注目してゆきました。マイルス・デイビスが影響を受けたのは、黒人のフレディ・ウェブスターと白人のハリー・ジェームスです。ルイ・アームストロングに影響を与えたのは勿論、彼のメンターであったジョー・「キング」・オリヴァーの演奏スタイルですが、同じ様に白人プレーヤーであったボフミール・カレイルやハーバート・クラークの演奏スタイルからも影響を受けています。これこそが音楽と言うものです。好きなものを耳にしたら、それを自分が演奏してみる。特にテレビなど無かった時代には、プレーヤーの見た目よりサウンドの方が、はるかに大事でしたからね。人種に関する奇妙な思い込みが、歴史に蔓延してしまっているのです。ジャズがもたらしてくれる「共に行こう」という素晴らしい発想は注目されず、いつの時代も「この演奏はどんな人種が行っている」に目が行ってしまうのです。 

 

その思い込みは、今でもアメリカに巣食っていて、人の時間を無駄にし、ジャズの精神を蝕んでいます。 

 

それは歴史上、早くから見受けられました。ジャズの持つ情報量や知的センス、そして人間性の深みといったものは、黒人に対する不合理な扱いというものを、くっきりと人々に示して見せました。そのため、知識層による誹謗中傷の圧力も、すぐに発生したのです。ありとあらゆる手段がとられました。一つは無視すること。ジャズを創ったのは黒人、黒人は無価値、故にジャズも注目する値なし。もう一つは貶めること。映像スクリーンで漫画だのセックスのシーンだのと一緒に流すことで、ジャズは子供向けの番組か、「18禁」ぐらいでしか、まともに使えない、としてしまう。この奇妙な取り合わせは、ビデオが普及するにつれて更に密接になってゆきました。こうなると正規の教育機関で扱われることなど、ありえない、ということになってしまうでしょう。公民権運動が興るまではずっと、学校現場では、練習室でさえもジャズの演奏をしたら退学処分、といったことが、黒人の子弟が通う学校においてさえも、実際に行われていたのです。 

 

その後時代は、ジャズを保護・支援しつつも、積極的には取り上げないという風潮に変わります。音楽史の通説として、20世紀の3大影響力とよく言われるのが、ストラビンスキー、シェーンベルク、そして「ジャズ」。「デューク・エリントン」でも「ルイ・アームストロング」でもない、全体カテゴリーとして、二人のヨーロッパにおける巨人と並べられてしまっているのです。 

 

よくジャズは、ミンストレルショーのBGMと間違われたり、売上数重視のダンスミュージックと一緒くたにされたりします。ニューヨークタイムズ紙でも、未だに「ジャズ/ポップス」とひとくくりにされる始末。ようやく、全米各地の何百もの教育機関でジャズの教育が行われるようになったものの、あくまでもアフリカ系アメリカ人歴史学習は切り離されてしまっています(そういった意味では、自国の歴史学習自体が、疎かになっているとも言えましょう)。 

 

訳注:ミンストレルショー(minstrel show) 

1840~1880年アメリカで人気のあった演芸。顔を黒く塗った白人が、黒人の口調や動作をまねて歌ったり踊ったり、あるいは喜劇的な演技をする。 

 

ジャズに対する強い攻撃も行われています。それも、ハッキリとは言わないけれど、残酷なほどに人を小バカにするようなやり方で。例えばニューオーリンズの音楽を「ディキシーランド」などと呼びますが、これは南北戦争以前の、奴隷制を維持していた南部連邦の軍歌と結びつけようとする意図が現れています。「自由を謳歌するヤツには奴隷の鎖を」。そして現在は、強い攻撃はハッキリと行われています。「いわゆる」と前置きして、褐色の肌をした音楽の類、と称し、ブルースをこき下ろし、ジャズの命たる「スウィング」は、どう演奏されようが、もはや過去の遺物だ、と言い放つのです。こういう物の見方が増長する認識というのが、ジャズは革新を遂げてヨーロッパの芸術としての音楽の一翼を担うようになっただの、あるいは、いい加減に演奏されるラテン、インド、アフリカのゴチャ混ぜ音楽へ「進化した」だのというものです。 

 

ジャズに対する最も狡猾な攻撃の一つを行っているのは、自らを「ジャズの友達」と称する人達です。「進んだ物の見方をする人達」を自負する人達が言うには、ジャズは自然発生的に生まれた、とのこと。アレン・ジンスバーグによれば、ジャズは「誰だって演奏できる。ラッパを持って吹けばいいんだ」。当然、もしそれが本当だというなら、ジャズの発展には系統的なものは何もなく、そして黒人の自由解放以外には何の美学的目的もない、ということになってしまいます。 

 

1950年代のビート派の物の考え方、これの現代版が、現在の新しもの好き達による「全ての音楽を愛する」という発想です。その方針はこうです。「私は音楽は何でも好きだ。だからジャズとは何か、なんて関係ない。これはジャズだとか、これはジャズではないとか、どうでもいいことだ」。耳の肥えた優秀な方々にとっては、ジャズの意味などと言うものは存在しない、ということでしょうか。となると、意味のないものは人には教えられない、ということになります。意味も定義もこの音楽にはない、と言う考え方のおかげで、ジャズの教育における精神面での中核は、木っ端微塵にされてしまい、将来ジャズを演奏し、楽しみ、ジャズで人を育てる道は不要だ、ということになってしまっているのです。 

 

ホメロスは、たった二冊の著作で歴史に名を刻みました。「イリヤド」と「オデッセイ」です。それでも、ギリシャ人の共通認識としては、この二冊に込められた内容は膨大であり、だからこそ彼らは何世紀にもわたって、この二冊の読みこなしを繰り返し、ギリシャ人であるとはどういうことか、ひいては、人間であるとはどういうことか、について、少しでも明確な理解の仕方を求め続けているのです。ジャズも、これと同じく、アメリカ人であるとはどういうことか、についての洞察に、展望を与えてくれます。そこまでではないにしても、アメリカ人に理解するよう促せば、そうなる可能性を秘めています。我が国の伝統において、アメリカ人とは何か、についての核心に関する議論は、もはや殆ど行われていません。そして依然としてアメリカ人は、ジャズの定義と同じ位基本的なことについて、皆が合意できていないように思えます。 

 

今や私達は、ジャズとの関わり合いが非常に貧弱です。ジャズと言う言葉も、これに伴い、この音楽が生まれた頃と比べると、きちんとした定義を持たなくなってきてしまっています。ジャズについて、何かを知ろうとするところから始まって、年月をかけて演奏し議論を重ねるうちに、結論としてこの言葉には、実体のある意味がない、ということになってしまいます。これにより、ジャズは人に教えられないモノ、とされる始末。なにせ、ジャズなんか演奏しない、とうのであれば、ジャズを理解するなど出来るはずがありません。努力した挙句、とことん謎めいて不明確になってしまったなんて、まるでジャズの本当の姿を隠すことによって、私達の生きる道に関する重要な真実に向き合わせない、かのようです。ここにあるものは秘密の代物、それがジャズです。 

 

ロックンロールには意味があります。ヒップホップやサルサ、サンバ、そしてタンゴといったものは全て、それぞれ独自のサウンドを思い起こさせます。しかし今日、ジャズは、こういう音楽の総称なのか、はたまたどれにも当てはまらないのか、良く分からなくなっていて、正しく理解されていません。しかしもしもこの音楽が、アメリカ人にとって何かしら意味があるものなら、そこにある様々な要素は、私達の生活の在り様に見られる様々な側面を反映しているはずです。ここのサウンドは重要ですが、アンサンブル全体としてのサウンドも重要です。ステージ上で大勢の演奏が一つに「なってゆく」その過程は、朝鮮人にしろナイジェリア人にしろ、移民がアメリカ人に「なってゆく」道のりに似ています。「なってゆく」ことを望まなくてはいけないのです。スウィングすることの過程とは、常に変化している物事に対して、常に調子を合わせる過程と同じであり、、自由が保証されている社会における今風の生き方です。と言ってもそれを選択する/しないは、その人次第です。 

 

人種差別が産んだ別の強迫観念によって、いつまでも答えを探そうとする羽目になる、本質的にポイントのずれた問題が、「この音楽は誰のものか」です。答えようものなら、肌の色が何色が一番上手か決めよう、などという無益な取り組みをしなくてはならなくなります。要するに、ルイ・アームストロングが一番で、肌の色が濃い目なら、ジャズは黒っぽい肌をした黒人の縄張りだろう、ということになります。しかし、となると、ルイ・アームストロングと同じレベルの黒人は他に誰だ、と言う話です。そしてその人と肩を並べる有色人種、はたまたビックス・バイダーベックのような白人達はいるのか?有色人種である「クレオール」であるシドニー・ベシェより上手な黒人人種のソプラノサックス奏者は誰か?そんな人はいません。「黒人人種」と認められる血の濃さは?ジャンゴ・レインハルトはどうなる?ちなみに彼は、ベルギー出身のジプシーですがね。 

 

本物のミュージシャンだ、という決め手は何か?肌が黒くて先祖が奴隷であることが必要条件か?となると、ジャック・ティーガーデンやバディ・リッチのような白人ミュージシャンと同じレベルの演奏が出来ていない黒人ジャズミュージシャン達はどうなんでしょうか?「十分黒人とは言えない」ということか?となると、ある特定の分野 - 例えば競泳や管弦楽など - で圧倒的に白人が強いのは、黒人に単に競争力がないからなのか?それとも自分の能力に対して狭い料簡を持つことに甘んじてしまうのは、文化の置かれている状況のせいなのか?「生まれつきなんだから、自分じゃどうしようもない。やっても無理なんだから、やるなよ」アメリカのプロバスケットボールの世界では、同じ白人でも外国人であるヨーロッパの選手の方が活躍しています。肌の白さが足りないからか?アメリカの白人選手は、黒人選手の持って生まれた優れた点に対して、これを受け入れようとする文化的背景を育まずに育ってきたからなのか? 

 

別の見方をすれば、黒人はこういった扱いを受け入れるよう、国全体でお膳立てが成され、長い間に亘って状況が好転することなど望み薄にされ、それが黒人の生きる道となってしまったのです。当初黒人に対する差別と抑圧は、あまりにも完璧で、「自由」などというものは感じ取ることすらありえないことでした。ジャズミュージシャン達にとって、「平等」として「優越感」といったものを初めて実感したのは、白人達と黒人達がオフの時間に、一緒に演奏するようになってからです。舞台上では序列は実力主義。だからこそ、コールマン・ホーキンスやレックス・ステュワートといった人達が、人種に関係なくミュージシャン達からリスペクトされていたのです。 

 

ルイ・アームストロング、、シドニー・ベシェ、そしてデューク・エリントンといったようなジャズ奏者達が向かい始めたヨーロッパというところは、舞台上でなくても彼らが普通の人間として扱いを受ける地です。彼らがかの地で享受した自由は、アフリカ系アメリカ人が本国では決して味わえないモノでした。彼らはどんな女性達とも、交流を持ち、男女の関係を許され、そして勿論ミュージシャンである彼らに対し、どんな女性達も関心を寄せたのです。彼らは凱旋の後、もてはやされ、世の中を闊歩するようになりました。小奇麗に着飾り、好きなように振る舞い、稼ぎも増えて、自分達の演奏したいものを演奏しました。世界では自分達の音楽は、民主主義と自由を意味するようになっていたことを、彼らは理解し始めたのです。 

 

ジャズの中に在るものは、アメリカの開拓者達の活力と不屈の精神、そしてそれは、黒人と白人両方のミュージシャンのものです。でもこの国では、舞台上でも、そしてレコーディングスタジオの中でさえ、依然として分離された状態でした。意識の高い黒人達の間では、愛想笑いと「イェッサー!」の一言では拭い切れない、深い憤りの念が、常にあったのです。意識が高くなるほど、彼らの憤りは増幅されてゆきました。しっかりとした教育を受けるほど、怒りは激しくなっていったのです。このように公正でない状態がいつまでも続くと、生きる喜びが削がれてゆきました。彼らが公共の場で辛酸を舐めさせられた社会構造を、粉砕すべく、こう言った人々は自分達の能力とエネルギーを注ぎ込んだのです。 

 

文筆家達、出版業者、そして音楽ファンはこぞって、ベニー・グッドマンを「スウィングの王様」と称しました。確かに彼の率いたバンドは、とてつもなく良い楽団でしたが、当の本人は、その様な自覚はありませんでした。それは当時同じく活躍中だったデューク・エリントンカウント・ベイシーについても同じでした。グッドマンはそう呼ばれることを受け入れていました - 受け入れない人などいるわけがありまあせん - しかし自分は相応とは感じていなかったのです。もし皆さんが黒人ミュージシャンだとして、自分はスウィングの王様となるに相応しいと思いたいですか?多分そういう思いは皆さんを大いに困惑させるのではないでしょうか?デューク・エリントンはその生涯の中で、1920年代はポール・ホワイトマンが「ジャズの王様」、1930年代はベニー・グッドマンが「スウィンの王様」と、それぞれ称されていたのです。 

 

もし皆さんが映画に出演したい、それもメイドだの召使いだのとしてではなく、出演したいと思ったら、もし皆さんがメトロポリタン歌劇場のステージで歌ってみたいと思ったら、そしてその才能が実際あったとしたら、多分その気持ちは皆さんを押し潰してしまうでしょう。ジャズの演奏家の多くは、そういう人達なのかもしれません。 

 

黒人にとっても白人にとっても、ジャズは全て、人種の隔離や差別は間違えていると訴える術でした。白人のミュージシャン達は、我が国では、最も偏見を持たれない人達の部類に入っていたのです。有名な話を一つ。1926年、マンハッタンのローズランドボールホールで開かれたバンドコンテストは、地元ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソン・オーケストラと、中西部から来た白人で構成されるジョン・ゴールドケット率いる楽団との対決でした。ミュージシャン達の点数が集計されました。蓋を開けて見れば、大半の票が投じられたのはヘンダーソンオーケストラ - コールマン・ホーキンス、レックス・ステュワート、そしてベニー・カーターを擁する - だったものの、ゴールドケットの楽団 - こちらはフランキー・バウアーとビックス・バイダーベックを擁する - が結局勝利します。 

 

「完敗だった」とレックス・ステュワートは当時を振り返ります。「あいつら生真面目な白人のボーヤ達には負けたよ」。しかし双方のリーダー共、相手の演奏にしっかり耳を傾けていて、このコンテストの後、ゴールドケットはヘンダーソンオーケストラの首席アレンジャーであるドン・レッドマンに、ヘンダーソンはゴールドケットの楽団のメンバーで、やはりアレンジャーのビル・シャリスに、それぞれ仕事の依頼をしています。両バンドは再び相見え、その時は引き分けています。 

 

さてこのように、圧倒的不利と目された白人バンドが大勝し、これに黒人ミュージシャン達が潔く兜を脱ぎ、双方のリーダーは相手の人種よりも音楽に注目したという美談ではありますが、もし黒人バンドが連戦連勝となったろどうなるのでしょう?きっと勝ちを認められない、若しくは「元々黒人には勝てっこない」と片付けられるか、でしょうね。 

 

ジャズは、「古き良きアメリカの伝統」となってしまった人種差別が、不当であることをさらけ出して見せたのです。ミュージシャン達は、恐らく、そして愚かなことに、そうとは知らず、そしてそう感じることもなく、憂うこともしなかったのかもしれません。何世代にも亘り、人々が犠牲となっていった根深い傷を残すも手間のかからない仕打ち、それらは、木に吊るされることだったり、白人の子供を「ミスター〇〇」と呼ばされたり、等々。それなのにミュージシャン達は、芸術活動に携わる中で物を見る力を研ぎ澄ませてゆくことで、人種差別がもたらす苦情を更にヒシヒシと感じていたにも拘らず、「これは実にあってはならないことだ、あちこちに発信してゆこうじゃないか」とは言わず、「これは実際に有り得ないことだ、あちこちに発信しないでおこうじゃないか」と収めてしまったのです。 

 

人種差別に対する僕の怒りの大半は、ケナーで育った頃に由来します。時代は公民権運動に最盛期からその後にかけて、といったところ。僕にとって本当に酷い思いがするものであり、僕はそれを演奏で表現しました。しかしこれに対し、僕が縁を持ったジャズの大御所達は全て、アート・ブレイキーからジョン・ルイス、ウォルター・デイビスJrまで、人間は人間でしかない、それ以上も以下もない、と信じていたのです。ある時僕がアルトサックス奏者のフィル・ウッズのことについて、失礼なモノの言いようで語った時に、僕を叱ったアート・ブレイキーの様子を、僕は決して忘れることはないでしょう。彼の言う通り、あらゆる憎悪はどこかで終わらせなければなりません。そしてそれを終わらせる一助となろうとするなら、誰にこびへつらう必要はないのです。本当にモンクやチャーリー・パーカーの域に達しようとするなら、彼らは断じて黒人の白人に対する優越感に言及せず、「私達の音楽は全ての人の為のモノとなることによって、我が国の在り様を台無しにする人種差別を完全に否定するようになる」と言ったことを忘れてはなりません。「ビーバップは国民の統合について表現したものだ」ディジー・ガレスピーは僕に、彼にしろチャーリー・パーカーにしろ、彼らの音楽によって統合「されてゆくこと」が目的なんだと言いました。ディジーが僕にこういったのは1980年頃で、当時僕の頭には統合のことは全くありませんでした。「その時代はいつか来るだろう。でもそんな必要はない」僕はそう考えていました。 

 

「統合」と言うものについては、僕は子供の頃の遺恨がありました。1969年、僕が8歳の頃、母は僕を、ケナーにあるキング牧師記念「統合系」カトリックスクールへ入学させたのです。白人の子供達が大多数を占める中、黒人は僕と友人のグレッグ・キャロルのたった二人だけ。もし皆さんがこの「たった二人」だったら、「統合」されたくないはずです。何しろ生徒も先生もこちっらを日常的にいじめてくる連中で溢れかえっている学校なのですから。いじめられるのが快感、というなら話は別ですけれどね。絶え間なくいじめの集中砲火を受けていると、それまで経験したことのない疲労感に襲われました。父はかつて言っていたのは、自分は大人になるまでの間さほど多く白人と出会う機会が無かったので、蔑みを受けたこともなかったとのこと。勿論、社会全体としての不当な扱いは広く行き渡っており、父もそれに適合するようにはなっていました。しかし父は、完全に黒人しかいない環境で育ってきていましたから、26歳になるまではずっと、路面電車の前の方の席に座ることは許されませんでした。僕にしても、統合系の学校へ通いだす以前は、白人と出会うことはあまりなかったのです。ケナーでは、白人が家の玄関口にやってくると、その界隈の子供達はこぞって、その家の父親がトラブルに巻き込まれるような何かをしでかしたのではないか?と知りたがったものでした。そしていよいよ白人との出会いと言うものが本格化し、事態は良い方向へは進みませんでした。「Bozo(おバカさん)」「Hersley Bar(ハーシーのチョコレートバー)」「Burnt Toast(黒焦げのトースト)」といったニックネームは、「おはよう」「こんにちは」あるいは「ようこそ」といった挨拶程度の物言いだったのです(白人側にとっては)。 

 

重圧が常にのしかかっていました。いつもその重圧により、本当の自分らしさを捨て、他人が決めつけた自分の姿を受け入れる。それにより自分を決めつけた人より下等でいなければならなくなったのです。それが正しい行いだと、先生方は信じていましたし、その生徒達も、そしてその親達もそう信じ、議論に上ることすらありませんでした。9歳とか10歳とか、ある程度の処まで全く違う育てられ方をしてきた人間が、人間としての在り様を守るために、戦わねばならなくなったのです。いつも酷い言われようでした。「君って他の黒人達と違うんだね」「うちの従妹、黒人の何者かに強盗に遭った」「君、なんで学校の宿題なんかやるのさ?僕の家の庭掃除をするのに、学校の勉強なんか関係ないじゃないか?」 

 

取っ組み合いのけんかになると必ず、子供達は輪になって取り囲み、こう口々に囃し立てました「喧嘩だ、喧嘩だ、クロンボVS白人様だ」こう言ったことは、年配の世代が耐え忍んだことよりは、遥かにマシだということは知っていました。といって年配の世代が実際に酷い仕打ちを受けていてからと言って、自分自身が置かれている状況を甘受することには、全くなりません。自分の体感したことしか、人は実感がわかないものです。苦しいことは記憶に残ります。それは実際にあったことを歪めてしまうのです。自分のことを「クロンボ」と呼んだ、自分の持っている本の表紙に、勝手に大きな唇の悪戯描きをした、学校でプレゼントの度に猿のグッズを押し付けてきた、そういう白人は一人残らず記憶に残るでしょうが、自分をかばってくれた大柄なドイツ系の子や、家に自分を招待してくれたユダヤ系の子については、記憶を呼び起こすことが難しくなってしまうものです。 

 

所謂「統合」について言えば、全てが異なっていました。本当に細かなことまで全てが、です。いじめに関わらない方の白人の大半は、貧困層とイタリア系でした。だから学食では、いつでもスパゲティやラザニアなどと言ったイタリア料理の類には、ありつくことができました。イタリア料理はいいのですが、毎回となると困ります。家ではいつもクレオール料理というフランス料理の技法に基づく食事が出されました。ガンボとか赤豆とご飯を炊いたもの等です。それから白人達はよく、僕達の話の仕方について、いつもからかってきました。こういったことに不平を言う僕に対し、細かくは覚えていませんが、お母さんは大体こんなことを言うのでした「いいかい、誰にでも生まれ育った場所と言うものがあるし、誰にでも何かしら逃げられない背負っているものがある。だから学校に通っている間は、自分と言うものを捨ててしまう必要はないんだからよ」。お父さんは食べ物については「文句を言うな、何だかんだ言ってみな食ってるんだろ?」 

 

僕の両親は、僕ら子供達が成長の過程で最大限の準備を施してくれました。僕は幼い頃、フレデリック・ダグラス、ナット・ターナージョージ・ワシントン・カーヴァー、ブッカー・T・ワシントン、ラングストン・ヒューズと言った処は、本を読んでいました。お母さんはハリエット・タブマンのことを話すのが好きでした。彼女は僕達を、昔のカビルドの跡地を見せに連れて行ってくれました。そこはかつて、奴隷売買が行われていた場所です。展示されている鎖やら枷(かせ)やらを見ていて、奴隷制度と言うものの現実をしっかり認識したことを、今でも覚えています。お父さんと仲間のミュージシャン達は、歴史のことや政治のことをいつも話題にしていました。今でも覚えている、ある日の話です。その日は父と床屋にいたのですが、誰かが概ねこんなことを言っていました「エリス(ウィントンの父)と議論しようったって、誰もかないっこないさ。何と言っても世界中を回っているんだからね。全く大したミュージシャンだよ。皆が知っていることさ」。 

 

祖父も、大叔父も、政治の話をよくしました。大叔父とは、僕が6歳から8歳の頃よく一緒に過ごしました。彼の名前はアルフォンスと言いましたが、僕達は皆彼のことを「ポンプ(尊大な人)」と呼んでいました。ニューオーリンズにあった彼の家は、南部特有の、廊下がなくて裏口までつながって見通せるような、小さな「ショットガンハウス」と呼ばれていたもので、仕事は墓石工、彼は多くのことを見聞きしており、気が向けば話が溢れてきます。 

 

「撃ち合いになった経緯が全てなんだ」彼は言いました。1883年生まれですから、1900年に発生した、所謂「ロバート・チャールズ暴動事件」については、記憶があります。二人の警官がロバート・チャールズという名の若い黒人に対し、執拗に同行を強要したため、ロバート・チャールズが警官たちに向けて発砲、その後民家へ逃げ込み、合計、警官7名が死亡、20名が負傷の末、ロバート・チャールズは射殺された、というものです。「事件が起きた当日は、まだ奴は撃たれていなかった」大叔父は言いました。 

 

僕の大叔父は筋金入りの愛国主義者でした。いかなる、誰からの侮辱も甘受しないタイプでしたから、僕には不思議でなりませんでした。彼はアメリカ人=白人とは思っていなかったのです。1960~1970年代という「ブラックナショナリズム」という言葉が、若者の間で、あるいは単に流行を追いかける連中の間で、キーワードだった時代に育った人間にとっては、奇妙な考え方でした。ポンプは兵役にあったこともあり、アメリカ合衆国と言う国を信じる男だったのです。 

 

アメリカは偉大な国だ。」彼はいつもそういっていました。「欠点もあるが、偉大な国なんだ。」彼はモハメド・アリが嫌いでした。「彼は国から金をもらう人だろうけれど、国の為に戦っているわけじゃない。俺に言わせれば、あんなのは英雄なんかじゃない。」彼はブラックムスリム運動を嫌いました。家に帰る時は、「Mjuhammad Speaks」(新聞の名前)は持ってくるな、あるいは、マーカス・ガーベイと彼の持論であるアメリカ回帰運動のことは話し出すな、絶対に、と言うわけです。「アフリカなんかに行ってみろ、また白人の所に売られて帰ってくるだけだ。」と彼はよく言いました。彼は偏見とは立ち向かうべきだ、という信念を持っていたのです。彼のモットーは、「侮辱は面と向かって言わせろ、そうすればおいそれとは行かない。相手の目を離させるな。手出しできなくなる人間の数が増えてくれば、そのうちそれが当たり前になっていくだろうからな。」 

 

3・4年生になる頃には、僕の学校での成績は、他の子供達より頭一つ抜け出ました。既にリコンストラクション(南北戦争によって崩壊した南部諸州と奴隷制度、これらの戦後処理)のことは耳にしたことが有りましたし、プレッシー対ファーガソン裁判や、ブラウン対教区委員会裁判、そしてキング牧師マルコムXのことも、内容を理解し知っていましたし、名前も頭に入っていました。それぞれの相関関係や時系列は、完全には分かっていませんでしたが、黒人の人々は社会の中で闘争中であり、社会の何かが台無しにされている、という自覚は持っていました。そしてハッキリと分かっていたことは、その台無しになれていることによる犠牲者は、僕達黒人なんだ、ということです。そんなわけで、例えば歴史の授業中に教科書を開けて、嬉しげな奴隷達の姿があると、「奴隷の何が嬉しいのか?」と疑問をいつも抱くのでした。 

 

こういう子供達に自分を受け入れさせる方法は、唯一つ、彼らがしていることを自分も彼らに対してすること、そうでないと、増々こちらは無価値な人間と見なされて、ひたすらバカにされる羽目になる、ということにも気付きました。とにかく辛かった。元居た黒人の学校は、成績が良好で生き生きとした性格でいれば、尊重され、女子も男子もいる社会の輪の一部に、自分は入れたのに、そこから飛び込んだ今度の環境は、前向きな姿勢は否定されるわ、自分は社会的交流から完全にのけ者にされるわ、といった具合でしたからね。 

 

僕の大叔父は、僕に、自分らしさを保つ権利は守らねばならない、そしてそれは時として犠牲を伴う、ということを叩きこんでくれました。なので僕は心を決めて、誰かに「nigger」(クロンボ)と呼ばれでもしたら、そいつと戦うようにしていました。勝ったり負けたりしましたが、とにかく覚悟を決めて、バカっぽく振る舞わない、他人にナメられるようなことは一切しない、そのようにしていました。何があっても、道化のように振る舞うことを当然とされた黒人のイメージ、その真逆の振る舞いや行動を心掛けました。 

 

統合校の授業内容には、黒人に関するものは一切出てきません。僕達黒人は、この世に存在しない、と言わんばかりです。意図的にそうしたのではなく、学校側にとっては、至極当たり前の認識だったのです。例えば黒人に関するレポートを作ってこようものなら、教師たちはニッコリ笑って、猫なで声で「これ何のことかな~?うーん、先生わかんなーい。」何にしても、僕はレポートはいつも奴隷制だのと言った題材を選んでいました。自分が興味を持てるものでしたから。 

 

僕達の近所も、騒動が絶えない処かもしれません。黒人の子供達の間には、守るべき掟がありました。自分らしさを保とうと頑張るのは、厳しいかもしれません。しかし他の子達に一目置かせる方法はあるのです。ケンカに勝つ、イジメに毅然とした態度をとる、ダズンズやボール遊びができる、女の子達とおしゃべりができる、といった具合。黒人の仲間の子達を取り込んでゆくには、何とかなりますが、人種差別となると、状況を変えようとしても大して打つ手がないのです。 

 

そうです。人種差別は、今も昔も小さなことではありません。個人で何とかなるような代物ではないのです。今もなお、46歳になっても僕はこれに苦しんでいます。生活のあらゆる場面に存在し、影響は重くのしかかります - 自分の知り合いの上の世代の人達に、自分の家族に、「世の中はこうだ」とテレビが示すそのやり方に、教師たちが自分に働きかけるやり方に、子供たち同士の人間関係の在り方に、ね。白人の住むコミュニティの道路は舗装されているけれど、黒人のはされていない、誰でも知っている基本手なことですが、これと同じ位、誰でも知っていることかもしれませんね。そのレベルから始まって、およそ考えられることは全てに亘っているのでしょう。例えば僕が子供の頃、フットボールの子供達のリーグ戦の話。黒人のチームが3つ、白人のチームが8つか9つありました。白人の方には何だってありました:コーチは2人、両側のサイドラインに飲み水、ホームグラウンドにはハッシュラインが引いてあり、練習用設備も色々整っているし、親達もスタンドに見に来ていました。一方僕達の方は、ユニフォームは10年前くらいから使っているもの、親達はスタンドに姿はなく、コーチは1人、ディフェンスにエキストラバックを当てられない。これで更に、審判達は僕達に不利な判定をするのです。僕はかつて、審判に暴言を吐いて退場になったことがありました。「どうせウチら負けるんだから、判定まで不利にしなくてもいいじゃんか」白人全員が悪いわけではなく、世の中の全体の仕組みにっ腹が立ったのです。 

 

腹を立てると、自分がかえって物笑いの種になってしまうこともあります。僕のモダンジャズ演奏の初仕事は、ニューオーリンズのタイラーズ・ビアガーデンでのステージでした。バンドのリズムセクションは全員白人 - マイク・ペレーラ、リッキー・セバスチャン、そしてアルヴィン・ヤング。アルヴィンがリーダーです。当時僕は15歳。メンバー皆が僕の面倒を見てくれて、力をつける後押しと、励ましをくれたのです。それなのに僕は、最初の頃に受けたインタビューで、白人はロクな演奏が出来ない、といったようなことを言って、彼らの心を傷つけてしまったのです。ありもしないことを、彼らの気持ちを考えず口にした僕は、本当に愚かでした。こういう正しくないことを、恨みがましく言ってしまった経験の記憶と言うものは、世の中が自分に対して思い知らせてくることに対する怒りの気持ちを抱えていると、つい忘れてしまいがちです。プライドや正義感みたいなものが、怒りの気持ちを抑えなくしてしまうのです。根深い人間の性ですし、これが現実なのです。 

 

レイ・ブラウンというベースの大御所に、僕は自分の子供だった頃の話をしたことを、今でも覚えています。彼の反応はというと、「何だい、そんなしょうもない話は、1960年代に終わったと思っていたぜ」。僕の返事は「いえいえ、もっとヒドイ話がありましてね」。 

 

音楽により深く関わるようになり始めた頃に気付いたことなのですが、怒りの気持ちは、確かにある種の力を与えてくれるものです。燃料の様なものですが、リスクは高くつきます。あっという間に燃え広がり、自分の身の回りを全て焼き尽くすものです。年を取るに従い、怒りの気持ちは持たないようにしないと、そのうち自分自身を焼き尽くしてしまうことでしょう。 

 

高校進学に合わせて、僕の一家はニューオーリンズへ引っ越し、兄のブランフォードと僕はいよいよ、ニューオーリンズセンターという芸術学校へ通い始めます。ここは新しくできた芸術系の公立先進校であり、僕の父はここでジャズの教鞭を取っていました。一般教養科目の方は、午前中にベンジャミン・フランクリン・ハイスクールでの受講となります。この2校がニューオーリンズを代表する公立学校でした。 

 

ニューオーリンズセンターは新しい芸術教育を行う実験校としてスタートしたばかりで、僕はその第1期生となったのです。講師陣は稀にみる素晴らしい方々でした。1人1人が芸術を愛し、後進の指導を大切にしようという気概に溢れています。お互い言葉を交わせば、それだけで学びの意欲をかき立てました。僕の音楽に対する情熱と力量の土台は、ここでのクラシック、ジャズ、声楽の授業で培われたものです。今でも、ここでの経験を思い出すと、感無量です。 

 

時は遡って、ケナーに居た頃、僕の目には、あの厄介な偏見に満ちた白人連中というのは、本人達はそうは思っていないでしょうが、どちらかというと僕達黒人の貧困層との共通点が多かったように映っていました(僕達だって、そうは思いたくないのですが)。ただ僕は、フランクリンハイスクールに通い出してから、白人にも色々な人達がいるんだ、ということに気付くようになったのです。それまで「白人」と単に一括りにしていましたが、生活を共にしてわかったことです。 

 

僕が通っていた小学校には、貧困層若しくは中流階層でも下の方のイタリア系アメリカ人家庭の子達が沢山通っていました。彼らは彼ら同士で、そして僕達とも、よくケンカになりました。これに対して新しく通うことになった高校は、ユダヤ系の子達が多く在籍しています。知り合いの黒人の学生は誰一人として、「このユダヤ人め」という言い方はしていなかったと記憶しています。あくまでも「白人」。でも様子を見ていると、小学校の頃のイタリア系の子供達と違い、ユダヤ系の子供達は、彼ら同士でケンカになるような場面には、出くわしませんでした。彼らには、もっとしっかりした知的なしきたりがあったのです。それは僕にとって興味深いことでした。学校で「このクロンボ」などと呼ばれたことは一度もありません。四六時中ケンカする必要もありません。それは実にしっかりとした市民社会としての姿です。クラスメートたちの会話に耳を傾けてみれば、僕の日頃の取り組みや思いに対して、好奇心を持ってくれていることに、何度も気付くことがありました。当時の僕にとっては、実に新鮮な経験でした。フランクリンハイスクールの子供達の方が、たたずまいが知的で、僕は沢山のことを学んだのです。彼らの中には、男女問わず、僕も出演していたタイラーズのジャズセッションをよく見に来ていて、週明けの月曜日にそれを学校の話題にしようと楽しんでいました。音楽系でも何でもない高校生が、ジャズの本番を見に行くなんて、今ではほとんど聞かない話かもしれません。当時ですら、珍しい状況ではありました(当時の僕には、そういう認識はありませんでしたが)。 

 

2年生になると、「ハックリベリー・フィンの冒険」を授業で扱うことになりました。授業担当のキース先生という方は、最初の時間におもむろにこう言い放ったのです。「皆さん、この授業では『このクロンボが』という言葉を口にすることとします」。生徒達は「このクロンボが」と言うと、くすくすと笑いました。これは僕にとっては、あまり愉快なことではありません。さて、このキース先生ですが、節度を持ちつつも奇抜な発想も出来て、そして僕のことを可愛がってくれるのです。僕は1年生の頃から、この先生の授業では上位の成績を収めていました。先生は僕達にこう言ったのです。「僕は君達に不愉快な思いをさせたくないと思っている。しかし、この作品を学ぶ上では、『このクロンボが』という言葉を使いこなせるようにならないといけないんだ。なぜならこれこそが、作者のマーク・トウェインが言おうとしていることを理解する、その中心にあるものだからなんだ」。僕は心の中で「こんなクソな作品イヤだ」と呟いたのです。 

 

授業が終わると、キース先生は僕を傍へ呼んで、こう言ったのです。「まぁ、もし君がこの作品に取り組めなくて、授業にも顔を出したくない、というのなら、それでも進級には影響しないから大丈夫だ。でも私は、あくまで今のやり方で、この作品を授業で扱ってゆきたい。なぜなら、これが現実、今の世の中の姿だからなんだ。白人が人間に向かって「このクロンボが」と、呼ばなないなんてことはウソだ。彼らは実際そういう言い方をする。その現実を、僕は君達に知ってもらいたいんだ。この教材を中途半端に扱うつもりは、僕にはない。そして君僕の授業を受けて欲しいと思っている」。 

 

すんなり納得はできませんでしたが、僕は「わかりました、やってみます。」と答えました。 

 

今となっては、この授業を受けて本当に良かったと思っています。この本、そしてキース先生の教えは、僕にとっては神の啓示のようでしたからね。先生は、この本とそこから学ぶべきことを、しっかりとコントロールしながら授業を行いました。そして今、僕は常々、個の取り組みは全てのアメリカ国民にとって、必要なことだと感じています。人種問題がもたらす苦痛、闘争、愚かさは、一つ残らずアメリカ国民は向き合ってゆくべきです。向き合わないというのなら、それは例えていうなら、ある人がガンに侵されているのに「言ったら傷つくから」といって教えてあげないのと同じです。教えてあげなければいけません。そうすればその人は、取るべき行動を明快に状況を理解した上で選べるからです。僕はそう思っています。 

 

白人と黒人が、お互い相手が何者か、そしてお互い力を合わせるとどんな国作りができるのか、それを知るには、実は白人と黒人は密接につながっているんだ、ということを理解する必要があります。理解しない、というなら、それは例えていうなら、車のキーを手に持っているのに、それを失くした、と思い込んで、手に持っていることを忘れて、そこいらじゅうを探し回っているようなものです。これでは、いつまでたっても車のキーが見つかった、とはならないでしょうね。自分の手を見ろ!持っているじゃないか!探し回るな!というわけです。今の黒人と白人は、これと同じ状況だということです。勿論、我が国には多くの人種・民族がやって来るわけですので、誰もが皆「マイノリティー」になってしまうように見えます。「マイノリティーという存在がもたらす様々な問題」を僕達は話し合って行くわけですが、やはり黒人と言うものは、我が国では、他とは切り離されたマイノリティー集団などではなく、アメリカと言う国がどういう国なのか、を考える上では、僕達は話し合う話題の中心にすべき存在なのです。 

 

自分はアメリカ人としてどうあるべきか、ジャズはそう考えるよう、人々に促します。民主主義、個人の自由、人種・民族に関係なく人間性を受け入れる態度、こういったことがいかに素晴らしいか、を表現する方法を、ジャズは与えてくれます。それは正に、アメリカの民主主義が在るべき姿そのものです。 

 

この章の冒頭で書きましたように、ジャズがアメリカの国民的な芸術であるが故に生まれてしまった、不安定な状況があるのです。アメリカの文化の中で、ジャズがしっかり成熟してきたため、あからさまに、それまでアメリカでは当たり前だと考えられてきたものを否定してかかったのです。一つは、人種隔離が国全体の社会通念になってしまっていること。もう一つは奴隷制度は昔は正当化されていたということ。これらを「そんなことは過去になかった」と否定してかかったのです。さて、どうしたものか・・・肌が濃い色をしている人間は人間以下、身分を低くするのは当然だとして、その後のアメリカ人として受ける仕打ちを決定づけてしまった、300年間にもわたる信念を国民の記憶から消して去ろうというのでしょうか?そこまでしなくても、人々にとっては、ジャズの在り方をあっさりと記憶から消し去ってしまえば事足りる、ということです。そしてジャズを消し去ったことで、それがもたらす全ての洗練されたスタイル、技巧、そして表現するものを伝える力も消し去られるのです。 

 

あっさり記憶から消えたこと」は、他にもありました。1929年に始まった世界大恐慌の際、アメリカ人はこの音楽の持つ奥深い内容を、こぞって味わい、傷ついた心を癒しました。それは政治家が不正を犯して拘束されると、奥さんや宗教に救いを求めるのと同じです。このことは、今やアメリカ人の記憶からは消えてしまっています。良く見落とされがちなのは、1930年代の白人の凄腕ミュージシャン達の世代丸ごとです。ジャズにどっぷりハマってしまっていたためです。安易に受け入れられたものもあります。10代の子達を食いものにした歌謡曲の数々です。折角我が国の価値が持つ全ての概念を黒人が音楽芸術に仕上げたものがあるにも拘らずに、ね。もう一つは海外のバンドやグループの数々。ローリングストーンズなどは、ブラックアメリカンの「真似事」をするイギリスのバンド - イギリスと言えば、かって独立戦争で戦った相手です ー 我が国にだってバンドやグループがあるにも拘らずにね。もっと多くの人々の目に留まったことと言えば、。スウィングという国民的ダンスが人知れず消え去ってみたり、かつて黒人をコケにしたミンストレルショーが、ヒップホップにその内容が復活してみたり、我が国の音楽文化が、世界中に安っぽい姿で輸出されていった、猥雑でお金さえ儲かればいいと言わんばかりのビデオで使われているBGMの数々など、です「。音楽面でのイノベーションを、テクノロジーやCDの売り上げ、病的な庶民感覚といった視点で定義していっ安直さの結果です、全ては。 

 

ところがここで誰も予想し得なかったこと発生しますこういった安っぽいビデオの中で、1970年代まででしたら想像すら出来なかった、黒人の男達と白人の女達が、何やらロマンチックな雰囲気を醸し出す映像が発信され始めます。こういったミンストレルショーのようなラッパー達は、自分達が住む貧民街で心に描いた「いつか郊外に住むぞ」の夢を売りながら、何百万ドルもの大金を稼ぎ出しました。黒人のアスリート達は、信じられない位国民的な人気者になりました。大企業のトップに黒人(男性も女性も)が就任しました。そしてその上、DNAの研究が進むにつれて、人類は全てアフリカに起源があること、そして多くの要素において、DNAの差異と言うものは、異なる人種間で比べるよりも、同じ人種間の中で比べる方が、より大きなものが見出される、ということが判明してきたのです。 

 

人種問題がもたらす、あらゆる偽善、不条理、恥辱:それはジャズが表現する最も深遠な真実です。そして、ルイ・アームストロングが舞台で笑顔を見せ、ニカニカと歯をむき出しにして、「ヨッシャ!」(訳注:yassah : yes, sir)と言ってみたりする中で、彼がトランペットとボーカルの両方で届けた、一つ一つの怒りの音、得意げな音、磨き抜かれた音、血まみれの音に込められているものこそ、この「真実」なのです。デビュー当初のマイルス・デイビスや、ディジー・ガレスピーも同じこと。そして皆さんご存知でょうか、白人ミュージシャン達のサウンドも、同じことなのです。白人ミュージシャン達も、人種問題がもたらす弊害が、アメリカ人の生活の根本を蝕んでいたことを、知っていました。人種問題がもたらす誤った認識が、彼ら白人にとって有利に働き、おかげでお金は稼げるし、「〇〇王」だの「No.1の〇〇」だのと呼ばれるようになり、その一方で黒人は注目してもらえなくなった、ということを、白人ミュージシャン達は認識していたのです。彼らの心は傷つきました。それはそうでしょう。彼らが演奏したいと思った音楽は、アメリカを一つにまとめ上げ、そして彼らは、その「一つになったアメリカ」の一員になりたいんだ、と望んでいたのですから。そうなれば、どんなに素晴らしいだろう、と思っていたのですから。信じ難いですか?でしたらデイブ・ブルーベックに訊いてみてください。 

 

ジミー・マクパートランド、ピー・ウィー・ラッセル、デイブ・タフ、ジーン・クルーパ、バド・フリーマン、アート・ホーディス、ウッディ・ハーマン、ギル・エヴァンスズート・シムズといった、真摯な白人ミュージシャン達が皆、調和を試みたもの、それは、この国の現実の姿と、彼らがジャズを通して知ったこの国の底力。しかしジャズは、誤った呼び方をされてしまったのです。「黒人と言う人種に特有の音楽」「黒人音楽」「アフリカ系アメリカ人の音楽」などといったものは、生理学や文化人類学をきちんと理解していないからこそ、出てきた悪名です。そのせいで彼らは、文化の「天国と地獄の狭間」に立たされました。一部の白人達からはバカにされる。一部の黒人達からは強い敵意のせいで心からは受け入れてもらえない。そんな状況に手を焼きました。ネチネチとした攻撃にも耐えました。それは、黒人の音楽を「横取り」している、というものです。ジャズは空気と同じ、誰のモノでもあるのに、です。ベニー・グッドマンはお金を払って、フレッチャー・ヘンダーソンにアレンジをしてもらったのです。それを「横取り」などと、訳が分かりません。白人ミュージシャン達が、こうして手を焼き耐える中、黒人ミュージシャン達の大御所達も調和を試みたものがありました。それは、ジャズを通して彼らが知った、この国の可能性と、人種差別を維持し正当化する為のウソが作り出してしまったこの国の現実の姿。黒人ミュージシャン達が、更に味わうことを余儀なくされた現実。それは、自分達の社会集団は、ジャズと言う芸術活動に殆ど関心が無かった - そういう意味では芸術活動全般にほどんど関心が無かった - 全く頭痛の種は尽きません。 

 

さて、これこそが、黒人も白人も全てのミュージシャン達が皆さんの心に届けたいと願うこと:嫌悪の対象に堕したこと(国家、思想、人)への愛しさを表現する方法、それは、それが嫌悪の対象から、もう一度愛すべきものへと戻ってゆくくらい、熱い気持ちでそれを愛し抜け、というものです。僕は19歳の時、マイルス・デイビスからこのことを問われました。「何を考えて、そんなクソみてぇな演奏しやがった!」演奏の表面的なことを言っているのではありません。彼は見抜いていたのです。僕がジャズのことを、まるで分っていなかったことを。僕が理解していたジャズと言う音楽は、「クソみてぇな」もの、ウソと欺きの混沌、悪意も善意もいっしょくた。こんなことでは、陣の潜在能力を引き出すこともできない、自分はどういう人間なのかを気付くこともできない、ひいては、自分も皆も、アメリカの芯の偉大さに気付くこともできない、というわけです。でもそれを乗り越えた時、それに真剣に取り組んだ結果克服した時、アメリカがかつて想像すらしたことの無いような、文化と芸術の興隆が実現することでしょう。どこまでも公正な民主主義の世の中を実現しようと、たゆまぬ努力を続けたデューク・エリントンギル・エヴァンス、チャールス・ミンガス、ジョージ・ガーシュウィンといった、多くの、先見の明を持つミュージシャン達の作品の中で、予言されている「仲良きことは美しき哉」が、実現することでしょう。なぜなら、ジャズとは、アンサンブルで演奏される時、それは「共に行こう、共に在ろう、共に居よう」と歌っているモノだからです。 - 少なくとも演奏が始まってから終わるまではね。 

 

そして音楽の世界では、曲が演奏されてる間に起こることは、人生に起こることを表現しているのです。 

 

 

次回は、第6章を見てゆきます。 

「Moving to Higher Ground」を読む 第6回

第4章 何を懸けるか - そしてどう感じるか - :演奏すること 

   

<写真脚注> 

「君の体の大きさで、こんなに大きな音を鳴らす子は、聞いたことがないよ」 

- 青少年のためのジャズコンサートにて(リンカーンセンター ジャズプログラム)。 

 

ジャズは、人の気持ちに思いをはせることを教えてくれます。他の人と共に、人の感情を音にして作り上げ、それを大切に育て上げてゆくのです。同時に、自分がすべきことはちゃんとこなすことも教えてくれます。ジャズには、自分自身を表現する方法が非常に多くあります。万能に当てはまるルールなど、無いと言えるでしょう。 

 

ジャズミュージシャン達というものは、あらゆる種類の、「変わり者」として色々他の場面で「つまはじき」にされてしまう人々が本当に大好きなんだ、ということを、僕は大人になる過程で気付きました。人間誰にでも居場所があり、演奏の腕があれば更にその居場所は広くなる、と言わんばかりに思えます。僕が魅力を感じたのは、様々なタイプの人々が、考え抜いた挙句に自分だけの方法を編み出してインプロバイズしてゆく、そんな様子でした。時には、音程感が完璧だったり、その場に当てはまる音を演奏してゆく方法を直感的に知ることが出来たり、そういう人がいるかと思えば、曲のハーモニーにどの音階を使えばいいかを科学的な方法を使わないと分からない人々もいます。他にも、技術的な器用さは何もないけれど、何かしらの深みのある感情表現が出来て、それをブルースにしたものを自分の演奏にあてはめる人々もいました。彼らは、いわゆる「自分自身のサウンド」を持っていたのです。 

 

あるミュージシャンは、和声を聞く力はそれほど無いものの、メロディを演奏するセンスが良かったりします。別のミュージシャンはリズムのセンスが良いものの、メロディを演奏する力がなく、2・3個の音符にしがみついて、それで何とかその場その場を切り抜けてきた、という具合。いずれにせよ、皆がよく分かっていたこと、それは、誰も完ぺきに能力を全て持ち合わせてなどいないんだ、ということ。だから、自分ができることを大事にして、出来ないことがあるという現実には、きちんと向き合うことが大切なんだ、ということでした。 

 

しかし時には、天性のミュージシャンというものがいて、こういう人は努力しなくても何でも理解し、いつだってキチンと演奏することが出来るのです。そしてジャズでは、「演奏することが出来る」とは、自分だけの何かを持っていて、それを他の人達にも分け与えてゆかねばならない、ということを意味します。この「分け与え」は、子供のうちにはちょっと難しいことです。演奏する能力はあっても、その子が自信をもって「こう思います、いいか悪いかは、自分で決めてください」なんて、まず言えないでしょうからね。 

 

でも、いたのです。言えた子が。ニューオーリンズジャズの、シドニー・ベシェです。ベシェは自分の早熟さを自覚していました。9歳で大人と肩を並べて演奏し、14歳で自分のバンドを結成、楽譜の読み方を習う必要がなかったとのこと(一度耳にした曲は完璧に頭に入れた人ですので、もっともです)。そして彼は、人生の詩的な美しさを理解するアーティストでした。僕がフランスで年配の方々から聞いた話ですが(フランスと言えば、ベシェが晩年を過ごし、スターとしての地位を得た国です)、大変女性達に愛されていたとのこと。でも僕には、写真を見る限り、女性を魅了するような風貌には、特段思えなかったので、理由がわかりませんでした。しかし、彼の自叙伝「Treat It Gentle(優しくして)」を読んで、彼が女性達から愛されていた理由がわかりました。彼は人生の神秘を知る、偉大な語り部だったのです。 

 

彼の自叙伝からの引用です。 

 

「ミュージシャンが演奏するには、マリファナ入りの巻タバコをふかして気分を盛り上げないと、などという話を聞いた人もいるだろう。」 

「女や酒を傍に置いて自分を慰めたり・・・あらゆることに対して自分の気持ちが酔いしれるよう自分を仕向ける・・・色々なものに頼って、気持ちを酔いしれさせる、自分を女としてめかしこむ、あるいは気持ちを高揚させる。それはその人の勝手だ。世の中には、そのように自分を仕向ける「べきだ」と考える人も多い。でもミュージシャンが演奏する本当の理由は、ただ一つ。演奏は、ミュージシャンが否応なしに、成すべき仕事だからなのだ。」 

 

ベシェは続けます。 

 

「もう一つはインスピレーションだ。」 

 

「インスピレーションは誰にでも与えられるべきものだ。それは人が生きる道であり、人はそれを日々の暮らしの中に見出す。インスピレーションは、それを受ける準備が出来ている人に与えられる。でも、ただ与えられるのではない。それはその人の血肉とならねばならない。よって準備が必要だ。あなたの身の上に起こることを通し、それが素材となって「あなたの思い」というものが作られる。その「思い」を、あなたは演奏するのだ。しかしそれだけではない。音楽にも「思い」がある。さぁ、いよいよあなたの「思い」と音楽の「思い」が一つになるあらましだ。あなたの方の「思い」は何でも結構だ・・・ある曲を恋愛の思いから演奏し始めたとしても、終わるまでには、もっと別のものに昇華していなければならない。あなたの恋愛の思いは、音楽の方にある「思い」と出会うことで、音楽は一本立ちできるようになるのだ。」 

 

これは、ある種ミュージシャンにとっては、本質的な話です。二つの重要な考えが語られましたね。まずは、音楽を演奏するには才能がないといけない、ということです。これは自分ではどうしようもないことではあります。物事に取り組む上で、何かしら才能があれば、たとえどんなに小さい才能であったとしても、大きく伸ばすことも可能です。でも才能がないとなると、フラストレーションに苦しむ覚悟が必要です。大学生や求職者が、彼らの才能に対する率直な評価に基づいた就職先しか与えられないのは、このためです。 

 

次にベシェが求めたことは、人は何らかのインスピレーションを与えられる、ということでした。ところで、一卵性双生児で、一緒に育てられた二人でも、全く同じ人生を辿るということは、有り得ません。思いは人それぞれであり、人と音楽の思いを一つにする方法も、その人が自分で見出さなければなりません。そして多くの場合、ミュージシャン自身の思いと、音楽の思い、この二つの「思い」は、全く関連性がなかったりするのです。 

 

言葉を話すことも、これと同じようなことが言えます。皆さんの身の上に起こることを通し、それが素材となって皆さんの思いというものが作られる。それを伝えるために言葉を話そうと思うなら、意図(皆さんがどう思っているか)と発言(皆さんが選ぶ語彙)が一致していなくてはいけません。他人を介さず自分自身で話す時でさえ、自分の意図することを間違えて伝えてしまうことは、ざらにあります。しかしミュージシャンにとっては、この「一致」のためには、大変な時間を要し、そして、のほほんと過ごすことも許されません。あらゆる時を逃さずに、腕を磨かねばなりません。そして、自分の思いを偽りなく公にすることは、場合によっては不快なものです。そうやってステージ上を一変させるのは、力の要ることです。それを経験するためには、全てを犠牲にすることにすら、なりかねません。 

 

芸術とは、あらゆる分野における、あらゆる種類の創造性のことであり、これを育むための栄養の素、すなわち人生の経験というものが必要です。これは演奏する側にも、聴く側にも求められることです。 

 

僕が子供の頃ケナーに住んでいた時、同じ町内にジェラルディーンという名前の知的障害を持つ女性が住んでいました。彼女は年を取っていて、噛む歯が全て無く、深く刻まれたシワの奥に目がある姿でありながら、小さな女の子の様な服を着て、髪を二本お下げにしていたのです。彼女が知的障害を持っていたことは、町内のみんなが知っていました。彼女は何をしでかすが予想がつきません。突然スカートをたくし上げる、人の後をついてきて小枝でひっぱたく。子供だった僕達は、彼女をからかって遊びました。しかし僕のお母さんは、よくこう言うのでした「そんな風に言うもんじゃない。彼女には自分が送ってきた人生があるのよ。」母が言いたかったことは、彼女をただの知的障碍者として見るな、彼女は一人の人間であり、これまで歩んできた人生があり、そこには僕達も関わってきているのだ、ということです。 

 

音楽をする上でも、そして人として生きてゆく上でも、きちんとした聴く力をつけようと思うなら、自分以外の人達の存在をしっかりと意識する必要があります。相手の気持ちに寄り添って話を聴ける人達の方が、大抵いつも、そうでない人達よりも多くの友達に恵まれます。だからこそ、そういう人達の忠告というものは、一目置かれるのです。相手の話を辛抱強く理解しようとする聴き方をする人は、幅広く自分の居場所を得ることが出来ます。一見、どんなに人を惹きつける魅力がありそうでも、相手に耳を貸さず自分は何でも分かっているという姿勢では、自らの居場所を狭めてしまいます。ジャズは人の耳を鍛えてくれます。プレーヤー達の考えていることに、ついてゆきつつ、彼らのサウンドの中から人間の奥深が聞こえてくるよう努力すること、を続けるからです。ジャズクラブのテーブルにいる聴き手でも、逆に吹き手として楽器を手にしても、サウンドに込められている人間性とは、人生の酸いも甘いも噛み分ける処から生まれ出るものなのです。 

 

その「酸い」が、僕のいた町内ひとつとっても、色々あったことを覚えています。女も男も皆、人間関係をキチンと作れない人ばかりでした。ある女性は彼女の夫を復活祭の日に殺し、、別の男性は実の娘を妊娠させてしまい、隣人のジョイス(「喜び」という意味)という女性は夫のアルテミス(女性の守護神)を、はっきりとした理由もなく射殺してしまったり、皆がそれぞれ問題を抱えていました。通りの向かい側に住んでいた僕の友人の兄は、よく人前で自分の奥さんに手を上げていました。僕達が路上でサッカーをして遊んでいると、彼はそこへ出てきては、奥さんを殴り、そしてふざけた振る舞いをするのです。僕達は冗談めかしくこう言ったものでした「ウィリアムも家族の連中も頭がおかしいよ」そうは言っても、心底愉快な話というわけでは全くありません。更には彼の奥さんは、気丈でとても優しい人であったのです。もしもウィリアムに非がないというなら、彼は知り合いの中では最も幸せな人の一人、ということも言えることになります。彼らの奇行を、人々が普通に送る生活の中に置いてみて、その上で理解しようとしても、混乱するだけとしか言えないかもしれません。彼らの奇行が際立ってしまい、どうしてもそちらに目が行ってしまうからです。 

 

ある家族の息子達は、皆とことん乱暴者でした。一人、アールという、僕にバスケットボールを教えてくれた男以外は、全員、殺されて命を落としてしまいます。ところで、その息子達の中で最も狂暴だったのがジャックで、多分僕より4歳年上だったと思いました。12歳で大人を打ち負かしてしまうほどで、それが彼の専門だったのか、外で僕達とサッカーや野球、バスケットボールをして遊ぶことが出来ませんでした。 

 

そんな彼が、ある日突然こう言ったのです「おい、お前のキチガイ弟はどこ行った?」 

 

僕の弟のムボヤは、自閉症でした。 

 

僕は「ムボヤはキチガイなんかじゃない。自閉症っていう病気にかかっているだけだ」と答えます。 

 

するとジャックは「良く分からないけど、だったら外に連れ出してやればいいじゃないか?」 

 

この口が達者なヤクザ者は続けて「俺だったらムボヤを自転車の後ろに乗せて、町中連れ回してやるさ。ケナーはクソクラエな街なんかじゃない。お前だって、ずっとここにいるんだから、連れてってやるところなんて、いくらでも知っているだろう。」 

 

このやり取りがあった以前は、僕のジャックに対するイメージは、バイオレンス映画に出てくるようなことに四六時中関わっている男、というものでした。子供の頃からの付き合いで、彼のことは良く分かっているつもりでした。でも、このやり取りがあって「何てことだ。そういえば近所の誰もムボヤのことに触れたことなかったな」と思ったのです。 

 

ケナーでもこう言った教訓から、僕は教えられたのです。物事は見た目と中身を一緒だと思うな。諺に例えるなら、「本は読んでみなければ中身は分からない」というやつです。人生は決して通り一遍などではありません。なぜなら僕がいた町内の、あらゆる混乱のその中には、実に多くの物語が存在していたのです。必死に家族の面倒を見る人々、仕事を頑張る人々、恋に落ちる人々、失恋に苦しむ人々。全ては、この、ガイドレール付きの線路とアメリカ最大のミシシッピ川に挟まれて、中心都市ニューオーリンズから35分離れたこの町で、1966年から1973年にかけて起きていたことでした。 

 

ここでの生活が教えてくれたこと、それは、世の中を見る時は、自分とその周りで起きていることを、それらの持つ背景やいきさつと一緒に考える、ということでした。物事の皮肉な有様や不条理さ、社会の序列の中での黒人の人々の置かれている地位、全てのことについて、その大切さや表に現れない「含み」といったものを、必ず頭に置いて、目の前で、見聞きし感じている物事を捉える。この時正しいとか間違えているとかいう尺度では、不十分なのです。 

 

ジャズについても同じことが言えます。物事は全体を捉えて見るべきだ、ということであり、正しいとか間違えているとかいう見方ではいけないのです。ブルースがその極意で語るように、ジャズは、物事の有りのままを表現する、ということなのです。 

 

そういった理由から、僕が後進の指導に当たる時、真っ先に問うのが「この子たちは人生に対する幅広い理解が出来ているか?」(こういう「理解」の力は、聴く力を伸ばします)。次の「その『理解』を楽器のサウンドに乗せて表現できるか?」なのです。サウンドは、その「理解」という情報が流れるための水路です。知性、共感、あるいは無知、その他何でもサウンドに乗せて伝えることが出来ます。若い人達にとってサウンドを磨いてゆくことは、殊の外難しいかもしれません。というのも、「サウンドに乗せて伝える」という行為に欠かせないのが、伝える相手、すなわち聴き手です。彼らは伝える内容をちゃんと聴きとってゆきます。ジャズは人間の本音を聴き取ってしまう能力を研ぎ澄ましてくれます。ミュージシャン達が言う処の「ウソ発見器」であり、伝えることが本当かウソかを知ることが出来ます。 

 

ルイ・アームストロングチャーリー・パーカー、あるいはリー・モーガンの様なミュージシャン達の、人目を引くようなサウンドは、一見に派手に思われるかもしれません。しかし彼らのサウンドは、離婚、恐怖、裏切りや死といった、物事の冷たく辛い現実を含むこともあることから、派手さだけではなく奥ゆかしさもあるのです。彼らのサウンドの核心にあるものは、孤独でさみしい「人生なんてそんなもんさ」的な感覚です。それは人間の在り様についての、誰もが逃れられない、基盤となる現実なのです。年配の方達が教会で言う、沢山の神の祝福の言葉に続く、重く、的を射た、まとめの一言「告白します、牧師様、告白します」。優れたミュージシャンの持つ、物事を見通す力というものは、皆さんの魂を高揚させ、心の視野を広げてくれます。丁度それは、すぐれた牧師が、神様の知恵を詩的に言い表すことで人々に希望を与えるやり方と同じです。 

 

音楽で成功するかどうかは、多くの分野でもそうですが、自分の才能の至らないところをキチンと表明する意思があるかどうかにかかっています。あのチャーリー・パーカーでさえ、練習に多くの時間を費やしました。例えば皆さんが、リズム感の全くない人だとしましょう。リズムを演奏するということは、周りとの調和を保てるかどうかに尽きます。なので、時間を見ては自分で体を動かして踊ってみて、リズムを刻み続けるようになることが、一番の練習方法です。聴音がダメ、という人もいるでしょう。「自分は音痴だ」と言う人が沢山いますが、そんな人達でも言葉を話す時には、メロディのようにちゃんと抑揚がついているものです。本当に音痴な人なら、話し方も一本調子になるはずです。他にも、自分は歌や楽器が出来ません、とさけている人というものは、- そういった意味では、歌も楽器も聴かない、という人も同じですが - 心に表現したいものが浮かばないと思い込んでいるようです。理論的には考えられるのでしょうが、本当にそのようなことが有り得るのでしょうか。人は誰でも、他人と分かちあえる、その人ならではの大切なことを何かしら持っているものです。少なくとも僕が出会った人は皆そうです。 

 

ジャズの音楽ライターの人達というものは、彼ら自身の複雑な事情であったり、悪評ネタの方が、より面白おかしくなることもあったりして、昔はよくミュージシャンの生きざまに関して否定的なことばかりを書き続けていたものでした。ミュージシャン達の方も、それに乗せられてしまい、自らを超人的にタフだと思わせたくて仕方がなかったのです。本当にそういう人達もいましたが、大半は弱い存在でした。ライターの人達はとんでもないことをしてくれたもので、様々な型にはめてしまうことで、黒人の本当の生き様を分からなくしてしまったのです。「ジェリー・スプリンガー」のようなテレビのワイドショーのおかげで、ようやく世間一般に明らかになったことは、無知無学だの、狂った行為だの、というものは、何も黒人に限ったことではない、ということでした。ジャズと黒人は病気を表す言葉、として定義され、その実態を描く唯一のものがブルースの歌詞であるかのように思われてしまっています。酷い仕打ちを受けた、治安の悪い街角で育った、アル中、ドラッグ中毒、何かにつけてもろい存在。実際、辛さ苦しさというものは重要です。殊、キチンと取り組む姿勢を示すのなら尚更です。しかし楽器を通して伝える人の世の出来事には、他にももっと沢山価値あるものが存在するのです。例えば、人間なら誰しもが同じであろう、今までの記憶の奥深い所にある、自分にとっての「生きること」の意味だとか、身の回りの人達が愛おしむ音楽やその他芸術活動のことだとか、そういったものがあるのです。 

 

アメリカの音楽やダンスに関する知識がほとんどなくて、苦労している若手ミュージシャンが沢山います。教育体制が良くないことも原因の一部ですが、大半は関心のなさが原因です。音楽に関する知識が無かったり、他の人と一緒に演奏した経験が無かったり、他の人の演奏を耳にしたことが無かったり、あるいは自分の身の回りにいる人達が、誰も演奏を聴くなど考えもしない(自分が演奏するなど論外)ようなところの真っ只中に居たりするわけです。でもそのような環境にいたとしても、録音された音楽ならいつで手に入りますパソコンを使えばいいわけですし、パソコンが無ければ友人や先生など持っている人がいるはずです。自分とその周囲がどんな状態であったとしても、文化や芸術、そして自分自身を知りたいと本当に思うなら、情報の扉へはいつでもアクセスできるのです。 

 

こういう話をしていると、先祖のルーツを探している人達のようですが、アメリカの音楽やダンスと言った誰もが知っているこの芸術の遺産は、探すまでもなく人目の付くところにあるものです。その存在に気付かないだけのことです。自分のことを理解し学ぶことから身を遠ざけたくせに、自国の外に目を向けてしまい、聴いてもほとんどわからないような音楽の中に自分のことを理解し学ぶ鍵を見出そうとするなど、面白おかしいでしょうが、上手く行くやり方ではありません。 

 

アメリカは、様々な民族・宗教・文化が一つになった所ですが、スウィングは「みんなのリズム」であり、ブルースは「みんなの歌」といえます。これらを学ぶことは、すなわち自分のことを理解し学ぶことにつながるのです。 

 

自分のことをキチンと理解していないおかげで、まともな演奏が出来ていないでいるミュージシャンが実に多くいます。自分以外の人や物事のせいで、自分はまともに演奏できないと思い込んでいるのです。当然のことながら、自分が何をやっても出来ない時には、数え切れない程の理由がそこにはあるのが常です。十分な教育を受けてこなかったからかもしれない。白だの茶色だの肌の色のせいかもしれない。信仰している宗教のせいかもしれない。職場の同僚からのプレッシャーのせいかもしれない。親のせいかもしれない。演奏し始めたときに誰かに笑われたからかもしれない。 

 

人間誰しもが戦うべき相手がいます。根も葉もない噂と、押し付けられたイメージです。例えばの話、自分が家族の中で成長してゆくにつれて、誰かがその人の叔父のロバートのことを思い出すなどと、自分に言出だし始めたとします。つまり「このガキ、俺の叔父さんのロバートに本当によく似ているよ。遅刻ばっかりするし、成績はヒドイし。」自分が生まれるずっと前に、ロバートがやらかしたことを論ってゆくわけです。実際は自分とロバートは別個の人間なのに、似ている人だと信じ始めてしまうのです。他にも、自分の顔立ちや能力のことを悪く言ってくる人がいます。あるいは、お前は立派な人間にならなくてはいけないんだ、と言って、自分がどんなに成果を挙げても更に要求を上乗せしてくる人がいます。自分に向かって腹を立てている人がいるから理由を聞いてみたら、自分の父親のことをその人は嫌っていて、顔を見ると思い出すから、などと言う人がいます。その人の言っていることは、自分とは全く関係がないのに、だんだんそれを気にして生きていかなければならないと思い始めてしまうのです。勇気をもって自分を見つめ直しましょう。「ちょっと待てよ。自分はそのクソのロバートとは何の関係もないだろうが!」とね。 

 

学校では、いじめに遭っていると、ひたすら蔑まれて苦しい思いをすることになります。逆にチヤホヤされていると、周りからのプレッシャーから、本来なら控え目な性格なのに目立たないといけなくなってしまう。こうなると役者さんのようになってきます。上手く演じ切っていると、そのうち本当の自分の姿を忘れていってしまうわけですが、やがては悲惨な、あるいは極端な状況が起きた時に、本当の自分の姿と向き合わねばならなくなるのです。ありのままの自分を好きでいいんだ、ということを、ジャズは教えてくれます。自分らしさを保って上手くやってゆく方法を、ジャズは沢山教えてくれます。皆素晴らしく、そしてそれぞれスタイルの異なるピアノ奏者達をここに紹介しましょう。これをっ見て頂ければ、音楽には全ての人々のために何かしら用意されている、ということがお分かりいただけると思います。デューク・エリントン(ロマンチック)、カウント・ベイシー(スリム)、アート・テイタム(完璧)、ファッツ・ウォーラー(楽しい)、テロニアス・モンク(異次元)、ホレイス・シルバー(ソウルフル)、ビル・エヴァンス(内向き)、ビル・チャーラップ(明快)、サイラス・チェスナット(喜び満載)。自分を結び付けるものがあるスタイルの音楽との出会いは、友人が出来たような気分になれるのです。家族がなくなったしまったり、あるいは辛い別れがあったりすると、年配の人達などはよくこう言ったものです「彼らの傍にいてやるんだ」それは、言葉は要らない、寄り添うのみ、という意味です。皆さんもテロニアス・モンクに寄り添ってみてください。 

 

演奏は、人の本当の姿をさらけ出すものです。辛抱の効かない人は音にそれが出ます。待つことが出来ないのです。のんびりしていてテキパキと考えを巡らせない人の音は、誰もが聞いてそれと分かります。シャイで自分を表現するのが苦手だという人は、折角の良い考えが音になって出てこなかったり、それを埋め合わせようと力んだ演奏になってしまったりします。自己中心的な人は、他の人と息を合わせて演奏はできません。皆に合わせてもらうか、皆にねじ伏せられてしまうか、どちらかです。確かにそうやって演奏活動を続けてゆくこともできるでしょうが、そんな人と演奏するのは楽しくない - 特にドラム奏者がそのような人では - ものです。 

 

ジャズでは、プレーヤーの弱点を逆手にとって新たにモノを創り出したりします。ドラム奏者のトニー・ウィリアムスは、スウィングが浮ついてしまうのを補おうと、いくつかのテクニックを掘り起こしてゆきました。サクソフォン奏者のジョー・ヘンダーソンは、音量が出ない分、サウンドのテンションを高めてゆきました。ベース奏者のチャールス・ミンガスは、合奏用の編曲法を知らなかったこともあり、バンド全体で一斉に行うインプロバイゼーションを前面に押し出す方法を編み出してゆきました。 

 

勿論、優れたミュージシャンと呼ばれる人達の中には、このように問題対処をしない人達もいます。でも対処する人達は、聴き手のインスピレーションをかき立て、自らの欠点が固定化してしまうのを克服するクリエイティブな方法を、次々と生み出すことが出来ているのです。「必要は発明の母」とは、ジャズのことです。ジャズは、瞬間対応力を求めてきます。気のゆるみは禁物です。ジョン・コルトレーンの「レゾルーション」の録音を聴いてみましょう。演奏の冒頭、リズムセクションがつまずいてしまい、バンド全体が空中分解しそうになります。でも演奏を止めずアンサンブルを立て直し、録音を続けた結果、ジャズの歴史上最もスウィングの効いた作品の一つとなったのです。物事はくじけずやり通せ、と教えてくれる一枚です。 

 

ジャズミュージシャンにとって最優先の課題は、自分自身のサウンドを創り。自分のモノにすること。しかし人間の自然な性は、既に知られているモノや流行のモノを真似することに在ります。誰にも似ていない、として非難された最初の人は、レスター・ヤングではないかと思われます。彼がキャリアをスタートしたのが1920年代の終わり頃。当時テナーサックスを吹く人が皆こぞってモノにしようとした、音量も態度もデカい音の持ち主はコールマン・ホーキンスでした。レスターが自分の音を手にする、ということではなかったのです。我が道を行くレスターは、コテコテの、それでいて羽のように軽やかなスウィングを効かせ、その後の非難を切り抜けてゆきました。事実、自分らしさを表現することは彼のもっとも大切にしている所です。「自分だけの歌を歌えるようになってからアンサンブルに加わろう」です。 

 

レスターと同じ頃、ロイ・エルドリッジが頭角を現してきます。当時トランペットを吹く人は、皆こぞってサッチモの吹き方をモノにしようとしていました。そこでエルドリッジが作り上げた演奏スタイルに採り入れられたのが、サクソフォンのようにメロディックな旋律、熱のこもった唸るような音、そして熱く激しくとてつもない高い音域の音、これらによって「ロイ・エルドリッジは、ずっとこれで行きます」と宣言したのです。トニー・ウィリアムスから僕が聞いた話によれば、彼は自分自身のドラムスのスタイルを創り上げるために、他のドラム奏者達の特徴的なフレーズや奏法テクニックを身につけていったそうです。そうすることによって、それらを自分の演奏スタイルに、「採り入れないで済む」ようにした、とのこと。 

 

僕達は仕事でもプライベートでも、自分の関わっていることについて、常に何らかの競争だの比較だのを、実際に存在する人や仮想の相手と繰り広げています。意識している場合もあれば、自分では気付かないでいる場合もあります。ジャズの世界では、基準となるものが非常に高いので、多くの人が過去の演奏のことは頭から外してしまうことが、どちらかというと見受けられます。テイタム、バード、プレス、ポップス・・・「コラ!私の名前が無いぞ!」なんて、天から声がしてきそうですが・・・ 

 

楽器を演奏する上での技術的な克服課題を列挙する、和声と和声進行を聴く力をつける、他のプレーヤーの演奏に支障なく反応できるようになる、シンコペーションリズムを身に付けるある程度の量のメロディを覚える、そして音楽という言葉で会話をどんどん広げてゆく、つまり、インプロバイゼーションが出来るようになる - こういったことは全て多くの時間を費やすものです。そしてひとたびこれらを身に付けたら、成功への次のステップとして、これらの自分だけのスタイルを手に入れなければいけません。そして、まさにこれこそ、長い道のりとなるものです。それは時間がかかるというだけではなく、良く深く考える、といったことも同時に自覚すべきです。 

 

そして、この「ちょっとばっかり」長い道のりを終えたら、強い気持ちを自分の心の中に見出し、その気持ちで打ち込むことにより、皆が理解できるとはいかないかもしれない「音の言葉」を発信する、自分だけの方法を創り続けるのです。自分の我慢と本気が試されます。これは子育てと似ているところがあります。うんと楽しくしようと思えば、小学生になったら、パソコンの前に座らせておく、高校生になったら、友達と外で夜遅くまで遊ばせておく、そして大学生になったら、子供達の都合に合わせて時々顔を合わせる、これで済んでしまいますよね。でも、子育てをもっと楽しくしようと変化をつけようとするなら、時間を割いて彼らに新しいモノを紹介する。彼らの成長に合わせて継続的かつ変化のある会話を持つ。必要な時は目の上のたん瘤になる。「お前たちの為なんだよ」的な、しかし本当は自分こそに必要な矯正を加える。こういった辛いことも楽しいことも全て、長く素晴らしい経験の一部になるのです。ジャズとの旅も、演奏するにせよ聴くにせよ、多くの場面へと皆さんを誘ってくれます。もとより音楽の持つ「伝える力」は、誰とでも、どんな事でも、発信する手助けになるものです。「誰とでも」 - そこには皆さんの子供達も含まれます。 

 

今日、ジャズミュージシャンには、これまでなかった問題が発生しています。厳しいことに、今の時代は、ジャズに詳しい、ジャズにこだわりを持つ、あるいはミュージシャンへのチェックが厳しい、そういう人が多数派ではなくなってしまったのです。それには理由があって、クラシック以外で耳にする機会がある音楽の大半を演奏しているのは、アマチュアであったり、あるいは、それこそミュージシャンでは全くない人達 - 人間的なカリスマ性はあるかもしれないけれど演奏はほとんどできない人達なのです。本物のジャズミュージシャンなら、14,15歳で十分力をつけて、最も売れっ子の、音楽をかじった役者達がやれることはこなしてしまうでしょう。僕は文句を言っているのではなく、現象を説明しているだけですからね。今の時代大半の人が、音楽の聴き方というものを教わってきていません。そして、僕達が日々耳にする音楽に押し付けられた役割と言えば、壁紙となって、その前には「ステキ」と思わせる位のことしかしないような、売れっ子歌手や人気タレントや、「超」がつくほどの美男美女を立たせる、というものです。つまり、ミュージシャンと聴衆との関係は、変わってしまったのです。ミュージシャンが求めるのは、聴く耳を欹ててくれることで、目の前で繰り広げられる演奏の中に、心と技を感じ取ってくれる聴衆です。深い感情を表現するフレーズが、ブルースをしっかりと効かせて、人間の根っこの部分を心の中に描き出し、それが聴き手の「そうそう!」「そこまで言うか!」あるいは「もっとやれやれ!」と出会う時、それは聴衆とミュージシャンの両方にとって心が晴れる瞬間なのです。音楽の聴き手のレベルが落ちて、聴衆の頭に残るのが、短く簡単な歌詞だの、「ちょっと懐かしいな」くらいのメロディなどしかなくなってしまう時、聴衆とミュージシャンとの間のコミュニケーションに本来備わっている活発なやり取りもなくなってしまうのです。ジャズミュージシャン達は新しいモノを創り出すのが仕事であり、自分達が創り出したものによって聴き手がどう感化されたかを見て、また更に新しいモノを創り出してゆくことを望んでいます。「聴き手の感化」がない、となると、良い循環は望めません。「皆さんが演奏についてこない、となると、演奏するこちらも皆さんのことがわからない」というわけです。 

 

若手のミュージシャンの中には、コード進行に合わせて音を並べることが出来るようになることがジャズなんだ、と思い込んでいるのが、最近あまりに多いのです。彼らを教えている人達が、物事の名前を覚えれば、それを経験したのと同じだ、、と言って聞かせているのです。遥か昔のアメリカ独立戦争の時代まで遡り、そこから始まり公民権運動からベトナム戦争、そしてデジタル革命まで次々と経験し歩んできた我が国(アメリカ)の音楽が持つ意味や形式といったものは、今日の破壊されてしまったジャズや芸術の教育活動、音楽に対する批評の在り方、「ワールドミュージック」なるものを良く考えずに大事にしようとする態度、こういった風潮に対して何一つ響いておらず、そして結局のところ、世界中の演奏の場においても、影をひそめてしまっているのです。実に恥ずべきことです。なぜならアメリカ人というものは、自分達にとって最も大切な音楽を、耳にするよう促されれば、それを愛することができる国民だからです。これまでも世界中の人々が、その同じ音楽を好きになってくれて、我が国(アメリカ)の最新流行を追いかけ続けてくれているのです。例えそれが異常な物であったとしてもね。 

 

今日のジャズミュージシャンは、自分自身に対し、どこまでも誠実さを求めてゆかなければなりません。なぜなら、プロ意識や音楽家魂、洗練さや感受性といったものは、多くが求められることは決してなく、「少なくていい」とされてしまっているからです。あるいは、売れるものや何かしらウケるものが求められています。聴き手に伝わりにくい演奏表現は、演奏する側は楽しいかもしれませんが、聴き手との意思疎通を損ねてしまうものです。自分が読んでいる本の中に、訳の分からない文が長々と出てきたときの気持ちに、少し似ています。ジャズでは、最も洗練されたミュージシャンであると自負するならば、聴き手が初心者である場合、彼等のとコミュニケーションは大いに腕が試されることだと自覚すべきなのです。 

 

「頭のいい人にはついてゆけない」と思われてしまっては、何にもなりません。自分の演奏する音楽に慣れ親しんでいない聴衆と心を通わせようと思わないなら、芸術性を磨く上で不可欠な「謙虚さ」から遠ざかってゆくことになるでしょう。 

 

音楽は目に見えないものを扱う芸術ですから、何が人の心を動かすのかを知ろうとしても、それは不可能というものです。人はお互いの外見を確認し合うことは容易にできます。しかし人生の大半は、人の内面こそが重要です。それは目に見えないものであり、だからこそ、他人がどのように人生の経験を受けとめてきかたは、分かる人などいないのです。あまりに根深く、あまりに多岐に亘るものです。こういった人それぞれの、常に変化し続ける生き様を表現することは、文字や言葉では不可能です。音楽ならば、人の意識の奥深くて見えない所も、そして人の意識を超越したところも、遥かに明快に表現できます。音楽は人の内面に在るものを表に出す、つまり、、皆さんの心の中が現れてくるのです。 

 

男女がいて、それを見ている皆さんが「あの娘、あの男をどう思っている?」と理解に苦しむことがありますよね。確かに理解に苦しみますし、一生解らないでしょう。その2人の間に芽生え通じ合う思いなど、知る由もありませんからね。 

 

人の心はとてつもなく奥深いものです。ディジー・ガレスピーが僕にかつて言った言葉です「あのな、チャーリー・パーカーってのはな、時々深い音を吹く。深ーい音をな。」僕にはディジーの言いたいことが理解できました。「深い」というのは、生きている人間の性質に対して、チャーリー・パーカーが知っていることや気付いていることに対するものです。彼が吹き鳴らすのは単なる音符ではない、とディジーは続けます。「録音じゃ聞こえないよ。そこに居合わせなとな。チャーリーが音を吹き鳴らして、それが君の体の中を駆け抜けるのさ。」 

 

こういった音は、人の心と共鳴するものです。その音が運ぶ、人に対して共感的なバイブレーション(振動)が、聴く人をこう言わせるのです「あぁ、私もそんな気分だ」「そうか?そうだよな・・・」これこそが、僕達大人が子供達に対し、ジャズにしろ何にしろ彼らが努力する上で教えなければならないことであり、僕達自身も取り組むべきことなのです。 

 

こういった人の心と共鳴する音というものは、滅多に「聞ける」ものではありません。故に、「聴く」価値があるのです。僕はベティ・カーターのこういった歌声をある晩耳にしたことが有ります。素晴らしかったですよ。まだ他にもあります。偉大なアルトサック奏者のヴェス・アンダーソン、通称「優しいお父さん」は、こういった演奏で世界中のクラブで聴衆から狂喜の歓声を受けているのです。マーカス・ロバーツがピアノで一発音を鳴らせば、「キターっ」となりますし、オーネット・コールマンもそうです。僕がある晩彼の家に立ち寄ると、皆で朝の4時までずっとセッションをし続けました。彼の弾いていた音は、それ自体が云々というよりも、その音によって運ばれる彼の感じていることや理解していることそのものであり、聴く人にも同じ感覚や理解を心に抱かせてしまうのです。 

 

ジャズミュージシャン達の演奏で、皆んさんの人生に変化が起こることもあるでしょう。彼らの織り成す音の数々は、自分自身や他人を理解し受け入れる後押しとなるでしょう。また好き勝手に叫んだり、悲鳴を上げたり、泣いたりもします。そしてこれが楽しいのです。小さい子供達が可愛らしく見えるのに、何となく共通するものがあります。彼らはギャーギャーわめいたり泣いたりして、こちらも頭がおかしくなりそうになりますが、あまりにも気ままに、そして大抵は芝居っ気など全くなく、本気で感情をむき出しにしてくる分、かえって可愛らしく思えてしまうものです。演奏は、セックスよりも楽しいかもしれませんよ、真面目な話。上手な人とセッションすると、いつまでも続けたくなります。長くて下手なソロがやたらと多いのは、このためです。スッキリ吐き出した、と言わんばかりの行為です。率直で本能の赴くままのコミュニケーションであり、自分も相手も、やりたいようにやり、言いたいように言うことができるのです。 

 

この時、あらゆるものが一気に押し寄せてくることがあります。ジャズとは、列車の様なもので、この列車は常に自分に向かって遠い未来から走り寄ってきます。遠くから何か聞こえたな、と思った次の瞬間、だんだんと近づいてきて、こちらも準備を整えます。列車が到着すると、今度は自分が、その遠くで聞こえていたものを受けて演奏するのです。自分が演奏し始めると、その機をちゃんと見て取った共演者が傍にいてくれたなら、それはもう・・・最高ですよ。 

 

皆さんが話をしている時、一つの考えに向かってキチンと進んでいくにはどうしたらいいか、ということを考えたことはありますか?音楽の場合、時間の区切りが明確に幾つも引かれていますから、その中で一つの考えに向かってキチンと進んでゆくことが強いられます。スポーツで記録を達成する過程とよく似ています。目標に辿りつこうとして、目の前のあらゆる障害がある中で、圏内に入っていなければならないので、時間内に辿りつこうと、あの手この手でパフォーマンスを見事に決めるのです。「もう間に合わないぞ」がいつも続いているという、時間はプレッシャーとなる存在です。 

 

更に、リズムに従いハーモニーの壁を乗り越えて、時には狙った時間ピッタリに、時には決められた時間内に、演奏をやり切って行くという、音楽面での競技能力に加えて、表現する考えやサウンドについては、心の根底と表面に出てくる感情の両方に於いて、包括的な成熟さが必要です。そしてその境地に辿りついた時こそ「やったぜ、これだ!」という被服の時間なのです。そうなったら後は、手にした音やフレーズを然るべき方法で存分に使いまくって行くという、他では味わえない幸福感に浸ってください。そのうち誰かが自分と一緒にそれを耳にすると、その人が更にその表現を発展させて、居合わせた人全員がそれを耳にしてシンクロしてゆきます。結果、せかせかと演奏するのがもったいなくなって、ひたすらそこで繰り広げられる、織りなされた音とそれが響かすサウンド、そこに表現される思い、その瞬間・・・それがひたすら膨らみ、そして歓喜に至るのです。 

 

聴く人達も歓喜の笑顔に包まれてゆきます。僕はこれまでこう言った光景を、何度も繰り返し、国内(アメリカ)で、そして世界中で見てきました。 

 

深夜2時15分、街頭に人々が並んでいます。終日小雨が降った日があったため、何とか曇り空で踏みとどまったこの夜に、本番が開催されることになったのです。3回目の公演開始が遅れています。並んでいる人達は夜露で服が湿っぽくなり、少し苛立っていますが、まだ我慢できています。もうすぐ大好きなジャズグループのサウンドに浸って、待ちに待った心の満足が得られる、と思えばこそです。 

 

彼らが開場を待ち並んでいるのは、地元のクラブ。アメリカ全土にある数多くの小さな音楽のメッカの一つです。近所の常連客と一緒に混じって並んでいるのは、近くの大学に通う学生達。彼らは友達にカッコいい所を見せて、ドヤ顔できるチャンスを、今夜やっと得たのです。ジャズを楽しもうと企画された日本人ツアーの客の一団もいます。英語でドリンクをオーダーするのは大変ですが、開演時刻はちゃんと心得ています。 

 

このクラブは出来て25年が経ちます。オーナーは筋金入りのジャズ愛好家で、奥さんの熱意に賛同し、私財をつぎ込み、酒の販売許可に際しての様々な面倒に耐え、音楽がうるさいだのドラムはもっとうるさいだのと近所の苦情に対応し、ホームレスが関係者を装って店の外でせっせと客からお金をめぐんでもらうのに悩まされてきました。 

 

ようやく開場となり、人々は中へと吸い込まれてゆきます。中は明るく、座席は大体135人収容位、壁に飾られている肖像は名プレーヤー達、それも様々なキャリアステージのもの(駆け出しの頃、全盛期のもの、晩年の姿など)、もう亡くなっている人達もいれば、多くは随分昔に流行った髪型のモノばかり。今晩聞けるであろう演奏よりは、多分はるかに上手な演奏のテープが、これでもかという音量でかかっています。 

 

常連客達の何人かは、後方のカウンターへと向かい、リキュールの量が極端に薄く作ってあるカクテルを注文し、出来るだけ長時間かけてチビチビやろうという処。残りの客達は込み入ったテーブルをかき分けて、なるべくステージに近い席を取ろうとしています。テーブル同士の距離は、お互い殆どくっつきそうなくらいで、座ってみると、知らない人同士で夕食の卓を囲んでいるようです - それも間近で。日本人観光客達は、どうやら壁際の長椅子を陣取ったようです。演奏開始が遅れているうちに、時差ボケで眠くなりそうになったら、寄りかかってくつろごうというのでしょう。 

 

出演メンバーがやきもきしながら待機しています。彼らのお気に入りのこのクラブは、確実に本番を組んでくれるので、メンバー全員昼間の堅気の仕事をしなくて済んでいるのです。彼らはこの小さな空間の距離の近さが大好きで、店のスタッフさん達全員と、そして常連客達の多くと、仲良く親しくしています。ところで今夜は、まだ演奏開始とはいかないのです。ベース奏者の姿が見えません。彼はこの直前のステージが終わると、電話をかけに行ってしまい、いまだ戻ってきていませんでした(おかしなことに、ベース奏者かドラム奏者のどちらかが、決まっていつも遅れるのです。演奏中はタイム(テンポ)キープの最高責任者の二人も、一旦演奏から離れると「タイムキープ」とはいかないようです)。 

 

メンバー達はクラブのスタッフとタニマチ連中へのサプライズにと、新作を練ってきていたのです。ミュージシャンにとって最高の褒め言葉、それは普段から演奏を聞いてくれている人にこう言われることです「皆今夜はノリノリだったね!あの新曲が良かった。どこから持ってきたの、あの曲?皆かなり入れ込んでいるようだったけど?」。メンバー達は、これを聞いた店のバーテンさんやスタッフさん達が、店の外で演奏のことを宣伝して欲しいな、と思っているのです「ねえ、うちのクラブに来てあいつらの演奏聴いてごらんよ」とね。 

 

宣伝する相手が、若い女子大生達で、フラッとジャズクラブだと知らずにやって来たりなんかすると、スタッフ達も一層熱が入ります。 

 

それはそうでしょう、メンバー達にとっても演奏の気合いの入り方が違います。 

 

ベース奏者がノロノロと戻ってきたようです。メンバー全員の登場です。スピーカーの音楽は止み、照明が落されます。 

 

他にも色々手頃な娯楽がある中で、人々はなぜここへやって来るのでしょうか? 

 

彼らは知っているのです。一旦バンドの演奏が幕を開ければ、そこからの1時間15分は、一人残らず皆が、ミュージシャン達もウェイトレス達も、これに染まってハマった連中が一つになり、そう、最も可能な限りピュアな言い方をすれば「仲間」となって、「私」ではなく「私達」になることを選んだことになるのです。ここからは、演奏する側と聴く側との両方に、難しい課題が待ち受けています。会話をしていて話題に対するお互いの興味がかみ合わないことが有りますが、それと同じレベルで、自分の視点とは全くかみ合わないものが演奏に込められています。そんな時は、頭を柔らかくして対応し、お互いイーブンなギブアンドテイクを心掛けることです。スウィングはこれを人々に求めてきます。だからこそジャズは素晴らしく、それだけに、素晴らしいジャズほど理解するのが難しいのです。 

 

今日は1年で最後の、学校での大きなダンスパーティーの日です。皆ここまで何週間も前から、自分の彼氏/彼女と予定を調整してきています。卒業生も在校生も、チケットの応募があまりにすごくて、これを収容すべくキャンパス内に大きな臨時のテントが建てられました。この日は、若い世代の経験に、と、新企画が用意されています。いつもと違い、大音量過ぎて音楽がわけわからんだの、真っ暗すぎて連れの顔が見えないだの、酔っ払い過ぎて覚えていない(思い出せない)だの、といった学生の土曜の晩のイベントとはならないようです。ビッグバンドが来ていて、今夜が初お披露目みたいな顔をしてスウィング 

の定番曲を次々と演奏することになっています。おじいさん・おばあさんは、今夜は思い出辿るぞ!と準備万端。お父さん・お母さんは、今日は面倒くさくなくて良い!とご機嫌。そしてジョニーとジェーンは、今アメリカ全土の高校で大流行のレトロイベントに備えて、スウィングダンスの特訓を続けてきました。ベテラン組は「粋」を心得ていますので、今更、かつて自分達の時代に流行ったズートスーツだの幅広ネクタイ(スキー板並の!)だので決めていこうなんて考えはしません。今宵は自分達がノスタルジアもどきに浸る日ではないのです。最高のアメリカの音楽に乗って、ダンスをする素晴らしい機会であり、若い連中にとっては、その大切な初体験の日なのです。 

 

さて、バンドがミディアムテンポの曲、次々とスウィングを効かせて演奏し始めました。優雅でロマンチックな二人の連係プレーは、スウィングの神髄、成熟した大人のテリトリーであり、若い世代にはかなり見慣れない世界です。若い世代にとってお馴染みなのは、クラブで行われている自己陶酔するようなエアロビクスみたいなダンススタイルだったり、かつてダンスフロアで主役だったちーくみたいなものに取って代わってしまった、エロく下半身をくねらすダンススタイル(ジュビナイルの「Back That Ass Up」のような)だったりするのです。 

 

ここでガラッと、バンドが優しいバラードを演奏し始めました。丁度その時を示し合わせたかのように、若い子達は脇によけて、代わりに円を描いて囲んだのが、おじいさん・おばあさん達。彼らが頑固に守り抜くロマンスの表現は、どこまでもエレガントでソウルフルで愛に満ち溢れていて、若い子達の心を釘付けにしてしまいます。年寄が若者に、男/女の扱い方を教えるなんて、アメリカのどこにも見られないでしょう。またしても、ジャズの力が見せつけられたのです。昔から受け継がれる、導く力がこの音楽にはあって、それがあらゆる世代の人々をジャズが表現する感情の世界へと誘うのです。ジャズには「対象者」などなく、「高齢者限定」なんてレーベルもありません。現在地球上で最も年齢差別が激しい国において、ジャズは、誰もが年齢に関係なくスウィングを楽しめることを示しています。その神秘的な力によって、自分の過去・現在・そしてなりたい未来の姿を思い描かせてくれます。今の時代、この音楽のサクセスストーリーが埋もれて日の目を見ない、となると、今のアメリカの日常生活は、何とも貧弱な姿になってしまいます。 

 

僕が高校を卒業する年のプロムの夜(ダンスパーティー)の話です。その夜はニューオーリンズにある、フェアモントホテルのブルールームで、ライオネルハンプトンオーケストラと一緒に演奏しました。後から分かったのですが、その時トランペットセクションの中で僕の隣の席に座っていたのが、ジミー・マックスウェルだったのです。1932年、彼が高校の卒業年次生だった時に、彼はカリフォルニア州ストックトンでギル・エバンスが最初に結成したバンドで吹き、その後ベニー・グッドマン」の楽団でリードトランペットを務めています。僕が彼と一緒に吹かせてもらったその夜、彼は僕に楽器スタンドをくれて、様々な助言や励まし、そして幸運を祈るとの言葉までもらったのです。彼が、あのジミー・マックスウェルとも知らずにね。 

 

ここで少し、ジャズを通して繋がってゆく、アメリカ人が大事にすべきだと僕が考える、世代間の結びつきについて、踏み込んで話をしようと思います。僕はニューオーリンズセンターという芸術学校でジャズとクラシックの両方を学びました。当時、ミルト・ヒントンという偉大なベース奏者が、僕達の学校で授業を持っていました。彼は10代の頃、シカゴの北側にあるハルハウスコミュニティーセンターで、バイオリンの授業を受けていたのです。当時ベニー・グッドマンが同じ学校絵クラリネットのレッスンを受けていたのが、シカゴ交響楽団の首席奏者。その人は肌の色に関係なく弟子に取ることで有名で、丁度同じく僕のトランペットの先生であるジョージ・ジャンセンも、ニューオーリンズで唯一、1950年代や60年代というあの時代に、黒人も白人も分け隔てなく弟子に取ることで有名でした。さて、こうしてベニー・グッドマンも僕も同じような修行の道を辿り、二人ともクラシックとジャズの両方を演奏するわけですが、1980年代初頭、モートン・グールドの記念式典で僕が彼と会った時、僕は人種や世代について何もわかっていなかったことが原因で、彼が何者なのか、そして彼の与えた現代の音楽への足跡について、全く理解していなかったのです。 

 

今日は春らしい素晴らしい天気です。もっとも日差しが強くて、春というよりは夏の陽気になっています。ピクニック広場には何千人もの人々が、帽子をかぶってサングラスをかけ、クーラーボックスには飲み物が満載、もっともアルコールがその内どの位かは、それぞれあるようです。子供達は、そこかしこで走り回ったりボールを蹴ってみたり、彼らはとにかく外へお出かけの度に、どうでもいいことでテンションを上げてくるものです。フライドチキンやハムサンド、ただこの場に花柄付きで短めのコットンドレスなんか着ているのを見ると、ちょっとイラッとします。ここに広まっている雑多な騒音は、これからここで演奏することになっているミュージシャン達とは、ほとんど関係がないように見えます。これは「ジャズフェスティバル」と銘打ってあるのですが、大半のバンドが演奏するのはジャズではありません。ファンク、サルサ、延々即興演奏をするインドのタブラドラムのグループ、でも彼らの中に、かつてこのフェスティバルが主役にと意図した、ジャズを演奏する団体もいるはずです。 

 

このフェスティバルを支えているのは、複雑な活動組織となっている複数の企業によるスポンサー達です。彼らはジャズには関心が無いのかもしれません。そういった意味では、どんな芸術活動にも関心がないのかもしれません。彼らが関心を寄せているのは、どれだけ多くの人々がやってきて、ステージの上に大きく掲げてある横帯幕に書かれた会社のロゴをみてくれるだろう、ということでした。このフェスティバルのディレクターは、本当のジャズ愛好家ですが、まずは集まった人達を楽しませるのが仕事です。過去30年間このフェスティバルをプロデュースしてきた彼は、今日ジャズに対しての人々の好みが減退してしまったり、ジャズにはスタート呼ぶべき人達が足りない、ということを悲哀を帯びて語ったかと思えば、今度は熱を帯びて語るのが、フェスティバルが財政面では右肩上がりだ、それも自分が大好きな音楽を外してから(ジャズ)、というものでした。 

 

こんなことでは、お客さん達がスウィングの効いた音楽で盛り上がると想像し難い、と思いました。何せ、ラジオが一日中広告塔のように流すのは、バックビート系の音楽、テレビを独占してしまっているのは、グロテスクで、目が回る早口で、今風のミンストレル(コントショー)を行う、ラップのグループや、女の子達のグループ(美人で歌はやらないけれどヘソ出しは完璧)ですからね。自称「専門家」達が、ジャズ雑誌で次々記事にするのは、今は亡くなった「本物」のジャズの細かな描写、それからカン高くキーキーいうようなテナーサクソフォンや、ベースによる無限のオスティナート(リフ)、1920年代のヨーロッパアバンギャルドを他の追随を許さないとか言うインプロバイズを加えたインチキまがいのモノなのです。 

 

ところがです。5時になると、あるバンドがブルースを演奏し始め、お客さん達はジワジワとスウィングの力によって盛り上がり始めたののです。皆が熱狂し、歓声を上げ、手拍子をし、それがソリスト達のインスピレーションを更に高いレベルにまで掻き立てます。残念ながらこの出来事は、翌日の新聞・ラジオ・テレビどこにも扱っていません。しかし僕達は、目の当たりにしたのです。あの場に居合わせた人達は、この夕べのことをきっと思い出すことでしょう。そしてこれは、また起きるでしょう。僕はそう確信しています。 

 

8月、ニューオーリンズ。現職の市長さんが亡くなりました。生前彼は、ジャズ葬を望んでいました。といっても「昔ながらのやり方にこだわって」ではなく、「普通に月並みにやってくれればいい」というものでした。ミュージシャン達が集まります。彼らの年齢は15歳から70歳。中心部の雑踏から離れた閑静な地区。まずは、ゆっくりとした葬送音楽と聖歌。そして普段通り様々な追悼曲が演奏されてゆきます。人々が街頭に並びます。彼らはそこに流れる聖歌を知っていますし、演奏しているミュージシャン達の何人かとも面識があります。そして誰もが市長のことを知っています。 

 

演奏するミュージシャン達の意識としては、いつも通り事が運んでいる、というところです。気温は高くて暑く、音楽はゆったりと流れます。時折彼らの中から、誰に対してというわけでもなく、「ニューヨークじゃ、こんなのやらないよ」。この「ニューヨーク」が、声が上がる度に別の都市になります。例えば「サンフランシスコじゃ、こんなのやらないよ」みたいにね。 

 

市長のお別れのミサが行われる大聖堂では、独創トランペットによる、昔から伝わる聖歌「追憶」が流れます。すすり泣く人達もいれば、そこに居るだけ、という人達もいます。色々な理由で出席しなくてはいけない、という人達もそこには居ます。ミサが終わりました。ここまで演奏に携わってきたミュージシャン達が、同じ通りへと集まってくると、天高く弾むドラムやテューバの海から飛び出してきた数々の管楽器群が歌い上げる、果てなきシンコペーション、そして亡き人の御霊に捧げるボリフォニー、これらによって路上はさらにヒートアップします。 

 

人々が通りに繰り出します。そして踊り、歌うのは、彼らが生まれた時から耳にしている曲のメロディーの数々「あぁ奴は極貧者」「川辺で君と」「彼方の栄光の地に」、ジョー・エイヴリーの「セカンドライン」。皆の汗がほとばしります。皆が居る通りそのものも、汗をほとばしらせているように見えます。ミュージシャン達にとって、閉鎖された空間で聴衆を沸かせることは、たとえ天井の高い講堂のような場所でも難しいことではありません。ところが難しいのは、天井や壁のない屋外です。音は返ってこない。折角創ったエネルギーもすぐ散ってしまう。しかしこのニューオーリンズの儀式は違います。皆が、生まれた時から身に付いているお馴染のグルーヴ感を織り成して、バンドの周りで踊り、颯爽と歩き、スキップし、歌うのです。蒸し暑い空気それ自体がこういったエネルギー全てを散らさず、ずっと抱えて、圧縮し、そして沸かしてゆくことを、ひたすら続けることで屋外に居るということで更にエネルギーは熱のこもったものになってゆくのです。 

 

こういったパレードを見に、世界中から人々がニューオーリンズにやってきます。となると、こんな憶測が出たりします。市がパレードの補助をしている。こういう儀式が人々の生活の中心となると様々な学会の専門家達の特別な注目を受けている。学校で教育活動に取り入れられている、子供達が参加するバンドのコンクールが地元で開催される。アマチュアバンドが何十団体もあって、トリニダード・トバコで盛んに行われているスチールドラムバンドやブラジルのサンバを教える教育機関のように、企業や地域社会と密接な連携を取っている。ところが違うのです。扱う音楽がジャズなだけに、わずか一握りのミュージシャン達がこの音楽を維持している、それも、教育体制も行政の支援も何もない状態で、なのです。ミュージシャン達でさえ、中には、ニューオーリンズらしさであるとか、そこに息づく街の人々の幸福といったものについて、このジャズという音楽が真に洗練された姿とその重要性を、分かっていない方もいるのです。 

 

それでもなお、ジャズには頑強な部分もあり、あらゆる撲滅の試みを失敗に追いやっています。だからこそ、この土曜日の午後、市の長老達や意識の低い学校がいくつか関心を示さなかったにも拘らず、多くの若手ミュージシャン達の中で、この儀式に対する知識の無さがあったにも拘らず、葬儀はいつも通り終日行われました。そしてこの最高潮に達した盛り上がりは、人々の暮らしを潤し、死の辛さを和らげ続けるのです。 

 

僕が思うに、これこそが、この音楽を愛する人々によって受け継がれてきている最も深い秘密なのかもしれません。この音楽を演奏し苦難の月日をもがき続け、依然としてこれに人生を懸けるジャズミュージシャンである親達を見てきた彼らの子供達全員、ジャズクラブのオーナー達、ジャズのレコードコレクター達、そしてジャズを教える教師達全員、お色気たっぷりなサックスのまろやかなサウンドや、明るく澄んだトランペットの華々しい声高なサウンド、ズシズシと響くベースのサウンド、打楽器のドンガラチャカチキといったサウンド、こういったものに何らかの理由で心を囚われた若者達全員、生徒達が6時に朝練に集まってきたかと思えば夜遅くまで地元のクラブでミュージシャン達の演奏を聴いて勉強しているというバンド指導者達全員、こういった人達こそ、今も、そしてこれからもずっと、この音楽に精気を与え続けるのです。 

 

次回は、第5章を見てゆきます。 

「Moving to Higher Ground」を読む 第5回

第3章 みんなの音楽:ブルース
  
<写真脚注>
ブルースは世界のどこへ行っても耳にすることが出来ます。写真はジョー・テンパレーと言って、スコットランドが生んだ、バグパイプの次にソウルフルなサックス奏者です。彼の演奏は、ファンの郷愁を誘います(オランダでのステージの様子)。

僕はこれまで、あらゆるタイプのミュージシャン達と共演する機会を得てきています。それもあらゆる場所で:ボストンのプーズパブ、ニューオーリンズのシティパーク、ローマの古代円形闘技場シドニーのオペラハウス、共演させていただいた方達も、B.B.キング、イツァーク・パールマンソニー・ロリンズ、ウィリー・ネルソン、スティービー・ワンダー、それからフラメンコギターの大御所のパコ・デ・ルシア。共演、と言っても、事前準備なしのパフォーマンス、つまり、リハーサル時間もとらなければ、予め用意しておいた曲もなし、というものです。こういった状況の元、多彩なミュージシャン達と共演できる曲なんてあるのでしょうか?皆に共通する音楽なんてあるのでしょうか?

実はあるのです。それがブルースなのです。まるで、ブルースが生まれたのは、彼らと共演し理解し合うキッカケ作りのため、だと思いたくなります。迷ったらブルースがあります。という感じですね。

トルコで公演を行った時のことです。ある人がやってきて舞台上に上がってきました。てには何かトルコの楽器の様なものを持っていましたが、メンバーの誰も知らない楽器でした。その人は僕達に何か一曲一緒にやりませんか、と言ってきたのです。楽器を見た感じで、僕達は最初「無理」と答えました。するとその人は何曲かその楽器で演奏して見せてくれたのです。これを聞いた僕達は「ではブルースか何かやってみましょうか」と言ったのです。その人は満面の笑顔で「いいですね」と答えました。その人との共演は上手く行き、聴衆も喜んでくれました。彼らにとって昔からおなじみの音楽と僕達の音楽が上手い形でまとまって耳に届くことが出来た、というわけです。ついこの間、僕はニュージャージー州の、とある刑務所で、服役中の方達と一緒に演奏してきました。何を演奏したと思いますか?主にブルースを、ちゃんとスウィングも決まっていましたよ。

ブルースは多くのことを伝える音楽表現です。歌詞それ自体が伝える意味と、それが歌い手によって発せられる方法によって伝えられる意味というものがそれぞれあるわけです。音楽というものは常に、言外のニュアンスを伝えてくれます。ブルースの歌詞全体が悲しみを表現したものであったとしても、音楽は常にグルーブ感を帯びています。グルーブ感を帯びている、ということは、ダンスができるということであり、ダンスはいつも人々に喜びをもたらすものです。ディジー・ガレスピーがこのことを見事に言い表しています「ダンスは誰の涙も流させはしない。」これこそがブルースを理解する鍵となるものです。ブルースは喜びと悲しみを同時に心に伝えてくれるのです。

ブルースは優れた伝道者の様なものです。伝道者と言えば、物事の根底にある本質について説く人のことです。熱弁をふるい、訴えかけるように話し、丁寧に説明し、あらゆる手を尽くして皆さんに並々ならぬ決意をもって、思いを届けようとします。ブルースを演奏するミュージシャンは、楽器を使ってこれを行うのです。泣く、うめく、叫ぶ、囁く、等々、あらゆる方法で皆さんに癒しをもたらす、というわけです「。

ブルースはワクチンの様なものです。「体に悪いもの」を正しい方法で体内に注入することで、これから猛威を振るうであろうことに対処する準備をするわけです。同じことをしたのが、奴隷制度がまだ残っていた時代の黒人の親達でした。酷い仕打ちを子供達に対して、敢えて行うことにより、やがて世間で降りかかってくるであろうことに、太刀打ちできるようにしてやっているのです。

あるいは軍隊において、新兵達に対して手荒い仕打ちをすることで、実戦での過酷な環境に耐えられるようにするわけです。

スウィーツ・エジソンと話をしていた時、彼はブルースのことを、自分が耳にしたことのある音楽の中では最も悲しい音がする、と言っていました。ジョー・ウィリアムスも同じことを言っていました。ホレス・シルヴァーは、最も嬉しい音がすると言い、同じくクラーク・テリーもそう言います。ブルースは、人の思いをどんな時でも形にして見せる完璧な仕組みを持っているのです。

技術的な話をしましょう。ブルース形式は、12小節が一つのくくりで、これが一つの曲の間中何度も繰り返されます。丁度アナログ時計の二本の針が、一日中回り続けるのと同じなのです。この形式は三つの和声があることを特徴としています。三つの和声は、序盤、中盤、終盤といった具合です。更には、3回の歌唱と3回の楽器演奏による合いの手と、まるでキリスト教の聖三位一体のようですが、それがブルースです。

伝統的なブルースの歌詞を例に見てみましょう(”Crazy Blues” by Leon Redobone[1977])
丘を下り、線路に頭を横たえた
丘を下り、線路に頭を横たえた
汽車が走ってくると、クズな頭をさっと引き戻してしまった
次の図は、典型的な12小節のブルース形式をレイアウトしたものです。

 


この図、複雑そうに見えますが、基本的なコンセプトを2,3理解すると、読み取りやすくなります。カレンダーの「月」は、「日」で数えてゆきます。一か月というのは、大体30日あります。「小節」は「拍」で数えてゆきます。ブルースの典型的な一小節は4拍です。「月」が経つのと共に、地球の公転に際し季節は四つ過ぎてゆきます。四つの季節は、それぞれに三つの「月」があり、これは一年間に12か月あることと一致します。これと同じように、小節が進むとともに、ブルース形式では、和声が次々と現れてきます。三つの和声があり、それらが色々な組み合わせで三つのセクションの中に配置されます。最初のセクションでは一つ、二番目のセクションでは二つ、三番目のセクションでは三つとも、それぞれ和声が現れます。三つのセクションは、それぞれ四小節あり、これは一つのブルースのコードに12小節あることと一致します。

僕の息子のジャズパーが生まれた時、泣きながら、そして苦しそうに息をしながら、母親のお腹から出てきたわけです。看護師さん達が息子を取り上げると、体をきれいに拭いて、鼻の穴をチューブできれいに吸い取り、採血のために足に注射針を刺し、そして体のあちこち、触られたくない所を突っついたりするのです。はいよろしい、やれやれ、というわけで、息子にとってはうっとおしかったであろう一通りのことが終わり、僕の妻、つまりママの所へ戻されます。彼女は息子を思いっきり抱きしめてあげます。それがあるのが、まさにブルースなのです。

ブルースは、皆さんが悲しみに涙を流す、もっと言えば泣き叫んでいる、そして同時に
そこから自分を取り戻すことを歌い上げます。だからこそ、ブルースは人生にとって素晴らしいサウンドであるのです。ブルースは、皆さんが日々の生活で経験する極限状態を全て網羅していますが、皆さん自身が気をもんだり、自分自身を哀れに思う必要はなく、そしてより良い時が必ず来ることを約束してくれます。この究極の、前向きな物事に対する見方は、ジャズの中で息づいてきたブルースの歴史全体に一貫しています。W.C.ハンディーの「セントルイス・ブルース」、ジェリー・ロール・モートンの「デッドマンズ・ブルース」、チャーリー・パーカーの「ナウズ・ザ・タイム」、オーネット・コールマンの「ランブリング」、そしてデューク・エリントンの「ブルース・イン・オービット」

レオン・ヴィーゼルティアーが僕に言った言葉です「ブルースはアメリカの国歌であるべきだ。なぜなら、アメリカを代表する曲の実に多くが、ブルースが基になっているからだ。」僕はこの意見には賛成はします。でも、ブルースは、国境と称するものは何一つ認識にないのです。日本にはブルースと称する音楽ジャンルがあって、いくつもの曲が存在します。中国の京劇には、ブルースのような音楽素材が沢山あります。例を挙げればキリがありません。というのも、ブルースは、、世界の音楽の大半において見出すことが出来るからです。

うめき、叫び、、ユーモア溢れる脇台詞、イラッとくるような暴言など、言葉の違いに関係なく、人間の表現活動に性格を持たせるもの、それがブルースです。

東洋音楽の5音階、そして所謂「Ⅰ・Ⅳ・Ⅴ」と称される西洋音楽の三つの基本和音、これもブルースです。

「1年は12か月」のように12を一つの単位とするもの、あるいは星占いでおなじみの黄道十二宮、これもブルースです。

古代ギリシャの音階(ギリシャ旋法)で出てくる明るい音(メジャー)と暗い音(マイナー)が、同時に演奏されたり、対比をつけるために交互に演奏されたりするのも、ブルースです。

教会で賛美歌を歌う時、しめの「アーメン」と歌うときのコード進行も、ブルースです。

インドの音楽と中近東の音楽に見られる、くねるような音型のフレーズや、一つの音節にいくつもの音をあてがう「メリスマ的旋律」、アフリカ音楽の一部にみられる突き刺すような音色やイントネーション、スペインのカンテ・ホンドに見られる本場のジプシーフラメンコでの、叫ぶような歌声、教会の讃美歌、場末の売春宿での歌、農場や海岸・河岸で働く男たちの歌、ブロードウェイのショーに出てくる歌、ダリウス・ミヨーアーロン・コープランド、イーゴル・ストラビンスキーのような、自分の作品に何かしら「よりアメリカ的な」ものを加えたがったクラシック音楽の作曲家達の作品、それから「スパイダーマン」のようなアニメソングだって、どうです?これらもブルースなのです。

ブルースのルーツはアフリカにある、という人達がいます。多分そうだと思いますが、しかし、所謂「ブルース」は、やはりアメリカで誕生したものです。音楽面での技術的な要素は、全て我が国(アメリカ)で揃ったものですし、個人の自由という点で世界をリードする我が国ですから、日々の生活のこと、恋愛のこと、セックスのこと、愛情のこと、苦しみや喜びに対して感じることを、人々は気軽にストレートに表現できたのです。思い返してみてください。ブルースの基礎を築いた人々は、その多くが世界をリードする我が国の様々な自由を全ては満喫してはいなかった、ということを。だからこそ、彼らの曲に乗せて届けられる「自由」という部分は、いつだって、心からの喜びという形を取っています。この世に存在することすら否定された者達が、触れてはいけないとされているものに関わることが出来たという、心からの喜びとして、常に歌い上げられるのです。ブルースの基礎を築いた人々が、その場を去る、つまり逃げるということを好んで口にしたのは、そういった背景があったからなのです。

W.C.ハンディは、伝道師の息子でしたが、教会のしがらみから逃れようとしていました。ミシシッピ州のブルースミュージシャン達は、自由へと向かって走る北部行きの列車に押し寄せ、奴隷制の遺した因習、そして差別から逃れようとしていました。ブルースの女性アーティスト達の先駆者達が、女性達が背負わされた受身的な役割というものと決別しようとして、高らかに歌い上げたのが、自分が望まぬ形の恋愛からの解放、というやつでした。(アイダ・コックスは「ワイルド・ウーマン・ドント・ハブ・ブルース」でこれを謳歌しています)

ブルースに溢れているものは、生活、色恋、苦痛、死、愚かな振る舞い、気取った振る舞い、そういったものは悲しみと喜びが混在しているというのが現実です。だからこそ、ブルースは聴く人の心の内を根こそぎ鷲掴みにするのです。現実、とは、「ありのまま」ということです。「ありのまま」には悪魔達と天使達が同居しています。サン・ハウスは歌います「彼女が土深く永遠の眠りについてしまって、初めて、彼女を心から愛していた自分の気持ちに気付いた」。これまつまり、「彼女を失ったことにより、自分の心の深さを自覚した」ということです。W.C.ハンディの「ハガルおばさんのブルース」は、ブルースなしでは生きてゆけない敬虔な女性協会員についての歌です。ハガルおばさんは歌います「悪魔がブルースをもたらしたですって?それを言うなら、イエスが、それも迷わず私に、でしょ」。これはつまり「ブルースは邪悪なものに見えるかもしれないが、イエスは知っている、下界の私達がこれを必要としている、ということを」。全くその通りです。

ブルースは、現実の荒波という人生のハードルに備えるべく、僕達を鍛え上げてくれます。ジョン・フィリップ・スーザの音楽は確かにすばらしい。彼の作品は我が国の至宝というべきでしょう。しかしスーザが作品の中で語るのは、その視点は観念論の上に立つアメリカの偉大さとは何か、というところに置かれていることが前提となっています。僕達は国の隅々にまでわたり生い茂る雑草が如き庶民です。ブルースは言います「根っからの善人も、根っからの悪人も、人はあるがままでしかない。」人はブルースを抱きこの世に生を受け、ブルースと共にこの世を去ってゆきます。ブルースが常に傍らにあるように思えるのは、このためです。ある研究者がかつて、ニューオーリンズジャズのクラリネット奏者で、「ビッグアイ」こと、ルイス・ネルソンに、ブルースの起源はいつか?と訊ねたことがありました。これに対しネルソンは「起源なんかないさ。ずっと在る物なんだからさ。」と答えています。それからブルースと言えば、大抵、男女関係やそこでともに楽しみたいことを歌ったものが大半を占めていますが、採り上げられる題材は何でもアリ、なのです。例えは、洪水のこと(ベシー・スミスの「バック・ウォーター・ブルース」)、一文無しの悲哀(同じく「プアマンズ・ブルース」)、あるいは意地悪な上司のこと(アルバム「ウィー・インシスト!」~マックス・ローチの「フリーダム・ナウ組曲」より「ドライヴァマン」でマックス・ローチアビー・リンカーンが歌うストーリー)など。男女問わずブルースミュージシャン達は、自分の身の上話をインプロバイズしてゆきます。悲しいことや愉快なこと、現実のことや妄想のこと、下卑なことやお高くとまったこと、あるいは涙を誘うようなことでさえも、ブルースが僕達に改めて認識されてくれるのは、人生それ自体が予測不能で逃げ場のないモノの塊なんだ、ということです。今は悪い状況かもしれないけれど、必ず良くなる、あるいは本当ならもっと悪い状況になっていたかも知れない処を、この位で済んでいる。そして回復しない悪い状況などない、ということです。とにかく、レイ・チャールズの「レット・ザ・グッドタイム・ロール」(楽しい時間の始まりだ)を聴いてみてください。なぜブルースが常に傍らにあるのか、きっとお分かりいただけます。

この不滅の楽観主義(悪く言えば天下無敵の能天気)は、ブルースが非常にアメリカ的なの物である原因の一つとなっています。完全勝利はアメリカ人の大好物。ワーグナーの楽劇「神々の黄昏」のような、最悪の結末などというものは、アメリカのアートにはありえません。映画の結末と言えば、男子は女子と結ばれる、死んだと思われた登場人物達は奇跡の生還を果たす、僕達はハッピーエンディングの方が好きですよね。ブルースは約束してくれます「明日の朝になれば全て大丈夫だ」。多分、ある意味、こういう世の中に対する向き合い方は、世間知らずだと思われてしまうかもしれません。でも、ブルースには、世間知らずだとか浅薄だとかいったようなことは、一切ありません。むしろブルースは、どんな曲の内容と結論であっても、苦痛が出発点なのです。

 

 

僕はこれまでいつも、何かしらブルース形式の曲を演奏に取り入れてきています。これはニューオーリンズの住人にとっては宿命みたいなものです。僕が8歳の時初めて覚えた曲の一つが、ジョー・エイブリーの「セカンドライン」というブルースでした。高校時代ファンク系のバンドで吹いていた時も、大きなアフロヘアに厚底シューズ、みたいな、バックビートの曲で一晩盛り上がった後でさえ、「セカンドライン」を演奏したほどです。持って生まれた性の成す業であり、クレセントシティ(ニューオーリンズ)の伝統、というやつでした。でもブルースを演奏するにあたり、実際の表現の深みと言うものについては、僕達はあまり深く考えずにいました。そして、そう考えさせるような演奏を聞く機会も、あまりありませんでした。仮に考えようとしても、普段演奏したり踊ったり聞いたりしている歌謡曲のせいで、音楽に対する嗜好が出来上がってしまっていましたので、ブルースの表現の深みなど認識できるはずもなかったのです。音楽は聴き込むものではなく、上っ面を聞き流すものでした。歌詞の裏側にある意味なんて、何一つ眼中に入らないくらいですから、僕達のブルースの演奏は、大方薄っぺらな内容であり、そしてそれを聴いてくれている人達も誰一人として、折角曲自体は素晴らしい内容があっても、それが分かる人は誰一人として、いるはずがなかったのです。ブルースやジャズミュージシャンというものは、音楽の「食物連鎖」の最底辺がその居場所でした。レコードはヒットチャートに全然載らない、新鮮味も全然ない、女の子達にも全然見向きもされない代物、というわけです。

ニューオーリンズを訪れる観光客の多くのお目当てが、「昔懐かしい」演奏を聞くことであり、そして多くの年配のミュージシャン達も、時代の流れに抗って、そういった演奏に固執していたこともあり、ニューオーリンズは世界一ブルースが溢れる街となったのです。とはいえ、僕達はやはりアメリカ人です。御多分に漏れず、物事の価値を測るのは、やはりお金。14歳の時にファンク系のバンドで吹いていた時は、ダンスイベントで一晩本番をこなせば、ブルースを演奏するよりも、そしてジャズミュージシャン達がクラブで本番をこなす時よりも、僕の方が稼ぎが良かったのです。こうなると、ブルースの美的価値など考えるはずもなく、そういった意味では、他の金にならない音楽についても、同じ扱いをしていました。

僕達の仲間内でも、ジョン・コルトレーンのようなジャズミュージシャン達をリスペクトしている人達は何人かはいました(何だかんだ言っても、僕達は好きで音楽をやっていたわけですからね)。とは言え、コルトレーンの演奏を聴いても、その中にあるブルースの要素について、いかに重要であるかっは、理解していたわけではありません。サウンドに込められた精神性の深さは耳に届いても、それとブルースが結びつかないのです。彼独特のコード進行の中で繰り広げられる演奏スタイルこそ、実際インパクトがあり、スピード感や激しさ、そして音量と言った、1970年代に重要視されていた要素です。この頃の演奏スタイルと言えば、一人一人のプレーヤーが大音量で吹いてくるので、相当な技術がないと自分の音を聞き手に認知してもらえないような代物でした。本番を成功させる上では、ちゃんと音楽的なインプロバイゼーションを作り出してゆくよりも、多彩な照明やダンスステップ、それからバックコーラスと言ったものの方が、はるかに重要視されます。ソロパートは場を盛り上げることが役目であり、メッセージを伝えることではない。まるでサーカスですが、女の子達には受けが良かったのです。彼女達は、「それが本番のあるべき姿だ」と思わせてきましたし、実際その通りにしていれば、何の問題もなかったのです。

ブルースには追求すべき美学というものがあって、僕の音楽経験の一部にそれは既に組み込まれていました。そのことに初めて気付いたのは、17歳の時にニューオーリンズを離れてニューヨークへ移った後のことです。何とも皮肉な話です。そう気付かせてくれた恩人が二人います。

一人目は、音楽評論家であり優れたドラム奏者でもあるスタンリー・クラウチ。僕が彼と出会ったのは、ニューヨークでの最初の冬でした。場所は自宅近くのスウィングの殿堂ともいうべきジャズクラブ。西97番街コロンブスアベニューにある、その名も「マイケルズ」です。彼は僕に「はじめまして」と当然挨拶してきたわけですが、実は僕の方は、彼のことを既に知っていたのです。というのも、僕の父がかつて、雑誌「ビレッジボイス」で繰り広げられていた、スタンリー・クラウチアミリ・バラカとの間の大論争(警察機構に絡む何かについて)に注目して読んでいたのを知っていたからです。記事を読み続けてきた父が結論付けたのは、クラウチの論法は倫理的にまっとうであり、一方バラカは頭に血が上ってしまっていて、プロ意識がベースになっていない、というものでした。父がバラカをリスペクトしていたのを知っていた僕にとっては、父の結論は印象的でした。クラウチと僕の対談は、ののしり合いから始まったのです。まず彼は、僕が吹けないヤツだと言い、僕は彼の頭を揶揄中傷しました(ニューオーリンズアフリカ系アメリカ人がよくやる言葉遊びに「ダズンズ」というのがあります。韻を踏みながら相手の家族について、頭や唇の大きさ等悪口を言ってゆくのです。クラウチとのこの時の対談では、彼のお母さんのことについては触れませんでした。目新しいやり方でしょう?ぼくはこのダズンズという言葉遊びが大好きですが、大人同士で相手に「お前の母ちゃん〇〇〇」なんてやってしまったら、間違いなく本当のケンカになってしまいますからね)。

クラウチが招待してくれて、僕はマンハッタンのヴィレッジ地区にある彼の家を訪ね、音楽について語り合うことになりました。その頃僕は、まだニューヨークには、さほど多くの知り合いがいたわけではなかったので、彼の招待は僕にとっては大きな社交イベントでした。クラウチのガールフレンドのサリー・ヘルゲッセンが、素晴らしい食事を用意してくれて、僕は実家に戻ってくつろいだ気分になれました。家のそこかしこに本やレコードが積んでありました。彼が語り始めます。デューク・エリントンオーネット・コールマン、それから僕があまりじっくりとは聴いたことがなかった(と言っても色々と感想は言える)ありとあらゆるミュージシャンのこと。それはもう半端ないといいましょうか、山の様な文献や音源に囲まれたこの部屋で、このクラウチという人物は、ダズンズをして見せたかと思えば、日頃はこの山積みを深く考察し、執筆活動を繰り広げ、対象となる物事の意義や内面に大いに関心をもって臨んでいるのです。本当に驚くべきことでした。僕は物事を考えたりそれを言葉にすることに、嫌悪感は抱きません。両親共に子供に対して、ものを教えたり本を読ませたり、会話の場を持つことが好きだったことが影響しています。それにしてもクラウチは情熱的であり、ジャズを含め実に多くの話題に精通しているものですから、僕にとって彼と親交を深めてゆくことは、行くのが待ちきれない学校へ通うような気分でした。彼とは今でも親しい関係を保っており、時には意見の相違もありますが、彼に対する敬愛の念はこれからも深遠であり続けることでしょう。

クラウチは僕に、文筆家で文化評論家でもある、アルバート・マリーに、是非会ってみるよう強く薦めてきました。これまた僕にとっては、神の啓示というべき出来事でした。時代は1970年代の終わりから80年代の初頭。マルコムXの亡霊が時流を支配し、ブラックナショナリズムが黒人の若い世代で政治や社会問題に関心を持っていれば、皆その思想の柱となっていた頃です。僕もまた、怒りと若い情熱の炎で溢れていました。僕が育ってきたルイジアナ州の小さな町は、どこも、何世紀にもわたってガッチリと作り上げられてしまっている偏見差別に、ドップリと浸されていましたからね。僕達の世代は、社会情勢は違った方向へと変わってゆく、と教えられてきてはいました。事実、多くの部分において、その通りにはなっていたものの、一方で多くの場面において、「黒人は我慢するのが当然」という悪しき空気感は残っていました。

公民権運動のほとぼりが冷めて、さほど時間が経っていなかったにもかかわらず、僕達の世代にとっては1950年代とか60年代というのは、既に大昔の事でした。年配の世代は黒人差別というものが自分達にどんな影響を与えてきているかについて、多くを語りませんでした。そして我が国(アメリカ)の、あまりに多くの生活の場面が、依然として差別的であったのです。ブラックナショナリズムが使うような言葉の表現をしない年配の黒人は、僕達の世代から見れば、アンクル・トムだの、ヘアスタイルをキープするハンカチの頬かむりだの、といった、プライドを捨てて媚び諂う連中、と映ったのでした。

勿論、自国(アメリカ)の歴史に関する僕達の知識は非常に限られており、アフリカ系アメリカ人に関する近現代史のそれに至っては、その悪影響の下で生活を送っていたにもかかわらず、ほとんど理解されていませんでした。我が国(アメリカ)の歴史の流れのどこに、自分達は身を置いているのか、あるいは現実社会のどこに居場所があるのか、今も昔も迷子の状態なのです。僕達の世代から見れば、年配の黒人は、逃げ場を奪われた犠牲者であり、彼らが耐え抜いているあらゆる仕打ちに、僕達は絶対に耐えられない - バスに乗る時は後方の席(その必要がなくなってからも生得の習慣で依然としてそうしてしまう)、白人の皆様方の素晴らしいお考えに、いつまでもひれ伏させて頂き、ゴマすり、諂いに徹する態度 - そんな思いでした。僕達にとってはブルースはその一部分でした。僕達が抜け出そうとしていたものの象徴であり、白人達にアゴでこき使われているという現実から目を背けようとして、自分の彼女や奥さんに八つ当たりする黒人みたいなものだ、というわけです。

僕達はかつて、楽曲について話をする時に「こんなのただのブルース」という言い方をしていました。このアフリカ系アメリカ人の育んだ伝統の持つ偉大な価値も、そしてこれが現代の僕達が抱える様々な苦闘を乗り切る大きな助けとなることも、まるで分っていなかったのです。更には、ブルースは方法を飲み込めば、使いやすいツールであることも、気付いていませんでした。ブルースは僕達に、誇りと帰属意識をもたらすことさえできる、ということも、想像し得ませんでした。原因は、僕達を板挟みにした二つのことにあります。一つは、教育システムが不十分であったこと。もう一つは、ビジネスの宣伝活動が、所謂「世代のギャップ」を上手く利用し先細りを招くも大成功を収めたこと。こういうことをすると、人は「知らぬが仏」の状態になります。僕達は当時そのことについて考えもしませんでした。それが当たり前と思わせた、そして未だにそのままであるわけです。そして、そのことによる犠牲者は今や何百万人といて、高齢化し、僕達が一人残らず教え込まれてしまった、嘘と誤報に基づく生活を、何も考えず送ることによって発生することに、影響を与え続けているのです。

アフリカ系アメリカ人でない僕の友人達の多くが知りたがっていることがあります。それは「どうしてアメリカの黒人達は、ブルースにしろジャズにしろ、自分達自身の文化に由来するクオリティを持つことを、大事にしないのか?」ということです。好まない、というわけではない、むしろ大好き、単にその自分の気持ちに気付いていないだけなのです。公民権運動の後に僕達がたどり着いた、黒人皆の、それも意識的に出したわけではない結論でした。でもこのことで、大切なものを一緒に失ってしまい、ブルースは絶滅の運命を辿らされることになってしまうのです。本当は、ブルースについて言えば、日の当たる場所と当らない場所があるわけではなく、ブルースそれ自体が、日の当たる場所だったのです。

今日、アフリカ系アメリカ人達が築き上げてきた芸術には、後世に受け継ぐべきものが豊富にある、ということについて、当の本人たちの間では、一般的に言って、そういった認識もそれに対する理解もなければ、まだまだ知っておくべきことがあるんだということも、あまり知られていません。良く知られている情報のせいで、すぐ思い浮かんでしまうのが、100年以上前のミンストレルショーで、それを伝えるのは、ラップミュージシャンや、いかがわしい腰つきでイエスキリストを賛美する退廃した教会音楽であったりします。このことは、黒人にとってだけでなく、アメリカ全体にとっても、とても悲しむべきことです。なぜなら黒人は、アメリカ国民にとってのアイデンティティの中心的位置にいるからです。

クラウチと私が足を踏み入れた、ニューヨークの132番街にあるマリー氏のアパート。そこは映画のワンシーンを見るようでした。ありとあらゆる本とレコードがあり、もっともこちらは、クラウチのアパートと違って、全てキチンと整理整頓されていました。壁には、ロメール・ベアデンとノーマン・ルイスの絵がかけてあります。小さなスペースに多くのものが、小奇麗に詰め込まれている、といった感じです。マリー氏が話の中にちりばめてくる多くの知識は、彼との出会いがなければ、僕は触れる機会すらなかったものばかりで、はじめは彼の話していることが良く理解できませんでした。でも会話を進めてゆくうちに、彼の話題の多様さと、それらが全てお互いに関連性があることなんだ、と知り、感銘を受けたのです。

それまで僕が経験したことがあった黒人問題についてのお堅い話といえば、その論点は「黒人と白人」つまり両者の「対立」にありました。しかしマリー氏は違っていて、両者を好み、熱く、深く語るのです。僕のように典型的な青二才の黒人革命家予備軍にとっては、あまり馴染みのない、ルイ・アームストロングデューク・エリントンの音楽について、好んで語ったかと思えば、同じ情熱と洞察力で、フォークナー、イェーツ、トーマス・マンの文学について語るのです。彼の仕分けにおいて基準となるのは、人種の違いではなく、思想のクオリティ(質)でした。

これには僕の知識が持つバックグラウンドは、何の役にも立ちません。それまで僕が知っていたジャズミュージシャン達は、一人残らず大変な知識人とは言え、世間からは浮いた存在でした。学校教育の現場では、黒人達がその知性により作り上げてきたものは、ひとくくりにして排除されていた時代です。僕の目の前にいるこの人物は、兵役に服し、大学を卒業し、僕よりも2・3世代上で、そして誰もが見たことがあるであろう、媚び諂う黒人とは、かけ離れた存在でした。そんな彼が今、薄明りのハーレムのアパートの一室で、凛とした佇まいで、50年の年月をかけて収集した、人類の知性の粋を記した本やレコードに囲まれて、僕の目の前に座っているのです。彼は僕に向かって、あれやこれやと本を取ってこさせ、どこの章の何ページ、と言ってはそこを開かせると、丁度そこに彼が話していた内容が書いてある - それもプラトンからジョン・フォードフレデリック・ダグラス、更には熱原子力学からジェームス・ブラウンまで、多岐に亘っています。奥様のモゼルさんは、皆さんの家族にいる最高の、そして最愛の人を思い起こさせるような方です。彼は、こちらが向学心を示すと大いに喜びます。ブルースは人間の真実だというと、それについての彼の著書を渡してくれました。家に持ち帰って読んでみると、これまでの人生経験で「重要だ」とも「特別だ」とも考えたことすらなかったことが沢山書いてあるのです。ところが読んでみると、誰もが関係することだからこそ、それは「特別」なのであり、ブルースの美学を人種問題へと堕してしまうことが、いかに貧弱な発想であるか、が良く分かります。さてこれで、彼とこの話題について話す前に、彼と思いを共有することになりましたから、こうなってくると、彼の話は、オーケストラの指揮者が出す合図のようになります。弾き始めがいつなのか、分かっているのに、その合図をだしてくれるわけですから、大いに安心感がわいてきます。いずれにせよ行き先を示してくれるわけですが、自分独りぼっちではないので、時間も短縮できますし、物事に向き合うにせよ、一人でいるのとは全く違う感じ方が出来ます。助けが、それも大きな助けが、与えられているのです。
マリー氏の「Stomping the Blues」(ブルースを踏みならす)は、僕が普段から何気なく接している音楽や、過ごしている生活を取り巻く美的な着眼点について扱っている本で、僕はこういう本は、後にも先にも読んだことがありません。

とは言え、そこに書かれている考察がどれほど刺激的であったとしても、本のタイトルにある「ブルース」は、本で読むのと実際に演奏するのとでは違うのです。紙の上でどれだけ頭をひねって考えようと、音楽や人の行動についてどれだけ知識を詰め込もうと、肝心の演奏ができる力がなければ、何の助けにもならないのです。スポーツ選手になりたいという大きな夢を叶えられなかった人は、誰もがある時点で、頑張るだけでは十分とは言えないという現実と向き合わなければならなかったはずです。そういった点からいうと、結局、演奏できるようになるには何が必要か、スポーツ選手がプレー出来るようになるには何が必要か、他にも才能を身に付けるには何が必要か、誰にも分らないということです。しかしブルースを聴くこととなると、他の芸術分野についてもそうですが、知識があれば、ひたすら聴く力は伸びてゆきますし、逆にそれがないと、身に付かないものです。

演奏することと聴くことの違いは、ここにあるのです。聴く力は、努力すれば身に付きます。良い演奏を楽しめるようになるには、その演奏形式について「良い演奏」の条件というものを、しっかり時間をかけて理解するだけで、誰でもOKです。僕は高校時代、比喩表現をたくさん含む詩を読むことが大嫌いでした。「言いたい事があるならハッキリ言えよ!」とね。しかし、一旦こういった比喩表現が詩を豊かにして、少ない語数で多くを伝えることが出来る、ということを理解した途端に、比喩表現の巧みな使い方を楽しめるようになったのです。

ブルースには、歌詞と音楽の両方に隠喩が沢山詰まっています。アルベルタ・ハンターの「キッチンマン」を聴いて頂けると、僕の言いたいことが信じて頂けると思います。前もって知識を得てから聴くと、音楽は楽しくなります。

このことは、読書と大変良く似ています。話の筋を追う、分からない語句の意味を調べる、何事についても良く学ぶ、こういったことを好まない方は、文学には向かないでしょうし、好む方には、未知の世界が広がり、生涯尽きることのない発見と楽しみが待ち受けているのです。ブルースとジャズについて言えば、わずかな投資の見返りが、膨大な人間感情、あらゆる種類の精神の豊かさ、そして、とにかくひたすら楽しい時間、こういったものとの出会いをもたらすのです。

僕はかつて、ジャズの巨匠ジョン・ルイスに、彼が定義するジャズとはどういうものか、訊ねたことがあります。彼はこう答えました「ジャズは、スウィングしなくてはいけない。若しくはスウィングしているように見えなければならない。ジャズはサプライズの要素を含んでいなければならないし、飽くなきブルースの追及が演奏という形にならなければならない。」

もっともブルースは、わざわざ探さなくとも見つけることはできます。カントリーウェスタンにはブルースの形式を持つものがありますし、ブルーグラスやファンクにもあります。文字通りブルースですし、ロックンロールもそうです。

ブルースを演奏するからには、何かしら、誰にとっても明らかな、社会の抱える病的な問題に苦しんでいるかどうかを、そこに絡ませるべきだ、と考える人たちがいます。それは確かに、人は誰でも相応の苦労はしているものです。ブルースについて言えば、問うべきことは - そういった苦労は自分をどう苦しめてきたか?それに対して自分はどうしたいのか?それを他人にどうやって感じ取らせたいのか?そしてそれを他人に伝える勇気と能力はあるか? - ということです。苦労を乗り越えたかったら、そして他人に対してもその手助けをしたかったら、ブルースを演奏することこそ、最良の方法だと、僕は思っています。

ブルースの演奏の仕方には、不思議とその人らしさが何かしら現れるものです。他人の演奏を真似ることは不可能とされています。音符の飾りつけや即興的に演奏する一節をコピーしたとしても、サウンドまでは同じようには響かない、十人十色ということです。ジョン・コルトレーンの真似ができる人も、ブルース、特にテンポがゆっくりの曲は、真似し切れません。ブルースは、テンポがゆっくりになるほど、真似できる要素は減ってゆき、逆に、益々多く、自分なりの叫び方、むせび方、そして自分自身の表現したいものを見出さざるを得なくなってきます。ブルースを演奏するミュージシャン一人一人を見分けるのが楽なのは、こういった事情があるからなのです。聴き手は、ブルースの演奏の仕方の違いが、アーティストによってある、ということが、聞くと分かるものです。

僕が初めてニューヨークへ来た頃、年上のミュージシャン達は、僕の演奏することを全く評価してくれませんでした。小手先の器用さはあっても、内容が無かったのです。ある夜の本番に、レイ・ブラウンミルト・ジャクソンが僕を出演させてくれた時の事でした。当時18歳かそこらであった僕は、何が何でも速いテンポで吹きまくっていたのです。その夜、彼らが僕にさせたこと、何だかわかりますか?それはそれはテンポがゆっくりなブルースでした。どうしようもなく、僕はとてつもなく速い指回しで音符の飾りつけをし、高い音域の音を連発して、同じ一つのことを繰り返し、鼻から息を吸いながら同時に口から吐き続ける「循環呼吸」で吹き続けるなど、当時の僕の世代にウケがよかったことを全て出し尽くしたのです。会場のクラブにいた聴衆の大半は、本物のジャズを知る人達でしたから、普段僕が接している聴衆とは全く違いました。それでもなお、僕は、自分の演奏がヒドイと分かっていつつも、それがその夜のお客さん達に伝わらないことを願いました。その願いを打ち砕いたのが、ミルトの僕への問いかけです。「お前さん、気付いたかい?お前さんが来る前とくる後での音の違いがさ?」
僕は言いました。「はい、それはもう・・・。」
「で?その違いは何だか分かるかい?」
「教えてください。」
「お前さんの姿が、そこに在ったか、無かったか、それだけさ。音の違いなんて、ありゃしないよ。」

彼の言ったことは、正しく、手厳しいモノでしたが、公平な意見でした。僕の演奏の仕方は、僕の個性や感情を表現することが、まだまだ分かっていない代物だったのです。ようやく、ブルースというものが、自分の情熱と知性を注ぎ込むのに、どれ程力を貸してくあれるかが、解り始めた頃でした。僕はまだまだ「こんなのタダのブルース」的発想から、抜け出せていませんでした。この経験をきっかけとして、僕は自分の演奏を見直し、華やかさや感傷的な吹き方といったものよりも、演奏の中身や正直な表現といったものを強調するように、方向転換をしたのです。

またある夜の本番では、スウィーツ・エジソンから同じような洗礼を受けました。彼はテンポがゆっくりなブルースを採り上げたのです。僕が演奏を終えると、スウィーツはこう言いました「おい、君がしたことは、私がプロになってから吹いた音符の数より多く音符を垂れ流しただけだな。」つまり言おうとしたことは、「結局何も伝わらなかったね。」

「皆さんが弾きこなすこの難しい曲の数々、僕も皆さんと一緒に演奏するということを、しっかり自覚して、しっかり学びます。」僕はそう心に唱えました。

当時はそうやって、僕より先輩の方々の洗礼を受けていたのでした。「何だそれ?フラッシュ(ひけらかし)君」「ここでは、ちゃんとしたブルースを演奏するんですよ、フライバイナイト(夜逃げ人)さん。あの、ちゃんと一緒に吹こうとなさってはどうです?」僕はようやく分かってきました。「勿論ちゃんとやってるさ。この人達、悔しいけど演奏上手過ぎだ。見てろよ。ジェネレーションギャップに負けるもんか。必ずこの人達の持っているモノを、僕のモノにして見せる。」

僕は学んだのです。ジャズミュージシャンの最悪の過ちは、ブルースから逃げることだと。僕のセプテット(7人編成のバンド)をビシッと引き締める、自戒の合言葉は「逃げるな、立ち向かえ」です。そしてブルースは、どこにでも存在しています。ジョン・ルイスが「飽くなきブルースの追及」と言ったのは、このことなのです。それはブルースを大切にする理由であり、ブルースを大切にする時、人種・民族・思想が何であれ、その人は「人類」として、自分自身の財産を手にしていることになるのです。

次回は、第4章を見てゆきます。