about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

<前半部改訂版>Keith Jarrett伝記(英語版)pp164-171

12.抗うこと/立ちはだかるもの ~最後の涙~

 

キース・ジャレットとは何者か。我々が目撃する最もクリエイティブなミュージシャンの一人、ソフトな口調で話す男(そもそも人前で話をすれば、のことだが)、高度な理解力に支えられた聴く耳を持つ人、大胆なピアノ奏者、時代の最先端を生きる用心深い人、市民社会に在って世情を把握している人、優れた伴奏をする器楽奏者、脇役に在っても主役に回ってもひときわ輝く演奏家、バッハからジョン・ケージ以降の音楽にまで全て詳しい人、ライナー・マリア・リルケとロバート・ブライをこよなく愛する人ニューヨーク・タイムズ紙の編集部へ堂々と投稿する人、アメリカの良心を信じる米国民、世界市民としての意識を持つ男、複雑さを十分含んだ上で旧世界たるヨーロッパに惹かれる人、不戦論者、女を愛し危ない橋を渡ることを厭わぬ男、人見知りで遠慮がちな人、見聞き・感知したことは決して忘れない人、急進論者、伝統を重んじる人、ロマン主義芸術支持者、声を荒らげぬ政治思想家、絶対/相対音感ともに完璧な男、地震波計のように将来の波を感知する人、旋律の職人、パーカッション奏者であり世界各地の打楽器に詳しくもある民俗学者のような人、夢遊病者、友情に厚い人(一旦ハマれば)、厳しい状況であるほど能力を発揮するジャズ・ミュージシャン、ぶっつけ本番の効くインプロヴァイザー、詩的霊感を常に求め自己解決能力に長けた天才、熟慮の上革新を図る人、その時々の時代感覚を持てる人(右派でも左派でも上澄みでもどん底でもなく)、インフルエンサー、歌をうたう人、自分を大事に守る人、無宗派ではあるが宗教的信心を持つ人、求道者、軽業師、「間」を好んで音の風景を創る人、自由な思想ができる人、スキーのできる人、日本通、父、兄弟、祖父、夫、所謂「専門家」と称する連中との舌戦にモーツァルトの援軍を願う音楽論者、リサーチをとことんし尽くす人、「お住いは?」と聞かれれば「北米東海岸と南仏です」と答える男、バッハの信奉者であり同時にバド・パウエルの精通者、万物に神が宿ると考える男、恍惚の男、官能主義者、作詞をする人、ワーカホリック、高潔な男、未知の世界を切り拓く人、現在故障中のアスリート、時代を先駆ける人、市民社会でキチンと教育を受けた人、考古学者、引きこもりのガクシャ(学者)、熱狂的信奉の対象となっている人、中肉中背、悪気はないのに人を傷つけてばかりいる紳士的な人、向学心を切らさない器用人、等々。 

 

だが生涯を通じ、キース・ジャレットのこうしたよく知られている側面の数々は、彼の習慣というか、むしろ強迫観念にかられてというべきか、基本的に物事を受け入れようとしない姿勢によるものだ。ジャレットと言えば、懐疑の権化である。それ故に、彼と共通点を持つ別の大芸術家を挙げよう。「否」が口癖で、自叙伝の書名にまでした男だ。ドイツの社会風刺画家ジョージ・グロスが、自身のこれまでを描く基本理念は、キース・ジャレットがもし自叙伝を書けば、ぴったりハマるだろう。それは「小さな『是』」、大きな『否』」、という。勿論こんなことをジャレットが聞けば、即座に反論し、こう説明するだろう。自分の場合は、「小さな『否』、大きな『是』」、が正確なところだと。キース・ジャレットに対するインタビューを読み解いてゆくと、どんな話題であっても、何を振られても、彼のリアクションには、その場を和やかに進めようなどと思っていないことが(明言しようがしまいが)、容易に感じ取れる。ジャレットの音楽家としての実績も含めて、彼の性格を一言でビシッと決めるなら、「文句垂れ」だろう。彼はいつも、自分の立ち位置を、相手と対峙する所に置く。彼は常に異論を唱え、心持ちは懐疑的で、他者の発言や行為、あるいは主義主張に対しては、全てに疑問を呈する。彼は「拒否権」が服を着て歩いているようなものだ。当然、客観的に見れば彼は間違ってはいない。だが実際賢明で、故に「正しい」としても、仮に本格的な論争の場か何かであっても、そんなに四六時中喧嘩を売るような態度を取るとなると、それは全然別の話になってくる。 

 

だがもしキース・ジャレットイエスマンになってしまったら、彼の音楽はガラリと変わり、今ほどの魅力もなくなることだろう。自身の演奏が些細なことで邪魔されると、「自分が未熟なんだかしょうがない」など、これっぽっちも思わないのが常であることは、誰もがすぐにわかるだろう。だが仮に「自分が未熟なんだから…」と、明らかに我慢しているように見えるこの態度(理屈の上では違うのだが)の裏にあるのは、誰もがその存在を思うであろう「否」だ。「否」の矛先は、独善的なアヴァンギャルドの者達が、美・哀愁・そしてロマンティックでセンチメンタルな音楽表現を全面的に軽視するその態度に、向けられている。 

 

ジャレットが、音楽活動上初めて「否」と言ったのは、1961年のスタン・ケントンによるサマーキャンプ(夏の音楽講習会)でのことと考えられる。彼は、自身の作品「カーボン・デポジット」を売ってくれという申し出を断ったのだ。もし売っておけば資金が入ったわけだし、若干16歳の作品が腕利きのバンドディレクターの手にかかれば、何かしらの注目を集めただろうし、場合によってはジャレットのキャリアに拍車がかかったはずだった。明らかに、ジャレットの音楽人生においては、金銭的な話は重要ではない、ということだ。 

 

もっと言えば、前記の例にもあるように、彼の場合、他人に認められたいと思う気持ちよりも、厳しい自己評価をクリアしたいという気持ちのほうが、常に強かったのだ。この後すぐ、奨学金をしっかりと得てバークリー音楽大学(現)へ進学するも、創造性を全開発揮して広く物事を吸収しようとする学生ジャレットと、ビックリするほど狭く物事を排除しようとする方針を掲げる学校側とが、正面衝突することになる。 

 

彼が嫌悪感をためらわず口にするも、それでも即座に言うことはしなかった「否」が、一つある。それは彼がマイルス・デイヴィスのバンドに参加していたときのことだ。当時デイヴィスは、もう以前には引き返さない方針で、電子音楽の道をひた走っていた。彼は新入りのピアノ奏者ジャレットに、電子オルガンと電子ピアノの席を担当させたのである。ジャレットは1年半でこの席を立った。その原因の大半は、ジャレットが電子鍵盤楽器に対して、拒否反応が日に日に増していったからである。事実、彼はこれ以降こういった楽器に全く興味を示さず、自らの音楽活動にこれらを取り入れることもなかった。 

 

 

次の事例は、1つ目より深刻な問題である。というのも、その矛先が、他人ではなく、自分自身に向けられたものだからだ。彼は、その頃までの自身のインプロヴァイゼーション全体に関する概念を、目の前の素材を自発的に変奏してゆくとか、あるいは、「ヘッドアレンジメント」(譜面を起こさず口頭で編曲する方法)である、と定義していたが、これに矛先を向けたのである。ブレーメンローザンヌでの公演を収めた「ソロ・コンサーツ」により、「フリー演奏」が世に示されていた。ここでのインプロヴァイゼーションは、楽器は用意するが、素材は用意せず、大枠も用意せずに、自由なソロのピアノ演奏により、本番中その場のインスピレーションから、音楽を次々と展開してゆくという方法だった。 

 

インプロヴァイゼーションにおける革命的なことではあったが、これには様々な問題が伴っており、それはジャズ・ミュージシャンとみなされているソロ演奏家が、既に抱えていた数々の困難試練を、更に深刻化させることになった。それをジャレットが初めてハッキリと思い知ったのは1975年とされている。ケルン歌劇場での公演で、彼にあてがわれたピアノ。もしこれがクラシックの演奏家だったら、アルフレート・ブレンデルのような大御所からランランのような小僧っ子まで全員、即座に本番中止である。企画担当側の、プロ意識の欠如が原因、とされるだろう。事実、合唱練習用のオンボロ小型グランドピアノが、こともあろうに舞台上に、本番演奏用として持ち込まれたのだ。これは当時クラシック音楽界に蔓延していた、ジャズ・ミュージシャン達に対する一種の偏見を露呈している。普通にまともな仕事をする舞台係なら、もしこんなピアノが、例えばグリゴリー・ソコロフやマルタ・アルゲリッチのような大物のステージに持ち込まれるなんて情報が耳に入ったら、頭の中で警報機が鳴り響くことだろう。こういった惨状が好転するのは、ジャレットがクラシックの優れた演奏家であるとの評判が、徐々に世に広まってからである。 

 

ジャレットはソロインプロヴァイズの活動において、新たな問題を色々と抱えるようになり、再び文句垂れに忙しくなる。ソロでのフリー演奏という、予測不能で予防不能な公演を行うには、数々の困難が伴うだけに、高いレベルの集中力が必要だ。これと正面衝突するのが、聴衆の振る舞いである。彼らは通常ジャズのコンサートでは、もっとカジュアルな雰囲気を常としているのである。こういう聴衆が興味を示すのは、超有名ピアノ奏者としての佇まいを目の当たりにすることであり、しっかりと本番をこなすピアノ奏者としての、演奏の中身ではないのだ。本番中は完全な静寂を求めるというジャレットの思いは、歌姫がヒステリーを起こしているようなものだと、即断された。更には、1990年代に入ると、若い世代が人を苛立たせる行為として、何かといえば携帯電話を取り出して、目の前にあるものを片っ端から写真に撮っていくことが始まる。この間ジャレットは、必死になって、今までにない示唆に富んだ公演を経験してもらおうと、ステージでの演奏を展開していた。両者の思いの枝分かれにより、お互い相容れないという拒否反応の発生へと、事態は硬化してゆく。キース・ジャレットが演奏へ集中してほしいと求めるほど、聴衆はかえって拒否するようになり、舞台の縁を堺にして、双方がお互いに対して拒否反応を強大化してゆく。ジャレットの方は、演奏できないという意思表示として、小さく咳払いをする。聴衆の方は、時に察しつつ、絶対譲らない示威行為にウンザリしていた。舞台芸術というものは、それ自体に説得力がれば、いちいち演者が強く要求しなくても、聴衆は集中して楽しむものだ、という一般論が、ここでは物を言う。以下2つの例をご覧いただくと、演奏者と聴衆との対峙が、独り歩きしていった様子がうかがえる。 

 

まずは2006年11月3日、パリ・サル・プレイエルでの、キース・ジャレットのソロコンサートでの一幕。黒系の衣装で登場したそのミュージシャンは、万雷の拍手と、客席中からのカメラフラッシュで迎えられる。彼はピアノの席につくと、一呼吸置いて、演奏を始める。だが客席のフラッシュが止まらない。ジャレットは、この状況では演奏に集中できないとして、撮影を止めるよう、聴衆に丁寧にお願いをする。彼は演奏を再開する。ところがすぐにフラッシュが次々と光り始める。再度彼は演奏を中断し、立ち上がると、舞台かぶりつきまででて、「では、今撮影をどうぞ。その代わり、これで終わりにしてくださいね」と言う。携帯での撮影音が止む。ジャレットはピアノの方に戻ると、演奏を再開する。ところが一発目の音を鳴らした途端に、フラッシュがまた始まる。これには、彼は舞台袖へ姿を消す。聴衆のほうは、叫び声、手拍子、足踏みと、5分ほど続き、誰も落とし所がわからなくなる。キース・ジャレットがちゃんと戻ってくる。割れんばかりの拍手、そして公演を最初からやり直す。フラッシュが続くも、次第に光の数が減り、ついには完全に止む。場内は穏やかになり、ジャレットの演奏により公演は素晴らしものになる。様々な音のアイデアがほとばしる、ピアノと聴衆が一緒になって興奮に打ち震える、そんなコンサートは、ジャレットの演奏を明らかに喜び、何度もかかるアンコールの最後の1曲まで、楽しみ尽くされる。ジャレットは公演後、最高に上機嫌。この日の聴衆について質問されると、彼はただ肩をすくめて、こんなの良くある話ですよ、というのみ。 

 

 

 

 

場面は変わって、2007年10月21日、フランクフルト旧オペラ座キース・ジャレットにとっては15年ぶりの、ドイツでのソロコンサートである。3月に公演告知があり、それからわずか3日で2400席のチケットは完売。キース・ジャレットが登場。万雷の拍手、そしてひとしき終わると、完全な静寂。ここの聴衆は、演奏者が何を求めているか、理解しているのだ。誰も咳払いなどしようとしないばかりか、吐息の音さえ気まずい雰囲気。皆携帯電話をしまっている。お年寄りが一人、左のバルコニー席にいて、目眩が止まらないものの、介添人がなんとか助けて席にやっと着く。と思ったら、別の場所で誰かが咳を一つ、そして二つ目が続く。キース・ジャレットは困惑しているのが見て取れるほどで、聴衆に向かって語り始める。こんな状況で集中するのがいかに困難であるか、自分だって咳をしないようにしている、自重するのがそんなに大変なのか、などと話を続けた。彼は公演を中断すると、舞台裏へ引っ込み、再度登場、演奏するキッカケを探ると、オスティナートを弾き始めて、自ら安定走行へと持ち込む。休憩後、ジャレットは集中を高め、もはや自分の音風景には何者も邪魔を入れない、という決意満々。かくして、凡百の公演同様に、この素晴らしいが最高ではない公演は、無事収録された。これリリースするの?多分タイトルは「フランクフルト・コンサート」だよな?しっかり評判取れるのか?マンフレート・アイヒャーは迷う。彼はそれを見切らねばならない立場だ。例のパリの聴衆達が絡んだあの一件のほうが、CDにする甲斐があるようにも思える。 

 

 

 

 

この手の事例は枚挙にいとまがない。だがこの2つを見れば、彼と聴衆の双方の思いにずれが生じた際に、どういう事態になるかを、しっかりと示している。同時に、この2つの事例は、ジャレットが当時どのようなジレンマに陥っていたかを理解する手助けになる。パリっ子達の無神経な振る舞いに対して、ジャレットがとった「否」のリアクション、そしてフランクフルトでとった、学校の先生のような傲慢な態度、どちらも、彼の思いを理解したり、彼を弁護したりするのは、容易いことではない。とんでもなく間違ったことが、明らかにここでは起きている。穿った見方もある。ジャレットは実は、その日のアイデアが思いつかず、あるいは少なくとも、一度演奏し出したら上手く行かなかったので、聴衆が何か気まぐれでやらかさないか、些細なことでも噛み付いてやろうと、時間を稼いでいたのではないか、というものだ。 

 

演奏家がこのようにオーバーリアクションをするのは、心の深いところにあるものに突き動かされてのことである。その中には、社会的に、あるいは文化的に差別を受けている境遇を通して膨らんだものもある。コンサートを開くようなピアノ奏者なら、咳の一つや二つでガタガタ言うのはいかがかと思うが、これが演奏中シャッターを切られる、となるなら、我慢などする必要はない。ベートーヴェンピアノソナタの演奏中なら論外、とされているのは、今更いうまでもないだろう。これがジャズ・ミュージシャンとなると、演奏中写真を取られたといって、食って掛かろうものなら、ジャズの高尚さを触れ回っているとか、ジャズは俺の文化の一部だ、クラシックと同じように敬え、と思っているとか、そんな風に仕分けられてしまう。長年に亘りジャズ・ミュージシャン達が明確化してきたことは、自分たちの音楽は独立した芸術活動であり、独自の様々なルールに従って人々の耳に届くものだ、ということだ。そんな風に見ゆけば、ジャズはもっと聴衆の自発的な参加型のものになるだろう。例えば、インプロヴァイゼーションが終われば、その場で拍手するし、ベートーヴェンソナタの時のように、曲の終わりで、それも決まったマナーに則り拍手するなんてこともあり得ないだろう。そうなると、自分たちが演奏する音楽のことを「国境や民族を超えた人々のための音楽」だの、「地に足をつけた人々が踊る音楽」などと、辛うじて銘打つことも出来るだろうし、その「人々」が本番中踊りだしたとしても、そうそうは驚くこともないだろう、ということになってしまう。 

 

だが仮に、時々聴衆に向かって文句垂れをしているうちに、聴衆の方も期待しだしたり、ひどいのになると挑発したりするようになったとしても、演奏自体には何の影響もない些細なこと、のままである。もっと重要なのは、ジャレットが生涯通して戦い続けたもの:様々な音楽の「トレンド」とされるもの、その場限りの流行り、自らを学者ぶっている連中。ウィントン・マルサリスが好例。「音楽の伝導師様」であり、ジャズ・アット・リンカーンセンターを牛耳る芸術監督にして、長年に亘り自らを「貞節の象徴」と称さんばかりに、1960年代終わり頃からのジャズに対するあらゆる「外的影響」に、非難の言葉を浴びせ続けた人物だ。ウィントン・マルサリスの活動に見え隠れするこうした傾向に気づいていたのが、マイルス・デイヴィスであった。彼が自身の思いを呈した所によると、マルサリスは21歳の若さにして、既に伝統の持つ罠に足を取られてしまっており、もう二度とそこから自らを解き放てないだろう、とのことである(このことは随分あとになってから、キース・ジャレットも言い続けていた)。「本当のジャズ」といえば、スウィング、機能和声法、オフ・ビート、転調を伴うインプロヴァイゼーションがあってこそ、との彼の主義主張は、実際のジャズには、彼が言うような在り方をしてはいないのである。ずっと昔、1899年(デューク・エリントンが生まれた年)ユービー・ブレイクは12歳にしてラグタイムの作品を書き始めた。彼はショパンの楽曲をパラフレーズしたり、行進曲にシンコペーションをかけたりと、様々な音楽を取り入れた。時代は下がってマイルス・デイヴィスは、ジミ・ヘンドリックスカールハインツ・シュトックハウゼン、そしてジャコモ・プッチーニらの影響を受けた。そしてハービー・ハンコックも、ブルースの和声よりは電子音楽サウンドに興味を持っていた。たった100年のジャズの歴史は、程度の差はあるがジャズの要素と定義されるものと、定義不能なほどに数限りないサウンドの概念との間で、演奏がやり取りされてきた事例で満ち溢れているのだ。「純粋なジャズ」など、独断的な物言いをする連中が言い散らかした。ありえない話でしかないのだ。そしてそのことを、誰よりもよく理解していたのが、他でもないキース・ジャレットその人なのである。 

 

だが、ともすると「へそ曲がり」と揶揄されてしまうキース・ジャレットのキャラクターを生んでいるのは、ピアノの弾き方の伝統的なルールを、一つ一つ疑ってみるという、彼の演奏スタイルに他ならない。彼の音楽を聴くと、ピアノは「相方」という感じはあまりしない。するのは、ピアノは「立ち向かうべきもの」という感じである。この楽器は、手懐ける上で、自分が楽器を乗っ取るように一体化した上で、知略を絞り、トリックを仕掛け、傍から見れば踊っているかのような変わった手足の動かし方で、時には、というより頻繁に、力でねじ伏せるようにする。人呼んで「魔法の瞬間」と称する、彼の音楽の真骨頂は、全ての障壁が姿を消して、鍵盤と10本の指が一体となり、贅肉の取れたコンパクトな形の音楽が生まれてくる瞬間にある。彼の音楽を魅力的にし、同時に影響を与えているのは、サウンドにどっぷり浸かり、漆黒のピアノの中へとその身を潜り込ませ、そして忘れてはいけない、ピアノと対位法的に自らも声を張り上げることにより、体の動き全体で音楽を表現し、それが実際の音にも反映されていることによる。この「振り付け」とも言える有り様から、殆どの場合ありえないと目される演奏が、導き出されている。ジャレットのインプロヴァイゼーションを聞いていると、ピアノの鍵盤を叩いているのに、ビブラートがかかっているようなサウンドを、時々確認できる。四角四面のピアノのサウンドを打破しようとして、ペダル効果やレガート奏法を使うのは、ピアノ奏者達の常套手段だ。だがキース・ジャレットの場合、ストラディバリのバイオリンでも弾くかのように、鍵盤を指で震わせているのである。そして見ての通り、震える指により、無機質な音符は、解体し、色付けがなされ、体温を得て、すっかり生まれ変わるのである。 

 

ジャレットは世界のどこで舞台に立っても、無二の存在と評されるミュージシャンだ。彼が与える影響は、周りの同業者達へは勿論のこと、ジャズの世界全体に及んでいる。「ケルン・コンサート」を聴いた作家のヘンリー・ミラーは、いたく感動し、ジャレットにそれを伝えようと、今ではほとんど忘れ去られた「手紙」などというものを、しっかり言葉を選びぬいて書きしたためたほどだった。1981年6月2日のソロコンサートの際、指揮者のセルジュ・チェリビダッケは、この「魔法の瞬間」に魅了され、しばらく席を立てなかったほどだ。ジャレットのソロコンサートを満喫した聴衆達が全員、夏の夜のミュンヘンの街へと帰っていった後も、しばらく誰もいなくなったヘラクレスザールの客席に、一人残っていたという。ドイツ文学評論界のご意見番(であり音楽愛好家)のマルセル・ライヒラニツキ(好きな音楽はシューベルトのリート[歌と詩の融合]とワーグナーの楽劇)は、仲間の音楽評論家達から、キース・ジャレット「が演じるピアノによる一人芝居」について、あまりに生き生きとした話を聞かされていたものだから、2007年10月のフランクフルト旧オペラ座での公演を、わざわざ時間を作って見に行ったほどだ。総じて、ライヒラニツキは、ドビュッシーや、もしかしたらスクリャービンを彷彿とさせるパッセージの数々に熱狂したとはいえ、演奏会自体が、後々彼にとって、価値ある経験となった。 

 

 

ジャレットは演奏会の開催回数や曲数については、常にとやかく言わない態度をとっている。おかげで聞きに来る観客の方も、更に興味をかきたてられている。ところが近年、公開演奏は散発的になり、CDリリースも不定期なものになりつつある。2014年以降のリリース作品は、いずれも秀作ばかりである。彼の手掛ける、あらゆる形態とジャンルの演奏が、列挙されるがごとく見受けられる。「ハンブルク'72」(チャーリー・ヘイデンポール・モチアンとのトリオ)、「アフター・ザ・フォール」(スタンダーズトリオ)、「ラスト・ダンス」(チャーリー・ヘイデンとのデュオ)、ピアノ協奏曲集(ベラ・バルトークサミュエル・バーバー)、「平均律クラヴィーア曲集」(バッハ:ライブ音源)、「クリエイション」「ラ・フェニーチェ」「ミュンヘン2016」「ブダペスト・コンサート」(いずれもソロ)。実はこれらの多くは、収録がうんと以前のものなのだ。3つは既に、ECM社の倉庫棚で、ずっと日の目を見るのを、待ちに待っていたものだ。 

 

印象として、キース・ジャレットは以前にも増して、周囲とのバランスを多少犠牲にしてでも、ニュージャージー州の自宅にこもって、外界との接触を避けたがるようになってきた。青天の霹靂、2011年暮にポール・モチアン、そして2014年7月にチャーリー・ヘイデンが、相次いでこの世を去った。2人ともジャレットにとって、本当に長きに亘る仕事仲間であり、そして良き友人であったのに。ジャック・ディジョネットは自身のグループでのツアー活動に力をシフトし、ゲイリー・ピーコックは聴覚を患う。キース・ジャレットが、雑誌「ジャズワイズ」で活動終了を宣言したのがスタンダーズトリオである。素晴らしい成果を上げ、ジャズの歴史上最も長きに亘り、演奏を共にした3人組の一つであった。だが彼のものの言い方のせいで、キース・ジャレットが読者を驚かそうとして、バンドの活動終了の話を持ち出したかのような印象を与えてしまったのである。トリオの最後のコンサートが行われた。2014年11月30日、会場はニューアークにあるニュージャージー・パフォーミングアーツセンター。ほど近いところには、ジャレットが50年近く住まうオックスフォードの自宅がある。活動終了にまつわる状況から、将来トリオを再始動を期待させる空気感を残した。だがその期待は潰えた。ゲイリー・ピーコックが、2020年4月、ニューヨーク市のおィーヴィブリッジの自宅で、この世を去ってしまったのである。 

 

2015年、キース・ジャレットはヨーロッパと、本国ニューヨーク市で、7回のソロ公演を行った。そして次の年、更に8回の公演を行うツアーを敢行。その最後の公演が、あらゆる意味で後世にその名を残すこととなる、ミュンヘンで行われた。2016年7月16日のことである。2017年2月15日には別のソロコンサートが、カーネギーホールで行われ、この模様は「ダウンビート」誌で詳細が掲載されている。常に政治に関心を持っていたキース・ジャレットは、わかり易い「言葉」で、直近に行われたアメリカ大統領選挙について、自身の思いを表したと推測される。記事を書いたブライアン・ツィマーマンによると、キース・ジャレットは深く掘り下げた表現を展開したとし、次のように述べた「彼は幸せ者だ。聴衆に対し、自らの情熱をしっかりと、狙いすまして届けることができた。それは、時に明敏に、時に完全に卓越した、ピアノでのインプロヴァイゼーションだった。」 

 

公演の本編と2曲のアンコールが終わったところで、聴衆の一人が立ち上がると、こう叫んだ「We love you, dude!」(意:いいぞ兄弟!みんなあんたの大ファンだ!)これを聞いたジャレットは、マイクの方へ歩み寄ると「I love you, too」(意:僕もです、みなさん)と応え、ピアノの席につくと、ツィマーマン曰く「胸を刺すような読み聞かせ」で、「オータム・ノクターン」を演奏してコンサートを締めくくる。場内割れんばかりの熱狂的な拍手喝采が沸き起こった。感動していることが見るからにわかるジャレットは、再びマイクを手に取ると、こう言った「お客さんに感動して泣くなんて、初めてです」。何だか、会場の誰も知らなくて、彼だけが知っていることがあるような言い方である。つまり、これが彼にとって最後のライブ公演となることを(訳注2021年現在)。 

 

2018年の上半期は、キース・ジャレットに注目してきた者達にとっては、依然として、キャリアを展開してゆく上で「ノッてる」と言ってよかった。9月のビエンナーレ・ムジカ(ヴェニス)での金獅子賞授与の話が持ち上がった。ピエール・ブーレーズルチアーノ・ベリオ、ヴォルフガング・リーム、スティーヴ・ライヒといった錚々たる作曲家達が近年受賞している、この重要な音楽賞を、キース・ジャレットが受賞となれば、初のジャズ・ミュージシャンからの選出となる。しかも、まるでインプロヴァイゼーションを看板とするアーティストの研ぎ澄まされた直感を発揮したかのように、受賞者キース・ジャレットとレコード会社は、授賞式開催地ヴェニスのオペラハウスの名を冠したソロアルバム「ラ・フェニーチェ」をリリースしたのである。だが、授賞の辞「これまでの貴殿の人生をかけた業績に対し」に暗闇をかぶせるように、この授賞式に青天の霹靂がおこる。キース・ジャレットは金獅子賞授賞式に出席できなくなってしまったのである。他にも、同年3月の予定全てと、それ以降の同年の予定を全て、キャンセルしなくてはならなくなった。キース・ジャレットとその周辺は、ほぼ完全に静けさを保った状態に陥る。そして、この何もかもをぶち壊してしまった静けさの原因を知る者は、ごく親しい友人達と、家族だけだった。彼の前に壁が立ちはだかったわけだが、これ以前の、彼の生き様や芸術活動を形成し、場合によっては彼を守ることにさえなったこともあった、いかなる壁よりも深刻であった。今回の授賞式出席を辞退したのは、彼が意識的に発言した記録や、彼の意思、彼の精神のなかを探しても、その鍵となる言葉は見つからない。なぜなら、それは彼自身の体がそうさせたからである。それも完膚なきまでに。2018年、こういった事案に関しての適切な判断を元にして、彼の健康状態に関する憶測が、既に飛び交っていた。今回立ちはだかったこの壁は、ニュージャージーの片田舎から出現した才能の持ち主キース・ジャレットを、完全停止状態にしてしまった。絶対的信頼のおける才能の持ち主を、完全停止状態にしてしまったのだ。これからどうなってしまうのか、誰もわからない。だが、こんなにも長期間の「静けさ」が、未来への一筋の光では、到底ありえない。