about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp164-167

10.文句垂れ 

 

キース・ジャレットとは何者か。我々が目撃する最もクリエイティブなミュージシャンの一人、ソフトな口調で話す男(そもそも人前で話をすれば、のことだが)、高度な理解力に支えられた聴く耳を持つ人、大胆なピアノ奏者、時代の最先端を生きる用心深い人、市民社会に在って世情を把握している人、優れた伴奏をする器楽奏者、脇役に在っても主役に回ってもひときわ輝く演奏家、バッハからジョン・ケージ以降の音楽にまで全て詳しい人、ライナー・マリア・リルケとロバート・ブライをこよなく愛する人ニューヨーク・タイムズ紙の編集部へ堂々と投稿する人、アメリカの良心を信じる米国民、世界市民としての意識を持つ男、複雑さを十分含んだ上で旧世界たるヨーロッパに惹かれる人、不戦論者、女を愛し危ない橋を渡ることを厭わぬ男、人見知りで遠慮がちな人、見聞き・感知したことは決して忘れない人、急進論者、伝統を重んじる人、ロマン主義芸術支持者、声を荒らげぬ政治思想家、絶対/相対音感ともに完璧な男、地震波計のように将来の波を感知する人、旋律の職人、パーカッション奏者であり世界各地の打楽器に詳しくもある民俗学者のような人、夢遊病者、友情に厚い人(一旦ハマれば)、厳しい状況であるほど能力を発揮するジャズ・ミュージシャン、ぶっつけ本番の効くインプロヴァイザー、詩的霊感を常に求め自己解決能力に長けた天才、熟慮の上革新を図る人、その時々の時代感覚を持てる人(右派でも左派でも上澄みでもどん底でもなく)、インフルエンサー、歌をうたう人、自分を大事に守る人、無宗派ではあるが宗教的信心を持つ人、求道者、軽業師、「間」を好んで音の風景を創る人、自由な思想ができる人、スキーのできる人、日本通、父、兄弟、祖父、夫、所謂「専門家」と称する連中との舌戦にモーツァルトの援軍を願う音楽論者、リサーチをとことんし尽くす人、「お住いは?」と聞かれれば「北米東海岸と南仏です」と答える男、バッハの信奉者であり同時にバド・パウエルの精通者、万物に神が宿ると考える男、恍惚の男、官能主義者、作詞をする人、ワーカホリック、高潔な男、未知の世界を切り拓く人、現在故障中のアスリート、時代を先駆ける人、市民社会でキチンと教育を受けた人、考古学者、引きこもりのガクシャ(学者)、熱狂的信奉の対象となっている人、中肉中背、悪気はないのに人を傷つけてばかりいる紳士的な人、向学心を切らさない器用人、等々。 

 

だが生涯を通じ、キース・ジャレットのこうしたよく知られている側面の数々は、彼の習慣というか、むしろ強迫観念にかられてというべきか、基本的に物事を受け入れようとしない姿勢によるものだ。ジャレットと言えば、懐疑の権化である。それ故に、彼と共通点を持つ別の大芸術家を挙げよう。「否」が口癖で、自叙伝の書名にまでした男だ。ドイツの社会風刺画家ジョージ・グロスが、自身のこれまでを描く基本理念は、キース・ジャレットがもし自叙伝を書けば、ぴったりハマるだろう。それは「小さな『是』」、大きな『否』」、という。勿論こんなことをジャレットが聞けば、即座に反論し、こう説明するだろう。自分の場合は、「小さな『否』、大きな『是』」、が正確なところだと。キース・ジャレットに対するインタビューを読み解いてゆくと、どんな話題であっても、何を振られても、彼のリアクションには、その場を和やかに進めようなどと思っていないことが(明言しようがしまいが)、容易に感じ取れる。ジャレットの音楽家としての実績も含めて、彼の性格を一言でビシッと決めるなら、「文句垂れ」だろう。彼はいつも、自分の立ち位置を、相手と対峙する所に置く。彼は常に異論を唱え、心持ちは懐疑的で、他者の発言や行為、あるいは主義主張に対しては、全てに疑問を呈する。彼は「拒否権」が服を着て歩いているようなものだ。当然、客観的に見れば彼は間違ってはいない。だが実際賢明で、故に「正しい」としても、仮に本格的な論争の場か何かであっても、そんなに四六時中喧嘩を売るような態度を取るとなると、それは全然別の話になってくる。 

 

だがもしキース・ジャレットイエスマンになってしまったら、彼の音楽はガラリと変わり、今ほどの魅力もなくなることだろう。自身の演奏が些細なことで邪魔されると、「自分が未熟なんだかしょうがない」など、これっぽっちも思わないのが常であることは、誰もがすぐにわかるだろう。だが仮に「自分が未熟なんだから…」と、明らかに我慢しているように見えるこの態度(理屈の上では違うのだが)の裏にあるのは、誰もがその存在を思うであろう「否」だ。「否」の矛先は、独善的なアヴァンギャルドの者達が、美・哀愁・そしてロマンティックでセンチメンタルな音楽表現を全面的に軽視するその態度に、向けられている。 

 

ジャレットが、音楽活動上初めて「否」と言ったのは、1961年のスタン・ケントンによるサマーキャンプ(夏の音楽講習会)でのことと考えられる。彼は、自身の作品「カーボン・デポジット」を売ってくれという申し出を断ったのだ。もし売っておけば資金が入ったわけだし、若干16歳の作品が腕利きのバンドディレクターの手にかかれば、何かしらの注目を集めただろうし、場合によってはジャレットのキャリアに拍車がかかったはずだった。明らかに、ジャレットの音楽人生においては、金銭的な話は重要ではない、ということだ。 

 

もっと言えば、前記の例にもあるように、彼の場合、他人に認められたいと思う気持ちよりも、厳しい自己評価をクリアしたいという気持ちのほうが、常に強かったのだ。この後すぐ、奨学金をしっかりと得てバークリー音楽大学(現)へ進学するも、創造性を全開発揮して広く物事を吸収しようとする学生ジャレットと、ビックリするほど狭く物事を排除しようとする方針を掲げる学校側とが、正面衝突することになる。 

 

彼が嫌悪感をためらわず口にするも、それでも即座に言うことはしなかった「否」が、一つある。それは彼がマイルス・デイヴィスのバンドに参加していたときのことだ。当時デイヴィスは、もう以前には引き返さない方針で、電子音楽の道をひた走っていた。彼は新入りのピアノ奏者ジャレットに、電子オルガンと電子ピアノの席を担当させたのである。ジャレットは1年半でこの席を立った。その原因の大半は、ジャレットが電子鍵盤楽器に対して、拒否反応が日に日に増していったからである。事実、彼はこれ以降こういった楽器に全く興味を示さず、自らの音楽活動にこれらを取り入れることもなかった。 

 

 

次の事例は、1つ目より深刻な問題である。というのも、その矛先が、他人ではなく、自分自身に向けられたものだからだ。彼は、その頃までの自身のインプロヴァイゼーション全体に関する概念を、目の前の素材を自発的に変奏してゆくとか、あるいは、「ヘッドアレンジメント」(譜面を起こさず口頭で編曲する方法)である、と定義していたが、これに矛先を向けたのである。ブレーメンローザンヌでの公演を収めた「ソロ・コンサーツ」により、「フリー演奏」が世に示されていた。ここでのインプロヴァイゼーションは、楽器は用意するが、素材は用意せず、大枠も用意せずに、自由なソロのピアノ演奏により、本番中その場のインスピレーションから、音楽を次々と展開してゆくという方法だった。 

 

インプロヴァイゼーションにおける革命的なことではあったが、これには様々な問題が伴っており、それはジャズ・ミュージシャンとみなされているソロ演奏家が、既に抱えていた数々の困難試練を、更に深刻化させることになった。それをジャレットが初めてハッキリと思い知ったのは1975年とされている。ケルン歌劇場での公演で、彼にあてがわれたピアノ。もしこれがクラシックの演奏家だったら、アルフレート・ブレンデルのような大御所からランランのような小僧っ子まで全員、即座に本番中止である。企画担当側の、プロ意識の欠如が原因、とされるだろう。事実、合唱練習用のオンボロ小型グランドピアノが、こともあろうに舞台上に、本番演奏用として持ち込まれたのだ。これは当時クラシック音楽界に蔓延していた、ジャズ・ミュージシャン達に対する一種の偏見を露呈している。普通にまともな仕事をする舞台係なら、もしこんなピアノが、例えばグリゴリー・ソコロフやマルタ・アルゲリッチのような大物のステージに持ち込まれるなんて情報が耳に入ったら、頭の中で警報機が鳴り響くことだろう。こういった惨状が好転するのは、ジャレットがクラシックの優れた演奏家であるとの評判が、徐々に世に広まってからである。 

 

ジャレットはソロインプロヴァイズの活動において、新たな問題を色々と抱えるようになり、再び文句垂れに忙しくなる。ソロでのフリー演奏という、予測不能で予防不能な公演を行うには、数々の困難が伴うだけに、高いレベルの集中力が必要だ。これと正面衝突するのが、聴衆の振る舞いである。彼らは通常ジャズのコンサートでは、もっとカジュアルな雰囲気を常としているのである。こういう聴衆が興味を示すのは、超有名ピアノ奏者としての佇まいを目の当たりにすることであり、しっかりと本番をこなすピアノ奏者としての、演奏の中身ではないのだ。本番中は完全な静寂を求めるというジャレットの思いは、歌姫がヒステリーを起こしているようなものだと、即断された。更には、1990年代に入ると、若い世代が人を苛立たせる行為として、何かといえば携帯電話を取り出して、目の前にあるものを片っ端から写真に撮っていくことが始まる。この間ジャレットは、必死になって、今までにない示唆に富んだ公演を経験してもらおうと、ステージでの演奏を展開していた。両者の思いの枝分かれにより、お互い相容れないという拒否反応の発生へと、事態は硬化してゆく。キース・ジャレットが演奏へ集中してほしいと求めるほど、聴衆はかえって拒否するようになり、舞台の縁を堺にして、双方がお互いに対して拒否反応を強大化してゆく。ジャレットの方は、演奏できないという意思表示として、小さく咳払いをする。聴衆の方は、時に察しつつ、絶対譲らない示威行為にウンザリしていた。舞台芸術というものは、それ自体に説得力がれば、いちいち演者が強く要求しなくても、聴衆は集中して楽しむものだ、という一般論が、ここでは物を言う。以下2つの例をご覧いただくと、演奏者と聴衆との対峙が、独り歩きしていった様子がうかがえる。 

 

まずは2006年11月3日、パリ・サル・プレイエルでの、キース・ジャレットのソロコンサートでの一幕。黒系の衣装で登場したそのミュージシャンは、万雷の拍手と、客席中からのカメラフラッシュで迎えられる。彼はピアノの席につくと、一呼吸置いて、演奏を始める。だが客席のフラッシュが止まらない。ジャレットは、この状況では演奏に集中できないとして、撮影を止めるよう、聴衆に丁寧にお願いをする。彼は演奏を再開する。ところがすぐにフラッシュが次々と光り始める。再度彼は演奏を中断し、立ち上がると、舞台かぶりつきまででて、「では、今撮影をどうぞ。その代わり、これで終わりにしてくださいね」と言う。携帯での撮影音が止む。ジャレットはピアノの方に戻ると、演奏を再開する。ところが一発目の音を鳴らした途端に、フラッシュがまた始まる。これには、彼は舞台袖へ姿を消す。聴衆のほうは、叫び声、手拍子、足踏みと、5分ほど続き、誰も落とし所がわからなくなる。キース・ジャレットがちゃんと戻ってくる。割れんばかりの拍手、そして公演を最初からやり直す。フラッシュが続くも、次第に光の数が減り、ついには完全に止む。場内は穏やかになり、ジャレットの演奏により公演は素晴らしものになる。様々な音のアイデアがほとばしる、ピアノと聴衆が一緒になって興奮に打ち震える、そんなコンサートは、ジャレットの演奏を明らかに喜び、何度もかかるアンコールの最後の1曲まで、楽しみ尽くされる。ジャレットは公演後、最高に上機嫌。この日の聴衆について質問されると、彼はただ肩をすくめて、こんなの良くある話ですよ、というのみ。 

 

 

 

 

場面は変わって、2007年10月21日、フランクフルト旧オペラ座キース・ジャレットにとっては15年ぶりの、ドイツでのソロコンサートである。3月に公演告知があり、それからわずか3日で2400席のチケットは完売。キース・ジャレットが登場。万雷の拍手、そしてひとしき終わると、完全な静寂。ここの聴衆は、演奏者が何を求めているか、理解しているのだ。誰も咳払いなどしようとしないばかりか、吐息の音さえ気まずい雰囲気。皆携帯電話をしまっている。お年寄りが一人、左のバルコニー席にいて、目眩が止まらないものの、介添人がなんとか助けて席にやっと着く。と思ったら、別の場所で誰かが咳を一つ、そして二つ目が続く。キース・ジャレットは困惑しているのが見て取れるほどで、聴衆に向かって語り始める。こんな状況で集中するのがいかに困難であるか、自分だって咳をしないようにしている、自重するのがそんなに大変なのか、などと話を続けた。彼は公演を中断すると、舞台裏へ引っ込み、再度登場、演奏するキッカケを探ると、オスティナートを弾き始めて、自ら安定走行へと持ち込む。休憩後、ジャレットは集中を高め、もはや自分の音風景には何者も邪魔を入れない、という決意満々。かくして、凡百の公演同様に、この素晴らしいが最高ではない公演は、無事収録された。これリリースするの?多分タイトルは「フランクフルト・コンサート」だよな?しっかり評判取れるのか?マンフレート・アイヒャーは迷う。彼はそれを見切らねばならない立場だ。例のパリの聴衆達が絡んだあの一件のほうが、CDにする甲斐があるようにも思える。 

 

 

 

 

この手の事例は枚挙にいとまがない。だがこの2つを見れば、彼と聴衆の双方の思いにずれが生じた際に、どういう事態になるかを、しっかりと示している。同時に、この2つの事例は、ジャレットが当時どのようなジレンマに陥っていたかを理解する手助けになる。パリっ子達の無神経な振る舞いに対して、ジャレットがとった「否」のリアクション、そしてフランクフルトでとった、学校の先生のような傲慢な態度、どちらも、彼の思いを理解したり、彼を弁護したりするのは、容易いことではない。とんでもなく間違ったことが、明らかにここでは起きている。穿った見方もある。ジャレットは実は、その日のアイデアが思いつかず、あるいは少なくとも、一度演奏し出したら上手く行かなかったので、聴衆が何か気まぐれでやらかさないか、些細なことでも噛み付いてやろうと、時間を稼いでいたのではないか、というものだ。