Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)2章pp26-33

数ヶ月の内に、キースは音楽活動の日の当たる場所に活路を見出していた。アート・ブレイキーのバンドがこれまでのジャズの代弁者あったとすると、チャールズ・ロイド・カルテットは時代、すなわち、懐の深さを示す幸福感あふれる雰囲気や、ヒッピーの色とりどりの「花の力」、更には若者層の底なしの熱気をもつ「ロックの時代」を見据え、そのイメージに適応した。これに一役買ったとされるのが、デューク・エリントンルイ・アームストロング、そして一部マイルス・デイヴィスとも関わった敏腕レコードプロデューサーでもある、バンドのマネージャーの ジョージ・アヴァキアンだ。当時、ロイドが大きな支援を受けていた人物がもう一人いる。ビル・グレアムだ。彼は2つのコンサートホールを持ち、サンフランシスコのフィルモア・ウェスト、更には後にニューヨークのフィルモア・ウェストを所有していた。実に行動力のある男で、何か事を起こすには、それを評価しうる適切な「場や人」、そしてそれらに対する十分な宣伝が必要だということを、心得ていた。時流を捉え自らの目的達成に利用する人物?時流を自ら創造する人物?グレアムは、歴史学者達が頭を悩ます錚々たる人物達の一人である。ビル・グレアムは間違いなく、仕切りの才に長け、確かなビジネスセンスの持ち主である。だがそれ以上に、彼は時代の空気を読む力があった。当時は芸術活動に政治色が出ていた。「反◯◯」的な芸術活動が腰を据えて立ち向かったのが、ベトナム戦争という愚行へと事を急いて乗り出した政治体制だ。ベトナム戦争については、ケン・キージーという人物が、自ら霊感的に感じたことを、小説や予告なしのパフォーマンスを通して表現した。また、ハーバード大学のある精神科の教授(訳注:ティモシー・リアリー)は学生達に、当時の社会情勢から言って、政治の指導者達が仮に受診に来たら、どこも悪くない(のに愚行に走った:補訳)と言ってやれ、と釘を刺した。 

 

 

 

フィルモア・ウェストは20世紀初頭創立の、老舗のダンスホールだ。1950年代に、チャールズ・サリヴァンは黒人ミュージシャンのスター達を登場させた。その中には、ジェームス・ブラウン、ボビー・ブランド、そしてアイク&ティナ・ターナーや、ヘイト・アシュベリーの「反体制的」なシーンを扱ったステージも展開した。このロックの聖なる館で、時代を彩ったスター達がパフォーマンスを繰り広げた。音楽の生活共同体 グレイトフルデッド、反骨のヴォーカリスト グレイス・スリックを擁するジェファーソン・エアプレイン、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、「ブルーな気持ち」に苦しんだジャニス・ジョプリン、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、サンタナ、天才 ジミ・ヘンドリックス、バターフィールド・ブルース・バンド、そしてマディー・ウォーターズ。新たな熱を帯びたあらゆる世代のミュージシャン達が、ここに集った。彼らは知っていた。ロックとブルースは兄弟みたいなもの。ジャズはインドのラーガ旋法とよくあう。クラッシック音楽の作曲家であるカールハインツ・シュトックハウゼンでさえ、自らの「長老」として歓迎する存在だ。ということを。随分あとになってグレイス・スリックは「60年代のことを覚えている、なんて言う人がいたら、きっとその人はその時代にはまだ生まれていなかったのだろう」と言ってのけた。この異様な時代を総括した言葉で、当時の社会のうねりが、居合わせた者にしか理解できず、しかも回顧を許さぬ掟があることを、よく言い表している。 

 

チャールズ・ロイドが自身のバンドを率いてフィルモア・ウェストに出演した際には、「サイケデリック・ジャズ集団の第一号」と称された(ハーパースマガジンによる)。1966年の3月と9月には、このバンドを象徴するようなタイトルの「ドリーム・ウィーバー」と「フォレスト・フラワー」のレコーディングが行われた。2つのレコードには、「バード・フライト」「ダルウィーシュ・ダンス」「ラブ・シップ」といったミステリアスな曲や、現実逃避的な曲のスタンダード「イースト・オブ・ザ・サン」といったところが、1967年のベストセラーと称されている。「ダウン・ビート」誌はいち早くこのヒットを採り上げ、この驚くべき新手のジャズミュージシャン達を次のように評した。「彼らはもはや、大学の講堂のステージ等にお行儀よく立たない。地味なシャツやネクタイは身に付けない。代わりにヒッピーならではのカラフルに飾りのついたシャツを着て、大昔の「誰とでもヤれる」天国が現代に蘇った「恍惚の」讃歌を歌い上げる」。報道各紙もまたそろって、各音楽シーンの融合によって発生した様々な変化について報じた。「混沌からの脱出路」との見出しは「タイムズ」誌である。様々な音楽的価値観が、ここへ来て急に手を結ぶとは、思いもよらなかったという。「ダウン・ビート」誌の編集者ダン・モルゲンスターンの見方は、もっと現実的だ。「目下ファン層が減りつつあるジレンマに陥るジャズにとって、排他的な態度は禁物だ。ロックがその架け橋となるなら、ジャズはそれを渡らぬ愚は犯すまい。」グレイス・スリックには申し訳ないが、後年だいぶ経った後のインタビューで、チャールズ・ロイドは1960年代当時のことを鮮明に記憶していた「もはや音楽に境界線など無かった。若い連中は何でも聴いていた。フィルモア・ウェストで本番があれば、我々はドアが開いて温かく好意的に迎えれられた。ホームグラウンドのジャズの方と言えば状態は悲惨だった。クラブはただただ生き残ることに必死だったのだ」。 

 

 

チャールズ・ロイド・カルテットもまた、熱狂的に迎えられた。「ドリーム・ウィーバー」収録後まもなく、初のヨーロッパツアーが行われたのだ。時は1966年の春。そこから2年間、5回のツアーで40もの国々を歴訪する。その中には、1967年のソビエトツアーでは、タリン、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、そしてモスクワでコンサートを開催している。1966年5月1日、カルテットにとって最高の見せ場がおとずれる。フランクフルトでのドイツジャズフェスティバルだ。1953年からのフェスで、世界で最も長年続くものの一つだ。ジャズの新星を発掘・紹介する場として有名である。最初のツアーは北欧諸国、ドイツ、フランス、イタリアを、21日間で20回のコンサートを開催して巡り、手放しの歓迎を受けた。ノルウェーの有力紙「アフテンポステン」から、フランスの専門紙「ジャズ・ホット」まで、この高い表現力を持つバンドを「正にジャズの未来図」と、賞賛の嵐をこぞって書き綴った。ベルギーのベース奏者ブノワ・ケルサンは、1950年代にチェット・ベイカーとパリで演奏活動をしていたが、彼らの演奏の何事かを理解し、ある本番の後で次のように印象を語っている「チャールズ・ロイドの音楽は、今風で、自由闊達だが、決して無秩序でも根無し草でもない。モード・ジャズのコンセプトでありつつ、ハーモニーもあり、曲の構造もしっかりしている。サウンド、リズム、メロディの素材に新たな可能性の扉を開きつつも、音楽的な骨組みづくりを支える自然な表現であり形式に基づく演奏だった。」 

 

 

 

 

バンドの活動の中心であり、注目が集まる処でもあるのが、若干28歳のチャールズ・ロイド。彼のカリスマ性はメンバー達に認められ、そして彼には観客を熱狂させる力を持つ。何でもかんでもユートピア的なものがもてはやされる時代にあっては、どうでも良いとは言えない。ところでキース・ジャレットも批評家達につぶさに観察されている状態であった。特に彼の、言うなれば、「鷲掴みにするような」邪道なピアノの運指が標的だった。要するに、彼のような演奏家はめったにお目にかかれないのだ。クラシックの技術を駆使し、ジャズのインプロヴァイズをする豊かな想像力があり、これらを併せて王道・邪道のあらゆる今風の演奏効果を生み出してしまうのである。 

 

 

1966年のヨーロッパツアーを巧みに切り盛りしたマネージャー ジョージ・アヴァキアンは、ヨーロッパでの肯定的な反応を予見し、それを利用してアメリカのバンドに対するヨーロッパの興味関心を、更にひこうと目論んだのだ。「世界中が、愛と平和のメッセンジャーたるチャールズ・ロイド・カルテットを可愛がってくれれば、彼らの生まれ故郷アメリカの国民も誇りに思ってくれるはず。」同時に、その頃の彼らが高く評価されるグループたり得たのは、舞台上での4人そろった有り様、一人一人の音楽的スキルとその組み合わせ、これらがあればこそであった。それが取り沙汰されたのが、1966年の秋、ヨーロッパツアーから帰国後に参加したニューポート・ジャズ・フェスティバルでのことである。この時、キース・ジャレットはピアノ独奏にも挑戦し、ジャーナリストのホイットニー・バリエットをして、異例の称賛を得た「ロイドはジャレットに1曲自由に任せた処、長くて、複雑で、感情表現満載の一品を仕上げ、驚異的かつ高い独創性を感じさせてくれた。これ程のワーグナー風の和声の厚みを持つ演奏ができるのは、セシル・テイラーとデイヴ・ブルーベックくらいだろう。」モントレージャズフェスティバルでは、バンド自体も、このフェスの主な注目株の一つだった。このカルテットは、若いファン層の万華鏡の如き耳に相応しく、虹色の如きサウンドを持っている。なんとしてもジャズを孤立から抜け出す道への壁をぶち壊したかったのである。 

 

彼らの演奏に耳をそばだてたマイルス・デイヴィスは、その時の印象を全て胸に秘め、2年後に「イン・ア・サイレント・ウェイ」と「ビッチェズ・ブリュー(好色女の秘薬)」をリリースする。フリージャズの急進派煽動家達の抵抗にもめげず、ジャズの世界に究極の新スタイルを樹立した銘品である。マイルス・デイヴィスは1945年(19歳)にはチャーリー・パーカーと共演し、ジャズをアメリカ生粋の芸術にまで高め、その後新しいスタイルのジャンルが出てくるたびに影響を与え続けた。だからこそ、そのスタイルを学ぶ上で、この2枚のレコードは、ベテランも駆け出しにとってもフリーパスのようなものなのだ。 

 

 

 

新しい音楽のスタイルが世に認められるには、それが完全に未知のものであるか、過去に対する明確な反逆であるかを、感じ取れる開拓精神溢れる者達が必要だ。更にいうと、そこに権威信頼の厚い人物が現れて(牧師さんのような)、「新しい」を祝福してくれないといけない。エディ・ハリス、アーマッド・ジャマル、そして特に「イン・クラウド」のラムゼイ・ルイスなどは、しつこいくらいのベースとドラムによるリフや、本当にエンドレスなモチーフの繰り返しを引っさげて、チャールズ・ロイドが入り込もうとする同じ方向へと向かっていた。それも、何でも有りのヒッピー達(フラワーチルドレン)の助勢を受け、人々を魅了するジャズ・ロックの音楽を広めつつである。最終的には、「牧師さんのような」の親玉であるマイルス・デイヴィスが、天下御免の「ウィッチズ・ブリュー(魔女の秘薬)」を引っさげて、新しいスタイルの承認として、洗礼よろしくこれを頭に塗るのだ。祈りの言葉を捧げるのは、ギター奏者のラリー・コリエルである「マイルス・デイヴィスジョン・コルトレーン、そしてジミ・ヘンドリックスの間にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。みこころのニューオーリンズになるごとく、ニューヨークにもなさせたまえ。我らの日々の転調を、今日も与えたまえ。我らソリストのバックで転調を間違える者を、我らがゆるすごとく、我らソリストのバックで転調を間違える罪をもゆるしたまえ。我らをディスコにあわせず、金儲け主義より救いだしたまえ。アーメン。 

 

ジャレットが所属するチャールズ・ロイド・カルテットは、当初穏やかにまとまっていた。なぜなら、全員が互いに距離を適度に保ち、お互いをほぼ無条件に理解し容認したからだ。ドラムのジャック・デジョネット、ベースのセシル・マクビー(間もなくロン・マクルーアと交代)、キース・ジャレット、そして天才教祖チャールズ・ロイド、この4人はジャズ・ロック初の「スーパーグループ」と目された。キース・ジャレットは3年間に8回のレコーディングにバンドとともに参加している。その内スタジオ録音はたったの2つ。1966年の「ドリーム・ウィーバー」と1969年の「サウンドトラック」である。その他は、モントレージャズフェスティバル、フィルモア・ウェストオスロ、そして旧ソ連のタリンでのライブ音源だ。今聞いても、特にライブ音源には、バンドから聴衆へと届いたであろうほとばしる火花が、ものすごく感じ取れる。このカルテットの成功が示すように、ロックのファン層は、新しいサウンドを耳にしても、ミュージシャン達のステージ上での姿やライブ等が行われる場所が、自分達の求めるものに一致するか、少なくとも馴染みのあるものなら、門戸を開けてくれるということだ。このカルテットは、後のマイルス・デイヴィスが編成したバンドにも同じことが言えるが、実際には、ジャズの純正主義者達が糾弾するほど、自分達の音楽的価値観を妥協してなどいないのである。依然としてチャールズ・ロイドのバンドは、ロックミュージシャン達が生命維持装置にコードを差し込むようにアンプにプラグを差し込んで、そうでないと息ができないかのように振る舞う一方で、電気のカケラも必要としない「アコースティック」バンドであり続けていた。 

 

ロイドのカルテットの最初のレコーディングは、結成1ヶ月後に行われた。収録曲はいずれも、延々と続くロックのリズムやモチーフの繰り返し、或いは胸ぐらをつかむような音圧とは、全く出発点が異なるものだ。その一方で、初期のジャズの形式に則り主題のコード進行に従ってインプロヴァイゼーションをする手間暇は、めったにかけない。「ドリーム・ウィーバー」にはそういう曲は一つも収録されていない。おかげでジャズ純粋主義者達に攻撃の口実を与えてしまっている。LPの締めの曲「ソンブレロサム(帽子をかぶったサム)」は、ラテン・アメリカならではのリズムの鼓動や、表現と音色において打楽器風の作り込みをしている。それでも意識して贅肉を落としたパフォーマンスは、キース・ジャレットならではである。この曲も「ジャズの目次」には載らないだろう。コード進行に気分良く乗っかっているジャズミュージシャン達にとっては、ニューオーリンズでの創成期からディジー・ガレスピーによるビ・バップの時代に至るまで、南米あるいはカリブ海諸国のリズムは、魅力あるものとして歓迎しているのだ。1960年代、熟練のジャズミュージシャン達は、この手法を、当時ファン層を巨大なものにしてしまっていたビートルズに対する、魅力あふれる対抗策として取り入れた。「なんでもござれ」のロックや歌謡曲に効果的な対抗策として、ブラジルのボサ・ノヴァやサンバを取り入れたのが、アントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルトといったところ。スタン・ゲッツサクソフォンチャーリー・バードのギターとの組み合わせも行われた。 

 

 

お互い共鳴しあって聴きあい、新旧関わらずあらゆる形式にジャズを採り込み、多様なインプロヴァイゼーションや個々の発想や全体のコンセプトをすべてバランスを取る方法を見いだせる、しかも聞く人を恍惚とさせる盛り上がりをつくりだすことも怠らない、そんな事ができるジャズというアンサンブルならではの、理想的な事例が、他の収録曲に見出すことが出来る。3部構成の組曲「オータムシーケンス」(ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」からヒントを得たもの)は、まず穏やかに、空想でも浮かべる感じで、自由な感じの装飾的なフレーズが聞こえてくる。演奏するのはチャールズ・ロイドのフルート。これに他のメンバーが、キラキラと美しい飾りを巻きつけてゆく。ひとしきりのフルートソロのあと、すぐさま「枯葉」のモチーフへ。ロマンチックな雰囲気はどこへやら、音圧のあるキース・ジャレットのピアノソロが力強いベースとドラムのスウィングに乗って現れる。短いモチーフからまとまった形の主題へとインプロヴァイゼーション作ってゆくやり方メロディやリズムの断片が出て来たときの間のとり方、それを演奏しつつ、繰り返される時は「圧」を高めてゆくやり方、ハーモニーを次々展開させて無調性になるまでもってゆくやり方、そして曲全体に対するコントロールを意思じつつ細かな激しい音型を弾き流し続け音色に荒々しさを出してゆくやり方、いずれも実に印象的だ。これらはこの曲だけでなく「ドリーム・ウィーバー」や「バード・フライト」でも発揮されている。だがこういった演奏の仕方が人々を魅了するのは、例えて言うなら、それが描かれている大きな一枚のキャンバスに対して、何人もの他のミュージシャン達の影響という絵筆が入っているからである。チャールズ・ロイドのサックスには、ジョン・コルトレーンのフレーズの歌い方とアルバート・アイラーの賛美歌のような表現が感じ取れる。セシル・マクビーの奏でる数々のベースラインは、ちょっと聴いただけでは音楽的な空白状態を生んでしまっているように思われがちだが、そうなるギリギリのところで、ジャック・デジョネットの安定感のあるドラムの推進力で持ちこたえるのだ。 

 

これよりも、更に注目すべきは、ライブ音源だ。様々なフェスや、フィルモア・ウェストでのものは、聴衆の反応も聞くことができる。モントレージャズフェスティバルの「ソーサリー」などは、キース・ジャレットが強烈なリズムビートを繰り返し弾きまくり、曲の出だしから熱狂の嵐を巻き起こしている。だがステージ上で、聖ウィトゥスのダンスのように、何かに取り憑かれたようなパフォーマンスをガチで見せるのは、ジャレットだけではない。メンバー4人共様々なパフォーマンス面の個性を持っているが、実際にはお互いガッチリ結びつけあっている。そうすることで、伝統的な「ソロ(主役)と伴奏(脇役)」という発想をかなぐり捨てて、その上で、パワー全開の発電所のような圧倒的な印象が生まれてくるのだ。こういうのが以前には、彼らの先輩格のレジェンド的なバンドで、人数は一人少ないビル・エヴァンス・トリオ(ビル・エヴァンススコット・ラファロポール・モチアン)にも聞かれた。チャールズ・ロイド・カルテットは4人の奏者が対等の力関係で、正に爆発寸前まで盛り上げてゆく。この猛烈な力技の中核がキース・ジャレットジャック・デジョネットの二人である。彼らはあくまでも音楽的に、なおかつ自己制御をしっかりとって、互いを感じ、相手とのやり取りをし、同時に音楽を前へ推進してゆくのだ。二人が自然と理解し合えたのは、おそらく次の要因もあるだろう:デジョネットは10年ほどシカゴのACM(American Conservatory of Music)という音楽院でクラシックのピアノを学び、キース・ジャレットは元からドラムが大好きで、遊びでなく本格的にマスターしたという背景がある。 

 

フィルモア・ウェストの大半のお客にとっては彼らのサウンドはそれまでにないものだったに違いない。キース・ジャレット初のソロレコーディング曲「ラヴNo.3」のような楽曲に対して、フィルモア・ウェストのお客は大きな感銘をうけた反応を示している。これは、その反応が、単に音楽それ自体だけでなく、ミュージシャン自身の圧倒的な存在感、ことキース・ジャレットの場合、ピアノを前にした佇まいも、その要素であることを裏付けている。ピアニストの歴史上、奏者の本質を理解する上で、音だけでなく姿も捉える必要があったピアニストは、そう滅多にお目にかかれない。キース・ジャレットが小さいブルースのカケラ(モチーフ)を手にすると、それを様々な音詰まった玉手箱に仕上げ、複雑なリズムを次々と積み重ね、文字通り楽器(ピアノ)の心臓部へと入り込み、古くなった記憶装置を更新するかのようにメインの主題を塗り替え、ハーモニーを付け直し、ピアノをドラムセットのように扱い始め、全く当たり障りのないモチーフを弾いたかと思えば、ルール無用のフリージャズの極致に走ったり、それこそセシル・テイラーのように発作的な演奏ばかりするようなプレーヤーでさえ今までしたことのないパフォーマンスを見せる。これら全ては、後になってキース・ジャレットが単独コンサートで見せた偉業を垣間見ることのできるものだ。 

 

 

だがここでビックリすべきは他にある一貫性だ音楽面での、文章の筋の通り方というべきか聴き手いちいち頭を捻らなくても理解できるのだ。ここで、またもや、古臭いスタイルだの、昔ながらの方法や技術がキラリと光る。まるで、考えが溢れかえって頭が煮詰まった人間にとって、最もシンプルな方法とは、薄味のラグタイムシンコペーションから、ビ・バップのオフビートへと飛び移るか、はたまた、「印象派こそ最高」という発想と、苦し紛れで思いついたプリペアド・ピアノのスカスカの仕組みとを、比べるしか無い、と言わんばかりだ。何が一体より印象的かについては、なかなか決し難い。キース・ジャレットの、何でもまとめ上げてしまう音楽の力か?はたまた、「何でもまとめ上げ」た彼の頭の中を、難なく、誰が見てもわかりやすい形に変換してみせる天賦の才能か?他のアルバムの収録曲も同様に、印象的に証明してみせたものがある。本物の「ワールド・ミュージック」というものが、あらゆるジャンルを懐深く採り入れる力を持っている、ということだ。ジャズの素材、前衛音楽、アメリカのエンタメから巧みに引用したもの、熱気あふれるゴスペルサウンド、それとジョン・レノンポール・マッカートニーの「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」のような最新の流行歌などだ。ジョン・レノンポール・マッカートニーはジャズを採り入れることにはオープンで、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの公演に参加したことからもそれがわかる。 

 

以上のメンバーで構成されたチャールズ・ロイド・カルテット過ごした1966年から1969年までの3年間は、華々しい出来事が満載で、全ての関係者のキャリアにとっても重要なものであった。この名声絶頂期に解散した理由は、ここまでの話とは全く関係ないのだ。音楽面でのコンセプトが底をついたというよりも、人の弱さが理由である。イアン・カーによると、チャールズ・ロイドは、新時代のミュージシャンとして、人々を熱狂の渦に巻き込み、「愛のヴァイブレーション」を発信する一方で、依然として昔気質のバンドリーダーだったのだ。身分制度の頂点に立つ親玉として、自分は飛行機で移動、メンバーは車で移動。自分は大金をせしめ、メンバーには現ナマをチョコっと渡すのみ。最初のヨーロッパツアーの際、全員に週当たり75ドル(現在の貨幣価値で1ドルは約1600円)が支給され、各自必要経費はそこから出すようになっていた。ボスが結局何ドルせしめていたか、コネチカット州のウエスレヤン大学での2時間の公演の後で判明する。支給される全額の3,500ドルが、ベース奏者のロン・マクルーアの手に渡された。彼はすぐ計算し、各々が100ドル、全体の15%がマネージャーとすれば、金額が割り出せた。この公演の後、ギャラは以前よりはフェアに支給されるようになったが、ここで広まった不信感が、徐々にカルテットの雰囲気に暗い影を落とし始めた。1969年、ジャック・デジョネットは話し合いの決裂を受けて退団(数回の本番をポール・モチアンと交代)、同じくキース・ジャレットも去ることになった。ベース奏者のロン・マクルーアは、60年代最高のバンドの哀れな最後を、次のように回想している。後にチャールズ・ロイド・カルテット最後の本番となる公演終了後、ロン・マクルーアはマネージャーに、次回以降の本番の予定を確認すべく電話をかけた。ジョージ・アヴァキアンはこう答えたという「何だ、知らないのか?チャールズはスラッグス(マンハッタンのジャズクラブ)でやってるよ。別のバンドを結成してね。」 

 

 

ロイドはバンドを解散した。他のメンバーには一切予告なしだった。チャールズ・ロイド・カルテットは長きに亘り、まばゆいばかりの心躍る音楽によって世界中の称賛を受け、そしてここに、誰も予想しなかった幕引きを、なんの音沙汰もなく、してしまったのだった。