Keith Jarrett A Biography (English edition)を読む

ピアノの二刀流、キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)を読んでゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)5章pp68-73

5.「極み」へ向かう、いろは坂」の数々 

 

アメリカ音楽」とは何か?名作曲家にして毒舌批評家の、ヴァージル・トムソンが、なかなかニクい答えを出している「アメリカ音楽を作曲するのは、とても簡単。まずアメリカ人になること。そして頭に浮かんだことを曲にすること。たったこれだけだ。」この答えは、「アメリカ音楽とはなにか」という問いに、真剣に答えたものであり、同時に、この問のアホらしさを、明らかにしている。ヴァージル・トムソンといえば、ヨーロッパ滞在歴も長く、ガートルード・スタインとも交友関係がある。その彼に言わせれば、アメリカ音楽とは、大雑把に定義して実際の意味など持たせないようにして、かろうじて存在しうるものだ、という。だがこれは、人間の行動を鋭く観察できる者ゆえの発言だ。なにしろ、スーザのオペレッタアメリカン・メイド」上演中、アメリカ国歌のパラフレーズがでてくると、アメリカ人が決まって、劇場内でも客席から立ちあがって敬礼するのを見ても、眉一つ動かさなかったのだ。 

 

「こんな簡単な説明では、訳わからなくて納得できない」という方は、もう一人のアメリカ音楽の代表選手をご紹介しよう。レナード・バーンスタインだ。名著「音楽のよろこび」の中で、彼はソクラテス式問答法を行い、アメリカ音楽とは何かについて、考えを表明している。あるブロードウェイのプロデューサーが、バーンスタインを口説いて、ミュージカルを書かせようとした。この時このプロデューサーが言ったのが、このジャンルこそ、「根っからのアメリカ音楽」だ、とのこと。彼は更に続ける。アメリカのコンサートホールで演奏される曲は、どれもこれも根っこはヨーロッパのものだ。、アメリカっぽく聞かせるために、カウボーイのメロディやブルースのハーモニー、それからジャズのリズムを付け加えているだけだ。一方バーンスタインは、他人の意見に左右されるタイプではない。彼が言うには、ロシアの交響曲だって根っこはドイツのものだ。「ビールの代わりにウオッカを付け加えている」だけだ、とのこと。セザール・フランク(フランス)の交響曲だって根っこはドイツのものだ(ホルンの使い方が少し違うだけ)。同じことが、リスト(ハンガリー)、エルガー(イギリス)、グリーグノルウェー)、それからドヴォルザークチェコ)の交響曲にも言えるのだ。どこのお国柄が加わろうが、モーツァルトからマーラーまで一本通ったドイツ音楽のベースは、無視できないのである。 

 

さてここで、この人物(勿論、バーンスタイン本人)は「おらが国の音楽」について、そして、アメリカのミュージカル誕生を支えた、天真爛漫・多芸多才・気分上々たるジャズについて、語り始める。現代のアメリカに颯爽と現れし「モーツアルトの再来」が、「ガイズ・アンド・ドールズ」だの「夜の豹」だのといったミュージカルを、芸術の域にまで高めてやろうと、鼻息も荒げである。紛れもなくバーンスタインは、自分をモーツアルトの再来よろしく、ミュージカルをジャズの落し子からドラマチックな芸術作品の域まで引き上げてやろう、としていた(些かヘソ曲がりな距離のとり方だが、無駄口を排した誇りを持っている)。一方で、このやり取りは見方によっては、こうも解釈できる。つまり、彼はヨーロッパでは既に、メディア映えする絶対的スターであり、また指揮者であったわけだが、それと同じ位の認知度を、作曲家としても生涯かけて勝ち取ってやるという、些か自分を低く見すぎて肩に力が入りすぎている感が否めない、というわけだ。 

 

アメリカ音楽とは何か?」次の代表選手は、クルト・ヴァイルだ。1920年代には、欧州と米国の2つの世界を生きた作曲家である。「欧州」クルト・ヴァイルと、「米国」クルト・ヴァイルの、2人別々のアーティストが居るが如く、まともな文芸雑誌や音楽雑誌も扱う始末。この物書き連中は、クルト・ヴァイル本人がどれだけ本物の作品をしっかり作り続けても、それをちゃんと認めようともせず、大西洋を両側から挟んで、「ハリウッドのソングライター」と、「ドイツ共和制下の社会風刺劇音楽作曲家」との、架空の「2人」を対決させるかのように書き立てた。傍目には、クルト・ヴァイルは米国上陸と同時に、芸術家としての命を絶ち、本家ヨーロッパで身につけた音楽の伝統を綺麗サッパリ捨て去って、そして生まれ変わった、そんな風に思えた。だがこれが間違った判断であることは、「ストリート・シーン」のような作品を見れば容易にわかる。「ブロードウェイ・オペラ」(金儲けの為の歌劇)という上面を剥がした下には、社会を鋭く見つめるコメンテーターとして、そして優れたパロディ―音楽の作曲家として、依然変わらぬクルト・ヴァイルが見える。だが、作家のメアリー・マッカーシーの言葉を借りれば、クルト・ヴァイルは、玄人も素人も音楽好きを十分納得させつつ、平静を装った。このアメリカ人作家は、どんな音楽アナリストよりも、はるかに鋭い耳と、はるかを見通す目とを持ち合わせていたのは、間違いなかった。 

 

キース・ジャレットには、「米国」と「欧州」の、2つの顔がある、と考えがちである。少なくとも彼のマネージャーを務めるジョージ・アヴァキアンによれば、アトランティックやABCインパルス!といったレーベルからの作品が「凡庸でガチガチ」であるのが「米国」の方。対する「欧州」の方は「芸術的でヘンテコ」である作品が、ECMレーベルから生まれた、国や民族を超えたアーティスト。この2つのレコード作品も、全く性格の違うものであると見なすことは、恐らく正しいのだろう。だが、恐らく同様に間違っているのは、「両極端なものをつくってやろう」という邪念に駆られた結果だ、と決めつけることである。彼は単なる多面的なアーティストであり、与えられた機会を逃さず、自らの音楽面のアイデアを形にしているだけである。耳の肥えた音楽ファンなら絶対にしないであろう、「対決!チャーリー・ヘイデンポール・モチアンを擁する 

アメリカン・トリオの作品VSゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットを擁するECMの作品」という構図。いわゆる「アメリカン・カルテット」と「ヨーロピアン・カルテット」が、これほど性格が異なるのは、其々美的感覚がかけ離れているからではなく、個々の奏者が其々独特な性格を持ち合わせているからである。 

 

ジャレットが3つのクラシックアルバムを除く最後の録音をアメリカのレーベルでリリースした1978年までの音源を鑑みるに、その違いは、録音作業をした時期の諸条件に、原因の大半があるといえる。つまりそれは、プロデューサーに英断や誠意があったか(又は無かったか)、そしてレーベル担当マネージャーが聞き手に対しどんな視点を持っていたか、である。ジャレットは魔法使いではない。アメリカンだろうとヨーロピアンだろうと、適切な方の音楽の流れを放水できただけのことだ。彼はマンフレート・アイヒャーのようなプロデューサーに出会えたことを、幸運であったと自覚していた。なおかつ、その幸運を活かす術を知っていた。もしECMがなかったら、ジャレットは「別々の2つの顔」に分けられてしまっていただろう。一つは大衆受けする音楽を量産する「アーティスト」、もう一つはタンスの肥やしを量産する「しがない作曲家」。でもECMがあったので、ジャレットはノビノビと自分の望む音楽を量産することが、当時も、そしてこれまでも、出来ている。その結果は、キース・ジャレット本人の考えが産み出したものに他ならない。欧「州」だの米「国」だのに由来する音風景が産み出したものではないのだ。 

 

 

1972年から1979年までの間にECMアメリカのレーベルインパルス!」の両方合わせて23ものアルバムがキース・ジャレットによってリリースされた。これに加えて更に6つ、彼は他のバンドとのアルバムも出している。彼の名前で、年平均3つということになる。スタジオ収録やライブ音源、トリオ、カルテット、ソロ、収録場所もアメリカ国内のみならず、定期的にヨーロッパや日本で行われた。ジャレットの音楽キャリアの中で、最も多産な期間であった。爆発的な勢いで作り続けたものの(そしてこれが後にモノを言うことに)、一方でこれが、彼の社会生活、あるいは私生活に影を落とす。 

 

 

ロックジャズの大洪水はさておき、世界中のジャズ愛好家に何が訪れようとしているのかを知らせるように、キース・ジャレットにとって自分の方向性を決定づける時が、予め決められていたかの如く到来したことを告げたのが、3つの、それも全く性格の異なる作品だ。まずは「誕生」。いわゆる「アメリカン・カルテット」との処女作。次は「エクスペクテーションズ」。2枚組LPで、同じくアメリカン・カルテットによるが、ここでは打楽器奏者のアイアート・モレイラ(ワイト島でのマイルス・デイヴィスのバンドに共に参加)と、ギター奏者のサム・ブラウン、そしてホーン/ストリングスの両セクションという豪華な顔ぶれが参加。最後は「フェイシング・ユー」。彼のECMからの第1作目。 

 

キース・ジャレットにとって、ECMとのつながりがある中で、こういった演奏活動における新たな機会の数々が、彼に対して開かれたことは、程なく彼がハッキリ認識することとなった。CBSレコードはジャレットとのレコーディング契約更新をしなかった。「エクスペクテーションズ」は、一般聴衆には、諸手を挙げて歓迎されはしたものの、レーベル側を満足させる売上は残せなかったからだ。一方マンフレート・アイヒャーは、「ルータ・アンド・ダイチャ」(前年ジャック・ディジョネットとのデュオをロサンゼルスで収録したもの)をミックスダウンし、ジャレットのECMによるアルバム第2弾として、1973年にリリースする。次に、このミュンヘンを拠点とするレーベルは、同じ年にジャレットのために18回のソロコンサートツアーを企画した。そのうちの2箇所(ブレーメンローザンヌ)を収録した3枚組LPが、直ちにリリースされた。アメリカ人は儲かる作品作りを強要し、ヨーロッパでは何の拘束もなく芸術表現を謳歌できる。ジャレットがそう思いを募らせても、驚きでも何でもない。なのに、彼のソロツアーとそのアルバムは、本国アメリカでも大反響を呼んでしまったのだ。1975年のニューヨーク・タイムズに掲載された論評によると、同年までの8年間の総括として、ジョン・コルトレーンが1967年に亡くなって以降、時代を席巻するロックジャズによる「エレキアンプ」に対し、「アコースティック音楽」の復権に雄々しくも立ちあがったキース・ジャレットこそ、コルトレーンの後継者としてマイルス・デイヴィスオーネット・コールマンより相応しく、これにより「ジャズの巨人」に仲間入りを果たした、としている。 

 

 

この、ドイツ人プロデューサーが企画したツアーは、あらゆる演奏面での意味において成功を収め、その大きな役割を果たしたのが、ブレーメンローザンヌの3枚組レコードである。マンフレート・アイヒャーはこのツアーにジャレットと同行し、二人の間の個人的信頼関係は益々深まっていった。だがヨーロッパでの一時的逗留は、ジャレットには困難を突きつけたのも事実であった。若い頃、乗用車をプッシュスタートさせてばかりいて腰に痛みを積み重ねたせいで、腰痛を患い、それが今頃再発し、このツアー中のいくつか、特にブレーメン会場で、彼を苦しめた。彼は自覚していた。彼の癖のある弾き方が、腰痛を防ぐどころか、悪化させる傾向にあったのだ。大昔、ボストンに居た頃、彼の「落ちこぼれトリオ」のツアー中、このまま体を気遣わず演奏し続けたら、年をとった時に指圧の世話になる羽目になるぞ、と警告されていた。警告は的中する。このヨーロッパでのツアー中ずっと、ジャレットはコルセットをはめ、身動きもままならず、既にヨーロッパへ向かう飛行機の中で何度も痛み止めを服用し、本番と本番の間は殆どホテルのベッドにいた。問題のブレーメンでは、サウンドチェックもほとんどままならず、再度痛み止めを服用し、本番はずっと、幾つかの体の動きをしないようずっと頭がいっぱいだった。お陰でその後、彼はツアー中、何を演奏しどう切り抜けたか、自分で説明できる記憶が全くなかった。更に驚くべきは、後日アイヒャーが彼に手渡した、ブレーメンでの本番を収録した至高の録音が、のちにアメリカ人だけでなく、日本でも、そして勿論、会場となったドイツでも、好評を博すことになったことだ。 

 

 

 

1973年このLPボックス発売されると自称専門家」達はこぞって首を横に振り、この馬鹿げていると思われる制作への投資は、絶対報われない、と考えた。たった2,3年で、この「馬鹿げていると思われる」LPは、堂々35万枚を売り上げてしまっていた。これはロックジャズの時代にあって、他の多くのレコードに大きく差をつけるものだった。明らかに、かなりの数の音楽ファンが、ガンガン鳴り続けるリズムマシンや電子音によるリフを聴きふけるようなことはしないで、メロディに頼らずとも自由にインプロヴァイズされた演奏についていくことが、既に出来ていた。このレコードを引っさげて、キース・ジャレットは自分のスタイルをしっかりと持って、未開の地を制圧し、自らの演奏活動を展開した結果、小さいながらも重要なジャズの革新グループを形成した。 

 

同様の衝撃が走ったのが1年後にリリースされた2枚組アルバム「イン・ザ・ライト」である。特にアメリカの音楽ファンは、このジャズピアノ奏者の七変化に驚いた。今回は芸術性を重視したクラシック音楽の作曲家か、というわけである。音楽雑誌「ダウンビート」は、このレコードに最高位の評価を与え、音楽の美しさをうまく表現する文言が見つからず、ひたすら形容詞を羅列して楽曲の精妙さを書き連ねるしかないことに、恥じ入るばかりであった。執筆者の記すところ、敢えて大げさな物言いになってしまうが、この音楽は「深みのある、ワーグナー風のセンスを持ち、魅惑的で、大胆さを備えた感性あふれる作品の素晴らしさを感じさせる」とくくり、文句なしにクラシック音楽の名曲の数々に肩を並べるであろう、とした。評論の締めくくりに、「イン・ザ・ライト」は、新しく革新的なアメリカ音楽とは何かを見つけるカギとして、我々が手にしたものである、との仮説を記している。 

 

 

当の本人は彼の新しいアルバムがこのような賛辞を引き出すとは夢にも思っていなかったであろう彼は曲目解説でこのレコードを聴くときにはこれまで聴いてきた音楽は全て忘れてこの曲はどんな形式なのかとか考えないようにして、アルバムの前評判も気にせず、この音楽は何というのか?など思いを巡らさず、こういう音楽は存在するのかどうか?すら考えないようにしてほしい、としている。ジャレットがこれほど極端な物言いをしたのは、心を無にして音楽の美しさのみを楽しんでほしい、と希望したのかもしれない。だが、おそらくは、彼は単純に、普段ジャズをやっている男が、全く予想もできないような代物をレコードに吹き込んだ、などと誤解されたくなかっただけだろう。ドイツでは、多面的な音楽形式をもち、素晴らしい曲づくりをしているレコードとして、非常に好意的に受け入れられるも、満足度はその褒め具合には比例しなかった。これ以降、ジャレットに関する論評は、新しいコンサートプログラムや新しいレコード制作のたびに、「何でもアリ」が常套句となった。これが、彼と彼の作品を崇拝する人々が増えてゆく鍵となる必要条件となり、いまやその枝は広がり始めていた。 

 

これら傑作の数々が世に出た頃に、キース・ジャレットは更に4枚のジャズアルバムを、ABCインパルス!からリリースした。所謂「アメリカン・カルテット」で、今回は1人、いやさ2人の打楽器奏者を加えた形になっている。まずは「フォート・ヤウー」。1973年2月にヴィレッジヴァンガードで収録されたもの。続いて1年後にスタジオ収録された3作「宝島」、「バックハンド」、そして「生と死の幻想」。こんな短期間に仕上げた、彼の頭の中の胸の内を覗いてみたいなら、これらのアルバムと、直前にECMからリリースされたものとを、関連付けて考えると良い。要するに、彼は既に前代未聞の、全編フリーインプロバイゼーションの3枚組LPを仕上げ、次の2枚組LPでは、弦楽四重奏だのフーガ形式だの交響曲的な作風だのといった、かなり複雑な音楽形式を扱ってみせており、その流れで、ここに至り、モダンジャズの頂点ともいうべき4枚のレコードを更に仕上げた、というわけだ。 

 

 

 

こういった野性味あふれるジャズのサウンドビ・バップそのルーツがあるものの、フリージャズのもつ芳醇さと力強さ(あまりにグチャグチャでなければ、の話だが)を併せ持つ。それがこれほど良くまとまった形で聴けるライブ音源は、「フォート・ヤウー」以外では滅多にお目にかかれない。1曲目の「ミスフィッツ」では、キース・ジャレットポール・モチアン、そしてチャーリー・ヘイデンの3人がその後の展開のベースとなる、まるで競争でもするかのような繰り返しのパターンが、聴く人の耳を一気に奪ってゆく。すると突如主音が変わり、曲の「圧」が更に増し(初めて聴く時は全く予想不可能だろう)、その後また主音が変わる。モチアンの力のこもったシンバルは、ジャレットと完璧に息があっており、二人それぞれの、フレーズにメリハリをつけるアクセントが、ビッシリ隙間なく聞こえてきて、誰が誰をリードしているのか、ほとんどわからない。ひたすら生き残りをかけた競争は、あたかも「薄氷を踏む思い」というところ(訳注;コンスタンス湖[ボーデン湖]は十分厚みのある氷が滅多に張らない)。「みんな、後ろなんか振り向く暇はないぞ」と願うばかり。彼はインプロヴァイズしながら作曲すると言う。それはきっとこう言いたいのだ「一つ一つの音符は、論理的に配置されており、入れ替えはできない。既に他のオプションはしっかり試し済みだ。」試し済み、といっても、テンポ230(訳注:1秒間に4回手を叩く速さ)で試し済みというから、恐れ入ったものだ。サックスのデューイ・レッドマンタンギング(訳注:舌打ちで音を細かく刻むこと)は圧が強烈で、叫び声のようになってくる。彼の喉と楽器が一体化してしまったようである。レッドマンが呻くようなサウンドでサックスを吹きまくる、そのテンションで、ジャレットは、太鼓でも打ち鳴らすかのようにピアノを弾きまくる。その間チャーリー・ヘイデンは自分の仕事に勤しみ、「音の塗り残し」を自分のベースで塗り尽くしてゆく。