about Keith Jarrett and Miles Davis's ensemble

キース・ジャレットの伝記(2020年7月英語版)と、マイルス・デイヴィスの結成したバンドについて、英日対訳で読んでゆきます。でゆきます。

Keith Jarrett伝記(英語版)pp.127-130

ケルン・コンサート」が1975年リリースされた際の論評の熱狂ぶりはこれに先行した2作品フィエシング・ユー」「ソロ・コンサート以上のものだった中でも最大級の賛辞を贈ったのが、「ローリング・ストーン」誌に寄稿したロバート・パーマーである。すでにテリー・ライリーやラ・モンテ・ヤングらによって知られていた「トランスインダクション」(催眠誘導)の域に深く達している音楽だ、とロバート・パーマーは記している。「この魅力には誰もがすぐにハマるし、これこそがジャレットの凄さである。誰もが馴染みのあるメロディやハーモニーのネタから、誰も聴いたことのない、そして予想すらしないような組み合わせを生み出すのだ。彼の演奏は、「アヴァンギャルド」でも「意味不明」でもない、「いつも新鮮」なのだ。そして彼を見ていて感じるのは、自分の道をしっかりと歩み、音楽の垣根を完全に超越し、そして真の意味で、なおかつ最も広い意味で、人々に愛される演奏家となっている、ということだ。」この録音を聞いた「ダウン・ビート」誌の論説委員達は、その頑固なまでのブレの無さもさることながら、その耳を疑いたくなるほどの無駄の無さと透明性である、としている。「彼のピアノ独奏は音楽の世界では他に類の無いものであり、「ケルン・コンサート」は、その中でも最も感動的で、そして彼の「類の無さ」を最も良く説明するものである。」 

 

これらの論評を読んでいるとこの作品を単なる音楽芸術作品としてではなくあらゆる芸術作品の中にあっても極めて非凡なものとして、捉えている傾向を垣間見ることができる。これにより「ケルン・コンサート」は新しい時代を切り拓く象徴となってゆく。実際、もしこのレコードよりも10年早く、チェ・ゲバラだのアンジェラ・デイヴィスだののポスターが、共同アパートだの生活共同地区といったような場所に飾られていたら、「ケルン・コンサート」の真っ白なカバージャケットが、世界中の学生アパートののレコードラックを飾ることはなかっただろう。ジャレットの音楽には、その時代がストレートに現れていると思われているのと同時に、過去にも光を当てるとも思われている。フリージャズがその受難の時代に在った頃と言えば、世の中では「芸術」を定義し直そうという動きがあり、アファーマティブ・カルチャーに甘んじる傾向に対し反旗を翻してゆく。和声、通奏リズム、演奏における「主従」のバランスのとり方等、あらゆる既存のものに対し、ミュージシャン達は抗い始めた。ところが、である、キース・ジャレットは「何でも反対」的風潮からは距離を置き、自らの自由意志によって、あらゆる既存のものをネタとして扱い、更には、素直に楽しめるものを表現してゆくことに、一切のブレを生じさせないことを、世に示してゆく。 

 

リチャード・ウィリアムスは、著書ブルーモーメントの中でマイルス・デイヴィス最高傑作とされるカインド・オブ・ブルーについて女優のクリスティーン・スコット・トーマスが、その魅力と自身の身の上話を語ったものを引用している。その話の内容と似たようなことを「ケルン・コンサート」も連想させる、と言えよう。なぜならこの2つのアルバムは(制作の経緯や方法の違いはかなり大きくあれど)フランツ・ヴェルフェルが分類する「示唆に富んだものを思い出させるもの」に入ることは、明らかであるからだ。「今の主人と付き合っていた頃、彼はフランス人で、ある日、彼のおばあさんの家がノルマンディーにあるというので、プジョー404に乗って行った。屋根が雨漏りするような代物だったけれど、そのカセットデッキにあったのが、「カインド・オブ・ブルー」だった。今、この曲が耳に入ってくると、懐かしい座席の革の匂い、恋愛の真っ最中だったときの気持ち、海辺を走ったこと、こういったことが思い出される。」後に「ケルン・コンサート」は様々な小説や著作で取り上げられた。その中には、ジェーン・エルモアの「ピクチャー・オブ・ユー」(2009年)や、バーティス・ベリーの「リデンプション・ソング」(2001年)などがあり、1970年代を語る上で欠かせないものとして扱われている。この作品は音楽史における一つの時代の象徴とされた。それは、スコット・ジョプリンラグタイムが「ジャズの時代の幕開け」であり、グレン・ミラー・オーケストラの第二次大戦中の編成であるサックス4本にソロで引っ張るクラリネットという管楽セクションであったりと、肩を並べるものだった。 

 

だがキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」は、一時の流行り以上のものであり今でも様々な時代の記憶を呼び起こしてくれる。発表当時の1970年代には既に、様々な分野のアーティスト達がこの作品を、文化を発信する独自の形態として、芸術分野の商業面での扱いに置いてはびこる皮肉めいた考え方に対抗する自由な精神のシンボルとして、モダニズム文化の持つコミュニケーションに対する批判的な発想、これと対等に張り合うものとして、更には、人類史上残された多くの傑作とされる芸術作品の一翼を担うものとして、見ていた。「音楽は現代的であろうとするなら、崇高なものであってはならない」とする、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの、若干皮肉交じりで、そして自信満々のモットーは、キース・ジャレットにとっても一つの指針となっていた可能性がある。精神分析学には、フリーインプロヴァイゼーションを説明する言葉が、既にある。全てをその場で発信する音符に込めるという、夢遊病者のような能力がもたらすべきもの、として、「中断された注意」という。この精神状態は文筆家達にも見られる。その一人がマルグリット・デュラスだ。「私がペンをとると、集中力が極端に低い状態になる。私はただの「ふるい」、既にそうなったと自認する。頭の中は穴だらけ。」マルグリット・デュラスが、キース・ジャレットとの間に見出したつながりがある。放っておいてもどんどん出来上がってゆくインプロヴァイゼーション、あるいは「自動インプロヴァイゼーション」の一種としての、キース・ジャレットのフリーな演奏方法と、彼女自身の作文方法である「自動作文」という、同じ言葉を繰り返してしまったり、意味不明な言葉を使ってしまったり、波があったりするという、流れるような書き方、この2つにつながりを見出したのだ。彼女は著書「苦悩」という、自分の日記のようなスタイルの、カブール(ノルマンディー)からの年代記の中で、情夫に対する敬意を表そうと、ジャレットのピアノをファウンド・オブジェとして取り込んでいる。「我に描かれし幾つもの夜は、言葉として残され、今より、終わりも目的も持たない。既に夜の帳は残忍なものとなる。カジノはどこも静まり返り、ダンスホールはどこも酷い空虚さに満ちている。その中で、賭け事をする部屋はどこも人が溢れかえり、重たいカーテンの向こう側には、キース・ジャレットのグランドピアノが、その魅力と輝きを放つ。」 

 

ジャレットの持つ、人の想像力や連想力を掻き立てる創造性は、「音楽を使って、きっかけもなく物事を思い出させる」として、デュラス以外にも、彼女以上に利用されている。ジャレットが天才的手腕を発揮した4年後、ロバート・ウィルソンが舞台作品を発表する。ミュージカルラブストーリーで、全16場。初演の会場はベルリン・シャウビューネで、作品名は「デス・デストラクション・デトロイト(死、壊、デトロイト)」という。その付随音楽として、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」がバッチリハマっていると思われるのが、第9場である。この作品は、上演時間6時間、19人のダンサーやピクチャーリドル(字幕で、人に問いかけるようなメッセージを投影する)が用いられ、夢遊病者を彷彿とさせる振り付けがなされている。ウィルソンの劇場用作品は、ストーリーがなく、ベースとなる舞台理論もなく、時系列も全く意識されていない。ジャレットは延々ぐるぐる回るような音楽作りをすることがあるが、これは演劇作品で特に意味なくなされる舞台上での行為を、音楽で行ったようなものである。歌詞のない歌と、主題のない演劇、というわけだ。 

 

ジャズ音楽はその演奏者達をご覧いただくと分かる通り奏者自身を表現しているのみならずそこに体温のある思いが込められている。キース・ジャレットは常にそう演奏している。心、魂、そして考えを込めるのだ。アメリカの抒情詩人であるロバート・ブライは、ライナー・マリア・リルケの詩の翻訳でも知られるが、彼がジャレットの革新的な美的感覚に触発されているのも、うなずける。一方ジャレットの方も、ブライの詩をいくつか盛り込んだのが、彼が注意深く編集を施した、本のようなレコードカバーである。彼の詩「When Things Are Heard」(題意:情報が耳から入ってくる場合)の中でブライはジャレットの演奏について触れている 

 

君が情熱の炎を燃やさねば、力の源は生まれない 

だから、君が信じられるものを求めるならば、その炎の中に身を置くことだ。 

 

自分の日記を書く時は自らを告白することになる。映画監督であり、自身の作品に出演もするというナンニ・モレッティが、自らの心の内を映画にしたのが、「親愛なる日記」(1993年)という3つのエピソードから成る作品だ。奇妙な日記の体をなしており、イタリアを旅する各場面は、お互い関連性はあるものの、秩序はまったくない。その中で主人公はとりとめもなく旅を続ける。作品自体は、見る人が興味を持つかどうかはお構いなし、といった印象だ。映画の最初の場面では、モレッティピエル・パオロ・パゾリーニに関する文章を読んでいる。そして彼愛用のバイク「ヴェスパ」に飛び乗り、向かう先は、パゾリーニが轢殺された場所(オスティア海岸)である。荒涼とした浜辺、道路脇の鶏よけ用金網、あばら家が数軒あるその風景に添えられる音楽が、「ケルン・コンサート」である。同じ北イタリアでも、ピンク・フロイドのサントラが添えられた、アントニオーニ・ミケランジェロ監督の作品に見られるような、開けた街の風景とは、全く違う。 

 

当のキース・ジャレット本人は、「ケルン・コンサートに対しては両極の思い抱いている世間が音楽面での成功と見るであろう(と言って、そう思うにあたっては、何かしら芸術面を推し量る物差しを使うわけでもない)ことに対しては、どれもこれもジャレットは既に、不安と不満を感じるような関わり合い方をしていた。先述の通り、ここでも見え隠れするが、「商業目的」という言葉が絡むと、ジャズミュージシャンは不信感を何事に対しても抱くのは、未来永劫つきまとうことだ。当然ながら、ジャズミュージシャンだって自分の作品が認められるよう努力しているし、そう願うことすらある。だが、いざそれが大規模に実現してしまうと、今度はそれを振り払おうとする。それはまるで、「お金ウィルス」に感染したら重症化する、と怖れているかのようだ。 

 

ジャレットは、これまで受けた数々のインタビューの中で、今でも「ケルン・コンサート」を聴き返すのかについて、今まで隠していましたがと言わんばかりに語っている。「いいえ、本来ありえない余計な音が多すぎるものですから… その設定の仕方が気に入らないのです。仮に録音し直すとしたら、僕が曲中から削ろうとする音の数に、皆さん信じられない思いをなさるでしょう。」更によくわかるのが、音楽学生にお薦めする自分のレコード作品について答えた、2009年10月のスチュアート・ニコルソンとのインタビューだ。「ケルン・コンサートについては、面倒くさい事情がありましてね。まず当時と今とでは、ピアノの弾き方が違うのです。ですから、ピアノ奏者として聴くなら、今のタッチの仕方は、まるで聞こえてきません。適切な音量変化もついていないし、僕自身もそう弾いていない。ですが、演奏中に、様々な断片が勝手に組み上がっていったような場所がありましてね、そこは僕の他の作品の中には、見られないようなものです。ぶっつけ本番、ピアノも予定外の代物、でもそういう思いが頭の中でグルグル回っていて、僕はまだ若輩者でしたからね。結果として出てきた音色や表現は、そういう思いがでているわけでして、当時そんな演奏をする人なんて誰もいないわけですよ。ですから、アルバム発売のタイミングというものは、その時それがどのように受け入れられて、そしてどのくらい生き長らえるかが、大いにカギとなります。そして気に入ったものとなるまで、ずっと続いていくわけです。ですからお薦めは、「テスタメント」と「ケルン・コンサート」、それとちょっと抽象的ですが「レイディアンス」なんかが、いいんじゃないでしょうかね。 

 

ケルン・コンサート」を会場で聴いた人々と、同じ年齢層の今の音楽ファンにも、このアルバムが訴えるものがあるという。その背景や理由について分析調査したものについては、これといったものは見当たらない。当時会場にいた人々の中で、今でも当時の録音を聴く人の多くにとっては、演奏に込められた情熱、ネタとして扱われたジャズやゴスペルあるいはアメリカに昔から伝わる楽曲、ロマン派音楽のやや冗長な演奏の持ってゆき方、しつこいまでのリズムのパターン、これらは皆まとめてコンパクトで色とりどりの一品としてまとまり、古き良き日の物語として、長年に亘り人々の知る処となり、何度でも聴いてみたいと思う作品となった。このレコードから聞こえてくる数々のサウンドには、過ぎし日の物語が息づいているのである。